20210924 欲望の資本主義 特別編 「生き残るための倫理」が問われる時 - BS1スペシャル - NHK
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ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』 いくつかのマルクス主義的論点:ロマリック・ゴダンの書評への返答」(2020年10月4日) — 経済学101
Branko Milanovic "On several Marxist themes in "Capitalism, Alone": My reply to Romaric Godin's review" globalinequality, October 4, 2020
ロマリック・ゴダン1 が "Capitalism alone" 仏語版(邦訳『資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来』〔西川美樹訳、みすず書房、2021年〕)についてとても刺激的な書評を最近書いてくれた。「資本主義に関するブランコ・ミラノビッチの不完全な考察」といういくぶん挑発的なタイトルだ。以下では、考察が不完全にとどまらざるをえない場合がある理由に加え、私の考えを更に少しだけ明確化し、可能であれば議論をさらに前に進めるために数点はっきりとさせておきたい。
書評の最初の部分にある「資本主義だけ残った」の主要点についてのゴダンの要約は素晴らしい出来で全く異論はないが、その例外として共産主義に関する私の定義について明確化したい。その上で、ロマリック・ゴダンの非常に具体的な4つの批判をおさらいした上で、それらへの回答を試みることとする。
共産主義の世界史的役割
共産主義の役割に関する説明は次のとおりだ。共産主義に関する私の定義は、本の中でイタリック体で次のように書いている。「共産主義とは、後進かつ植民地化された社会に、封建主義を廃止し、経済的政治的独立を回復し、独自の資本主義を構築することを可能とした社会システムである」。この定義が「後進かつ植民地化された」社会に関するものであることに注目してほしい。本の中で説明しているとおり、二重の移行を成し遂げる、すなわち外部の影響力から国家を政治的に解放し、社会変革(土地改革、封建的な特権の廃止、広範囲な教育、両性の平等)を導入する上では、職業的活動家からなる中央集権的な反帝国主義政党が最も適していた。そして、そうした体制が土着の資本主義の発展の舞台を整えたのだ(彼らが革命を行ったときにそれは頭になかったに違いないが)。彼らの役割は非植民地国家におけるブルジョワジーのそれと機能上は同じだったと私が主張するのはこうした理由からだ。
この点は、少なくとも二つの理由から重要だ。まず、「歴史の狡猾さ」により、こうした変化の担い手たちは自らが無自覚なシステムを導入した。これは十分な時間が経過した今になってこそわかることだ。このことは今から30年前、あるいはそれよりもっと近い過去においても全く分からなかったことで、革命期には言わずもがな。ミネルバの梟は黄昏に飛び立つのだ。
もうひとつの理由は、共産主義の世界史上の役割に関するこうした見解は、20世紀の出来事に対する私たちの見方を完全に変えてしまうことだ。「資本主義だけ残った」の付録1で主張したとおり、ロシア革命の最も重要な成果はロシアに(その後崩壊する)共産主義システムを導入したことではなく、第三世界における左翼共産主義の中に反帝国主義闘争と社会革命を統合したことだ。こうした理由から、1920年バクーでの東方諸民族大会とコミンテルン第二回大会(これも1920年)で表明された「東の転回」は決定的重要性を持つものだった。レーニンを引用するならば、「資本主義は、一握の「先進国」の手によって、植民地による圧政と金融によって世界の圧倒的大多数の成長を押さえつける世界システムに成り上がったのだ」2 、あるいは「この大会(原注:コミンテルン第二回大会)において我々は、資本主義先進国の革命的プロレタリアートと、プロレタリアートが一切あるいはほとんどいないような(強調は著者による)国の革命的大衆、すなわち植民地化された東側諸国の抑圧された大衆との連合を目の当たりにしているのだ。」となろう。3
ロシア革命と、反植民地主義闘争も包摂(多くは植民地化された国々のブルジョア政党との連合)するためのレーニンによる世界の階級闘争の再定義なしには、第三世界の共産党は脇役に追いやられていたことだろう。さらに、レーニンの立場はマルクス主義の正統からの離脱であったことを認識することが重要だ。マルクスや多くの「古典的な」マルクス主義者たちは、西側の帝国主義を後進国に資本主義を導入し(この点については、インドに関するマルクスの記述が好例となる)、その後の社会変革への舞台を整える手段としてみたたため、帝国主義への態度があいまいであったり、支持すらしていた。この見解においては、共産党には生来の反帝国主義的役割というものはない。それが完全に変わったのは1920年以降だ。
