Dr. Mabuse, el Jugador 1922 Fritz Lang (Dr. Mabuse, der Spieler) HD 1080p 📽
いている。その相場師はある歯科医の息子で、 シャツの卸に真珠を付けている。自家用自動車を もち、友人を集めて夜な夜なシャンパンを抜いて 晩餐を振る舞う、また「ささやかな思い出のため に」と称して、友人知人に黄金と螺細を鎮めた高 価な品をプレゼントする"。圧倒的多数の人々が 日々の食料に事欠くなか、使いきれないほどの財 を得て、周囲にばら撒く成金もいたのである。
この時期のドイツの世相は、フリッツ·ランク 監督の「賭博師ドクトル·マブゼ」によく描き だされている(図版④)。マブゼは精神分析医で ある。彼は株式市場にガセネタをバラまいて株価 を操作し、瞬時にして巨利を掴む。続いて彼は、 闇商人や賭博師、売春婦が集うキャバレやクラプ に出入りし、金持ちを選んでは賭博場に誘い込 む。映画は、インフレが進行し、物価が高騰する なか、有り余るほどの金をもつ者が毎晩享楽に 浸っている情景を描き出している。
マブゼは、カードゲームの最中、相手の心を操 り、大金をせしめる。株式市場や博打場の異変に 気づいた警察は、錬腕検事ヴェンクに捜査と犯人 逮捕を命ずる。マブゼの犯罪を追及するヴェンク 検事は、増大する需要がうむインフレ状態や貨幣 価値の極端な下落が引き金となって、人びとは投 機や賭博に熱中するのだとの結論にいたり、犯人 =敵は単に個々の賭博師、犯罪者ではなく、時代 そのものだとしている。「戦争の破局によって人 間が地獄の胎内からもぎ離された時代、それが堰 を切って世界と故国に氾濫している」[ハヤカワ2004#6:64頁]と嘆じてい る。
xiv 大妻女子大学紀要 社会情報系 社 80 Dr. Mabuse Inferno des Verbrechens FSK eln Atlas Film 図版の『ドクトル·マブゼ 地獄·現代人のゲー ム」『フリッツ·ランク·コレクション、ク リティカル·エディション7』p. 28より 2.3 ラーテナウとシュティンネス この困難な時代、1920年5月から1921年10月ま で、第一次ヴィルト内閣において復興大臣を務め たのがヴァルターラーテナウ(1867 -1922)で ある 彼の父朝は ARC Lいう公人電機ム社の創 。
xiv『フリッツ・ランク・コレクション、クリティカル・エディション7』小川佐和子「[小説賭博師ドクトル・マブゼの]原作者ノーベルト・ジャックの人物像」p.16-23を参照。
v Thomas Mann(1875年-1955年)、ドイツの小説家・評論家。1924年『魔の山』、1925年に『混乱と若き悩み』出版、1929年ノーベル文学賞受賞。1933年アメリカ合衆国へ亡命。第一次世界大戦からハイパーインフレーション時代については、Erinnerungen aus der deutschen Inflation(Gesammelte Werke, 13, 1993, p. 181−190)などがある。
ジンメルが『貨幣の哲学』のなかで述べているように「印刷された小さな1枚の紙切れと引きかえに貴重な事物を手放す」ということは、その紙切れへの信用と信頼が必要不可欠の前提になっていた。物品との交換を裏付けとする、上記のごとき物的価値証券の発行は、国家の造幣した紙幣への信認が崩壊したことの端的な現れであったxxi。3.1923年、ハイパーインフレーション期のシャイン3.1 紙幣があふれ預金が溶けて消えた1923年初めには額面5万マルクの緊急紙幣が発行された。同年2月1日の対ドル相場は41,500マルク、その後いったん半値戻しがあったが、6月1日以降は下落の一途をたどるxxii。「そうした折も折(同年3月)、フーゴー・シュティンネスが禁を破って大量のドル買いを始めたのが端緒となって、一時やや沈静していたマルクの落勢は、奔流のように激烈になり、阻止するすべもなくなった。企業家は争って暴利を占めたので、苦悩する大衆は彼らを<インフラチオーン・シーバーInflation Schieber インフレ悪徳商人・詐欺師>と呼んで憎悪した。