Demosthenes デモステネス 前384-前322 信用貨幣論の始祖
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2021/07/blog-post_14.html@
ケインズはソロンを評価していた。
貨幣論1
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の 行使であって、それは鋳造貨 幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の 変更であった。 …
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので はない。
《さらに、[レプティネスによって申し立てられている]国の公金が底をついているということ
に関してですが、諸君はこう考えるべきです。公共奉仕負担免除の特典を諸君が廃止したところで、諸君の
財政状態が少しでも改善される見込みはない。なぜなら、個人個人のそうした公共奉仕への支出は国の歳入
や余剰金には何の関係もないのだから、と。また以上の点とは別のこととして、現在わが国は二つの善きも
の、つまり富と、万民の信望のうち、後者、すなわち信望という善きものは享受しています。しかしもし誰
かが、われわれには金銭がないのだから、輝かしい名声を保持し続ける必要もないと思うならば、これは間
違った考えです。》
レプティネスへの抗弁
邦訳デモステネス弁論集第3巻、20頁
《 信用が金を稼ぐあらゆる元本の中で最大のものであるということをお前が理解しないならば、お前は何も
理解しない人間であることになろう。》
ポルミオン擁護
邦訳デモステネス弁論集第5巻、272頁
前者は公訴、後者は私訴(ディケー)。
信用貨幣論は国定貨幣論とはズレる。
信用(ピスティス)に関してはハイデガーも言及している。
対マケドニア強硬派として知られるが、公共奉仕、寄付を多く行なった。オリンピア祭へ祭礼使節団長として赴いたのが最後の公共奉仕(澤田典子『アテネ 最期の輝き』167頁)
シュンペーター(Schumpeter)は『経済分析の歴史』において金属説の系譜としてアリストテレスに言及しているが、自分の知る限り、デモステネスには言及していない。マクラウド(Macleod)の貢献は大きい。
マクラウドはスコットランド系。
デモステネス Demosthenes
古川顕が紹介するようにマクラウドによれば 信用貨幣論の始祖は紀元前アテネのデモステネスだそうである。信用貨幣論はバークレーらが展開したが近代ではマクラウドが画期的で、ケインズも着目した(ケインズはモンテスキューを信用貨幣論者とみなしていたそうだ)。 一般的な再評価はMMTまで待たなければならなかった。
The Theory of Credit - Henry Dunning Macleod
vol.1 1893
https://jp1lib.org/book/5300637/e8c850
Henry Dunning Macleod
" There being two kinds of Wealth–Money and General Credit-the greater is Credit, and we have it"
Against Leptines, 484, 20
So also again–
. εί δέ τοΰτο άγνο είς δτι Πίστις 'Αφορμή τν πασν έστι μεγίστη πρός χρηματισμόν πάν αν αγνοή σειας
" If you were ignorant of this-that Credit is the greatest Capital of all towards the acquisition of Wealth, you would be utterly ignorant"
For Phormion, 958,36
マクラウドによれば、このように信用が貨幣であり富であるという見解は、古代ギリシャのデモステネス(Demosthenes)にまで遡ることができるとして、
「2種類の財産、貨幣と一般的な信用があるが、われわれの最大の財産は信用である」(Ibid., p.173)3
《現在わが国は二つの善きもの、つまり富と、万民の信望のうち、後者、すなわち信望という善きものは享受しています。しかしもし誰かが、われわれには金銭がないのだから、輝かしい名声を保持し続ける必要もないと思うならば、これは間違った考えです。》邦訳弁論集第3巻
#3-20頁
「もしあなたがこのこと、すなわち信用は富の獲得に対する最大の資本であるということを知らなければ、あなたはまったく無知であろう」(Ibid., p.174)5
《 信用が金を稼ぐあらゆる元本の中で最大のものであるということをお前が理解しないならば、お前は何も理解しない人間であることになろう。》邦訳弁論集第5巻
#5-272
第三十六弁論 ポルミオン擁護
ソト(後述)も言及。
前者は公訴、後者は私訴。マクロとミクロ。
信用貨幣論は国定貨幣論とはズレる。
参考:
古川顕論考 pdfリンク切れ→2020年出版
H.D. マクラウドの信用理論 古川顕
https://www.kwansei.ac.jp/i_industrial/attached/0000036149.pdf リンク切れ
https://www.amazon.co.jp/dp/4779514223
18〜19世紀の"信用貨幣論"が網羅された「ありそうでなかった」解説書です。トーマストゥーク、JSミル、ヘンリーマクラウド、ミッチェルイネス、Iフィッシャー、ラルフホートレーといった有名無名の経済学者の"信用貨幣論"が展開されます。そして、あの悪名高き「ミシシッピバブル」を生み出したジョンローも経済学者として登場します。"信用貨幣論"は、金融機関がその貸借対照表の借方に貸出しを記帳する一方、その貸方に預金を記帳することで所得=信用=マネーが生まれるとします。所謂"ペン先マネー"です。本書ではこの"信用貨幣論"を様々な角度から眺めることができます。
19世紀初頭のマクラウドが"近代信用資本理論"の開祖で、イネスは"貨幣起源物々交換説"を否定して「信用こそが貨幣に代わる歴史発展の起源である」と最初に強調したと紹介します。
続いて、フィッシャーが説く「負債デフレーション」について、過剰債務→債務清算→預金収縮→デフレ→企業利潤減少→失業というプロセスで説明します。その際、「利子率の複雑な撹乱」の発生、つまり、名目利子率が低下する一方で実質金利が上昇するとの現象に言及し、金利面から恐慌発生メカニズムを鋭く解説してくれます。正にフィッシャー方程式から導く恐慌論です。
最後に、ホートレーは「銀行からの貸出し=信用創造で生産者は所得を支払う手段を獲得する」と考察し、フロー経済とストック、つまり、信用の関係を説明しようと努めます。
…
「現代貨幣理論」が"信用貨幣論"を復権させた今だからこそ、貨幣論の変革者たちの思索を振り返る意味があると思いました。
雨宮
おける経済の発展度を低くみる1965年当時の欧米学界の有力説に従っているのであるが、この種の見解については近年批判・修正の試みがさまざまになされている。確かに必要穀物の半分を輸入に頼ったアテネにとって海外貿易は重要であったが、国内経済も完全に貨幣に依存していたのである。
次に、上記の前漢貨幣に関する考察にならってアテネの銀貨が名目貨幣であったか実質貨幣であったかという問題を考えよう。まず現存している古代アテネ銀貨を調べてみると、その含有する銀の品質と重量は驚くほど均一である。Starr[1970]に記載されている100個以上のテトラドラクマの重量はその大半が17グラム強であり、オボロスに至るまで厳密に重量比率を守っている。この事実と、コインが鋳造される前アテネでは正確に計量された銀片が貨幣として用いられていた(Kim[2001]p.15)という事実を考慮すると、少なくとも当初はアテネ銀貨は実質貨幣(秤量貨幣)としての性格を持っていたといえると思う。しかし、たとえ当初はそうであったとしても、通貨は使い始めると名目貨幣としての性格を増してゆくものだと思う。ポケットに入れた(古代ギリシャ人は、小銭は口に入れて運んだそうだが)オボロスの銀の含有量等誰も意識しない。ただパン屋へ行けば、これが1本のパンと交換できるということだけ考えるのだ。このことに関連する1つの条例がある。前375年の貨幣条例である。次のようにいう。「アテネの銀貨は銀製にして正式の紋を持つものならば、これを受取る義務がある。…検査官の保証した銀貨を受取らぬ商人はその日の商品全てを没収する」(Stroud[1974])。ここで明らかなのは銀貨の価値を保証するものはその品質や重量よりも政府の権威であるということである。「初期のコインに刻印された紋は品質や重量の保証ではなく、その兌換性、すなわち、政治または社会的に保証された価値の印である。コインはその実質的価値によってのみでなく、信用によって認められるのである」(Seaford[2004]p.136)。実際、古典時代の多くのギリシャのポリスは銀、銅、鉛の合金からなるコインを何の支障もなく使っていたといわれる(DemosthenesXXIV)。アテネにおいても前413年スパルタ軍がアッティカのデケレア(Decelea)地方を占領したためラウレイオン銀山の採掘が不能となり、一時的に銀メッキを施した銅貨を通用させたことがある。これは前404年のペロポネソス戦争の終結とともに回収された。この間の事情はアリストパネス(Aristophanes)の喜劇『女の議会』(822)に描かれている。次にアテネの銀貨が名目貨幣であったことの言語学的論拠を挙げよう。ギリシャ語の通貨(nomisma)という言葉は紀元前5世紀に初めて現れる。これはノモス(nomos、慣習)からの派生語である。『漢書』食貨志(黒羽[1980])によれば前漢王朝は前118年より滅亡(8年)までの間280億枚の5銖銭を鋳造したという。これは年平均約2億3千万枚になる。これに比して紀元前4世紀のアテネにおける鋳造量は年間の銀の生産高に等しいと仮定すると600万ドラクマとなる。GDP/鋳造量の比は古代中国が約1,514、アテネが約4.4となる。この事実はアテネの方が中国よりも貨幣経済が発達していたことの1つの傍証になると思う。もちろん厳密な比較のためには、5銖銭以外の古い16
通貨の使用速度はどの位であったか等も考慮する必要があるが、アテネにおいても前述のような外国のコインも使われていたし、その他の事情も同様として(otherthingsbeingequal)処理するしかない。両者における貨幣経済の発達の差異はある程度は両者の総面積の差異によるものであろう。アテネ市民は日常の売買の大部分をアゴラで行ったと思われるが、中国では市場から遠く物々交換に頼らねばならなかった農村があったであろうことは十分想像できる。なおScheidel[2009]は漢と古代ローマを比較して後者の貨幣経済がより発達していたという結論に達している。
アテネにおいては約束手形を含めて信用慣習は中国よりもはるかに普及していた。Cohen[1992]によると紀元前4世紀のアテネには30の銀行が存在していたという。Demosthenes(XXXVI)は銀行を「他人の金を使い損失の可能性を賭して企業に投資する業務」と定義している。Isocrates(XVII)は遠方への旅行者が現金のかわりに銀行の約束手形を持参したという例を挙げている。銀行家の中で最も有名なのはパシオンで奴隷出身ながらアテネ有数の資産家になり後に市民権を獲得した。ただし、中世ヨーロッパにおけるメヂチ家のように複数の会社間の決済を銀行を通して行うということはアテネにはなかったといわれる(Cohen[1992]p.18)。
邦訳#5-254:
《銀行の方は他人の金銭に依存してリスクを伴う収益に関わる事業だからです。》第三十六弁論 『ポルミオン擁護』
例えば、アテネでは少なくとも前345年、デモステネス法廷弁論「エウクシテオスによるエウブリデス弾劾」が行われた時点において、何人もアゴラにおいて商売をする市民を非難してはならないという法律が存在していた(DemosthenesLVII30–31)。市民の商工業に対する考え方は紀元前5世紀から紀元前4世紀にかけて大きく変化したという。紀元前5世紀のアリストパネスの喜劇の中で、製皮業で儲けたクレオン(Cleon)やアニュトス(Anytos)、ランプ製造者のヒュペルボルス(Hyperbolus)、竪琴製造者のクレオポン(Cleophon)は嘲笑の的になったが、この風潮は紀元前4世紀にはなくなったという。例えば、紀元前4世紀の代表的な政治家デモステネスは父親の富のために嘲笑されることは無かった(Garlan[1988]p.65)。紀元前5世紀においても、ソクラテス(Socrates)の如く時代をはるかに超越した思想家はいかなる労働も蔑むことは無かった。クセノポン(Xenophon)はアリスタルクス(Aristarchus)が自分の家に多くの親戚の女性が居候をしていて生活に苦しんでいると聞いたソクラテスが、たとえ良い家に生まれた女性でも働くことは何ら恥ずべきことではないとアリスタルクスを説得し、彼女らに衣類を作らせてアリスタルクスも女性たちも幸せになったという話を伝えている(MemorabiliaII7)。
孔子は士農工商の比較については多くを語らなかったが、士を彼自身の教育の対象としていたことはたしかである。孔子は所得の均一化を説いた。「丘也聞、有國有家者、不患寡而患不均、不患貧而患不安(国を治め家を治める者は、少ないことを心配しないで公平でないことを心配し、貧しいことを心配しないで安定しないことを心配する)」(季氏)。
Cohen,EdwardE.,AthenianEconomy&Society,PrincetonUniversityPress,1992.