今日の視点でロシア革命を見た場合、このことがそのもっとも重要な成果だった。これはまさに間接的であれど世界レベルでの根本的重要性をもつ成果だった。乱暴に言ってしまえば、アジアの勃興とアフリカの非植民地化はこれなしには起こらなかったか、起こったとしてもはるかに遅々としたものだったということだ。これは中国やベトナムいった典型例だけの話ではなく、インドにおいても独立運動は国内のブルジョワジーに率いられたものの、彼らは左翼の圧力を受けてより進歩的な政策を左翼や世俗正統から取り入れていた。すなわち、左翼の圧力、これにはインド国内のいくつかのマルクス政党によるものだけでなく、おそらくは社会革命、工業化、中央計画化やそれらに類するものに対するイデオロギー的な受容がより重要だったと思われるが、これなしにはインドの独立と改革にはさらに何十年も要したことだろう。2つのブルジョワ政党が協力し、インドがイギリスと「柔軟な」植民地協定を締結することになっていたことすら考えられる。
この点について明確化しておきたかったのは、ロマリック・ゴダンが「植民地主義」要素を見落とし、共産主義は経済的理由から途上国の方がうまくいったというより従来的な見解を私が維持していると考えているように見えるからだ。(3.2節に書いたとおり)そうした見解を私も持っているものの、上述した主張と比べればそれは二次的な重要さでしかない。
さらに、なぜ本の中で私が中国とアメリカを並列するかもこの主張によって説明できる。「通俗的な」政治学者とは違い、新冷戦の両極に関する一般的な議論の多くのように単に中国とアメリカの違いを論じるという雑なことを私はしていない。私の目的は、中国の勃興と政治的資本主義の採用に関するイデオロギー起源提供することで、単に現在の中国の姿を語ることではない。共産主義が、この解釈によればであるが、中国の勃興の背後にあり、そして中国の勃興は世界を変革させるものであることから、このことこそが世界史における共産主義の主たる貢献のひとつであると私は主張する(中国は間違いなく最も重要な例ではあるが、本の中ではアルジェリアからタンザニアまで、同じカテゴリにあって同じ力に反応したと思われる10か国を挙げている)。
これによって、私が今日のロシアを政治的資本主義の一例として議論しない(これはニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスに掲載されたロバート・カトラーによる「資本主義だけ残った」の書評で批判された点だ)理由も説明できる。実際、ロシアは中国の政治的資本主義の多くの特徴を兼ね備えており、これについても議論することは出来ただろうが、他方で上述した歴史的起源は共有していないため、本の中で議論する意味がなかった。
それではゴダンの具体的な批判について話を移そう。
歴史システムとしての資本主義
1つ目は、資本主義の自然の性質と歴史的な性質の間で私が逡巡していることに関係している。資本主義は「自然の」システムだろうか。私たちの欲求と振る舞いは社会化の産物であり、それすなわち資本主義が歴史的なカテゴリであることを意味すると私が考えているとゴダンは正しく指摘している。しかし「資本主義は人々の富に対する欲求を満たすという能力によって勝利を収めたという著者の仮説」という点は、そうした欲求が人類に内在するもので、したがって資本主義の力に関する私の主張を説明づけるものではあるが、資本主義が歴史システムであるという言辞とは相反する。したがって私としては資本主義が自然のシステムであると主張するか、資本主義は克服されうるものであると認めるかのいずれかを選ばねばならない。
後者を選ぼう。巻末に簡潔に記したとおり、資本主義が別のシステムにとって代わられると想像することはできる。それは資本が労働に比して豊富になり、賃労働者が消滅する場合だ。そうした際には、資本主義の根本定義に関する性質が消え去ることになる。すなわち、賃労働者はなく、社会との関係としての資本もない(雇用労働者が消えることでこれも消滅するからだ)。そして生産様式も変わることになる。これによって価値のシステムにも変化がもたらされるだろうか。さあどうだろう。しかし、社会の仕組みが変わるのであれば、現時点では不変とされる一部の価値、例えば富の獲得が人生の第一の目標という価値などに変化が訪れうると予見できることは確かだ。
資本主義は永遠に拡大し続けるか
2つ目の批判は、資本主義の動的な要素、その中でも特に、利益をもたらす新たな活動を探求することによって引き起こされる恒常的な拡大の必要性を私が完全には考慮していないというものだ。しかし、ゴダンが書くように、今日の資本主義は一定の、明らかに乗り越えられない限界に直面している。すなわち、一方では増大する格差に対する社会の拒絶により、もう一方で低生産性成長(長期停滞仮説)と資源の枯渇によって資本主義は限界付けられている。したがってゴダンは、資本主義はさらなる拡大に際して非常に大きな制約に直面するかもしれないと述べている。そして利益になしには資本主義もない。この問題はゴダンの指摘するとおり、ローザ・ルクセンブルグとヘンリク・グロスマンにまで遡る。
