2022年8月26日金曜日

歴史と均衡 ジョーン・ロビンソン Robinson,J. 'History Versus Equilibrium' 1974

 


 
 
David Stein
⁦‪@DavidpStein‬⁩
"The lack of a comprehensible treatment of historical time ...make the theoretical apparatus offered in neo-classical text-books useless for the analysis of contemporary problems both in the micro and macro spheres..." - Joan Robinson, absolutely brutal. pic.twitter.com/dCarjMAiRC
 
2022/08/25 7:52
 
 
Robinson,J.(1974)'History Versus Equilibrium',in Robinson(1980a),48-58.

Robinson,J.(1980a) Collected Economic Papers,vol.5, Oxford: BasilBlackwell.

#5 
The lack of a comprehensible treatment of historical time, and failure to specify the rules of the game in the type of economy under discussion, make the theoretical apparatus offered in neo-neoclassical text-books useless for the analysis of contemporary problems, both in the micro and macro spheres.

#5 
歴史的時間を理解しやすく扱っていないこと、また、議論されている経済のタイプにおけるゲームのルールを特定していないことから、新古典派教科書で提供されている理論装置は、ミクロ領域とマクロ領域の両方において、現代の問題の分析に役立たなくなっている。

ロビンソンの経済成長論 三谷

J.ロビンソンはその著『経済成長の理論にかんする諸試論』 (Essaysin the. TheoryofEconomicGrowth,1962) の「序文」において「本書のなかの諸試論は.


ロビンソンとマルクス

経済成長論


1) Joan Robinson, Essays in the Theory of Economic Growth, 1962. 山田克己訳『経済成長論』,昭和38年。

一「歴史的モデルにおいては因果関係が明記されなければならない。今日というものは未知の将来ととりかえしのつかない過去とのあいだの時間の切れめである。つぎにおこるところのものは経済内部におけるもろもろの人間の行動の相互作用から生ずるであろう。運動はただ前進あるのみである。」10)「現実の歴史に適用できるモデルは均衡からはなれることができなければならない。いな,それは正常的には均衡状態にあってはならない。かようなモデルを構成するためには,われわれは,ある経済においておこなわれている技術的条件やその住民の諸行動反応を明記し,それから歴史的時間の特定の日付における特定の状況のなかにその経済をいわば投げだして,つぎになにがおこるであろうかを研究する。初期の位置は,物理的な与件のほかに,もろもろの関係者の期待の状態(過去の経験にもとづくものであれ,伝統的な信念にもとづくものであれ)をふくんでいる。経済体系はそれらの期待をみたすように作用しようとしているかもしれないし,またはそれらの期待を失望させるように作用しようとしているかもしれない。」11)「経済は短期の視点から均衡状態にあるかもしれないが,しかしす.ぐにそれを均衡状態からたたきだそうとする諸矛盾をそれじしんの内部にふくんでいるかもしれない(たとえば,売手市場で支配している価格がつづきそうだという期待は,その売手市場を終わらせるであろう生産キャパシティヘの投資を誘発しているかもしれない)。あるいは経済は長期の視点からも均衡状態にあるかもしれない。したがって,もし外部的な攪乱がおこらないならば,その位置が再生産され,または将来にわたって円滑な規則的な仕方で拡大されるか縮小されるかするであろう。そのばあいにモデルがたどる径路は均衡径路にちょうど似ているようにみえるが,しかしそれはやはり語られなければならない歴史的,因果的物語なのである—経済がその径路をたどるのは,その住民の諸期待や諸行動反応がそうするようにしているからである。」12)これが歴史的モデルにかんするロビンソンの説明であるが,その説明における彼女の方法論的立場はどのようなものであろうか。その認識論としての正確な名称はともかくとして,彼女の立場は「近代資本主義世界における状況を反映する」ところのモデルをみいだそうとするものである。18)これよりして彼女の歴史的モデルはそういう反映にほかならないということになる。そしてそのモデルがしめす径路は彼女によって歴史的径路とみなされているが,14)それは歴史的時間におけるとりかえしのつかない因果関係をあらわすものであり,そして初期条件としての物理的な与件や期待の状態のほかに技術的条件や諸行動反応によって決定されるのである。15)それゆえに,そのモデルにおいては,これらの決定要因のあいだの諸関係におうじて発展の諸路線(または成長の諸局面)が区別される。そして均衡径路のようにみえるものもそれらのなかのひとつにすぎないのである。16)こういうモデルは現実の歴史に適用できるモデルであるとされるわけである。23

経済哲学


経済学の考え方 単行本 – 1966/4/28 


8) Cf. Robinson, Collected Economic Papers, Vol. III, p. 16. 
9) Robinson, Economic Philosophy, 1962, p. 130. 宮崎義一訳,206-207ページ。10) Robinson, Essays, p. 26. 邦訳,39ページ。11) Ibid., pp. 25-26. 邦訳,38-39ページ。12) Ibid., p. 26. 邦訳,40ページ。13) Cf. ibid., p. 34. 邦訳,52ページ。14) Cf. Robinson, Collected Economic Papers, Vol. III, p. 16. 15)このような考え方から,ロビンソンは,経済体系の諸決定要因として,(1)技術的条件,(2)投資政策,(3)節約性の状態,(4)競争の状況,(5)賃金交渉,(6)金融事情,(7)初期の資本財ストックと過去の経験によって形成される期待の状態をあげている。(Ro-binson, Essays, p. 35. 邦訳,54ページ。)16) Cf. Robinson, Essays, pp. 51 ff. 邦訳,76ページ以下。I


経済成長論 単行本 – 1979/7/1 


パテ資本とは?#2

Putty-Clay モデルと資本係数. ▽むすび. 11. (1071) 303. I はじめに ... 一般に成長理論は、その決定要因を資本蓄積, 技術進歩, 人口増加に求.



究(二村)

う。前節の,技術進歩は新投資にのみ体化されるという仮定は残しながら

新投資が行なわれ生産が行なわれると,各設備の単位は固定された資本一

労働比率でもってのみ動かされる, つまり, 要素比率は事前的には,労働

と資本の代替可能のため変化しうるが, 事後的には、固定されたまゝであ

る,という状態を扱かおうとするのが,こゝでのモデルである。 「新投資のみが putty である。 その投資の設定以前には、 機械はどんな望ましい労働量をも利用するよう企画されうる。 しかし、一度この putty が型をなすと,それは固く焼かれた clay と変る」36ので putty-clay モデルと呼ばれる。モデルが,このように変ることによって,前節のものとは異なるいくつかの点が考慮される。

37

先ず,当然のことながら、 事前と事後の生産関数が区別されなければな

らない。事前の生産関数は,前節と同じく, コブ・ダグラス型であるとす

る(5–1)。そして, 単純化のため, 技術進歩は体化されたものだけとする

(52)。しかし,事後の生産関数が異なってくる。 つまり,前節と同じく,

各期の投資は8%の減価償却率で指数的に減価されるとすれば(5-3), 事

後的に資本一労働比率は固定され, その後の技術進歩の恩恵も受けないか

ら,各期の設備はそれぞれ一定の要素比率と資本比率をもたなければなら

ない。したがって, 資本の減価と同じ率で, 産出量も,労働配分も減少

されていく。故に期の総生産量 Q(t) は (54) のように示される。t

期の総労働量も同様に, 減価されていく各期の資本に配分されたものとし

318 (1086)

36 E. S. Phelps, Substitution, Fixed Proportions, Growth and Distribution,

International Economic Review, Vol. 4. No. 3., Sep., 1963. p. 265.

37 本節のモデルは L. Johansen, op. cit., 1959. によってはじめられ, B.F.

Massell, Investment, Innovation, and Growth, Econometrica, Vol. 30, No. 2,

1962. E. S. Phelps, Ibid., 等によって発展された。 一方 Phelps のモデルは物

的資本の減価が無視されたため M. C. Kemp and P. C. Thanh, On a Class

of Growh Models, Econometrica, Vol. 34, No. 2., 1966. によって一般化が行な

われた。 この節ではこれらのモデルを包括的にみることにより, われわれの問題提

起に結びつけることが目的である。


Putty-Clay投資関数について
朱保華


投資理論の実証分析は六十年代から七十年代にかけて,主に二つの理論によって支えられてきた。一つは加速度原理およびその修正された原理(これを加速度原理とよんでおく)であり,他はD.W. Jorgensonー派の新古典派投資理論である。両学派の投資のメカニズムについての論争は結局,生産水準と相対価格が投資水準に与える影響の見方に帰着している。加速度原理派においては,相対価格よりむしろ生産水準のほうが投資に与える影響が大きいということから,投資関数に相対価格の要因が導入されなくてもよいのではないかという主張がある。これに対して,新古典派は生産水準と相対価格の両方は投資水準に影轡を与えると考えるので,積極的に投資関数に相対価格の要因を入れる。しかしながら,新古典派の投資理論の中には,相対価格•生産水準が資本ストックの短期調整に異なる影響を与えるようなメカニズムはなにも含まれていない。
Jogensonの新古典派投資理論においては,資本財据付けの前と後で,生産要素間の代替可能性が自由であるという,いわゆるPutty-Putty技術が仮定される。
これに対して,資本財据付け後の要素間代替可能性はそれ以前に比べると,低くなるとするPutty-Clay技術もある。
現実には,Putty-Clay 技術はPutty-Putty技術より,もっとわれわれの現実感覚に近いとおもわれる。また,Putty-Clay技術による投資関数はPutty-Puttyのそれとちがうので,投資関数の実証分析において,Putty-Clay仮説の検証もわれわれの一つの課題と考えられる。本論において,この視点から,C.W. Bischoffの研究結果をふまえて,日本のデータを利用し,Putty-Clay仮説の現実性を検証したい。

〔5〕Johansen, L., "Substitution versus Fixed Production Coefficients in the Theory of Economic Growth : A Synthesis", Econometrica, 27 (April, 1959)
 〔6〕Jorgenson, D. W., "The Theory of Investment Behavior", in R. Ferber ed., Determinants of Investment Behavior, (New York: Columbia University Press, 1967) 

 〔7〕佐藤和夫『マクロ経済学専科』日本経済評論社,1989年。
〔8〕吉川洋『マクロ経済学研究』東京大学出版会,1984年。

第41回 ジョーン・ロビンソンの名言(3) | 【根井ゼミ】「1日1文 経済学の名言」根井雅弘 | web ふらんす
https://webfrance.hakusuisha.co.jp/posts/5201

第41回 ジョーン・ロビンソンの名言(3)

 ジョーン・ロビンソンは、アメリカのケインジアンによる標準的なケインズ解釈(45度線やIS/LM分析)に終始一貫して異を唱えた。例えば、IS/LM分析では、ケインズ経済学が再び均衡分析の枠組みのなかに押し込められている、と。彼女がそう言ったのは、ケインズの『一般理論』の核心を、「歴史的時間」のなかにある経済の「不確実性」という視点を提供した点に求めていたからであった。

 「『一般理論』は、不自然な障壁を突破し、歴史と理論を再び接合させた。しかし、理論家にとっては、時間のほうに降りてくることは、簡単ではなかった。20年経過したのちでも、目を覚ました王女は、いまだに当惑し、ぐらついている。」

 経済学者のなかには、ケインズ革命以後の彼女が、論敵に対して激しい非難の言葉を投げつけ、ますます左翼的になっていったことを嘆き、『不完全競争の経済学』(1933年)のように新古典派の枠組みのなかで優れた仕事をしていた頃を懐かしく思い出す人も少なくなったと聞く。だが、彼女は怯まず、死ぬまでケインズ革命の本質を理解しない人たちを「偽物」と呼び、「均衡から歴史へ」という方法論上の転換を叫び続けた。現在、彼女のあとをあえて追いかけようとする人は少なくなったが、若い研究者には、新古典派の仕事でノーベル経済学賞級の業績を成し遂げた宇沢弘文が彼女のシンパになった理由がよくわからないようである。カリスマ性のある女性であったことは間違いない。

Joan Robinson, Economic Philosophy, 1962, p.75.


