MMT超入門〜財政政策を検討せよ!〜[2021 12 20放送]週刊クライテリオン 藤井聡のあるがままラジオ(KBS京都ラジオ) https://t.co/Zp3Od6zJ6y pic.twitter.com/6MbtZj0mkP
— 地域通貨花子1 (@TiikituukaHana) January 3, 2022
:第二合衆国銀行
"Downfall of Mother Bank" by Henry R. Robinson, 1833.
"Jackson Slaying the Many-Headed Monster," 1828.
© Collection of the New York Historical Society / Bridgeman Art Library
https://www.neh.gov/humanities/2008/januaryfebruary/feature/king-andrew-and-the-bank
History Brief: Andrew Jackson's War on the Bank
The War Against the Bank
Andrew Jackson & The Bank Wars: BRI's AP U.S. History Exam Study Guide
2021年12月25日 藤井先生 「(日本政府は)プライマリーバランスを 黒字化って言ってるんで、借金をゼロにしようとしてるんですよ。そんなことやった奴普通いないんですけどね。 おるんですよ。ジャクソン大統領という人が1836年に中央銀行を廃止して、政府の借金を返済し始めた。 で、翌年大恐慌…」2021年12月25日
— MMT太郎🐾消費税は廃止🐶国会に緊張感を! (@MMT20191) December 25, 2021
藤井先生
「(日本政府は)プライマリーバランスを
黒字化って言ってるんで、借金をゼロにしようとしてるんですよ。そんなことやった奴普通いないんですけどね。
おるんですよ。ジャクソン大統領という人が1836年に中央銀行を廃止して、政府の借金を返済し始めた。
で、翌年大恐慌…」 pic.twitter.com/OyXUa2TsMD
| ||||||||||||||||||||||||
| |||||||||||||||||
1835 January 08
The U.S. national debt reaches $0 for the first time
1835年1月08日
アメリカの国家債務が初めて0ドルに到達
ジャクソン大統領が1836年中央銀行を廃止
政府の借金を「返済」し始めた
↓
1837年恐慌が勃発!
出典:U.S. Treasury Fiscal Data,
Historical Debt Outstanding
年末の総復習!
MMT理論のポイント
超人門MMT
ポイント1
政府は貨幣の供給者
ポイント2
貨幣が増えるとインフレに
貨幣が減るとデフレになる
【これでわかった! 世界の常識「MMT(現代貨幣理論)」の真実】
「日本の借金は1,200兆円もある」
「国民一人当たり1千万も背負っている」
私たち日本人は、そんな説明を何十年も受けてきました。
「だから消費税の増税も仕方ないか」
そんなふうに考える人も多かったと思います。
ところがMMT現代貨幣理論が知れ渡ると、
「日本が破綻するなんてことはあり得ない!」という声が、
あちらこちらから聞こえるようになりました。
さて、いったいどちらが正しいのか?
「MMTを理解するには、まずはオカネをの仕組みを理解してほしい」
著者の藤井先生は、そう言います。
古くは物々交換から始まり、その信用の記録としてお金が生み出された。
たしかにそうだったかもしれません。しかし、その考え方は古いのです。
MMTは現代の貨幣理論です。
現代のオカネの仕組み──それを端的に言えば、
「国家によって作り出された納税システムを機能させるツール」
本書の<第二章 そもそもオカネ(貨幣)ってなに?>です。
このポイントに気がつくと、あらゆることがスムーズに理解できるはずです。
元内閣官房参与で、アベノミクスの問題点を知り尽くした著者が解説する、実践的MMT理論。
そこから見える本当の日本の抱える問題──緊縮財政、消費増税、長期デフレについて解説し、
日本がどういった道を進むべきなのかを提案します。
〈本書の主な内容〉
第一章 どうしてMMTは話題になるの?
第二章 そもそもオカネ(貨幣)ってなに?
第三章 なぜMMTはトンデモ理論と言われたの?
第四章 MMTは本当に日本を良くするの?
