2021年12月27日月曜日

超入門MMT 藤井聡 2021/12/06(ジャクソン大統領の話)

超入門MMT  藤井聡 2021/12/06(ジャクソン大統領の話)

アンドリュー・ジャクソン 1767~1845 

ジャクソンが銀行を破壊している様子を示す民主党の風刺漫画、1833年。右のアンクル・サムの承認で、悪魔として描かれた銀行総裁を悩ませている。

:第二合衆国銀行



"Downfall of Mother Bank" by Henry R. Robinson, 1833.





"Jackson Slaying the Many-Headed Monster," 1828.


© Collection of the New York Historical Society / Bridgeman Art Library




https://www.neh.gov/humanities/2008/januaryfebruary/feature/king-andrew-and-the-bank




History Brief: Andrew Jackson's War on the Bank

https://youtu.be/1nq7iinuDd4




The War Against the Bank

https://youtu.be/ud2NxUBAvD4


Andrew Jackson & The Bank Wars: BRI's AP U.S. History Exam Study Guide

https://youtu.be/_ObdjL-hUK8




藤井聡
(水道橋博士との対談でもアメリカのGDPの推移図を紹介している)

超入門MMT  藤井聡 
2021/12/06
ーーーーーー

2021年12月25日 藤井先生 「(日本政府は)プライマリーバランスを 黒字化って言ってるんで、借金をゼロにしようとしてるんですよ。そんなことやった奴普通いないんですけどね。 おるんですよ。ジャクソン大統領という人が1836年に中央銀行を廃止して、政府の借金を返済し始めた。 で、翌年大恐慌…」



1835 January 08

The U.S. national debt reaches $0 for the first time


1835年108

アメリカの国家債務が初めて0ドルに到達


ケルトン 2020#3
西田議員の良書紹介 ケルトン 2020#3セイアー 歴史 

131
ピッツバーグ大学の公共問題・国際問題教授で、その研究成果を活発に発表しているフレデリック・セイアーは一九九六年にこう書いている。「アメリカはこれまでに六度の深刻な不況を経験したが、いずれも長期にわたって財政均衡が続いた後に起きている(44)」。表1にセイアーの研究成果を示す。
132 
表一:アメリカにおける財政黒字と債務削減の歴史 

政府遺務が       債務の減少率     景気後退が 
返済された期間       (%)              始まった年 
1817-1821           29%              1819 
1823-1836        100%              1837 
1852-1857          59%               1857 
1867-1873          27%               1873 
1880-1893       57%                 1893 
1920-1930       36%                1929 

Frederick C. Thayer, 
Balanced Budgets and Depressions, American Journal of Economics and Sociology 55, no. 2 (1996): 211-212, JSTOR, www.jstor.org/stable/3487081.
全2p
原著では1836年の債務減少率は99.7%










【東京ホンマもん教室】12月25日 放送 見逃し動画  年末の総復習!超入門MMT     ゲスト:高市早苗(自民党政調会長)





44:20




ジャクソン大統領が1836年中央銀行を廃止

政府の借金を「返済」し始めた

  ↓

1837年恐慌が勃発!


出典:U.S. Treasury Fiscal Data,

Historical Debt Outstanding


年末の総復習!

MMT理論のポイント

超人門MMT

ポイント1

政府は貨幣の供給者

ポイント2

貨幣が増えるとインフレに

貨幣が減るとデフレになる





【これでわかった! 世界の常識「MMT(現代貨幣理論)」の真実】


「日本の借金は1,200兆円もある」

「国民一人当たり1千万も背負っている」

私たち日本人は、そんな説明を何十年も受けてきました。

「だから消費税の増税も仕方ないか」

そんなふうに考える人も多かったと思います。


ところがMMT現代貨幣理論が知れ渡ると、

「日本が破綻するなんてことはあり得ない!」という声が、

あちらこちらから聞こえるようになりました。


さて、いったいどちらが正しいのか? 


MMTを理解するには、まずはオカネをの仕組みを理解してほしい」

著者の藤井先生は、そう言います。


古くは物々交換から始まり、その信用の記録としてお金が生み出された。

たしかにそうだったかもしれません。しかし、その考え方は古いのです。


MMTは現代の貨幣理論です。

現代のオカネの仕組み──それを端的に言えば、

「国家によって作り出された納税システムを機能させるツール」

本書の<第二章 そもそもオカネ(貨幣)ってなに?>です。

このポイントに気がつくと、あらゆることがスムーズに理解できるはずです。


元内閣官房参与で、アベノミクスの問題点を知り尽くした著者が解説する、実践的MMT理論。

そこから見える本当の日本の抱える問題──緊縮財政、消費増税、長期デフレについて解説し、

日本がどういった道を進むべきなのかを提案します。


〈本書の主な内容〉

第一章 どうしてMMTは話題になるの? 

第二章 そもそもオカネ(貨幣)ってなに? 

第三章 なぜMMTはトンデモ理論と言われたの? 

第四章 MMTは本当に日本を良くするの? 

第五章 MMTってどう使えばいいの? 