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vol.1
2




カレツキ(カレッキ)「計量経済学モデルと史的唯物論」1964 "Econometric Model and Historical Materialism"


cf.


https://www.researchgate.net/publication/332543109_Does_Joan_Robinson%27s_Critique_of_Equilibrium_Entail_Theoretical_Nihilism


Does Joan Robinson's Critique of Equilibrium Entail Theoretical Nihilism?

Authors:



HISTORY VERSUS EQUILIBRIUM

Robinson, Joan. 
Indian Economic Journal; Bombay 巻 21, 号 3,  (Jan 1, 1974): 202.



HISTORY VERSUS EQUILIBRIUM
Keynes regarded the triumph of Adam Smith over the Mercantalists and of Ricardo over Malthus as a victory of dog- matism over good sense, and he could not make head or tail of Marx; yet the conceptions of the General Theory have much more in common with the classical school of the first half of the 19th century than with the neoclassical doctrines in which Keynes himself was brought up The main preoccupation of the classical economists was with an historical process of accumulation in a capitalist eco- nomy and its relation to the distribution of the product of in- dustry between the classes of society, while the neoclassicals concentrated upon conditions of equilibrium in a stationary state.
When Keynes summed up what he felt to be the main difference between his theory and that from which he had had "a long struggle to escape", he pointed to the admission into his argument of the very obvious fact that expectations about the future are necessarily uncertain. Uncertainty that surrounds expectations of the outcome of a plan of investment, of the course of technical progress, of the behaviour of future prices. not to mention the effects of natural and political cataclysms, cannot be reduced to a "calculated risk" by applying the theo- rems of mathematical probability. Keynes described equili- brium theory as a "pretty, polite technique" "which tries to deal with the present by abstracting from the fact that we know very little about the future".¹
As soon as the uncertainty of the expectations that guide economic behaviour is admitted, equilibrium drops out of the argument and history takes its place. The post-Keynesian theory reaches back to clasp the hands of Ricardo and Marx, skipping over the sixty years of dominance of neoclassical doctrines from 1870 to the great slump. This accounts for the paradox that post- Keynesian analysis derives equally from two such apparently incompatible sources as Piero Sraffa's interpretation of Ricardo and Michal Kalecki's interpretation of the theory of employ- ment.
1 "The General Theory of Employment". Quarterly Journal of Eco- nomics, Feb. 1937, reprinted in Collected Writings of John Maynard Keynes,, Vol. XIV.
Copyright (c) 2008 ProQuest LLC Copyright (c) Indian Economic Association

 
 
デービッド・スタイン
デイヴィッド・スタイン


「歴史的時間に関する理解しやすい取り扱いがないために、新古典主義の教科書で提供される理論的装置は、ミクロとマクロの両方の領域における現代の問題の分析に役立たない......」。- ジョーン・ロビンソン、まったくもって残酷だ。 pic.twitter.com/dCarjMAiRC
 
2022/08/25 7:52
 
 
Robinson,J.(1974)'History Versus Equilibrium', in Robinson(1980a),48-58.

このように、経済学は、「経済学」である。


経済論文集; 5 ペーパーバック - 2021/9/9 

https://www.amazon.co.jp/s?i=english-books&rh=p_27%3AJoan+1903-+Robinson&s=relevancerank&text=Joan+1903-+Robinson&ref=dp_byline_sr_book_1

英語版ジョーン 1903- ロビンソン (著)


cf.

https://www.researchgate.net/publication/332543109_Does_Joan_Robinson%27s_Critique_of_Equilibrium_Entail_Theoretical_Nihilism

Joan Robinsonの平衡論批判は理論的ニヒリズムを伴うか?
1993年1月
著書の中で Macroeconomic Theory: 多様性と収束 (pp.223-239)Publisher: エドワード・エルガー
著者
アヴィ・J・コーエン(ヨーク大学
アヴィ・J・コーエン
ヨーク大学

https://www.researchgate.net/profile/Avi-Cohen-7/publication/332543109_Does_Joan_Robinson%27s_Critique_of_Equilibrium_Entail_Theoretical_Nihilism/links/5eb01d5e299bf18b9594b29c/Does-Joan-Robinsons-Critique-of-Equilibrium-Entail-Theoretical-Nihilism.pdf?origin=publication_detail
歴史と均衡
ケインズは、アダム・スミスがメルカンタリストに、リカルドがマルサスに勝ったことを、良識に対する犬猿の仲の勝利とみなし、マルクスには頭も尻尾も出なかった。古典派経済学者の主要な関心事は、資本主義経済における蓄積の歴史的過程と、社会階層間の生産物の分配との関係であり、新古典派経済学者は定常状態における均衡の条件に集中していたのである。
ケインズは、自分の理論と、そこから「逃れるための長い闘い」をした理論との主な相違点 を総括したとき、将来に対する期待が必然的に不確実であるという、きわめて明白な事実を自分の 論考に認めたことを指摘したのであった。投資計画の結果、技術進歩の過程、将来の物価の動向に対する期待を取り囲む不確実性は、自然災害や政治災害の影響は言うに及ばず、数学的確率論を適用して「計算上のリスク」に還元することはできないのである。ケインズは、均衡理論を「きれいで礼儀正しい手法」であり、「将来についてほとんど知らないという事実を抽象化して現在を処理しようとするもの」であるとした¹。
経済行動を導く期待の不確実性が認められると同時に、均衡は議論から外れ、歴史がその座を占める。ポスト・ケインズ派の理論は、1870年から大不況までの60年間にわたる新古典派理論の支配を飛び越えて、リカルドとマルクスの手を握りしめて戻ってきたのである。このことは、ポスト・ケインズ派の分析が、ピエロ・スラッファのリカルド解釈とミハエル・カレッキの雇用理論解釈という、一見相容れない二つの源泉から等しく導き出されているというパラドックスを説明するものである。
1 「雇用の一般理論」。1937年2月『季刊エコノミクス』(Collected Writings of John Maynard Keynes, Vol.XIV) に転載。
Copyright (c) 2008 ProQuest LLC Copyright (c) Indian Economic Association.

HISTORY VERSUS EQUILIBRIUM 
KEYNES regarded the triumph of Adam Smith over the Mercantilists and of Ricardo over Malthus as a victory of dogmatism over good sense, and he could not make head or tail of Marx; yet the conceptions of the General Theory have much more in common with the classical school of the first half of the nineteenth century than with the neoclassical doctrines in which Keynes himself was brought up. 
The main preoccupation of the classical economists was with an historical process of accumulation in a capitalist economy and its relation to the distribution of the product of industry between the classes of society while the neo-classicals concentrated upon conditions of equilibirium in a stationary state. 
When Keynes summed up what he felt to be the main difference between his theory and that from which he had had 'a long struggle to escape', he pointed to the admission into his argument of the very obvious fact that expectations about the future are necessarily uncertain. The uncertainty that surrounds expectations of the outcome of a plan of investment, of the course of technical progress, of the behaviour of future prices, not to mention the effects of natural and political cataclysms, cannot be reduced to a 'calculated risk' by applying the theorems of mathematical probability. Keynes described equilibrium theory as a pretty, polite technique' 'which tries to deal with the present by abstracting from the fact that we know very little about the future'.¹ 
As soon as the uncertainty of the expectations that guide economic behaviour is admitted, equilibrium drops out of the argument and history takes its place. The post-Keynesian theory reaches back to clasp the hands of Ricardo and Marx, skipping over the sixty years of dominance of neoclassical doctrines from 1870 to the great slump. This accounts for the paradox that post-Keynesian analysis derives equally from two such apparently incompatible sources as Piero Sraffa's interpretation of Ricardo and Michał Kalecki's interpretation of the theory of employment. 

1. "The general theory of employment', Quarterly Journal of Economics, February 1937 (JMK), Vol. XIV. 

Thames Polytechnic, London, "Thames Papers in Political Economy', 1974. 
HISTORY VERSUS EQUILIBRIUM 49 


Equilibrium has been defined in these terms: 'Prices and input-output combinations are said to be equilibrium prices and input-output combinations if, when they rule, no economic agent has any inducement to  change his method of production, and no input is in excess demand.'² This entails that everyone knows exactly and in full detail what conse- quences would follow any action that he may take. (Indeed, the condition for reaching equilibrium is often stated to be 'perfect foresight'.) It rules out the holding of stock or money balances for contingencies, and it rules out any plans, say, for business investment or household saving, with consequences spread over future time in which circumstances are liable to change. 

歴史と均衡 

ケインズは、アダム・スミスのマーカンティリストに対する勝利、リカルドのマルサスに対する勝利を、良識に対する教条主義の勝利とみなし、マルクスを頭から理解することはできなかった。しかし、一般理論の考え方は、ケインズ自身が育った新古典派の教義よりも19世紀前半の古典派と多くの共通点をもっている。
古典派は、資本主義経済における蓄積の歴史的過程と、産業生産物の社会階層間の分配との関係に関心を持ち、新古典派は、定常状態における均衡の条件に集中していた。
ケインズは、自分の理論と「脱出するための長い闘い」を経た理論との主な相違点を要約すると、将来への期待は必然的に不確実であるという非常に明白な事実を自分の議論に取り入れたことを指摘した。自然災害や政治災害の影響は言うに及ばず、投資計画の結果、技術進歩の過程、将来の物価の動向に対する期待を取り囲む不確実性は、数学的確率の定理を適用して「計算上のリスク」に還元することができないのである。ケインズは、均衡理論を「将来についてほとんど知らないという事実を抽象化して現在に対処しようとする、きれいで丁寧な手法」であると述べた¹。
経済行動を導く期待の不確実性が認められると同時に、均衡は議論から外れ、歴史がその座を占める。ポスト・ケインズ派の理論は、1870年から大不況までの60年間にわたる新古典派理論の支配を飛び越えて、リカルドとマルクスの手を握りしめて戻ってきたのである。このことは、ポスト・ケインズ派の分析が、ピエロ・スラッファのリカルド解釈とミハウ・カレッキの雇用理論解釈という、一見相容れない二つの源泉から等しく導き出されているというパラドックスに説明できる。

1. 雇用の一般理論」『季刊経済学』1937年2月号(JMK)第十四巻。

テムズ・ポリテクニック,ロンドン,「テムズ・ペーパーズ・イン・ポリティカル・エコノミー」,1974年。
歴史と均衡 49 

均衡は、このように定義されている。価格と産業連関の組み合わせは,それらが支配するとき,どの経済主体も自分の生産方法を変更する誘因を持たず,どの投入も過剰需要でない場合,均衡価格と産業連関の組み合わせであると言われる」² これは,誰もが,自分が取りうるどのような行動からどのような結果が生じるかを正確かつ完全に知っていることを意味する。(実際、均衡に達するための条件は、しばしば「完全な予見」であると言われる)。これは、不測の事態に備えて在庫や資金を保有することを排除し、例えば、状況が変化しやすい将来の時間に結果を分散させた企業投資や家計貯蓄の計画を排除するものである。

There is another curious feature of the concept. Equilibrium is described as 'the end of an economic process'; the story is usually told of a group of individuals each with an endowment' of ready-made goods or of productive capacity of some specific kind. By trading and retrading in a market, each ends up with a selection of goods that he prefers to those that he started with. If we intepret this as an historical process, it implies that, in the period of past time leading to 'today', equilibrium was not established. Why are the conditions that led to a non-equilibrium position 'today' not going to be present in the future? 
Furthermore, the concept of 'stability', based on a mechanical analogy, is inappropriate in economic analysis. For mechanical movements in space, there is no distinction between approaching equilibrium from an arbitrary initial position and a perturbation due to displacement from an equilibrium that has long been established. In economic life, in which decisions are guided by expectations about the future, these two types of movement are totally different. 
Some theorists, even among those who reject general equilibrium as useless, praise its logical elegance and completeness. A system of simultaneous equations need not specify any date nor does its solution involve history. But if any proposition drawn from it is applied to an economy inhabited by human beings, it immediately becomes self- contradictory. Human life does not exist outside history and no one has correct foresight of his own future behaviour, let alone of the behaviour of all the other individuals which will impinge upon his. I do not think that it is right to praise the logical elegance of a system which becomes self- contradictory when it is applied to the question that it was designed to answer. 