第五章 MMTってどう使えばいいの?
〈著者プロフィール〉
藤井 聡(ふじい・さとし)
1968年、奈良県生まれ。京都大学大学院工学科教授。
京都大学工学部卒、同大学大学院修了後、同大学助教授、イエテボリ大学心理学科研究員、東京工業大学助教授、教授を経て、2009年より現職。2011年より京都大学レジリエンス実践ユニット長。12年から18年まで、安倍内閣・内閣官房参与(防災減災担当)、18年よりカールスタッド大学客員教授、『表現者クライテリオン』編集長。主な著書に『ゼロコロナという病』(共著・サンケイセレクト)、『こうすれば絶対よくなる!日本経済』(共著・アスコム)などがある。
https://www.history.com/.amp/this-day-in-history/andrew-jackson-national-debt-reaches-zero-dollars
1835
January 08
The U.S. national debt reaches $0 for the first time
On January 8, 1835, President Andrew Jackson achieves his goal of entirely paying off the United States’ national debt. It was the only time in U.S. history that the national debt stood at zero, and it precipitated one of the worst financial crises in American history.
The elimination of the national debt was both a personal issue for Jackson and the culmination of a political project as old as the nation itself. Since the time of the Revolution, American politicians had argued over the wisdom of the nation carrying debt. After independence, the federal government agreed to take on individual states’ war debts as part of the unification of the former colonies. Federalists, those who favored a stronger central government, established a national bank and argued that debt could be a useful way of fueling the new country’s economy. Their opponents, most notably Thomas Jefferson, felt that these policies favored Northeastern elites at the expense of rural Americans and saw the debt as a source of national shame.
Jackson, a populist whose Democratic Party grew out of Jefferson’s Democratic-Republican Party, had a personal aversion to debt stemming from a land deal that had gone sour for him in his days as a speculator. Campaigning for re-election in 1832, Jackson vetoed the re-charter of the national bank and called the debt “a moral failing” and “black magic.” Jackson vetoed a number of spending bills throughout his tenure, putting an end to projects that would have expanded nationwide infrastructure. He further paid down the debt by selling off vast amounts of government land in the West, and was able to settle the debt entirely in 1835.
Jackson’s triumph contained the seeds of the economy’s undoing. The selling-off of federal lands had led to a real estate bubble, and the destruction of the national bank led to reckless spending and borrowing. Combined with other elements of Jackson’s fiscal policy as well as downturns in foreign economies, these problems led to the Panic of 1837. A bank run and the subsequent depression tanked the U.S. economy and forced the federal government to begin borrowing again.
The U.S. has been in debt ever since. The debt skyrocketed during the Civil War but was nearly paid off by the early 20th Century, only to balloon again with the onset of World War I. Numerous presidents and politicians have decried the debt and even pledged to do away with it, with conservatives and libertarians frequently echoing Jackson. Nevertheless, with the debt now surpassing $22 trillion, it is unlikely that the events of 1835 will be repeated in the foreseeable future.