〈著者プロフィール〉

藤井 聡(ふじい・さとし)

1968年、奈良県生まれ。京都大学大学院工学科教授。

京都大学工学部卒、同大学大学院修了後、同大学助教授、イエテボリ大学心理学科研究員、東京工業大学助教授、教授を経て、2009年より現職。2011年より京都大学レジリエンス実践ユニット長。12年から18年まで、安倍内閣・内閣官房参与(防災減災担当)、18年よりカールスタッド大学客員教授、『表現者クライテリオン』編集長。主な著書に『ゼロコロナという病』(共著・サンケイセレクト)、『こうすれば絶対よくなる!日本経済』(共著・アスコム)などがある。


https://www.history.com/.amp/this-day-in-history/andrew-jackson-national-debt-reaches-zero-dollars


1835

January 08

The U.S. national debt reaches $0 for the first time


On January 8, 1835, President Andrew Jackson achieves his goal of entirely paying off the United States’ national debt. It was the only time in U.S. history that the national debt stood at zero, and it precipitated one of the worst financial crises in American history.


The elimination of the national debt was both a personal issue for Jackson and the culmination of a political project as old as the nation itself. Since the time of the Revolution, American politicians had argued over the wisdom of the nation carrying debt. After independence, the federal government agreed to take on individual states’ war debts as part of the unification of the former colonies. Federalists, those who favored a stronger central government, established a national bank and argued that debt could be a useful way of fueling the new country’s economy. Their opponents, most notably Thomas Jefferson, felt that these policies favored Northeastern elites at the expense of rural Americans and saw the debt as a source of national shame.


Jackson, a populist whose Democratic Party grew out of Jefferson’s Democratic-Republican Party, had a personal aversion to debt stemming from a land deal that had gone sour for him in his days as a speculator. Campaigning for re-election in 1832, Jackson vetoed the re-charter of the national bank and called the debt “a moral failing” and “black magic.” Jackson vetoed a number of spending bills throughout his tenure, putting an end to projects that would have expanded nationwide infrastructure. He further paid down the debt by selling off vast amounts of government land in the West, and was able to settle the debt entirely in 1835.


Jackson’s triumph contained the seeds of the economy’s undoing. The selling-off of federal lands had led to a real estate bubble, and the destruction of the national bank led to reckless spending and borrowing. Combined with other elements of Jackson’s fiscal policy as well as downturns in foreign economies, these problems led to the Panic of 1837. A bank run and the subsequent depression tanked the U.S. economy and forced the federal government to begin borrowing again.

The U.S. has been in debt ever since. The debt skyrocketed during the Civil War but was nearly paid off by the early 20th Century, only to balloon again with the onset of World War I. Numerous presidents and politicians have decried the debt and even pledged to do away with it, with conservatives and libertarians frequently echoing Jackson. Nevertheless, with the debt now surpassing $22 trillion, it is unlikely that the events of 1835 will be repeated in the foreseeable future.



1835

108

アメリカの国家債務が初めて0ドルに到達


183518日、アンドリュー・ジャクソン大統領は、米国の国債を全額返済するという目標を達成する。米国史上、国債がゼロになったのはこのときだけであり、米国史上最悪の金融危機のひとつを引き起こした。


国債の償還は、ジャクソンにとって個人的な問題であると同時に、国家そのものと同じくらい古い政治プロジェクトの集大成であった。独立戦争以来、アメリカの政治家たちは、国家が負債を抱えることの賢明さをめぐって議論してきた。独立後、連邦政府は旧植民地統一の一環として、各州の戦時債務を肩代わりすることに同意した。中央政府の強化に賛成する連邦党は、国立銀行を設立し、借金は新しい国の経済を活性化させる有用な手段であると主張した。しかし、ジェファーソンをはじめとする反対派は、こうした政策が北東部のエリートを優遇し、農村部のアメリカ人を犠牲にしていると考え、借金は国の恥であると考えた。


ジェファーソンの民主・共和両党から発展した民主党のポピュリストであるジャクソンは、個人的に借金を嫌っており、それは彼が投機家だった時代に、土地取引で失敗したことに起因していた。1832年、再選を目指すジャクソンは、国立銀行の再議長選に拒否権を発動し、債務を「道徳的失敗」、「黒魔術」と呼んだ。ジャクソンは在任中、多くの歳出法案に拒否権を発動し、全国のインフラを拡張するようなプロジェクトに終止符を打った。さらに、西部の広大な国有地を売却して負債を返済し、1835年に負債を完全に清算することができた。


ジャクソンの勝利は、経済の破滅の種を含んでいた。連邦所有地の売却は不動産バブルを招き、国立銀行の破壊は無謀な支出と借入を招いた。そして、ジャクソンの財政政策と海外経済の悪化が相まって、1837年の大恐慌を引き起こしたのである。銀行倒産とその後の不況でアメリカ経済は悪化し、連邦政府は再び借金を始めなければならなくなった。

それ以来、米国は負債を抱えるようになった。多くの大統領や政治家が負債を非難し、負債をなくすことを公約に掲げ、保守派や自由主義者は頻繁にジャクソンの意見に同調している。しかし、負債が22兆ドルを超えた今、1835年のような事態が当面繰り返されることはないだろう。



