2021年7月19日月曜日

ジョン・ラスキン (John Ruskin, 1819 - 1900)Munera Pulveris 1872

ジョン・ラスキン - Wikipedia
ジョン・ラスキン (John Ruskin, 1819 - 1900)
 


『政治経済要義論――塵のたまもの』
Munera Pulveris [1862→1870=1981] 『ラスキン政治経済論集』宇井丑之助訳、史泉房、所収
邦訳
1981
299~301頁
第一章 諸定義

  第二節 貨幣

二一、この項目の下においては、われわれは通貨と交換の法則を研究しなければならない。それについて、第一の 〈独立した〉原則をここに記しておく。
 貨幣とは、いままで単なる〈流通〉《交換》の一手段であると、不正確にも論述されてきた。〈それとは反対に、貨 幣は権利の表現である〉《けれども、貨幣はそれ以上のものである。》それは法的請求権を証書に表現したものである(注1)。
富の量にたいする相対的な象徴であるから、それは富そのものではないが、それにたいし、ある一定時期において 人や社会が受け取る権利のあるところの、それだけの富を生産する労働の象徴でもある。
 もし、世界におけるすべての貨幣が、紙幣、金貨もろともに、一瞬にして破減し尽されてしまったとしても、それ は世界を昔とくらべて富ませも貧しくもしないだろう。けれどら、世の中の個々の住民を、異なった関係に残すであ ろう。
 それゆえに、貨幣はその性質において、財産にたいする不動産構権利証書に相当するものである。たとえ、その証書 が焼けてしまっても、財産は依然として残るが、それにたいする権利は誰に属するか、紛争の対象になるおそれがある。

ニニ、貨幣の値打は、現存の貨幣の量がその代表している現存の富または、利用できる労働の量にたいする割合が、 不変であるかぎり、不変のまま残っているものである。もし、富が増加しても、貨幣が増加しないならば、貨幣の値 打は増加するものである。貨幣が増加しても、富が増加しないならば、貨幣の値打は減少する。

二三、それゆえに、貨幣は不動産権利証書のように、人間が勝手気ままに、多くすることはできないものである。現 存の富または、利用できる労働が、十分に、通貨によって、代表されていない限りは、その通貨はその個々に割り当 てられた値打を減ずることなしに、増加されるかもしれない。けれども、現存する富または、利用可能な労働が、ひ とたび、十分に代表された場合には、流通に投じられたあらゆる貨幣は、新しい貨幣が既存のものと同一の信用を得 られるものとすれば、所持する既存の貨幣に比例して、他の現存している貨幣の値打ちを低落させる。そうでなけれ ば、その信用の〈劣るの〉《程度》に応じて、値打の下落は〈もっぱら新貨幣に〉起こるものである。

二四、けれども、推定上の固有価値を有するある物質(黄金のような)よりなる新貨幣が、市場に流通されるとき、 または信用を得るのに値すると推測される新紙幣が発行される場合には、貨幣を獲得しようとする欲望は、ある事情 の下においては、産業を刺激するものであって富の生産は直ちに増加する。そして、これが先に交付した新しい権利 額に比例するものであるならば、現存の通貨の価値は下落しない。与えられた刺激が、増加された鋳貨量の割合以上 に多く財貨が生産されるほど大ならば、現存の通貨の値打は騰貴するであろう。
 通貨の人為的統制と発行は、人々の希望と恐怖に作用して、富の生産に影響する。そして、ある事情の下にあって は、賢明なことである。しかし、直接の急場の費用に当てるために、通貨を追加発行することは、借金または課税の 一種の擬形に過ぎない。
 しかし、このような通貨の真の発行作用が民衆に理解されず、またその発行の圧力が、不規則 に分配され、しか それが知らず知らずのうちに強められるという理由で、公債を慕集したり、課税を敢行することができない場合 には、現在のような経済知識が乏しい状態下にあっては、政府があえて通貨の発行をすることは、しばしばありうる ことである。

二五、〈最後に〉 通貨の材料として、固有価値のある物質を用いることは、野蛮行為 である。~~つまり、野蛮民族 間における商業を可能にするところの物々交換の名残りである。しかし、それは一部は人為的発行の機械的防止とし て、また一部は外国との交易の手段として、なお必要である。文明の向上と政府の信用程度の増加に正比例して、そ れはやむであろう。それが存続する限りにおいては、通貨として用いられる材料の費用と価格の諸現象は、ほとんど 救済できない状態にまで、通貨それ自身《固有》の現象と混同されている。そして、〈市場における貨幣の値打ち〉 《地金の市場での値打ち》は、幾多の偶発的事情によって影響される。そのことは、商業作用についての著述家によ って、多少成功裡に研究されている。このような事情はいろいろと変化があるので、〈退き潮水〉《流れ水》を入れよ うとして砂に指で池穴を掘る子供らの叫び声や騒々しさと、大西洋の潮を避けるための避難港を築く技師がなんのか かわりあいがないのと同様に、真の経済学者もかかわりあいがないのである。

(注一) つねに、かつ必然的に、不完全な表徴ではあるが、もし、正しく調整されるならば、ほぼ正確に近いものを保持できる ものである。



参考:
貨幣に関する歴史実証の視点 ―貨幣博物館リニューアルによせて― 鎮目雅人(しずめまさと)

《…さらに進んで、貨幣の起源を当事者間の債権債務関係に求め、信用こそが貨幣の起源であるとする論者(ラスキン、イネス等)もある。本稿では、貨幣の起源についてのこうした説明を「信用貨幣起源説」と呼ぶことにする。例えば、美術評論家であるとともに社会・経済・政治問題についても幅広く論陣を張った
ジョン・ラスキン(1819-1900 年)は、
「貨幣は、いわば財産の権利証書(title-deed of  an  estate)であり、仮にそれが失われても財産自体がなくなるわけではなく、その財産権の所在が問題となるに過ぎない」
と述べている。 

Money is, therefore, correspondent in its nature to the title-deed of an estate. Though the deed be burned, the estate still exists, but the right to it has become disputable.