しかし、私が思うに、静学的なのはゴダンの見解であって私ではない。何らかの形で資本主義が新たな活動領域を見つけることができなくなるという見解は、私たち自身の認知的な限界に基づいている。すなわち、私たちにはこの先30年後50年後において利益を生み出す新たな分野がどんなものであるか想像する能力がない。資本主義が「侵略」できる領域を予見することはできないことを私たちは自覚すべきだ。特に、20年前には誰も予想することのできなかった私的空間への資本主義の拡大(インターネットインフルエンサーからAirbnbまで)というこのご時世においては。しかしそれから類推すれば、そうした新たな領域が実際に創り出されることは容易に想定できる。
ローザ・ルクセンブルグは、今日においては知られているとおり間違ってはいたが、新たな領域がいつまでも見つかることはないから資本主義の拡大は有限であると主張することは、彼女にとってみれば故あることだったと思われる。しかしこれは問題設定の仕方が間違っていた。というのは、資本主義の支配は新たな物理的な領域を必ずしも必要とせず、(シュンペーターが主張したように)生産を組織する新しい方法や、新しい製品、さらには余暇にまで拡大できるからだ。同様に、どのような活動が「資本主義的」になりうるかを今日の私たちが予見することもできない。それぞれの世代にとっては資本主義はありえる利益の源泉を吸い尽くしてしまったように見えたが、結局のところそれは全て間違っていたのだ。
この問題は、技術変化に関する私の議論ともとても似通っている。技術変化についても私たちは認知的な限界を抱えている。新たな技術によってどのような仕事が創出されるかは、新たな技術が生産と私たちの欲求にどのように影響するかが分からないというだけの理由から、正確に見通すことはできない。したがって、多くの場合に新たな技術は労働者を不要なものにし、既存の仕事を単になくしてしまい、新たな仕事を生み出すことはないように見えてしまう。これが誤りであることは過去200年の間繰り返し明らかになってきたが、それでも新たな技術が登場するたびに今も同じ誤りに出くわしている。
同じ主張の中でゴダンは、この本が資本主義の生産面への注意に欠けているのが残念であるとしている。これはもっともな批判だ。この本はリベラル資本主義と政治資本主義双方の分析において、分配面とエリートの再生産(これ自体所得分配のパターンと相関している)に焦点をあてている。これらは私の専門とする領域だ。残念ながら生産面、独占、知的財産権、資本に労働が従属する資本主義の生産における階層的な内部組織、労働組合は重要な点ではあるが、私よりもはるかに知見のあるほかの人たちの手に委ねざるをえなかった。これらの点について非常に価値ある業績を残した人は、おそらくたくさんいると思うが、二人挙げるとすればアンワール・シャイフの「資本主義」とアメリカ資本主義の独占的性質に関するマーシャル・スタインバウムの論文だ。
共産主義の定義
3つ目の批判は、資本主義と共産主義の定義についてだ。この後者について、用語上の問題があることには細心の注意を払った。本の第三章をそれについて丸々割いたのはそうした理由からだ。簡単に言えば、私は社会主義(ママ)経済について議論する際、「共産主義」という用語を特に英語文献で「共産主義」という用語が用いられるのと同じ一般的な形で使っている。すなわち、資本が国家ないし社会によって所有され、生産の決定が中央集権化されている経済という意味だ。語源学的かつひどくイデオロギー的な議論に入る意味はなく、それが何を意味しているのが分かればいい。こうしたシステムは間違いなく資本主義ではない。違いははっきりとしている。
さて、マルクス主義的観点から言えば、共産主義は(いまだ至ったことのない)より高位の段階で、マルクスが書いたところではあらゆる階級社会という前段階が終わって真の人類史が始まる段階であって、上記のような文脈で「共産主義」という用語を用いるのは不正確であるというのは正しい。そのようなシステムはこれまで存在したことがなく、したがって議論はしない。マキャベリが批判的に述べたとおり、「多くの人たちは、見たことも実際に存在するかも分かれない公国について書いてきた」4 のである。
しかしながらゴダンは、社会主義経済についてもう一つおもしろい指摘を行っている。彼の書くところでは、「現実に存在する社会主義」もまた価値の法則で動いていた(生産は実のところ価値の交換で、価値の使用ではなかった)のであり、企業内部における関係は階層的で、「現実に存在する社会主義」は階級社会だった(あるいは、だったかもしれない。この点は保留しておこう)のだから、社会主義経済は資本主義と根本的に変わるところはなかったという。この点は、今よりもずっと若かった時分に私も数えきれない時間思考し、文章にもした論点で(いずれも出版はしていない)、それは今も続けているのだが、これは重要な点ではあるものの私の本の範疇からは外れている。この本では、非常に明確に定義した生産システムを扱っている。すなわち、リベラルないし社会民主主義的資本主義、社会主義経済、政治的資本主義だ。これらのいずれも現実世界に存在する、あるいは存在したものだ。「現実に存在する社会主義」が商品生産システムであったという点については、ゴダンに同意しよう。なお、この点はマルクス主義者の間でも争いのないところで、多くの社会機能(教育、医療、行政)の充足や投資のために剰余価値と剰余労働時間がいまだ残る移行期についてマルクスが予見したことと完全に整合的だ(ゴータ綱領批判の第一部を参照)。