労働者と資本家は反目し、勤労階級は企業不信を唱えたが、同時に、右翼の台頭にも本能的な不安を抱いていた」xxiii(加瀬,p.123)。前年に始まるハイパーインフレーションに拍車をかけたのが、1923年1月のフランス・ベルギー両国軍によるルール地方への進駐だとされる。「ドイツは消極的抵抗をもって対抗したが、…ルールは鉄、石炭の宝庫で、重工業の本拠である。これを奪取されたうえに、巨大な失業者群を養うのは、破産状態のドイツには不可能である。そこで、政府は紙幣を増刷したから、インフレが加速され、1ドルが1月に7,000マルクだったのが、7月には16万マルク、8月には百万マルクという調子で下落し、ついには天文学的数字になり、中央銀行は一日に460億マルクの紙幣を発行するにいたった。…元来、庶民は質実勤勉で貯蓄をよくした。それが、煙のように消えてしまうのである」(加瀬,p.115)。
ルトの発行団体は560箇所、3,000種にのぼり、政府の定めた保証準備はますます無視されるところとなった。ライヒスバンク自体は上記図版⑫のごとき額面保証のノートゲルトを受け入れようとしなかった。それは、シャハトの言によれば、緊急貨幣の発行が「インフレーションで利得を得るに最も安易な方法であったので、地方自治体ばかりか、特に大民間事業において多分に且つ好んで行われた」(シャハト,p.102)所為であったからである。しかし他方、「1923年の狂暴的な価値低落に際し緊急貨幣は不十分な帝国銀行券の供給を補うのに大きな役割を演じたばかりでなく、信用提供」の点でも意義を有したとするなど、緊急紙幣の大増発に対して、シャハトの筆致は必ずしも否定的とばかりは言えなかった。かくして「ルール占領の間、ライヒスバンクからの貨幣の正規的供給が著しく困難になっていた占領区域においては、殊に、緊急貨幣の発行は極めて大規模に行われた。1923年11月1日以降、ノートゲルトシャインの額図版⑬、⑭ 超高額ノートゲルト、Wetzlerの1億マルク、Trierの5億マルク図版⑮、⑯ Magdeburg-Neustadtの100億マルク、Bamberg 市の1兆マルク緊急紙幣。面は〈兆〉となり、中旬には若干の都市では100兆、200兆紙幣が印刷された」(Klever,p.16)。図版⑬―⑯の券面には「ミリオ
「マルクの価値が世界市場で刻々と変化するほどに急降下したのは、ドイツに課せられた天文学的な戦争賠償のせいである。1923年の初頭対米ドル7,424マルクであったものが、8月にはレートは100万を突破し、11月には6,000億、12月には4兆2,105億マルクに急落した。35のライヒスバンクの印刷機は、昼夜を問わず動いたが、需要を満たしインフレーションに負けないだけの、新しい額面の紙幣を十分に印刷できず、ノートゲルトないし緊急紙幣が日々市町村や企業によって氾濫のごとく発行された。公式のライヒスバンクの紙幣は事実上無価値であったから、緊急貨幣も言うまでもなくそれ以上に無価値であった。信念に基づいた投資は別だが。[しかるに]ノートゲルト紙幣は交換の手段として用いられ、商品やサービスに交換できた。政府の認可のもと、地方や私的な組織は安価に、たいていの場合は新聞の印刷機で、古紙や厚紙の上に紙幣を印刷できたxxv。(『ユーロ・デコ』p.254)
ハイパーインフレーション期に発行された額面の大きなノートゲルトは、蒐集家の投機対象にす図版⑱「1万マルク紙幣は両替しません」ベルリン、オストヴァルト『インフレーション風俗史』p.269.ぎなかったシリーズシャインとは大いに異なっていた。それは、需要に見合った数量の紙幣の印刷と発行を行えないライヒスバンクに代わって、地方自治体や企業によって発行され、公共事業費や給与として支払われたからである。この地域限定、期間限定のノートゲルトは、隣の市町村では受け取りを拒否されたが、「地域通貨」としては本来の貨幣に匹敵する役割を果たしていた。ただし、ノートゲルトもライヒスマルク紙幣と同様、ハイパーインフレーションの影響を免れず、日々その価値を喪失していたので、超高額紙幣を手にした者は直ちに何か別のものに換えておかなければならなかった。