Demosthenes,XXIV 24 Against Timocrates, HarvardUniversityPress,1935.
―――,XXVII 27 Against Aphobus, HarvardUniversityPress,1936a.
―――,XXXVI 36 For Phormio, HarvardUniversityPress,1936b.
―――,LVII 57 Against Eubulides, HarvardUniversityPress,1939.
Seaford,Richard,MoneyandtheEarlyGreekMind,CambridgeUniversityPress,2004.
Stroud,RonaldS.,“AnAthenianLawonSilverCoinage,”inHesperia43,1974,pp.157–158.
デモステネス弁論集〈1/(1-6)〉 (西洋古典叢書) 単行本 – 2006/5/1
デモステネス (著), Demosthenis (原著), 加来 彰俊 (翻訳), 杉山 晃太郎 (翻訳), 北野 雅弘 (翻訳), & 2 その他
https://www.amazon.co.jp/dp/4876981639
I(第一巻)
第一弁論『オリュントス情勢 第一演説』(加来彰俊訳)
第二弁論『オリュントス情勢 第二演説』(加来彰俊訳)
第三弁論『オリュントス情勢 第三演説』(加来彰俊訳)
第四弁論『ピリッポス弾劾 第一演説』(加来彰俊訳)
第五弁論『講和について』(北嶋美雪訳)
第六弁論『ピリッポス弾劾 第二演説』(加来彰俊訳)
第七弁論『ハロンネソスについて』(杉山晃太郎訳)
第八弁論『ケロネソス情勢について』(田中美知太郎、北嶋美雪訳)
第九弁論『ピリッポス弾劾 第三演説』(加来彰俊訳)
第十弁論『ピリッポス弾劾 第四演説』(加来彰俊訳)
第十一弁論『ピリッポス書簡への返答』(北野雅弘訳)
第十二弁論『ピリッポス書簡』(北野雅弘訳)
第十三弁論『制度について』(杉山晃太郎訳)
第十四弁論『シュンモリアーについて』(杉山晃太郎訳)
第十五弁論『ロドス人解放のために』(杉山晃太郎訳)
第十六弁論『メガロポリス市民のために』
第十七弁論『アレクサンドロスとの盟約について』
●法廷 (公訴)弁論集
II
第十八弁論『冠について』
第十九弁論『使節職務不履行について』
III
第二十弁論 『レプティネスへの抗弁』
第二十一弁論『メイディアス弾劾』
第二十二弁論 『アンドロティオン弾劾』
IV
第二十三弁論『アリストクラテス弾効』
第二十四弁論『ティモクラテス弾効』
第二十五弁論 『アリストゲイトン弾劾、第一演說』
第二十六弁論 『アリストゲイトン弾劾、第二演説』
●法廷(私訴)弁論集
V
第二十七弁論『アポボス弾劾、第一演説』
第二十八弁論『アポボス弾劾、第二演説』
第二十九弁論 『アポボスへの抗弁』
第三十弁論 『オネトルへの抗弁、第一演説』
第三十一弁論『オネトルへの抗弁、第二演説』
第三十二弁論『ゼノテミスへの抗弁』
第三十三弁論 『アパトゥリオスへの抗弁』
第三十四弁論 『ポルミオンへの抗弁』
第三十五弁論 『ラクリトスへの抗弁』
第三十六弁論 『ポルミオン擁護』
第三十七弁論 『パンタイネトスへの抗弁』
第三十八弁論 『ナウシマコスおよびクセノペイテスへの抗弁』
第三十九弁論 『ボイオトスへの抗弁、第一演説』
第四十弁論『ポイオトスへの抗弁、第二演説』
VI
第四十一弁論 『スプディアスへの抗弁』
第四十二弁論 『パイニッポスへの抗弁』
第四十三弁論 『マカルタトスへの抗弁』
第四十四弁論 『レオカレスへの抗弁』
第四十五弁論 『ステパノス弾劾、第一演説』
第四十六弁論 『ステパノス弾劾、第二演説』
第四十七弁論 『エウエルゴスならびにムネシプロスの偽証罪弾劾』
第四十八弁論 『オリュンピオドロス弾劾』
第四十九弁論 『ティモテオスへの抗弁』
VII
第五十弁論 『ポリュクレスへの抗弁』
第五十一弁論『三段櫂船奉仕役への冠について』
第五十二弁論『カリッポスへの抗弁』
第五十三弁論 『ニコストラトスへの抗弁』
第五十四弁論『コノン弾劾』
第五十五弁論 『カリクレスへの抗弁』
第五十六弁論『ディオニュソドロス弾劾』
第五十七弁論『エウブリデスへの抗弁』
第五十八弁論『テオクリネス弾劾』
VII
第五十九弁論『ネアイラ弾劾』
●葬送演説、書簡ほか
第六十弁論『葬送演説』
第六十一(エッセイ) 『恋について』
『序論集』
『書簡集』
4-24
第二十四弁論『ティモクラテス弾効』
"Against Timothy, for a Debt," ソト(後述)がが引用。
Demosthenis
デモステネス 前384-前322
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B9 ★
アテネ民主政 命をかけた八人の政治家 (講談社選書メチエ) Kindle版
澤田典子 (著) 形式: Kindle版
2010
そうしたボスポロス王国との友好関係の維持に、母方の血筋を通してこの王国と私的な絆を有していたデモステネスも、一役買っていたらしい。彼の政界デビューとなる前三五五年の法廷弁論『レプティネスへの抗弁』では、穀物交易におけるボスポロス王レウコン一世の多大な貢献を長々と力説し、この裁判で問題となっていた種々の特典の廃止がレウコン一世に及ぶことに強く反対して彼の利益を擁護している。
また、デモステネスは、ギリシア世界が深刻な穀物不足に見舞われた前三三〇年代以降、穀物委員という役職に二度にわたって任命され、この任務のために多額の私財を投じ、穀物の調達に奔走した。彼が穀物政策にことさら深く関与したのも、そうした母方の血筋の影響だったのだろう。
彼の生い立ちはプルタルコスの『デモステネス伝』に詳しく語られているが、七歳にして父を失い、父の遺産を横領した三人の後見人を告発するために弁論術を学んだ経緯は有名である。不遇の少年時代を経て刻苦勉励の末に弁論術で身を立てた、まさに臥薪嘗胆の人であるデモステネスは、同じく貧苦のなかから身を起こした考古学史上の巨人シュリーマンと並んで、日本人受けするキャラクターと言えるかもしれない。
母が体育を許さないほど瘦せて病身だったという彼が弁論家を真剣に志すようになったのは、前章で触れたように、前三六六年のオロポス裁判で被告カリストラトスが雄弁を振るうのを聴いて感激したことによると伝えられる。父の遺産を横領した後見人に対する告発を画策していたデモステネスは、当時のアテネで財産相続問題の専門家として活躍していた名高い弁論術教師イサイオスに師事し、弁論術の修得のために文字通り血のにじむような努力を重ねた。もともと虚弱な体質で声量も乏しかった彼が厳しい修錬を積んで身体的欠陥を克服し、粒々辛苦の末に演説の技術を体得した経緯については、逸話に事欠かない。恥ずかしくて人前に出られないように頭髪を半分剃って地下の稽古部屋に二~三ヵ月こもりきりで演説の練習をしたとか、口のなかに数個の小石を入れたままで演説の練習をして不明瞭な発音をなおそうとしたとか、なかには後世のフィクションと思われる眉つばもののエピソードもある。
厳しい鍛練を積んだのち、前三六四年から三年間にわたる訴訟戦で後見人たちと闘った彼は、最終的に勝訴するものの、結局、父の遺産をほとんど取り戻すことはできなかったらしい。しかし、この勝利は若きデモステネスに弁論家としての名声と自信を与え、以後の彼はロゴグラフォス(弁論を代作する専門家)として活躍していく。
カリストラトスのように民会や法廷で華々しく活躍する日を夢見ていた彼は、前三五五年、ついに自ら公訴裁判の法廷に立ち、政界へのデビューを果たすことになった。彼の初舞台は、名将カブリアスの遺児クテシッポスに関わる裁判である。アテネでは公共奉仕を免除するアテレイアという特典が国家への功労者に与えられていたが、これは、コノンやカブリアスなど、ごく少数の人々にしか付与されたことのない最上位の名誉だった。ところがこの頃、レプティネスという人物がこの特典を廃止するという法律を提案して可決させた。これに対して、アテレイアを剝奪されてしまうことになる二人の若者が、レプティネスの法律を不適正な法律提案として告発して始まったのが、この裁判である。その二人の若者のひとりが、前年のキオスの海戦で戦死を遂げた父カブリアスのアテレイアを相続したクテシッポスだった。
デモステネスはこのとき、未成年のクテシッポスに代わって告発側の第二弁論『レプティネスへの抗弁』を弁じた。彼はレプティネスの法律が不適正であることを力説したうえで、自らの修正案まで提案している。裁判の結果は不明だが、彼の最高傑作のひとつと言われるこの弁論が、陪審員たちの心にインパクトを残したのは確かだろう。
とはいえ、その後数年間、彼は公共奉仕制度の改革や対ペルシア政策、ペロポネソスへの介入など、その時々で重要な種々のトピックについて民会で演説を行なうものの、デ
それ以前のデモステネスの現存する二篇の政治弁論『納税団体について』(前三五四年)と『メガロポリス市民たちのために』(前三五三年)には、フィリポス二世やマケドニアについての言及は全く見当たらない。同時期の法廷弁論においても、『レプティネスへの抗弁』(前三五五年)と『アリストクラテス弾劾』(前三五二年)にフィリポス二世の名前が登場するものの、彼をアテネの強大な敵とする認識は薄く、攻撃的な論調は見られない。
そんなデモステネスが『フィリポス弾劾・第一演説』で突如フィリポス二世を激しく攻撃する議論を展開したのは、このとき突然その脅威にめざめた結果というより、デビューから数年経っても鳴かず飛ばずの状態だった彼が、政界で頭角を現すための次なる新しいカードとしてフィリポス二世を選びとった結果だったと見るべきだろう。当時のアテネでは、同盟市戦争終結以降の深刻な財政難のなかで、対外不干渉政策をとりながら財政再建を図るエウブロスが有力だった。野心的なデモステネスは、そうした対外不干渉政策が優勢なアテネにあって、若輩の自分が注目を浴びてのし上がるための新しい政治路線を模索し、その結果、反マケドニアという新奇な積極策に目をつけ、フィリポス二世への抵抗を
____
ホートレー
http://nam-students.blogspot.com/2016/04/blog-post_4.html?m=1
古川マクラウド論
https://www.kwansei.ac.jp/i_industrial/attached/0000036149.pdf リンク切れ
H.D. マクラウドの信用理論 古川顕
マクラウドによれば、このように信用が貨幣であり富であるという見解は、古代ギリシャのデモステネス(Demosthenes)にまで遡ることができるとして、「2種類の財産、貨幣と一般的な信用があるが、われわれの最大の財産は信用である」(Ibid., p.173)、「もしあなたがこのこと、すなわち信用は富の獲得に対する最大の資本であるということを知らなければ、あなたはまったく無知であろう」(Ibid., p.174)というデモステネスの言葉を引用する。また、彼は次のようにも述べている。「ギリシャやローマの法律家は一致して、行動の権利すなわち信用ないし負債は富であり、動産であり、商品であり、販売しうる生産物であると主張した。18 世紀の目の見えない(mole-eyed)経済学者達は、すべての富は土地や労働の生産物であるという、決して現在でも無くなってはいない考え方を主張したけれども、ただひとり洞察力ある形而上学者バークレー僧正(Bishop Berkeley)がその著『質問書』(Queries)において、信用と貨幣とはまったく同性質のものであり、貨幣は信用の最も高次の形態にすぎないと繰り返し主張したのである」(Macleod(1897)p.224,傍点は引用者)。 以上のように、マクラウドは富は土地および労働、あるいは過去の労働の成果としての資本の所産であるというアダム・スミス以来の伝統的な考え方をまったく誤謬であるとして拒否するのである。彼に従えば、スミスも「目の見えない経済学者」の範疇に入れられてしまう。
マクラウドは、信用は富であり資本であることを強調するが、彼は「資本とは、利潤を生みだすために用いられるあらゆる経済的分量(economic quantity)である」Macleod(1902)p.71)と定義する。ここで、「経済的分量とは、どんなものでもその価値が貨幣で測られるものを意味する」(Ibid., p.2)のであり、具体的には、①物的財(material things)、②労働や信用の形式における個人的属性(personal qualities)、③抽象的権利(abstract rights)、の3つに分類される。彼によれば、土地保有者が自分自身でその土地に住んでいる場合、土地は「物的財」とはならないが、人に貸して地代を受け取っている場合などは物的財となる。自分の楽しみのためにする労働は資本として用いられないが、貨幣を得るために行う労働はすべて資本の範疇に属する。また、人がその個人的技能、能力、エネルギー、知識などを利潤を得る目的のために使用すれば、それは資本となるが、そうでない場合は資本とはならない。
Macleod, H.D. (1897), The Theory of Credit, second edition (first edition 1889), London: Longmans, Green, and Co.