2 F. H. Hahn, The Share of Wages in the National Income, Weidenfeld and Nicolson, London, 1972. 

The specification of a self-reproducing or self-expanding system such as that of Sraffa or von Neumann exists in logical time, not in history. Any point on it entails its past just as completely as it entails its future. To confront it with a question such as: What would happen if demand changed? is nonsensical. A different composition of output requires a different set of equations. We could work out alternative von Neumann rays for different compositions of the real wage, comparing say, a diet of potatoes with wheat, postulating the same spectrum of technical know- ledge, and see which path yields the higher rate of profit. But even this is a somewhat idle exercise, for the path an economy follows necessarily influences its technology. An economy that has developed the technology for growing potatoes does not have the same spectrum of technical knowledge as one which only grows wheat. In a Walrasian model, the stock of inputs in existence at any moment is quite arbitrary - perhaps it dropped from the sky, like Marshall's meteoric stones. But for Sraffa or von Neumann the inputs available today were produced by labour and inputs in the proportions required, with the technology in use, to produce tomorrow's output. 
If we construct the equations for a single self-reproducing system and then confront it with an unforeseen change, an event taking place at a particular date, we cannot say anything at all before we have introduced a whole fresh system specifying how the economy behaves in short-period disequilibrium. 
The most obvious application of post-Keynesian analysis (the behaviour of an economy in conditions of uncertainty) is to Keynes' own problems - investment decisions, the determination of the pattern and level of interest rates, and the evolution of the general price level - but it is equally necessary to apply it to so-called micro economics and the behaviour of markets. 

この概念には、もう一つ奇妙な特徴がある。均衡は「経済過程の終わり」と表現されるが、その物語は通常、既製品やある種の生産能力という「財産」をそれぞれが持つ個人の集団について語られる。市場での取引と再取引によって、各個人は最終的に、最初に持っていた財よりも好ましい財を選択することになる。これを歴史的なプロセスとして解釈するならば、「今日」に至る過去の期間において、均衡は成立していなかったことを意味する。なぜ、「今日」非平衡状態に至った条件が、未来にも存在しないことになるのだろうか。
さらに、機械的なアナロジーに基づく「安定性」の概念は、経済分析において不適切である。空間における力学的運動では、任意の初期位置から平衡に近づくことと、長い間確立されていた平衡からの変位による摂動との間に区別はない。将来への期待によって意思決定が行われる経済生活では、この2つの運動は全く異なる。
一般均衡を役立たずと否定する理論家の中にも、その論理的な優美さ、完全性を賞賛する人がいる。連立方程式は、日付を指定する必要はなく、その解は歴史を含むものでもない。しかし、そこから導き出された命題を人間の住む経済に適用すると、たちまち自己矛盾を起こす。人間の生活は歴史の外には存在せず、誰も自分自身の将来の行動を正しく予見することはできないし、ましてや自分に影響を与える他のすべての個人の行動を予見することはできない。私は、答えとして設計された問題に適用されると自己矛盾を生じるシステムの論理的な優美さを賞賛することは正しいとは思わない。

2 F. H. Hahn, The Share of Wages in the National Income, Weidenfeld and Nicolson, London, 1972. 

スラッファやノイマンのような自己再生・自己拡張するシステムの仕様は、歴史の中ではなく、論理的な時間の中に存在する。その上のどの地点も、その未来を含むのと同様に、完全にその過去を含んでいる。このようなシステムに対して、「需要が変化したらどうなるか?もし需要が変わったらどうなるのか、という問いに直面することは無意味である。生産物の構成が変われば、別の方程式が必要になります。実質賃金の構成が異なれば、例えば、ジャガイモと小麦の食事を比較し、同じスペクトルの技術的知識を仮定して、どの経路がより高い利潤率をもたらすか、代替のフォン・ノイマン線を計算することは可能であろう。しかし、これさえも無為な行為である。なぜなら、経済がたどる道は、必然的にその技術に影響を与えるからである。ジャガイモを栽培する技術を開発した経済と、小麦しか栽培しない経済とでは、技術的知識のスペクトルが異なる。ワルラスモデルでは、ある瞬間に存在する投入物のストックは極めて恣意的であり、マーシャルの隕石みたいに空から降ってきたのかもしれない。しかし、スラッファやフォン・ノイマンにとっては、今日利用可能な投入物は、明日の生産物を生産するために必要な割合で、使用中の技術によって、労働と投入物によって生産されたものである。
もし、一つの自己再生産システムの方程式を構築し、それに予期せぬ変化、つまり特定の日に起こる出来事に直面したら、経済が短期間の非平衡でどのように振る舞うかを規定する全く新しいシステムを導入しなければ、何も言えなくなるのである。
ポスト・ケインズ派の分析(不確実な条件下での経済の行動)の最も明白な適用は、ケインズ自身の問題-投資の決定、金利のパターンと水準の決定、一般物価水準の推移-であるが、いわゆるミクロ経済学や市場の行動にも同様に適用することが必要である。



In a Walrasian economy there are a number of individuals each with his endowment, his tastes and his technical expertise. Tastes, incomes and technical conditions determine the price and the volume of each output; from these are derived the hire prices or 'rentals' for the services of inputs; from the rental of his input and the quantity that he owns is derived the income of each individual. There must be sufficient substitutability between commodities and versatility of inputs to ensure that there is a position of equilibrium in which each individual has at least a subsistence income. (Anyone who did not, died long ago.) 
The weakest link in the circle of simultaneous equations is that which connects prices to incomes. We do not seem to be able to say anything about it except in the form of a census. Mr. Jones owns x tons of input type 'A' so that at the equilibrium rental pa (per ton per week) his weekly income is xpa. Mr. Smith provides 40 hours of work type 'B' so that his weekly income is w, and so forth. The approach in terms of a census blurs the distinction between income from work and income from property and leaves no room for the classical problem of the 'distribution of the produce of the earth between the classes of the community'. 
Nevertheless, supporters of the Walrasian system often maintain that it provides a link between demand and distribution that is missing from Sraffa's model. 
To deploy this argument, Professor Harry Johnson provides a highly reduced form of general equilibrium.³ The economy produces only two commodities; resources consist of a number of perfectly similar versatile workers and a particular lump of 'putty-capital' that is, a homogeneous physical input that can be squeezed (without cost) into any form required by technology; there is a well-behaved production function in putty and labour time for each commodity. In the context of accumulation, 'putty' is a way of getting rid of differences between the future and the past; putty investment, once made, can be undone and squeezed into another form while still representing the same 'quantity of capital'. But in the context of a static model, it might be defended as a way of representing the indefinite substitutability between physical inputs which is characteristic of the general equilibrium system. 
Professor Johnson's assumptions provide the essential characteristics of the Walrasian system, while making it more perspicuous. 
First, it brings out clearly the conditions for so-called instability in general equilibrium. For instance, where putty owners have a strong preference for the more putty-intensive commodity, a higher price of that commodity in terms of the other, which yields a larger income to putty owners, must be associated with a higher demand for the commodity, and so a higher demand for putty, whereas the rule of substitution requires that a higher price of putty is associated with a lower demand for it. 
In such a case, as Professor Johnson shows, there may be several widely separated price ratios yielding potential positions of equilibrium. (This is analogous to 'reswitching' on a pseudo-production function.) In a well- behaved case' there is one equilibrium position corresponding to one set of equations. 


3 H. G. Johnson, The Two Sector Model of General Equilibrium, Allen and Unwin, London, 1971.

ワルラス経済では,各個人が,その資源,嗜好,技術的条件をもっている。嗜好、所得、技術的条件によって、それぞれの生産物の価格と量が決まり、そこから投入物のサービスのレンタル価格や「レンタル料」が導かれ、その投入物のレンタル料とその所有量から、各個人の所得が導かれる。各個人が少なくとも自給自足の所得を持つ均衡の位置があることを保証するために、商品と投入物の汎用性の間には十分な代替性がなければならない。(そうでない人は、とっくの昔に死んでいる)。
連立方程式の輪の中で最も弱いのは、価格と所得を結びつけるものである。我々はそれについて、国勢調査という形をとる以外に何も言えないようだ。ジョーンズ氏は投入型Aをxトン所有しているので、均衡賃貸料pa(週当たりトン当たり)で彼の週当たり所得はxpaとなる。スミス氏は40時間の労働タイプBを提供し、彼の週間所得はwとなる、といった具合である。国勢調査というアプローチは、労働による所得と財産による所得の区別を曖昧にし、「共同体の階級間の地上の生産物の分配」という古典的な問題を考える余地を与えないものである。
それにもかかわらず、ワルラス主義の支持者は、それがスラッファのモデルに欠けている需要と分配の間のつながりを提供すると主張することが多い。
この議論を展開するために、Harry Johnson教授は、一般均衡の高度に縮小された形式を提供している³ 経済は2つの商品しか生産しない。資源は、完全に類似した多才な多数の労働者と「パテ資本」の特定の塊、つまり、技術によって必要とされるあらゆる形式に(コストなしに)絞り込むことができる同質の物理的投入からなり、各商品についてパテと労働時間の整えられた生産関数が存在する。蓄積の文脈では、「パテ」は、未来と過去の間の差異を取り除く方法である。パテによる投資は、一度行われると、同じ「資本の量」を表しつつ、元に戻して別の形態に絞り込むことができる。しかし、静態モデルの文脈では、一般均衡システムの特徴である物理的投入物間の不定な代替性を表現する方法として擁護されるかもしれない。
ジョンソン教授の仮定は、ワルラス的システムの本質的な特徴を提供すると同時に、それをより鮮明にしている。
第一に、一般均衡におけるいわゆる不安定性の条件を明確に浮き彫りにしている。たとえば、パテの所有者がよりパテ集約的な商品を強く選好する場合、他方から見てその商品の価格が高く、パテ所有者に大きな所得をもたらすと、その商品に対する需要が高くなり、したがってパテに対する需要が高くならなければならないが、代替法則ではパテの価格が高くなると、その需要が低くなることが必要である。
このような場合、ジョンソン教授が示すように、いくつかの大きく離れた価格比が存在し、均衡の潜在的位置をもたらす可能性がある。(これは擬似生産関数における「再変換」に類似している)「行儀のよい場合」には、1組の方程式に対応する1つの均衡位置がある。