図版⑱はベルリンの両替商の店頭に貼られた広告やステッカーとこれに群れる人びとを写しだしている。「両替」の文字と並んで「1万マルクは両替しません」とあるが、群がっている人たちが見ているのは、それよりも下の「両替リスト」である。この大版の紙には種々の紙幣が貼られているところから、ライヒスマルクやノートゲルトのきん交換レート、外貨の為替レート、金の価格などが具体的に示されているのであろうxxvi。彼らもまきんた、少しでも有利な外貨に両替をし、あるいは金に換えて、僅かな金融資産を保全しようと必死であったのであるxxvii。1万マルク紙幣については、興味深いエピソードが、トーマス・マンによって語られている。彼は、大戦中の1917年、友人が所有する別荘に1万マルクを出資し、ゲストとしてしばしば利用する権利を得、実際に利用もしてきた。ところが1923年になって、友人がこの別荘を諸般の事情から売却することとなり、その旨を伝えるとともに、かつて手渡した1万マルクを戻してきた。その紙幣の束は、友人が貸金庫にでもしまっておいたのであろうか、6年前に手渡したピン札であったから、マンは目を白黒させたという次第。ハイパーインフレーションによって、投資した貨幣の価値は失われてしまっているが、別荘は逆に相当の高額で売却されたはずである。それなのに、友人は手渡した紙幣をそのまま返却してきた。「マルクはマルク」あるいは「昨日のマルクは今日のマル
ク」という原則を振りかざして、借金を帳消しにできた人たちと、金融資産を融解させてしまった人たちとの対照が鮮明となるエピソードであるxxviii。社会情報学研究212012殺時のことを次のように語っている。4.1 どうやって生きていたか覚えていない1923年当時、ベルリンに居住していたW.ベンヤミンは、9月28日付けの書簡のなかで「大都市では、状況は日々に深刻になっています。たとえばぼくらの地域では、ほとんどの交通機関がストップしているので、…住居を都心に確保することから始めなくてはなりません」と書き、10月24日付けの書簡では「ともかく現在のベルリンはまったく耐えがたい。ひとびとの憤懣も、絶望も、ともに深刻であり、その深刻の度は最近の急激で全面的な食料不足によって、いっそう加わりました」(ベンヤミン『書簡集Ⅰ』p.161f.,165)と書いている。さらにユダヤ系ドイツ人たるベンヤミンは11月18日の書簡の中で、次のような悲痛の叫びを発している。「ユダヤ人は語るべきではありません。(ラーテナウの死に内在する深い必然性は、ぼくにはとうから明瞭でした。…)…中略…ドイツにいて真剣に精神的活動に従う人間は、冗談ではなく、飢えに迫られる。餓死に迫られる、とまでは言いませんが、…飢えにもさまざまな種類がある。しかし、餓死しつつある民族のなかで飢えること、これは最悪です」(『書簡集Ⅰ』p.166-168)。ベンヤミンの書簡のどこを読んでも、ベルリンでの生活がどのように耐えがたいのか、食料事情がどのように深刻で、日々何を食べて飢えをしのいでいたのかは、皆目分からない。我々が知りたい情報が、ここには見出せない。男は厨房に立つことが無く買い出しもしないからなのか、市民生活の様子が見てとれない。ウィーンに居住していたシュテファン・ツヴァイクは、困難な時代のオーストリアとドイツとをつぶさに体験している。彼の言はベンヤミンに較べればはるかに具体的である。彼はラーテナウ暗「私はこの日すでにウニスターラントに行っていた。幾百人もの浴客が陽気に岸辺で水を浴びていた。今度もまた、フランツ・フェルディナント大公の暗殺が知らされたあの日と同じように、音楽堂で何の心配もない避暑客たちの前で演奏が行なわれていたとき、白い海燕のように新聞売子たちが散歩道に殺到して来た。<ヴァルター・ラーテナウ暗殺さる!>恐慌が勃発し、それは全国を震憾した。一気にマルクが暴落し、幾兆という空想的な気違いじみた数字に達するまで、もはや止まるところを知らなかった。今や初めて、インフレの真の魔女饗宴が始まったのであり、それに比べれば、われわれのオーストリアのインフレは、それでもすでにばかばかしい1対15,000という比率ではあったが、貧弱な子供の遊びめいたものにすぎなかった。その真相をひとつひとつの例や信じられないような例をもって物語るには優に一冊の本が必要であるが、そのような本は今日の人々にはお伽噺のような印象を与えるであろう。朝に新聞一部のために5万マルクを払い、夕べには10万マルクを支払わなければならないよう図版⑲「インフレーション」トーマス・テオドーレ・ハイネ作の戯画『ジンプリチシムス27号』(192211/8)掲載