The Theory of Credit - Henry Dunning Macleod - Google Livres
https://books.google.cg › books
Henry Dunning Macleod. Longmans, Green, and ... Demosthenes shows that Personal Credit is Wealth. 14 ... There is no Necessary Relation between the Quantity of Money in any country and the Quantity of Com modities and their Price. 93.
含まれない: 1897 | 含めて検索: 1897
Demosthenes
https://jp1lib.org/book/5300637/e8c850
Henry Dunning Macleod
https://jp1lib.org/book/5300691/cc439e
14,15☆
https://jp1lib.org/book/5300928/0e8775?id=5300928&secret=0e8775
(6)
6,14,145,171,224,(6)
(6)
εί δέ τούτο αγνοείς ότι Πστις 'Αφορμή τάν πασν έστι
μεγίστη πρός χρηματισμόν , πάν αν άγνοήσειας
If you were ignorant of this, that Credit is the greatest
Capital of all towards the acquisition of wealth, you would be
utterly ignorant
DEMOSTHENES
Credit has done more, a thousand times, to enrich nations than
all the mines of all the world
Credit is to Money what money is to Goods
DANIEL WEBSTER
Man conquers Space by Commerce and Time by Credit
RIVAROL
15
§ 7, 8]
15
PERSONAL CREDIT IS WEALTH
If a merchant enjoys good " Credit " as it is termed, he may
go into the market and buy goods, not with Money, but by giving
his Promise to pay money at a future time-that is, he creates a
Right of action against himself. The goods become his property
exactly as if he had paid for them in Money. It is a Sale or
an Exchange. The Right of action is the price he pays for the
goods : it is termed a Credit–in French a Créance-because it is
not a Right to any specific sum of money, but only a Right of
action to demand a sum of money from the merchant at a future
time
Hence a merchant's Credit is Purchasing Power, exactly as
Money, The merchant's Purchasing Power is his Money and
his Credit. They are both therefore equally Wealth, by Mill's
definition. When a merchant purchases goods with his Credit,
instead of with money, his Credit is valued in money : because
the seller of the goods accepts his Credit as equal in value to
Money : his Credit is valued in money exactly as his Labor may
be. Hence by Aristotle's definition of Wealth, which is now
universally accepted, the merchant's Personal Credit is Wealth
So Demosthenes says'-
. δυον άγαθοΐν όντοιν πλούτου τε και πρός άπαντας πιστεύεσθαι,
μείζόν έστι το τής πίστεως ύπάρχον ήμέν"
" There being two kinds of Wealth–Money and General Credit-the greater is Credit, and we have it"
So also again–
. εί δέ τοΰτο άγνο είς δτι Πίστις 'Αφορμή τν πασν έστι
μεγίστη πρός χρηματισμόν πάν αν αγνοή σειας
" If you were ignorant of this-that Credit is the greatest Capital of all towards the acquisition of Weallh, you would be utterly ignorant"
Thus Demosthenes shows that Personal Credit is dyabd-
Wealth, Property, Goods, and Chattels-and døopuý, or Capital.
Thus, though Personal Credit, like Labor, can neither be
seen nor handled nor touched : yet it can be bought and sold, or
'Against Leptines, 484, 20
2 For Phormion, 958
(6)
εί δέ τούτο αγνοείς ότι Πστις 'Αφορμή τάν πασν έστι
μεγίστη πρός χρηματισμόν , πάν αν άγνοήσειας
もしあなたがこのことを知らなかったとしたら、信用は富を獲得するための最大の
富を得るための最大の資本であることを知らないとしたら、あなたは
全くの無知である。
DEMOSTHENES
信用は、世界中のあらゆる鉱山よりも千倍も多く、国を豊かにしてきた。
世界中のすべての鉱山よりも千倍も国を豊かにしている。
信用は貨幣にとって、商品にとっての貨幣のようなものである。
ダニエル・ウェブスター(DANIEL WEBSTER)
人間は商業によって空間を征服し、信用によって時間を征服する。
RIVAROL
15
§ 7, 8]
15
個人の信用は富である
商人が「信用」と呼ばれる良好な信用を享受していれば、市場に出て、貨幣ではなく
市場に出て、お金ではなく、将来お金を払う約束をして商品を買うことができる。
将来お金を払うという約束をして、市場に出て商品を買うことができる。
彼は自分自身に対して行動の権利を作り出す。商品は彼の所有物となり
貨幣で支払った場合と全く同じように彼の所有物となる。これは販売または
交換である。訴権は、彼が商品のために支払った価格である。
これはクレジット(フランス語ではクレアンス)と呼ばれる。
これは、特定の金額に対する権利ではなく、ある金額を要求する行動権に過ぎないからである。
の権利ではなく、将来の時点で商人に金銭を要求する行為の
時
したがって、商人の信用は購買力であり、正確には
商人の購買力は彼の貨幣と彼の信用である。
彼の信用です。したがって、ミルの定義によれば、両者は等しく富である。
の定義によれば、両者は等しく富である。商人が貨幣ではなく信用で商品を購入すると
貨幣ではなく信用で商品を購入した場合、彼の信用は貨幣で評価される。
物品の販売者は、彼の信用を貨幣と同等の価値として受け入れるからである。
彼の信用は、彼の労働力がそうであるように、まさに貨幣で評価される。
である。したがって、現在普遍的に受け入れられているアリストテレスの富の定義によれば
普遍的に受け入れられているアリストテレスの富の定義では、商人の個人信用は富である。
だから、デモステネスは言う。
. δυον άγαθοΐν όντοιν πλούτου τε και πρός άπαντας πιστεύεσθαι,
μείζόν έστι το τής πίστεως ύπάρχον ήμέν"
" 富には、金銭と一般信用の2種類があるが、信用の方が大きく、我々はそれを持っている」。
また、次のようにも考えられる。
εί δέ τοΰτο άγνο είς δτι Πίστις 'Αφορμή τν πασν έστι μεγίστηπ
μεγίστη πρός χρηματισμόν πάν αν αγνοή σειας
" もしあなたがこのことを知らないとしたら、それは信用がワールを獲得するための最大の資本であるということであり、あなたは全くの無知である。
このように、デモステネスは、個人の信用が第二の資本であることを示している。
富、財産、商品、動産であり、døopuý(資本)である。
このように、個人信用は、労働力のように、見ることも扱うことも触れることもできないが
しかし、個人信用は、労働と同様に、見ることも、扱うことも、触れることもできないが、しかし、売買することもできるし、あるいは、資本とすることもできる。
'Against Leptines, 484, 20
2 フォルミオンに対して, 958
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Commentary on Demosthenes Against Leptines: With ... - 484 ページ
wiki
レプチン - Leptines
レプチン(ギリシャ語:Λεπτίνης )はアテナイオレーターでした。彼は法律の提案者として知られており、市民であろうと居住外国人であろうと(ハルモディオスとアリストゲイトンの子孫を除いて)アテナイ人は公衆から免除されるべきではありません。州の祭りの料金(leitourgiai )。
目的は、国庫と市民の両方が一般的に資金が不足していた時期に、お祭りや公の光景に資金を提供することでした。さらに、免疫の受け手の多くは本当にそれに値しないと主張されました。この法律に反して、デモステネスは、免疫のすべてのケースを注意深く調査する必要があるというCtesippus の提案を支持する彼の有名な演説「AgainstLeptines」を発表しました(紀元前354年)。免責の廃止が国家にもたらすであろう感謝と信仰の違反に対する評判に大きな重点が置かれている。
その上、既存の法律がこれらの特権を確認したため、法律自体が違憲に可決され、Solon の憲法により、違反した既存の法律が制定されるまで法律を制定することはできませんでした。廃止。法律はおそらく非難された。レプチンについてはこれ以上何も知られていない。
https://ja.melayukini.net/wiki/Against_Leptines
レプチンに対して によって与えられたスピーチでした デモステネス その中で彼は 法律 公費の支払いからの特別な免除を誰にも否定したLeptinesが後援leitourgiai)。おそらく紀元前355/354年に配達されました。[1] デモステネスがの息子であるクテシポスのためにスピーチを書いたが、アテナイの法廷では珍しい カブリアス、彼はおそらくそれを自分で配達しました。[2] したがって、これはデモステネスが公の事件で行った最初の演説です。[3]
バックグラウンド
間に 同盟戦争、アテネでは、356年にレプティンズによって提案された、 典礼。法律は、アテネの人々が典礼に例外を認めることと、誰もが例外を要求することの両方を違法にしました。[4] 法律はバティプスと呼ばれるアテナイ人によって異議を唱えられたが、彼は事件が法廷に持ち込まれる前に死亡した。その後、この事件は彼の息子、アプセフィオンによって取り上げられました。[5] Apsephionは、Leptinesの法律を廃止し、違法に取得された典礼の免除を削除する手順を規定した法律に置き換えることを提案しました。事件は紀元前355/4年に法廷に持ち込まれた。[6]
歴史
この法律は、という名前の男によって提案されていました レプチン、そのスピーチはとして知られるようになりました レプチンに対して。でも ディオン・クリュソストム (31.128-9)は、デモステネスが訴訟に勝ったと述べており、彼のアカウントは不正確であるとして却下されました。ウェストは「私たちは評決を知らない」と言っています。[7]
碑文は、チャブリアスの息子であるクテシプス(その継承可能な免除デモステネスが保存を主張していた)が「自発的である可能性は低い」典礼を行ったことを示しており、裁判後に免除が認められたという証拠はありません。[8]
参考文献
- ^ West、William C.(1995)。 「デモステネスの法令」レプチンに対する"". ZeitschriftfürPapyrologieundEpigraphik. 107: 238.
- ^ West、William C.(1995)。 「デモステネスの法令」レプチンに対する"". ZeitschriftfürPapyrologieundEpigraphik. 107: 239.
- ^ ドルジャン、アルフレッドP.(1955)。 「デモステネスの即席で話す能力に関する第4の研究」。 古典文献学. 50 (3): 191.
- ^ ハリス、エドワードM. デモステネス、スピーチ20–22。オースティン:テキサス大学プレス。 p。 16.16。
- ^ ハリス、エドワードM。 デモステネス、スピーチ20–22。オースティン:テキサス大学プレス。 pp。16–17。
- ^ ハリス、エドワードM. デモステネス、スピーチ20–22。オースティン:テキサス大学プレス。 p。 17.17。
- ^ West、William C.(1995)。 「デモステネスの法令」レプチンに対する"". ZeitschriftfürPapyrologieundEpigraphik. 107: 245.
