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文雄氏が 「二宮尊徳仕法の褒美農具について一相. 馬中村藩の事例-」と題して、 現存する、 相馬仕. 法の際の褒美の鍬を紹介されています。 二本松氏. が紹介された鍬は3 ...
報徳の教え
渋沢栄一(https://vimeo.com/529930591)への影響もあるかも。西郷隆盛との報徳社関連のやりとりが伝えられる。論語と算盤は 大正五(1916)年に刊行された。大日本報徳社 pic.twitter.com/dSKgLMSeTP
— luminous woman (@_luminous_woman) February 28, 2021
岡田良一郎は、報徳社を大いに発展させる一方、明治7年(1874)、事業育成や農業、工業などの産業奨励のために、半官半民の「資産金貸附所」を創設し、岡田家家訓「雲仍遺範(うんじょういはん)(注1)」による岡田家推譲(すいじょう)(注2)の報徳金や他の推譲金を資産金にして貸し付けを始めました。明治12年(1879)、佐野城東郡(小笠郡)の郡長に命じられたのを機に、産業発達を推進するため、資産金貸附所の実力を倍加することを目的にして、別に勧業資金積立の組合を作り事業をはじめました。これが掛川信用金庫の創始です。明治25年(1892)、掛川信用組合(掛川信用金庫の前身)に組織替えして事業を続け、昭和27年(1952)掛川信用金庫となりました。良一郎は初代の組合長となり活躍しました。
(注1) 雲仍遺範(うんじょういはん)・・・雲仍とは子孫のことで、遺範は子孫に残す家訓のこと。
(注2) 推譲(すいじょう)・・・分度のある生活をして、余財を蓄え、家族、子孫、社会のために譲る。
勧業資金加入規則及貸附法(明治12年)
本社構内にあった掛川信用組合事務所
良一郎は、二宮尊徳が唱えた報徳思想の普及をめざし、道徳と経済の調和ある実践を説き、困窮にあえぐ農民の救済をめざした報徳運動を全国に広めていきました。尊徳高弟の良一郎の力強い指導による活動が盛んであった掛川は、やがて全国の報徳運動の中心地となり、この地に「大日本報徳社」が設立されたのです。
明治36年(1903)、良一郎は、現在ある大講堂を総工費1万1629円で建設し、全国の報徳社の中心拠点としました。そして、明治42年(1909)、道徳、経済一円融合論(「道徳のない経済は罪悪、経済のない道徳は寝言」)の象徴として、正門(道徳門、経済門)を建設し、明治44年(1911)、社名を遠江国報徳社から「大日本報徳社」と改名しました。
道徳、経済一円融合論を象徴して建てられた正門(道徳門、経済門)
(明治42年建立、県指定文化財)
明治7年(1874)、税負担を農民に強要する地租改正に対して、全遠州にも猛烈な反対運動が起こりました。静岡県からの収拾の依頼を受けた良一郎は、坪刈成績に基づく制度にさせようとしましたが、政府が遵守しなかったので、丸尾文六、金原明善らと図って運動を起こし、明治21年(1888)、一坪の稲を刈り取り、それを基礎として全体の収穫量を算出する坪刈成績に基づいた地租改正を実現させました。
勧業資金積立の組合設立(掛川信用金庫の創始)
編集/大日本報徳社専務理事 宮川正夫 電話:0537-22-3016
岡田良一郎の報徳社は信用組合機能が足りないと柳田国男に批判された。
むしろ報徳社の協同組合化は平等な市民参加を促す上で重要な進歩だった。柳田国男は官僚として市民の欠点しか見えなかった。柳田の批判は建設的なものではなかったので、その後の日本の協同組合運動にとってマイナスだったと思う。
参考:
http://nam-students.blogspot.jp/2014/01/blog-post_30.html
教養として知っておきたい二宮尊徳 日本的成功哲学の本質は何か PHP新書 松沢 成文 | 2016/6/10
https://www.amazon.co.jp/dp/B01GE45FXW/