1835
1月08日
アメリカの国家債務が初めて0ドルに到達
1835年1月8日、アンドリュー・ジャクソン大統領は、米国の国債を全額返済するという目標を達成する。米国史上、国債がゼロになったのはこのときだけであり、米国史上最悪の金融危機のひとつを引き起こした。
国債の償還は、ジャクソンにとって個人的な問題であると同時に、国家そのものと同じくらい古い政治プロジェクトの集大成であった。独立戦争以来、アメリカの政治家たちは、国家が負債を抱えることの賢明さをめぐって議論してきた。独立後、連邦政府は旧植民地統一の一環として、各州の戦時債務を肩代わりすることに同意した。中央政府の強化に賛成する連邦党は、国立銀行を設立し、借金は新しい国の経済を活性化させる有用な手段であると主張した。しかし、ジェファーソンをはじめとする反対派は、こうした政策が北東部のエリートを優遇し、農村部のアメリカ人を犠牲にしていると考え、借金は国の恥であると考えた。
ジェファーソンの民主・共和両党から発展した民主党のポピュリストであるジャクソンは、個人的に借金を嫌っており、それは彼が投機家だった時代に、土地取引で失敗したことに起因していた。1832年、再選を目指すジャクソンは、国立銀行の再議長選に拒否権を発動し、債務を「道徳的失敗」、「黒魔術」と呼んだ。ジャクソンは在任中、多くの歳出法案に拒否権を発動し、全国のインフラを拡張するようなプロジェクトに終止符を打った。さらに、西部の広大な国有地を売却して負債を返済し、1835年に負債を完全に清算することができた。
ジャクソンの勝利は、経済の破滅の種を含んでいた。連邦所有地の売却は不動産バブルを招き、国立銀行の破壊は無謀な支出と借入を招いた。そして、ジャクソンの財政政策と海外経済の悪化が相まって、1837年の大恐慌を引き起こしたのである。銀行倒産とその後の不況でアメリカ経済は悪化し、連邦政府は再び借金を始めなければならなくなった。
それ以来、米国は負債を抱えるようになった。多くの大統領や政治家が負債を非難し、負債をなくすことを公約に掲げ、保守派や自由主義者は頻繁にジャクソンの意見に同調している。しかし、負債が22兆ドルを超えた今、1835年のような事態が当面繰り返されることはないだろう。
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。
金融恐慌1907
□復活を果たしたが、再び廃業に
しかし、中央銀行を巡る争いはさらに続く。一八一二年に第二次米英戦争が勃発する。政府が戦費を調達することのできる合衆国銀行は、既に存在していなかった。一八一三年三月に当時の財務長官はマディソン大統領に宛てた書簡の中で、「政府は月末までに戦争を続行するための十分な資金を調達できない」と資金状況を説明している。そのためマディソン政権は財務省証券を発行し、三人の大金持ちから借り入れをする一方、金などの正金の裏付けのない政府紙幣を発行し、さらに消費税引き上げで戦費を賄った。戦争が終わったとき、連邦政府の債務は一億二〇〇〇万ドルに達していた。これは当時のGDPの約一五%に相当した。財政基盤の弱い政府に債務返済能力があるかどうかが問われた。戦争中に財務長官に就任したアレキサンダー・ダラスは、政府の財政に関して「公的信用の基礎を形成する政府の課税体制が不十分で、歳入を予想し、税金を徴税し、配分する最も優れた制度を欠いている」と、政府の置かれた状況について語っている。新しく誕生した民主党はジェファーソンの農本主義的な思想を継承し、政府の関税や税金の引き上げに反対したが、この時期にやっと「一つの国家として行動できるようになった」。