Munera Pulveris [1862→1870=1981]  #1:21

歴史学者・法学者ミッチェル・イネス(1864-1950 年)は、アダム・スミスを批判的に引用しつつこの点をより明示的に論じ、歴史的にみると、初期の貨幣は商品貨幣としてではなく、むしろ取引当事者間の債権債務関係(信用)の標章物から発生したとの見方を示した。 》


歴史からみた現代貨幣理論の適用可能性:日本の事例を中心に(未定稿)*
2020 年 1 月 早稲田大学 鎮目 雅人

ラスキン(1981、原書の初版は1862年)、Innes(1913)。鎮目しずめ(2017)も参照。 

ラスキン『ムネラ・プルウェリス』の序の訳
 ラスキン『ムネラ・プルウェリス』(1872年)の「序」を訳した。 
  翻訳の出版を提案するためであった。
 が、その提案をする前に、プルードンの翻訳の「話」が来た。 
それでラスキンの翻訳はやめた。  
ただ、「序」だけでも読みたい人はいると思われるので ここにPDF文書として掲載したい。  ちなみに「ムネラ・プルウェリス」という書名について一言。  
 Munera pulveris はラテン語で「一握の砂の贈り物」の意である。 
墓にかける「手向けの砂」のことだ。 
さらにその意味となると、解釈がわかれる。
  もともとはホラティウスの『歌集』(1の28)からの引用。 
その詩の現代語訳は、英語でも日本語でも 訳者によって実に多様。(解釈のむずかしさは定評があるみたい)  ギリシャの哲学者・軍人・政治家であるアルキタスが 海で難破して死んだことをうたう。 埋葬しないと死体は冥界をさまようことになっている。
 せめて一握の砂をかけて埋葬の形にしてあげよう。 
現代語訳のひとつによれば、通りかかった水夫が砂をかける。 
別の訳では、アルキタスの塚の近くに打ち上げられた水夫の死体に 誰か砂をかけてあげましょう、という話になっている。 私(斉藤)は前者が正解だろうと思う。  
では、砂をかける意味は何か? ある人は、物質的な豊かさに「質素」で対抗する意味だという。 
私は、政治経済学を葬る、という意味だろうと思う。 
2012.07.01 斉藤悦則  

序のみ



In John Ruskin: Cultural criticism

Unto This Last and Munera Pulveris(1862 and 1872 as books, though published in magazines in 1860 and 1862–63) are attacks on the classical economics of Adam Smith and John Stuart Mill. Neither book makes any significant technical contribution to the study of economics (though Ruskin thought otherwise); both…

砂の贈り物、贈与論ということか?
トルストイの何によって生きるか、人にはたくさんの土地がいるか、という問いに近いかも。



Horace's Archytas ode has provoked considerable disquiet. ... cohibent, Archyta, pulveris exigui prope litus parva Matinum munera". (lines 1-4).


ラテン語徒然 ホラーティウス『歌集』1巻28歌1-20 (1/2)
http://litterae.blog8.fc2.com/blog-entry-1106.html

ラテン語徒然 ホラーティウス『歌集』1巻28歌1-20 (1/2)


海と大地と数しれぬ砂の
 測り手たるお前アルキュータース*1を被っているのは
マティーヌムの海岸*2の近くでの僅かな塵の
 捧げもの*3に過ぎぬ,そしてお前には何一つ役に立たなかった,

Te maris et terrae numeroque carentis harenae
 mensorem cohibent, Archyta,
pulveris exigui prope litus parva Matinum
 munera, nec quidquam tibi prodest

天上の館を探求したことも,死すべき者の心にて,
 回転する天球を走査したことも.
ペロプスの父も死に,神々との宴の同席者,
 遠く離れた空に住まうティートーノスも,

ユッピテルの秘儀にも許されたミーノースも死んだ,そして
 タルタロスは再び冥府に下されたパントオスの子*4
持っている,彼が盾を外して
 トローヤでの戦の時を証言した彼は,

腱と皮膚以外は黒き死には譲りはしなかったにもかかわらず.
 お前の判断では,彼は自然学と真実の決して卑しからぬ
権威であるのだが.だが,全ての者を唯一つの夜が待ち受けており,
 冥府への途は一度は踏まれねばならぬ.

復讐女神らは,ある者らをおぞましきマールスの見せ物とし,
 水夫らには貪欲な海が命取りとなる.
老いも若きも混じり合い,葬送は混み合っている.いかなる者の
 命も,容赦なきプロセルピーナ*5は逃しはせぬ.


*1 前4世紀のピュータゴラース学派の数学者.(Stanford Encyclopedia of Philosophyの記事http://plato.stanford.edu/entries/archytas/)
*2 アプリアの北部のガルガヌム岬の近くの海岸の町.
*3 海難で命を落として遺体の見つからなかった者には,一握りの砂を海に捧げて埋葬の代りとする習慣であった.
*4 エウポルボス.ピュータゴラースは自分はこの人物の生まれ変わりと主張して,アルゴスの神殿でたくさんの盾から一つの盾を取り,それの裏の銘によって生まれ変わりを証言した.
*5 冥界の王プルートーンの妻.



『政治経済要義論――塵のたまもの』 
Munera Pulveris [1862→1870=1981]  『ラスキン政治経済論集』宇井丑之助訳、史泉房、所収 

ジョン・ラスキン「政治経済要義論―塵のたまもの―」宇井丑之助訳『ラスキン政治経済論
集』史泉房、1981 年

わらしべ長者

作者不詳『今昔物語集』三、岩波書店(新 日本古典文学大系)、1993年、542-547頁 

鎮目雅人「貨幣に関する歴史実証の視点:貨幣博物館リニューアルによせて」日本銀行金融研究所貨幣博物館『常設展示リニューアルの記録』、2017年(https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/kinken/2019年12月27日アクセス) 鎮目雅人(2019)「紙幣統合への道程:明治初年の『銀行論争』再考」WINPECワーキング・ペーパー、No.J1903 



イネス Alfred Mitchell-Innes (1864 – 1950)

ムネラ・プルウェリス : 政治経済要義論

ジョン・ラスキン 著,木村正身 訳


https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1707999

1958


  • 目次/15p
  • 訳者まえがき/3p
  • 例言/11p
  • 序(一八七二年)/3p
  • 第一章 諸定義/32p
  • 第二章 蓄本の管理/56p
  • 第三章 貨幣の管理/105p
  • 第四章 商業/148p
  • 第五章 統治/179p
  • 第六章 主宰/234p
  • 附記(第一-第六)/268p
  • 解説/287p
  • 索引/1p
  • ラスキン略年譜/10p
  • 参考文献抄/26p
  • 「フレイザァズ・マガジン」誌掲載原文目次/16p
  • 第一論 生の維持。富、貨幣および富裕。/32p
  • 第二論 富および労働の性質。蓄本の管理と通貨。/56p
  • 第三論 労働と交易。欲望の疾病。/105p
  • 第四論 法律と統治。労働と富裕。/179p

    http://shark.lib.kagawa-u.ac.jp/kuir/file/4157/20190528143431/AN00038259_22_4_29.pdf