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 金融恐慌1907

米FRB創設の起源とJ・P・モルガン


ジャクソン大統領は「第二合衆国銀行は私を殺そうとしている。だが私が第二合衆国銀行を殺してやる」と極めて厳しい口調で第二合衆国銀行を批判した。この第二合衆国銀行の措置で信用収縮が起こり、一八三四年に金融パニックが発生した。
中岡望解説より

解説──過去の金融危機は将来の金融危機を考える素材  中岡 望・東洋英和女学院大学大学院客員教授 
  □一九〇七年金融危機はサブプライム危機と類似  
 米国の「サブプライム危機」に端を発する二〇〇八年九月の「リーマンショック」、それに続く世界的な金融危機はまだ記憶に新しい。学者だけでなく、金融の実務家や金融行政の責任者など数多くの人々が金融危機の原因や教訓に関して様々な分析を行っているが、まだ学術的に定着した説明は十分になされているとは言えない。制度的な欠陥なのか、金融行政の失敗なのか、リスク意識を欠いた金融経営者の責任なのか、様々な観点から議論されている。ただ言えることは、リーマンショックに限らず、金融危機は経済に極めて深刻な影響をもたらすということだ。また過去において、金融危機は繰り返し起こっている。ある意味では、金融危機は資本主義社会の宿命かもしれない。言い換えれば、過去の経験は、金融秩序を健全に維持することがいかに難しいかを教えている。金融制度や金融政策は複雑すぎて、予知しがたいことが起きる。金融の実務家だけでなく、経済学者の誰もがリーマンショックのような金融危機が起こると予想しなかった。また、現在、先進国において超低金利政策が採用されている。日本では「異次元の金融政策」の下に銀行間市場でのゼロ金利政策、大量の債券購入による信用供与、過剰準備に対するマイナス金利の付与が行われている。新しい問題に対して、新しい理論に基づく、新しい政策は必要である。政府・日銀はデフレ克服を最優先課題とし、金融理論の教科書から大きく逸脱する「異次元の金融政策」を採用し、消費者物価上昇率二%というインフレ・ターゲットを設定している。だが、そうした「異次元の金融政策」が最終的に日本経済に何をもたらすか確信をもって予想できる人はいないだろう。かつてミルトン・フリードマンは「金融政策の効果は不安定(variable)だ」と述べたことがある。すなわち、金融政策の効果は短期で出てくる場合もあれば、何年も経ってから出てくる場合もある、ということだ。「異次元の金融政策」に関して楽観論から悲観論まである。楽観論は、日本経済はデフレ的状況を脱し、再び成長力を回復するというものである。悲観論は、伝統的な金融理論に従えば、日本経済は過剰な信用供与によって、最終的にハイパーインフレに陥る懸念があるというものだ。確信をもって将来を語ることができる者は誰もいない。   将来を予測する最善の方法は、過去を学ぶことであろう。世界経済の歴史は、金融危機の繰り返しであった。今回の金融危機は過去の金融危機とは異なるのだろうか。世界的なベストセラーになったカーメン・M・ラインハートとケネス・S・ロゴフの共著『国家は破綻する』(日経BP社)は過去の金融危機を包括的に比較分析し、世界的ベストセラーになった。この本の原題はThis Time is Differentである。その論点は、金融危機が起こるたびに人々は「今回は違う」と言う。しかし、過去の金融危機には共通した要因がある、すなわち「今回も同じ」であるというのが、著者たちの結論である。過去の金融恐慌(パニック)を学ぶことは、将来起こるかもしれない金融恐慌を予測するうえで役に立つ。本書は一九〇七年に米国で起こった金融恐慌を分析したものである。著者は「サブプライム危機」は「一九〇七年の金融恐慌と類似している」と指摘する。本書は「サブプライム危機」を想定して執筆されたものではない。初版が出版されたのは二〇〇七年九月で、リーマンショックが起きたころである。改訂版で「一〇〇年後の考察 二〇〇七年サブプライム危機」の章が書き加えられている。それは、一九〇七年金融恐慌の教訓が二〇〇七年のリーマンショックを考察するうえで役に立つことを示しているともいえる。  □中央銀行設立を巡る政治的対立   本書は様々な読み方ができる。まず、米国の金融史、あるいは米国の金融制度論として読むことができる。また一九〇七年金融恐慌の詳細なドキュメントとして読むこともできる。さらに金融恐慌の要因を分析した金融恐慌論としても読むことができる。サブプライム危機との比較で読むこともできる。   まず、米国の金融恐慌の背景には米国の特殊な金融制度がある。その歴史を理解しないと、なぜ繰り返し米国で金融恐慌が起こったのか理解できないだろう。他の国と違って米国の中央銀行制度は「連邦準備制度」と呼ばれる。米国を一二の地域に分け、各地域に連邦準備銀行を置き、政策決定と連邦準備銀行を管理する組織として連邦準備制度理事会が設置された。組織的には、連邦準備制度理事会が他の国の中央銀行の役割を果たしている。連邦準備法が成立したのは一九一三年である。英国の中央銀行であるイングランド銀行が設立されたのは一六九四年、日本銀行が設立されたのは一八八二年であるから、米国の中央銀行組織の設立は他の国と比べると大幅に遅れたのである。   