2021年2月14日日曜日

三字経

三字経
参考:
大日本報徳社(論語と算盤の元ネタ?)

三字経は渋沢栄一を題材にした大河ドラマ初回に登場。



〜〜〜

人之初  人(ひと)の初(はじ)め
性本善  性(せい)本(もと)善(ぜん)
性相近  性(せい)相(あひ)近(ちか)し
習相遠  習(なら)ひ相(あひ)遠(とほ)し

【通釈】人が生をうけたそのはじめ、人の性はもともと善である。本性は相似かよっているものの、習慣によって遠く隔たってしまう。
【注】○性本善=本性はもともと善である。『孟子』告子上に「人性の善なるや、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人に善ならざるもの有ること無く、水に下らざるもの有ること無し。」とある。○性相近、習相遠=『論語』陽貨に「子曰く、性相近きなり、習ひ相遠きなり。」とあるのに基づく。

苟不教  苟(いやし)くも教(をし)へずんば
性乃遷  性(せい)乃(すなは)ち遷(うつ)る
教之道  教(をし)への道(みち)は
貴以専  専(もっぱ)を以(もっ)て貴(たふと)ぶ

【通釈】もし教え導かなければ、善なる性も変わってしまう。教えの道は、専一にすることを貴ぶのである。


[犬守夜  犬(いぬ)は夜(よる)を守(まも)り
鶏司晨  鶏(にはとり)は晨(あした)を司(つかさど)る
苟不学  苟(いやし)くも学(まな)ばずんば
曷為人  曷(なん)ぞ人(ひと)と為(な)さん

【通釈】犬は夜に家を守り、鶏は夜明けを告げ、それぞれ人の役に立っている。もしも人が学ばなければ、どうして人と称することができよう。]

蚕吐糸  蚕(さん)は糸(いと)を吐(は)き
蜂醸蜜  蜂(はち)は蜜(みつ)を醸(かも)す
人不学  人(ひと)学(まな)ばずんば
不如物  物(もの)に如(し)かず

【通釈】蚕は糸を吐いて絹をもたらし、蜂は蜜を醸す。人が学ばなければ、物にも及ばないのである。

[幼而学  幼(よう)にして学(まな)び
壮而行  壮(そう)にして行(おこな)ふ]
上致君  上(かみ)は君(きみ)を致(いた)し
下沢民  下(しも)は民(たみ)を沢(うるほ)し
揚名声  名声(めいせい)を揚(あ)げ
顕父母  父母(ふぼ)を顕(あらは)し
光於前  前(まへ)を光(て)らし
裕於後  後(のち)を裕(ゆた)かにせよ

【通釈】[幼くして学び、壮年になり官につきその道を行い、]上は国のために力を尽くし、下は黎民に幸せをもたらすのである。そして名声を上げ、父母を顕彰し、先祖をかがやかし、子孫をゆたかにせよ。
【注】致君=主君を堯や舜のような聖天子にする。


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三字経

三字経(さんじきょう)は、百家姓千字文とならぶ、伝統的な中国の初学者用の学習書である。3文字で1句とし、偶数句末でを踏んでいる。平明な文章で、学習の重要さや儒教の基本的な徳目・経典の概要・一般常識・中国の歴史などを盛り込んでいる。

概要

南宋王応麟13世紀)の作と伝えられるが、はっきりした根拠があるわけではない。

「三字経」のテキストにはさまざまなものがあり、一般的にいって時代の新しいものほど字数が多い。とくに歴史に関する箇所は時代が新しくなるごとに新しい歴史が追記されていくため、字数が増えていく。章炳麟1928年に著した『増訂三字経』では民国までの歴史が追加されている。

もっとも短いテキストは1068字で、異なり字数は512字である。

大体において4句がひとまとまりで、2句めと4句めの最後の字が押韻するが、まれに「一而十、十而百。百而千、千而万」のようにまったく押韻していない箇所もある。「席・執」「筆・易」「国・出」「七・籍」が押韻しているのは入声の衰退を反映しているもののようである。また「人・星」「曽・倫」「鼎・晋」「敏・警」「行・民」が押韻しているので、作者の音韻体系では/-in//-iŋ/が合流していたようである。

三字経は暗記に便利な書であるため、三字経の体裁にならった啓蒙書が多数作られた。日本でも幕末に「我日本、一称和」にはじまる『本朝三字経』という書物が作られている[1]

脚注

  1.  大橋訥菴著・青木可笑解『本朝三字経余師略解』静観堂・玉潤堂、1873年。 (国会図書館近代デジタルライブラリー)

外部リンク

中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。
  • 三字経 (大修館漢字文化資料館)

章炳麟

詳細

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章 炳麟(しょう へいりん、拼音Zhāng Bǐnglín1869年1月12日 - 1936年6月14日)は、中国清末民初学者思想家革命家。本名は学乗枚叔。号の太炎(たいえん、拼音Tàiyán)でも知られる。

章炳麟(章太炎)
Zhang Binglin.jpg
プロフィール
出生:1869年1月12日
同治7年11月30日)
死去:1936年民国25年)6月14日
中華民国の旗 中華民国(国民政府)江蘇省蘇州市
出身地:清の旗 浙江省杭州市余杭県
職業:学者・革命家・政治家
各種表記
繁体字章炳麟章太炎
簡体字章炳麟章太炎
拼音Zhāng BǐnglínZhāng Tàiyán
和名表記:しょう へいりん(しょう たいえん)
発音転記:ジャン ビンリン(ジャン タイイエン)
ラテン字Chang Ping-lin (Chang T'ai-yen)
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辛亥革命思想面で支えたことから、孫文黄興と並ぶ「革命三尊」の一人として尊崇される。中国の伝統思想(中国哲学)をナショナリズムのもとに論じたことから、「国学大師」とも形容される。

生涯

生誕から戊戌政変まで

1869年1月12日浙江省余杭県地主の家の四男として生まれる。幼少より母方の祖父と父から儒学の手ほどきを受けた。

1890年杭州にある書院「詁経精舎」に入学する。詁経精舎は、阮元によって建設され、戴震に由来する皖派考証学の伝統を継ぐ書院だった。章炳麟はそこで兪樾に師事し、古文経学史学音韻学訓詁学などの小学を修得した。なお、章炳麟は科挙のための学問を軽蔑していたため、科挙を受験していない。章炳麟は、もしも時代が違えば、革命とは無縁の学者として活躍したであろうが、あたかも顧炎武の後を追うかのように反清活動に人生を捧げることになる。

1895年、人生の転機が訪れる。この年、日清戦争の敗戦とそれに伴う下関条約の締結は、中国の知識人たちに衝撃を与えた。章炳麟は、この年に結成された強学会に参加する。強学会は、康有為梁啓超譚嗣同らによる、立憲君主制としての穏健的革命上からの改革)を主張する政治団体(変法派・保皇派・変法自強運動)であり、章炳麟はその機関誌『時務報中国語版』でジャーナリストを務める。章炳麟は『時務報』に二編の記事を寄稿し、変法派として一年半ほど活動する。しかしやがて主張の相違から、変法派から距離を置くようになる。

1898年、変法派を容れた光緒帝が改革が実行するも、西太后袁世凱ら保守派によって鎮圧され、変法派が処刑・弾圧されるという事件が起きる(戊戌政変)。章炳麟は既に変法派と距離を置いていたが、弾圧が自分にも及ぶのを避けるため、台湾を経て日本亡命する。

日本への亡命

日本では、同じく亡命中の梁啓超と再び交際するとともに、明治期日本の学界を通じて西洋哲学ナショナリズムについて学ぶ。また、梁啓超を通じて孫文を紹介されるが、このときはごく軽い交際に終始した。

章炳麟はその後、日本と上海を往復しつつ、変法派と対照的な革命派として、急進的革命を主張するようになる。上海では、康有為の別の弟子で、後に自立軍起義中国語版と呼ばれる武装決起を準備中の唐才常との面識を得る。その縁で、1900年6月、上海において開催された「中国国会」(会長容閎・副会長厳復)に章炳麟は参加する。唐才常はこの会によって変法派と革命派の協力を画策しての開催であったため、その会規則には双方の主張が採用され、「種族革命」と「勤皇」という相矛盾する要素が併記されていた。ここで示す種族革命とは革命の主体を民族に置くもので、具体的には満州人に対して漢民族が行う民族革命を指す。また勤皇とは光緒帝に忠誠を誓い立憲君主制樹立のために動くことを意味した。種族革命を主張していた章炳麟は勤皇の方針は承諾できる内容のものでなく、以後中国国会に出席せず脱会している。そして辮髪を断髪し、革命派の旗幟を鮮明にするに至る。そしてこれ以後、章炳麟は変法派の影響を完全に払拭し、革命派の主要論客として活躍することとなった。

章炳麟が変法派と完全に決別した時期は、義和団の乱の時期に重複する。この事変は西太后や一部の高級官僚の保守派により扇動された民衆による外国人襲撃であったが、列強諸国の出兵により鎮圧された。民衆を扇動した清朝の代償は大きく、巨額の賠償金の支払いや外国軍隊の北京駐留認可が講和条となった。これに危機感を覚えた西太后等の保守派は戊戌変法を模倣した光緒新政を実施したが、革命運動が衰退することはなかった。

同時期、孫文らは会党(中国の秘密結社)や新軍内部に革命思想を浸透させ、次々と武装蜂起を実行、他方で章炳麟は専ら言論により革命に参加し、革命が不可避であることを宣伝した。その言動が清朝政府による取り締まり対象となると日本に亡命し、そこで孫文や秦力山中国語版と交友を深めている。1902年「支那亡国二百四十二年紀念会」を東京で開催する計画が立てられた。「支那亡国」とは南明永暦帝政権の滅亡を指し、開催予定日は崇禎帝が自殺した日であって、それらを記念とすることにより満州王朝への復仇心の扇動を計画した。会の宣言書は章炳麟が起草したが、その内容は革命遂行を提唱するものであった。清国公使の要請により明治政府は当日になって紀念会の開催を禁止したが、これ以後在日留学生の多くが排満革命に靡き、革命結社が続々と結成されるようになった。