2




~5
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 23
 : 4
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 195103
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 65 件 ダウンロード数 : 69 件
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 23
 : 2
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 195008
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 71 件 ダウンロード数 : 74 件
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 23
 : 3
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 195011
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 68 件 ダウンロード数 : 79 件
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 23
 : 1
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 195006
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 98 件 ダウンロード数 : 137 件
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 30
 : 4
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 195711
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 55 件 ダウンロード数 : 72 件
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 22
 : 2-3
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 194911
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 64 件 ダウンロード数 : 128 件
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 55
 : 1
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 198206
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 161 件 ダウンロード数 : 487 件
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 28
 : 1
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 195505
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 51 件 ダウンロード数 : 90 件
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 22
 : 4
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 195003
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 327 件 ダウンロード数 : 208 件
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 24
 : 4
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 195202
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 70 件 ダウンロード数 : 76 件
著者 : 木村 正身 Kimura Masami
掲載誌 : 香川大学経済論叢
 : 26
 : 2
出版者 : 香川大学経済研究所
出版年月日 : 195306
資料タイプ : 紀要論文
アクセス数 : 77 件 ダウンロード数 : 118 件


21. II.—Money. Under this head, we shall have to examine the laws of currency and exchange; of which I will note here the first separate principles. 

Money has been inaccurately spoken of as merely a means of exchange. But it is far more than this. It is a documentary expression of legal claim. It is not wealth, but a documentary claim to wealth, being the sign of the relative quantities of it, or of the labour producing it, to which, at a given time, persons, or societies, are entitled. 

If all the money in the world, notes and gold, were destroyed in an instant, it would leave the world neither richer nor poorer than it was. But it would leave the individual inhabitants of it in different relations. 

Money is, therefore, correspondent in its nature to the title-deed of an estate. Though the deed be burned, the estate still exists, but the right to it has become disputable.