ただ戦争中に戦費を賄うために正金の裏付けのないペーパーマネーを大量に発行したことで、米国経済はインフレに見舞われた。財務省証券の格付けも建国以来最低の水準に引き下げられた。そんな中で再び中央銀行の設立を求める声があがった。そうした主張の高まりを受けて、マディソン大統領は自らが廃止した合衆国銀行の設立を決意する。一八一六年に議会は合衆国銀行の設立の認可を与えた。認可の期限は二〇年で、資本金は三五〇〇万ドルに設定された。最初の合衆国銀行と区別して、新しい銀行は第二合衆国銀行と呼ばれた。民間からの出資も仰ぎ、第一合衆国銀行と同様に半官半民の銀行として設立された。ダラス財務長官は第二合衆国銀行の役割を、「単に通商促進や利益を求める商業銀行として活動するだけではなく、国の政策を達成するために創設された金融機関である」と述べている。具体的には、政府に代わって徴税を行い、政府の歳入資金を預金として受け入れ、政府の指示に従って支払いを代行した。第一合衆国銀行と比べればより明確に中央銀行的な役割を果たすような組織になり、銀行の〝最後の貸し手〟の役割を果たすようになった。銀行は危機に際して第二合衆国銀行から資金を借りることができ、第二合衆国銀行の銀行券の信用度は高く評価された。また第二合衆国銀行は州法銀行の銀行券を保有し、保有する州法銀行の銀行券の管理を通して一種の銀行の信用供与をコントロールすることもできた。すなわち景気が過熱する事態になれば、第二合衆国銀行は銀行券を金に兌換することで、銀行の信用供与に影響を与えることができた。さらに第二合衆国銀行は為替市場に介入する為替平衡操作も行うようになった。
第二合衆国銀行は盤石な基盤を構築したかに見えた。海外からも米国の中央銀行と認知されるようになった。だが、第二合衆国銀行は法的には国が認可した一つの国法銀行であり、他の民間銀行と基本的に変わらなかった。州が認可した州法銀行は、第二合衆国銀行の強大な権限に反発し始めた。また農業を基盤とする南部諸州は第二合衆国銀行に積極的な信用拡大を求めた。だが、東部の諸州は健全な金融政策を求め、金融政策を巡る南北の対立が表面化するようになった。そうした中で民主党の創始者であり、第二次米英戦争の英雄であったアンドリュー・ジャクソンが一八二九年に大統領に就任した。ジャクソン大統領はジェファーソン的な農本主義者で、第二合衆国銀行に限らず銀行そのものに対して否定的な見方をしていた。選挙の公約に第二合衆国銀行の廃止を掲げていたジャクソン大統領は、大統領就任後の一般教書演説で、第二合衆国銀行の違法性を指摘している。一八三二年に第二合衆国銀行の認可延長の法案が提出され可決されたが、ジャクソン大統領は拒否権を発動し、延長法案への署名を拒否した。その際、「富裕層は等しい保護と等しい恩恵を受けているだけでは満足しない。議会に自分たちがもっと裕福になれるようにと請願している」と語り、第二合衆国銀行は腐敗の巣窟であると口を極めて批判した。現在の民主党の反金融機関的な主張は、ジェファーソンやジャクソンにまで遡ることができるのである。
議会はジャクソン大統領の拒否権を覆すことができず、第二合衆国銀行は当初の二〇年の認可が過ぎると、その役割を終えることになる。さらにジャクソン大統領は一八三三年に第二合衆国銀行に預けていた政府預金を州法銀行に移すように命令した。一八三四年から第二合衆国銀行は貸し出しを減らし、保有する州法銀行の銀行券を金に兌換していく。これは第二合衆国銀行のジャクソン大統領に対する反発から出た行為であった。これに対してジャクソン大統領は「第二合衆国銀行は私を殺そうとしている。だが私が第二合衆国銀行を殺してやる」と極めて厳しい口調で第二合衆国銀行を批判した。この第二合衆国銀行の措置で信用収縮が起こり、一八三四年に金融パニックが発生した。一八三五年の中間選挙で野党が勝利し、第二合衆国銀行を再認可する動きが出るが、民主党が両院の多数を占めていたことで、その努力も実らなかった。一八三六年に第二合衆国銀行の認可が切れ、同行はペンシルバニア州の州法銀行に移行し、有力な銀行として営業を続けたが、綿の先物取引で巨額の赤字を計上し、一八四一年に廃業に追い込まれた。
□フリーバンキングの時代と繰り返される金融恐慌