4.8
巨利を稼ぎ出した、時代の寵児たち庶民の苦悩をよそに、ハイパーインフレーションを機に巨万の富を稼ぎ出した者がいる。その典型がシュティンネスである。
「大儲けをしたシュティンネスHugo Stinnes の姿が巨人のようにぬきんでていた。彼はマルク暴落を利用しつくしながら彼の信用を拡大することによって、およそ買いうるものを何でも買った。炭坑、船舶、工場株の束、城、土地などである。しかもすべて全く只も同然にであった。なぜならば、あらゆる契約、あらゆる負債は零になったからである。まもなくドイツの四分の一が彼の手中に帰し、全く道理に反したことだが、つねに眼に見える成功に酔うドイツの民衆たちは、彼に対して天才に対するような歓声を送ったのであった。失業者たちはあちこちに何千と群れてたたずみ、家屋を軒並にマッチ箱を買うようにして買いあさる自動車に乗った買占人や外国人たちに対して、拳を固めるのであった。およそ読み書きのできる者は誰でも、取引をやり、投機をやって儲けたが、同時に次のようなひそかな感情を抱いていた。すなわち、自分たちはみなだまし合っているが、また自分たちも眼に見えないひとつの手によって欺かれているのであり、その手は、国家をその罪と責任から解放するため、この渾沌をきわめて故意に演出しているのだ、という感情であった。私は歴史をかなり徹底的に知っていると信じているが、私の知る限りでは、歴史上いまだかつてこれほどまで瘋癲病院時代を現出したことはなかった。あらゆる価値が変ったのであり、それはただ物質的なものにおいてだけではなかった。国家の指令は嘲笑され、道義も道徳も尊敬されず、ベルリンは世界のバベルと化した。酒場や遊び場や飲み屋が茸のように続々と現われた。オーストリアにおいてわれわれが見たものは、この魔女の饗宴の、おだやかで控え目な序曲にすぎぬものであったのである。というのは、ドイツ人たちは、彼らの激烈さと系統立ったやりか たを倒錯にまでもっていったからである」(ツヴァイク,p.462-3)。 … 。
前段でも述べたが、ツヴァイクは回想録のなかで「女たちは髪をふり乱して気違いのように街路を走ったであろうとか、誰ももう何も買えないので店は荒廃していただろうとか、何よりも劇場や娯楽場は完全にからつぼであったにちがいないとか、想像しないではおられぬであろう。ところが驚くべきことに、事情は全く正反対であった」と書いていた。 「生きつづけようとする意志は、金の不安定よりも強いことを示したのである。財政的渾沌の真直中で、日常生活はほとんど乱されないままでつづいていった」という。それは「かつては最も安定したものであったが毎日その価値を失ってゆくという、予期しなかったまさにそのことによって、人々は人生の真実の価値を―仕事、愛、友情、藝術、自然―を一層高く評価したからである」とされる。カタストロフを体験した人々が、それゆえにこそ人生の真実の価値を見出すという、この一連の言葉の意味は重い。しかし、それが短時日のうちに忘れ去られてしまうことのほうが、人類にとって実は大問題なのである。
シュテファン・ツヴァイク(原田義人訳)(2010版)『昨日の世界 Ⅰ,Ⅱ』みすずライブラリー
xxxiii 木村靖二,p.148.「ドイツ政府はインフレーションを承知のうえで意図的に促進させた」にも拘らず、国家に対するドイツ国民の不信感は、ハイパーインフレーションや為替相場の崩落が戦勝国による法外な賠償金額の強要やルール占領という外部圧力の結果であるとする言説の前に、歪められ変質していった。W. フィッシャー、p.26-31.
