ポルトガル商人に毎年1000人が海外へ売られた!『大航海時代の日本人奴隷』著者が踏み込んだキリシタン史のタブー

ルシオ・デ・ソウザ/岡美穂子著『大航海時代の日本人奴隷 増補新版』(中公選書)は、書名の通り、大航海時代まっただ中の16世紀――日本では戦国時代――に、多くの日本人がポルトガル商人たちによって世界各地へ奴隷として売られていたことの実証研究をまとめたものである。旧版は好評を得て5刷と広く読まれたが、増補新版ではイエズス会の日本人奴隷取引とのかかわりや、秀吉の朝鮮出兵によって長崎市場が朝鮮人奴隷だらけになったことなどに関する研究を補章として加え、旧版以上に驚くべき内容となっている。
東京大学大学院情報学環(史料編纂所兼任)の岡美穂子准教授に、この時代の日本/日本人の奴隷貿易について聞いた。

ヨーロッパ、中南米……こんなところに日本人奴隷
――日本人奴隷の流通は、どのくらい規模だったのでしょうか?
岡 増補新版で新しく加えた部分で示した、イエズス会の宣教師ガスパール・コエーリョの1587年の書簡によると、1隻の船で毎年平均して1000人以上の奴隷がマカオに運ばれていった、との記述があります。ただ、ポルトガル船は年に1隻しか来ていないわけではなく、時代によってはカピタン・モールと呼ばれるポルトガルの役職者(役人)が船長として動かしている大きな船が来ていたり、それ以外にもプライベートトレーダーがジャンク船でやって来たりしています。
「この年に何隻マカオから日本に来た」といった研究は、私貿易船のデータがわからないので限界がありますが、最低1隻の大型船で1000人くらい、つまり10年なら1万人ですから、多くの人が想像しているよりも日本人奴隷はたくさんいたといえるのではないでしょうか。大坂の陣(1614~15年)の後にマニラの日本人人口が2000人以上になっているという記述も史料に見られますが、これは日本人が奴隷や傭兵として海外流出した影響だろうと思われます。
――日本人奴隷の地理的な広がりについては、本によれば東南アジアはもちろん、そこからさらに南アジア、ヨーロッパ、中南米にまで及んでいたと。
岡 1年に1000人以上という規模で出て行った日本人が、ポルトガルの拠点であったマニラやマカオで終わらず、その先まで行くのは当たり前ですよね。「スペインに滞在した慶長遣欧使節団(1613年)の末裔がいる」と謳っているスペイン・セビリア近郊の通称「ハポン村」(「ハポン」は「日本人」の意で、この村では名字がハポンの人が今も多い)、コリア・デル・リオの話が有名ですが、実際にはそれだけ日本人が海外に出ていたわけですから、誰の子孫でも――奴隷の子孫という可能性も――十分あり得ます。ハポンさんの話だけが日本では知られているけれども、同じような話は世界中にあります。
例えば、ポルトガルの田舎の村に「この人の祖母は日本人」と書かれている戸籍があったり。『世界の村で発見!こんなところに日本人』(テレビ朝日系)というテレビ番組がありますが、その現象は16世紀にはすでに起こっていたんです。
ただ、朱印船貿易時代(1604~35年)に日本を出て行った貧しい出自の少年が、ヨーロッパの30年戦争(1618~48年)で傭兵として武勲を立てる『イサック』(原作:真刈信二、漫画:DOUBLE-S)という冒険活劇のマンガがありますが、そういう活躍をしてシャム(現在のタイ)の山田長政みたいに海外で一国の主になれた存在は数万人にひとりです。ほかの圧倒的多数は後の世で名前も知られることなく、奴隷として使役されて死んでいきました。
――奴隷の用途は傭兵や船員、女性なら妾とさまざまだったそうですが、流通価格はアフリカ系のほうが日本人より高かったと。値段は何で決まっていたんですか?
岡 それは用途によりますよね。売春させるなら美しいほうがいいし、傭兵なら武術や体格。すべての品物に高級品から汎用品まであり、それぞれ相応の値段が付いているのと同じで、奴隷もランク付けがされていました。今回の増補新版では長崎でのアフリカ人奴隷取引についても書いていますが、アフリカ系の人の価値が高かった理由としては、例えば戦国時代にポルトガル人がアフリカから日本に連れてきて信長が従えていた弥助の存在がありますよね。信長に関する史料では弥助のビジュアルイメージが「八幡神に近かった」と言われています。あるいは、中国の史料ではアフリカ系の人を「黒鬼」と表記している。ですから、実用的な屈強さを求めただけでなく、そういう人間を自分の近くに置くことで「こんなに強いヤツを従えているんだ」という格付けに役立つと考えた、イメージ戦略の部分もあったと思います。
イエズス会士が奴隷に「洗礼」を授けたワケ
――日本人奴隷の取引は、いつからいつまで続いていたのでしょうか?