https://en.wikisource.org/wiki/Page%3AMunera_pulveris.djvu/56


橋本努レジュメ

『政治経済要義論――塵のたまもの』 
Munera Pulveris [1862→1870=1981]  『ラスキン政治経済論集』宇井丑之助訳、史泉房、所収 
■  経済学の目的 ・「…蓄積の賢愚は、…すべての経済の目的、すなわち、生命の伸長のために使用されたか否かによってのみ決定できる」(286)。 ・「経済学の目的は、生命のみならず、健全にして、幸福なる生命の持続にある」(287)。 ・「その人の品性が、一代二代と子孫に伝えられるならば、完全なる人種の区別が、そこに生ずる。道徳的ならびに肉体的特質は、教育によって、進歩発展させられる以上、子孫によって伝智されるものである。」(287-288) ・「われわれは経済学の目的を『最高水準における、人生の増殖』であると、さらに定義しなければならない。」(288)「美と知性の優れた最高の形態の少数の人」=「最も高尚なタイプの人」を決定する。→「そうしたクラスのできるだけ大多数の人々だけを支持することを目的とすれば、次のクラスに属する健全な大多数の人々もまた、必然的に出現してくるにちがいない。」(288) 
■  価値と富 ・【価値(=効用)】:「生命を維持するための物の力」。「物の生命賦与力」。(293) ・価値においては、「固有価値」と「有効価値」の二つが重なっている。 ・「固有価値」とは、生命支持に対する物の絶対的な力である。 ・「有効価値の生産には、常に、二つのものを必要とする。第一に、本質的に有用な物の生産であり、つぎには、それを用いうる能力の生産である。固有価値と受容能力が、共に相会する場合には、『有効価値』、すなわち富が存在する。固有価値も、受容能力がないところには、有効価値はない。言いかえれば、富は存在しないのである。馬はわれわれが乗ることができなければ、われわれにとって富ではないし、われわれが視ることができなければ、絵もまた富ではありえないし、いかに高貴な物があっても、高潔な人格以外のものには、富とはならない。」(294) ・「一国の財産の総量と通貨の力はともに、富の所有者の品性と数とに従って、刻々に変化するのである。そればかりでなく、種類を異にした富の所有者の品性によって、比率および態様を異にした変化が起こってくる。」(312) 
■  労働の否定 ・「わたくしは既に、労働とは人間の生命とその反対物との『闘争』であると定義した。文字通りにいうならば、それはなんらかの努力によって引き起こされる人間生命の『喪失』すなわち、損失または、失敗の量である。それは常に、努力そのもの、または、力の適用(つまり仕事[opera:  オペラの原義は仕事])と混同される。けれども、努力にはレクリエーション、あるいは、快楽の形にすぎないものがたくさんある。人体の最も美しい、いろいろな行為と人智の最高の諸成果は、まったく、非労働的、否、気晴らし的な努力の状態または成果なのである。けれども、労働は努力するのに苦痛がともなうものである。それは否定的な量であり、または敗北の量でもあって、それはめざましい働きに反するものとして計算されなければならない…。一言で尽くせば、それは『われわれがその中に死んで行く労苦の量』である。」(324) 
■  カリス(めぐみ)による統治 ・取引においては、「忠実」でなければならない。利潤ではなく、たんなる「報酬」を求めるのでなければならない。(372) ・「高利に対する最終的抑止案は、結局国民性を根本的に浄化するということでなければならない。」(373) ・「真の商業には『利潤』というものがないように、真の商業には『販売』というものがない。販売という観念は、めいめいお互いに他方をだしぬこうと努力する敵同士の相互交易のそれなのだが、商業とは友人間の交換であって、正しい交換が唯一の願望である点は、ちょうど同一家族の成員間の場合と同じなのである。」(374-375) ・「[『ヴェニスの商人』で教えられる]この道徳律は、『賃金』  “merces=wages”の法則と性質のかわりに、それよりさらに大なる慈悲(マーシー:mercy)の法則と性質が宣言されるのだが、この慈悲はなんら拘束を受けず、慈雨のように降り注いで、与えるものも、受けるものも、ともに祝福するのである。そしてこの『マーシー』とは普通の場合の『あわれみの心』 “misericordia (miserere =  pity(v) +  cor =  heart)”  という意味ではなくして、『感謝(gratitude)』によって報いられるあの大いなる神の『めぐみ(gratia)』を意味していることを注意していただきたい。」(375-376) ・「『メルケス』すなわち報酬によって答えられるばかりでなく、『メルシ』すなわち感謝をもって答えられるもの」→「これこそ実に、あの『めぐみとあわれみと平安』の大いなる祝福の意味である。」(376) ・「『恵み(カリス)』は、一方においては、『愛(カリタス)』となるのにともなって、他方では、それにもまさって、charaすなわち『歓喜(joy)』ともなる。あるいは、むしろ、これこそまさに慈愛の母の乳ともなり、母がいつくしむ幼児の美にほかならないのである。なんとなれば、神はけっして苦痛や争いごとから永続的『愛』やその他のよきものをもたらさなくて、歓喜と調和からこれをもたらし給うものだからである。」(379) ・「『恵み』が行動の『自由』へと移行するので、『恵み』は『自由(Eleutheria)』すなわち『自在』となるのである。この自由の形態は、近代語における『自由』として理解されているものとは、まったく奇妙に、しかもはなはだしく異なったものであって、実際は、むしろ若干の人々が隷属と呼んでいるものにずっとよく似ているのである。というのは、ギリシャ人はつねに自由をもって、第一に自らの官能の法則…からの解放なりと理解したもので、これこそ完全な自由――《セイレーン*から安全であるというだけでなく、帆柱に縛られるということもなく》また、官能に抵抗する必要もなく、かえって官能をして己におもねらせ、従属させるという意味で完全なのである。」(380) ・[注]【セイレーン(Seiren)】:「ギリシア神話においては、上半身が人間の女性で、下半身が鳥の姿をしているとされている海の怪物。」「海の航路上の岩礁から美しい歌声で航行中の人を惑わし、遭難や難破に遭わせる。歌声に魅惑されて殺された船人たちの死体は、島に山をなしたという。」「ホメーロスの『オデュッセイア』に登場する。オデュッセウスの帰路の際、彼は歌を聞いて楽しみたいと思い、船員には蝋で耳栓をさせ、自身をマストに縛り付け決して解かないよう船員に命じた。歌が聞こえると、オデュッセウスはセイレーンのもとへ行こうと暴れたが、船員はますます強く彼を縛った。船が遠ざかり歌が聞こえなくなると、落ち着いたオデュッセウスは初めて船員に耳栓を外すよう命じた。」(Wikipediaより) ・「そして、いかなる人間でも、どんな国民経済の組織においても、真実の役割を果たすように、他人を支配することができるのは、ただかかる度量の寛(ひろ)さがある場合にかぎられる。そしてまた、一方においてはこの「自由(Eleutheria)」すなわち仁愛という型、他方においては、これとまったく反対の「隷属(Douleia)」すなわち強い悪意という型以外に上流と下流の永劫不変の階級的区別はない。以上二種類の人間階層の分離と上流階級による下層階級の確固たる支配は、その《真実》の自由人と「軽蔑すべき俗衆  “maliguum spernere vulgus”  とを識別する能力である。」(380) ・「それゆえ、『恵み(カリス)』のこの形の研究は、われわれを統治一般の諸原理の論議、殊に、富者による貧者統治の原理の議論にまで導くのであって、われわれは、どのようにして『偉大さ』と結合した『恵み深さ』、あるいは『威厳(マジェスタス)』と結合した『愛』というものが、どのようにして、『王』のあらゆる形相にともなった、真実な『神の恵み(デイ・クラティア)による』権利、すなわち『神権(divine right)』となるのかということを発見することである。」(381-382) 
■  賢者による統治 ・「…すべての形態の政府も、それがつぎの一つの根本的な政策要求――すなわち、その人数の多寡を問わず、賢明で親切な人々が、賢明でなく、不親切な人々を治めるべきであるということ――を達成するかぎり、公正にして良いものだし、またこれを達成できないか、あるいはこれに逆行するかぎりにおいては悪いものなのである。」(403) ・「…自分自身がより賢明になってゆくことを立証されるにつれて、いっそう大きな発言権をもつべきである。二十歳で一票の投票権をもつとすれば、三十歳では二票、四十歳では四票、五十歳では十票をもつべきである。」(407) ・「隷従というものはそれ自身悪でもなんでもなく、ただ、それが乱用される場合に限って悪となるにすぎないだろう。」(408) ・「人を泥棒になるまで怠惰のままに放っておいて、後になってから鞭打つよりは、かれを仕事に向けて鞭打つほうが一層よく、また一層親切である。すべての人類にとって、緊要なことは、正しい行ないをさせるように仕向けることである。そうさせる方法は――楽しい希望によってか、あるいは逼迫した要求によってか、感動させるような演説か、それとも鞭によって行なうかは、比較的重要なことではない。」(409) ・【支配する富者と服従する貧者の関係】:「賢明にして先見の明のある人は一生懸命働き、少ししか消費しないで、貯蓄ができる。思慮のない人物は、少ししか働かないで、かれの生産したものはみんな消費してしまい、少ししか蓄えができない。」(418)→「後者[貧者]は思慮深い人に急所を握られて、自由に操られることになる。(419)→「隣人たちを怠けさせたまま扶養することは、かれの破滅ばかりでなく、隣人たちの破滅でもある。かれは隣人たちを扶養するかわりに、その代償として、かれらに仕事を要求するだろう。それが親切であろうと、冷酷であろうと、隣人たちが与えることのできるすべての仕事を要求するだろう。…この選択にあたってかれの知恵次第によって、かれの主人たる価値があるかないかがきまる。」(422) ・「一部の地方では、不健康な土地、悲惨な住居および半ば飢餓に瀕した貧乏人が見られるが、他の地方には、よく整理された地所、扶養よろしきをえた召使、それに高度に教育され、

奢侈的な生活をしている上品な生活状態が、みられることになるであろう。」(424) ・「裕福」とは、「奴隷の主人」となることを意味する。(424) ・【貧者を雇うのに考慮されるべき三つの事柄】:「かれに職を与えるだけでは、充分ではない。まず第一に、諸君はかれを有用なものを生産するために雇うのでなくてはならない。第二には、かれがひとしくうまく生産できる数個の物…のうちで、諸君がかれを最も健康的な生活をおくることができるような物を作らせるのでなくてはならない。最後に、生産された物のうちで、どれだけ諸君自らがとりそしてどれだけを他人に残すべきかという知恵と良心の問題が残っている。…相当多量のものはつねに、いずれの時か譲渡のほうに振り向けなければならないものである。」(430)
 ■  賢明な生き方 ・【貧者として死ぬこと】:「賢明な生活の法則は、金銭の儲け手はまた同時に、その使い手でもあるべきで、かれが死ぬ前に、ほとんどすべてを消費すべきだということ、これなのである。それゆえに、経済家としての真の野心とは、所有の退潮を、生命の退潮に正しくおだやかに比例させながら、計算して、富者としてでなく、できるだけ貧者として死ぬということでなければならない。」(431) ・【自由時間の確保】:「…人は食べ物や自分の身体について節度を守ることは、義務と考えるが、自分の財産や精神について節度を守ることは少しも義務とは考えない…。かれは自分の青春や肉体をぜいたくのために浪費してはならないことは、わきまえているが、しかし自分の老後と自分の魂を金銭のために浪費して、しかも自分は間違っていないと考え、知性のアル中患者的症状が疾病だとは知らないのである。けれども、人生の法則は、人間が日々食べたいと思う食べ物と同じように、年々儲けたいと願う金額を確定すべきであって、限度に達したらとどまって、事業の拡張を中止して、それを他人に任せ、そうしていっそうすぐれた思想を求めて、適当な自由時間を確保すべきである、ということである。」(432) 

以下には未収録か

新訳版 芸術経済論 ジョン・ラスキン(著/文) - 水曜社 | 版元ドットコム
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784880654737

新訳版 芸術経済論 ジョン・ラスキン(著/文) - 水曜社

新訳版 芸術経済論 ジョン・ラスキン(著/文) - 水曜社
.