服部家の財政の再建に腐心していた頃、尊徳は藩が服部家に貸与した資金の一部を用い、「五常講貸金」を小田原藩に再現しようともした。もちろん、規模も異なるし、講の基金は藩が出しているという違いもあった。そこで、若干仕組みを修正し、「小田原藩五常講」として開設した。
一部制度修正はあったが、五常を重んじることと相互扶助という基本は外さなかった。ただし、小田原藩五常講の相互扶助は、借りた人間同士の相互扶助であった。
たとえば、下級武士への貸し出し資金には三〇〇両を充てたが、一組一〇〇人が加入する三つの講を作らせ、その各々に一〇〇両ずつを割り当てた。つまり、一〇〇両を一〇〇人で運用するのである。服部家における講とは違って利息はなし。一人が借りられるのは一両が原則で、重複する場合には三両を限度とした。返済期限は一〇〇日以内である。
万一、返済が滞った場合の処置がいかにも相互扶助金融制度らしい。一組一〇〇人の名簿のなかの返済が滞った人の次に記載された一〇人が、一人七〇〇文を出し合って連帯返済をするのである。一〇人が七〇〇文ずつ出せば七〇〇〇文になり、これはほぼ焦げ付いた一両に相当する。
この連帯責任が果たされないかぎり、次の貸し付けは停止される。同じ組の仲間に迷惑はかけたくないから、借りた人は懸命に努力し、工夫して無事に返済しようと努める。それでも力が及ばなかった際は、連帯責任という相互扶助でカバーする。経済と道徳は両立されなければならないと考えていたであろう尊徳らしい発案であった。 この「小田原藩五常講」の開設によって、小田原藩の藩士はリテール・バンキングのような恩恵を受けることができるようになった。当時としてはありえないほどの貴重な恩恵であった。
五常講は、後に報徳思想を実践するために設置される「報徳社」の礎となっていく。
ここで注目してい
ただきたいのは、五常講は今日の信用組合や協同組合と大変似た内容だということである。
協同組合といえば、農業協同組合(農協)や消費生活協同組合(生協)の姿を思い浮かべる人も多いと思う。
一八四四年、イギリスのマンチェスター近くで、ロッチデール公正先駆者組合(消費組合)の「ストア」が生まれた。これが生協のルーツといわれる。農協のそれはドイツで一八六二年にライファイゼンが設立した「救済貸付組合」(農村信用組合)といわれている。
〈協同組合発足の歴史〉
○五常講(信用組合) 一八二〇年
日本の紙幣が新しいものに変わるそうです。
実際に新紙幣が出回るのは数年後のことのようですが、新たな年号の発表と合わせたように紙幣も刷新されるというのは、新しい時代が来る期待を強めそうです。
特に、新しい紙幣に描かれる人物は、一万円札が渋沢栄一、五千円札が津田梅子、千円札が北里柴三郎となるそうで、それぞれを縁にしたブームも起きそうです。
私が特に注目したいのは、一万円札の渋沢栄一さんです。
彼が選ばれた意義を「近代資本主義の創始者」というような言い方をして、明治から昭和に至るまでの間、実に多くの企業を立ち上げたことを称賛する記事が多いようですが、私は利益最優先に凝り固まった現代資本主義へのアンチテーゼとして見るべきではないか、と思います。
彼のもっとも有名な著書は「論語と算盤」で、その大要は「(論語で)人格を磨き、(算盤で)起こした経済を社会に有意義な使い方をせよ」ということに尽きるでしょう。
この思想の元は、私も掛川で学んだ二宮尊徳さんの報徳思想に極めて近いものがあります。
報徳思想では『道徳と経済』という言い方をして、実際に掛川にある大日本報徳社の大講堂の前には『道徳門』と『経済門』という二つの門があります。
そして『経済なき道徳は寝言であり、道徳なき経済は犯罪である』という教えが伝わっています。
二宮尊徳と言い、渋沢栄一と言い、ある時代にときどき「経済は大事だがもうけすぎてはいけない。経済を生かすためにも自分自身の人格形成を大切にせよ」という声が沸き上がるのですが、いつしかそれもまた「やはり儲からなくてはだめだ」という経済至上主義にとって代わられてしまうことが繰り返されています。・・・