上海での投獄、中国同盟会の結成

上海に戻った章炳麟は、蔡元培が結成した愛国学社に参加し教師となった。そこで『革命軍中国語版』を著した鄒容と出会う。この時鄒はわずか19歳であり、その『革命軍』は革命を礼賛し、排満復仇を強く表明したセンセーショナルな書籍であった。両者はその思想的相似点から密接な関係を構築するに至っている。章炳麟自身は1903年6月、「康有為を駁して革命を論ずる書」を雑誌『蘇報中国語版』に連載した。これは康有為が海外の華僑に対し立憲こそ中国がとるべき道で革命は非であると説いたことへの反駁の論説である。『革命軍』と「革命を論ずる書」は公然と清朝打倒を主張するものであり、知識人への大きな反響を呼んだ。そのため鄒容・章炳麟ともに逮捕されるに至る(蘇報事件)。獄中、鄒容は死を迎えるが、章炳麟は日々仏教書を読んで耐え、3年後に釈放されたのち、再び日本へと亡命した。蘇報事件により章炳麟の知名度が高まり、鄒容の『革命軍』と章炳麟の「革命を論ずる書」は知識人の間に広く知られるようになり、特に章炳麟の文章にしては非常に読みやすい文体であったこともあり、双方併せて『章鄒合刻』というタイトルで刊行された。

1904年、蔡元培および陶成章が中心となって、浙江省出身者を中心とする革命団体である光復会が上海にて結成された。設立には獄中の章炳麟が深く関与していたとされる。なお「光復」には清朝によって従属せしめられた中国で光り輝く中華を再度復するという決意が込められている。

1905年8月、宮崎滔天頭山満北一輝といった日本のアジア主義者の協力のもと、東京にて、光復会・華興会興中会を統合した中国同盟会が、孫文を代表として結成された。章炳麟は亡命後ただちに入会し、その機関誌『民報』の主筆となって種族革命を鼓吹し、変法派梁啓超の『新民叢報中国語版』と論戦を展開した。またアジアにおける被侵略民族にも眼を向けてその団結を図り、亜洲和親会を発起した。しかしやがて章炳麟と孫文両者の革命の方向性、すなわち種族革命志向と西洋的な民権の確立への志向の相違が明確になると孫文派と疎遠となり、1910年に改めて光復会を立ち上げ、同盟会とは対立するようになる。

辛亥革命以降

1911年10月10日武昌蜂起を起因として辛亥革命の成功を知った章炳麟は直ちに帰国した。その革命宣伝の功績により民国政府より勲一等が授与され、孫文・黄興とともに「革命三尊」と称されることとなった。しかし「革命軍興れば、革命党消さん」と述べて中国同盟会の解散を主張したり、中華民国連合会(後に統一党と改称)を組織したことが原因で孫文との意見対立が生じたため、袁世凱に期待を寄せるようになる。辛亥革命直後、孫文らの南京臨時政府と袁世凱の北洋軍閥との間で中華民国の主導権を巡る政争が行われた。争点の一つが首都問題であり、双方が自らの政治地盤への首都設置を要求した。さきの統一党は袁世凱を擁護して首都を南京ではなく北京に置くことを主張し、そのため章炳麟は高等顧問や東北籌辺使に任命された。しかし1913年4月、宋教仁が袁世凱によって暗殺される事件が発生されると、章炳麟は袁世凱より乖離、孫文側の勢力と合流し袁世凱打倒の活動に参加した。その後北京に戻ったところを袁世凱により逮捕され、3年間の軟禁と長女の自殺に遭遇しながらも袁世凱側に参与することはなかった。1916年護法運動が発生すると、翌年章炳麟は北京を脱出してこの運動に参加、孫文の軍政府秘書長として広東省雲南省四川省湖北省を転戦した。湖北から上海に帰り政界を引退した後は政体は中央集権よりも連省自治が望ましいとの主張をし、北洋軍閥及び孫文双方の統一に反対した。

1919年パリ講和会議において山東における ドイツの権益が中国に返還されず日本に移譲されることが梁啓超によって知らされると、日本に抗議する学生運動が発生した(五四運動)。この運動に連動して「サイエンスとデモクラシー」を旗印に儒教批判を行い、また白話(口語)による文章の表現を主張する新文化運動が展開されたが、この時章炳麟は「国粋」・「尊孔読経」を唱え、且つ国共合作や「聯俄・聯共・扶助農工」政策に強く反対した。これは、章炳麟は中国共産党に強い忌避感を持っていたためである。そのため五四運動の代表的な論者からは白眼視され、かつて敵対した康有為とともに保守反動と批判された。

この頃、上海を訪れた日本人を客人としてしばしば迎えている。1921年には芥川龍之介と会談し(#逸話)、1930年には、後に中国語学の権威となる倉石武四郎を迎えている[1]

なお、1913年には湯国梨と結婚している。湯国梨は、同時代の秋瑾や、孫文夫人の盧慕貞宋慶齢宋氏三姉妹)らとともに、辛亥革命期の列女・中国の女性運動家の源流として知られる[2]

晩年

1931年満州事変が勃発してからは、蔣介石の「安内攘外」(先に中共を鎮圧し、その後で日本を討つ)政策を批判し、「抗日救国」を唱えて日本への抗戦を積極的に主張した。また、五四運動の時とは異なり学生運動を擁護した。

1934年蘇州に移住し、翌年には「章氏国学講習会」を起こして講学する一方、国学の保護を目的に雑誌『制言』を発行した。

1936年6月14日、69歳で死去。遺体は杭州市西湖南屏山の麓に埋葬された。現在その近くには章太炎紀念館が建っている[3]

康有為・梁啓超との論争

章炳麟の論敵は多いが、とりわけ論戦を交わしたのが、康有為・梁啓超ら変法派(保皇派)である。章炳麟の思想は彼らとの論争を通じて形成されてきた。

今文と古文

経学を思想基盤としていても、両者の学派は異なるため、自ずと思想も異なってくる。康有為は今文公羊学を、章炳麟は古文経学を奉じるが、両学派の傾向の相違は「公羊学派は六経を「経」(聖典)と見なし、左伝派は「史」(歴史)と見なす」と説明されることが多い。誤解を恐れずに言えば、公羊学の方がやや宗教的な傾向が強く、左伝派は「実事求是」を志向しているといえる。こうした傾向を最大限展開したのが、康有為の立憲改革論、それに対する章炳麟の「種族革命論」である。

康有為は、当時スタンダードとされた古文経学の経書『春秋左氏伝』が 前漢末・の学者 劉歆によって偽造されたものであって、今文公羊学にこそ孔子の真意が正しく伝えられていると主張した。さらに康有為は、孔子の真意とは伝統を維持保存するのにあるのではなく、むしろ改革こそが孔子の行わんとしたこと(孔子改制)であるとし、実は六経は孔子が周公旦に仮託して書いたものだ、という。いうまでもなくこの意見はマイナーなものであって、正統な経学とは言い難い。こうした突飛なことが言えるのは、康有為が考証の堅実な積み重ねに拠らずして「微言大義」に依拠しているからである。「微言大義」とは経書の僅かな字句に孔子の隠された真の意図が込められていると考え、それを読み取ろうとする解釈法である。非常に解読者の主観が忍び込みやすいと言わねばならない。

康有為によれば孔子の真の意図とは要するに立憲君主制や自由平等な社会の到来であったとされる。端的に言えば、康有為の孔子とは社会制度の改革者と宗教的な予言者を兼ね備えた存在であった。他方で清末考証学において、孔子はすでに独尊の存在ではなく、墨子等の他の諸子百家と同じ地平にまで引き下ろされていた。孔子の真の教えを考証でもって探ろうとした考証学は、皮肉にも孔子の聖人性を減じ、諸子の一人としてしまったのである。そうした清末の思想状況にあって、「孔子改制」を唱えるためには、六経およびそれを著した孔子は神秘性を帯び権威を持った存在であらねばならなかった。かくして康有為は儒教に孔子教(あるいは孔教)という新たな呼称を与えて、儒教を宗教化する運動を推進したのである。

しかし儒教宗教化は単に改革正当化としてのみ企図されたのではない。政治制度や価値観(三綱五常から自由・平等へ)をたとえ変えても、不変的な精神的支柱 - たとえば西洋のキリスト教や日本の神道のごときもの - が国家にあらねばならないという意識も背後にはあった。いずれにしても康有為は経学・孔子のイメージを大きく書き換えようとしたと言えよう。

他方、章炳麟は「劉子駿私淑弟子」(子駿は劉歆の字)という印を使用していたことからも知れるように、古文経学の徒である。章がはじめ変法派に与していたことは上に述べたが、その中で次第に公羊学との差異を意識するようになり、その後『左氏伝』の民族主義的部分を殊更に強調し対抗するに至った。章炳麟は六経を聖典ではなく歴史ととらえる。よって孔子や経書に神秘性は全く不要であり、当然孔子教という発想にも猛反対する。そして「微言大義」の解釈恣意性を取り上げ、「孔子改制」は実質「康子改制」にすぎないと非難した。

しかし章炳麟にとって歴史として六経を解することは、決して経書及び孔子への敬意が損なわれることを意味せず、むしろ尊敬の所以に他ならない。また民族に歴史を与えた孔子は間違いなくそれだけで不朽の存在であった。何故なら歴史こそが民族に文明と伝統がいかに作られたかを知らしめるからだという。そして章炳麟はここから、孔子およびその後継者(つまり史家)は漢民族の輝かしい中華文明の事績を書き留めてきたが、その継承者たる漢民族が夷狄たる満州族の足下にひれ伏してよいはずがない、と考えを推し進める。ここに至って章炳麟は、古文経学から文明とはすなわち国粋という概念を抽出し、それを光復するために種族革命を唱道するに至るのである。こうした思想は古文経学からのみ導き出されたのではなく、考証学の一学派たる浙東史学、とりわけ章学誠の「六経皆史」という考え方(儒教の経典は全て歴史として捉えるべきという考え)に影響されたためだと言われている。この浙東史学は民族主義的である点がその特徴の一つであって、章炳麟の種族革命はそれに助長された部分があると思われる。

満州族支配をめぐって

清朝はいうまでもなく、17世紀満州人が打ち立てた王朝である。その満州人支配をどう解釈するかも、章炳麟と康有為の間に横たわる大きな差異であった。2人とも経学に拠って語る以上、それは畢竟華夷思想の基準は何かという点に行き着かざるを得ない。公羊学には社会が進むにつれて、中華と夷狄の差異が解消していき、最終的には大一統に至るという理念がある。康有為はそれを漢民族と満州族に当てはめ主張した。康有為によれば華夷思想における華と夷の違いとは、文明か野蛮かの違いであるという。したがって今の満州人は教化・礼楽・言語・服飾いずれも漢民族と変わりないことから同一のものと見なすべきであり、皇帝が満州人であってもなんら問題ない。さらに満漢相争う事となれば内戦とならざるを得ず、それは中国のためにならない、つまるところ「満漢不分・君民一体」をもってテーゼとしたのである。