新訳版 芸術経済論 与えられる歓びと、その市場価値

A5判
192ページ
価格 2,500円+税
ISBN
978-4-88065-473-7   COPY

9784880654737   COPY

4-88065-473-6   COPY

4880654736   COPY

88065   COPY
Cコード

一般 単行本 社会
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2020年6月27日

紹介

ジョン・ラスキン(1819 ー1900)19 世紀イギリス・ヴィクトリア時代を代表する思想家、美術評論家。
当時イギリスでは産業革命の絶頂期を迎え、それに伴い新しい社会問題が生まれていた。工業化による公害、技術革新による失業者の急激な増加。功利主義を推し進めた結果、生まれたものは環境破壊と貧富の差、人間性の欠落であった。

ラスキンが教示するのは、芸術とは人間が労働の中に見出す喜びの表現だということである。だが、労働は分断された。人間は単なる切れ端に分けられた。ラスキン去って1世紀、その状況は今日も変わらない。美がいま一度、実り多き労働の自然でかつ不可欠の随伴物となるために、国家と国民はなにをなすべきか。

全ての生産活動と社会活動に人間性を取り戻すヒントとなる名著を新訳で刊行。

目次

序 芸術による労働の聖化

新訳版の発刊にあたって
再版のまえがき
初版の訳者まえがき
凡例

序文
第一講 芸術の発見と適用
発見
適用

第二講 芸術の蓄積と分配
蓄積
分配

補遺
一、父権
二、公的扶助を受ける権利
三、能力訓練学校
四、社会の嗜好
五、新需要の創出
六、文学の経済論
七、国家の水先案内人
八、絹と紫

著者プロフィール

ジョン・ラスキン  (ジョン・ラスキン)  (著/文

ジョン・ラスキン John Ruskin(1819―1900)
十九世紀のイギリスを代表する評論家・美術批評家。ロンドンの富裕な商人の家に生まれヨーロッパ各地の風景や優れた美術、建築に接して育った。オックスフォード大学を卒業、のちに同大教授。二十四歳でターナーの作品を弁護する『近代画家論』五巻を発表、一躍注目を浴びる。自身も製図を手がけ水彩画を描き、ラファエル前派運動のパトロンでもあった。偉大な建築は国民の宗教性、美的感受性の高さを示すとし『建築の七燈』『ベネツィアの石』などでヨーロッパ建築を調査、その基礎を支える労働者の生活に目を転じ、実践的立場から社会、経済、政治の改革論を発表した。『芸術経済論』はラスキン三十八歳の発表で『ムネラ・プルヴェリス』『この最後の者にも』とともに経済三部作をなす記念的著作。

宇井 丑之助  (ウイ ウシノスケ)  (

宇井丑之助(うい・うしのすけ)
早稲田大学商学部卒業。紐育スタンダード石油会社、石油配給公団を経て、石油荷役㈱取締役総務部長、東京都石油業協同組合副理事長、ペガサス・オイル㈱社長他を歴任。ラスキン・アソシェーション会員、東京ラスキン協会評議員。著書に『ジョン・ラスキンの人と思想』『夢みる石油人記』『芭蕉に学ぶ』『ラスキン政治経済論集』など多数。

宇井 邦夫  (ウイ クニオ)  (

早稲田大学理工学部応用化学科卒業。日本石油㈱、東邦工業㈱、理研香料工業㈱にて品質管理・開発研究に従事。東京ラスキン協会会員。著書に『すぐに役立つQCサークルのすすめ』『志賀重昴・人と足跡』など多数。

仙道 弘生  (センドウ コウセイ)  (

編集者。主著に『日本をつくった女たち』『DNPスピリット』など。

上記内容は本書刊行時のものです。

ジョン・ラスキン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョン・ラスキン

ジョン・ラスキン(John Ruskin, 1819年2月8日 - 1900年1月20日)は、19世紀イギリスヴィクトリア時代を代表する評論家美術評論家である。同時に芸術家パトロンであり、設計製図水彩画をこなし、社会思想家であり、篤志家であった。ターナーやラファエル前派と交友を持ち、『近代画家論』を著した。また、中世ゴシック美術を賛美する『建築の七燈』『ヴェニスの石』などを執筆した。

目次

  • 1 経歴
  • 2 水彩
  • 3 著作
    • 3.1 主な訳書
      • 3.1.1 戦前の刊行版
  • 4 ラスキンを扱った文献
  • 5 その他・文芸作品
  • 6 影響
  • 7 関連項目
  • 8 外部リンク

経歴

富裕な葡萄酒商人の一人っ子としてロンドンに生まれ育った。両親はいとこ同士であり、母親の実家は宿付きの居酒屋を経営していた。母親が非常に熱心な福音派の信者であったため、幼いころから聖書の暗記を命じられるなど、学校には行かずに両親と家庭教師によって宗教色の強い教育を受けた。そのため、友人もなく、子供らしい遊びもしなかったが、家族でヨーロッパをしばしば旅したことで、自然に親しみ、動植物や風景を観察し、スケッチする習慣を身に付けた。

オックスフォード大学クライストチャーチ校に高額授業料納入特別学生として進学するが、大学になじめず病気を繰り返した。家族の結びつきは入学後も強く、母親は大学のすぐ近くに仮住まいし、週末には父親も合流するような過保護な生活だったが、詩作に才能を発揮し、在学中に詩の賞を受賞している。ターナーとの交流からその芸術を擁護するエッセイを執筆、批評活動へ入る。上昇志向の強かった両親はラスキンが聖職者か桂冠詩人になることを望んでいたが、ターナー作品をコレクションしたり、ターナーやさまざまな画家を自宅に招くなどしてラスキンの活動を支援している。代表作の『近代画家論』のために、家族で何度もヨーロッパへ取材旅行にも出かけている。