◆
家にあった「論語と算盤」を取り出してきました。
この中に、渋沢栄一と二宮尊徳の教えが交差する場面があります。
それは、かつて二宮尊徳先生の弟子がその教えを福島県の相馬藩へ持ち帰って、相馬藩興国安民法として地域づくりを行っていたのですが、それが明治新政府によって廃止されようとしているという事案でした。

相馬藩の重臣が西郷隆盛を訪ねて、この興国安民法を廃止しないでもらいたいと陳情したのですが、その西郷が「今の新政府の面々では自分が主張しても聞いてもらえないかもしれないので、渋沢さんから訴えてもらえないか」と相談に来たというのです。
渋沢が、「話の趣旨は分かったが、では西郷さんあなたはその相馬藩の興国安民法がどんなものかご存知か?」と尋ねると、西郷は「いや存ぜぬ」という。
「やれやれ、相馬藩の興国安民法というものは…」と渋沢は西郷に興国安民法について説明をして、さらに「そのように、相馬の興国安民法が続けば相馬一藩は今後ますます繁盛するであろう。しかし西郷参議ともあれば、我が国の興国安民法をいかにすべきかについてご賢慮が必要ではないか」と説教までかましています。
渋沢と西郷のエピソードはそれで終わっていますが、その感想として彼は「維新の豪傑の中で、知らざるを知らずとして全く虚飾のない人物は実に西郷殿で、まことに敬仰に堪えぬ人物であったなあ」と書いています。…
相馬中村藩では、天明・天保のききんで農村が疲へいし、藩財政が窮ぼうしました。そこで、農村を立て直し、藩財政を再建するために、二宮尊徳の教えに基づく「興国安民法」を導入しました。
「興国安民法」は 、一般には「二宮仕法」あるいは「報徳仕法」などといわれ、相馬では「御仕法」といわれています。
御仕法は、至誠・勤労・分度・推譲を原理とします。このうち、分度とは、各自にふさわしい支出の限度を定めることです。推譲とは、将来にそなえること。また他人のために収入の一部を譲ることをいいます。つまり農民生活の安定のため、質素倹約と備荒貯蓄を目的としています。
御仕法の実施にあたっては、村民たちの投票により働き者を表彰して、お金や鎌・鍬などの農具を与えることにより、農業への意欲を高めるとともに、困窮者の救済、家の修理、新築への助成などを行ないました。さらに、堤・用水路の普請・修理も行われました。
中村藩は、元禄・正徳・享保の盛時には最高17万5千俵余の米の収納があり、人口も約9万人に達しましたが、天明の飢饉後は、2万40俵、約3万6千人に激減しました。このため、藩では天明4年(1784)に幕府から5千両を借り入れ養育料の支給や、移民を引き入れることなどで回復に努めましたが、借金は30万両を越えてしまいました。
こうしたことから、文化14年(1817)より厳しい倹約令(いわゆる「文化の御厳法」)を出し、6万石の格式を1万石に切り詰めるなどの政策も実施しました。その後天保4年(1833)に大きな飢饉がおこり、餓死者こそ出しませんでしたが、藩財政は底をつき、厳法をさらに10年延長せざるをえない状況でした。そして弘化2年(1845)、窮乏の復興策として取り入れられたのが、「興国安民法」(御仕法)でした。
御仕法は、中村藩士で二宮尊徳の弟子となった富田高慶から、中村藩復興の良策案として家老草野正辰に進言があり、得心した草野家老は家老池田胤直らと藩論の統一をはかり、藩主に上申して導入されることになりました。
報徳運動は、江戸時代末期から、各地の困窮の村々を救い、農民生活の安定化に貢献した実学的な手法として全国に浸透しました。特に静岡県には、明治30年代、420社におよぶ「報徳社」が結成され、とりわけ、その活動が盛んだったのは、掛川を中心とした遠州地方でした。
二宮尊徳から直接に教えを受けた岡田佐平治、良一郎親子が中心となって繰り広げられた掛川藩内の農村復興の努力は、やがて明治8(1875)年の遠江国報徳社創設に結実しました。また、岡田良一郎は資産金貸付所を明治7(1874)年に創設し、それが掛川信用組合を経て、日本で最古の掛川信用金庫となりました。