これに対し章炳麟は華夷の別は民族にあり、ということを強く主張した。それは『左伝』の「我族類に非ざれば其の心必ず異る」といった民族主義的な箇所を拠り所とするものだった。また文字の獄のごとき、清朝初期の苛政を思うとき、章の心は平静でいられなかったためでもある。康有為は満州人はすでに漢民族と同化しているというけれども、満州語を保持し、固有の宗教観も持っている。何よりも辮髪は漢民族も行うが、これは支配受容の証として強制されているだけであって本来漢民族固有のものではない。つまりこれは同化ではなく抑圧であることの証拠に他ならない、よって漢民族は満州人に復仇せねばならないと章は主張した。一言で言えば「駆除韃虜」をテーゼとすべきと説いたのである。章炳麟の主張は辛亥革命以前にあっては激烈そのものであったため、周囲と摩擦を引き起こさざるを得なかった。彼が名儒兪樾の門下であることはすでに述べたが、章が種族革命の旗幟を鮮明としたことで師弟の間には亀裂が生じた。すなわち兪越に「不孝不忠は人類に非ざるなり」と叱責・破門され、他方章も「謝本師」(『民報』第九号)を書いて師と絶縁するのである(「謝」はいとまごいする、の意)。

改革か革命か

列強に圧迫される現状を好ましくないとする点では同じであっても、満州族支配をめぐって激しく対立する両者の政治方途が同じであるはずはない。康有為は満漢不分を唱えたが、それは満漢両民族ともに列強に圧迫され存亡の危機にさらされており、その意味では運命共同体にほかならず、この危機を乗り切るに当たって、公理に従い政治改革を進めなければならない、と康はいう。公理とはすなわち社会進化の法則であって、具体的には立憲君主制を経て共和制へ進む過程を指し、その順序を越えてアメリカフランスのごとき共和革命をいきなり行なってしまえば多大な流血を余儀なくされ、列強につけ込まれてしまう、という主張であった。戊戌変法が失敗に終わり、清朝から刺客を差し向けられても、康有為が革命に傾くことはなかった。それどころか各国政府に働きかけて光緒帝の廃位を阻止し、保皇会を設けて海外から立憲運動を展開するのである。

一方、章炳麟は立憲君主制を採用すれば、流血の事態とならないという康有為の主張に反論する。彼はそもそも頼りとすべき光緒帝は惰弱であって頼むに足らないために、康有為の構想する上からの改革は必ずや流血を招かざるを得ず、であるならば革命の方が簡便である、というのである。よしんば立憲君主制が成就しようとも、議会には上下二院を設けるが、その上院には満州人の貴族たちが居座り、真の改革は行えないであろう、とも章は述べる。

さらに康有為の公理に対し、章炳麟も進化と革命を結びつける。すなわち進化とは生存競争であるが、その生存競争により智慧は生じ、その競争の主体は革命であらねばならないとする。そして革命によって共和と民主の世を招来せねばならないと訴えるのである。

ここで注意を要するのは、「革命」ということばが現在我々の使う意味での革命と同義になっている点である。清末まで「革命」は「易姓革命」を指していた。つまり現君主に対し異姓の君主が取って代わることで、代わったとしても君主制そのものはあり続けることが前提とされるものだった。しかし清末以後、孫文や章炳麟が使用する革命ということばは政治体制の変更をも視野に置いた革命であって、意味が現代的に変化しているのである。こうしたことばの変化は、西洋と接触した清末の状況によるものである。

国学・仏教・西洋思想

国学の大成

章炳麟は革命事業のただ中に身を置きながらも、考証学を骨格として諸学問を昇華し、国学を大成した。その中に注音字母の発明(現在も台湾で使われている)、「中華民国」という呼称の制定、中国語諸方言を音韻学と結合させ新分野を開いたこと、戴震『孟子字義疏証』の思想的意義の顕彰等がある。また多くの優秀な後進も育成している。たとえば民国期の北京大学の国学系教授はほとんどその門下(黄侃銭玄同、朱希祖、呉承仕など)で占められ、学閥をなしていた。章炳麟が国学大師と称される所以である。

こうした国学の誕生は、欧米学問の刺激によるものである。清末に欧米から新学問が流入しはじめると、伝統的な学問に波紋を広げるようになる。既に述べたように元々清朝考証学はその一部門である諸子学を発展させ孔子や六経の聖性を希薄化する方向に進展してきたが、それが19世紀における外からの刺激によって一層加速した。列強が富国強兵であることの背後に中華とは異なる価値観・学問体系があることが認知され始めたからである。これを受けて伝統学術は再編成を余儀なくされたが、その試みの一つが康有為の儒教の宗教化や附会説であり、章炳麟にあっては国学の大成であった。章は国学によって中華の伝統・歴史を再発見し、民族の誇りを呼び起こそうとしたのである。このことから章炳麟の深い部分で種族革命と国学の大成が通底していたことが分かる。その著作の多くはあまりに難解な文章・思想で綴られていたために、島田虔次に「浅学われわれのごときにはほとんど句読もきれぬ」と言わせたほどである[要出典]

ところでこの国学は清朝考証学がそのまま拡大し成立したものではない。国学には以下のような淵源があると言われる。

  1. 兪樾からの、古文経学・小学・諸子学
  2. 黄宗羲万斯同全祖望章学誠からの、浙東史学中国語版・礼制の学、『通典』・『文献通考』の学
  3. 楊文会の清末居士仏教からの、唯識法相仏教哲学
  4. 西洋・明治日本からの、ドイツ観念論社会進化論

上記のような諸学問が密接に接合することで国学は誕生した。特に小学(音韻学、方言学)の分野では『新方言』や『文始』のような画期的な成果を世に残した。また『国故論衡』や『検論』にも多く小学の研究が収められている。この両著については、後に国故整理運動を推し進めた胡適は『文心雕龍』や『史通』に比肩する著作として激賞している[4]

章炳麟の小学研究は音韻を基礎に据えたものであって、文字はまず音があってその後に字形が作られたという。さらにそれまでの伝統的小学と異なるのは、こうした小学の成果を歴史・社会研究に積極的に活用した点である。これは漢字が表意文字であるからこそ可能であった。たとえばある文字が古文や大篆にはなく、小篆にだけあるとすると、その文字が意味する概念は大篆を使用していた時代には無かった、という風に論ずるのである。章の構想した国学にあって、小学はすでに経学を単に補完するだけの学問ではなく、独自の存在理由を主張する学問であった。すなわち小学は国学の一翼を担った時点で儒教の軛を脱し近代的な言語学へと変貌していったといえよう。ただ章炳麟は甲骨文字の存在を承認せず、発見されたと称するものは全て劉鶚の偽造だと断じたため、この点は羅振玉王国維らによって訂正されなければならなかった。

またその他の業績としては仏教哲学を用いて解釈した諸子学がある。章炳麟は仏教哲学によって荘子思想を解釈した『斉物論釈』や『荘子解故』を著した。

章炳麟と仏教

楊文会によって仏教は清末に再び盛んとなり(清末居士仏教)、康有為や譚嗣同を始めとした革命家たちの間で広く流行した。章炳麟もその一人であったが、彼が特に好んだのは「唯心哲学」とも形容される唯識などの思弁的な仏教であった。知人の宋恕夏曽佑らに勧められたらしいが、本格的に取り組んだのは蘇報事件で捕らえられていた期間に『成唯識論』(世親著・玄奘三蔵訳)や『瑜伽師地論』(同じく玄奘三蔵訳)といった仏教書を読破した以降であるようだ。章炳麟に拠れば、唯識は実証分析的且つ理論的である点が考証学に通ずるという。唯識に深く傾倒した章炳麟は、上に記したように諸子学研究に活用するなど、彼の学問・政治論全般にその影響は見られる。

論敵・康有為が儒教を完全に宗教化しようとしたことは述べたが、章炳麟も中国に宗教が必要だと思う点では同様であった。というのも、革命の失敗の原因は担い手の道徳腐敗にあると考えていたためである。そこで章炳麟は比較宗教論的な観点から、その道徳の退廃を正すために仏教が宗教として適切だとした。孔子教は論外であった。儒教には富貴利禄を求める伝統が染みついており、採用はできないとする。またキリスト教は西洋には良くても中国には益はないという。今中国にあるキリスト教はヤハウェを信仰するのではなく、実は西洋を信仰するにすぎない偽キリスト教であって取るに足りない(欧化主義批判)、また真のキリスト教もローマ帝国の例を見れば分かるように野蛮な国が採用すれば進化するが、中国のような文明国が信仰すれば退化する、という。なお、しばしば対立した孫文は当時の中国の知識人としては珍しくクリスチャンであった。

結局、章が推奨したのは仏教であった。種族革命と仏教の取り合わせは一見奇異に映るが、章炳麟は以下の理由で問題ないとする。すなわち仏教(法相)は平等を重んじて奴隷根性を去り、平等を犯すものを廃する戦いを承認する。したがって満州族と漢民族間、あるいは君臣間の不平等を一掃することに何ら不都合はないという立場なのである。革命道徳の話に戻せば、仏教(華厳)は「普(あまね)く衆生を度(すく)う」、「頭・目・脳髄、一切を衆生のために捨てるを辞さない」という自己犠牲精神を眼目とするために、今の世にふさわしいと章炳麟は言う。彼はこうした仏教の平等性を強調し、後述する社会進化論の影響で当然視されていた「弱肉強食」に異を唱えようとしたのである。

こうした章炳麟の仏教への尊崇の念は、『五無論』(『民報』16号)のような厭世主義的な文章を時に書かせた。すなわち当面は民族主義を掲げるが、やがては「無政府」・「無聚落」・「無人類」・「無衆生」・「無世界」に至らなければならないと言う。つまるところ章は個々人が多種多様であることを許され、かつ自立して他者を侵害しない世界を理想としていた。これは当時一世を風靡していた社会進化論の描く理想郷とは異なる世界といえよう。仏教はこれに対抗する強力な思想的武装だったのである。

