2020年11月24日火曜日

安吾とクリスティ

安吾「不連続殺人」VSクリスティ「ナイル」&「ABC」

原作は推理小説史上の名作、恐れ多くも「純文学」系の作家様に書いて頂いた傑作、ということで、仮に命名すれば、推理小説協会選定<名誉推理小説大賞受賞>といった趣の作品。将棋や剣道の「名誉〇〇段」と似たようなもの。「推理小説のファン」が、翻訳物推理小説の名作をアレンジ、換骨奪胎して書いたゴリゴリに凝って、凝りすぎた推理小説といったレベルを超えていない。翻訳推理小説をアレンジ(日本を舞台に大胆に脚色)した手腕はさすがにプロ作家、というところではあるのだが。江戸川乱歩が困惑したのも無理もない。それでも、乱歩の昼の顔は「温和な常識人、有能な編集者」であったから、なんとか「不連続」の誉めるべき点は、うまくお膳立てして、評価はしている。努力賞ぐらいの扱いはした。

 原作が読みにくいのは文体のせいでも、容疑者が多すぎ、被害者が多過ぎのせいでもなく、登場人物達の人間関係(相関図)の説明の仕方、記述が雑なせいである。余りにも無造作すぎ。探偵小説は安吾の余技といえば、それまでだが。安吾は批判した横溝正史は、推理小説作家としては、比較するのも愚かしいほど安吾より数段上なのだ。横溝作品は虚仮威(こけおど)しアナクロ・トリック満載だが、それだけなら、とっくに古びている。しかし、横溝の書き方は推理小説の王道で、見事な構成で読者をグイグイ引っ張っていく力があるのだ。そうした横溝の力量がわからず、トリックの不自然さ、犯罪の不自然さを叩いて、いっぱしの私見を披露したつもりでいた安吾は、やはり、推理小説については、素人、一ファンの域を出ていなかった。横溝作品の構成美に魅せられて映画化した市川崑監督のほうが、はるかに、推理小説の美学を理解していた。

 探偵小説は「犯人当てゲーム」という安吾の推理小説観(「純文学」と探偵小説は別もの)が、「不連続殺人事件」に心理描写が最低限というより、ほどんど描かれていない理由なのかもしれない。安吾がお気に入りのクリスティ作品(「スタイルズ荘」「ナイル」「アクロイド」「ABC」etc.etc.)では緻密な心理描写が不可欠の要素になっているのだが。

 「不連続」は、アガサ・クリスティの「ナイルに死す」のトリックというより、犯人設定を頂いた(パクリといえばパクリだが、一概に、そう決めつけることもない)作品で、新鮮味に欠けることおびただしい。クリスティの「ナイル」を知っていると、「不連続」でいかに多くの登場人物(容疑者)が出てきても、「行動が異様で、しかも鉄壁のアリバイがあるため、かえって目立ちすぎる人物」が怪しいのだと、早々と犯人が分かってしまう。「アクロイド」にしろ「オリエント急行」にしろ「カーテン」にしろ、クリスティの名作に使われた推理トリックは、一回しか使えないという斬新なもので、パクりバリーエーションが難しいのだ。模倣すると、パクリだとすぐわかる。(にもかかわらず、パクリバリエーション作品は氾濫している。そうそう斬新なトリックなど量産できるはずもないから、これは致し方がないが。)「不連続」の場合、戦後まもないころとて、意外な犯人設定の元ネタであるクリスティの作品を知る読者は限られており、一般読者には新鮮で独走的に映ったという幸運に恵まれて、推理小説のプロ以外の受けは良かった。

 本当の目的を隠すための連続殺人というアイデアは、クリスティのもうひとつの「ABC殺人事件」を参考にしたのであろうが(探偵小説の愛好家としての安吾が一番好んだのは、アガサ・クリスティの作品だった)、それはそれとしても、犯人設定は「ナイル」から離れたほうが良かったと思われる。トリックと犯人の意外性は密接に(密室に?)に結びついているから、切っても切れない。不可能犯罪を可能にする犯人像がトリック自体ともいえるところに、クリスティの「ナイル」の独創性(ぶっちぎりの独走姓で突っ走る)がある。そこまで、読み込んで、坂口安吾が「ナイルに死す」を参考にしたかどうか、かなり、疑問なのであるが。

 映画版について。
 映画は映画の楽しみ方があり、小説とは別物とはいえなくもないが、原作の過大評価が映画化にも災いして、大時代の大袈裟な描き方になっている。人間関係の煩雑さまで踏襲することもあるまいに。

 いろいろな意味で奇作といえる「不連続」を映像化した大胆さ、無謀さは評価しよう。 d( ̄  ̄)


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