また、産業に関する協同組合的思想は、産業組合となり農業協同組合の原点となっています。一方、明治10(1877)年岡田良一郎が開いた私塾、冀北学舎は、明治17年まで続き、県内外の152人の逸材を輩出しました。岡田良一郎の息子である岡田良平、一木喜徳郎も、冀北学舎で学び、後に文部大臣や宮内大臣を務めました。
大日本報徳社の事業は、岡田家四代で終戦を迎え挫折しかかりましたが、GHQのインポーデン新聞課長の好評価などでよみがえり、戦後の復興を担いました。そして、第五代社長河井禰八(元参議院議長)、第六代社長戸塚九一郎(元労働、建設大臣)と続き、第七代社長神谷慶治(元東京大学農学部長)を経て、第八代社長榛村純一(元掛川市長)に引き継がれています。現在の榛村社長(平成13年~)の時代に、大講堂等の六つの近代和風木造建築物群の保存修復工事が完成し、公益社団法人(平成24年7月)に移行しています。

今年[2016]の10月7日(金曜日)、8日(土曜日)に「第22回全国報徳サミット南相馬市大会」が開催されます。報徳サミットは、報徳仕法や二宮尊徳にゆかりのある市町村が集まり、尊徳の教えをこれからのひとづくり・まちづくりへどのように活かし、取り組むべきかを話し合い、共有し、広めるべく、加盟している17市町村の持ち回りで毎回開催されています。
南相馬市をはじめとする藩政時代の奥州中村藩は、二宮尊徳の教えである報徳仕法を実践し、さらにその結果が成果としてあらわれた地域です。
ところで「報徳仕法」っていったい何でしょうか?簡単にご紹介したいと思います。
報徳仕法は二宮尊徳の教えにもとづき、飢饉などで荒廃した農村を建て直す政策のことです。報徳仕法は文政5年(1822)に下野国桜町領(現在の栃木県真岡市あたり)から始まり、関東地方を中心に、実施された地域は広がっていきました。
中村藩では、天明3~4年(1783~1784)の大凶作「天明の飢饉」によって大きな打撃を受け、人口の激減、田畑の荒廃が進み、藩の財政、存続は危機的な状況にありました。そこで中村藩でも農村建て直し政策のひとつとして、人口増加のため浄土真宗門徒移民政策や、財政立て直しのために報徳仕法を実施するのです。この報徳仕法の実施には、富田高慶というキーパーソンの存在が必要不可欠でした。

木造富田高慶坐像 南相馬市博物館所蔵 佐藤朝山(玄々)作
富田高慶(とみた こうけい(たかよし))は文化11年(1814)中村藩士の家に生まれました。困窮を極めていた藩を建て直すため江戸で勉学に励んでいた高慶は、報徳仕法の評判を知りその方法を学ぼうと二宮尊徳に入門し、一番弟子となりました。
そして熱心に尊徳に学んだ高慶は、尊徳から絶大な信頼を得て、中村藩建て直しの代理指導を任されたのです。
高慶の指導のもと、中村藩では弘化2年(1845)に坪田村・成田村(現在の相馬市)から報徳仕法を実施し、元治元年(1864)までに、領内226の村の半分近くに当たる101の村で実施され、そのうちの4分の1にあたる55の村で建て直しに成功しました。
二宮尊徳の死後、高慶は尊徳の教えを世に広めるため、『報徳記』や『報徳論』を編纂しました。そして明治23年(1890)、76歳で生涯を閉じるまで報徳仕法と二宮家のために尽力したのです。

報徳記原稿一部 南相馬市所蔵
これは二宮尊徳の伝記を著わした『報徳記』の原稿とされる富田高慶の自筆のものです。
富田高慶がまとめた『報徳記』では、報徳仕法の根本を「至誠」とし、これを実施するにあたって「勤労」、「分度」、「推譲」が必須だとされました。
ここまでは報徳仕法についてのごく一部に過ぎません。各地で実施された二宮尊徳の教えはもっと深く、短くまとめるには困難なものです。もし報徳仕法についてもっと知りたい!と思った方は、10月に開催される「第22回全国報徳サミット南相馬市大会 」に参加してみてはいかがでしょうか?