第二合衆国銀行の消滅で米国の金融制度は〝最後の貸し手〟のいない異常な状況が続くことになる。また第二合衆国銀行は当時、唯一の国が認可した国法銀行であったが、同行の消滅で、米国の銀行はすべて州政府が認可する州法銀行だけとなった。州政府がそれぞれ認可基準を設定し、基準を満たせば、個人でも法人でも銀行設立がほぼ自動的に認可された。なかにはジャクソン的な考えから銀行の設立を禁止する州もあった。自由に銀行設立ができることから、これ以降の時代は〝フリーバンキングの時代〟と呼ばれるようになる。銀行は支払い準備として金か財務省証券、州債を決められた割合で州の銀行管理局に預託することが義務付けられた。州政府は、預託された準備を通して間接的に銀行を監督した。州政府は銀行に対する預金準備率を変更することで、信用供与に影響を与えることができた。銀行は自由に銀行券を発行することができた。
当初、フリーバンキングは上手く機能した。銀行倒産もほとんど起こらなかった。ちなみにノーベル経済学賞を受賞したフリードリッヒ・ハイエクはフリーバンキング制への復帰を主張していた。保守派の経済学者のマリー・ロスバードも中央銀行制度を批判し、フリーバンキング制度を支持している。
だが、現実には兌換券を発行しない銀行も多く設立された。こうした銀行は〝ワイルドキャット銀行〟と呼ばれたが、一八三七年に金融パニックが起こると一八四〇年ごろまでにはこうした銀行はほぼ完全に淘汰された。
〝最後の貸し手〟の存在しない金融制度は、どう機能したのであろうか。最初の試みは、一八二四年にボストンのサフォーク銀行と六つの銀行が独自の制度を作り、銀行同士が危機に陥った銀行を支援し合う組織が形成された。六つの銀行は準備預金をサフォーク銀行に預けた。資金が必要となると、サフォーク銀行が加盟銀行に融資を行った。地方の中央銀行の役割を果たしたのである。また、銀行間の手形の振り替え決済をする「クリアリング・ハウス(手形交換所)」の役割も果たした(なお本書では「クリアリング・ハウス」は「資金決済機構」と訳されている)。サフォーク銀行は預託された資金を使って高収益を上げ、加盟銀行はサフォーク銀行の株式を保有し、高配当を得ることができた。これが後の連邦準備制度の原型になったと言われている。
しかし、全国的な規模でのクリアリング・ハウスは存在しなかった。中央銀行が存在しないため、資金の決済や移動は金などの正金の移動を伴った。その結果、金が流出した銀行は信用を収縮しなければならなくなる。フリーバンキングの時代は財務省が大きな役割を果たした。一八四〇年に「独立財務省法案」が成立し、財務省が独自に金融政策を行う仕組みができあがった。財務省は徴税などの財務的な業務だけでなく、政府に預ける政府預金を通して銀行の信用管理を行った。言い換えれば、財務省証券の発行を通して通貨供給量の管理を行ったのである。財務省証券は銀行の支払い準備として使える。したがって財務省が財務省証券の発行を増やせば、預金準備が増え、銀行の信用創造が進むことになる。もちろん、財務省証券の裏付けとして金が存在していた。また財務省は財務省証券の取引を通して金利にも影響を与えることができた。一種の公開市場操作を行っていたのである。
一八六一年に南北戦争が始まる。リンカーン政権は戦費調達のために正金の裏付けのないペーパーマネーを発行した。その紙幣の裏側が緑色だったことから、〝グリーンバック〟と呼ばれ、この呼称は現在でも使われている。金の裏付けのないグリーンバックの発行はインフレを誘発した。また戦争中、金は退蔵され、また貿易決済で金が国外に流出し、米国は準備不足の事態に直面した。その結果、一時的に兌換券と金との交換が禁止される措置も取られた。また南北戦争のさなかの一八六三年に「国法銀行法(National Bank Act of 1863)」が成立し、財務省の中に通貨監督局が設置され、同局に国法銀行設立の認可権限と監督権が付与された。目的は、主要都市に中核銀行を設立し、全国的な中核銀行のネットワークを構築することであった。それまで、様々な銀行券が発行されていたが、同法によってドル紙幣のデザインの統一が行われた。またすべての銀行は国法銀行が発行する紙幣を額面で受け取ることと、資本金の三分の一以上を財務省証券で保有することが義務付けられた。こうした措置の狙いは、州法銀行を強制的に廃止に追い込み、財務省証券の販売チャネルを拡大することであった。その結果、多くの州法銀行は国法銀行へと鞍替えし、一八六三年に六六行しかなかった国法銀行が一年間で五八四行まで増えた。このとき、現在のシティバンクの前身であるシティ・バンク・オブ・ニューヨークも州法銀行から国法銀行へ転換している。しかし、財務省の州法銀行廃止の狙いは成功せず、米国は州法銀行と国法銀行が併存する「二重銀行制度(dual banking system)」が現在に至るまで続いている。