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ジャン=ジャック・ベッケール+ゲルト・クルマイヒ(剣持久木+西山暁義訳)(2012)『仏独共同通史 第一次世界大戦 上下』岩波書店
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DVD『ドクトル・マブゼ 大賭博師・時代の肖像』『ドクトル・マブゼ 地獄・現代人のゲーム』(初公開1922)、『怪人マブゼ博士マブゼ博士の遺言』(初公開1932)紀伊国屋書店
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返信削除フリッツ・ラング(右)。『月世界の女』のセットにて
Halbblut (1919)
蜘蛛(第一部:黄金の湖/第二部:ダイヤの船) Die Spinnen (1919)
死滅の谷 Der mude Tod (1921)
ドクトル・マブゼ Dr. Mabuse, der Spieler (1922)
ニーベルンゲン ジークフリート Die Nibelungen: Siegfried (1924)
ニーベルンゲン クリームヒルトの復讐 Die Nibelungen: Kriemhilds Rache (1924)
メトロポリス Metropolis (1927)
スピオーネ Spione (1928)
月世界の女 Woman in the Moon (1928)
M M (1931)
怪人マブゼ博士 Das Testament des Dr. Mabuse (1933)
リリオム Liliom (1934)
激怒 Fury (1936)
暗黒街の弾痕 You Only Live Once (1937)
真人間 You and Me (1938)
地獄への逆襲 The Return of Frank James (1940)
西部魂 Western Union (1941)
マン・ハント Man Hunt (1941)
死刑執行人もまた死す Hangmen Also Die! (1943)
恐怖省 Ministry of Fear (1944)
飾窓の女 The Woman in the Window (1944)
スカーレット・ストリート Scarlet Street (1945)
外套と短剣 Cloak and Dagger (1946)
扉の蔭の秘密 Secret Beyond the Door (1948)
House by the River (1950)
無頼の谷 Rancho Notorious (1952)
熱い夜の疼き Clash by Night (1952)
The Blue Gardenia (1953)
復讐は俺に任せろ The Big Heat (1953)
仕組まれた罠 Human Desire (1954)
ムーンフリート Moonfleet (1955)
口紅殺人事件 While the City Sleeps (1956)
条理ある疑いの彼方に Beyond a Reasonable Doubt (1956)
大いなる神秘 王城の掟 The Tiger of Eschnapur (1958)
大いなる神秘 情炎の砂漠 The Indian Tomb (1958)
怪人マブゼ博士 The Thousand Eyes of Dr. Mabuse (1960)
4.4 ツヴァイクの回想大妻女子大学紀要―社会情報系ツヴァイクの『昨日の世界 一ヨーロッパ人の回想』は、彼が亡命先のアルゼンチンで自死の直前に、ウィーン時代の日記も資料もメモもなく、記憶だけを頼りに書き上げたものである。思い違いもあろうし忘れてしまったことも、不正確なところもあるに違いない。それにもかかわらず、20世紀前半のヨーロッパに関する彼の証言は、様々な分野の研究者によって高く評価されてきた。我々のテーマに関してもそれは同様であり、この書には傾聴に値する証言が文字通り目白押しなのである。本稿においてツヴァイクからの引用が多いのはそのためである。「最も奇妙なことは、今日どうやってみても、私どもがこれらの歳月にどうやって家計を立てていったのか、一体どこから次々とオーストリアでは一千クローネ、一万クローネを、またドイツでは百万マルクを手に入れたのか、もはや一向に思い出せないことである。しかし、不可思議きわまることに、人々はそのような金額を持っていたのである。