また、南相馬市博物館でも報徳仕法に関する特別展「報徳仕法と浄土真宗門徒移民 ―奥州中村藩の復興への取組み― 」が9月17日(土曜日)から始まりますので、当館へもご来館いただければと思います。
二宮尊徳は、約200年も前に報徳仕法という政策を実施しました。この教えは現代でも広く学ばれ、参考にされています。尊徳がどれほど聡明で人格者であったかが想像されますね。現在の日本経済を発展させた数々の企業家たちも、その教えに少なからぬ影響を受けています。
私たちは、もう一度報徳仕法の原理を振り返り、実践すべきことがあるのではないでしょうか。
参考:『報徳仕法 南相馬市版「二宮金次郎・富田高慶からの贈りもの」』南相馬市 平成20年
(は)


教育委員会 文化財課 博物館
〒975-0051
福島県南相馬市原町区牛来字出口194

明治4年(1871)7月、明治政府はすべての藩を廃し県とする廃藩置県を実行し、中村藩は中村県となりました(11月2日に中村県は平県に編入され、同29日に磐前県と改称し、明治9年に福島県に合併)。これにより、度重なる飢饉により疲弊した農村を復興するため中村藩が行ってきた報徳仕法は藩営として実施することができなくなりました。
そのため、富田高慶をはじめとする報徳仕法を主導してきた人たちは、旧中村藩領内で報徳仕法を継続するために多くの明治政府の要人と会談しています。今回は、明治という新しい時代に活躍した誰もが知っている有名人と報徳仕法のエピソードを紹介します。
報徳仕法について「その22 報徳仕法ってどんなこと?」をご覧ください。

この写真は、明治5年(1872)3月13日に、参議という明治政府の要職にあった西郷隆盛と面会したことを記した富田高慶の日記の一部です。西郷に面会した富田が報徳仕法の継続を訴え、西郷がその支援を約束したことが記されています。しかし、具体的な会談の内容はこの日記には記されていません。
このころ、富田は報徳仕法を継続させるため、多くの政府要人と面会していました。その一人が西郷隆盛だったのです。
この時のエピソードは、富田の事績を紹介した『富田高慶翁伝』(大槻吉直 明治30年)や『済民記』(吉田宇之助明治34年)などさまざまな資料に記されています。資料によって多少の違いはありますが、おおむね次のような内容だったようです。
・富田は西郷に報徳仕法の詳細を説明し、感服した西郷は将来全国へ実行されることを希望し、斡旋など協力を約束した。
・西郷は、報徳仕法を磐前県と鹿児島県の両方から推し進めて全国に展開する考えを富田に伝えた。
もともと水戸藩の藤田東湖から報徳仕法のことを聞いていた西郷は報徳仕法に興味をもっていたようです。そして、二宮尊徳に会うことはできませんでしたが、報徳仕法を継ぐ富田との面会を希望していました。
富田との面会後、大蔵省に相談するのがよいと考えた西郷は、当時大蔵省の三等出仕(少輔並)だった渋沢栄一の自宅を訪ねました。この時の西郷と渋沢のやりとりが『渋沢栄一伝記資料』第3巻(渋沢栄一伝記資料刊行会 1955)に収録されています。ここには、明治5年(1872)ころのこととして当時を懐かしむように、渋沢が語っているようすが収録されています。

明治維新の立役者のひとりであり明治政府の中枢にいた西郷隆盛が、大蔵省の一官吏に過ぎなかった渋沢栄一の自宅をわざわざ訪ねてきたのです。
そのことに驚きつつも、渋沢は「大西郷」と呼ばれるほどの人物に自分の考えを伝えるよい機会だと考えたのか、旧中村藩の報徳仕法を継続してほしいと頼んだ西郷に対して、今は日本全体の報徳仕法が必要であり旧中村藩のみ実施することはできないという持論を展開しました。
当時、大蔵省は財源不足にもかかわらず、各省からの予算要求に四苦八苦していました。そのようななかで、経費に一定の限度額を設定する報徳仕法の仕組みについて、渋沢はある程度調べていたようです。報徳仕法の仕組みを西郷に説明したうえで、限度額も定めず大蔵省へ過大な予算要求ばかりをする各省の政治姿勢に対して皮肉を言ったのです。

黙って渋沢の持論を聞いていた西郷は、「今日は頼みにきただけなのに、叱られてしまった」とどこか愛きょうのある言葉を残して帰りました。
後日、報徳仕法が廃止となったことに触れて「お前がやってくれないからだ」などと、西郷から不満の手紙が届いたようですが、渋沢自身は西郷の人柄や器量に惹かれていたことや、この時のやりとりを少し自慢げに周囲に語っていました。
廃藩置県直前の明治4年4月、明治政府より中村藩内での報徳仕法の継続が認められましたが、7月の廃藩置県や明治6年(1873)の地租改正などにより状況は大きく変わりました。富田高慶たちは磐前県でも引き続き報徳仕法を実施できるよう活動を続けました。西郷隆盛をはじめとする明治政府要人との交渉はこのころのことです。

残念ながらこれらの活動は実らず、報徳仕法は継続されませんでした。しかし、明治10年(1877)には結社「興復社」が設立され、その設立発起人には富田をはじめとする報徳仕法継続のため中心的な役割を果たした人たちが名前を連ねました。
興復社の初代社長には富田が、副社長には二宮尊徳の孫である尊親が就任し、報徳仕法の理念は興復社に引き継がれることになりました。
(あ)

