https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2021/12/lerner-burden-of-national-debt1946.html @
| ||||||||||||||||||||||||
http://socialdemocracy21stcentury.blogspot.com/2012/10/lerner-on-burden-of-national-debt.html
Lerner on "The Burden of the National Debt"
This article by Abba P. Lerner is central to the debate about the nature of government debt:Lerner, A. P. 1948. "The Burden of the National Debt," in Lloyd A. Metzler et al. (eds.), Income, Employment and Public Policy, Essays in Honour of Alvin Hanson. W. W. Norton, New York. 255–275.I provide a summary of Lerner's key points below:
(1) Lerner begins by pointing out that private debt is different from government debt (Lerner 1948: 255–256). In an aggregate sense, government debt is owed by citizens of a nation to other citizens of that nation. That idea is summed up in the phrase "we owe it to ourselves" (Lerner 1948: 256).
Lerner disposes early on of the "debt burdens our children" argument:"A variant of the false analogy is the declaration that national debt puts an unfair burden on our children, who are thereby made to pay for our extravagances. Very few economists need to be reminded that if our children or grandchildren repay some of the national debt these payments will be made to our children or grandchildren and to nobody else. Taking them altogether they will no more be impoverished by making the repayments than they will be enriched by receiving them." (Lerner 1948: 256).By contrast, debt owed to foreigners can be considered a burden (Lerner 1948: 256), because the debt is external, and to the extent that real goods and services will be demanded by foreigners, this is a real cost.
"In attempts to discredit the argument that we owe the national debt to ourselves it is often pointed out that the 'we' does not consist of the same people as the 'ourselves'. The benefits from interest payments on the national debt do not accrue to every individual in exactly the same degree as the damage done to him by the additional taxes made necessary. That is why it is not possible to repudiate the whole national debt without hurting anybody. While this is undoubtedly true, all it means is that some people will be better off and some people will be worse off. Such a redistribution of wealth is involved in every significant happening in our closely interrelated economy, in every invention or discovery or act of enterprise. If there is some good general reason for incurring debt, the redistribution can be ignored because we have no more reason for supposing that the new distribution is worse than the old one than for assuming the opposite. That the distribution will be different is no more an argument against national debt than it is an argument in favor of it.