3 H. G. Johnson, The Two Sector Model of General Equilibrium, Allen and Unwin, London, 1971.

Secondly, it is clear that the relation of prices to demand does not depend only on 'consumers' tastes' but also on the census of ownership of inputs, and on technical conditions which govern the interaction between the prices of the commodities and the rentals of inputs. (This seems to vindicate Marshall's one-at-a-time method of treating supply and demand. The world demand for, say, peanuts can be treated as independent of their conditions of production, but, in general equilibrium, supply and demand cannot be treated as independent of each other.) 
With the aid of Professor Johnson's simplified model, we can examine the relations of tastes, rentals and technical conditions with prices and the composition of output, in alternative positions of equilibrium. The argument must be conducted, however, strictly in terms of comparisons of specified positions. We cannot say anything about how any position was reached from some other starting point. Nor can we say what would happen if there was a change in tastes. It is not legitimate to introduce an event into a system of simultaneous equations. 
On a two-dimensional diagram, time lies at right angles to the plane on which the diagram is drawn, with the past behind it and the future in front. Suppose that Professor Johnson's economy has been living through history on a path passing through one equilibrium point and that, at some date, a change in tastes occurs. Then the position is no longer one of equilibrium. A change in the pattern of production must involve investment and disinvestment, at least in work-in-progress, and windfall losses and gains on stocks that have become inappropriate. To say how long it will take, or by what path, to find a new equilibrium (if there is one) we have to fill in a whole story about the behaviour of the economy when it is out of equilibrium, including the effect of disappointed expectations on decisions being taken by its inhabitants. The Walrasian system is no more capable of dealing with changes in demand than the system of Sraffa or von Neumann. The theory of markets was in need of a Keynesian revolution just as much as the theory of employment. Keynes himself threw out some hints and anyone who is acquainted with the conduct, say, of trade in primary commodities, knows that it is dominated by speculation, that is by guesses about the future behaviour of demand and of supply. Such markets are made by intermediaries (often on several layers) between original producers and final buyers. Uncertainty tends to make markets unstable, since a rise of price is often a signal for buying in stocks and a fall for selling out. 
The prices of manufactures are less volatile. The large powerful firms deal directly with retailers and set prices according to a more or less long range policy. Even they, however, cannot know the future; they work on estimates. The system of so called 'full-cost pricing' means calculating expenses, including amortization allowances, per unit of output on the basis of an assumed average level of utilization and length of earning life of plant and then adding a margin for the level of net profit that it seems prudent to go for. When actual utilization over the life of plant exceeds the standard, net profit exceeds the calculated level, and conversely. There is a range of small businesses which operate in markets of an intermediate type. Such producers are subject to a large extent to the vagaries of supply and demand but not to the perpetual oscillations of commodity prices. They are an important part of an economy such as that of India, but in the West they are falling more and more under the control of oligopsonists (large retail chains) which administer prices for them. All this is ruled out from equilibrium theory 'which tries to deal with the present by abstracting from the fact that we know very little about the future'. 

3 H. G. Johnson, The Two Sector Model of General Equilibrium, Allen and Unwin, London, 1971.

第二に,価格と需要の関係は,「消費者の嗜好」だけでなく,投入物の所有権のセンサスや,商品の価格と投入物の賃貸料の相互作用を支配する技術的条件にも依存することが明らかである。(このことは、マーシャルの需要と供給に関する一回限りの方法を正当化しているように思われる。例えば,ピーナッツに対する世界の需要は,その生産条件とは無関係に扱うことができるが,一般均衡においては,需要と供給は互いに無関係に扱うことはできないのである)。
ジョンソン教授の単純化されたモデルの助けを借りて、我々は、均衡の代替的な位置において、嗜好、賃貸料、技術条件と価格および生産物の構成との関係を検討することができる。しかし、この議論は、厳密に、特定の位置の比較という観点から行われなければならない。ある位置が他の出発点からどのように到達したかについて、私たちは何も言うことができない。また、嗜好が変化した場合にどうなるかということも言えない。連立方程式に事象を導入するのは正攻法ではない。
二次元の図において、時間は図が描かれている平面に対して直角にあり、その後ろに過去があり、前に未来がある。ジョンソン教授の経済が、ある均衡点を通過する経路で歴史を生きてきたとして、ある日、嗜好の変化が起きたとする。すると、その立場はもはや均衡のものではなくなります。生産パターンの変化には、少なくとも仕掛品への投資と投資解除、不適切となった株式の風評被害と利益が伴うはずだ。新しい均衡(もしあれば)が見つかるまでにどれくらいの時間がかかるか、あるいはどのような経路をたどるかを語るには、経済が均衡を失ったときの行動に関する物語全体を、期待外れがその住民の下す決定に及ぼす影響も含めて、埋めなければならない。ワルラスシステムは、スラッファやフォン・ノイマンのシステム以上に需要の変化に対処することができない。市場の理論は、雇用の理論と同様に、ケインズ派の革命を必要としていた。ケインズ自身は、いくつかのヒントを投げかけており、例えば、一次産品の貿易を知る者は誰でも、それが投機、すなわち、需要と供給の将来の行動についての推測によって支配されていることを知っている。このような市場は、本来の生産者と最終的な買い手の間にある仲介業者(多くの場合、何層にもわたっている)によって作られているのである。価格の上昇は買いのシグナルであり、下落は売りのシグナルであることが多いため、不確実性が市場を不安定にする傾向がある。
製造業の価格はあまり変動しない。大きな力を持つ企業は、小売業者と直接取引し、多かれ少なかれ長期的な方針に従って価格を決定する。しかし、彼らも将来のことを知ることはできない。いわゆる「フルコスト価格」と呼ばれるシステムは、想定される平均的な稼働率と工場の稼動年数に基づいて、償却引当金を含む単位生産あたりの経費を計算し、その上で、妥当と思われる純利益のレベルに対するマージンを追加することを意味する。実際の稼働率が基準を上回れば、純利益は計算上の水準を上回り、逆に基準を下回れば、純利益は計算上の水準を下回る。中小企業の中には、中間的な市場で事業を営むものがある。このような生産者は、需要と供給の気まぐれに大きく左右されるが、商品価格の永久的な変動には左右されない。インドのような経済では、こうした生産者は重要な役割を担っているが、欧米では、生産者のために価格を管理するオリゴポソニスト(大規模小売チェーン)の支配下にますます入りつつある。このようなことはすべて、「将来についてほとんど知らないという事実を抽象化して現在を処理しようとする」均衡理論からは除外される。


Another major characteristic that Keynes had in common with the classics was that they, like him, were concerned with actual contemporary problems and put their arguments: 
in terms of the structure and behaviour of the economy in which they were living, while the neoclassics enunciated what purported to be universal laws, based on human nature - greed, impatience and so forth. The latter rarely say anything at all about the kind of economy to which an argument is to be applied. The suggestion is that the same laws which govern the supposed behaviour of Robinson Crusoe are equally valid for the conduct of Gosplan, or rather for what its conduct ought to be, and for analysing the vagaries of Wall Street. 
Marshall retained something of the classical tradition. His world is inhabited by businessmen, housewives, workers, trade union leaders, bankers and traders. His moralizing tone - 'There are many fine natures among domestic servants... sounds comical to modern ears, and he was not above twisting observation to suit his theory -Joint Stock Companies stagnate - but he was studying a recognizable economy in a particular phase of its historical development, in which recognizable classes of the community interact with each other in a particular framework of law and accepted conventions. 
Pigou emptied history out of Marshall and reduced the analysis to a two-dimensional scheme. Marshall's argument had created a notorious dilemma. He believed in economies of scale for the individual firm; as a firm grows it acquires experience, invests in new techniques and lowers cost of production per unit of output. But in every market (with a few well known exceptions) there are enough firms competing with each other to keep prices in line with costs. Why does not one firm, that happens to get a start, undersell others, grow, reduce costs further, and finally establish a monopoly? Marshall's argument was that the life of a firm is bound up with that of a family; by the third generation, the vigour of the founder has been lost and the firm ceases to grow. This is certainly true of many actual case histories but as a universal law it had to be backed up by the remarkably untrue dictum that joint-stock companies stagnate. 
Pigou set out to rescue Marshall from his dilemma by introducing the equilibrium size of firm. Every week, a firm is maximizing profits by selling such an output as to make the marginal cost of its product equal to the ruling price; over the long run, competition forces it to operate at the minimum point of a U-shaped curve, where marginal and average cost are both equal to price. There is a rate of interest (somehow connected with the discount of the future of owners of wealth) at which every firm can borrow as much or as little as it likes; when it is in equilibrium, its net profit per annum is just sufficient to cover interest, at the ruling rate on the value of its capital. This rigmarole was the only legacy from Marshall that has been incorporated into modern orthodoxy. 
Side by side with the Pigovian system, the heritage of Walras has been very much elaborated; in this sphere the specification of the character of the economy is not so much unreal as non-existent. Sometimes it seems that there are no people in the market at all - only prices and quantities of commodities are mentioned. Sometimes every individual has his own endowment both of labour power and of physical inputs, so that society consists of a number of Robinson Crusoes, living side by side and exchang- ing their products. Sometimes we seem to be in Adam Smith's world where a man (evidently of independent means) appeals to the self-interest of the baker and the brewer to get him his dinner. 
But then again, society is represented as a pure co-operative, without distinction of classes or occupations. Society saves, as in Frank Ramsey's famous theorem, and society enjoys the benefit of the increased income that accumulation provides. 
HISTORY VERSUS EQUILIBRIUM 
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The leap from Walras to Pigou is made by means of a pun. For Walras, a 'factor of production' is something like a carpenter, a load of bricks, or a meadow. In the system, relayed by Pigou, that Marshall derived from Ricardo, the factors of production are labour, capital and land. Taking the word 'factor' in both senses at once, the argument about the prices of items in the available stock of inputs, established by higgling and haggling in a market, is applied to the determination of wages, interest and rent in long run equilibrium. 
This pun, presented in mathematical notation, is the basis of so-called micro-economics offered in the fashionable text books. 