したがって、「ボリシェビキ体制は、資本主義ではないものの、社会階級と搾取がなくなるというマルクス主義的用法で言うところの「共産主義」となりうるものでもない」という点ではゴダンに同意するが、この批判に意味があるとは思わない。この本に対してもそうだが、ボリシェビキ体制それ自体に対してもだ。というのも、厳密に言えば彼らはマルクス主義的意味での共産主義者を自称したことはないのだ。彼らは自らを共産主義に向けた移行システムであると考えていた。
共産主義についてのマルクスの定義は、人類の「前段階」にとっての興味深い「終着点」であるものの、ほとんどの場合は現実に存在する社会についての議論する際の障害となっていると思う。ゴダンが引用するパネクーク、そしてレーニンもがそう考えたとおり、社会主義体制はある時点において国家資本主義であったが、この議論には途方もない量のインクが費やされた。しかし、これは不毛である以上にほとんど神学論争だ。
資本主義を代替するものは必要か
4つ目の批判は、明示的にそうであると表現されているわけではないが、次の問題に関するものだ。すなわち、資本主義が変化し、別のシステムに取って代わられるためには、明確な代替案が必要であると考えるのは間違っているというものだ。ゴダンは、「経済システムは常に競争関係にあったと主張するブランコ・ミラノビッチの本は問題点をはらんでいる」、「死ぬために競争相手を必要とする資本主義という見方は、冷戦時代の目的論に基づいていると思われる」と書いている。
ゴダンがそのような結論に達してしまったのであれば、それは私の説明が悪かったからに違いない。私は支配的な生産様式の変化が隣接する別の生産様式の存在によってのみもたらされるとは全く考えていない。ゴダンが引用した事例(北イタリアの諸都市とオランダ)のように、変化がシステム自身の内からやってくることには完全に同意する。別の方法で生産を組織するほうがより生産的であれば、それはそれまで支配的だった生産様式を侵食していき、いずれ取って代わり、これに打ち勝つからだ。
リベラル資本主義と政治的資本主義の対立は、どちらかが必ず優越すると主張するために用いたのではない。実のところ、これは1990年代によく見られたフクヤマ的な見解の否定するもので、それが本書の執筆と特に巻末において2つの資本主義の収れんの可能性を提示することに私を導いた理由の一部でもある。ゴダンを引用しよう。「二つの形態がハイブリッド式の一つの形態に合体するという仮説が本書の最後で足早に提起されているが、昨今の展開、すなわち西側における権威主義や汚職の傾向とそれ以外の経済における経済エリート層の発達を踏まえた場合、この説は目を引くものだ。」
最後に、私は資本主義が完全に克服される可能性を排除しているわけではない。しかし、既に触れたとおり、「客観的な」経済の現実が変わらない限り、言い換えれば労働が比較的希少な生産要素とならない限り、そうしたことは想像しえない。思うに、私たちは歴史的な経緯によって、資本の希少性が不可避であり資本所有は常に必ず集中していると信じるよう仕向けられている。有史以来ほとんどの期間に渡ってそうであったことは認めよう。しかし必ずしもそうである必要はない。資本の集中は、課税、労働者の株式保有、さらには(可能な場合には)国有といった、よりずっと幅広い所有を促す政策によって克服できる。それが「人民の資本主義」についての私の定義だ。資本の希少性は、人口の低成長ないしゼロ成長と一緒になって起こる資本蓄積と技術変化によって克服できる。これら2つの変化によって私たちの知る資本主義は終わりを迎えるだろう。しかし、これらは個人の意思とは無関係な変化だ。
以下は過去の関連エントリ
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』:フランス語版出版に際して、マリアンヌ紙によるインタビュー」(2020年9月11日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』:ブルガリア語版出版記念インタビュー」(2020年12月26日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』ギリシャ語版出版記念インタビュー」(2021年1月16日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』の著者が明かす四つの重要な裏テーマ」(2019年9月24日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』よくある批判への回答:アリッサ・バティストーニの書評について」(2021年5月14日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』世界の芸術家の役割」(2021年2月8日)
- 訳注;経済分野を主とする仏ジャーナリスト。Mediapart所属。元La Tribune紙副編集長。 [↩]