□金融破綻を防いだクリアリング・ハウス
フリーバンキングの欠陥は明らかであった。米国の産業革命が進み、経済規模が拡大するにつれて相次いで金融パニックが発生するようになる。米国は牧歌的な農業国家から世界有数の産業国家へ発展し、それに伴って金融も複雑化してきた。金融パニックは、独自の金融制度に起因していると言っても過言ではない。農業州では種まき期と収穫期に農家の資金需要が増え、銀行の貸し出しも増えた。だが農閑期には資金需要は減少し、銀行は過剰な準備を抱えることになる。そのため、地方の銀行は過剰準備をニューヨークなどのマネーセンター銀行に預け、金利収入を得ようとした。準備が増えた大都市の銀行は、資金を短期的に運用しようとした。すなわち、ほぼ自動的に証券ブローカーへの融資を増やしたのである。だが、農業資金が必要となると地方の銀行は資金を引き揚げた。それに伴って都市の銀行は証券ブローカーに融資していた資金を回収することになる。こうした資金の移動が株価動向に大きく影響を与えた。地方と都市の資金依存関係が米国の金融制度の脆弱さの要因であった。
また米国では〝ユニット・バンキング(一店舗だけの銀行)〟が普通で、経営基盤の脆弱な銀行が多く存在していた。こうした制度も、ジャクソン的な「銀行性悪説」が根底にあった。銀行はコミュニティに貢献すべきだという考え方も影響した。一八九〇年には銀行の総数は八〇〇〇行を超えていた。こうした金融制度は危機に対して極めて脆弱である。
南北戦争後の最初の大きな金融パニックは一八七三年に起こった。デェイブス・リッチ・デューイはFinancial History of the United Statesの中で「それはパニック以上のものであった。長期にわたる金融と産業の恐慌の始まりであった」と、この金融パニックの深刻さを表現している。同年に財務省証券の引き受け・販売で独占的な地位を誇っていた証券会社のジェイ・クック社が倒産した。ノーザン・パシフィック鉄道の社債を引き受けたが販売に失敗し、大量に在庫を抱え込んだことが、破綻の原因であった。投資家は同社から資金を引き揚げたため、営業停止に追い込まれた。ニューヨーク証券取引所の株価は暴落し、市場は閉鎖に追い込まれ、ニューヨークの多くの銀行は取り付け騒ぎに巻き込まれ、支払いを停止した。〝最後の貸し手〟が存在していれば、流動性危機に即座に対応できたはずである。
当時の規則では、地方銀行は預金の一五%に相当する準備を維持し、準備の四〇%は現金で保有し、残りは他の銀行に預けていた。準備を預かった銀行も必要な準備を手元に置くが、余った分は他の銀行に預けた。要するに、銀行同士が準備を預け合う仕組みになっていたのである。中央銀行制度が存在すれば、準備は中央銀行に預けなければならない。したがって当時、銀行の破綻はすぐに他の銀行に波及することになる。たとえばマネーセンターの銀行が破綻すれば、地方の銀行は同時に準備を失うことになる。さらにマネーセンターの銀行の融資は株式ブローカーや鉄道会社へ集中していた。金融パニックが起きたとき、財務省は必要に応じて取り付けに直面した銀行に預金を預けたり、財務省証券の元本償還や利払いの前倒しで通貨を供給したが、そうした措置にはおのずと限界があった。 金融パニックの際に大きな役割を果たしたのが、クリアリング・ハウスである。この組織に参加する銀行が資金を出し合って流動性危機に陥った銀行に救済融資を行った。最初の例では、一八三七年の危機のとき、前述したボストンのサフォーク銀行がクリアリング・ハウスの加盟銀行と一緒に救済融資を行っている。ニューヨーク市では一八五三年にクリアリング・ハウスが設立されている。もともとは手形交換に持ち込んだ手形が決済されないと銀行が破綻するが、それを防ぐ目的で救済融資の制度ができあがった。クリアリング・ハウスは資金が必要な銀行に「クリアリング・ハウス証書」で貸し付けを行い、同証書は現金と同じ扱いをされた。