西洋・日本からの影響

ナショナリズムは章炳麟が国学を作り上げる大きな動機となっている。ただし、西洋の学問を拒絶しているわけではなく、その著述を開ければ至る所でフィヒテカントショーペンハウアーなどに言及している。

日本の思潮で似ているものを挙げるとすれば、三宅雪嶺志賀重昂らの結社政教社出版の雑誌『日本人』が唱えた「国粋保存」であろう。政教社のメンバーは東京英語学校や哲学館出身の者がほとんどで、彼らは国際社会の中における国粋の発揚を主張していた。実際、章炳麟の国粋という概念は政教社から影響を受けたという研究もある。上に挙げた西洋哲学者にしても、その学説を知ったきっかけは日本に滞在し、その翻訳を読んで知識を仕入れた可能性が高い。章炳麟に限らず当時日本にいた中国人は明治日本を経て西洋思想に触れたのであって、西洋思想という光を一方から受けて別の方へ照射するという意味で、明治日本は思想のプリズム的役割を果たしていたことになる。

社会進化論も明治日本を経由して章炳麟に影響を与えた学問である。社会進化論は、1895年に厳復が『天演論』で中国に紹介し、一大ブームを起こしていた。一方で、『天演論』の古風な文体は読解が困難だったこともあり、出版社が日本語に翻訳されたものを再度漢訳したり、日本人社会学者の著書を翻訳していた。その翻訳を担ったのが在日の中国人たちであり、章炳麟はその一人であった。彼は日本に亡命した際、梁啓超の紹介で岸本能武太の『社会学』を翻訳し、1902年に広智書局から刊行している。この本はハーバート・スペンサーの社会進化論に則って書かれたもので、章炳麟はこの本より種族間生存競争に勝つためには国粋への誇りを胸に宿して同種族が堅く結束し、多種族に対抗しなければならない、という社会進化観を獲得した。もっともそれはストレートに受容されたのではなく、従前の仏教によって修正されている。すなわち社会進化論では、往々にして進化とは悪が漸次無くなり、かわって善なるものが増加する過程だとされる。これに対し、章は「倶分進化論」(『民報』7号)において、進化とは善なるものも、悪なるものも並進して進化するのだという。今の人類は太古のそれより生活は豊かになったが、文明の利器によって多くの同類を殺戮できるではないか、というのである。

日本の土を三度踏んだ章炳麟は、日本と浅からぬ縁があることは言うまでもない。清朝からの追っ手を避けた先が日本であったし、西洋知識や仏典を獲得したのも日本であった。しかし同時に、清朝の依頼とはいえ度々革命活動を明治政府に妨害され、文部省が『清国留学生取締規則』を公布したために友人の陳天華が自殺している。さらに日本が対華21ヶ条要求満州事変などを行ったこともあって、これが章炳麟を日本嫌いにしたといえよう。これに対し日本側もその奇矯ぶりをあげつらったり、西洋哲学の理解が一知半解だとする批判を展開した[要出典]

芥川龍之介は、1921年大阪毎日新聞の海外視察員として上海に滞在していた際、当時54歳の章炳麟と会談しており、その風貌について次のように書き残している。「氏の顔は決して立派じゃない。皮膚の色は殆黄色である。口髭や顎髭は気の毒な程薄い。突兀と聳えた額なども、瘤ではないかと思う位である。が、その糸のように細い眼だけは、-上品な縁無しの眼鏡の後に、何時も冷然と微笑した眼だけは、確かに出来合いの代物じゃない」「章炳麟が袁世凱に捕らえられてなお生きていられたのは、この眼の鋭さのためだ」と述べている[5]

章炳麟は奇行が多いことで知られ、瘋子(常軌を逸した人)と諷された。種族革命に心血を注ぎ、変法派に徹底した批判を加えた革命家の熱情が、時として変法派以外にも向けられたためであろう。すなわち孫文を痛罵し、五四運動に反対し、白話運動にも非難を加え、学術方面では甲骨学にも異を唱えた。また日本及び日本の学者にも批判の矛先を向けている。革命事業においてその熱情は反骨精神として評価されるが、それ以外に向けられた場合(特に辛亥革命以降)には頑固な保守、あるいはアナクロニズムと評されることが多い。章炳麟評を聞く限り、周囲に緊張を強いて、ある種近寄りがたい雰囲気を持つ人物だったかのようだ。

魯迅(周樹人)は、青年期に留学生として日本に滞在しており、1908年、弟の周作人らとともに東京小石川の章炳麟邸にて『説文解字』の講義を受けている。魯迅は当時の章炳麟について、上述の奇行録とは対照的に温和な人物として回想している。魯迅は同じ浙江出身の章炳麟を尊敬していたようで「先生の業績は革命史に残るものの方が、学術史に残るものよりもきっと大きいであろう」との評を下している。また「先生のにこやかな音容は今もなお眼のあたり見るごとくであるのに、講義していただいた『説文解字』の方は、一句もおぼえていない始末なのである」、「お偉方にはとかくむかっ腹をたてられたが、学生に対しては実に優しく、家族や友人と同様に気軽に談笑された。…まじめかと思えば冗談をとばし、にこにこ講義をされる」とも述懐している。周囲の厳しい章炳麟評を当然承知したと思われるが、魯迅は「にこやか」、「冗談をとばし」と形容しており、ここに章炳麟に対する深い敬愛の念を感じ取れる。ちなみに章炳麟と魯迅の師弟は同年に亡くなっている。そして上に引いた文章「太炎先生に関する二、三の事」は魯迅が亡くなるわずか10日前に書かれた絶筆である[6]

  • 訄書中国語版』初刊本、1899年
    • 『訄書』重訂本、1904年
  • 『章氏叢書』1915-1919年、全24冊
    『春秋左伝読』叙録一巻、『新方言』十一巻、『荘子解故』一巻、『斉物論釈』一巻、『国故論衡』三巻、『検論』九巻等を収む
  • 『章氏叢書続編』1933年、全4冊
    『広論語駢枝』一巻、『菿〈草+到〉漢微言』六巻、『春秋左氏疑義答問』五巻等を収む
  • 『章氏叢書三編』1939年
    『太炎文録続編』七巻、『自定年譜』、『古文尚書拾遺定本』等を収む。
  • 『章太炎全集』2014-2017年、全17巻20冊、上海人民出版社、ISBN 9787208148888
    章炳麟のにあたる章念馳(zh)の呼びかけのもと、上海人民出版社・杭州市余杭区政府の合作で編纂された、全著作・関連史料を網羅した新版全集

日本語訳注

  1.  頼惟勤・戸川芳郎による倉石武四郎博士略歴”.  東京大学東洋文化研究所2020年4月23日閲覧。
  2.  辛亥革命期の湯国梨と務本女塾―女性教員、女性運動家として杉本史子、立命館文學 608号, pp.154-169, 2008年
  3.  章太炎記念館” (日本語). 浙江省政府. 2020年4月21日閲覧。
  4.  姜义华, ed (1993). 胡适学术文集:新文学运动. 中華書局. pp. 124-127 
  5.  『上海游記』:新字新仮名 - 青空文庫
  6.  島田虔次『中国革命の先駆者たち』[要ページ番号]

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三字経

三字経

●従来の読み方を参照しつつ、できるかぎり平易に訓読したものである。
●字音は現代仮名遣い、字訓・送り仮名は歴史的仮名遣いを用いた。
訓読・通釈・注=加藤敏

人之初  人(ひと)の初(はじ)め
性本善  性(せい)本(もと)善(ぜん)
性相近  性(せい)相(あひ)近(ちか)し
習相遠  習(なら)ひ相(あひ)遠(とほ)し


【通釈】人が生をうけたそのはじめ、人の性はもともと善である。本性は相似かよっているものの、習慣によって遠く隔たってしまう。
【注】○性本善=本性はもともと善である。『孟子』告子上に「人性の善なるや、猶ほ水の下きに就くがごときなり。人に善ならざるもの有ること無く、水に下らざるもの有ること無し。」とある。○性相近、習相遠=『論語』陽貨に「子曰く、性相近きなり、習ひ相遠きなり。」とあるのに基づく。


苟不教  苟(いやし)くも教(をし)へずんば
性乃遷  性(せい)乃(すなは)ち遷(うつ)る
教之道  教(をし)への道(みち)は
貴以専  専(もっぱ)を以(もっ)て貴(たふと)ぶ


【通釈】もし教え導かなければ、善なる性も変わってしまう。教えの道は、専一にすることを貴ぶのである。


昔孟母  昔(むかし)孟母(もうぼ)
択鄰処  鄰(となり)を択(えら)びて処(を)り
子不学  子(こ)学(まな)ばざれば
断機杼  機杼(きちょ)を断(た)つ


【通釈】昔孟子の母は、学舎の隣りを選んで住み、子供が学ぶのを怠ると、機(はた)の杼を壊したという。
【注】○昔孟母、択鄰処=孟子の母親が、孟子のために住居を三度移したという、孟母三遷の教えを言う。はじめ家が墓に近かったので孟子は幼いころ葬式のまねをして遊んでいた。そこで、市場の近くに引っ越すと、今度は商売のまねをするようになってしまった。今度は学校のそばに引っ越すと、孟子は祭礼や礼儀のまねをしてするようになった。そこで、やっと住居を定めたという。○子不学、断機杼=学問を途中で廃してはならないという断機の戒め。孟母断機。孟子が学問を怠って家に帰ってくると、機織りをしていた母親が、織っていた織物を断ち切って、「学問を中途でやめるのは、私が織りかけの織物を断ち切るようなものだ。」ときつく戒めたという。ここでは、「杼(ひ)」を壊したことになっている。


竇燕山  竇燕山(とうえんざん)
有義方  義方(ぎほう)有(あ)り
教五子  五子(ごし)を教(をし)へ
名倶揚  名(な)倶(とも)に揚(あ)ぐ


【通釈】竇燕山は正道を持し、五人の子を教え、子供らは倶に名を挙げた。
【注】○竇燕山=竇禹鈞。五代末の人。○義方=守るべき正しい規範。子弟教育の正道。○教五子、名倶揚=竇禹鈞には五人の子(儀、儼、侃、称、僖)があり、父親の厳格な教育によって、のちに相次いで科挙に合格して大いに名をあげ、「竇氏五龍」と称された。