ケインズが古典派と共通して持っていたもう一つの大きな特徴は、ケインズと同様に、彼 らも実際の現代の問題に関心を持ち、その議論を展開したということである。
一方、新古典派は、貪欲さ、焦燥感など人間の本性に基づいた普遍的な法則と称するものを発表した。後者は、議論が適用される経済の種類については、ほとんど何も言っていない。ロビンソン・クルーソーの行動を規定する同じ法則が、ゴスプランの行動にも、むしろその行動がどうあるべきかということにも、ウォール街の気まぐれを分析することにも等しく有効であるという提案である。
マーシャルは古典的な伝統の一端を残した。彼の世界には、ビジネスマン、主婦、労働者、労働組合のリーダー、銀行家、トレーダーが住んでいる。しかし、彼は、歴史的発展の特定の段階において、認識できる経済を研究していたのであり、そこでは、コミュニティの認識できる階級が、法律と認められた慣習の特定の枠組みの中で互いに作用していた。
ピグーはマーシャルから歴史を空っぽにし、分析を二次元の図式に落とし込んだのである。マーシャルの議論は、悪名高いジレンマを生み出していた。彼は、個々の企業の規模の経済性を信じていた。企業が成長するにつれ、経験を積み、新しい技術に投資し、単位生産量あたりの生産コストを引き下げる。しかし、どの市場にも(いくつかのよく知られた例外を除いて)、価格をコストに見合ったものにするために、互いに競争している企業が十分にある。なぜ、たまたまスタートした1社が他を下回り、成長し、さらにコストを下げ、ついには独占を確立しないのだろうか。マーシャルの主張は、企業の寿命は家族の寿命と同じであり、3代目になると創業者の活力は失われ、企業の成長は止まるというものであった。これは、確かに多くの実例に当てはまるが、普遍的な法則として、「株式会社は停滞する」という著しく事実に反する通説に裏打ちされなければならないのである。
ピグーは、企業の均衡規模を導入することで、マーシャルをジレンマから救おうとした。毎週、ある企業は、その製品の限界費用が支配価格と等しくなるような生産物を販売することによって利潤を最大化する。長期的には、競争によって、限界費用と平均費用がともに価格と等しくなるU字曲線の最小点で活動するようになる。すべての企業が好きなだけ借り入れできる金利(富の所有者の将来の割引と何らかの関係がある)があり、平衡状態にあるとき、年間純益は、その資本の価値に対する支配金利をカバーするのに十分なだけである。このような複雑な仕組みは、マーシャルが残した唯一の遺産であり、現代の正統派理論に組み込まれている。
ピゴフ方式と並んで、ワルラスの遺産が非常に精巧に作られている。この領域では、経済の性格の特定は非現実的というより、存在しないに等しい。時には,市場には人が全くいないように思われる-商品の価格と量だけが言及される。すべての人が、労働力と物理的投入物の両方を所有しており、社会は、隣り合って生活し、生産物を交換する数多くのロビンソン・クルーソーから構成されていることもある。私たちは時々、アダム・スミスの世界にいるような気がする。ある男(明らかに自立した資力の持ち主)が、パン屋やビール屋の私利私欲に訴えて、自分の夕食を手に入れる。
しかし、社会は、階級や職業の区別のない純粋な協同組合として表現されている。フランク・ラムゼーの有名な定理にあるように、社会は貯蓄し、社会は蓄積による所得増加の利益を享受するのである。
ワラスからピグーへの飛躍は、洒落によってなされている。ワルラスにとって「生産要素」とは、大工、レンガの山、草地といったものである。マーシャルがリカルドから引き継いだピグーによるシステムでは、生産要素は労働、資本、土地である。この「要素」という言葉を両方の意味で一度にとらえると、市場で値切ることによって成立する投入可能在庫の品目の価格に関する議論が、長期均衡における賃金、利子、家賃の決定に応用される。
数学的表記法で示されたこのシャレは、流行の教科書で提供されるいわゆるミクロ経済学の基礎となっている。



Keynes pointed out the distinction between interest, which a business has to pay on borrowed finance, and profit, which it hopes to get on an investment. For his strictly short period problem, he did not need a realized rate of profit on capital, only a forward looking, uncertain expectation of profits. This could be formally expressed as the rate of discount that reduces the expected series of future quasi-rents to equality with the capital sum to be invested today; but uncertainty and prospective changes in the value of money make the calculation vague. 
Marshall's normal profits and Wicksell's natural rate of interest were supposed to apply to a capitalist economy but their level was never explained. Adam Smith had quite a different story for the pin factory from that of the baker and the brewer; there, the share of profit was higher the lower the wage could be set, but a clear explanation of the determination of the rate of profit eluded him. Only Ricardo laid the basis for a theory of the rate of profit on capital and this was forgotten in the neoclassical era until it was disinterred by Sraffa. The neo-neoclassicals try to substitute the concept of 'the rate of return' for a theory of profits. 
For Irving Fisher, the rate of return was the increment of income that a man could get from adding an increment to his wealth. Thus, in a modern economy with a gilt-edged rate of interest of 10 per cent, £10 per annum in perpetuity is the rate of return on a saving of £100. In an artisan economy, the return on saving is an addition to the flow of output, say of horse-shoes, produced with a given amount of work by a blacksmith who puts part of his energy into improving his forge. On Frank Ramsey's growth path, the rate of return in terms of utility to society as a whole on further saving varies as wealth accumulates. But the rate of return is connected with the rate of profit in a capitalist economy only by a methodological confusion. 
Let us return to the picture of an economy in a static state of Walrasian equilibrium. Now compare it with another economy, with the same tastes and technology, in equilibrium with the same labour force and a larger amount of physical inputs (more of some and no less of any). There is then a larger output of some or all of the commodities being produced. Professor Johnson could say that the second economy has a larger lump of putty, so that the hire price of putty per unit, taken as a whole, is lower than in the first economy, while the income of a representative worker is higher than in the first economy. The income of a representative putty owner may be less or greater according to the elasticity of substitution between putty and labour. (This follows from the assumptions of general equilibrium; it does not correspond to anything in real life.) 
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For such a comparison putty may be thought to be an adequate concept. But it does not enable us to say how much greater the second set of inputs is as a simple quantity (putty is a parable, not to be taken literally) still less, how the additional output in the second position is related to the additional inputs as a simple ratio. 
The two lists of inputs and outputs are made up of items in different proportions and there may be some item in the second list that did not appear in the first. All relative prices are different in the two positions. A comparison of wage rates or of the value of stocks of inputs in the two positions would depend entirely on the numeraire chosen, and no one numeraire has more relevance than any other. 


ケインズは、企業が借入金に対して支払わなければならない利子と、投資に対して得ようとする利潤の違いを指摘した。ケインズは、厳密に短期的な問題に対しては、資本に対する利潤の実現率を必要とせず、前方視的で不確実な利潤の期待値のみを必要とした。これは,形式的には,将来の準家賃の期待値を,今日投資される資本金額と等しくする割引率として表現されるが,不確実性と貨幣価値の将来の変化が,この計算を曖昧なものにしている。
マーシャルの正常利潤やウィクセルの自然利子率は、資本主義経済に適用されるはずであったが、その水準が説明されることはなかった。アダム・スミスは、パン屋やビール屋とピン工場とでは、全く異なる話をした。そこでは、賃金を低く設定すればするほど、利益の取り分は高くなるが、利潤率の決定についての明確な説明は、彼に及ばない。リカルドだけが資本利潤率の理論の基礎を築いたが、これは新古典派時代には忘れ去られ、スラッファによって掘り起こされるに至った。新古典派は、「収益率」の概念を利潤の理論に代えようとする。
Irving Fisherにとって収益率とは、人間が自分の富に増分を加えることによって得られる所得の増分のことであった。したがって、10%のギルト・エッジ金利の現代経済では、永久に年10ポンドが、100ポンドの貯蓄に対する収益率である。職人経済では、貯蓄の見返りは、鍛冶屋が鍛冶場の改良にエネルギーを注ぎ、一定の労働量で生産する蹄鉄のような生産物の流れに付加されるものである。フランク・ラムゼーの成長経路では、社会全体に対する効用という意味での貯蓄の収益率は、富が蓄積されるにつれて変化する。しかし、この収益率は、資本主義経済における利潤率と方法論的な混乱によってのみ結びつけられている。
ワルラス的平衡の静的状態にある経済の図式に戻ろう。ここで、同じ味覚と技術を持ち、同じ労働力とより多くの物理的投入量(あるものはより多く、あるものはより少なく)で均衡している別の経済と比較してみよう。すると、生産されている商品の一部またはすべての生産高がより大きくなります。ジョンソン教授は、第二の経済ではパテの塊が大きくなり、全体としてみたパテの単位当たりの賃借料は第一の経済より低くなり、代表的な労働者の所得は第一の経済より高くなると言うことができる。代表的なパテ所有者の所得は,パテと労働の間の代替弾力性によって,小さくも大きくもなりうる。(これは一般均衡の仮定から導かれるものであり,現実の生活には何の対応もしない)。
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このような比較のために、パテは適切な概念であると考えられるかもしれない。しかし、これでは、第二の入力のセットが単純な量としてどれだけ大きいか(パテはたとえ話であって、文字通りに受け取ってはいけない)、ましてや第二の位置における追加の出力が単純な比率として追加の入力とどう関係しているかを言うことはできない。
2つの入力と出力のリストは異なる割合の項目で構成されており、2番目のリストには1番目のリストに現れなかった項目があるかもしれない。すべての相対価格は、2つの立場で異なっている。2つの立場における賃金率や投入物のストックの価値の比較は、選択された数値単位に完全に依存し、どの数値単位も他の数値単位より関連性が高いということはないだろう。

The question has been much discussed under the title of the 'measurement of capital'. But, properly speaking, there is no 'capital' in a Walrasian market. There are no capitalists who have invested finance in productive capacity with a view to employing labour and making profits. There is only a list of quantities of various kinds of available inputs. In a Pigovian stationary state, there is a stock of capital, of which the value, say in terms of wage units, depends upon technical conditions and the rate of interest. Instead of an arbitrary list of objects, there is a flow of gross investment going on which is just sufficient to keep the balanced stock of equipment intact as it wears out and to renew supplies of raw materials used up in production. The flow of net output constitutes the income of the economy, which is all being consumed. 
The Austrian theory, developed by Wicksell, attempted to 'measure capital' in such a case by the average period of production'. As Wicksell found, this is not exact; but even if it were, it would be no help in detecting the 'rate of return'. 
We may imagine that we make a comparison between two equilibrium positions, with an identical labour force, one with a higher net output than the other. But it does not follow that the second has 'more capital' or a longer average period of production than the first. If we compare them at a common rate of interest, there is no guarantee that the one with the higher output has the higher value of capital. They are simply two equilibrium positions using different techniques, each with the stock of means of production appropriate to its own technique, and each with its own past history, that led to its present position. The long wrangle about 'measuring capital' has been a great deal of fuss over a secondary question. The real source of trouble is the confusion between comparisons of equilibrium positions and the history of a process of accumulation. 
We might suppose that we can take a number of still photographs of economies each in stationary equilibrium; let us suppose that the 'measurement' problem can be solved by calculating all values in terms of labour time, and that it happens that the economies can be arranged in a series in which a larger value of capital per man employed is associated with a higher net output per man of a homogeneous consumption good, as on Professor Samuelson's 'surrogate production function'. This is an allowable thought experiment. But it is not allowable to flip the stills through a projector to obtain a moving picture of a process of accumulation. 
Before we can discuss accumulation, we must go back to the beginning and deal with the questions which Walras and Pigou left unanswered. In what kind of economy is accumulation taking place? Is it Frank Ramsey's classless co-operative, a collection of peasants and artisans, or a modern capitalist nation? Is it a property-owning democracy in which the rate of saving depends on the decisions of households? If so, by what means is saving converted into additions to the stock of inputs? Or if investment depends on the decisions of industrial firms, how do they get command of finance, and what expectations of profits are guiding their plans? Is there a mechanism in the system to ensure growth with continuous full employment? And if an increasing value of capital per man leads to a prospective fall in the rate of profit, do the firms go meekly crawling down a pre-existing production function, or do they introduce new techniques that raise output per unit of investment as well as output per man? The data for periods of continuous growth in the industrial capitalist countries generally seem to conform pretty well to Kaldor's stylized facts- a fairly constant ratio both of the value of capital and of the wage bill to the value of output. This entails that the overall ex-post rate of profit on capital was fairly constant. With rising real wages and a constant rate of profit, it follows that each point of observation must have been drawn from a different technology. Even as a thought-experiment, it is meaningless to postulate the existence in a growing economy of a surrogate production function or a pseudo-production function, well or ill-behaved, on which a number of equilibrium positions, with different techniques, co-exist at a moment of time. 
Certainly, for a developing country, the choice of technique is an important problem. The choice is not concerned with the ratio of 'capital' to labour or to output. It is concerned with the allocation of investible resources. The increment of future productivity of labour due to creating an addition to the stock of inputs might be called the return to investment (though it is not easy to express it as a rate) but it has nothing whatever to do with the rate of profit or the rate of interest on the pre-existing total stock of capital, or of wealth inherited from the past. 
The problem of the 'measurement of capital' is a minor element in the criticism of the neo-classical doctrines. The major point is that what they pretend to offer as an alternative or rival to the post-Keynesian theory of accumulation is nothing but an error in methodology - a confusion between comparisons of imagined equilibrium positions and a process of accumulation going on through history.