- 原注1;Vladimir I. Lenin, Collected Works, vol. 19, p. 87. Paul Sweezy, The present as history, Monthly Review Press, New York, 1953, p. 24による引用。 [↩]
- 原注2;1920年7月19日モスクワにおけるコミンテルン第二回大会でのレーニンの演説 [↩]
- 原注3;マキャベリ「君主論」第15章 [↩]
大不平等――エレファントカーブが予測する未来 Kindle版
ブランコ・ミラノヴィッチ (著), 立木勝 (翻訳) 形式: Kindle版
2017
資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来Kindle版
ブランコ・ミラノヴィッチ (著), 西川美樹 (翻訳) 形式: Kindle版
2021
674 考える名無しさん[] 2021/11/15(月) 18:12:41.60 ID:0
エレファントカーブがグローバル化以降の主な経済問題。
グローバル資本主義により発展途上国の貧困階級も富裕階級も共に所得が大幅に上がった。
しかし先進国は富裕階級は所得が上がったが中流、貧困階級は所得が減った。
この所得変化のカーブが象と象の鼻のようだというのでエレファントカーブと呼ぶ。
NHKとかでもやってたからちゃんと情報仕入れてる人は知ってる。
865 考える名無しさん[] 2021/11/18(木) 12:14:07.16 ID:0
前にも指摘したがエレファントカーブが現在の経済問題。
世界的資本主義グローバル化で発展途上国は富裕層も貧困層も豊かになった。
先進国製造業の発展途上国シフトによるものだった。
先進国でも最先端のITや国境無関係の金融関連はグローバル化の恩恵を受けより豊かになった。
ただ先進国の中流、貧困層は製造業の発展途上国シフトによる産業空洞化で仕事がなくなり貧困化している。
中流層を支えた製造業がなくなると低賃金のサービス業しかなくなるからだ。
906 考える名無しさん[] 2021/11/18(木) 19:29:21.31 ID:0
>>674 >>865
エレファント曲線は、その期間中にめまぐるしい飛躍を遂げた中国経済と、
バブル崩壊後の日本及びソ連崩壊後の東欧諸国の経済停滞とでほぼ説明できるらしい。
これらの国々を取り除くと象の鼻状の曲線はかなり消えて直線に近似できるようになる。
ただし最富裕層の著しい伸びと最貧層の伸びの鈍さの間には格差拡大が見られる。
ブランコ・ミラノヴィチ氏らが示したエレファント曲線は、
ソ連の崩壊と日本のバブル崩壊の後遺症がいかに深刻だったかを物語るもの。
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https://www.dir.co.jp/report/column/20190409_010228.html
MMTで日本は財政再建から解放される?
「現代貨幣理論」(Modern Monetary Theory、MMT)への関心が高まっている。米国の民主党左派は、グリーン・ニューディール(脱炭素社会を実現するためのインフラ投資)や国民皆保険への大規模な財政支出を訴えているが、これをサポートする理論としてMMTが引用されている。また2020年の大統領選ではMMTが議論されるだろうと言われている。
MMTは伝統的な経済学の考え方とは大きく異なる。例えば、自国通貨を発行する政府は財政赤字(債務の増加)を懸念する必要はないとしている。政府は家計や企業とは異なり、通貨を発行して利払い費に充てられるからだ。ただし、財政支出が際限なく拡大すれば、いずれハイパーインフレに直面して経済が立ち行かなくなる。そのためMMTでは、インフレが財政の唯一の制約条件となっている。
日本がデフレに陥ってから20年ほど経ったが、現在でもデフレからの完全脱却には至っていない。その間に政府債務は経済成長率を上回るペースで増加しており、公債等残高は名目GDP比で200%に迫っている。政府はデフレ脱却と財政再建に取り組んできたが、MMTを単純に当てはめると、政府は財政再建を棚上げし、デフレ脱却に専念して財政支出を拡大すべきと言えそうである。
だが、このように考えるのは早計だろう。確かに、日本銀行が異例の金融緩和を続ける中で、財政支出の拡大が経済活動に支障をきたす事態を招くとは、当面は考えにくい。しかしだからといって財政赤字を放置し、政府債務が大幅に積み上がると、インフレになったときにインフレをコントロールできないリスクが大きいからだ。
インフレになれば金融政策は正常化に向かうが、国債市場の参加者がこれまでのように国債を購入するとは限らない。高いリスクプレミアムを要求されて国債金利が大幅に上昇し、政府債務が雪だるま式に増加することは十分に考えられる。そのような状況では通貨への信認も揺らぐだろう。多くの人が政府の発行する紙幣に額面通りの価値がないと判断し、金融資産を外貨などに替える動きが広がれば、急激な通貨安と輸入インフレが起きる。
政府が国債金利やインフレを安定させようと財政再建に着手するときには、家計や企業は短期間に大幅な経済負担を求められることになろう。MMTが現実に機能するためには、国債や通貨に対する信認の維持が不可欠だ。