藩世継の相馬充胤の近侍となるが、藩復興の志のもと江戸に出る。1839年(天保10年)6月1日、入門。4大門人の1人で、報徳仕法を支えた。尊徳の片腕として活躍し、1852年(嘉永5年)に尊徳の娘・文子と結婚するが、翌年出産で帰った実家にて母子ともに亡くなった。日光仕法、相馬仕法に従事した。相馬仕法は尊徳の代理として、1845年(弘化2年)から廃藩置県まで領内226村のうち101村を対象に行い成果を得た。維新時、尊行一家とともに相馬に移住した。1869年(明治2年)、相馬中村藩家老上席および政治総裁となった。廃藩置県後は、1877年(明治10年)に興復社を設立し社長となった。また、尊徳没後「報徳記」「報徳論」を著した。1890年(明治23年)、77歳で没する。二宮尊行の次男の高英を婿養子とした。
1908年(明治41年)、従五位を追贈された[1]。
福島県相馬市ホームページ - 相馬の歴史 - 歴史講座 - 御仕法 - 第4回
(海野福寿)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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この絵は渋沢栄一が古希(70歳)の祝いの際に友人である小山正太郎から贈られた色紙です。
まさに渋沢栄一の生き方を象徴する絵であります。
この絵に書かれている文章は漢学者であり東京帝国大学教授、二松学舎の創設者三島中洲が寄稿したもので「論語を礎として商業を営み算盤を執りて士道を説く 非常の人、非常の事、非常の功」とあります。渋沢栄一はこのことについて著書『論語と算盤』の中でこう述べています。
「ある時私の友人が、私が七十になった時に、一つの画帳を造ってくれた、その画帳の中に論語の本と算盤と、一方には「シルクハット」と朱鞘の大小の絵が描いてあった、一日学者の三島毅先生が私の宅へござって、その絵を見られて甚だおもしろい、私は論語読みの方だ、おまえは算盤を攻究している人で、その算盤を持つ人がかくのごとき本を充分に論ずる以上は、自分もまた論語読みだが算盤を大いに講究せねばならぬからおまえとともに論語と算盤をなるべく密着するように努めようと言われて、論語と算盤のことについて一つの文章をかいて道理と事実と利益と必ず一致するものであるということを、種々なる例証を添えて一大文章を書いてくれられた、私が常にこの物の進みは、ぜひとも大なる欲望をもって利殖を図ることに充分でないものは、決して進むものではない、ただ空理に走り虚栄に赴く国民は、決して真理の発展をなすものではない、ゆえに自分らはなるべく政治界、軍事界などがただ跋扈せずに、実業界がなるべく力を張るように希望する、これはすなわち物を増殖する務めである、これが完全でなければ国の富は成さぬ、その富をなす根源は何かといえば、仁義道徳、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができね、ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめる事が、今日の緊要の務と自分は考えているのである。」
とあります。さらに著書『論語と算盤』では士魂商才に関する有名なくだりに続きます。
「昔、菅原道真は和魂漢才ということを言った。これはおもしろいことと思う。これに対して私は常に士魂商才ということを唱道するのである。和魂商才とは日本人に日本特有なる日本魂(やまとだましい)というものを根底にしなければならないが、しかし中国は国も古し、文化も開けて孔子、孟子のごとき聖人賢人を出しているくらいであるから、政治方面、文学方面その他において日本より一日の長がある。
それゆえ漢土の文物学問を習得して才芸を養わねばならぬという意味であって、その文物学問は、書物も沢山あるけれども、孔子の言行を記した論語が中心となっておるのである、(中略)士魂商才というのも同様の意義で、人間の世の中に立つには武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし武士的精神のみに偏して商才というものがなければ、経済の上からも自滅を招くようになる、ゆえに士魂にして商才がなければならぬ、その士魂を養うには、書物という上からはたくさんあるけれども、やはり論語は最も士魂養成の根底となるものと思う。
それならば商才はどうかというに、商才も論語において十分養えるというのである、道徳上の書物と商才は何の関係がないようであるけれども、その商才というものも、もともと道徳を以て根底としたものであって道徳を離れた不道徳、欺瞞、浮華、軽佻の商才は、いわゆる小才人、小悧口であって、決して真の商才ではない、ゆえに商才は道徳と離るべかざるものとすれば、道徳の書たる論語によって養えるわけである。」
士魂と商才の両面をしっかり鍛えていかなければならないことが述べられています。またその両面を磨くためにもっとも有効なものが『論語』であると示されています。…
論語算盤説は、福島甲子三氏が先生に進呈せる書画帖の中にある、小山正太郎 画伯の筆になれる絹帽と太刀、論語と算盤との図を見て旧師三島中洲翁の作れる所にして、これより所謂論語算盤説有名となれり。」(第41巻p255、『竜門雑誌』 ...