米国の中央銀行設立は深刻な政治問題であった。米国が独立を果たし、ジョージ・ワシントン政権が誕生したとき、最初の財務長官を務めたのはアレキサンダー・ハミルトンであった。同長官はイングランド銀行と同じような政府の銀行を設立する必要性を説いた。新政権が発足したとき、米国は膨大な戦争債務を抱えていた。連邦政府と州政府は戦費を調達するために戦争債を発行しており、その償還をどうするかが新政権の最初の大きな問題であった。ハミルトン長官は、戦争債を管理するためには政府の〝財布〟の役割を果たす中央銀行が必要だと説いて、その理由を三つあげた。まず一つ目は、「中央銀行設立で生産に向ける資本を拡充すること」、二つ目は「金や銀に代わる銀行券の発行ができるので、経済により多くの信用を提供できること」、三つ目は、「銀行は融資を通して産業や商業の育成を図り、それによって国を豊かにすることができる」ということである。さらに、実務的に財務省が資金不足に陥ったとき融資する銀行が必要であり、政府資金の管理や財務省証券の発行や利払いなどの事務を担当する〝政府の銀行〟が必要だと議会の説得に努めた。   だが、新議会の指導者であるジェームス・マディソン(後に第四代大統領に就任)は中央銀行設立に強力に反対した。また、独立宣言を起草し、個人の政治的自由を守るのが建国の理念であると説いたトーマス・ジェファーソン国務長官(後に第三代大統領に就任)はマディソンの主張に同調した。彼らは、強い中央集権的な政府は個人の政治的自由を抑圧すると考えており、中央政府は〝小さな政府〟であるべきだと考えた。同じ論理から、中央集権的な中央銀行の設立も銀行資本家を利するだけで、抑圧的な存在になることを懸念した。そうした背景には、次のような事情があった。ハミルトンの背後にはニューヨークの金融家やニューイングランドの産業家がいた。他方、マデフィソンとジェファーソンを支持したのは、ニューヨークの銀行家に支配されるのを嫌った南部のプランテーションの所有者や中小企業家であった。中央銀行設立を巡る争いの背後には、金融・産業資本対農業資本の戦いと北部対南部の地域的な対立があった。   最終的に中央銀行設立の反対派は、首都をニューヨークから南部に近いワシントンのポトマック河畔に移すことを条件に、中央銀行設立に同意した。一七九一年に議会は「合衆国銀行(The Bank of the United States)」設立の認可を与えた。認可の期間は二〇年で、認可を延長する場合、議会の承認を必要とした。当時、州を越えて営業を行っていた銀行はアメリカ銀行とマサチューセッツ銀行、ニューヨーク銀行の三行しかなかった。合衆国銀行の設立で、全国に支店網を持つ銀行が誕生し、不十分とはいえ、やっと全国的な金融制度ができあがった。   合衆国銀行は資本金一〇〇〇万ドルで設立された株式会社で、政府は二〇〇万ドル出資し、残りの八〇〇万ドルの株式は内外の投資家に売りに出された。当時の銀行の総資本額が二〇〇万ドルに達しておらず、米国に突如として超巨大銀行が登場したのである。株式市場は合衆国銀行の株式の公募で沸き上がり、その価格は信じられない高額となった。合衆国銀行は巨額の資金を背景に政府への融資や資金繰りに行き詰まった銀行に融資を行う〝最後の貸し手〟の役割を果たすことになる。   だが、中央銀行設立反対論は消えることはなかった。最初の中央銀行設立を巡る対立は、米国の政治的な対立の骨格となった。賛成派のハミルトンらは政府が積極的に経済や社会にかかわるべきであるという〝大きな政府〟を主張したのに対して、マディソンなどの反対派は〝小さな政府〟こそ望ましいと考えた。さらに反対派は、議会が中央銀行設立の認可を与える権限はないと、憲法違反論を展開した。こうした議論は、一九一三年に連邦準備制度が確立するまで続いた。   一七九〇年代の米国経済はブームに沸いた。金融の専門家は「合衆国銀行は設立一年で金融パニックを阻止する能力を、五年でインフレを抑制する能力を証明した」と、その成功を高く評価した。合衆国銀行は年率で一〇%近い配当を払い続けた。だが、政府は財政状況が悪化したため、資金調達を迫られた。選択肢は増税か合衆国銀行の株式売却であった。政府は合衆国銀行の株式売却を選び、その結果、合州国銀行は完全な民間銀行となった。政権はハミルトン派のフェデラリスト党から反ハミルトン派の民主共和党に移った。ジェファーソンは三代目大統領に就任し、「私は、金融機関は常設軍以上に私たちの自由にとって危険であると信じている。米国が民間銀行に通貨発行の管理を任せるなら、まずインフレによって、さらにデフレによって、銀行と銀行の融資で成長した企業は国民の財産を全て奪い、気が付いたら子供たちは、父親たちが獲得したこの大陸でホームレスになるだろう」と変わらぬ銀行批判を展開していた。   合衆国銀行は二〇年の認可が切れるのを控え、一八〇八年に議会に認可の延長を申請した。だが一八〇九年に中央銀行設立でハミルトンと対立したマディソンが大統領に就任し、議会は認可の延長を拒否した。こうして合衆国銀行は、民間銀行としてやがて消え去っていった。ハミルトンの夢は潰えたのである。
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  □復活を果たしたが、再び廃業に   