人々は渾沌に慣れ、それに適応した。論理的にいうと、あの時代をともに体験しなかった外国人は、鶏卵一個がオーストリアでは以前の高級乗用車一台分の値段であり、後にドイツでは40億マルク―およそ以前における大ベルリン全体の家屋の基本価格であった―もしたというような時代には、きっと女たちは髪をふり乱して気違いのように街路を走ったであろうとか、誰ももう何も買えないので店は荒廃していただろうとか、何よりも劇場や娯楽場は完全にからつぼであったにちがいないとか、想像しないではおられぬであろう。ところが驚くべきことに、事情は全く正反対でかねあった。生きつづけようとする意志は、金の不安定よりも強いことを示したのである。財政的渾沌の真直中で、日常生活はほとんど乱されないままでつづいていった。個々に見れば変化ははなはだしかった。たとえば銀行の預金や政府紙幣は融けてなくなったので、金持は貧しくなり、投機家は豊かになった。しかし車輪は、個人の運命とは無関係に、同じリズムで廻転し続け、何ものも静止してはいなかった。パン屋はパンを焼き、靴屋は長靴をつくり、作家は本を書き、農夫は土地を耕し、列車は規則的に通い、毎朝、新聞は定まった時間に配達され、おまけに娯楽場、酒場、劇場は人であふれていた。というのは、かねかつては最も安定したものであった金が毎日その価値を失ってゆくという、予期しなかったまさにそのことによって、人々は人生の真実の価値を―仕事、愛、友情、藝術、自然を一層高く評価したからである。(ツヴァイク,p.436-7)ツヴァイクの証言に異議を差し挟むわけではない。ただ彼が「女たちは髪をふり乱して気違いのように街路を走っ」てはいなかったというとき、筆者はそこに違和感を抱くのである。わずかな食糧や燃料を手に入れるために、女たちは必死になっていたはずであり、そうしなければ、ツヴァイクのいう「日常生活」を一日たりとも続けられなかったであろうからである。したがって、商店が開いたとの情報に接すれば、女たちは走ったであろうし、両替屋の店先に「ドル紙幣、ポンド紙幣あります」との張り紙が出れば、男たちは我先にと馳せ参じたはずであるxxx。ツヴァイクの知らないところで行われる、なりふそうした庶民たちの形振りかまわぬ努力の上に「日常生活はほとんど乱されないままでつづいていった」のであろう。4.5 庶民の生活① 物に換える、只同然の家賃ハイパーインフレーション時代の庶民の生活に関するツヴァイクの証言は続く。「まもなく何びとももはや、何か或るものが一体どれだけの価値があるのか、分らなくなった。価格は勝手に騰貴した。一箱のマッチが、機を失せずに価格を上げた商店では、実直な男が無邪気にまだ昨日の値で売っている店より、20倍も高かった。安いほうの店では、正直さの報いとして、一時間のうちに店がからっぽにされてしまった。人から人へと
返信削除話が伝わり、誰もが走って行き、必要であろうとなかろうとおかまいなしに、およそ売るものを何でも買ったからである。一匹の金魚、一台の望遠鏡でも、<物>は物であった。各人は紙のかわりに物を欲するのであった」「最も奇妙な成りゆきを示したのは、家賃の不均衡であった。家賃については政府は借主(それは広範な大衆を含むものであるが)の保護のために、家主の損にはなるが、値上を禁じたのである。まもなくオーストリアでは、中くらいの大きさの住居は丸一年間に、家賃としてたった一回の中食代ほどもかからなくなった。全オーストリアは実のところ五年乃至十年のあいだ(後には家主が契約解除を申し渡すことも禁止されたので)多かれ少なかれ只も同然で住んだのである」。「このばかばかしい渾沌ぶりによって、一週一週と情況は気違いじみ、非道徳的になっていった。40年間こつこつ貯め、更にその金を愛国的に戦時公債にあてた人は、乞食になってしまった。負債を持っていた人は、それを返済した。正確に食糧配給を守っている人は飢えた。図々しくそれを破る者だけが飽食した。賄賂の手を知っている者は事を進め、投機する者は利殖をあげた。慎重に計算する者は欺かれどおしであった。金のこのような融解と蒸発とのなかでは、いかなる尺度も、いかなる価値もなかった。ただひとつの徳しかなかったのである。すなわち、手際よく、要領よく、狐疑逡巡せぬことである。そして疾走する馬に踏みつぶされるかわりに、その馬の背に飛び乗ることであった」(ツヴァイク,p.432-433)。