1848年にエフィー・グレイ(Effie Gray, 1828年 - 1897年)と結婚する。ラスキンは精神的・経済的スポンサーとしてラファエル前派の画家たちを支援しており、その一人、ジョン・エヴァレット・ミレーと1853年にスコットランドを旅した際、妻エフィーとミレーが恋仲になってしまう。エフィは、夫の身体的理由によって実際の夫婦生活は無かったとして離婚を申し立て、1854年に離婚に至った。エフィーは離婚後すぐにミレーと再婚し、8人の子をもうけたほか、複数の絵画のモデルになっている。

最初はロンドンの労働者専門学校で教鞭をとったが、オックスフォード大学の教授職(1869年 - 1879年)に転ずる。オックスフォードではルイス・キャロルと親しくなり、キャロルによって写真を撮影されている。『不思議の国のアリス』のモデルであるアリス・リデルの美術の家庭教師もしていた。オックスフォードのラスキン・カレッジは彼の名にちなんでいる。父の死後、財産の相続を受けたが、社会主義者としての信条からその多くを投げ打って複数の慈善事業を行った。

ラスキンは1858年から、ある裕福なアイルランド人家庭の子供たちに美術を教えていたが、その中のひとり、9歳のローズ(Rose La Touche)に魅了される。ローズが18歳まで家庭教師を続けたが、彼女が16歳になると、何度も結婚を申し込んだ。しかし、宗教が違うことを理由に断られる。1875年にローズが27歳で急死したことが伝えられると、ラスキンは精神的に強いダメージを受け、しばしば発作に見舞われるようになった。亡くなったローズと会話するために、スピリチュアリズムの研究も始めた。

1878年、ホイッスラーの作品を酷評したことが原因で名誉棄損でホイッスラーから訴えられ、法廷闘争に巻き込まれる。ラスキンは敗北したものの、精神的な病からのものとして、賠償金はわずか1ファージング(4分の1ペニー)だった。ただし、この敗北によってラスキンは名を落とし、さらには精神活動の低下をうながした可能性もある。晩年は湖水地方の湖岸のブラントウッドに居宅を構え、定期的な文化講義を行なったり、文化財保護運動、ナショナル・トラストの創設などに関わった。

ラスキンの美術に関する考えは、一言で言えば「自然をありのままに再現すべきだ」ということであった。この思想の根幹には、神の創造物である自然に完全さを見出すという信仰があった。

また、ターナーの描いた裸婦画を「イメージを壊す」という理由で全て焼却処分してしまっている。

水彩

ラスキンには「水彩、最も美しい芸術」との言葉もあり、水彩画の作品を残している。水彩をこよなく愛していたことをうかがわせる。

著作

  • 近代画家論 (Modern painters1843-60年 )
  • 建築の七灯The seven lamps of architecture1849年)
  • 黄金の河の王様(The King of the Golden River1850年)
  • ヴェネツィアの石 (The stones of Venice1851-53年)
  • 芸術経済論 (A political economy of art1857年)
  • この最後の者に (Unto This Last1862年)
  • 胡麻と百合 (Sesame and lilies1864もしくは1865年)
  • 塵の倫理(The Ethics of the Dust1866年)
  • 野にさく橄欖の冠(The Crown of Wild Olive1866年)
  • 時と潮(Time and Tide1867年)
  • 空の女皇(The Queen of the Air1869年)
  • 建築の詩美(The Poetry of Architecture、1893年)

主な訳書

  • 『ゴシックの本質』(川端康雄訳、みすず書房、2011年)
  • 『ヴェネツィアの石』(井上義夫編訳、みすず書房、2019年)
  • 『この最後の者にも ごまとゆり』(中央公論新社中公クラシックス〉、2008年)、解説富士川義之
  • 『プルースト=ラスキン「胡麻と百合」』(吉田城訳・解説、筑摩書房、1990年)
    マルセル・プルーストによる仏語訳版での訳注・解説。
  • 『建築の七燈』(杉山真紀子訳、鹿島出版会、1997年)
  • 『芸術経済論 永遠の歓び』(宇井丑之助・宇井邦夫訳、巌松堂出版、1998年)- 2編の講演録
    • 新訳版『芸術経済論 与えられる歓びと、その市場価値』(宇井丑之助・宇井邦夫・仙道弘生訳、水曜社、2020年)
  • 『アミアンの聖書』(高橋昭子・芳野宣子・竹中隆一訳、ぱる出版、1997年)
  • 『ヴェネツィアの石』(福田晴虔訳、中央公論美術出版、1994-1996年) 
    全3巻:1.「基礎」篇、2.「海上階」篇、3.「凋落」篇 
  • 『風景の思想とモラル 近代画家論 風景編』(内藤史朗訳、法蔵館、2002年)
  • 『芸術の真実と教育 構想力の芸術思想 近代画家論 原理編』(全2巻、内藤史朗訳、法蔵館、2003年) 
  • 『ヴェネツィアの石 建築・装飾とゴシック精神』(内藤史朗訳、法蔵館、2006年)
  • 『続 ヴェネツィアの石 ルネサンスとグロテスク精神』(内藤史朗訳、法藏館、2017年)

戦前の刊行版

  • 『黄金河の探検』(秋元正四訳注、博文館、1910年)
  • 『美術と文学』(澤村寅二郎訳、有朋堂書店、1914年)
  • 『芸術経済論 永遠の歓喜とその市場価格』(西本正美訳、岩波文庫、1927年、復刊1987年ほか)
    • (『永久の歓び』、栗原元吉(古城)訳、玄黄社、1917年)
    • (『経済的美術観』、御木本隆三訳、厚生閣、1922年)
  • 『時と潮』(栗原元吉(古城)訳、玄黄社、1918年)
  • 『胡麻と百合』(栗原元吉(古城)訳、玄黄社、1918年、1926年)
    • (本間立也訳、春秋社、1935年)
    • 石田憲次・照山正順訳、岩波文庫、1935年、復刊1987年ほか)
  • 『この後の者にも 経済の第一原理に就いて』(西本正美訳、岩波文庫、1928年、復刊1987年ほか)
    • (『此の後至者にも 経済学の第一原理に関する論文四編』、石田憲次訳、弘文堂、1918年、訂正版-1921年)
    • (『此の最後の者にも』、石田憲次訳、弘文堂書房、1924年)
    • (『この最後の者にも 其他』川津孝四訳注、春陽堂、1931年)
  • 『塵の倫理』(小林一郎訳、玄黄社、1918年)
  • 『二ツの道』(小林一郎訳、玄黄社、1925年)
  • 『鷺の巣』(小林一郎訳、玄黄社、1925年)
  • 『建築の七燈』(高橋松川訳、岩波文庫、1930年、復刊1991年・1997年ほか)
  • 『野にさく橄欖の冠』(御木本隆三訳、日本ラスキン協会、1931年)、協会版は多数刊
  • 『空の女皇』(御木本隆三訳、東京ラスキン協会、1932年)、復刻・ゆまに書房、2005年
    • 復刻版、ゆまに書房〈神話学名著選集14〉、2005年
  • 『ヴェニスの石』(賀川豊彦訳、春秋社、1931年)
  • 『思ひ出の記』(御木本隆三訳、使命社、1932年)
  • 『近世画家論』(全4巻、御木本隆三訳、春秋社・世界大思想全集、1932-1933年)
  • 『建築の詩美』(御木本隆三訳、使命社、1936年)