小山正太郎画(渋沢史料館
『常設展示図録』p56より)
最後にご紹介するのは福島甲子三(かしぞう)と小山正太郎です。福島は栄一の抜擢で東京水力電気および東京瓦斯で活躍後、郷里の宝田石油の専務取締役となりました。そして彼が栄一の古希祝に贈った画帖の中の絵は、長岡出身の画家・小山の作品でした。「論語算盤説は、福島甲子三氏が先生に進呈せる書画帖の中にある、小山正太郎画伯の筆になれる絹帽と太刀、論語と算盤との図を見て旧師三島中洲翁の作れる所にして、これより所謂論語算盤説有名となれり。」(第41巻p255、『竜門雑誌』第519号 山田済斉の演説より)
それを「論語と算盤」という言葉で語るようになったきっかけになったのが、 この絵です。 論語と算盤図/小山正太郎画(渋沢史料館蔵). 安岡 有名な絵ですね。 井上 渋沢が明治42年に古希を迎えた際、ほとんど関係していた企業の役員を ...
中野剛志2020
日本経済学新論
あとがき
この「日本経済学」の伝統を、我々は継承するだけではなく、改善し、発展させていかなければならない。例えば、貨幣論は「日本経済学」の弱点であった。渋沢は金属主義に囚われており、また、高橋と下村は信用貨幣論者ではあったが表券主義という理解を欠いていた。しかし、「日本経済学」に表券主義を導入するのは理論的に難しくない。なぜなら、表券主義は、ドイツ歴史学派に属するゲオルグ・F・クナップやジョン・M・ケインズなど、「日本経済学」と親和性の高い理論家たちの貨幣論だからだ。したがって、「日本経済学」は、表券主義や現代貨幣理論の成果を容易に取り込んで、自らをさらに発展させることができるだろう。それは、現代貨幣理論を生産力の理論によって補完するということでもある。
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https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=519079&page=1&id=47498256
どうも気になることがあると落ち着かないたちで。
ご存じの方がいらっしゃったらお知恵をお貸しください。
二宮尊徳翁が
「道徳のない経済は罪悪である。経済のない道徳は寝言である」
という意味の言葉を残されているらしいのですが、どこを探してもその原典が見当たりません。僕の探し方が悪いのか、それともこの言葉自体が独り歩きしている「詠み人知らず」の浮遊する言説なのかが、ぜひ知りたくなりました。
くり返しになり恐縮ですが、お詳しい方がいらっしゃったらご解説願えませんでしょうか。
甘えたお願いで申し訳ありません。
よろしくお願いします。
だいたいお察しの通り以下のHPのようなことのようで、
http://
直接的には『二宮翁夜話』(日本経営合理化協会、p434)で訳者村松敬司が解説で使った言葉のようです。
村松氏の根拠は、夜話原本の福住正兄によるあとがきの、「道徳を土台とし、経済を働きとし、この二つを至誠の一つで貫くのを道」(『日本の名著』の訳)とすることとしたという指摘と、
『二宮翁夜話』第三話にある、
「世を離れ欲を捨(ステ)たるは、譬(タトヘ)ば水車の水を離れたるが如し、又凡俗の教義も聞(キカ)ず義務もしらず、私欲一偏に着(ヂヤク)するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し、共に社会の用をなさず、」
という箇所らしいです(さらに元ネタがあるかも知れませんが、、、)。
参考:『二宮翁夜話』 (巻之一、3)http://
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また、カントの「内容を欠く思想は空虚であり、概念を欠く直観は盲目である。」(原佑訳『純粋理性批判(上)』平凡社p.191)をもじったのかなとも思います。