岡 ポルトガル人が1543年に種子島に流れ着いたことで鉄砲が伝来したという説がありますが、鉄砲の話はさておき44年にはポルトガル人とスペイン人の両方が日本に来ていますので、そのときにすでに国外に連れて行かれていると思います。種子島限定のご当地の伝承として、鉄砲の製造法を教える代わりに村の娘が売られていったというものがあるんですね。その前から鹿児島のあたりの倭寇が中国人・日本人をさらっていましたけど。
日本で奴隷貿易そのものやイエズス会の介入が完全に絶たれる状況になったのは、1598年にルイス・デ・セルケイラが日本司教として長崎に到着して、奴隷取引に関わる者すべてを教会法で罰すると定めたことによります。それで日本人の奴隷という形の流出は終わって――ただ、奴隷身分ではない傭兵などとして海外に行く人は変わらずいました――、奴隷の供給源は秀吉の朝鮮出兵(1592~98年)でさらってきた朝鮮人に変わります。
――ということは50年以上、取引されていたと。実際には守られなかったそうですが、1570年にポルトガル国王が日本人奴隷取引を禁じたり、1603年にスペイン国王がインド・ゴアでの日本人奴隷禁止を定めたセバスティアン法を再び公布したりと、取引に制限をかけようとしていますよね。そもそも、なぜポルトガルやスペイン国王は日本人は奴隷にするべきでないと考えたのでしょうか? おおっぴらに人さらいから買って大量に奴隷として流通させると、日本の権力者の怒りを買って布教に差し障りがあると危惧したから?
岡 それは大きいと思います。加えて、ヨーロッパでは新しく発見する人種をカテゴライズしてランクを付けるんですね。例えば、イエズス会のアコスタによる『新大陸自然文化史』(1590年)という本には人種の等級分けについて書かれています。ヨーロッパを最上級とすると、インディオは非常に下位の「獣、動物に近い」に入れられる一方、日本と中国は「中の上」くらいの「ほぼ文明化された人々」に位置づけられています。だから、「そういう人を奴隷にするのはいかがなものか」という議論がされていました。
――イエズス会の人たちが商人から頼まれて奴隷に洗礼を授けていた動機は……?
岡 受洗には「文明化する」、つまり「獣から人間にしてあげる」という意味があります。奴隷にはなるものの、キリスト教徒になることによって人間になるのだから良いことだと解釈されていた。もちろん、雇用主によってはまったく人間扱いしないんだけれども、教会側は「キリスト教徒になったのだから人権は守られるべきだ、虐待は犯罪だ」と考えます。だからこそ、例えばアルゼンチンで「私は本来『期限付きの奴隷』のはずなのに、勝手に永久奴隷にされた」と訴訟を起こした、日本から連れてこられたフランシスコ・ハポンの場合は訴えが認められて、奴隷身分から解放されたという裁判資料が残っています。現地の言葉も自由に話せるようになると、ヨーロッパ人が新大陸でしている契約のごまかしや理屈のトリックに気づくんでしょうね。それで裁判所に訴えた事例がたくさんあります。
――売られた日本人の感覚からすると「年季奉公」のつもりだったけれども、「奉公」はヨーロッパ人の感覚では「奴隷契約」である、という指摘も本の中にありました。
岡 歴史学で「奴隷」をどうとらえるかという研究が進んだのはこの10~20年ですが、人類の歴史上ずっといて、今もいないとはいえない存在です。英語で言うslavery(奴隷)は多様な労働形態を含みます。日本の奉公がslaveryではなかったかというと、欧米の研究者はslaveryだととらえます。ただ、「期限付き」だったし、例えば年に一度は実家に帰れたりといったことはあった。虐待され続けるディスポーザル(使い捨て)な存在かというと違います。でも、歴史的にいうと、おそらくslaveryに入る。「奴隷」と聞いて私たちがしばしばイメージするのは「アフリカ人がアメリカに連れてこられてプランテーションで働かされる」だと思いますが、そのステレオタイプで人身売買をとらえると実態を見誤ってしまう。
例えば、「からゆきさん」(19世紀後半に東アジアや東南アジアなどに渡って娼婦として働いた日本人女性)の契約書を見ると、16世紀の日本人奴隷の契約書とほぼ同じストラクチャーなんですね。書かれている内容が全然変わってない。ということは、からゆきさんも実質的には奴隷ですよね。
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