この問題は、「資本の測定」という名目で多く議論されてきた。しかし、正しくは、ワルラス市場には、「資本」は存在しない。労働者を雇用して利潤を得るために、生産能力に資金を投下した資本家は存在しないのである。あるのは、様々な種類の利用可能な投入物の数量のリストだけである。ピグー的な定常状態では、資本のストックがあり、その価値は、例えば賃金単位で言えば、技術的条件と利子率に依存する。恣意的な対象物のリストの代わりに、バランスのとれた設備ストックを消耗しながら維持し、生産で使い果たした原材料の供給を更新するのに十分な総投資の流れが進行中である。純生産高の流れは、経済の所得を構成し、それはすべて消費されている。
ウィクセルが展開したオーストリア理論は、このような場合の「資本」を「平均生産期間」によって測ろうとした。ウィクセルが発見したように、これは正確なものではないが、仮にそうであったとしても、「収益率」を検出する助けにはならないだろう。
我々は,同一の労働力を持つ2つの均衡位置の間で,一方が他方よりも純生産高が高いという比較を行うことを想像するかもしれない。しかし、後者が前者より「より多くの資本」を持っているとか、平均生産期間がより長いということにはならない。共通の利子率で比較した場合、生産高が高い方が資本価値が高いという保証はない。それらは、単に、異なる技術を用いた二つの均衡位置であり、それぞれが、それぞれの技術に適した生産手段のストックを持ち、それぞれが、現在の位置に至った、それぞれの過去の歴史を持つのである。資本の測定」についての長い論争は、二次的な問題をめぐって大騒ぎになったものである。問題の真の原因は、均衡位置の比較と蓄積過程の歴史との間の混乱にある。
仮に、定常的な均衡状態にある経済の写真を何枚か撮影し、すべての値を労働時間で計算することによって「測定」問題を解決し、サミュエルソン教授の「代用生産関数」のように、雇用者一人当たりの資本の値が大きいと同質の消費財の一人当たりの純生産がより高く関連するという系列で経済を配置することが可能であると仮定してみよう。これは許される思考実験である。しかし、蓄積の過程を動画で見るために、映写機で静止画を反転させることは許されない。
蓄積を論じる前に、最初に戻って、ワルラスとピグーが未解決のままにしておいた問いに対処しなければならない。蓄積はどのような経済で起こっているのか?フランク・ラムゼーの階級なき協同組合、農民と職人の集まり、あるいは近代資本主義国家なのか?貯蓄率が家計の決定に依存する財産所有型民主主義国家なのか。もしそうなら、貯蓄はどのような手段で投入資源の追加に変換されるのだろうか。あるいは、投資が工業企業の決定に依存しているとすれば、彼らはどのようにして資金を調達しているのか、また、どのような利益期待が彼らの計画を導いているのか?継続的な完全雇用を伴う成長を保証するメカニズムがシステムにあるのだろうか。また、一人当たりの資本価値の増大が利潤率の低下をもたらすとすれば、企業は既存の生産関数をおとなしく這いずり回るのか、それとも新しい技術を導入して一人当たりの生産量だけでなく投資単位当たりの生産量も高めるのか。産業資本主義諸国における継続的成長期間のデータは、一般に、カルドアの定型的事実によく合致しているように思われる-資本価値と賃金コストの生産額に対する比率はどちらもかなり一定である。このことは、資本に対する事後的な利潤率が全体としてかなり一定であったことを意味する。実質賃金が上昇し、利潤率が一定であれば、それぞれの観測点は、異なる技術から得られたものでなければならないことになる。思考実験としても、成長する経済において、代理生産関数や擬似生産関数の存在を仮定することは無意味であり、その上で良くも悪くも、ある瞬間に異なる技術によるいくつかの均衡位置が共存している。
確かに、途上国にとって、手法の選択は重要な問題である。その選択は、「資本」の労働や生産に対する比率に関係するものではない。それは、投資可能な資源の配分に関係する。投入資源のストックを増やすことによる将来の労働生産性の向上は、投資収益と呼ばれるかもしれないが(それを率として表すのは容易ではない)、それは、既存の総資本ストックや過去から受け継いだ富に対する利潤率や金利とは何の関係もないのである。
「資本の測定」の問題は、新古典派の学説を批判する際の些細な要素である。主要な点は、ポスト・ケインズ派の蓄積理論に代わるもの、あるいは対抗するものとして、彼らが提供するふりをしているものは、方法論の誤りにほかならないこと、すなわち、想像上の均衡位置の比較と歴史を通じて進行する蓄積のプロセスとの間の混同であることである。



The lack of a comprehensible treatment of historical time, and failure to specify the rules of the game in the type of economy under discussion, make the theoretical apparatus offered in neo-neoclassical text-books useless for the analysis of contemporary problems, both in the micro and macro spheres.

歴史的時間に関する理解しやすい取り扱いを欠き、議論されている経済のタイプにおけるゲームのルールを特定できないため、新古典派教科書で提供される理論装置は、ミクロ領域とマクロ領域の両方において、現代の問題の分析に役立たないのである。


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https://www.researchgate.net/profile/Avi-Cohen-7/publication/332543109_Does_Joan_Robinson%27s_Critique_of_Equilibrium_Entail_Theoretical_Nihilism/links/5eb01d5e299bf18b9594b29c/Does-Joan-Robinsons-Critique-of-Equilibrium-Entail-Theoretical-Nihilism.pdf?origin=publication_detail
歴史と均衡
ケインズは、アダム・スミスがメルカンタリストに、リカルドがマルサスに勝ったことを、良識に対する犬猿の仲の勝利とみなし、マルクスには頭も尻尾も出なかった。古典派経済学者の主要な関心事は、資本主義経済における蓄積の歴史的過程と、社会階層間の生産物の分配との関係であり、新古典派経済学者は定常状態における均衡の条件に集中していたのである。
ケインズは、自分の理論と、そこから「逃れるための長い闘い」をした理論との主な相違点 を総括したとき、将来に対する期待が必然的に不確実であるという、きわめて明白な事実を自分の 論考に認めたことを指摘したのであった。投資計画の結果、技術進歩の過程、将来の物価の動向に対する期待を取り囲む不確実性は、自然災害や政治災害の影響は言うに及ばず、数学的確率論を適用して「計算上のリスク」に還元することはできないのである。ケインズは、均衡理論を「きれいで礼儀正しい手法」であり、「将来についてほとんど知らないという事実を抽象化して現在を処理しようとするもの」であるとした¹。
経済行動を導く期待の不確実性が認められると同時に、均衡は議論から外れ、歴史がその座を占める。ポスト・ケインズ派の理論は、1870年から大不況までの60年間にわたる新古典派理論の支配を飛び越えて、リカルドとマルクスの手を握りしめて戻ってきたのである。このことは、ポスト・ケインズ派の分析が、ピエロ・スラッファのリカルド解釈とミハエル・カレッキの雇用理論解釈という、一見相容れない二つの源泉から等しく導き出されているというパラドックスを説明するものである。

1 「雇用の一般理論」。1937年2月『季刊エコノミクス』(Collected Writings of John Maynard Keynes, Vol.XIV) に転載。
Copyright (c) 2008 ProQuest LLC Copyright (c) インド経済協会。

歴史対均衡
ケインズは、重商主義者に対するアダム・スミスの勝利と、マルサスに対するリカードの勝利を、良識に対する教条主義の勝利とみなし、マルクスの頭も尻尾も作ることができなかった。しかし、一般理論の概念は、ケインズ自身が育った新古典派の教義よりも、19 世紀前半の古典学派との共通点の方がはるかに多い。
古典派経済学者の主な関心事は、資本主義経済における蓄積の歴史的プロセスと、社会階級間の工業生産物の分配との関係であり、新古典主義者は定常状態における均衡条件に集中していた。
ケインズは、彼の理論と「逃れようと長い闘争」をしてきた理論との主な違いであると彼が感じたものを要約したとき、未来についての期待は必然的に存在するという非常に明白な事実を彼の議論に認めていることを指摘した。不確か。自然的および政治的大変動の影響は言うまでもなく、投資計画の結果、技術的進歩の過程、将来の価格の動向に関する期待を取り巻く不確実性は、以下を適用することによって「計算されたリスク」に減らすことはできません。数学的確率の定理。ケインズは、均衡理論を、私たちが未来についてほとんど知らないという事実から抽象化することによって、現在を取り扱おうとする、きれいで礼儀正しい技法であると説明しました¹。
経済行動を導く期待の不確実性が認められるとすぐに、均衡は議論から脱落し、歴史がその代わりになります。ポストケインジアン理論は、1870 年から大不況までの 60 年間に及ぶ新古典主義の教義の支配をスキップして、リカードとマルクスの手を握り締めるために戻ってきた。これは、ケインジアン後の分析が、ピエロ・スラッファによるリカルドの解釈と、ミハウ・カレッキによる雇用理論の解釈という、明らかに相容れない 2 つの情報源から同等に導き出されているというパラドックスを説明している。
「雇用の一般理論」、クォータリー ジャーナル オブ エコノミクス、1937 年 2 月 (JMK)、Vol. XIV. テムズ ポリ
テクニック、ロンドン、「テムズ ペーパーズ イン ポリティカル エコノミー」、1974 年。 