家計や企業にとって最も重要なのは、経済社会の長期的な安定である。それを実現するために望ましい政策とは何か、改めて議論する機会をMMTは提供している。
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MMT(現代貨幣理論):その読解と批判 : 富士通総研
はじめに
MMT(現代貨幣理論)が内外で注目を集めている。もともとは、地球温暖化阻止を目指したグリーン・ニューディールや、多額の学生ローンを背負った若者の救済を訴える、米国民主党左派のアンドレア・オカシオ・コルテス下院議員(通称AOC)らが、その財源に関して「財政赤字を心配する必要はない」とするMMTを支持したことから、これまで殆ど無名だったMMTを巡って米国内で論争が捲き起こったものだ。その過程で、インフレや金利上昇を懸念する主流派経済学者に対して、MMTの主唱者の一人であるステファニー・ケルトン教授が「巨額の財政赤字でもインフレも金利上昇も起こっていない日本はMMTの成功例」などと主張したことから、日本にも論争が飛び火した経緯がある。
本稿は、このMMTについての評価を試みようとするものだが、問題はクルーグマンも指摘するように(注1)、MMTの議論の仕方自体が伝統的な経済学と大きく異なるため、何が言いたいのかよく分からない面があることだ。実際、現時点でMMTの代表的著作とされるL. Randall Wray, Modern Money Theory : A Primer on Macroeconomics for Sovereign Monetary System 2nd ed, Palgrave-Macmillan, 2015(注2)を読んでみても、その論理展開は決して明晰とは言えない。しかし、日本では幸いなことに中野剛志氏の手になる解説書(『目からウロコが落ちる奇跡の経済教室【基礎知識編】』、KKベストセラーズ、2019年)が出版されており、こちらの方が遥かに分かりやすい。そこで以下では、主にこの2著を参照しつつMMTの読解と批判を進めて行く。
予め趣旨を述べておくと、筆者も「インフレにならない限り、財政赤字には問題がない」、「インフレになったら、税金を増やせば良い」といったMMTの主張に賛成することはできない。後述するように、MMTの最大の弱点は会計論に終始していて、価格(金利)とか均衡といった経済学の基本的な道具立てを欠く点にある(だから、クルーグマンにも理解できないのだろう)。しかし、MMTの主張の中には主流派経済学の弱点を突く議論が含まれており、単純に「意味不明」とか「全くの誤り」などと切り捨てるべきではないというものである。なお、本稿の補論では、米国主流派経済学者による最近の財政政策重視論(サマーズ、クルーグマン、ブランシャールらはMMTを批判しつつ、財政政策の重要性を訴える主張を展開している)に対して批判的な見解を述べる。
信用貨幣論に基づく信用創造の理解
筆者の見るところ、MMTは①信用貨幣論(credit theory of money)に基づく信用創造の理解、②ラーナー流の機能的財政論(functional finance)による財政の理解、③表券主義(chartalism)に基づく現金通貨の理解、という3本の柱からなるものと考えられる。以下では、これらを順に説明しながら、必要な批判を加えていくこととしよう。
信用貨幣論は、さらに遡れば19世紀英国における通貨主義(currency school)vs 銀行主義(banking school)の対立のうち、銀行主義の流れを汲むものだが、最大の特徴は信用創造をどう理解するかに求められる。普通は、預金を元手に銀行が貸出を行うことから信用創造がスタートすると考えられている。しかし、MMT=信用貨幣論では「銀行が貸出を実行すると、直ちに同額の預金が生まれる」と考える。一般の人には不思議に思われるかも知れないが、これは金融界に属する人間には常識だと思う。実際、貸出を行うということは(貸出に関する契約書等を別にすれば)、「貸出先の預金口座に貸出額に等しい預金を書き込む」ことに他ならないからだ。貸出の原資としての預金を事前に必要とはしない。原資が必要になるのは、貸出先の企業が支出をすると預金が自行から他行に流出するからであり、その場合の不足資金は預金でなく市場(日本ではコール市場、米国ではFF市場など)で調達してもよい。中野氏の書物によれば、こうした信用貨幣論は近年のイングランド銀行の四季報でも紹介されているとのことだが、筆者にしてみれば40年以上前に日銀に入行した時、最初に習ったことの一つである(注3)。
もちろん、通常の貨幣乗数の公式は、マネーストックとマネタリーベースの定義式を変形しただけだから、MMTにおいても成り立つ。だが、
マネーストック=貨幣乗数×マネタリーベース
貨幣乗数=(1+現金/預金)÷(準備預金/預金+現金/預金)
と書くと、どうしても本源的な預金=マネタリーベースを供給する中央銀行が主体であり、それを乗数倍増やす銀行は受動的な存在という描像が生まれやすい。しかし、MMTでは貸出が出発点だから、「中央銀行がマネタリーベースを増やしても、資金需要がなければ貸出は増えないので、マネーストックも増えない」ということになる。事実、2000年代の量的緩和でも今回の「異次元緩和」でも、金融界からは「日銀当座預金を増やしても、資金需要がないのでブタ積みになるだけだ」という声が聞かれたのは周知の通りである。そして実際に、量的緩和や「異次元緩和」の結果、マネーストックが大きく増えることはなかった。信用創造の実態を知る実務家の見方が正しかったということになる。