8. The growth of national debt may not only make some people richer and some people poorer, but may increase the inequality of distribution. This is because richer people can buy more government bonds and so get more of the interest payments without incurring a proportionately heavier burden of the taxes. Most people would agree that this is bad. But it is no necessary effect of an increasing national debt. If the additional taxes are more progressive — more concentrated on the rich — than the additional holdings of government bonds, the effect will be to diminish the inequality of income and wealth." (Lerner 1948: 260–261).
(2) Lerner addresses the idea that, if taxes are raised to pay for interest payments on the debt, this might have a contractionary effect. While this might be true, Lerner points out that there is no reason why the government need raise taxes to meet its obligations in paying debt, if contractionary fiscal policy is not desired: the reality is that government can simply "roll over" debt with more borrowing (Lerner 1948: 258–259).
BIBLIOGRAPHY
Lerner, A. P. 1948. "The Burden of the National Debt," in Lloyd A. Metzler et al. (eds.), Income, Employment and Public Policy, Essays in Honour of Alvin Hanson. W. W. Norton, New York. 255–275.
(2)ラーナーの将来世代負担否定論
こうした政府債務の将来負担に関する素朴な一般的通説に対して、その誤りを経済学の観点から最初に明確に指摘したのはアバ・ラーナーである。既述のように、初期ケインジアンを代表する一人であったラーナーが提起した機能的財政論は、MMTの先駆として再び大きな注目を集めている。しかし、MMTではほとんど無視されているが、ラーナーには財政政策に関して、「政府債務の将来負担否定論」というより大きなもう一つの経済学的貢献が存在する。それが初めて展開されたのは、アメリカにおけるケインズ経済学の開拓者であったアルヴィン・ハンセンの記念論文集にラーナーが寄稿した論考、「国の債務の負担」(Lerner[1948])であった★1。 ["The Burden of the National Debt", 1948, in Income, Employment and Public Policy]
ラーナーはその論考の冒頭で、以下のように述べている。
「国の借金についての最も一般的な懸念は、一人の個人が他人に負っている私的な借金とまったく同じ種類のものとして考えるところから来ている。個人の負債の場合には、その1ドルごとに、その人の富としての資産から差し引かれなければならない。負債とは負担である。債務者は、債権者の手に自らを委ね、苦難と破滅の危機に陥らせることになる。借金を可能な限り避けることは、個人が慎重であることの規律として間違いなく確立されている。
この規律を国家債務に対して単純に適応可能としてしまうことは、ほぼすべての経済学者によって否定されている。しかし、民間の負債の圧迫に苦しんだことのある人は、ほぼ全員がこの類推を直接適用したくなる。健全な政府財政とは予算の均衡を意味するという論説の基本的な正統性は、この類推のほかには根拠がないのであるが」(Lerner[1948]pp. 255‐256)
この個人の債務と政府の債務との相違を明確化するために、ラーナーは以下のように、のちに内債(internal debt)と外債(external debt)と呼ばれることになる概念的区別を提起する。
「すべての意味論的混乱の中で、この最も深刻な問題を解決する最も効果的な方法の一つは、民間の債務は国債とは、外部であるという点で異なることを指摘することである。それは、一人の人間が他の人間に負っている。困難が生じる理由はそこにある。それは個人と個人との関係であるため、その適切な類推は、国内債務ではなく対外債務である。他の国(または他の国の市民)にお金を借りている国は、他人にお金を借りている人と同じように貧しく、あるいは重荷を背負っている。しかしこれは、同じ国の市民に対して国が負っている国の債務には当てはまらない。その場合には、外部の債権者は存在しない。私たちはそれを、私たち自身に負っているのである」(Lerner[1948]p. 256)
これはある意味で自明のことであるが、ある経済主体がどれだけの純債務あるいは純債権を持っているのかは、その経済主体の「内」と「外」をどう区切るかに依存する。たとえば、ある父子家族で、息子は100万円の借金を負っているが、その父親が1000万円の金融資産を保有しているとしよう。その場合、経済主体の単位を息子「個人」にした場合には100万円の純債務者であったとしても、息子と父親という「家計」単位では900万円の純債権者となる。したがって、「家計」単位で考えれば将来負担は何も背負っていない。実際、息子の持つ100万円の負債を父親が肩代わり返済し、そのかわりに息子が父親に100万円の債務を負うことにすれば、実質的には同じ経済状況でありながら、この家計の外的債務は形式上も存在しなくなるのである。
この推論は、「国の債務」に関してもまったく同様に成り立つ。というのは、一国を一つの経済単位とした場合、国債というものはそれが国内で消化される限り「私たちが私たち自身に負う」債務以外のなにものでもないからである。それはいわば、一つの家計の中で息子が父親に債務を負っているのと同じである。
…
サミュエルソンによる再構成のもう一つの重要な意義は、右の「負担ゼロの極端な場合」という設例が示唆しているように、「政府支出による負担は、その財源が税であれ国債であれ、基本的には将来世代ではなく現世代が負う」ことを明確にした点にある。以下では、この「すべての負債が過去の戦争のおかげで生じた」という『経済学』第6版第19章末付論の設定を踏襲して、なぜそうなのかを考えてみよう。