均衡は次の用語で定義されている: 「価格と投入産出の組み合わせは、均衡価格と投入産出の組み合わせであると言われるが、それらが支配するときに、どの経済主体も
その生産方法を変更する誘因を持たず、投入が行われていない場合」これは、誰もが、自分が取るかもしれない行動の後にどんな結果が生じるかを正確かつ詳細に知っていることを必要とします. (実際、均衡に達するための条件は、「完全な先見の明」であると言われることがよくあります。) それは、不測の事態に備えて株式やお金の残高を保持することを除外し、結果を伴う事業投資や家計貯蓄などの計画を除外します。状況が変化する可能性のある将来の時間に広がります。
このコンセプトには、もう 1 つの興味深い特徴があります。均衡は「経済プロセスの終わり」と表現されます。物語は通常、それぞれが既製の商品や特定の種類の生産能力を備えた個人のグループについて語られます。市場での取引と再取引により、それぞれが最初に持っていた商品よりも好みの商品を選択することになります。これを歴史的過程として解釈すると、「今日」に至る過去の期間に均衡が確立されていなかったことを意味します。「今日」の非均衡ポジションにつながった条件が、将来存在しないのはなぜですか?
さらに、機械的なアナロジーに基づく「安定性」の概念は、経済分析には不適切です。空間における機械的な動きの場合、任意の初期位置から平衡に近づくことと、長い間確立されてきた平衡からの変位による摂動との間に区別はありません。将来への期待に基づいて意思決定が行われる経済生活では、この 2 種類の動きはまったく異なります。
一部の理論家は、一般均衡を役に立たないと否定する人々の間でさえ、その論理的な優雅さと完全性を称賛しています。連立方程式は日付を指定する必要はなく、その解は歴史を必要としません。しかしそこから引き出された命題が人間が住む経済に適用されるとすれば、それはたちまち自己矛盾となる。人間の生命は歴史の外には存在せず、自分自身の将来の行動、ましてや自分に影響を与える他のすべての個人の行動を正確に予測できる人は誰もいません。答えるために設計された問題に適用されると自己矛盾するシステムの論理的な優雅さを称賛することは正しくないと思います。