確かに、正統派の経済理論でも金利のゼロ制約の下では上記の式が成り立たない(または貨幣乗数が著しく不安定化する)ことは説明できる。しかし、中央銀行を主体とする信用創造に関する描像が、ゼロ金利でも「マネタリーベースが増えればポートフォリオ・リバランス効果が生まれる」、「インフレ期待が高まる」といった議論(いずれも理論的には間違いである)につながったのではないか。そういう意味で、「金融実務家の常識」を理論の1つの柱として打ち出したのはMMTの功績であり、MMTの信用創造の理解は主流派経済学の弱点を突くものとなっていると思う(注4)。
とは言え、MMTの説明では貸出がどれだけ行われ、貸出金利がどう決まるかは全く分からない。そのためには、貸出市場の均衡条件、例えば
貸出金利=市場金利+(金利以外の)貸出の限界費用
が必要になる。貸出の限界費用とは審査費用などであり、これが貸出量に関して逓増し、一方で貸出金利が貸出量の減少関数となるとすれば、この式から貸出量と貸出金利が決まることになる(因みに、貸出市場の均衡に影響を与えるのは、限界的な資金調達コストだから、預金金利ではなく市場金利である)。日本では、当時日銀のエコノミストだった鈴木淑夫氏(後に日銀理事)が半世紀以上前に定式化したものであり、先の信用貨幣論とこの銀行行動の理論を2つの柱とするものが世に言う「日銀理論」だと筆者は理解している(注5)。
問題は、この考え方が財政に適用された場合だ。Wrayの説明は分かり難いが、中野前掲書(第6章)は銀行が国債を購入し、政府が国債発行で得た資金を使えば国債発行額と同額の預金が創出されるため、国債発行に制約はないと言う。しかし、銀行システム全体としては国債発行と同額の預金が生まれるとしても、個々の銀行が国債を買う際には当然採算を考えなくてはならないし、長期国債の場合は資金を固定するリスクも考慮する必要がある。結局、貸出市場の場合と同様に、銀行がどれだけ国債を購入するかは、市場の条件、すなわち現在から将来に掛けての短期市場金利の予想などによって決まることになる。銀行により多くの国債を買ってもらうためには金利が上がる必要があるから、国債発行額が増えれば国債の金利は上がる。国債発行に限界がないのではなく、金利という価格の制約が厳に存在するのである。
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「際限なく貨幣発行できる」MMTは日本救う理論なのか
コロナ禍に立ちすくむ景気を下支えするために財政支出が繰り返されている。目下の経済対策は必須だが、累積する債務は将来への不安を募らせる。米国では「財政赤字で国が破綻することはない」とする「現代貨幣理論(MMT)」が議論されている。「通貨発行権を持つ国は債務返済に充てる貨幣を際限なく発行できるため、物価の急上昇が起こらない限りデフォルトには陥らない」という理論がMMTの骨子だが、果たして日本の現状にも当てはめられるものなのか。日本銀行理事などを歴任した東京財団政策研究所の早川英男上席研究員に聞いた。

早川英男(はやかわ・ひでお)氏
東京財団政策研究所上席研究員。1977年、東京大学経済学部を卒業。同年、日本銀行に入行。83~85年、米プリンストン大学大学院に留学。日本銀行在職中は2001~07年に調査統計局長、09~13年に理事などを歴任。富士通総研経済研究所エグゼクティブフェローを経て現職(写真:都築 雅人)
コロナ禍による財政支出で累積債務が懸念される中、MMTが再び注目されています。日本はMMTで論じられるように「財政赤字による破綻はない」と考えてよいのでしょうか。
早川英男氏(以下、早川氏):「インフレにならない限り、財政赤字には問題がない」「インフレになったら、税金を増やせばいい」――。私は、こうしたMMTの主張に安易に賛成することはできません。
日本の債務残高はGDPの2倍を超えており、世界的に見ても相当高い水準にある。物価が上昇し始めたら金利を上げればいいという主張は、中央銀行からすれば一番恐ろしい考え方です。国債発行残高が積み上がっているため、利上げをすれば、途端に支払利子が大幅に増加するからです。ですから、財政をどれだけでも出動できるという考えは、マーケットを壊しかねません。
米国でのMMTの広がりは、2018年に史上最年少(当時28歳)で米連邦下院議員となった民主党のアレクサンドリア・オカシオコルテス下院議員(通称AOC)が、「財政赤字を心配する必要はない」と訴えたことで論争が巻き起こりました。グリーン・ニューディールや学生ローンを背負った若者の救済を訴える民主党左派に支持されたのです。
しかし、米国で金融取引を手掛ける友人に聞いてみても、米国内でMMTについて詳しく知っている市場関係者は少数派のようです。
MMTが日本でも話題になった背景には、同理論の主唱者の一人である米ニューヨーク州立大のステファニー・ケルトン教授が、「巨額の財政赤字を抱えても、インフレや金利上昇が起こっていない日本はMMTの成功例」と主張したという経緯があります。