- ^ エルンストバディアン。 「卓越性への道」、イアン・ワージントン(編)、 デモステネス:政治家と雄弁家 (ラウトレッジ、2000年)、p。 28。
レプティネスに対する抗弁
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/3478480.html
弁論集 3
デモステネス 著 ; 北嶋美雪, 杉山晃太郎, 木曽明子 訳
最大の弁論家と謳われた作家がアテナイの腐敗政治を攻撃し、首謀者を糾弾する。格調高い文章に思想心情が吐露される。
「BOOKデータベース」より
[目次]
- 第二十弁論 レプティネスへの抗弁
- 第二十一弁論 メイディアス弾劾
- 第二十二弁論 アンドロティオン弾劾
ウェブ検索結果
フォルミオン - Wikipedia
…
ポルミオン擁護
古代ギリシア最大の弁論家による、私訴(ディケー)を扱った法廷弁論のうち、本分冊には、彼が生まれて初めて法廷闘争に臨んだ作品を含む第27~40弁論を収録。そこで扱われる事件の性格から、現代とも相通ずる要素が多いことに加え、各裁判の背景をなす当時の日常生活のなかでの生々しい人間関係や、そこに潜む利害得失などは、広く今日の一般の関心をも喚起しうるだろう。(全7冊)
デモステネス弁論集 5[デモステネス著] ; 杉山晃太郎 [ほか] 訳・解説 |
| 書名 | デモステネス弁論集 |
|---|---|
| 著作者等 | Demosthenes 北野 雅弘 吉武 純夫 木曽 明子 杉山 晃太郎 葛西 康徳 |
| 書名ヨミ | デモステネス ベンロンシュウ |
| 書名別名 | 弁論集Demosthenis Orationes |
| シリーズ名 | 西洋古典叢書 |
| 巻冊次 | 5 |
| 出版元 | 京都大学学術出版会 |
| 刊行年月 | 2019.4 |
| ページ数 | 666, 18p |
| 大きさ | 20cm |
| ISBN | 978-4-8140-0099-9 |
| NCID | BC02232832 ※クリックでCiNii Booksを表示 |
| 言語 | 日本語 |
| 原文言語 | 古典ギリシア語(1453年まで) |
| 出版国 | 日本 |
★
デモステネス(古代ギリシア語: Δημοσθένης、ラテン文字転記:Dēmosthénēs、紀元前384年頃 - 紀元前322年)は、古代ギリシアの政治家・弁論家。アッティカ十大雄弁家の一人。アテナイの指導者としてギリシア諸ポリスの自立を訴えて反マケドニア運動を展開したが叶わず、自殺へと追い込まれた。
生涯[編集]
デモステネスは紀元前384年にアテナイの富裕な商工業者の家に生まれた。しかし若くして父を失い、さらに後見人たちに遺産を横領された。その遺産奪回を図って、アッティカ十大雄弁家の一人イサイオスに師事して弁論術を学び、やがて後見人たちを告訴して彼らから全額ではないにせよ遺産を奪い返した。その後、裁判関連の仕事や自らが弁論術を指導することで生計を立て、徐々に当時のアテナイ政治にも発言を強めていった。
当時のギリシア諸ポリス(都市国家)は、かつてのような一人一人の市民が武装して都市の防衛に従事する戦士集団としての性格を既に失っており、傭兵に依存した戦争を繰り返すうちに市民共同体を維持していくという精神も損なわれていた。一方で、北方のマケドニア王国はピリッポス2世のもとで強大化が進んでいたため、諸ポリスの独立が奪われる危機に陥っていた。こうした中で、デモステネスは反マケドニアの主張を掲げ、紀元前339年のアテナイ・テーバイ同盟の成立にも尽力したのだが、翌年のカイロネイアの戦いで、アテナイ・テーバイ同盟はマケドニアのピリッポス2世に完敗した。
当時の世論は、マケドニアに屈することに対して必ずしも否定的ではなかった。長期に渡るポリス間の抗争は人々を疲弊させており、強大な指導者の下で平和と安定を望む声もあった。デモステネスとほぼ同時代を生きた弁論家イソクラテスもマケドニアの興隆に対してピリッポスの下でのギリシアの団結とアケメネス朝の打倒を論じていたし、デモステネスのライバルとも言えるアイスキネスはマケドニアの下にギリシアを統一すべしと説く親マケドニアの立場であった。そのため、デモステネスは遊説を重ねたものの、反マケドニア運動の機運を十分に高めることはできず、結局はスパルタを除くギリシアの諸ポリスがマケドニアに屈服した(コリントス同盟)。紀元前336年、デモステネスはピリッポス2世が突然暗殺されたことに乗じて再び反マケドニア運動を起こすが失敗、亡命を余儀なくされた。
ピリッポス2世の死後のマケドニアは、新たに息子のアレクサンドロス3世が指導者として東方遠征を敢行するなど指導力を発揮するが、紀元前323年にアレクサンドロスが熱病で急死した。この際にデモステネスはアテナイに帰国し、再度反マケドニア運動を展開し、アテナイはラミア戦争を起こした。しかしマケドニア軍の前に鎮圧され、マケドニアの追跡が迫る中で服毒自殺した。
デモステネスの弁論家としての名声は非常に高く、共和政下で弁論に高い価値が与えられていたローマでもデモステネスの代表的な弁論『ピリッピカ』(『フィリッピカ』)はよく読まれた。例えば、マルクス・トゥッリウス・キケロはマルクス・アントニウスを僭主として糾弾する自身の一連の弁論に対し『ピリッピカ』の名を与えている。
日本語訳[編集]
- デモステネス弁論集 1(加来彰俊・北嶋美雪・杉山晃太郎・田中美知太郎・北野雅弘 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉[1] 、2006年。全7巻予定マケドニア王ピリッポス2世からの書簡を含む、デモステネスの議会弁論すべてを収録
- デモステネス弁論集 2(木曽明子 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉[2]、2010年古典ギリシア語散文の最高峰という評価を不動のものにした代表作『冠について』(第十八弁論)のほか『使節職務不履行について』(第十九弁論)を収録。解説、関連地図等を付す。
- デモステネス弁論集 3(北嶋美雪・木曽明子・杉山晃太郎 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉[3] 、2004年。デモステネスの初期の法廷弁論を収録。
- デモステネス弁論集 4(木曽明子・杉山晃太郎 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉 [4] 、2003年。デモステネスの初期の法廷弁論を収録。
- デモステネス弁論集 5(杉山晃太郎・木曽明子・葛西康徳・北野雅弘・吉武純夫 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2019年
- デモステネス弁論集 6(佐藤昇・木曽明子・吉武純夫・平田松吾・半田勝彦 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2020年
デモステネス, Demosthenis他 | 2006/5/1
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Report of the Royal Commission Appointed to Inquire Into the ...
Irish University Press Series of British Parliamentary ... - 227 ページ
A History of Banking in All the Leading Nations: Great ... - 233 ページ
Industrial Development and Manufacturers Record
The Elements of Banking - 63 ページ
Los Angeles Financier - 第 4 巻 - 17 ページ
The Elements of Banking - 63 ページ
_______
Money, Bank Credit, and Economic Cycles - 48 ページ
- このページを訳す
ヘスス・ウエルタ・デ・ソト - 2006年
次の書籍のコンテンツと一致: - 48ページ
デモステネスは、銀行の倒産は、困難な状況に陥った男性が融資を求め、評判を聞いて信用が得られると信じたが、経済的に回復した後、お金を返済せず、...
Money, Bank Credit, and Economic Cycles - 48 ページ
ソトはユーロ支持派らしい。
Money,Bank Credit,and Economic Cycles Dinero,Crédito Bancario y Ciclos Económicos Tsuka ginko shin'yo keizai junkan
ヘスース・ウエルタ・デ・ソト 著 ; 蔵研也 訳、春秋社、2015.11
498,203p 22cm
978-4-393-61113-5
基本的にソトは当時のギリシアの銀行の不安定性を強調している。
ユーロにおける現代のギリシアが念頭にあるのだろう。
#2
Passio tried to appropriate it was that Passio always refused to turn…
Passio tried to appropriate it was that Passio always refused to
turn over the slave who knew of the deposit, for interrogation under torture. What stronger evidence exists in contracts with bankers? We do not use witnesses with them.10
Though we have no documentary evidence of the trial's verdict, it is certain that Passio was either convicted or arrived at a compromise with his accuser. In any case, it appears that afterward he behaved properly and again earned the trust of the city. His house was inherited by an old slave of his, Phormio, who successfully took over his business.
More interesting information on the activity of bankers in Greece comes from a forensic speech written by Demosthenes in favor of Phormio. Demosthenes indicates that, at the time of Passio's death, Passio had given fifty talents in loans still outstanding, and of that amount, "eleven talents came from bank deposits." Though it is unclear whether these were time or demand deposits, Demosthenes adds that the banker's profits were "insecure and came from the money of others." Demosthenes concludes that "among men who work with money, it is admirable for a person known as a hard worker to also be honest," because "credit belongs to everyone and is the most important business capital." In short, banking was based on depositors' trust, bankers' honesty, on the fact that bankers should always keep available to depositors money placed in demand deposits, and on the fact that money loaned to bankers for profit should be used as prudently and sensibly as possible. In any case, there are many indications that Greek bankers did not always follow these guidelines, and that they used for themselves money on demand deposit, as described by Isocrates in Trapezitica and as Demosthenes reports of other bankers (who went bankrupt as the result of this type of activity) in his speech in favor of Phormio. This is true of Aristolochus, who owned a field "he bought while owing money to many people," as well as of Sosynomus, Timodemus, and others who went bankrupt, and "when it was necessary to pay those to whom they owed money, they all suspended payments and surrendered their assets to creditors."11
Demosthenes wrote other speeches providing important information on banking in Greece. For example, in "Against Olympiodorus, for Damages,"12 he expressly states that a certain Como
placed some money on demand deposit in the bank of Heraclides, and the money was spent on the burial and other ritual ceremonies and on the building of the funerary monument.
In this case, the deceased made a demand deposit which was withdrawn by his heirs as soon as he died, to cover the costs of burial. Still more information on banking practices is offered in the speech "Against Timothy, for a Debt," in which Demosthenes affirms that
bankers have the custom of making entries for the amounts they hand over, for the purpose of these funds, and for deposits people make, so that the amounts given out and those deposited are recorded for use when balancing the books.13
This speech, delivered in 362 B.C., is the first to document that bankers made book entries of their clients' deposits and withdrawals of money.14 Demosthenes also explains how checking accounts worked. In this type of account, banks made payments to third parties, following depositors' instructions.15 As legal evidence in this specific case, Demosthenes
adduced the bank books, demanded copies be made, and after showing them to Phrasierides, I allowed him to inspect the books and make note of the amount owed by this individual.16
Finally, Demosthenes finishes his speech by expressing his concern at how common bank failures were and the people's great indignation against bankers who went bankrupt. Demosthenes mistakenly attributes bank failures to men who
in difficult situations request loans and believe that credit should be granted them based on their reputation; however, once they recover economically, they do not repay the money, but instead try to defraud.17
We must interpret Demosthenes's comment within
the context of the legal speech in which he presents his arguments. The
purpose of the speech was precisely to sue Timothy for not returning a
bank loan. It would be asking too much to expect Demosthenes to have
mentioned that most bank failures occurred because bankers violated
their obligation to safeguard demand deposits, and they used the money
for themselves and put it into private business deals up to the point
when, for some reason, the public lost trust in them and tried to
withdraw their deposits, finding with great indignation that the money
was not available. On various occasions research has suggested Greek
bankers usually knew they should maintain a 100-percent reserve ratio on
demand deposits. This would explain the lack of evidence of interest
payments on these deposits, as well as the proven fact that in Athens
banks were usually not considered sources of credit.18 Clients made
deposits for reasons of safety and expected bankers to provide custody
and safekeeping, along with the additional benefits of easily-documented
cashier services and payments to third parties.
10Isocrates, “Sobre un asunto bancario,” p. 116.
11Demosthenes,
Discursos privados I, Biblioteca Clásica Gredos (Madrid: Editorial
Gredos, 1983), pp. 157–80. The passages from the text are found on pp.
162, 164 and 176, respectively, of the above edition. For information on
the failure of Greek banks, see Edward E. Cohen, Athenian Economy and
Society: A Banking Perspective (Princeton, N.J.: Princeton University
Press, 1992), pp. 215–24. Nevertheless, Cohen does not seem to
understand the way in which bank credit expansions caused the economic
crises affecting the solvency of banks.
12Demosthenes, Discursos privados II, Biblioteca Clásica Gredos (Madrid: Editorial Gredos, 1983), pp. 79–98. The passage mentioned in the main text is found on p. 86.
13Ibid., pp. 99–120. The passage cited is found on p. 102.
14G.J. Costouros, “Development of Banking and Related Book-Keeping Techniques in Ancient Greece,” International journal of Accounting 7, no. 2 (1973): 75–81.
15Demosthenes, Discursos privados II, p. 119.
16Ibid., p. 112.
17Ibid., p. 120.