2 FH Hahn、The Share of Wages in the National Income、Weidenfeld and Nicolson、ロンドン、1972 年。 
Sraffa や von Neumann のような自己再生または自己拡張システムの仕様は、歴史ではなく、論理的な時間に存在します。その上の任意の点は、その未来を伴うのと同じくらい完全にその過去を伴います。次のような質問に直面すること: 需要が変化したらどうなるか? 無意味です。出力の構成が異なると、異なる式のセットが必要になります。例えばジャガイモと小麦の食事を比較し、同じ範囲の技術的知識を仮定して、実質賃金のさまざまな組成に対する代替のフォン・ノイマン線を計算し、どちらの経路がより高い利益率をもたらすかを調べることができます。しかし、経済がたどる道筋は必然的にその技術に影響を与えるため、これはやや無駄な作業です。ジャガイモを栽培する技術を開発した経済は、小麦のみを栽培する経済と同じ範囲の技術的知識を持っていません。ワルラスのモデルでは、いつでも存在するインプットの在庫は非常に恣意的です - おそらくそれはマーシャルの隕石のように空から落ちました. しかし、スラッファやフォン・ノイマンにとって、今日利用可能なインプットは労働によって生産され、明日のアウトプットを生み出すために必要な割合のインプットは、使用中の技術によって生産された.
単一の自己再生システムの方程式を構築し、それを予期せぬ変化、特定の日に発生するイベントに直面した場合、経済がどのように動作するかを指定するまったく新しいシステムを導入する前に、何も言えません。短期間の不均衡。
ポストケインジアン分析 (不確実な状況における経済の振る舞い) の最も明白な適用は、ケインズ自身の問題 - 投資決定、金利のパターンとレベルの決定、および一般的な物価レベルの進化 - に対するものです。しかし、それをいわゆるミクロ経済学や市場の行動に適用することも同様に必要です。
2
ワルラス経済では、それぞれに資質、好み、技術的専門知識を備えた多くの個人がいます。味、収入、技術的条件によって、各生産物の価格と量が決まります。これらから、入力のサービスのレンタル価格または「レンタル」が導き出されます。彼のインプットのレンタルと彼が所有する量から、各個人の収入が導き出されます。各個人が少なくとも最低限の生活収入を得る均衡の位置が存在することを保証するために、商品と投入物の多様性との間には十分な代替可能性がなければならない。(そうしなかった人は、ずっと前に亡くなりました。)
連立方程式の円の中で最も弱いリンクは、価格を所得に結び付けるリンクです。国勢調査の形以外では、それについて何も言うことができないようです。ジョーンズ氏は入力タイプ「A」を x トン所有しているため、均衡賃料 pa (1 トン/週) での彼の週収は xpa です。スミス氏は 40 時間の仕事タイプ「B」を提供するため、彼の週収は w などです。国勢調査の観点からのアプローチは、仕事からの収入と財産からの収入の区別をあいまいにし、「コミュニティの階級間での地球の産物の分配」という古典的な問題の余地を残していません。
それにもかかわらず、ワルラス派のシステムの支持者は、スラッファのモデルには欠けている需要と分配の間のリンクを提供すると主張することがよくあります。
この議論を展開するために、ハリー・ジョンソン教授は、非常に縮小された形の一般均衡を提供しています³。リソースは、多数の完全に類似した用途の広い労働者と特定の「パテ資本」の塊で構成されています。商品ごとにパテや手間のかかる生産機能があります。蓄積の文脈では、「パテ」は未来と過去の違いを取り除く方法です。パテ投資は、一度行われると、元に戻して別の形に絞り込むことができますが、同じ「資本の量」を表しています。しかし、静的モデルのコンテキストでは、
ジョンソン教授の仮定は、ワルラス体系の本質的な特徴を提供すると同時に、それをより明確にします。
第 1 に、いわゆる一般均衡における不安定性の条件が明確に示されます。たとえば、パテの所有者がよりパテを多く使用する商品を強く好む場合、パテの所有者により多くの収入をもたらす他の商品と比べてその商品の価格が高くなることは、その商品のより高い需要に関連付けられている必要があります。そのため、パテの需要が高くなりますが、代替のルールでは、パテの価格が高いほど、パテの需要が低くなります。
そのような場合、ジョンソン教授が示すように、いくつかの広く存在する可能性があります。 3 HG Johnson, The Two Sector Model of General Equilibrium、Allen and Unwin、ロンドン、1971 
均衡の潜在的な位置を生み出す分離された価格比。(これは、疑似生産関数の「再切り替え」に類似しています。)「行儀の良いケース」では、1 セットの方程式に対応する 1 つの平衡位置があります。
第二に、需要に対する価格の関係は、「消費者の好み」だけでなく、投入物の所有権の調査や、商品の価格とレンタルの相互作用を支配する技術的条件にも依存することは明らかです。入力。(これは、需要と供給を扱うマーシャルの一度に 1 つずつの方法を立証しているようです。たとえば、ピーナッツの世界的な需要は、生産条件とは無関係として扱うことができますが、一般的な均衡では、需要と供給は同じではありません。互いに独立したものとして扱われます。)
ジョンソン教授の簡略化されたモデルの助けを借りて、好み、レンタル、技術的条件と価格および生産物の構成との関係を、均衡の代替位置で調べることができます。ただし、特定の位置の比較に関して厳密に議論を行う必要があります。他の出発点からどのような位置に到達したかについては、何も言えません。また、好みが変わったらどうなるかはわかりません。連立方程式系にイベントを導入することは正当ではありません。
2 次元のダイアグラムでは、時間はダイアグラムが描かれている平面に対して直角にあり、過去はその後ろに、未来は前に置かれます。ジョンソン教授の経済が、ある均衡点を通過する経路で歴史を生きてきて、ある日、嗜好の変化が起こったとします。その場合、その位置はもはや均衡のとれたものではありません。生産パターンの変化には、少なくとも進行中の投資と投資の削減、および不適切になった在庫の偶発的な損失と利益が含まれる必要があります。新しい均衡を見つけるのにどれくらいの時間がかかるか、またはどのような経路をたどるかを言うには(もしあれば)、経済が均衡から外れているときの行動について、失望の影響を含めて、全体のストーリーを記入する必要があります。その住民によって下される決定への期待。ワルラス派のシステムは、スラッファやフォン ノイマンのシステムよりも需要の変化に対処する能力がありません。市場の理論は、雇用の理論と同じくらいケインジアン革命を必要としていた。ケインズ自身がいくつかのヒントを投げかけ、たとえば一次産品の取引の行為に精通している人なら誰でも、それが投機、つまり需要と供給の将来の挙動についての推測によって支配されていることを知っています。このような市場は、元の生産者と最終的な購入者の間の仲介者 (多くの場合、複数の層) によって作成されます。不確実性は市場を不安定にする傾向があります。なぜなら、価格の上昇はしばしば株の買いのシグナルであり、下落は売りのシグナルであるからです。市場の理論は、雇用の理論と同じくらいケインジアン革命を必要としていた。ケインズ自身がいくつかのヒントを投げかけ、たとえば一次産品の取引の行為に精通している人なら誰でも、それが投機、つまり需要と供給の将来の挙動についての推測によって支配されていることを知っています。このような市場は、元の生産者と最終的な購入者の間の仲介者 (多くの場合、複数の層) によって作成されます。不確実性は市場を不安定にする傾向があります。なぜなら、価格の上昇はしばしば株の買いのシグナルであり、下落は売りのシグナルであるからです。市場の理論は、雇用の理論と同じくらいケインジアン革命を必要としていた。ケインズ自身がいくつかのヒントを投げかけ、たとえば一次産品の取引の行為に精通している人なら誰でも、それが投機、つまり需要と供給の将来の挙動についての推測によって支配されていることを知っています。このような市場は、元の生産者と最終的な購入者の間の仲介者 (多くの場合、複数の層) によって作成されます。不確実性は市場を不安定にする傾向があります。なぜなら、価格の上昇はしばしば株の買いのシグナルであり、下落は売りのシグナルであるからです。それは、需要と供給の将来の行動についての推測によるものです。このような市場は、元の生産者と最終的な購入者の間の仲介者 (多くの場合、複数の層) によって作成されます。不確実性は市場を不安定にする傾向があります。なぜなら、価格の上昇はしばしば株の買いのシグナルであり、下落は売りのシグナルであるからです。それは、需要と供給の将来の行動についての推測によるものです。このような市場は、元の生産者と最終的な購入者の間の仲介者 (多くの場合、複数の層) によって作成されます。不確実性は市場を不安定にする傾向があります。なぜなら、価格の上昇はしばしば株の買いのシグナルであり、下落は売りのシグナルであるからです。
メーカーの価格はそれほど変動しません。大規模で強力な企業は、小売業者と直接取引し、多かれ少なかれ長期的なポリシーに従って価格を設定します。しかし、彼らでさえ未来を知ることはできません。彼らは見積もりに取り組みます。いわゆる「フルコスト・プライシング」とは、発電所の想定平均稼働率と収益寿命を基に、償却費を含めた生産高あたりの費用を計算し、純利益の水準にマージンを加えたものです。行くのが賢明と思われる利益。プラントの耐用年数にわたる実際の稼働率が基準を超える場合、純利益は計算されたレベルを超え、逆に。中間タイプの市場で活動するさまざまな中小企業があります。そのような生産者は、需要と供給の気まぐれの影響を大きく受けますが、商品価格の絶え間ない変動には左右されません。それらはインドのような経済の重要な部分ですが、西洋では、それらの価格を管理するオリゴプソニスト(大規模な小売チェーン)の管理下にますます陥っています. これらすべては、「私たちが未来についてほとんど知らないという事実から抽象化することによって現在を取り扱おうとする」均衡理論から除外されています。
3
ケインズが古典派と共通していたもう 1 つの主要な特徴は、彼らが彼と同じように、実際の現代の問題に関心を持ち、
彼らが生きている経済の構造と行動の観点から議論を展開したことです。人間の性質に基づいた普遍的な法則であると主張したもの - 貪欲、短気など。後者は、議論が適用される経済の種類についてはほとんど何も言いません。示唆されるのは、ロビンソン・クルーソーの想定される行動を支配する同じ法律が、ゴスプランの行動、あるいはむしろその行動がどうあるべきか、そしてウォール街の気まぐれを分析するために等しく有効であるということです。
マーシャルは古典的な伝統の一部を保持していました。彼の世界には、ビジネスマン、主婦、労働者、労働組合のリーダー、銀行家、トレーダーが住んでいます。彼の道徳的な口調 - 「家事使用人の中には多くの優れた性質があります... 現代の耳にはコミカルに聞こえます. 彼は彼の理論に合うように観察をねじ曲げることを超えていませんでした - 株式会社の停滞 - しかし彼は特定の段階で認識可能な経済を研究していました.コミュニティの認識可能なクラスが、特定の法律の枠組みと受け入れられた慣習の中で互いに相互作用する、その歴史的発展の。
ピグーはマーシャルから歴史を空にし、分析を二次元スキームに減らしました。マーシャルの議論は、悪名高いジレンマを引き起こした。彼は個々の企業の規模の経済を信じていました。企業が成長するにつれて、経験を積み、新しい技術に投資し、生産単位あたりの生産コストを下げます。しかし、すべての市場で (よく知られているいくつかの例外を除いて)、価格をコストに合わせて維持するために十分な数の企業が互いに競合しています。ある企業がたまたまスタートを切り、他の企業を過小評価し、成長し、さらにコストを削減し、最終的に独占を確立しないのはなぜでしょうか? マーシャルの主張は、企業の生命は家族の生命と結びついているというものでした。3 代目になると、創業者の気力は失われ、会社の成長は止まります。
ピグーは、企業の均衡サイズを導入することで、マーシャルをジレンマから救おうと試みました。毎週、企業はその製品の限界費用が支配価格に等しくなるような生産物を販売することによって利益を最大化しています。長期的には、競争により、限界費用と平均費用の両方が価格に等しい U 字型曲線の最小点で動作するように強制されます。すべての企業が好きなだけ借りることができる利率があります (富の所有者の将来の割引と何らかの形で関連しています)。均衡状態にあるとき、年間の純利益は、資本の価値に対する支配率で、利子をカバーするのにちょうど十分です。このリグマロールは、現代の正統性に組み込まれたマーシャルからの唯一の遺産でした。
Pigovian システムと並んで、Walras の遺産は非常に精緻化されています。この分野では、経済の特徴の仕様は非現実的というより、存在しないということです。時々、市場にはまったく人がいないように見えます - 商品の価格と量だけが言及されています. 時には、すべての個人が労働力と物理的インプットの両方を独自に保有しているため、社会は多数のロビンソン・クルーソーで構成され、並んで生活し、生産物を交換しています。時々私たちはアダム・スミスの世界にいるように見える.そこでは男(明らかに独立した手段を持っている)がパン屋と醸造業者の私利私欲に訴えて彼に夕食をとらせる.
しかし、社会は、階級や職業の区別のない純粋な協同組合として表されます。フランク・ラムジーの有名な定理のように、社会は貯蓄し、社会は蓄積がもたらす収入増加の恩恵を享受します。 
歴史と均衡
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ワルラスからピグーへの飛躍は、しゃれによって行われます。ワルラスにとって、「生産要素」とは、大工、レンガの積み荷、または牧草地のようなものです。ピグーによって伝えられた、マーシャルがリカードから導き出したシステムでは、生産要素は労働、資本、土地である。「要素」という言葉を両方の意味で同時に解釈すると、市場での値切り交渉によって確立された、利用可能な投入物のストック内の品目の価格に関する議論は、長期均衡における賃金、利子、および地代の決定に適用されます。 . 
数学表記で表されたこの駄洒落は、流行の教科書で提供されている、いわゆるミクロ経済学の基礎となっています。
4
ケインズは、企業が借りた資金に対して支払わなければならない利子と、企業が投資から得ることを望んでいる利益との違いを指摘しました。彼の厳密に短い期間の問題のために、彼は資本の実現利益率を必要とせず、将来を見据えた不確実な利益の期待だけを必要としました。これは正式には、将来の一連の準地代の期待値を、今日投資される資本合計と等しくなるように引き下げる割引率として表すことができます。しかし、お金の価値の不確実性と将来の変化により、計算が曖昧になります。
マーシャルの通常の利益とウィクセルの自然利子率は、資本主義経済に適用されるはずだったが、そのレベルは説明されなかった. アダム・スミスは、ピン工場について、パン屋や醸造業者の話とはまったく異なる話をしました。そこでは、賃金を低く設定できるほど利益の割合が高くなりましたが、利益率の決定に関する明確な説明は彼にはわかりませんでした。リカードだけが資本利益率の理論の基礎を築いたが、これは新古典主義時代にスラッファによって解体されるまで忘れ去られていた. 新新古典派は、利益の理論を「収益率」の概念に置き換えようとしています。
アーヴィング・フィッシャーにとって、収益率とは、男性が自分の富を増やしたときに得られる収入の増分でした。したがって、金利が 10% の金箔張りの現代経済では、100 ポンドの貯蓄に対する収益率は、永久に年間 10 ポンドです。職人の経済では、貯蓄の収益は生産物の流れに追加されます。たとえば、鍛冶屋が自分のエネルギーの一部を鍛造の改善に費やして、一定量の仕事で生産された蹄鉄です。フランク・ラムゼイの成長過程では、さらなる貯蓄の社会全体への効用という観点から見た収益率は、富が蓄積するにつれて変化します。しかし、収益率は、資本主義経済における利益率と関連しているのは、方法論的な混乱だけです。
ワルラス均衡の静的状態にある経済の図に戻りましょう。次に、同じ味と技術を持ち、同じ労働力とより多くの物理的投入量(いくらかは多く、どれも少なくない)で均衡している別の経済と比較してみましょう。その場合、生産される商品の一部またはすべてのより大きな生産量があります。ジョンソン教授は、第 2 の経済圏ではパテの塊が大きく、全体として見た単位あたりのパテの賃料は第 1 の経済圏よりも低く、代表的な労働者の収入は第 1 の経済圏よりも高いと言えます。最初のエコノミー。代表的なパテ所有者の収入は、パテと労働の間の代替の弾力性に応じて増減する可能性があります。(これは一般均衡の仮定によるものであり、実際の生活とは一致しません。
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そのような比較のために、パテは適切な概念であると考えられるかもしれません。しかし、2 番目のセットの入力が単純​​な量としてどれほど大きいか (パテはたとえ話であり、文字通りに解釈されるべきではありません) を言うことはできません。単純な比率として。
入力と出力の 2 つのリストは、異なる比率の項目で構成されており、最初のリストには表示されなかった項目が 2 番目のリストにある場合があります。すべての相対価格は、2 つの位置で異なります。賃金率または 2 つのポジションでの投入物の在庫の価値の比較は、選択されたニュメレールに完全に依存し、どのニュメレールも他のどのニュメレールよりも関連性が高いわけではありません。
この問題は、「資本の測定」というタイトルでよく議論されてきました。しかし、正確に言えば、ワルラス市場には「資本」はありません。労働者を雇用して利益を上げるために、生産能力に資金を投資した資本家はいない。利用可能なさまざまな種類の入力の数量のリストのみがあります。ピゴウの定常状態では、資本のストックがあり、その価値は、たとえば賃金単位で表すと、技術的条件と金利に依存します。オブジェクトの恣意的なリストの代わりに、消耗した機器のバランスの取れた在庫をそのまま維持し、生産で使用された原材料の供給を更新するのにちょうど十分な総投資の流れがあります. 純産出の流れは経済の収入を構成し、
ヴィクセルによって開発されたオーストリアの理論は、そのような場合、平均的な生産期間によって「資本を測定する」ことを試みた. Wicksell が発見したように、これは正確ではありません。しかし、仮にそうだったとしても、「収益率」を検出するのには何の助けにもなりません。
同一の労働力を持ち、一方の純生産量が他方よりも高い 2 つの均衡位置を比較すると想像できるかもしれません。しかし、後者が最初のものよりも「より多くの資本」またはより長い平均生産期間を持っているということにはなりません。それらを共通の利率で比較すると、生産量が高い方が資本の価値が高いという保証はありません。それらは、それぞれが独自の技術に適した生産手段の在庫を持ち、現在の位置につながった独自の過去の歴史を持つ、異なる技術を使用する2つの均衡位置にすぎません。「資本の測定」に関する長い論争は、二次的な問題をめぐる大騒ぎでした。
定常均衡にある経済の静止写真を何枚も撮れると思うかもしれません。「測定」問題は、すべての値を労働時間で計算することによって解決できると仮定しよう。経済は、雇用された 1 人あたりの資本の値が大きいほど、資本の値が高いほど、資本の値が高い系列に並べることができると仮定しよう。サミュエルソン教授の「代理生産関数」のように、均質な消費財の 1 人あたりの純生産量。これは許容できる思考実験です。ただし、静止画をプロジェクターで反転させて蓄積過程の動画を取得することはできません。
蓄積について議論する前に、最初に戻ってワルラスとピグーが答えなかった問題に取り組まなければなりません。蓄積はどのような経済で行われているのでしょうか。フランク・ラムゼイの階級のない協同組合、農民と職人の集まり、または近代的な資本主義国家ですか? それは貯蓄率が世帯の決定に依存する財産所有の民主主義ですか?もしそうなら、どのような手段で貯蓄が投入ストックへの追加に変換されるのでしょうか? あるいは、投資が産業企業の決定に依存している場合、彼らはどのようにして財務を指揮し、利益に対するどのような期待が彼らの計画を導いているのでしょうか? 完全雇用継続による成長を確保する仕組みが制度にあるか。そして、一人当たりの資本価値の増加が、将来の利益率の低下につながるとすれば、企業は既存の生産機能をおとなしく這いずり下ろすのか、それとも投資単位あたりの生産高と 1 人あたりの生産高を高める新しい技術を導入するのか? 産業資本主義国における継続的な成長期間のデータは、カルドアの定型化された事実、つまり生産額に対する資本の価値と賃金の両方の比率がかなり一定であるという事実に概ねよく一致しているように思われる。これは、全体的な事後資本利益率がかなり一定であることを意味します。実質賃金が上昇し、利益率が一定であることを考えると、各観測点は異なるテクノロジーから引き出されたに違いないということになります。思考実験としてさえ、成長する経済において代理生産関数または疑似生産関数の存在を仮定することは意味がありません。
確かに発展途上国にとって、技術の選択は重要な問題です。この選択は、「資本」対労働または生産高の比率には関係ありません。これは、投資可能なリソースの割り当てに関係しています。投入物のストックへの追加を生み出すことによる将来の労働生産性の増分は、投資収益率と呼ばれるかもしれませんが (率として表現するのは容易ではありませんが)、利益率や利益率とは何の関係もありません。資本の既存の総ストック、または過去から受け継がれた富の利率。
「資本の測定」の問題は、新古典派の教義に対する批判の小さな要素です。主要なポイントは、彼らがポストケインズ派の累積理論の代替またはライバルとして提供しようとしているのは、方法論の誤りに過ぎないということです - 想像上の均衡位置の比較と、歴史を通じて進行している累積のプロセスとの間の混乱です。
[ 5 
] 歴史的時間の理解可能な取り扱いの欠如と、議論されている経済のタイプにおけるゲームのルールを特定することの失敗により、新新古典主義の教科書で提供される理論的装置は、現代の問題の分析には役に立たなくなります。ミクロ球とマクロ球。

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