 しかし、中央銀行を巡る争いはさらに続く。一八一二年に第二次米英戦争が勃発する。政府が戦費を調達することのできる合衆国銀行は、既に存在していなかった。一八一三年三月に当時の財務長官はマディソン大統領に宛てた書簡の中で、「政府は月末までに戦争を続行するための十分な資金を調達できない」と資金状況を説明している。そのためマディソン政権は財務省証券を発行し、三人の大金持ちから借り入れをする一方、金などの正金の裏付けのない政府紙幣を発行し、さらに消費税引き上げで戦費を賄った。戦争が終わったとき、連邦政府の債務は一億二〇〇〇万ドルに達していた。これは当時のGDPの約一五%に相当した。財政基盤の弱い政府に債務返済能力があるかどうかが問われた。戦争中に財務長官に就任したアレキサンダー・ダラスは、政府の財政に関して「公的信用の基礎を形成する政府の課税体制が不十分で、歳入を予想し、税金を徴税し、配分する最も優れた制度を欠いている」と、政府の置かれた状況について語っている。新しく誕生した民主党はジェファーソンの農本主義的な思想を継承し、政府の関税や税金の引き上げに反対したが、この時期にやっと「一つの国家として行動できるようになった」。  

 ただ戦争中に戦費を賄うために正金の裏付けのないペーパーマネーを大量に発行したことで、米国経済はインフレに見舞われた。財務省証券の格付けも建国以来最低の水準に引き下げられた。そんな中で再び中央銀行の設立を求める声があがった。そうした主張の高まりを受けて、マディソン大統領は自らが廃止した合衆国銀行の設立を決意する。一八一六年に議会は合衆国銀行の設立の認可を与えた。認可の期限は二〇年で、資本金は三五〇〇万ドルに設定された。最初の合衆国銀行と区別して、新しい銀行は第二合衆国銀行と呼ばれた。民間からの出資も仰ぎ、第一合衆国銀行と同様に半官半民の銀行として設立された。ダラス財務長官は第二合衆国銀行の役割を、「単に通商促進や利益を求める商業銀行として活動するだけではなく、国の政策を達成するために創設された金融機関である」と述べている。具体的には、政府に代わって徴税を行い、政府の歳入資金を預金として受け入れ、政府の指示に従って支払いを代行した。第一合衆国銀行と比べればより明確に中央銀行的な役割を果たすような組織になり、銀行の〝最後の貸し手〟の役割を果たすようになった。銀行は危機に際して第二合衆国銀行から資金を借りることができ、第二合衆国銀行の銀行券の信用度は高く評価された。また第二合衆国銀行は州法銀行の銀行券を保有し、保有する州法銀行の銀行券の管理を通して一種の銀行の信用供与をコントロールすることもできた。すなわち景気が過熱する事態になれば、第二合衆国銀行は銀行券を金に兌換することで、銀行の信用供与に影響を与えることができた。さらに第二合衆国銀行は為替市場に介入する為替平衡操作も行うようになった。

   第二合衆国銀行は盤石な基盤を構築したかに見えた。海外からも米国の中央銀行と認知されるようになった。だが、第二合衆国銀行は法的には国が認可した一つの国法銀行であり、他の民間銀行と基本的に変わらなかった。州が認可した州法銀行は、第二合衆国銀行の強大な権限に反発し始めた。また農業を基盤とする南部諸州は第二合衆国銀行に積極的な信用拡大を求めた。だが、東部の諸州は健全な金融政策を求め、金融政策を巡る南北の対立が表面化するようになった。そうした中で民主党の創始者であり、第二次米英戦争の英雄であったアンドリュー・ジャクソンが一八二九年に大統領に就任した。ジャクソン大統領はジェファーソン的な農本主義者で、第二合衆国銀行に限らず銀行そのものに対して否定的な見方をしていた。選挙の公約に第二合衆国銀行の廃止を掲げていたジャクソン大統領は、大統領就任後の一般教書演説で、第二合衆国銀行の違法性を指摘している。一八三二年に第二合衆国銀行の認可延長の法案が提出され可決されたが、ジャクソン大統領は拒否権を発動し、延長法案への署名を拒否した。その際、「富裕層は等しい保護と等しい恩恵を受けているだけでは満足しない。議会に自分たちがもっと裕福になれるようにと請願している」と語り、第二合衆国銀行は腐敗の巣窟であると口を極めて批判した。現在の民主党の反金融機関的な主張は、ジェファーソンやジャクソンにまで遡ることができるのである。

   議会はジャクソン大統領の拒否権を覆すことができず、第二合衆国銀行は当初の二〇年の認可が過ぎると、その役割を終えることになる。さらにジャクソン大統領は一八三三年に第二合衆国銀行に預けていた政府預金を州法銀行に移すように命令した。一八三四年から第二合衆国銀行は貸し出しを減らし、保有する州法銀行の銀行券を金に兌換していく。これは第二合衆国銀行のジャクソン大統領に対する反発から出た行為であった。これに対してジャクソン大統領は「第二合衆国銀行は私を殺そうとしている。だが私が第二合衆国銀行を殺してやる」と極めて厳しい口調で第二合衆国銀行を批判した。この第二合衆国銀行の措置で信用収縮が起こり、一八三四年に金融パニックが発生した。一八三五年の中間選挙で野党が勝利し、第二合衆国銀行を再認可する動きが出るが、民主党が両院の多数を占めていたことで、その努力も実らなかった。一八三六年に第二合衆国銀行の認可が切れ、同行はペンシルバニア州の州法銀行に移行し、有力な銀行として営業を続けたが、綿の先物取引で巨額の赤字を計上し、一八四一年に廃業に追い込まれた。  