18Stephen C. Todd, in reference to Athenian banking, affirms that banks were not seen as obvious sources of credit . . . it is striking that out of hundreds of attested loans in the sources only eleven are borrowed from bankers; and there is indeed no evidence that a depositor could normally expect to receive interest from his bank. (S.C. Todd, The Shape of Athenian Law [Oxford: Clarendon Press, 1993], p. 251)
パッシオは、パッシオが常に向きを変えることを拒否したということを適切にしようとしました…
Passioは、Passioが常に拒否したことを適切にしようとしました
拷問の下で尋問のために、預金を知っていた奴隷をひっくり返します。銀行家との契約にはどのような強力な証拠がありますか?私たちは彼らと一緒に証人を使いません。10
裁判の評決の証拠書類はありませんが、パッシオが有罪判決を受けたか、告発者との妥協点に到達したことは確かです。いずれにせよ、その後、彼はきちんと行動し、再び市の信頼を得たようです。彼の家は彼の古い奴隷、フォルミオンによって相続されました。そして、彼は彼のビジネスを首尾よく引き継ぎました。
ギリシャの銀行家の活動に関するより興味深い情報は、フォルミオンを支持してデモステネスによって書かれた法医学スピーチから来ています。デモステネスは、パッシオの死の時点で、パッシオはまだ未払いのローンで50人の才能を与えており、その金額のうち、「11人の才能は銀行預金から来た」ことを示しています。これらが時間預金なのか要求預金なのかは不明ですが、デモステネスは、銀行家の利益は「不安定で、他人のお金から来た」と付け加えています。デモステネスは、「クレジットはすべての人のものであり、最も重要なビジネス資本である」ため、「お金で働く男性の中で、勤勉な人として知られている人も正直であることは称賛に値する」と結論付けています。要するに、銀行は預金者の信頼、銀行家の誠実さに基づいていました、銀行家は常に要求払預金に入れられたお金を預金者が利用できるようにしなければならないという事実と、利益のために銀行家に貸し出されたお金は可能な限り慎重かつ賢明に使われるべきであるという事実について。いずれにせよ、ギリシャの銀行家は必ずしもこれらのガイドラインに従わなかったという多くの兆候があり、TrapeziticaのIsocratesや他の銀行家のデモステネスの報告(この種の活動)は、ポルミオを支持する彼の演説で。これは、「多くの人にお金を払って買った」畑を所有していたアリストロクスや、破産したソシノムスやティモデムスなど、「借りている人にお金を払う必要があったとき」にも当てはまります。彼らは皆、支払いを一時停止し、資産を債権者に引き渡した。
デモステネスは、ギリシャの銀行業に関する重要な情報を提供する他のスピーチを書きました。たとえば、「オリュンピオドロスに対して、損害賠償」12で、彼は特定のコモが
ヘラクリデスの銀行に要求に応じて預金をし、そのお金は埋葬やその他の儀式、そして葬式の記念碑の建設に使われました。
この場合、故人は、埋葬の費用を賄うために、彼が死ぬとすぐに彼の相続人によって引き出された要求払預金を作りました。銀行業務に関するさらに多くの情報は、デモステネスが次のように断言している「債務のために、ティモシーに対して」のスピーチで提供されています。
銀行家は、これらの資金の目的のために、そして人々が行う預金のために、彼らが引き渡す金額を記入する習慣があり、その結果、与えられた金額と預金された金額は、帳簿のバランスをとるときに使用するために記録されます。
紀元前362年に行われたこのスピーチは、銀行家が顧客の預金と引き出しの帳簿記入を行ったことを文書化した最初のスピーチです。14デモステネスは当座預金口座の仕組みについても説明しています。このタイプの口座では、銀行は預金者の指示に従って第三者に支払いを行いました15。この特定のケースにおける法的証拠として、デモステネス
銀行の本を提出し、コピーを作成するよう要求し、それらをプラシエリデスに見せた後、私は彼に本を調べて、この個人が支払うべき金額を書き留めることを許可しました。16
最後に、デモステネスは、銀行の破綻がどれほど一般的であったか、そして破産した銀行家に対する人々の大きな憤りに懸念を表明することで、彼のスピーチを終えます。デモステネスは、銀行の破綻を誤って男性に帰する
困難な状況では、ローンを要求し、評判に基づいてクレジットを付与する必要があると考えています。しかし、経済的に回復すると、彼らはお金を返済せず、代わりに詐欺を試みます。17
私たちは、デモステネスのコメントを、彼が彼の主張を提示する法的な演説の文脈の中で解釈しなければなりません。スピーチの目的は、銀行ローンを返済しなかったとしてティモシーを訴えることでした。銀行家が要求払預金を保護する義務に違反したためにほとんどの銀行の破綻が発生し、彼らは自分たちのためにお金を使い、何らかの理由でそれを民間の商取引に投入したとデモステネスが言及することを期待するのはあまりにも多くのことを求めています、国民は彼らへの信頼を失い、彼らの預金を引き出そうとしました。そして、お金が利用できないことに大きな憤慨をもって見つけました。さまざまな場面で、ギリシャの銀行家は通常、要求払預金に対して100%の準備率を維持する必要があることを知っていたことが調査によって示唆されています。これは、これらの預金に対する利息支払いの証拠の欠如を説明するでしょう、また、アテネでは銀行は通常、信用の源泉とは見なされていなかったという証明された事実18。顧客は安全上の理由で預金を行い、銀行家は保管と保管を提供することを期待しました。
10Isocrates、「Sobre un asunto bancario」、p。116.
11Demosthenes、Discursos privados I、BibliotecaClásicaGredos(マドリード:Editorial Gredos、1983)、157〜80ページ。本文の一部は、上記の版の162、164、176ページにそれぞれ記載されています。ギリシャの銀行の破綻に関する情報については、Edward
E. Cohen、Athenian Economic and Society:A Banking
Perspective(Princeton、NJ:Princeton University
Press、1992)、pp。215–24を参照してください。それにもかかわらず、コーエンは銀行の信用拡大が銀行の支払能力に影響を与える経済危機を引き起こした方法を理解していないようです。
12Demosthenes、Discursos privados II、BibliotecaClásicaGredos(マドリード:Editorial Gredos、1983)、79〜98ページ。本文に記載されている箇所は、p。86。
13同上、99〜120ページ。引用された一節は、pにあります。102。
14G.J. Costouros、「古代ギリシャにおける銀行および関連する簿記技術の開発」、国際会計ジャーナル7、no。2(1973):75–81。
15デモステネス、プライベートスピーチII、p。119。
16同上、p。112。
17同上、p。120。
18スティーブンC.トッドは、アテナイの銀行業務に関して、銀行は明白な信用源とは見なされていなかったと断言しています。。。ソースで証明された数百のローンのうち、銀行家から借りているのは11だけであることは驚くべきことです。そして実際、預金者が通常彼の銀行から利息を受け取ることを期待できるという証拠はありません。(SC Todd、The Shape of Athenian Law [Oxford:Clarendon Press、1993]、p。251)






逃げた者は
返信削除もう一度戦える。
- デモステネス -
(古代ギリシアの政治家、弁論家 / 紀元前384~322)
恩恵を受けた者はそれをいつでも覚えておく方がよいが、それを与えた者はすぐにその事実を忘れた方がよい。 デモステネス #名言
返信削除デモステネス Demosthenis
古川顕が紹介するようにマクラウドによれば 信用貨幣論の始祖は紀元前アテネのデモステネスだそうである。信用貨幣論はバークレーらが展開したが近代ではマクラウドが画期的で、ケインズも着目した。 一般的な再評価はMMTまで待たなければならなかった。
" There being two kinds of Wealth–Money and General Credit-the greater is Credit, and we have it"
So also again–
. εί δέ τοΰτο άγνο είς δτι Πίστις 'Αφορμή τν πασν έστι
μεγίστη πρός χρηματισμόν πάν αν αγνοή σειας
" If you were ignorant of this-that Credit is the greatest Capital of all towards the acquisition of Weallh, you would be utterly ignorant"
The Theory of Credit - Henry Dunning Macleod
vol.1 1893
https://jp1lib.org/book/5300637/e8c850
Henry Dunning Macleod
マクラウドによれば、このように信用が貨幣であり富であるという見解は、古代ギリシャのデモステネス(Demosthenes)にまで遡ることができるとして、
「2種類の財産、貨幣と一般的な信用があるが、われわれの最大の財産は信用である」(Ibid., p.173)3
第二十弁論 レプティネスへの抗弁
「もしあなたがこのこと、すなわち信用は富の獲得に対する最大の資本であるということを知らなければ、あなたはまったく無知であろう」(Ibid., p.174)5
ポルミオン擁護
- デモステネス -
(古代ギリシアの政治家、弁論家 / 紀元前384~322)
返信削除デモステネス(紀元前384~322)
「2種類の財産、貨幣と一般的な信用があるが、われわれの最大の財産は信用である」(レプティネスへの抗弁)
「もしあなたがこのこと、すなわち信用は富の獲得に対する最大の資本であるということを知らなければ、あなたはまったく無知であろう」(ポルミオン擁護)
デモステネス - Wikipedia
返信削除https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%8D%E3%82%B9
デモステネスの胸像
演説をするデモステネスの絵(ジャン・ジュール・アントワーヌ ルコント・デュ・ヌイ画)
デモステネス(古代ギリシア語: Δημοσθένης、ラテン文字転記:Dēmosthénēs、紀元前384年頃 - 紀元前322年)は、古代ギリシアの政治家・弁論家。アッティカ十大雄弁家の一人。アテナイの指導者としてギリシア諸ポリスの自立を訴えて反マケドニア運動を展開したが叶わず、自殺へと追い込まれた。
生涯
デモステネスは紀元前384年にアテナイの富裕な商工業者の家に生まれた。しかし若くして父を失い、さらに後見人たちに遺産を横領された。その遺産奪回を図って、アッティカ十大雄弁家の一人イサイオスに師事して弁論術を学び、やがて後見人たちを告訴して彼らから全額ではないにせよ遺産を奪い返した。その後、裁判関連の仕事や自らが弁論術を指導することで生計を立て、徐々に当時のアテナイ政治にも発言を強めていった。
当時のギリシア諸ポリス(都市国家)は、かつてのような一人一人の市民が武装して都市の防衛に従事する戦士集団としての性格を既に失っており、傭兵に依存した戦争を繰り返すうちに市民共同体を維持していくという精神も損なわれていた。一方で、北方のマケドニア王国はピリッポス2世のもとで強大化が進んでいたため、諸ポリスの独立が奪われる危機に陥っていた。こうした中で、デモステネスは反マケドニアの主張を掲げ、紀元前339年のアテナイ・テーバイ同盟の成立にも尽力したのだが、翌年のカイロネイアの戦いで、アテナイ・テーバイ同盟はマケドニアのピリッポス2世に完敗した。
当時の世論は、マケドニアに屈することに対して必ずしも否定的ではなかった。長期に渡るポリス間の抗争は人々を疲弊させており、強大な指導者の下で平和と安定を望む声もあった。デモステネスとほぼ同時代を生きた弁論家イソクラテスもマケドニアの興隆に対してピリッポスの下でのギリシアの団結とアケメネス朝の打倒を論じていたし、デモステネスのライバルとも言えるアイスキネスはマケドニアの下にギリシアを統一すべしと説く親マケドニアの立場であった。そのため、デモステネスは遊説を重ねたものの、反マケドニア運動の機運を十分に高めることはできず、結局はスパルタを除くギリシアの諸ポリスがマケドニアに屈服した(コリントス同盟)。紀元前336年、デモステネスはピリッポス2世が突然暗殺されたことに乗じて再び反マケドニア運動を起こすが失敗、亡命を余儀なくされた。
ピリッポス2世の死後のマケドニアは、新たに息子のアレクサンドロス3世が指導者として東方遠征を敢行するなど指導力を発揮するが、紀元前323年にアレクサンドロスが熱病で急死した。この際にデモステネスはアテナイに帰国し、再度反マケドニア運動を展開し、アテナイはラミア戦争を起こした。しかしマケドニア軍の前に鎮圧され、マケドニアの追跡が迫る中で服毒自殺した。
デモステネスの弁論家としての名声は非常に高く、共和政下で弁論に高い価値が与えられていたローマでもデモステネスの代表的な弁論『ピリッピカ』(『フィリッピカ』)はよく読まれた。例えば、マルクス・トゥッリウス・キケロはマルクス・アントニウスを僭主として糾弾する自身の一連の弁論に対し『ピリッピカ』の名を与えている。
日本語訳
デモステネス弁論集 1(加来彰俊・北嶋美雪・杉山晃太郎・田中美知太郎・北野雅弘 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉[1] 、2006年。全7巻予定