養不教  養(やしな)ひて教(をし)へざるは
父之過  父(ちち)の過(あやま)ちなり
教不厳  教(をし)へて厳(げん)ならざるは
師之惰  師(し)の惰(おこたり)なり


【通釈】養うのみで厳しく教えないのは、父親の過ちである。教えながら厳格でないのは、教師の怠りである。


子不学  子(こ)として学(まな)ばざるは
非所宜  宜(よろ)しき所(ところ)に非(あら)ず
幼不学  幼(よう)にして学(まな)ばざれば
老何為  老(お)いて何(なに)をか為(な)さん


【通釈】子供であって学ばないのは、よろしいことではない。幼くして学ばなければ、老いて何ができようか。


玉不琢  玉(たま)琢(みが)かざれば
不成器  器(き)を成(な)さず
人不学  人(ひと)学(まな)ばざれば
不知義  義(ぎ)を知(し)らず


【通釈】天然の美質を持つ玉も磨かなければ、器物としての役に立たない。優れた素質を持つ人も学ばなければ、道理がわからない。
【注】○玉不琢、不成器。人不学、不知義=『礼記』学記に見える言葉。学問につとめなければ、立派な人物にはなれないことをいう。


為人子  人(ひと)の子(こ)と為(な)りては
方少時  少(わか)き時(とき)に方(あた)りて
親師友  師友(しゆう)に親(した)しみ
習礼儀  礼儀(れいぎ)を習(なら)へ


【通釈】人の子たる者、若い時にあっては、よい師につき、朋友に交わり、礼儀を習わなくてはいけない。


香九齢  香(こう)は九齢(きゅうれい)にして
能温席  能(よ)く席(せき)を温(あたた)む
孝於親  親(おや)に孝(こう)あるは
所当執  当(まさ)に執(と)るべき所(ところ)なり


【通釈】黄香は九歳で自ら親の席を暖めることができた。親に孝であることは当然執り守るべきことである。
【注】○香九齢、能温席=「香」は、人名。黄香。後漢の人。九歳で母を失い、父親に孝養をつくし、「天下無双、江夏の黄童」と称された。彼は夏には扇いで親の席を涼しくし、冬には身を以て親の席を暖めたと言われる。


融四歳  融(ゆう)は四歳(しさい)にして
能譲梨  能(よ)く梨(なし)を譲(ゆづ)る
弟於長  長(ちょう)に弟(てい)あるは
宜先知  宜(よろ)しく先(ま)づ知(し)るべし


【通釈】漢の孔融は四歳にして兄に梨を譲ることができたという。年長者に従順であることは、先ず知らねばならない。
【注】○融四歳、能譲梨=「融」は、人名。孔融(一五三~二〇八)。後漢の学者。建安七子の一人。孔融が四歳の時、兄弟で梨を食べたことがあった。兄たちは梨を争うように食べたが、孔融は最後に、小さな梨を選んだという。


首孝弟  孝弟(こうてい)を首(はじめ)とし
次見聞  次(つぎ)に見聞(けんぶん)
知某数  某(それぞれ)の数(すう)を知(し)り
識某文  某(それぞれ)の文(ぶん)を識(し)る


【通釈】孝と弟を第一とし、次に見聞をひろめ、それぞれの数とそれぞれの文とを学んでゆく。
【注】○孝弟=親に孝を尽くすことと年長者に従順であること。


一而十  一(いち)よりして十(じゅう)
十而百  十(じゅう)よりして百(ひゃく)
百而千  百(ひゃく)よりして千(せん)
千而万  千(せん)よりして万(まん)


【通釈】一から十、十から百、百から千、千から万に及ぶ。


三才者  三才(さんさい)とは
天地人  天地人(てんちじん)
三光者  三光(さんこう)とは
日月星  日月星(じつげつせい)


【通釈】三才とは天地人、三光とは、日月星である。


三綱者  三綱(さんこう)とは
君臣義  君臣(くんしん)の義(ぎ)
父子親  父子(ふし)の親(しん)
夫婦順  夫婦(ふうふ)の順(じゅん)なり


【通釈】三綱とは、君臣の義、父子の親愛、夫婦の和順をいう。
【注】○義=君主が臣下を礼をもって遇し、臣下が忠を尽くすことをいう。○親=父が子を慈しみ、子は父に孝を尽くすことをいう。


曰春夏  曰(い)はく春夏(しゅんか)
曰秋冬  曰(い)はく秋冬(しゅうとう)
此四時  此(こ)の四時(しいじ)
運不窮  運(めぐ)りて窮(きは)まらず


【通釈】春夏秋冬、この四時はめぐって窮まることがない。


曰南北  曰(い)はく南北(なんぼく)
曰西東  曰(い)はく西東(せいとう)
此四方  此(こ)の四方(しほう)
応乎中  中(ちゅう)に応(おう)ず


【通釈】南北、西東、この四方は、中央に対応している。


曰水火  曰(い)はく水火(すいか)
木金土  木金土(もくきんど)
此五行  此(こ)の五行(ごぎょう)は
本乎数  数(すう)に本(もと)づく


【通釈】水火木金土、この五行は、数に基づいている。
【注】○五行=万物を生成する五つの元素。


曰仁義  曰(い)はく仁義(じんぎ)
礼智信  礼智信(れいちしん)
此五常  此(こ)の五常(ごじょう)は
不容紊  容(まさ)に紊(みだ)るべからず


【通釈】仁義礼智信、この五常は、乱してはならない。
【注】○五常=人が常に行わなければならない五つの道。○容=まさに…すべきである。○紊=乱す。


稲粱菽  稲粱菽(とうりょうしゅく)
麦黍稷  麦黍稷(ばくしょしょく)
此六穀  此(こ)の六穀(りくこく)は
人所食  人(ひと)の食(くら)ふ所(ところ)


【通釈】稲粱菽麦黍稷、この六穀は、人が食べるものである。
【注】○粱=あわ。○菽=まめ。○黍=もちきび。○稷=うるちきび。※「六」は、「五」に作るテキストもある。


馬牛羊  馬牛羊(ばぎゅうよう)
鶏犬豕  鶏犬豕(けいけんし)
此六畜  此(こ)の六畜(りくちく)は
人所飼  人(ひと)の飼(か)ふ所(ところ)


【通釈】馬牛羊鶏犬豕、この六畜は人が飼うものである。
【注】○豕=ぶた。


曰喜怒  曰(い)はく喜怒(きど)
曰哀懼  曰(い)はく哀懼(あいく)
愛悪欲  愛悪欲(あいおよく)
七情具  七情(しちじょう)具(そな)はる


【通釈】喜怒哀懼愛悪欲、人にはこの七情がそなわっている。


匏土革  匏土革(ほうどかく)
木石金  木石金(ぼくせききん)と
与糸竹  糸竹(しちく)と
乃八音  乃(すなは)ち八音(はちおん)


【通釈】匏土革木石金と糸竹とは、八種類の楽器である。
【注】○匏=ひさごで作った笙などの楽器。○土=土を焼いて作った楽器。○革=革を張った鼓などの楽器。○木=木製の楽器。○石=石で作った楽器。○金=金属で作った鐘などの楽器。○糸=琴などの弦楽器。○竹=笛などの楽器。○八音=八種類の楽器。


高曾祖  高曾祖(こうそうそ)
父而身  父(ちち)よりして身(み)
身而子  身(み)よりして子(こ)
子而孫  子(こ)よりして孫(まご)
自子孫  子孫(しそん)より
至玄曾  玄曾(げんそう)に至(いた)る
乃九族  乃(すなは)ち九族(きゅうぞく)
人之倫  人(ひと)の倫(りん)なり


【通釈】祖父の祖父、曾祖父、祖父、父、我が身、子、孫、ひ孫、やしゃごは、九族であり、人の世代の順である。※「玄曾」は、「曾玄」に作るテキストもある。


父子恩  父子(ふし)は恩(おん)
夫婦従  夫婦(ふうふ)は従(じゅう)
兄則友  兄(けい)は則(すなは)ち友(ゆう)
弟則恭  弟(てい)は則(すなは)ち恭(きょう)
長幼序  長幼(ちょうよう)序(じょ)あり
友与朋  友(ゆう)と朋(ほう)と
君則敬  君(きみ)は則(すなは)ち敬(けい)
臣則忠  臣(しん)は則(すなは)ち忠(ちゅう)
此十義  此(こ)の十義(じゅうぎ)は
人所同  人(ひと)の同(おな)じくする所(ところ)なり


【通釈】父子の恩愛、夫婦の和順、兄は慈しみ深く、弟は恭しく、年長者と年少の者の間には順序があり、友には信をもって交わり、朋には誼をもってし、君は敬、臣は忠を尽くす。この十義は人が同じく守るべきものである。
【注】○長幼序、友与朋=『孟子』滕文公上に「長幼序あり、朋友信有り」とあるのに基づく。○十義=人が守り行うべき十種の道徳。父の慈、子の孝、夫の和、妻の順、兄の愛、弟の恭、朋の誼、友の信、君の敬、臣の忠。また、『礼記』礼運には、父の慈、子の孝、兄の良、弟の弟、夫の義、婦の聴、君の仁、臣の忠、とある。


凡訓蒙  凡(およ)そ蒙(もう)に訓(をし)ふるは
須講究  須(すべか)らく講究(こうきゅう)すべし
詳訓詁  訓詁(くんこ)を詳(つまび)かにし
明句読  句読(くとう)を明(あき)らかにす


【通釈】そもそも道理にくらい者を教え導くには、物事を調べきわめなくてはいけない。字句の意味をつまびらかに解釈し、句読を明らかにするのである。
【注】○蒙=幼児など道理にくらい者。


為学者  学(がく)を為(な)す者(もの)は
必有初  必(かなら)ず初(はじ)め有(あ)り
小学終  小学(しょうがく)終(をは)りて
至四書  四書(ししょ)に至(いた)れ


【通釈】学問をするには必ず初めがある。『小学』が終了してから四書に至るのである。
【注】○小学=書名。南宋の学者、朱子の門人であった劉子澄の著。また、文字、訓詁の学。○四書=『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』。


論語者  論語(ろんご)は
二十篇  二十篇(にじっぺん)
群弟子  群弟子(ぐんていし)
記善言  善言(ぜんげん)を記(しる)す


【通釈】『論語』は、二十篇。孔子の多くの弟子たちが道にかなったよい言葉を記したものである。
【注】○論語者、二十篇=『論語』は、学而、為政、八★(「にんべん」+「八」+「月」)、里仁、公冶長、雍也、述而、泰伯、子罕、郷党、先進、顔淵、子路、憲問、衛霊公、季氏、陽貨、微子、子張、堯曰の二十篇よりなる。