ラスキンを扱った文献

  • 大熊信行『社会思想家としてのラスキンとモリス』論創社、2004年
  • 白石博三『ラスキンとモリスとの建築論的研究』中央公論美術出版、1993年
  • 伊藤邦武『経済学の哲学 19世紀経済思想とラスキン』中公新書、2011年
  • ジョージ・P・ランドウ 『ラスキン 眼差しの哲学者』横山千晶訳、日本経済評論社、2010年
  • アンドレ・エラール 『ジョン・ラスキンと地の大聖堂』秋山康男・大社貞子訳、慶應義塾大学出版会、2010年
  • クエンティン・ベル『ラスキン』出淵敬子訳、晶文社、1989年

その他・文芸作品

  • エア提督が植民地での反乱を弾圧したジャマイカ事件(1865年)の際には、エア擁護委員会に加わった。
  • ミッシェル・ロヴリック/ミンマ・バーリア『ヴェネツィアの薔薇・ラスキンの愛の物語』富士川義之訳、集英社、2002年
原書は2000年に出版。"Ruskin's Rose: A Venetian Love Story" 。少女ローズへのラスキンの愛の言葉の断片を集め、ロマンチックなストーリーに仕立てた(ローズに当てた実際の手紙は彼女の家族によって焼却されている)。

影響

ラスキンはヴィクトリア朝からエドワード朝にかけ、社会に美術批評の枠を超えた大きな影響力を持った。ラファエル前派ウィリアム・モリスらの芸術観もラスキンの影響を抜きには語れない。

  • レフ・トルストイは、ラスキンを「自身の心で考える稀有の人物の一人」と評した。
  • 夏目漱石は『文学論』でラスキンの美学を紹介している。
  • 真珠王御木本幸吉の一人息子隆三は、旧制一高時代にラスキンの著作に出会い、オックスフォード大学留学、研究収集に情熱を注ぎ、銀座に「ラスキン文庫」を開設した。
  • マルセル・プルーストはラスキンに傾倒しており文体も影響を受け、著作のフランス語訳を行った(上記の訳書も参照)。
    『プルースト全集14 ラスキン論集成 ほか』(筑摩書房、1986年)に詳しい
  • ガンディーもラスキンの著作に影響を受けたという。
  • ラスキンと妻だったエフィーと画家ミレーの三角関係は、大スキャンダルとなった。今日でもイギリスで多くの映画やテレビドラマの素材になっている。訳書に、スザンヌ・フェイジェンス・クーパー『エフィー・グレイ ラスキン、ミレイと生きた情熱の日々』(安達まみ訳、岩波書店、2015年)

関連項目

ウィキメディア・コモンズには、ジョン・ラスキンに関連するメディアがあります。

外部リンク

2 件のコメント:



  1. 『政治経済要義論――塵のたまもの』
    Munera Pulveris [1862→1870=1981] 『ラスキン政治経済論集』宇井丑之助訳、史泉房、所収

    邦訳

    1981
    299~301頁

      第二節 貨幣

    二一、この項目の下においては、われわれは通貨と交換の法則を研究しなければならない。それについて、第一の
    〈独立した〉原則をここに記しておく。
     貨幣とは、いままで単なる〈流通〉《交換》の一手段であると、不正確にも論述されてきた。〈それとは反対に、貨
    幣は権利の表現である〉《けれども、貨幣はそれ以上のものである。》それは法的請求権を証書に表現したものである(注1)。
    富の量にたいする相対的な象徴であるから、それは富そのものではないが、それにたいし、ある一定時期において
    人や社会が受け取る権利のあるところの、それだけの富を生産する労働の象徴でもある。
     もし、世界におけるすべての貨幣が、紙幣、金貨もろともに、一瞬にして破減し尽されてしまったとしても、それ
    は世界を昔とくらべて富ませも貧しくもしないだろう。けれどら、世の中の個々の住民を、異なった関係に残すであ
    ろう。
     それゆえに、貨幣はその性質において、財産にたいする不動産構権利証書に相当するものである。たとえ、その証書
    が焼けてしまっても、財産は依然として残るが、それにたいする権利は誰に属するか、紛争の対象になるおそれがある。

    ニニ、貨幣の値打は、現存の貨幣の量がその代表している現存の富または、利用できる労働の量にたいする割合が、
    不変であるかぎり、不変のまま残っているものである。もし、富が増加しても、貨幣が増加しないならば、貨幣の値
    打は増加するものである。貨幣が増加しても、富が増加しないならば、貨幣の値打は減少する。

    二三、それゆえに、貨幣は不動産権利証書のように、人間が勝手気ままに、多くすることはできないものである。現

    存の富または、利用できる労働が、十分に、通貨によって、代表されていない限りは、その通貨はその個々に割り当
    てられた値打を減ずることなしに、増加されるかもしれない。けれども、現存する富または、利用可能な労働が、ひ
    とたび、十分に代表された場合には、流通に投じられたあらゆる貨幣は、新しい貨幣が既存のものと同一の信用を得
    られるものとすれば、所持する既存の貨幣に比例して、他の現存している貨幣の値打ちを低落させる。そうでなけれ
    ば、その信用の〈劣るの〉《程度》に応じて、値打の下落は〈もっぱら新貨幣に〉起こるものである。

    二四、けれども、推定上の固有価値を有するある物質(黄金のような)よりなる新貨幣が、市場に流通されるとき、
    または信用を得るのに値すると推測される新紙幣が発行される場合には、貨幣を獲得しようとする欲望は、ある事情
    の下においては、産業を刺激するものであって富の生産は直ちに増加する。そして、これが先に交付した新しい権利
    額に比例するものであるならば、現存の通貨の価値は下落しない。与えられた刺激が、増加された鋳貨量の割合以上
    に多く財貨が生産されるほど大ならば、現存の通貨の値打は騰貴するであろう。
     通貨の人為的統制と発行は、人々の希望と恐怖に作用して、富の生産に影響する。そして、ある事情の下にあって
    は、賢明なことである。しかし、直接の急場の費用に当てるために、通貨を追加発行することは、借金または課税の
    一種の擬形に過ぎない。
     しかし、このような通貨の真の発行作用が民衆に理解されず、またその発行の圧力が、不規則 に分配され、しか
    それが知らず知らずのうちに強められるという理由で、公債を慕集したり、課税を敢行することができない場合
    には、現在のような経済知識が乏しい状態下にあっては、政府があえて通貨の発行をすることは、しばしばありうる
    ことである。