マケドニア王ピリッポス2世からの書簡を含む、デモステネスの議会弁論すべてを収録
デモステネス弁論集 2(木曽明子 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉[2]、2010年
古典ギリシア語散文の最高峰という評価を不動のものにした代表作『冠について』(第十八弁論)のほか『使節職務不履行について』(第十九弁論)を収録。解説、関連地図等を付す。
デモステネス弁論集 3(北嶋美雪・木曽明子・杉山晃太郎 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉[3] 、2004年。デモステネスの初期の法廷弁論を収録。
デモステネス弁論集 4(木曽明子・杉山晃太郎 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉 [4] 、2003年。デモステネスの初期の法廷弁論を収録。
デモステネス弁論集 5(杉山晃太郎・木曽明子・葛西康徳・北野雅弘・吉武純夫 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2019年
デモステネス弁論集 6(佐藤昇・木曽明子・吉武純夫・平田松吾・半田勝彦 訳)京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2020年
アッティカ十大雄弁家
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演説をするデモステネスの絵(ジャン・ジュール・アントワーヌ ルコント・デュ・ヌイ画)
アッティカ十大雄弁家(アッティカじゅうだいゆうべんか、ギリシャ語:Κανόνας των δέκα Αττικών ρητόρων)とは、古代ギリシア古典時代を代表する10人の雄弁家およびロゴグラポス(演説作家)たちのこと。
目次
1 構成
2 脚注・出典
3 関連項目
4 外部リンク
構成[編集]
ビュザンティオンのアリストファネスとサモトラケのアリスタルコスが編纂した『アレクサンドリアのカノーン(Canon alexandrin)』の中には、以下の10人が含まれていた。
アンティポン
アンドキデス
リュシアス
イソクラテス
イサイオス
アイスキネス
アテナイのリュクルゴス
デモステネス
ヒュペレイデス
ディナルコス
その弁論は後に、「アッティシズム(Atticism)」という修辞学運動を起こした。
脚注・出典[編集]
関連項目[編集]
弁論術
外部リンク[編集]
Lives of the Ten Orators
イソクラテス
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イソクラテス(イソクラテース, ギリシャ語:Ισοκράτης, Isocrates, 紀元前436年 - 紀元前338年)は、古代ギリシアの修辞学者で、アッティカ十大雄弁家の一人。イソクラテスは当時のギリシアで最も影響力のある修辞学者で、その授業や著作を通して修辞学と教育に多大な貢献をしたと考えられている。
目次
1 背景
2 生涯
3 修辞学
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
背景
ギリシアの修辞学は、一般に、紀元前5世紀に修辞学の法則を最初に考案したシュラクサイのコラクス(Corax of Syracuse)まで遡る。コラックスの弟子ティシアス(Tisias)は法廷における修辞学の発展に大きな影響を与え、いくつかの文献によると、そのティシアスがイソクラテスの師であったと言われる。彼ら2世代の間に、修辞学は重要な技術になり、その成長は、民主主義や裁判所といった社会や政治の変化によってさらに促進された。
修辞学の訓練の需要はかなり高く、多くの哲学者や教師が雄弁家育成の学校を設立した。その中にソフィストたちがいて、イソクラテスはゴルギアスらとともにソフィストに含まれる。それらの学校が金になることがわかって、後には評判の良くない人々を招くことになった。
生涯
イソクラテスはアテナイの裕福な家庭に生まれた。父親は笛の工場を経営し、繁盛させていた。イソクラテスは申し分のない教育を受けた。ゴルギアスなどの他、ソクラテスからも教えを受けたらしい。ペロポネソス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年)後、イソクラテスの一家は富を失い、イソクラテスは生計を立てることを強いられた。
イソクラテスは仕事として、ロゴグラフォスを始めたと言われている。これは、いわゆる法廷弁論の雇われライターのことである。紀元前392年頃、イソクラテスは自分の修辞学学校を設立し、有力な教師であるばかりでなく、洞察力のある実業家であることを証明した。授業料はかなり高かったが、他の学校以上に多くの生徒を引きつけた。結果として、イソクラテスはかなりの財を蓄えた。
修辞学
イソクラテスの修辞学教育のプログラムは、絶対の真実を得ることができない、現実的な問題や事件に対処するための言語使用能力に重きを置くものだった。さらに、国家に奉仕するための生徒の公民教育、訓練にも重きを置いた。生徒たちはさまざまなテーマについて、弁論を組み立て・述べることを練習した。イソクラテスは修辞学の法則・理論より、生まれつきの才能と練習とが重要であると考えた。変化のない法則を正確に叙述するよりは、カイロス(καιρός, kairos)、つまり、時と場合に応じた雄弁家の能力を力説した。
ソフィストに対するプラトンの攻撃のために、イソクラテスの弁論術・哲学学校は、非倫理的で欺瞞的であるように見られるようになった。しかし、プラトンの批判の多くは、イソクラテスの仕事の中に見付けることは難しく、結局プラトンはその著書『パイドロス』の最後で、ソクラテスにイソクラテスを讃えさせている。イソクラテスは理想的な雄弁家は修辞学の才能を持つだけでなく哲学・科学・芸術の幅広い知識を持つべきだと理解していた。さらに雄弁家は自由・自制・徳のギリシアの理想をも象徴しなければならないとも。その意味で、イソクラテスはキケロやクインティリアヌスといった古代ローマの修辞学者たち、さらにリベラルな教育概念に影響を与えた。
修辞術について、イソクラテスは革新者でもあった。イソクラテスは不自然さを避け、明確で自然なスタイルを奨励した。一方で、聞き手の注意を集めるリズムと変化をもたらした。ほとんどの修辞学者たちと同様に、彼は修辞学を、真実を曖昧にするものとしてではなく、むしろ理解しやすくする方法と見ていた。
古代ローマ時代に入手できたイソクラテスの60ある演説文のうち、21が古代と中世の写本筆写家によって残された。別の3つの演説文が、1988年にエジプトのDakhlehオアシスの遺跡の1つ、Kellisから発掘された1冊のコデックスの中に見つかった。イソクラテスの名前で書かれた手紙が9通あるが、そのうち4通は信憑性が疑問視されている。イソクラテスは『修辞術』という論文をまとめたと言われるが、それは現存していない。演説文やその他の著作の中には、自叙伝的な『アンティドシス(財産交換について)』や、『ソフィストたちに対して』といった教科書も含まれる。
参考文献
Isokratous Apanta, 1570
小池澄夫訳『イソクラテス弁論集 1』京都大学学術出版会<西洋古典叢書> 1998年。代表作『民族祭典演説』など七編を収録。
小池澄夫訳『イソクラテス弁論集 2』京都大学学術出版会<西洋古典叢書> 2002年。晩年の大作『アンティドシス-財産交換-』など一三編を収録。
廣川洋一『イソクラテスの修辞学校--西欧的教養の源泉--』岩波書店、1984年。
Bryant, Donald C., ed. Ancient Greek and Roman Rhetoricians: A Biographical Dictionary. Columbia, MO 1969.
Euken, Ch. Isokrates (Berlin/New york) 1983.
Haskins, Ekaterina V. Logos and Power in Isocrates and Aristotle. Edited by Thomas W. Benson. University of South Carolina Press, 2004.
Isocrates. Volumes I and II, translated by George Norlin. Volume III, translated by Larue van Hook. en:Loeb Classical Library, London, 1928, 1929, 1945.
Isocrates. The Rhetorical Tradition. Second Edition. Ed. Patricia Bizzell and Bruce Herzberg. Bedford/St. Martin's, Boston, 2001.
Isocrates II, translated by Terry Papillon. University of Texas Press-Austin, 2004.
Livingstone, Niall A Commentary on Isocrates' Busiris. (Brill) 2001. The first scholarly commentary on Busiris.
Poulakos, T. Speaking for the Polis: Isocrates' Rhetorical Education (South Carolina) 1997.
Too, Y.L. The Rhetoric of Identity in Isocrates (Cambridge) 1995.
Usener, S.Isokrates, Platon und ihre Publikum (Tübingen) 1994.
関連項目
プラトン
アポロニアのイソクラテス(弟子)
修辞学
ソフィスト
外部リンク
Perseus Project - Isocrates
B. Keith Murphy (Fort Valley State University) - Isocrates
Isocrates (436 - 338 B.C.)
返信削除https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b261507.html
アテネ 最期の輝き
内容説明
紀元前4世紀,アレクサンドロス大王の華々しい遠征の蔭で,マケドニアに敗れたアテネはどのように生きていたのか.民主政が終焉しギリシアの時代が幕を閉じるまでのアテネの最後の姿を,政治家・弁論家デモステネスを軸に生き生きと描く.一次史料にもとづいて従来の通説を再検討し,新しい見方を提示する.
■著者からのメッセージ
前5世紀初頭から前338年までのギリシアを,後世の範たるべき一流の時代である「古典期」として捉える見方がすでにローマ時代に成立していたことは,しばしば指摘されている.最盛期である「古典期」のギリシアとは,実は,同時代史料が圧倒的に集中しているアテネの姿であり,「古典期」をギリシアの最盛期とする見方において,ギリシアの栄光とはすなわちアテネの栄光なのである.カイロネイアでの敗北を時期区分の区切りとする捉え方も,ギリシア連合軍の中心となって戦ったアテネがこの敗北をもってマケドニアの覇権下に置かれ「自由」を失った,という認識に大きく影響されている.
しかし,そもそも前338年の敗戦は,「古典期」という栄光の時代に終止符を打つ重要な画期だったのか.そして,その「古典期」を体現するポリスであるアテネにおいて,前338年をもって何かが決定的に変わったのだろうか.
アテネというポリスは,アレクサンドロスの華々しい遠征によって生まれたヘレニズム世界の片隅で,いったいどのように生きていたのか.本書では,2300年以上経てもなお人々をひきつけてやまない不世出の英雄アレクサンドロスという巨大な存在の陰で注目を浴びることが少ない,アレクサンドロス時代のアテネの実相に迫ってみることにしたい.
――「はじめに」より
目次
はじめに
序章――「黄昏のアテネ」に迫る
1 「黄昏のアテネ」とデモステネス
2 「政治家」と「政治グループ」
第1章 決戦へ
1 デモステネスの生きた時代
2 デモステネスの前半生
3 反マケドニアの政治家として
4 「宿敵」アイスキネスとの対立
第2章 敗戦――マケドニアの覇権
1 戦後処理
2 デモステネスの活躍
3 アレクサンドロスの時代の幕開け
4 マケドニアの傘の下で
第3章 対決――「冠の裁判」
1 裁判が始まるまで
2 「弁論家の戦い」
第4章 平穏――嵐の前の静けさ
1 デモステネスの隣人たち
2 アテネ民主政の姿
3 動乱の前ぶれ
第5章 擾乱――ハルパロス事件
1 ハルパロス事件とは
2 事件当時のアテネの情勢
3 ハルパロス裁判
4 裁判の背後の人間模様
第6章 終幕――デモステネスとアテネ民主政の最期
1 民主政アテネの最後の闘い
2 愛国者たちのそれぞれの最期
終 章
1 デモステネスの遺したもの
2 「黄昏」の民主政
史料について/主要参考文献/関連年表
あとがき
著者略歴
澤田典子(さわだ のりこ)
1967年富山県生まれ
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了
博士(文学)
静岡大学人文学部准教授
専攻,古代ギリシア・マケドニア史
『新版世界各国史17 ギリシア史』(共著,山川出版社)
『古代オリンピック』(共著,岩波新書)
ハリー・サイドボトム『1冊でわかる ギリシャ・ローマの戦争』(共訳,岩波書店)
書評情報
史学雑誌 第119編第7号(2010年7月)
歴史学研究 第853号(2009年5月)
毎日新聞(朝刊) 2008年9月7日
週刊エコノミスト 2008年7月1日号
諸君! 2008年7月号
朝日新聞(朝刊) 2008年5月11日
ネット書店で購入する
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紀伊國屋書店
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Copyright © 2019 Iwanami Shoten, Publishers. All rights reserved.