  □フリーバンキングの時代と繰り返される金融恐慌  

 第二合衆国銀行の消滅で米国の金融制度は〝最後の貸し手〟のいない異常な状況が続くことになる。また第二合衆国銀行は当時、唯一の国が認可した国法銀行であったが、同行の消滅で、米国の銀行はすべて州政府が認可する州法銀行だけとなった。州政府がそれぞれ認可基準を設定し、基準を満たせば、個人でも法人でも銀行設立がほぼ自動的に認可された。なかにはジャクソン的な考えから銀行の設立を禁止する州もあった。自由に銀行設立ができることから、これ以降の時代は〝フリーバンキングの時代〟と呼ばれるようになる。銀行は支払い準備として金か財務省証券、州債を決められた割合で州の銀行管理局に預託することが義務付けられた。州政府は、預託された準備を通して間接的に銀行を監督した。州政府は銀行に対する預金準備率を変更することで、信用供与に影響を与えることができた。銀行は自由に銀行券を発行することができた。

   当初、フリーバンキングは上手く機能した。銀行倒産もほとんど起こらなかった。ちなみにノーベル経済学賞を受賞したフリードリッヒ・ハイエクはフリーバンキング制への復帰を主張していた。保守派の経済学者のマリー・ロスバードも中央銀行制度を批判し、フリーバンキング制度を支持している。 

  だが、現実には兌換券を発行しない銀行も多く設立された。こうした銀行は〝ワイルドキャット銀行〟と呼ばれたが、一八三七年に金融パニックが起こると一八四〇年ごろまでにはこうした銀行はほぼ完全に淘汰された。 

  〝最後の貸し手〟の存在しない金融制度は、どう機能したのであろうか。最初の試みは、一八二四年にボストンのサフォーク銀行と六つの銀行が独自の制度を作り、銀行同士が危機に陥った銀行を支援し合う組織が形成された。六つの銀行は準備預金をサフォーク銀行に預けた。資金が必要となると、サフォーク銀行が加盟銀行に融資を行った。地方の中央銀行の役割を果たしたのである。また、銀行間の手形の振り替え決済をする「クリアリング・ハウス(手形交換所)」の役割も果たした(なお本書では「クリアリング・ハウス」は「資金決済機構」と訳されている)。サフォーク銀行は預託された資金を使って高収益を上げ、加盟銀行はサフォーク銀行の株式を保有し、高配当を得ることができた。これが後の連邦準備制度の原型になったと言われている。  

 しかし、全国的な規模でのクリアリング・ハウスは存在しなかった。中央銀行が存在しないため、資金の決済や移動は金などの正金の移動を伴った。その結果、金が流出した銀行は信用を収縮しなければならなくなる。フリーバンキングの時代は財務省が大きな役割を果たした。一八四〇年に「独立財務省法案」が成立し、財務省が独自に金融政策を行う仕組みができあがった。財務省は徴税などの財務的な業務だけでなく、政府に預ける政府預金を通して銀行の信用管理を行った。言い換えれば、財務省証券の発行を通して通貨供給量の管理を行ったのである。財務省証券は銀行の支払い準備として使える。したがって財務省が財務省証券の発行を増やせば、預金準備が増え、銀行の信用創造が進むことになる。もちろん、財務省証券の裏付けとして金が存在していた。また財務省は財務省証券の取引を通して金利にも影響を与えることができた。一種の公開市場操作を行っていたのである。 

  一八六一年に南北戦争が始まる。リンカーン政権は戦費調達のために正金の裏付けのないペーパーマネーを発行した。その紙幣の裏側が緑色だったことから、〝グリーンバック〟と呼ばれ、この呼称は現在でも使われている。金の裏付けのないグリーンバックの発行はインフレを誘発した。また戦争中、金は退蔵され、また貿易決済で金が国外に流出し、米国は準備不足の事態に直面した。その結果、一時的に兌換券と金との交換が禁止される措置も取られた。また南北戦争のさなかの一八六三年に「国法銀行法(National Bank Act of 1863)」が成立し、財務省の中に通貨監督局が設置され、同局に国法銀行設立の認可権限と監督権が付与された。目的は、主要都市に中核銀行を設立し、全国的な中核銀行のネットワークを構築することであった。それまで、様々な銀行券が発行されていたが、同法によってドル紙幣のデザインの統一が行われた。またすべての銀行は国法銀行が発行する紙幣を額面で受け取ることと、資本金の三分の一以上を財務省証券で保有することが義務付けられた。こうした措置の狙いは、州法銀行を強制的に廃止に追い込み、財務省証券の販売チャネルを拡大することであった。その結果、多くの州法銀行は国法銀行へと鞍替えし、一八六三年に六六行しかなかった国法銀行が一年間で五八四行まで増えた。このとき、現在のシティバンクの前身であるシティ・バンク・オブ・ニューヨークも州法銀行から国法銀行へ転換している。しかし、財務省の州法銀行廃止の狙いは成功せず、米国は州法銀行と国法銀行が併存する「二重銀行制度(dual banking system)」が現在に至るまで続いている。