その後も金融パニックは、一八八四年、一八九〇年と続いた。そして一八九三年の金融パニックは深刻で、当時このパニックは〝大恐慌〟と呼ばれたほどである。このパニックの火付け役となったのはフェデラルフィア・アンド・リード鉄道会社の倒産である。また優先株を大量に発行し、企業買収で急成長を遂げてきたナショナル・コーディッジ社の倒産がきっかけで株価暴落が起こった。金融パニックが起こる前から不動産に対する過剰投資が行われており、不動産価格の暴落で多くの銀行は破綻した。通貨監督局は、この金融パニックが起こった一年間で国法銀行一八五行、州法銀行一七二行、プライベートバンク一七七行、貯蓄銀行四七行、信託会社一三社、住宅ローン会社六社が倒産したと発表している。ちなみに本書には「一八一四年から一九一四年の間に一三回の金融恐慌が発生した」と書かれている。
このときの銀行救済で活躍したのがモルガン商会の創業者のジョン・ピアポント・モルガンである。危機に際してクリーブランド大統領はウォール街の銀行に財務省証券引き受けのシンジケート団の結成を求めた。一八九五年、ホワイトハウスにクリーブランド大統領を訪れたモルガンは、六五〇〇万ドルの財務省証券の発行を引き受ける約束をする。ニューヨークに戻ったモルガンは銀行や証券会社の経営者を自分のマンションの豪華な内装が施された書斎に招き、資金を提供しない限り、書斎から去ることを拒否した。払い込みの金の半分は海外で調達された。この強引なやり方のおかげで財務省の信用が維持された。これは、米国の金融業界における投資銀行の重要さを示すエピソードと言える。また、一九〇七年の金融パニックに際してもモルガンは中心的な役割を果たすことになる。その経緯に関しては本書で極めて詳細に記述されているので、ここでは説明の必要はないだろう。
…
解説中岡望
第三文明2018年3月号
日本の米国大統領と政府: The United States Presidents and Government In ...
アメリカ大統領史100の真実と嘘 - 38 ページ
Outlook: 日米関係研究所報 - 第 15~17 号 - 127 ページ
貨幣と金融政策: 貨幣数量説の歴史的検証 - 85 ページ
金融研究 - 第 23 巻 - 28 ページ
金融恐慌 1907: 米FRB創設の起源とJ・P・モルガン
中岡望はジャーナリスト
https://news.yahoo.co.jp/byline/nakaokanozomu
http://www.redcruise.com/nakaoka/?p=430
もうひとつの信用乗数が効かない理由を指摘する学者もいる。それは「貨幣の流通速度」が低下しているというものだ。これは次の式から説明される(フィッシャーの交換と呼ばれる)。
MV=PQ
M:通貨量、V:通貨の流通速度
P:物価水準、Q:産出高
通常、VとQは一定だと想定されている。とすると、P(物価水準)はM(通貨供給量)で決定される。しかし、Mが増えているのに、Pが上昇しないのは、Vの値が低下しているからだ、という説明である。ただ、この説明では、なぜ一定であると想定されているVの値が低下したのかを明らかにしていない。これもシンポジュームである学者が「Vを高まる必要がある」と語っていたが、なぜVが低下したかを説明しないで、Vを高めることは出来ないのである。
要するに中央銀行であっても、勝手に「通貨をジャブジャブ供給する」ことはできないのである。
【東京ホンマもん教室】12月25日 放送 見逃し動画 年末の総復習!超入門MMT ゲスト:高市早苗(自民党政調会長)
https://youtu.be/Op5Mp6asVBU?t=44m


0 件のコメント:
コメントを投稿