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返信削除アテネ民主政 命をかけた八人の政治家 (講談社選書メチエ) Kindle版
澤田典子 (著) 形式: Kindle版
2010
そうしたボスポロス王国との友好関係の維持に、母方の血筋を通してこの王国と私的な絆を有していたデモステネスも、一役買っていたらしい。彼の政界デビューとなる前三五五年の法廷弁論『レプティネスへの抗弁』では、穀物交易におけるボスポロス王レウコン一世の多大な貢献を長々と力説し、この裁判で問題となっていた種々の特典の廃止がレウコン一世に及ぶことに強く反対して彼の利益を擁護している。 また、デモステネスは、ギリシア世界が深刻な穀物不足に見舞われた前三三〇年代以降、穀物委員という役職に二度にわたって任命され、この任務のために多額の私財を投じ、穀物の調達に奔走した。彼が穀物政策にことさら深く関与したのも、そうした母方の血筋の影響だったのだろう。
彼の生い立ちはプルタルコスの『デモステネス伝』に詳しく語られているが、七歳にして父を失い、父の遺産を横領した三人の後見人を告発するために弁論術を学んだ経緯は有名である。不遇の少年時代を経て刻苦勉励の末に弁論術で身を立てた、まさに臥薪嘗胆の人であるデモステネスは、同じく貧苦のなかから身を起こした考古学史上の巨人シュリーマンと並んで、日本人受けするキャラクターと言えるかもしれない。 母が体育を許さないほど瘦せて病身だったという彼が弁論家を真剣に志すようになったのは、前章で触れたように、前三六六年のオロポス裁判で被告カリストラトスが雄弁を振るうのを聴いて感激したことによると伝えられる。父の遺産を横領した後見人に対する告発を画策していたデモステネスは、当時のアテネで財産相続問題の専門家として活躍していた名高い弁論術教師イサイオスに師事し、弁論術の修得のために文字通り血のにじむような努力を重ねた。もともと虚弱な体質で声量も乏しかった彼が厳しい修錬を積んで身体的欠陥を克服し、粒々辛苦の末に演説の技術を体得した経緯については、逸話に事欠かない。恥ずかしくて人前に出られないように頭髪を半分剃って地下の稽古部屋に二~三ヵ月こもりきりで演説の練習をしたとか、口のなかに数個の小石を入れたままで演説の練習をして不明瞭な発音をなおそうとしたとか、なかには後世のフィクションと思われる眉つばもののエピソードもある。 厳しい鍛練を積んだのち、前三六四年から三年間にわたる訴訟戦で後見人たちと闘った彼は、最終的に勝訴するものの、結局、父の遺産をほとんど取り戻すことはできなかったらしい。しかし、この勝利は若きデモステネスに弁論家としての名声と自信を与え、以後の彼はロゴグラフォス(弁論を代作する専門家)として活躍していく。
プルタルコス英雄伝 (上)
返信削除プルタルコス 著
ギリシアとローマの偉大な人々の業績を対比して書かれた「英雄伝」を全三巻で贈る。上巻は、デモステネス、ソロンほか6人を収める。
プルタルコス英雄伝 (上)
シリーズ:ちくま文庫
854円(税込)
Cコード:0197
整理番号:ふ-1-1
刊行日: 1987/01/27
※発売日は地域・書店によって
前後する場合があります
判型:文庫判
ページ数:464
ISBN:4-480-02111-6
JANコード:9784480021113
在庫 ×
著者について
プルタルコス
プルタルコス
プルタルコス
著者に関する情報
プルタルコス英雄伝 (上) プルタルコス英雄伝 (上)
プルタルコス英雄伝 (中) プルタルコス英雄伝 (中)
この著作者の本の一覧をみる
この本の内容
デルフォイの最高神官プルタルコスは、故国の栄光を懐かしみつつローマの平和を享受した“最後のギリシア人”であった。ギリシア・ローマの英雄たちをいきいきと描き、後世の人びとに広く愛読された古典的史書を読みやすく再編集。
この本の目次
テセウス
リュクルゴス
ソロン
テミストクレス
アリステイデス
ペリクレス
アルキビアデス
デモステネス
返信削除私訴
δίκη
ディケー
裁判
公訴?
γραφτί
のオフィスです
信用
ピスティス
πίστις
返信削除. εί δέ τοΰτο άγνο είς δτι Πίστις 'Αφορμή τν πασν έστι
μεγίστη πρός χρηματισμόν πάν αν αγνοή σειας
" If you were ignorant of this-that Credit is the greatest Capital of all towards the acquisition of Weallh, you would be utterly ignorant"
「もしあなたがこのこと、すなわち信用は富の獲得に対する最大の資本であるということを知らなければ、あなたはまったく無知であろう」(Ibid., p.174)5
《 信用が金を稼ぐあらゆる元本の中で最大のものであるということをお前が理解しないならば、お前は何も理解しない人間であることになろう。》
#5-272
第三十六弁論 ポルミオン擁護
返信削除信用
ピスティス
πίστις
返信
. εί δέ τοΰτο άγνο είς δτι Πίστις 'Αφορμή τν πασν έστι μεγίστη πρός χρηματισμόν πάν αν αγνοή σειας
" If you were ignorant of this-that Credit is the greatest Capital of all towards the acquisition of Weallh, you would be utterly ignorant"
「もしあなたがこのこと、すなわち信用は富の獲得に対する最大の資本であるということを知らなければ、あなたはまったく無知であろう」(Ibid., p.174)5
《 信用が金を稼ぐあらゆる元本の中で最大のものであるということをお前が理解しないならば、お前は何も理解しない人間であることになろう。》
#5-272
第三十六弁論 ポルミオン擁護
私訴
返信削除δίκη
ディケー
裁判
公訴?
γραφτί
のオフィスです
信用
ピスティス
πίστις
PDF
tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/?action...uri...
研究題目 ハイデガーにおける存在と神の問題
... omnia(1891‐1895) に従. って、スコツゥスの著作を引用しているが、「信用 できない箇所については 1639 年のリヨン版が比較参照 ... ハイデガーはさらに、 πίστις ἀληθής の「解釈の次の段階」として、その「運動の構造」. を問うことに ...
blog.goo.ne.jp/.../7018c22f05edad543e10e9b550c164...
『聖書的宗教とその周辺』(聖書学論集46、佐藤研教授・月本 ...
blog.goo.ne.jp/.../7018c22f05edad543e10e9b550c164...
2014/10/26 -他方吉田忍氏の「ガラテヤ人への手紙におけるΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ」は、ガラテヤ書におけるピスティスは「『誠実』や『保証』などではなく『信(じること)』『 信頼』『信用』である。(中略)即ち、人は『信 pistis」 ...
上田論考
返信削除https://tokyo-metro-u.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=1029&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=30&block_id=164
1922年夏学期講義『存在論と論理学のためのアリストテレスの精選諸論文の現象学的解釈』153(以下、『精選論文』講義と略称)
153 Martin Heidegger, Gesamtausgabe,Bd.62, Phänomenologische Interpretationen ausgewählter Abhandlungen des Aristoteles zur Ontologie und Logik, Vittorio Klostermann, 2005. 以下、この書物を含むハイデガー全集からの引用は、(GA巻数、頁数)によって 示すこととする。本講義のテクストは、ハイデガー自身の講義のための覚書の束をもとに、それらを、講義を聴講していたワルター・ベッカー、ヘレーネ・ヴァイスらのノートと比較しつつ編集者によって連続した講義の形で、再構成されたものである(vgl.GA62, 421-435)。また、付録3には、1922年秋に作成された、当時のハイデガーのアリストテレス研究の見通しを報告する所謂『ナトルプ報告』が、収録されている。『ナトルプ報告』については、邦訳が存在するほか、レクラム文庫にも収録されている。その成立事情については、M・ハイデガー『アリストテレスの現象学的解釈』高田珠樹 訳、平凡社、2010年、147頁―224頁に高田氏の詳細な報告がある。 154 ハイデガーのアリストテレス解釈における運動性
Martin Heidegger, Gesamtausgabe,Bd.62, Vittorio Klostermann, 2005.
2013年度課程博士論文 研究題目 ハイデガーにおける存在と神の問題 所属:首都大学東京大学院人文科学研究科文化基礎論専攻 哲学教室 博士後期課程3年 学籍番号 :11966102 氏名: 上田うえだ圭委子けいこ
返信削除雨宮
返信削除おける経済の発展度を低くみる1965年当時の欧米学界の有力説に従っているのであるが、この種の見解については近年批判・修正の試みがさまざまになされている。確かに必要穀物の半分を輸入に頼ったアテネにとって海外貿易は重要であったが、国内経済も完全に貨幣に依存していたのである。
次に、上記の前漢貨幣に関する考察にならってアテネの銀貨が名目貨幣であったか実質貨幣であったかという問題を考えよう。まず現存している古代アテネ銀貨を調べてみると、その含有する銀の品質と重量は驚くほど均一である。Starr[1970]に記載されている100個以上のテトラドラクマの重量はその大半が17グラム強であり、オボロスに至るまで厳密に重量比率を守っている。この事実と、コインが鋳造される前アテネでは正確に計量された銀片が貨幣として用いられていた(Kim[2001]p.15)という事実を考慮すると、少なくとも当初はアテネ銀貨は実質貨幣(秤量貨幣)としての性格を持っていたといえると思う。しかし、たとえ当初はそうであったとしても、通貨は使い始めると名目貨幣としての性格を増してゆくものだと思う。ポケットに入れた(古代ギリシャ人は、小銭は口に入れて運んだそうだが)オボロスの銀の含有量等誰も意識しない。ただパン屋へ行けば、これが1本のパンと交換できるということだけ考えるのだ。このことに関連する1つの条例がある。前375年の貨幣条例である。次のようにいう。「アテネの銀貨は銀製にして正式の紋を持つものならば、これを受取る義務がある。…検査官の保証した銀貨を受取らぬ商人はその日の商品全てを没収する」(Stroud[1974])。ここで明らかなのは銀貨の価値を保証するものはその品質や重量よりも政府の権威であるということである。「初期のコインに刻印された紋は品質や重量の保証ではなく、その兌換性、すなわち、政治または社会的に保証された価値の印である。コインはその実質的価値によってのみでなく、信用によって認められるのである」(Seaford[2004]p.136)。実際、古典時代の多くのギリシャのポリスは銀、銅、鉛の合金からなるコインを何の支障もなく使っていたといわれる(DemosthenesXXIV)。アテネにおいても前413年スパルタ軍がアッティカのデケレア(Decelea)地方を占領したためラウレイオン銀山の採掘が不能となり、一時的に銀メッキを施した銅貨を通用させたことがある。これは前404年のペロポネソス戦争の終結とともに回収された。この間の事情はアリストパネス(Aristophanes)の喜劇『女の議会』(822)に描かれている。次にアテネの銀貨が名目貨幣であったことの言語学的論拠を挙げよう。ギリシャ語の通貨(nomisma)という言葉は紀元前5世紀に初めて現れる。これはノモス(nomos、慣習)からの派生語である。『漢書』食貨志(黒羽[1980])によれば前漢王朝は前118年より滅亡(8年)までの間280億枚の5銖銭を鋳造したという。これは年平均約2億3千万枚になる。これに比して紀元前4世紀のアテネにおける鋳造量は年間の銀の生産高に等しいと仮定すると600万ドラクマとなる。GDP/鋳造量の比は古代中国が約1,514、アテネが約4.4となる。この事実はアテネの方が中国よりも貨幣経済が発達していたことの1つの傍証になると思う。もちろん厳密な比較のためには、5銖銭以外の古い16
通貨の使用速度はどの位であったか等も考慮する必要があるが、アテネにおいても前述のような外国のコインも使われていたし、その他の事情も同様として(otherthingsbeingequal)処理するしかない。両者における貨幣経済の発達の差異はある程度は両者の総面積の差異によるものであろう。アテネ市民は日常の売買の大部分をアゴラで行ったと思われるが、中国では市場から遠く物々交換に頼らねばならなかった農村があったであろうことは十分想像できる。なおScheidel[2009]は漢と古代ローマを比較して後者の貨幣経済がより発達していたという結論に達している。
Demosthenes,XXIVAgainstTimocrates,HarvardUniversityPress,1935.―――,XXVIIAgainstAphobus,HarvardUniversityPress,1936a.―――,XXXVIForPhormio,HarvardUniversityPress,1936b.―――,LVIIAgainstEubulides,HarvardUniversityPress,1939.
Seaford,Richard,MoneyandtheEarlyGreekMind,CambridgeUniversityPress,2004.