    二五、〈最後に〉 通貨の材料として、固有価値のある物質を用いることは、野蛮行為 である。~~つまり、野蛮民族
    間における商業を可能にするところの物々交換の名残りである。しかし、それは一部は人為的発行の機械的防止とし
    て、また一部は外国との交易の手段として、なお必要である。文明の向上と政府の信用程度の増加に正比例して、そ
    れはやむであろう。それが存続する限りにおいては、通貨として用いられる材料の費用と価格の諸現象は、ほとんど
    救済できない状態にまで、通貨それ自身《固有》の現象と混同されている。そして、〈市場における貨幣の値打ち〉
    《地金の市場での値打ち》は、幾多の偶発的事情によって影響される。そのことは、商業作用についての著述家によ
    って、多少成功裡に研究されている。このような事情はいろいろと変化があるので、〈退き潮水〉《流れ水》を入れよ
    うとして砂に指で池穴を掘る子供らの叫び声や騒々しさと、大西洋の潮を避けるための避難港を築く技師がなんのか
    かわりあいがないのと同様に、真の経済学者もかかわりあいがないのである。

    (注一) つねに、かつ必然的に、不完全な表徴ではあるが、もし、正しく調整されるならば、ほぼ正確に近いものを保持できる
    ものである。

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  2. 『政治経済要義論――塵のたまもの』
    Munera Pulveris [1862→1870=1981] 『ラスキン政治経済論集』宇井丑之助訳、史泉房、所収

    邦訳

    1981
    299~301頁
    第一章 諸定義

      第二節 貨幣

    二一、この項目の下においては、われわれは通貨と交換の法則を研究しなければならない。それについて、第一の
    〈独立した〉原則をここに記しておく。
     貨幣とは、いままで単なる〈流通〉《交換》の一手段であると、不正確にも論述されてきた。〈それとは反対に、貨
    幣は権利の表現である〉《けれども、貨幣はそれ以上のものである。》それは法的請求権を証書に表現したものである(注1)。
    富の量にたいする相対的な象徴であるから、それは富そのものではないが、それにたいし、ある一定時期において
    人や社会が受け取る権利のあるところの、それだけの富を生産する労働の象徴でもある。
     もし、世界におけるすべての貨幣が、紙幣、金貨もろともに、一瞬にして破減し尽されてしまったとしても、それ
    は世界を昔とくらべて富ませも貧しくもしないだろう。けれどら、世の中の個々の住民を、異なった関係に残すであ
    ろう。
     それゆえに、貨幣はその性質において、財産にたいする不動産構権利証書に相当するものである。たとえ、その証書
    が焼けてしまっても、財産は依然として残るが、それにたいする権利は誰に属するか、紛争の対象になるおそれがある。

    ニニ、貨幣の値打は、現存の貨幣の量がその代表している現存の富または、利用できる労働の量にたいする割合が、
    不変であるかぎり、不変のまま残っているものである。もし、富が増加しても、貨幣が増加しないならば、貨幣の値
    打は増加するものである。貨幣が増加しても、富が増加しないならば、貨幣の値打は減少する。

    二三、それゆえに、貨幣は不動産権利証書のように、人間が勝手気ままに、多くすることはできないものである。現

    存の富または、利用できる労働が、十分に、通貨によって、代表されていない限りは、その通貨はその個々に割り当
    てられた値打を減ずることなしに、増加されるかもしれない。けれども、現存する富または、利用可能な労働が、ひ
    とたび、十分に代表された場合には、流通に投じられたあらゆる貨幣は、新しい貨幣が既存のものと同一の信用を得
    られるものとすれば、所持する既存の貨幣に比例して、他の現存している貨幣の値打ちを低落させる。そうでなけれ
    ば、その信用の〈劣るの〉《程度》に応じて、値打の下落は〈もっぱら新貨幣に〉起こるものである。

    二四、けれども、推定上の固有価値を有するある物質(黄金のような)よりなる新貨幣が、市場に流通されるとき、
    または信用を得るのに値すると推測される新紙幣が発行される場合には、貨幣を獲得しようとする欲望は、ある事情
    の下においては、産業を刺激するものであって富の生産は直ちに増加する。そして、これが先に交付した新しい権利
    額に比例するものであるならば、現存の通貨の価値は下落しない。与えられた刺激が、増加された鋳貨量の割合以上
    に多く財貨が生産されるほど大ならば、現存の通貨の値打は騰貴するであろう。
     通貨の人為的統制と発行は、人々の希望と恐怖に作用して、富の生産に影響する。そして、ある事情の下にあって
    は、賢明なことである。しかし、直接の急場の費用に当てるために、通貨を追加発行することは、借金または課税の
    一種の擬形に過ぎない。
     しかし、このような通貨の真の発行作用が民衆に理解されず、またその発行の圧力が、不規則 に分配され、しか
    それが知らず知らずのうちに強められるという理由で、公債を慕集したり、課税を敢行することができない場合
    には、現在のような経済知識が乏しい状態下にあっては、政府があえて通貨の発行をすることは、しばしばありうる
    ことである。

    二五、〈最後に〉 通貨の材料として、固有価値のある物質を用いることは、野蛮行為 である。~~つまり、野蛮民族
    間における商業を可能にするところの物々交換の名残りである。しかし、それは一部は人為的発行の機械的防止とし
    て、また一部は外国との交易の手段として、なお必要である。文明の向上と政府の信用程度の増加に正比例して、そ
    れはやむであろう。それが存続する限りにおいては、通貨として用いられる材料の費用と価格の諸現象は、ほとんど
    救済できない状態にまで、通貨それ自身《固有》の現象と混同されている。そして、〈市場における貨幣の値打ち〉
    《地金の市場での値打ち》は、幾多の偶発的事情によって影響される。そのことは、商業作用についての著述家によ
    って、多少成功裡に研究されている。このような事情はいろいろと変化があるので、〈退き潮水〉《流れ水》を入れよ
    うとして砂に指で池穴を掘る子供らの叫び声や騒々しさと、大西洋の潮を避けるための避難港を築く技師がなんのか
    かわりあいがないのと同様に、真の経済学者もかかわりあいがないのである。

    (注一) つねに、かつ必然的に、不完全な表徴ではあるが、もし、正しく調整されるならば、ほぼ正確に近いものを保持できる
    ものである。

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