孟子者  孟子(もうし)は
七篇止  七篇(しちへん)にして止(や)む
講道徳  道徳(どうとく)を講(こう)じ
説仁義  仁義(じんぎ)を説(と)く


【通釈】『孟子』は七篇、道徳と仁義とを説いている。
【注】『孟子』は、梁恵王、公孫丑、滕文公、離婁、万章、告子、尽心の七篇よりなる。


作中庸  中庸(ちゅうよう)を作(つく)るは
乃孔★  乃(すなは)ち孔★(こうきゅう)
中不偏  中(ちゅう)にして偏(かたよ)らず
庸不易  庸(よう)にして易(か)はらず


【通釈】『中庸』を作ったのは、孔★。その説くところは中正でかたよることがなく、永に変わることがない。
【注】○孔★=孔子の孫の子思(前四九二?~前四三一?)。名は、★。子思は、字。○中不偏、庸不易=この二句は、「中は偏らず、庸は易はらず」とも読まれる。※「孔★」は、「子思」に作るテキストもある。「乃孔★」は、「子思筆」に作るテキストもある。(★=「にんべん」+「及})


作大学  大学(だいがく)を作(つく)るは
乃曾子  乃(すなは)ち曾子(そうし)
自修斉  修斉(しゅうせい)より
至平治  平治(へいち)に至(いた)る


【通釈】『大学』を作ったのは曾子。身を修め、家をととのえることから、天下を平定し国家を治めるに至る条目を説いている。
【注】○曾子=孔子の弟子の曾参(前五〇五?~前四三五?)字は、子輿。○自修斉、至平治=『大学』は、学問はなんのためにするかを述べた書で、その条目として、格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下の八つを挙げている。


孝経通  孝経(こうきょう)通(つう)じ
四書熟  四書(しょしょ)熟(じゅく)し
如六経  六経(りくけい)のごとき
始可読  始(はじ)めて読(よ)むべし


【通釈】『孝経』に通暁し、四書を熟読して、はじめて六経を読むべきである。
【注】○孝経=書名。孔子と曾子の問答の形で孝について説いた書。


詩書易  詩書易(ししょえき)
礼春秋  礼春秋(れいしゅんじゅう)は
号六経  六経(りくけい)と号(ごう)す
当講求  当(まさ)に講求(こうきゅう)すべし


【通釈】『詩経』『書経』『易経』『周礼』『礼記』『春秋』は六経という。よく研究し考え求めなければならない。
【注】○六経=『詩経』『書経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』。ここでは、『楽記』の代わりに『周礼』を挙げている。


有連山  連山(れんざん)有(あ)り
有帰蔵  帰蔵(きぞう)有(あ)り
有周易  周易(しゅうえき)有(あ)りて
三易詳  三易(さんえき)詳(つまび)らかなり


【通釈】連山があり、帰蔵があり、周易があって、この三易において易はつまびらかにされている。
【注】○連山=夏の時代の易の名。○帰蔵=殷の時代の易の名。○周易=周代の易の名。


有典謨  典謨(てんぼ)有(あ)り
有訓誥  訓誥(くんこう)有(あ)り
有誓命  誓命(せいめい)有(あ)り
書之奥  書(しょ)の奥(おう)なり


【通釈】典謨があり、訓誥があり、誓命がある。これが『書経』の奥義である。
【注】○典、謨、訓、誥、誓、命=書経の文体の名。


我周公  我(わ)が周公(しゅうこう)
作周礼  周礼(しゅらい)を作(つく)り
著六官  六官(りくかん)を著(あらは)して
存治体  治体(ちたい)を存(そん)す


【通釈】我が周公は、『周礼』を作り、六官を著録して、治国の綱領を残した
。 【注】○周公=周公旦。周の武王の弟。周王朝の基礎を築いた。○六官=冢宰、司徒、宗伯、司馬、司寇、司空をいう。国の政治を担当する官。


大小戴  大小戴(だいしょうたい)
注礼記  礼記(らいき)を注(ちゅう)し
述聖言  聖言(せいげん)を述(の)べて
礼楽備  礼楽(れいがく)備(そな)はる


【通釈】戴徳と戴聖は『礼記』に注し、聖人の言葉を祖述して、礼楽制度がここに備わることとなった。
【注】○大小戴=戴徳と戴聖。前漢の学者。戴徳は、大戴と称される。その著『大戴礼』は一部が伝わっている。戴聖は、戴徳の甥で、小戴と称される。その著『礼記』が伝わっている。


曰国風  曰(い)はく国風(こくふう)
曰雅頌  曰(い)はく雅頌(がしょう)
号四詩  四詩(しし)と号(ごう)す
当諷詠  当(まさ)に諷詠(ふうえい)すべし


【通釈】国風、雅(小雅、大雅)、頌は四詩と称す。吟詠すべきものである。
【注】○国風=『詩経』中の地方の国々の民謡。○雅=『詩経』の中の天子、諸侯の宴会に用いられた歌謡。小雅と大雅に分かれている。○頌=『詩経』の中の宗廟で用いられた楽歌。


詩既亡  詩(し)既(すで)に亡(ほろ)び
春秋作  春秋(しゅんじゅう)作(おこ)る
寓襃貶  襃貶(ほうへん)を寓(ぐう)し
別善悪  善悪(ぜんあく)を別(わか)つ


【通釈】詩が滅ぶと、孔子は『春秋』を著し、そこに襃貶を寓し、善悪を区別した。


三伝者  三伝(さんでん)は
有公羊  公羊(くよう)有(あ)り
有左氏  左氏(さし)有(あ)り
有穀梁  穀梁(こくりょう)有(あ)り


【通釈】三伝とは、『春秋公羊伝』、『春秋左氏伝』、『春秋穀梁伝』である。


経既明  経(けい)既(すで)に明(あき)らかにして
方読子  方(まさ)に子(し)を読(よ)み
撮其要  其(そ)の要(よう)を撮(と)り
記其事  其(そ)の事(こと)を記(しる)す


【通釈】六経に明らかになって、はじめて諸子を読み、その要点をとり、その内容を記憶するのである。


五子者  五子(ごし)は
有荀揚  荀揚(じゅんよう)有(あ)り
文中子  文中子(ぶんちゅうし)
及老荘  及(および)び老荘(ろうそう)


【通釈】五子とは荀子、揚雄、文中子及び老子、荘子である。
【注】○荀=荀子。荀況(前三一三?~前二三八?)。戦国時代の思想家。○揚=揚雄(前五三~後一八)前漢末の学者、文章家。字は、子雲。○文中子=王通(五八四~六一八)隋代の思想家。○老荘=老子と荘子。


経子通  経子(けいし)通(つう)じて
読諸史  諸史(しょし)を読(よ)み
考世系  世系(せいけい)を考(かんが)へ
知終始  終始(しゅうし)を知(し)る


【通釈】経典と諸子に通じたならば、諸史を読み、歴代の系譜を考え、王朝の終始を知るのである。


自羲農  羲農(ぎのう)より
至黄帝  黄帝(こうてい)に至(いた)るまで
号三皇  三皇(さんこう)と号(ごう)し
居上世  上世(じょうせい)に居(を)り


【通釈】伏羲、神農、黄帝を三皇と呼ぶ。上古の世にいた。
【注】○羲農=伏羲と神農。いずれも伝説上の帝王。○黄帝=伝説上の帝王。種々の文物制度を定めたといわれる。


唐有虞  唐有虞(とうゆうぐ)
号二帝  二帝(にてい)と号(ごう)す
相揖遜  相(あひ)揖遜(ゆうそん)して
称盛世  盛世(せいせい)と称(しょう)す


【通釈】堯と舜とは二帝と号する。二人はそれぞれ有徳の人材に位を譲り、その治世を盛世と称する。
【注】○唐=帝堯。姓は、陶唐氏。○有虞=帝舜。姓は、有虞氏。○揖遜=禅譲。堯は舜に位を譲り、舜は禹に位を譲った。


夏有禹  夏(か)の有禹(ゆうう)
商有湯  商(しょう)の有湯(ゆうとう)
周文武  周(しゅう)の文武(ぶんぶ)
称三王  三王(さんおう)と称(しょう)す


【通釈】夏の禹王、殷の湯王、周の文王・武王は三王と称する。


夏伝子  夏(か)は子(こ)に伝(つた)へ
家天下  天下(てんか)を家(いへ)とす
四百載  四百載(しひゃくさい)
遷夏社  夏(か)の社(しゃ)を遷(うつ)す


【通釈】夏は位を子孫に伝え、天下を家とした。四百年後、その国を殷にうつすこととなった。
【注】○夏=禹王によって開かれたという王朝。○四百年=夏王朝は十七代、約四百年存続したといわれる。○社=社稷。国家。


湯伐夏  湯(とう)夏(か)を伐(う)ち
国号商  国(くに)を商(しょう)と号(ごう)す
六百載  六百載(ろっぴゃくさい)
至紂亡  紂(ちゅう)に至(いた)りて亡(ほろ)ぶ


【通釈】湯王は夏を伐ち、国を商と号し、六百年後、紂王に至って滅亡した。
【注】○六百載=殷王朝は三十代、六百年以上続いたとされる。


周武王  周(しゅう)の武王(ぶおう)
始誅紂  始(はじ)めて紂(ちゅう)を誅(ちゅう)し
八百載  八百載(はっぴゃくさい)
最長久  最(もっと)も長久(ちょうきゅう)なり


【通釈】周の武王は始めて紂王を誅殺して、周王朝を開いた。周は八百年にわたって存続し、最も長く続いた王朝であった。


周轍東  周(しゅう)東(ひがし)に轍(てつ)し
王綱墜  王綱(おうこう)墜(お)ち
逞干戈  干戈(かんか)を逞(たくま)しくし
尚遊説  遊説(ゆうぜい)を尚(たふと)ぶ


【通釈】周王朝が都を東の洛陽に遷すと、王権は衰え、やがて戦いをほしいままにし、遊説の士を尚ぶこととなった。
【注】○周轍東=前七七〇年、平王の時、都を河南省の洛水の沿岸に遷したことをいう。○干戈=戦争。