  □金融破綻を防いだクリアリング・ハウス  

 フリーバンキングの欠陥は明らかであった。米国の産業革命が進み、経済規模が拡大するにつれて相次いで金融パニックが発生するようになる。米国は牧歌的な農業国家から世界有数の産業国家へ発展し、それに伴って金融も複雑化してきた。金融パニックは、独自の金融制度に起因していると言っても過言ではない。農業州では種まき期と収穫期に農家の資金需要が増え、銀行の貸し出しも増えた。だが農閑期には資金需要は減少し、銀行は過剰な準備を抱えることになる。そのため、地方の銀行は過剰準備をニューヨークなどのマネーセンター銀行に預け、金利収入を得ようとした。準備が増えた大都市の銀行は、資金を短期的に運用しようとした。すなわち、ほぼ自動的に証券ブローカーへの融資を増やしたのである。だが、農業資金が必要となると地方の銀行は資金を引き揚げた。それに伴って都市の銀行は証券ブローカーに融資していた資金を回収することになる。こうした資金の移動が株価動向に大きく影響を与えた。地方と都市の資金依存関係が米国の金融制度の脆弱さの要因であった。  

 また米国では〝ユニット・バンキング(一店舗だけの銀行)〟が普通で、経営基盤の脆弱な銀行が多く存在していた。こうした制度も、ジャクソン的な「銀行性悪説」が根底にあった。銀行はコミュニティに貢献すべきだという考え方も影響した。一八九〇年には銀行の総数は八〇〇〇行を超えていた。こうした金融制度は危機に対して極めて脆弱である。

   南北戦争後の最初の大きな金融パニックは一八七三年に起こった。デェイブス・リッチ・デューイはFinancial History of the United Statesの中で「それはパニック以上のものであった。長期にわたる金融と産業の恐慌の始まりであった」と、この金融パニックの深刻さを表現している。同年に財務省証券の引き受け・販売で独占的な地位を誇っていた証券会社のジェイ・クック社が倒産した。ノーザン・パシフィック鉄道の社債を引き受けたが販売に失敗し、大量に在庫を抱え込んだことが、破綻の原因であった。投資家は同社から資金を引き揚げたため、営業停止に追い込まれた。ニューヨーク証券取引所の株価は暴落し、市場は閉鎖に追い込まれ、ニューヨークの多くの銀行は取り付け騒ぎに巻き込まれ、支払いを停止した。〝最後の貸し手〟が存在していれば、流動性危機に即座に対応できたはずである。

   当時の規則では、地方銀行は預金の一五%に相当する準備を維持し、準備の四〇%は現金で保有し、残りは他の銀行に預けていた。準備を預かった銀行も必要な準備を手元に置くが、余った分は他の銀行に預けた。要するに、銀行同士が準備を預け合う仕組みになっていたのである。中央銀行制度が存在すれば、準備は中央銀行に預けなければならない。したがって当時、銀行の破綻はすぐに他の銀行に波及することになる。たとえばマネーセンターの銀行が破綻すれば、地方の銀行は同時に準備を失うことになる。さらにマネーセンターの銀行の融資は株式ブローカーや鉄道会社へ集中していた。金融パニックが起きたとき、財務省は必要に応じて取り付けに直面した銀行に預金を預けたり、財務省証券の元本償還や利払いの前倒しで通貨を供給したが、そうした措置にはおのずと限界があった。   金融パニックの際に大きな役割を果たしたのが、クリアリング・ハウスである。この組織に参加する銀行が資金を出し合って流動性危機に陥った銀行に救済融資を行った。最初の例では、一八三七年の危機のとき、前述したボストンのサフォーク銀行がクリアリング・ハウスの加盟銀行と一緒に救済融資を行っている。ニューヨーク市では一八五三年にクリアリング・ハウスが設立されている。もともとは手形交換に持ち込んだ手形が決済されないと銀行が破綻するが、それを防ぐ目的で救済融資の制度ができあがった。クリアリング・ハウスは資金が必要な銀行に「クリアリング・ハウス証書」で貸し付けを行い、同証書は現金と同じ扱いをされた。 

  その後も金融パニックは、一八八四年、一八九〇年と続いた。そして一八九三年の金融パニックは深刻で、当時このパニックは〝大恐慌〟と呼ばれたほどである。このパニックの火付け役となったのはフェデラルフィア・アンド・リード鉄道会社の倒産である。また優先株を大量に発行し、企業買収で急成長を遂げてきたナショナル・コーディッジ社の倒産がきっかけで株価暴落が起こった。金融パニックが起こる前から不動産に対する過剰投資が行われており、不動産価格の暴落で多くの銀行は破綻した。通貨監督局は、この金融パニックが起こった一年間で国法銀行一八五行、州法銀行一七二行、プライベートバンク一七七行、貯蓄銀行四七行、信託会社一三社、住宅ローン会社六社が倒産したと発表している。ちなみに本書には「一八一四年から一九一四年の間に一三回の金融恐慌が発生した」と書かれている。  