返信削除インフレの時代には、金(かね)はできるだけ早く物に換えておくこと、金融資産は融解し、不動産収入はあてにならないこと、食糧配給だけに頼ってはならないこと、賄賂を使い、投機を行い、利殖に励むこと、慎重に計算したり狐疑逡巡したりせず、疾走する馬の背に飛び乗るくらいの手際良さ、要領のよさが求められる、という次第である。4.6 庶民の生活② 肉を売ってもらう、家庭菜園続いてはイシャウッドに登場してもらおう。インフレーション期のベルリンに関する彼の聞き書きによれば、「百姓と肉屋とは、万能といってもよかった。野菜や肉をもらうためには、どんな下らない彼らの気紛れでも、ちゃんと満足させてやらなければならぬ。クランプ[前出]の一家は、ベルリン郊外の小さな村に、一軒、肉屋の知り合いがあって、ここにはいつでも肉があった。ところが、この肉屋というのが、一種独特な性的倒錯癖の男で、その最大の好色的満足というのが、育ちのよい、敏感な女たちの頬を、つねったり、叩いたりすることだった。そんな風にして、フラウ・クランプのような、ちゃんとした奥様を、恥ずかしくていたたまらなくさせると思うと、もうなんともいえぬ興奮を感じるのだった。そして、この気紛れを満足させてやらないと、絶対に、彼は、商売に応じない。そんなわけで、日曜日毎に、彼女は、子供たちを連れて、村へ出かけて行くのだが、少しばかりのカツレツやビフテキを売ってもらうためには、じっと我慢して、つねられたり、ぶたれたりしているのである」(イシャウッド,p.321-322)。このエピソードからは、食糧を生産する人びとが、都市生活者の死命を制するほどに強力な存在となったことがわかる。いたって弱い立場に追い図版「都市生活者の自助努力」ベルリン、オストヴァルト『インフレーション風俗史』p.268
やられた都市の住民たちは、家庭菜園やベランダで食用植物を栽培し、鶏や兎を飼育した。アパート住まいの人たちは、市の提供する空き地を耕して食糧生産に乗り出した。図版の写真でも、警備兵を別にすると、男性の姿は若干確認できるにとどまる。逞しく頼りがいのある中年女性たちが鍬をもって集まっている。この空き地を開墾した後で、各家庭用に畑地として配分するのであろう。400ha 足らずの大都市ベルリン市内で、11万人以上の小農園主が家族と一緒に、部分的にはレジャー用菜園として、また非常時には生きていくために必要な食糧確保に有効利用できる畑として、狭い土地を耕作していた。花も花キャベツ[カリフラワー]も栽培できたから、飢餓の時代には自分の菜園で採れる野菜を食べて切りぬけることも可能だった。1920年代に、ますます多くの住民が経済危機に巻きこまれるようになると、家庭菜園は生きのびるための必要かつ重要な要素となったxxxi。4.7 庶民の生活③ 売り惜しみ、買い溜め、物々交換食糧事情は逼迫の度を深めて行くし、インフレの進行は留まるところを知らない。ツヴァイクが描いたウィーンの状況は次のようなものである。「初めて私は、飢餓というものの黄色の危険れきせいな眼を見た。パンは黒くてぽろぽろで、瀝青と粘土の味がした。コーヒーは大麦の煎汁で、ビールは黄色い水で、チョコレートは色のついた砂で、馬鈴薯は凍っていた。たいていの人々は、肉の味を完全に忘れてしまわぬために、家兎を飼育し、われわれの庭では若い男が、日曜の御馳走用に小さな栗鼠を射った。栄養のきいた犬や猫は、長目の散歩をしたあとでは帰還することが稀れであった」(ツヴァイク,p.429)。「道徳の一般的な崩壊とともに、どの農民も、バター、卵、牛乳を法律で定められた<最高価格>で渡そうとは考えなくなった。農民はできるだけのものを物置に隠しておいて、もっとよい値の買手が自分の家にまでやって来るのを待っていた。やがて新しい商売が出来あがった。いわゆる<買い溜め屋>である。職のない人々は、一つ二つのリュックサックをたずさえ、農民から農民へと渡り歩き、特に物資の豊富な場所には汽車で行きさえして、非合法で食糧を調達し、それから、それを都会において4倍か5倍の価格で小売するのであった。農民たちは初めのうちは、彼らの卵やバターと引き換えに家に雨と降って来た紙幣に大悦びで、彼らのほうではその紙幣を<買い溜め>たものであった。ところが彼らがいっぱい金のつまった紙入れをたずさえて都市に行き、そこで物を買おうとするやいなや、彼らはその食糧に5倍の値段を要求したにすぎないのに、彼らの買おうとする大鎌や鎚や釜のほうは、20倍、30倍と値が上っていることを発見して、憤慨するのであった。