始春秋  春秋(しゅんじゅう)に始(はじ)まり
終戦国  戦国(せんごく)に終(をは)る
五霸強  五霸(ごは)強(つよ)く
七雄出  七雄(しちゆう)出(い)づ


【通釈】春秋時代から始まり戦国時代まで、五人の霸者がつぎつぎに威を振い、七つの強国が出現した。
【注】○五霸=斉の桓公、晉の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王。○七雄=韓、魏、趙、斉、秦、楚、燕の七国。


★秦氏  ★秦氏(えいしんし)
始兼并  始(はじ)めて兼(か)ね并(あは)せ
伝二世  二世(にせい)に伝(つた)へ
楚漢争  楚漢(そかん)争(あらそ)ふ


【通釈】秦王★政は、始めて天下を統一し、二世皇帝に伝えたが、間もなく楚と漢が覇権を争うこととなった。
【注】○★秦氏=秦王★政(前二五九~前二一〇)は、前二二一年、天下を統一し、始皇帝となった。○二世=秦の二世皇帝胡亥(前二三〇~前二〇七)。○楚漢=項羽(前二三二~前二〇二)と劉邦(前二五六~前一九五)。(★=「贏」-「貝」+「女」)


高祖興  高祖(こうそ)興(おこ)りて
漢業建  漢業(かんぎょう)建(た)ち
至孝平  孝平(こうへい)に至(いた)りて
王莽簒  王莽(おうもう)簒(うば)ふ


【通釈】漢の高祖が興起し、漢王朝を開いたが、平帝に至って王莽が簒奪した。
【注】○高祖興=劉邦。○孝平=平帝(在位  前一~後五)○王莽=(前四五~後二三)紀元八年、漢王朝を廃して新を建てたが、二三年、劉玄の兵に殺されて滅んだ。


光武興  光武(こうぶ)興(おこ)り
為東漢  東漢(とうかん)と為(な)す
四百年  四百年(しひゃくねん)
終於献  献(けん)に終(おは)る


【通釈】光武帝が興起し、王朝を開いた。これを東漢(後漢)という。漢王朝は前漢、後漢あわせて四百年あまり続き、献帝にいたって滅んだ。
【注】○光武=後漢の光武帝劉秀(前六~後五七)。○献=献帝。劉協(在位  一九〇~二二〇)。後漢の最後の皇帝。


魏蜀呉  魏蜀呉(ぎしょくご)
争漢鼎  漢鼎(かんてい)を争(あらそ)ふ
号三国  三国(さんごく)と号(ごう)し
迄両晋  両晋(りょうしん)に迄(およ)ぶ


【通釈】魏蜀呉の三国が漢の鼎を争った。この時代を三国時代と呼び、やがて西晋、東晋にいたる。
【注】○漢鼎=漢王朝の帝位。※「魏蜀呉」は、「蜀魏呉」に作るテキストもある。


宋斉継  宋斉(そうせい)継(つ)ぎ
梁陳承  梁陳(りょうちん)承(う)く
為南朝  南朝(なんちょう)と為(な)し
都金陵  金陵(きんりょう)に都(みやこ)す


【通釈】宋斉梁陳が継承した。これを南朝といい、いずれも金陵に都した。
【注】○宋斉=宋王朝(四二〇~四七九)と斉王朝(四七九~五〇二)○梁陳=梁王朝(五〇二~五五七)と陳王朝(五五七~五八九)○金陵=現在の江蘇省南京市。


北元魏  北元魏(ほくげんぎ)
分東西  東西(とうざい)を分(わ)かち
宇文周  宇文周(うぶんしゅう)と
与高斉  高斉(こうせい)と


【通釈】北朝は北魏に始まり、東魏と西魏に分かれた。さらに宇文氏の建てた北周が西魏にとってかわり、高氏の建てた北斉が東魏にとってかわった。
【注】○元魏=鮮卑族の拓跋珪が建てた王朝。(三八六~五三四)○東西=東魏(五三五~五五〇)と西魏(五三五~五五六)。○宇文周=宇文氏が建てた北周(五五七~五八一)。○高斉=高氏が建てた北斉(五五〇~五七七)。


★至隋  隋(ずい)に至(いた)るに★(およ)び
一土宇  一土宇(いちどう)
不再伝  再(ふたた)び伝(つた)はらず
失統緒  統緒(とうしょ)を失(うしな)ふ


【通釈】隋に至って天下を統一したが、その天下は再び伝わらず、帝室の世系を失った。
【注】○隋=楊堅が中国を統一して建てた王朝。第二代煬帝が宇文化及に殺されて滅んだ。  ○土宇=天下。○統緒=帝室の世系。(★=「しんにょう」+「台」)


唐高祖  唐(とう)の高祖(こうそ)
起義師  義師(ぎし)を起(お)こし
除隋乱  隋(ずい)の乱(らん)を除(のぞ)き
創国基  国基(こくき)を創(はじ)む


【通釈】唐の高祖は義兵を起こし、隋末の混乱を除きさり、国の基を定めた。
【注】○唐高祖=李淵(五六五~六三五)。


二十伝  二十伝(にじゅうでん)
三百載  三百載(さんびゃくさい)
梁滅之  梁(りょう)之(これ)を滅(ほろ)ぼし
国乃改  国(くに)乃(すなは)ち改(あらた)まる


【通釈】唐は二十代伝わり、約三百年存続し、梁が滅ぼし国が改まった。
【注】○二十伝=唐の皇帝は、高祖、太宗、高宗、中宗、睿宗、玄宗、粛宗、代宗、徳宗、順宗、憲宗、穆宗、敬宗、文宗、武宗、宣宗、懿宗、僖宗、昭宗、哀帝の二十人。○三百載=唐王朝は六一八年から九〇七年まで、二八九年間存続した。○梁滅之=九〇七年、朱全忠が唐王朝を滅ぼし、国号を梁とした。後梁と呼ばれる。


梁唐晋  梁唐晋(りょうとうしん)
及漢周  及(およ)び漢周(かんしゅう)
称五代  五代(ごだい)と称(しょう)す
皆有由  皆(みな)由(よ)ること有(あ)り


【通釈】後梁、後唐、後晋及び後漢、後周を五代と称する。その興亡にはそれぞれ皆理由がある。
【注】○梁唐晋=後梁(九〇七~九二三)後唐(九二三~九三六)後晋(九三六~九四六)。○漢周=後漢(九四七~九五〇)後周(九五〇~九六〇)。


炎宋興  炎宋(えんそう)興(おこ)り
受周禅  周(しゅう)の禅(ゆづ)りを受(う)け
十八伝  十八伝(じゅうはちでん)
南北混  南北(なんぼく)混(こん)ず


【通釈】宋王朝が興り、後周の禅譲を受け、北宋、南宋併せて十八代伝わった。
【注】○炎宋=北宋王朝(九六〇~一一二七)。五行の火徳をもって王となったとされ、炎宋とも呼ばれる。○十八伝=北宋、南宋の皇帝は、太祖、太宗、真宗、仁宗、英宗、神宗、哲宗、徽宗、欽宗、高宗、孝宗、光宗、寧宗、理宗、度宗、恭宗、端宗、衛王の十八人。※テキストによっては、この後遼、金、元、明についての記述があるが、我が国にもたらされたものは、宋の記述で終わっている。


十七史  十七史(じゅうしちし)
全在茲  全(まった)く茲(ここ)に在(あ)り
載治乱  治乱(ちらん)を載(の)せ
知興衰  興衰(こうすい)を知(し)る


【通釈】十七史の大略は全てここに示されている。史書には治乱の過程が記されており、史書を読むことで興亡の所以を知ることができる。
【注】十七史=史記、漢書、後漢書、三国志、晋書、宋書、南斉書、梁書、陳書、魏書、北斉書、周書、隋書、南史、北史、唐書、五代史。※宋代以後の歴史について記すテキストは、「十七」を「廿二」に作る。


読史者  史(し)を読(よ)む者(もの)は
考実録  実録(じつろく)を考(かんが)へ
通古今  古今(ここん)に通(つう)じ
若親目  親目(しんもく)するがごとし


【通釈】史書を読む者は、実事に基づいて考察し、古今に通じること目の当たりに見るようにするのである。


口而誦  口(くち)にして誦(しょう)し
心而惟  心(こころ)にして惟(おも)ひ
朝於斯  朝(あさ)にも斯(ここ)に於(おい)てし
夕於斯  夕(ゆうべ)にも斯(ここ)に於(おい)てす


【通釈】読書をするには、口に唱え、思索し、朝も夜もつとめるのである。
【注】○口而誦……=この段を前段につなげ、史書を読む際のこととする解釈もある。


昔孔子  昔(むかし)孔子(こうし)は
師項★  項★(こうたく)を師(し)とす
古聖賢  古(いにしへ)の聖賢(せいけん)すら
尚勤学  尚(な)ほ勤(つと)め学(まな)ぶ


【通釈】昔孔子は項★を師としたという。古の聖賢ですら学に勤めたのである。
【注】○仲尼=孔子の字。○項★=魯の国の神童の名。※「孔子」は、「仲尼」に作るテキストもある。(★=「嚢」の上部+「石」+「木」)


趙中令  趙中令(ちょうちゅうれい)
読魯論  魯論(ろろん)を読(よ)む
彼既仕  彼(かれ)既(すで)に仕(つか)へ
学且勤  学(まな)び且(か)つ勤(つと)む


【通釈】中書令の趙普は常に論語を読んでいた。彼は仕えていながら学び且つ勤めたのである。
【注】○趙中令=中書令の趙普(九二二~九九二)。宋建国の功臣。後に宰相となった。彼が論語を読んでいたことは、『宋史』にも記されている。○魯論=『論語』。


披蒲編  蒲編(ほへん)を披(ひら)き
削竹簡  竹簡(ちくかん)を削(けづ)る
彼無書  彼(かれ)書(しょ)無(な)きも
且知勉  且(か)つ勉(つと)むるを知(し)る


【通釈】漢の路温舒は蒲を適当な長さに切って綴り合わせた書物を開き、また漢の公孫弘は竹簡を削っては書籍を写して学に励んだという。彼らは書物がなかったが、努力して学ぶことを知っていたのである。
【注】○披蒲編=漢の路温舒は、幼いころ羊を放牧していたおり、蒲を適当な長さに切って綴り合わせ、書物のようにしてそこに文字を書いて勉強したという。のちに太守にまで出世した。○削竹簡=漢の公孫弘(前二〇〇~前一二一)は、貧しく、四十歳を過ぎても豚の放牧をして生計をたてていたが、竹簡を削ってそこに春秋を書き写して学んだという。