生年没年がアリストテレスと一緒
返信削除
返信削除信用貨幣論
デモステネス マクラウド イネス
モンテスキュー バークレー
ジェームズ・スチュアート ホートレー カレツキ
ジンメル 左右田喜一郎 モース インガム
返信削除不換紙幣(ふかんしへい)とは本位貨幣(正貨たる金貨や銀貨)との兌換が保障されていない法定紙幣(英: Fiat Money)のことをいう。 政府の信用で流通するお金であることから、信用紙幣(英: Faith Money)とも呼ばれる。
https://www.weblio.jp/content/Fiat+money
Fiat moneyとは - Weblio辞書
古川顕が指摘しているように、マクラウドは信用貨幣論の始祖にアリストテレスと同時代のデモステネスを挙げている。
返信削除《さらに、[レプティネスによって申し立てられている]国の公金が底をついているということに関してですが、諸君はこう考えるべきです。公共奉仕負担免除の特典を諸君が廃止したところで、諸君の財政状態が少しでも改善される見込みはない。なぜなら、個人個人のそうした公共奉仕への支出は国の歳入や余剰金には何の関係もないのだから、と。また以上の点とは別のこととして、現在わが国は二つの善きもの、つまり富と、万民の信望のうち、後者、すなわち信望という善きものは享受しています。しかしもし誰かが、われわれには金銭がないのだから、輝かしい名声を保持し続ける必要もないと思うならば、これは間違った考えです。》
レプティネスへの抗弁
邦訳デモステネス弁論集第3巻(本書)、20頁
《信用が金を稼ぐあらゆる元本の中で最大のものであるということをお前が理解しないならば、お前は何も理解しない人間であることになろう。》
ポルミオン擁護
邦訳デモステネス弁論集第5巻、272頁
前者は公訴、後者は私訴(ディケー)。
信用貨幣論は国定貨幣論とはズレるということか。
信用(ピスティス)に関してはハイデガーも言及している。
以下本叢書目録
I(第一巻)
第一弁論『オリュントス情勢 第一演説』(加来彰俊訳)
第二弁論『オリュントス情勢 第二演説』(加来彰俊訳)
第三弁論『オリュントス情勢 第三演説』(加来彰俊訳)
第四弁論『ピリッポス弾劾 第一演説』(加来彰俊訳)
第五弁論『講和について』(北嶋美雪訳)
第六弁論『ピリッポス弾劾 第二演説』(加来彰俊訳)
第七弁論『ハロンネソスについて』(杉山晃太郎訳)
第八弁論『ケロネソス情勢について』(田中美知太郎、北嶋美雪訳)
第九弁論『ピリッポス弾劾 第三演説』(加来彰俊訳)
第十弁論『ピリッポス弾劾 第四演説』(加来彰俊訳)
第十一弁論『ピリッポス書簡への返答』(北野雅弘訳)
第十二弁論『ピリッポス書簡』(北野雅弘訳)
第十三弁論『制度について』(杉山晃太郎訳)
第十四弁論『シュンモリアーについて』(杉山晃太郎訳)
第十五弁論『ロドス人解放のために』(杉山晃太郎訳)
第十六弁論『メガロポリス市民のために』
第十七弁論『アレクサンドロスとの盟約について』
II
●法廷 (公訴)弁論集
第十八弁論『冠について』
第十九弁論『使節職務不履行について』
III
第二十弁論 『レプティネスへの抗弁』
第二十一弁論『メイディアス弾劾』
第二十二弁論 『アンドロティオン弾劾』
IV
第二十三弁論『アリストクラテス弾効』
第二十四弁論『ティモクラテス弾効』
第二十五弁論 『アリストゲイトン弾劾、第一演說』
第二十六弁論 『アリストゲイトン弾劾、第二演説』
V
●法廷(私訴)弁論集
第二十七弁論『アポボス弾劾、第一演説』
第二十八弁論『アポボス弾劾、第二演説』
第二十九弁論 『アポボスへの抗弁』
第三十弁論 『オネトルへの抗弁、第一演説』
第三十一弁論『オネトルへの抗弁、第二演説』
第三十二弁論『ゼノテミスへの抗弁』
第三十三弁論 『アパトゥリオスへの抗弁』
第三十四弁論 『ポルミオンへの抗弁』
第三十五弁論 『ラクリトスへの抗弁』
第三十六弁論 『ポルミオン擁護』
第三十七弁論 『パンタイネトスへの抗弁』
第三十八弁論 『ナウシマコスおよびクセノペイテスへの抗弁』
第三十九弁論 『ボイオトスへの抗弁、第一演説』
第四十弁論『ポイオトスへの抗弁、第二演説』
VI
第四十一弁論 『スプディアスへの抗弁』
第四十二弁論 『パイニッポスへの抗弁』
第四十三弁論 『マカルタトスへの抗弁』
第四十四弁論 『レオカレスへの抗弁』
第四十五弁論 『ステパノス弾劾、第一演説』
第四十六弁論 『ステパノス弾劾、第二演説』
第四十七弁論 『エウエルゴスならびにムネシプロスの偽証罪弾劾』
第四十八弁論 『オリュンピオドロス弾劾』
第四十九弁論 『ティモテオスへの抗弁』
VII
第五十弁論 『ポリュクレスへの抗弁』
第五十一弁論『三段櫂船奉仕役への冠について』
第五十二弁論『カリッポスへの抗弁』
第五十三弁論 『ニコストラトスへの抗弁』
第五十四弁論『コノン弾劾』
第五十五弁論 『カリクレスへの抗弁』
第五十六弁論『ディオニュソドロス弾劾』
第五十七弁論『エウブリデスへの抗弁』
第五十八弁論『テオクリネス弾劾』
VII
第五十九弁論『ネアイラ弾劾』
●葬送演説、書簡ほか
第六十弁論『葬送演説』
第六十一(エッセイ) 『恋について』
『序論集』
『書簡集』
5 a[sage] 2021/07/05(月) 22:09:06.12 ID:QOjO8krt
返信削除古川顕が指摘しているように、マクラウドは信用貨幣論の始祖にアリストテレスと同時代のデモステネスを挙げている。
《さらに、[レプティネスによって申し立てられている]国の公金が底をついているということに
関してですが、諸君はこう考えるべきです。公共奉仕負担免除の特典を諸君が廃止したところで、
諸君の財政状態が少しでも改善される見込みはない。なぜなら、個人個人のそうした公共奉仕への
支出は国の歳入や余剰金には何の関係もないのだから、と。また以上の点とは別のこととして、
現在わが国は二つの善きもの、つまり富と、万民の信望のうち、後者、すなわち信望という善
きものは享受しています。しかしもし誰かが、われわれには金銭がないのだから、輝かしい名声を
保持し続ける必要もないと思うならば、これは間違った考えです。》
レプティネスへの抗弁
邦訳デモステネス弁論集第3巻、20頁
《信用が金を稼ぐあらゆる元本の中で最大のものであるということをお前が理解しないならば、
お前は何も理解しない人間であることになろう。》
ポルミオン擁護
邦訳デモステネス弁論集第5巻、272頁
返信削除"Qui fugiebat, rusus præliabitur."
『逃げた者は もう一度戦える。』
デモステネス:カイロネイアの戦いにおける敗走中に・紀元前338年
( The man who flies shall fight again.
Demosthenes, on his flight at the Battle of Chaeronea, 338 B.C. ) pic.twitter.com/FOMjJu2Dtc
2021/07/07 9:41
うさふー
@Grahoo
https://twitter.com/grahoo/status/1412572505403846664?s=21
過度に楽観視するバイアス 紀元前四世紀に、デモステネスは「人は自分が望むことを信じる」と書いています。そしてこの言葉どおり、人は見通しや才能を自己評価するときにも、バカバカしいほど過度に楽観的になります
2021/07/04 21:04
チャーリー マンガー(Charles Munger)
@munger_bot
https://twitter.com/munger_bot/status/1411657221985869829?s=21
【一五-047】 我ら会員は相次いでナポレオン、孔子[こうし]、ドストエフスキイ、ダアウィン、クレオパトラ、釈迦[しゃか]、デモステネス、ダンテ、千[せん]の利休[りきゅう]等の心霊の消息を質問したり。
2021/07/04 19:54
芥川龍之介・著『河童』 新仮名遣い篇
@kappa_nk_bot
https://twitter.com/kappa_nk_bot/status/1411639670589378562?s=21
返信削除『クセノポン小品集』 松本仁助訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2000年。※以下の8編を収む。
『ヒエロン―または僭主的な人』
『アゲシラオス』
『ラケダイモン人の国制』
『政府の財源』
『騎兵隊長について』
『馬術について』
『狩猟について』
『アテナイ人の国制』
返信削除貨幣史 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A8%E5%B9%A3%E5%8F%B2
古代
ギリシャの貨幣論は、プラトンの『国家』、アリストテレスの『政治学』や『ニコマコス倫理学』などに見られる。クセノポンは『歳入論』でペロポネソス戦争敗北後のアテナイの財政再建について書き、貿易振興による関税、メトイコイ(在留外国人)の優遇による人頭税、ラウレイオン銀山の再開発による貨幣発行益を提案した[注釈 22]。
佐々木 1996, p. 210.
*
* 佐々木史郎 『北方から来た交易民 - 絹と毛皮とサンタン人』 日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1996年。
ケインズはソロンを評価していた。
返信削除貨幣論1
14頁
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の 行使であって、それは鋳造貨
幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の
変更であった。
…
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので
はない。
第1編 貨幣の性質
12
真中にある小麦の粒三二」の重さと定めていたときのように
す
-やはり国家あるいは社会であったであろう。今日の
ウガンダでは山羊がその土地の慣習的な標準物となっているが、その一地方長官が私に語るところによれば、彼の公
的な任務の一部は、特定の山羊があまり年をとりすぎていて、あるいはあまりやせすぎていて、債務の弁済のための
標準物の山羊になるかどうかについて争いがある場合に、それを裁決することであるということである。
貨幣は文明にとって不可欠な他の幾つかの要素と同様に、われわれが数年ばかり前までそのように教えられて信じ
ていたものよりも、はるかに古い制度である。その起源は、氷河の氷が溶けつつあった時代の霧の中へ没しており
そしてそれは、気候は快く、心は自由で、新しい考えを豊かに培っていた||ヘスペリデス姉妹たちの島、あるいは
アトランティス、あるいはどこか中央アジアのエデンの園でー|間氷期 (interglacial) の人類の歴史に おける 楽園
の合い間にまで及ぶとみてよいであろう。
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の 行使であって、それは鋳造貨
幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の
変更であった。さらにまた、第二ボエニ戦役以前には、表券主義的な変更が、公衆の犠牲によって国家の利益を得ると
いう明確な意図のもとに企画された|ローマはこの方法を国政の武器につけ加えた最初の創案者である||例を、
私は一つも知らない。その時代以降、標準の表券主義的な変更は一般に質の劣悪化という形で、時にはある目的のた
めに、また時には他の目的のために行なわれてきたが、それは歴史家にはよく知られている論題である。
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので
はない。標準物の質的劣悪化、すなわち計算貨幣の価値を突然に低下させるような標準の変更は、それ自体ではわれわ
れを一歩も代表貨幣の方へ導くものではない。商品貨幣は、単に商品の単位が質的に変化し、あるいは量的に減少し
負債論#7
返信削除80. “Against Nicostratus” (Demosthenes 53). My version largely follows Millet (1991a:53–59) but also draws on Trevett 1992, Dillon 2002:94–100, Harris 2006:261–63). The interpretation of Nicostratus’ motives is my own; Dillon, for example, suspects that the entire story of his kidnapping and ransom at Aegina was made up—though if that were the case, one would imagine Apollodorus would have eventually found out and told the jurors. The text doesn’t explicitly say that Nicostratus was an aristocrat, but this seems the most plausible explanation of why someone might have a comfortable country estate but no money. Apollodorus, though, was known, from other contexts, to have feared that his fellow citizens would have contempt for his lowly background, and tried to compensate by lavish—and some felt, over-lavish—generosity (see Ballin 1978; Trevett 1992).
80. "Against Nicostratus" (Demosthenes 53). 私のバージョンはMillet (1991a:53-59)にほぼ従っているが、Trevett 1992, Dillon 2002:94-100, Harris 2006:261-63)も参考にしている。ニコストラトゥスの動機についての解釈は私独自のものである。例えばDillonは、エギナでの誘拐と身代金の話は全てでっち上げではないかと疑っているが、もしそうであれば、アポロドロスがいずれ気付いて陪審員に話したのではないかと想像される。ニコストラトスが貴族だったとは書かれていないが、田舎の豪邸に住んでいてもお金がないというのは、この説が一番しっくりくる。しかし、アポロドルスは、他の文脈から、市民が自分の身分の低さを軽蔑することを恐れ、贅沢な、しかも過剰なほどの寛大さでそれを補おうとしたことが知られている(Ballin 1978; Trevett 1992参照)。
返信削除www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。
邦訳297への註694
返信削除裁判関連
信用貨幣論関連ではない
返信削除VII
第五十三弁論 『ニコストラトスへの抗弁』
グレーバーが言及
498
返信削除通貨切り下げ切り上げは大陸で成功
イギリスで失敗
コント105
返信削除1891年
社会的負債
グレーバーは原初的負債論者に、MMTを置く