それからというものは、彼らはただ工業製品だけを手に入れようとし、実物価値には実物価値を、品物には品物を要求するようになった。人類が塹壕においてすでに幸福にも穴居時代に逆行したあとで、幾千年も続かねいた金というものの因襲は消えてなくなり、原始的な物交制度に後戻りしたのである。全国にわたって異様な取引が行なわれた。都会の人々は、なくてもすむものを百姓のところへ引きずって行った。シナの陶器の花瓶、絨毯、サーベル、銃、写真機、書物、ランプ、装飾品などである。そこでザルツブルクの農家に足をふみ入れてみると、驚くべきことにインドの仏像が自分を凝視しているのを見たり、ロココ風の書棚にフランスの革の本が並んでいるのを見出すことができた。新しい所有者たちは、特別な誇りでそれらの本を自慢するのであった。<本革ですぞ!フランスですぞ!>と、頬をふくらませて自慢した。実かね質だ、金は駄目だ、というのが合言葉となった。多くの人々は、ただ身体を養うために、エンゲージリングを指から抜き取り、革帯を身体からはずさねばならなかった」(ツヴァ
返信削除イク,p.430-31)。
返信削除都会の商店に食糧が無いとなれば、農村に買い出しに出かけて行くしかない。農民は紙幣を受け取らないから、都会の人たちは衣類や書画骨董、書棚や書籍まで農村に持ち込む。買い出しをできない人たちのために担ぎ屋、買い溜め屋まで現れる。通貨への信認が消え失せれば、実物経済に立ち戻るのも道理である。図版「現代風物々交換経済」、オストヴァルト『インフレーション風俗史』p.114.図版は靴屋の店先で、貼り紙には「販売及び修理は食料品との交換で[お願いします]」とある。高価な毛皮のコートを着用した女性は、店主の手元にある靴の修理を依頼したのであろう。代金として太めのブルストを一本差し出しているところである。オストヴァルトの書には、このほか、男性が理髪代として鶏卵2個を渡してる写真、映画を見に来た子供が入場料として圧搾炭2個を払おうとしている写真が収められている(Ostwald,p.115,118)。かね金の価値が日々下落していけば、住民の貨幣に対する不信の念が増すのは道理である。硬貨が姿を消したのも、一片の銅あるいはニッケルは、ともかくも、単に印刷された紙切れに比すれば「物資」と言えるものだからである。庶民たちは、わずかな資産を守り、生活を防衛するために、物々交換しか方法が無いことを悟る。しかし、それは余りにも非効率的であり、そこに物的価値証券や実物シャインが発行される余地もあった。状況は余りにも目まぐるしく推移し、何が起きているのかをだれも正確に把握できないでいる。4.8 巨利を稼ぎ出した、時代の寵児たち庶民の苦悩をよそに、ハイパーインフレーションを機に巨万の富を稼ぎ出した者がいる。その典型がシュティンネスである。「大儲けをしたシュティンネスHugo Stinnes の姿が巨人のようにぬきんでていた。彼はマルク暴落を利用しつくしながら彼の信用を拡大することによって、およそ買いうるものを何でも買った。炭坑、船舶、工場株の束、城、土地などである。しかもすべて全く只も同然にであった。なぜならば、あらゆる契約、あらゆる負債は零になったからである。まもなくドイツの四分の一が彼の手中に帰し、全く道理に反したことだが、つねに眼に見える成功に酔うドイツの民衆たちは、彼に対して天才に対するような歓声を送ったのであった。失業者たちはあちこちに何千と群れてたたずみ、家屋を軒並にマッチ箱を買うようにして買いあさる自動車に乗った買占人や外国人たちに対して、拳を固めるのであった。およそ読み書きのできる者は誰でも、取引をやり、投機をやって儲けたが、同時に次のようなひそかな感情を抱いていた。すなわち、自分たちはみなだまし合っているが、また自分たちも眼に見えないひとつの手によって欺かれているのであり、その手は、国家をその罪と責任から解放するため、この渾沌をきわめて故意に演出しているのだ、という感情であった。私は歴史をかなり徹底的に知っていると信じているが、私の知る限りでは、歴史上いまだかつてこれほどまで瘋癲病院時代を現出したことはなかった。あらゆる価値が変ったのであり、それはただ物質的なものにおいてだけではなかった。国家の指令は嘲笑され、道義も道徳も尊敬されず、ベルリンは世界のバベルと化した。酒場や遊び場や飲み屋が茸のように続々と現われた。オーストリアにおいてわれわれが見たものは、この魔女の饗宴の、おだやかで控え目な序曲にすぎぬものであったのである。というのは、ドイツ人たちは、彼らの激烈さと系統立ったやり