戦争には大砲や弾薬が必要であるが、それは通常、増税か国債かのいずれかによって賄われる。問題は、それがそれぞれ誰の負担となるかである。そのことを確認するために、資本ストックがまったく存在せず(したがって投資が存在せず)、人々はその時々の所得のすべてを消費にあてているような経済を考えよう。それはいわば、もっぱら狩猟採集によって成り立っているような経済である。この消費だけで投資のない経済においては、大砲や弾薬の生産にどれだけ多くの人力が投じられたとしても、それが将来世代の負担には結びつかないのは自明である。将来世代ももちろん、大砲や弾薬を生産することはできる。しかし、それをタイムマシンで現在に持ってくることはできない★4。したがって、この場合には結局、大砲や弾薬を生産する負担は、すべて現世代がその消費の削減という形で負うことになる。というのは、大砲や弾薬の生産に人力が投じられれば、消費財の生産はその分だけ削減される以外にはないからである。
その費用を増税で賄うのか国債で賄うのかは、その負担を現世代の中でどのように分かち合うのかの問題にすぎない。それが増税で賄われた場合には、税金によって可処分所得を減らした納税者全体が、消費の削減によってその費用を負担することになる。それに対して、それが赤字国債によって賄われた場合には、自発的に消費を削減して赤字国債を購入した人々がその費用を負担する。
この赤字国債は、将来の増税によって償還される。しかし、将来世代の生産や所得は国債残高とは無関係なのだから、ラーナーがいうように「われわれの子供たちや孫たちをすべてひとまとまりにして考えた場合には、より豊かになっているわけでも貧しくなっているわけでもない」のである。実際、サミュエルソンが右の「負担ゼロの極端な場合」で示しているように、すべての人々が国債を均等に保有しているとすれば、たとえば「一人の国民が保有する国債額に等しい人頭税を課す」というように同額の増税によってそれを一挙に償還しても、国民が全員一致でその国債を廃棄することに決めたとしても、結果はまったく同じである。
ただし、この「財政の負担はすべて将来世代ではなく現世代が負う」という強い結論は、「海外部門も資本ストックも存在しない」という前提から導き出されており、決して一般的に真であるわけではない。常に真であるのは、将来世代の負担がどうであれ、「政府の支出によって消費を減らさなければならない人々が存在するのであれば、それは明らかにその世代の人々にとっての負担となっている」という事実である。その意味で、財政の負担は多くの場合、将来世代よりもむしろ現世代が負っていると考えることができる。
そこで、この消費のみで投資のない単純な経済ではなく、海外部門と資本ストックが存在するより一般的な経済を想定しよう。そこでは、右の設例とは異なり、「海外からの借り入れ」と「財政赤字がなければ存在したはずの資本ストックの食い潰し」という二つの経路によって、負担を将来世代に転嫁することが可能となる。
これまでと同様に、大砲や弾薬を製造する戦時費用がすべて赤字国債で賄われたとしよう。しかしここでは、その国債がすべて、国内ではなく海外で消化されたとしよう。それはたとえば、日露戦争(1904~1905年)当時の日本である。この時期の日本は、欧米列強諸国と比較すれば未だ経済的にきわめて弱小であり、その戦費のすべてを自ら賄うことは不可能であった。日本はそこで、戦費調達のために、戦時外債の公募を行った。その時に、国の存亡をかけて海外の投資家たちと決死の交渉を行ったのが、当時は日銀副総裁であった高橋是清であった。
…
★1 のちに論争の整理を行ったジェームズ・ファーガソンが指摘しているように(Ferguson[1964]p. 9)、政府債務の将来負担に関するラーナー流の議論は、少なくとも経済学者の間では、おそらくは「口頭伝承」として既に1930年代から認知されていた。ラーナーがこの論文で、自らの見解をもっぱら「経済学者たちの共有された見解」として述べているのはそのためである。
★2 後述する世代重複モデル分析的な観点からこのラーナー流の接近を批判したウィリアム・ボーウェン、リチャード・デイビス、デヴィッド・コプフは、ブキャナンによる「新正統派批判」の意図は評価しながらも、同時にその批判内容の問題点をも指摘している(Bowen, Davis, and Kopf[1960]p. 701 n. 1)。
★3 Wikipedia英語版の「Economics(textbook)」項目による。
★4 この「タイムマシン」の比喩を最初に用いたのも、やはりラーナーである。ラーナーは、1960年代初頭に展開された論争の中で、「借り入れと返済にタイムマシンを用いることはできない。異なった時点間での資源や負担の移転は不可能なのである」と述べている(Lerner[1961]p. 140)。
The Burden of Debt Abba P. Lerner The Review of Economics and Statistics The Review of Economics and Statistics Vol. 43, No. 2 (May, 1961
★5 このサミュエルソンの一文が幅広く引用されるようになった契機は、ウィリアム・ボーウェン、リチャード・デイビス、デヴィッド・コプフが、それをラーナー流分析の神髄を示すものとして取り上げたことによる(Bowen, Davis, and Kopf[1960]p. 701)。この文章はそれ以降、財政学の教科書などにしばしば引用されるようになった。その最近の一例は、アンソニー・アトキンソンとジョセフ・スティグリッツの共著『公共経済学講義・改訂版』(Atkinson and Stiglitz[2015]p. 209)である。
★6 この財政錯覚という概念を最初に提起したのは、イタリア人経済学者アミルカーレ・プヴィアーニであり、1903年に出版されたそのイタリア語の著作『財政錯覚の理論』(Puviani[1903])であった。このプヴィアーニの議論は、その著作の翻訳が行われていなかったために、世界的にはほとんど知られてはいなかった。しかし、1960年代初頭にこの書籍のドイツ語訳が出版されたこと、さらにジェームズ・ブキャナンがこの頃からプヴィアーニの財政錯覚論を盛んに取り上げ始めたことから(たとえば、Buchanan[1960])、次第に一般的に用いられるようになった。
★7 この財政的児童虐待(fiscal child abuse)という概念を提起したのは、財政負担に関する世代会計分析の創始者の一人であるローレンス・コトリコフである(Kotlikoff and Burns[2004])。
補記:
ケインズ学会で野口氏の発言を聞く機会があったが、氏の思考が実体経済に向かって行かないことに驚いたことがある。リフレ派は根本的にダメなのではないか?それは商品貨幣論を信じているからというよりも、実体経済を見ないからだ。
社会動向を気にしている体裁を取った本書や望月慎氏とのyoutube対談ではその根本的欠落がわかりにくい。
結局主流派経済学は現実と乖離した幻想なのだ。
同じリフレ派(だった?)浜田宏一氏の近著と比較するといい。
0 件のコメント:
コメントを投稿