一方で、ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマン氏やローレンス・サマーズ氏など著名な経済学者がMMTに対する反論を展開したことも、日本人の注目を集めました。米国よりもむしろ、債務残高の多い日本でMMTが騒がれている印象を受けます。
過去の金融緩和は日銀の一人芝居
MMTはいわゆる「トンデモ理論」なのでしょうか。
早川氏:MMTにも納得のいくところがあります。それは「信用創造」に関する考え方です。MMTの解釈ならば、中央銀行がどれだけ量的緩和策を続けても市中にお金が出回らない理由が理解できます。
経済学では一般的に、信用創造は「預金を元手に銀行が貸し出しを行うこと」でスタートします。しかし、MMTでは「銀行が貸し出しを実施すると、直ちに同額の預金が生まれる」と解釈します。つまり、貸し出しの原資としての預金は事前に必要ないのです。貸出先の企業が支出をした際に預金が自行から他行に流出しますが、その場合の不足資金は預金ではなく、日々の短期的な資金の過不足を調整するコール市場から調達してもよい。
MMTでは貸し出しが出発点となるので、中央銀行がマネタリーベースをいくら増やしても、資金需要がなければ貸し出しも増えません。金融緩和によってひたすらマネタリーベースを増やす政策が、普通の家計や企業が銀行に預けるマネーである「マネーストック」の増加につながらない。
実際、過去の日本銀行による量的緩和策では、金融界から「日銀当座預金を増やしても、資金需要がないのでブタ積みになるだけ」との声が聞かれました。そういう意味では過去の金融緩和は日銀の一人芝居でした。
しかし、現在は世界的なマネーストックの増加が起きています。過去20年ほどは見たこともないようなマネーの増加です。なぜかといえば、コロナ禍が実体経済を大きく毀損する危機で、金融機関が企業へ無利子・無担保で融資したり、個人にも支援金が入ったりしているからです。
分かりやすいのは10万円の特別定額給付金でしょう。支給されても使わず、そのまま預金で置いている人が多いと聞きます。コロナ禍が収束に向かえば、こうした企業や個人のマネーが動き出す期待はできるでしょう。
コロナ禍での財政支出が膨らんでいますが、債務残高の高さをどのように考えるべきなのでしょうか。
早川氏:東日本大震災のような災害や今回のコロナ禍のような突発的な危機に対しては、国債で資金を調達する手法は正しいのです。特にコロナ禍は普通の不況とは異なります。震災後は被災しなかった地域が経済をけん引することで、国全体の景気を下支えしました。しかし、感染症の拡大防止は、国が自ら経済活動にブレーキをかけるという、かつて経験したことのない事態が発生しました。ですから、財政支出による景気てこ入れが不可欠です。長期的な返済計画を立てていれば財政出動は問題ありません。
一方で、平時にずるずると赤字を垂れ流すのは問題です。例えば、社会保障費のように年々増加する費用に対しては、きちんと増税で対応するなどの手立てが必要です。ただ、経済学の教科書のように、長期的に国債を全部償還するという緊縮財政の方向性はやり過ぎでしょう。経済学では個人も遺産を残すことなく、所得を全て使い切って死ぬことになっていますが、そんな人が存在するでしょうか。国も同じです。
こんな話があります。1990年代の米国は、クリントン政権下で財政が黒字化して国債残高が減り始めました。その際、金融市場は「国債不足」が大きな問題となったのです。国債は担保に使われるなど、世界の金融システムに組み込まれています。確かに、対GDPでの適切な国債残高に関する議論はありますが、財政赤字を過度に心配して、急な緊縮に向かう政策も考えものです。
後れているデジタル化にお金をつけよ
コロナ禍による財政支出を、長い目でみた日本経済の成長力を映し出す「潜在成長率」の向上に結びつけるためには、どのような配分が必要でしょうか。
早川氏:コロナ禍による景気後退からの早期回復に向け、財政支出のポイントは2つあります。1つは、「企業を救済するタイプの政策から早めに手を引くこと」。もう1つは、「後れているデジタル化にお金をつけること」です。
今は雇用調整助成金や無利子・無担保融資は必要な支出です。しかし、本来は将来の見通しがある企業を救うのが目的です。放っておいたらダメになる企業をずるずる救済するのは、ゾンビ企業を生み出すだけで、潜在成長率は低下してしまいます。財政支出は時限措置にして、いつまでも続けないと明確に決めなければいけません。
また、コロナ禍であぶり出されたのは日本のデジタル化が本当に後れている実態でした。感染者情報をファクスでやり取りするなど、驚きのニュースもありました。ニューノーマルに向かおうとする今、「リモートワーク」と「オンライン教育」の推進には抵抗勢力がほとんどいません。補助金を付ければ一気に進むでしょう。
「鉄は熱いうちに打て」です。財政支出は、潜在成長率を高めるような変革を起こせる分野に集中的に資金を振り向ける必要があります。
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