 このときの銀行救済で活躍したのがモルガン商会の創業者のジョン・ピアポント・モルガンである。危機に際してクリーブランド大統領はウォール街の銀行に財務省証券引き受けのシンジケート団の結成を求めた。一八九五年、ホワイトハウスにクリーブランド大統領を訪れたモルガンは、六五〇〇万ドルの財務省証券の発行を引き受ける約束をする。ニューヨークに戻ったモルガンは銀行や証券会社の経営者を自分のマンションの豪華な内装が施された書斎に招き、資金を提供しない限り、書斎から去ることを拒否した。払い込みの金の半分は海外で調達された。この強引なやり方のおかげで財務省の信用が維持された。これは、米国の金融業界における投資銀行の重要さを示すエピソードと言える。また、一九〇七年の金融パニックに際してもモルガンは中心的な役割を果たすことになる。その経緯に関しては本書で極めて詳細に記述されているので、ここでは説明の必要はないだろう。


解説中岡望


第三文明2018年3月号

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いわゆる「一八三七年恐慌」です。金融・財政をつかさどる第二合衆国銀行(中央銀行)の一○年期限の免許更新が、州権主義者であった第七代アンドリュジャクソン大統領によって認められなかったためです。ます。キンダーフックはオランダ人の村で、 ...

日本の米国大統領と政府: The United States Presidents and Government In ...

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Nam H Nguyen · 2018
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ジャクソン大統領に選出されたとき、彼はレイチェルのための会社としてエミリーと、個人秘書のために若いドネルソンを持つ ... リトル·マジシャン」が選出されたときに国が繁栄していたが、3ヶ月未満後に1837年の金融恐慌は、繁栄をパンクしました。

アメリカ大統領史100の真実と嘘 - 38 ページ

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八幡和郎 · 2020
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弁護士、州議会議員を経て連邦下院議員となり、このころは連邦党でしたが、ジャクソン大統領の与党に転向しました。駐ロシア公使、上院議員、 ... 経済は 1857 年の恐慌に見舞われましたが、民主党は減税政策をとったので、財政運営をめぐって共和党に ...

Outlook: 日米関係研究所報 - 第 15~17 号 - 127 ページ

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1992 · ‎スニペット表示
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1837 年の最も深刻な経済恐慌は、ジャクソン大統領が、アメリカの第 2 番目の銀行の更生に拒否権を行使したところに端を発します。その時以来、経済学者とか歴史学者は「拒否権を発揮し、そして銀行が解体したため、この恐慌が起こったのではないか」 ...



貨幣と金融政策: 貨幣数量説の歴史的検証 - 85 ページ

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またアメリカでは合衆国銀行(Bank ofthe United States)の免許更新が、ジャクソン大統領により拒否されたために、多くの銀行 ... の地方銀行 Northern and Central Bank of England が破綻の淵に立ち、イングランド銀行から 1300 万ポンドの援助を得た。


金融研究 - 第 23 巻 - 28 ページ

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例えば、 1765 年に制定された法律によって、額面 1 ポンド未満の小額銀行券の発行が禁止され零細発券銀行に対する参入障壁が ... フリーバンキング時代米国では、第 7 代大統領ジャクソンが、(第 2 )合衆国銀行( 1816 ~ 36 年)の特許更新を拒否し、連邦 ...



金融恐慌 1907: 米FRB創設の起源とJ・P・モルガン

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ジャクソン大統領はジェファーソン的な農本主義者で、第二合衆国銀行に限らず銀行そのものに対して否定的な見方をしていた。選挙の公約に第二合衆国銀行の廃止を掲げていたジャクソン大統領は、大統領就任後の一般教書演説で、第二合衆国銀行の違法性を ...

  

中岡望はジャーナリスト


https://news.yahoo.co.jp/byline/nakaokanozomu


http://www.redcruise.com/nakaoka/?p=430


 もうひとつの信用乗数が効かない理由を指摘する学者もいる。それは「貨幣の流通速度」が低下しているというものだ。これは次の式から説明される(フィッシャーの交換と呼ばれる)。

MV=PQ

M:通貨量、V:通貨の流通速度

P:物価水準、Q:産出高

通常、VとQは一定だと想定されている。とすると、P(物価水準)はM(通貨供給量)で決定される。しかし、Mが増えているのに、Pが上昇しないのは、Vの値が低下しているからだ、という説明である。ただ、この説明では、なぜ一定であると想定されているVの値が低下したのかを明らかにしていない。これもシンポジュームである学者が「Vを高まる必要がある」と語っていたが、なぜVが低下したかを説明しないで、Vを高めることは出来ないのである。

 要するに中央銀行であっても、勝手に「通貨をジャブジャブ供給する」ことはできないのである。



【東京ホンマもん教室】12月25日 放送 見逃し動画  年末の総復習!超入門MMT     ゲスト:高市早苗(自民党政調会長)


https://youtu.be/Op5Mp6asVBU?t=44m




アンドリュー・ジャクソン伝記事典 マーティン・ヴァン・ビューレン伝記事典 (アメリカ歴代大統領大全 第2シリーズ ジャクソニアン・デモクラシー期の大統領) 単行本 – 2020/4/30 

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