頭懸梁  頭(かうべ)を梁(はり)に懸(か)け
錐刺股  錐(きり)を股(もも)に刺(さ)す
彼不教  彼(かれ)教(をし)へざれども
自勤苦  自(みづか)ら勤(つと)め苦(つと)む


【通釈】晋の孫敬は、眠気に襲われることを恐れ、縄を頭にかけ、それを梁につないで読書したという。また戦国時代の蘇秦は、眠くなると錐を股に刺して学び続けたという。彼らは教えられたのではなく、自ら勤め努力したのである。
【注】○孫敬=字は文宝。いつも戸を閉ざして読書していたので、閉戸先生とよばれた。○蘇秦=?~前三一七。戦国時代の遊説家。字は季子。合従策を唱えて六国を同盟させ、秦に対抗した。


如嚢蛍  如(も)しくは蛍(ほたる)を嚢(ふくろ)にし
如映雪  如(も)しくは雪(ゆき)に映(えい)ず
家雖貧  家(いへ)貧(まづ)しと雖(いへど)も
学不輟  学(まな)びて輟(や)まず


【通釈】晋の車胤は蛍を嚢に入れ、その明りで読書し、また孫康は、雪の明りで読書していたという。彼らは家は貧しかったが、学んでやめることがなかった。
【注】○嚢蛍=晋の車胤は、貧しくて油を買うことができなかったので、夏の夜には袋に数十匹の蛍を入れて、その光で読書をした。○映雪=晋の孫康は、貧しくて油を買うことができず、冬は雪明かりで読書をした。


如負薪  如(も)しくは薪(たきぎ)を負(お)ひ
如挂角  如(も)しくは角(つの)に挂(か)く
身雖労  身(み)は労(ろう)すと雖(いへど)も
猶苦卓  猶(な)ほ卓(たか)きを苦(つと)む


【通釈】漢の朱買臣は薪を負いながら読書し、隋の李密は、牛に乗り、その角に書物を挂けつつ読書したという。彼ら苦労しながら衆から抜きん出ることにつとめたのである。
【注】○如負薪=漢の朱買臣は、家が貧しかったが読書を好み、四十歳を過ぎて薪を売って生活していた。常に薪を背負って歩きながら読書していたという。その後会稽の太守に至った。○如挂角=隋末の群雄の李密(五八二~六一八)は、牛に乗り、その角に『漢書』を掛け、項羽の伝を読んでいたという。


蘇老泉  蘇老泉(そろうせん)は
二十七  二十七(にじゅうしち)
始発憤  始(はじ)めて憤(いきどほ)りを発(はっ)し
読書籍  書籍(しょせき)を読(よ)む


【通釈】蘇洵は二十七歳にして始めて発憤して書籍を読んだ。
【注】○蘇老泉=蘇洵(一〇〇九~一〇六六)、号は老泉。宋代の文章家。息子の蘇軾、蘇轍とともに三蘇と呼ばれる。唐宋八大家の一人。晩学で、科挙に落ちて発奮し、読書にはげみ、後に名を成した。


彼既老  彼(かれ)既(すで)に老(お)いて
猶悔遅  猶(な)ほ遅(おそ)きを悔(く)ゆ
爾小生  爾(なんぢ)小生(しょうせい)
宜早思  宜(よろ)しく早(はや)く思(おも)ふべし


【通釈】彼は老いて、学問をするのが遅かったことを後悔した。お前たち後生の者は早く学問しようと思わなくてはいけない。


若梁★  梁★(りょうこう)がごときは
八十二  八十二(はちじゅうに)にして
対大廷  大廷(たいてい)に対(たい)し
魁多士  多士(たし)に魁(かい)たり


【通釈】例えば梁★は八十二歳で、朝廷の外廷で天子の策問に対え、多くの士人たちの魁首となった。
【注】梁★=五代末から宋にかけての人。北宋の雍熙二年(九八五)、太宗の策問に答えて進士となった。時に八十二歳だった。※「★」は、「さんずい」の無い字に作るテキストもある。(★=「さんずい」+「景」+「頁」)


彼既成  彼(かれ)既(すで)に成(な)り
衆称異  衆(しゅう)異(こと)なりと称(しょう)す
爾小生  爾(なんぢ)小生(しょうせい)
宜立志  宜(よろ)しく志(こころざし)を立(た)つべし


【通釈】彼は老年にいたって名を成し、人々は皆優れて異なっていると称えた。お前たち後生の者は、学問しようとする志を立てなくていけない。


瑩八歳  瑩(えい)は八歳(はっさい)にして
能詠詩  能(よ)く詩(し)を詠(えい)じ
泌七歳  泌(ひつ)は七歳(しちさい)にして
能賦棊  能(よ)く棊(き)を賦(ふ)す


【通釈】祖瑩は八歳で詩を詠じることができ、李泌は七歳で棊の詩を賦した。
【注】○瑩=北魏の祖瑩。字は元珍。八歳で『詩経』や『書経』を朗唱した。学問を好み、両親が心配して止めるほどだったという。○泌=唐の李泌。字は長源。玄宗皇帝に召され、「方」「円」「動」「静」を読み込んだ詩を作って称賛された。


彼穎悟  彼(かれ)は穎悟(えいご)にして
人称奇  人(ひと)奇(き)と称(しょう)す
爾幼学  爾(なんぢ)幼学(ようがく)
当效之  当(まさ)に之(これ)に效(なら)ふべし


【通釈】彼らは若くして聡明であり、人々はその優れていることを称えた。お前たち幼くして学ぶ者は彼らに倣わなくてはいけない。


蔡文姫  蔡文姫(さいぶんき)は
能弁琴  能(よ)く琴(こと)を弁(べん)じ
謝道★  謝道★(しゃどううん)は
能詠吟  能(よ)く詠吟(えいぎん)す


【通釈】蔡文姫は琴のどの弦が切れたかを聞き分けることができ、また謝道★は詩賦を作ることができた。
【注】○蔡文姫=後漢の蔡★。彼女は父親蔡★の弾く琴の弦が切れた時、どの弦が切れたかを聞き分けたという。○謝道★=晋の謝安の兄の娘。彼女は幼くして詩を賦すことができたという。(1つめ・2つめ・3つめ・6つめの★=「韋」+(「慍」-「りっしんべん」。4つめ・5つめの★=「巛」+「邑」)


彼女子  彼(かれ)女子(じょし)にして
且聡敏  且(か)つ聡敏(そうびん)
爾男子  爾(なんぢ)男子(だんし)
当自警  当(まさ)に自(みづか)ら警(いまし)むべし


【通釈】彼らは女性であって、聡明であった。お前たち男子は自らいましめなくてはいけない。


唐劉晏  唐(とう)の劉晏(りゅうあん)
方七歳  方(まさ)に七歳(しちさい)
挙神童  神童(しんどう)に挙(あ)げられ
作正字  正字(せいじ)と作(な)る


【通釈】唐の劉晏は七歳にして神童に挙げられ、太子正字となった。
【注】○劉晏=唐を代表する財政家。安史の乱後の国家財政の立て直しに力を尽くした。八歳の時に玄宗皇帝に頌を奉って太子正字の官を賜り、神童と称された。○正字=太子正字。図書の校正などを司る官。


彼雖幼  彼(かれ)は幼(よう)と雖(いへど)も
身已仕  身(み)已(すで)に仕(つか)ふ
爾幼学  爾(なんぢ)幼学(ようがく)
勉而致  勉(つと)めて致(いた)せ
有為者  為(な)すこと有(あ)る者(もの)は
亦若是  亦(ま)た是(か)くのごとし


【通釈】彼は幼かったが、もう仕えていた。お前たち幼くして学ぶ者は、努力して学問をせよ。有為の人物は皆このようである。


犬守夜  犬(いぬ)は夜(よる)を守(まも)り
鶏司晨  鶏(にはとり)は晨(あした)を司(つかさど)る
苟不学  苟(いやし)くも学(まな)ばずんば
曷為人  曷(なん)ぞ人(ひと)と為(な)さん


【通釈】犬は夜に家を守り、鶏は夜明けを告げ、それぞれ人の役に立っている。もしも人が学ばなければ、どうして人と称することができよう。


蚕吐糸  蚕(さん)は糸(いと)を吐(は)き
蜂醸蜜  蜂(はち)は蜜(みつ)を醸(かも)す
人不学  人(ひと)学(まな)ばずんば
不如物  物(もの)に如(し)かず


【通釈】蚕は糸を吐いて絹をもたらし、蜂は蜜を醸す。人が学ばなければ、物にも及ばないのである。


幼而学  幼(よう)にして学(まな)び
壮而行  壮(そう)にして行(おこな)ふ
上致君  上(かみ)は君(きみ)を致(いた)し
下沢民  下(しも)は民(たみ)を沢(うるほ)し
揚名声  名声(めいせい)を揚(あ)げ
顕父母  父母(ふぼ)を顕(あらは)し
光於前  前(まへ)を光(て)らし
裕於後  後(のち)を裕(ゆた)かにせよ


【通釈】幼くして学び、壮年になり官につきその道を行い、上は国のために力を尽くし、下は黎民に幸せをもたらすのである。そして名声を上げ、父母を顕彰し、先祖をかがやかし、子孫をゆたかにせよ。
【注】致君=主君を堯や舜のような聖天子にする。


人遺子  人(ひと)は子(こ)に遺(のこ)すに
金満★  金(きん)★(えい)に満(み)つ
我教子  我(われ)は子(こ)に教(をし)ふるに
惟一経  惟(た)だ一経(いっけい)


【通釈】人は子に袋一杯の黄金を遺すであろうが、私は子に教えるのは、ただ一冊の経書だけである。
【注】○★=袋。一説に、箱。○一経=一冊の経典。一説に、三字経を指すとする。(★=「竹」+「贏」)


勤有功  勤(つと)むれば功(こう)有(あ)り
戯無益  戯(たはむ)るれば益(えき)無(な)し
戒之哉  之(これ)を戒(いまし)めよや
宜勉力  宜(よろ)しく勉(つと)め力(つと)むべし


【通釈】努力して学べば功業があるであろう。戯れ怠ればなんの益も無いであろう。つつしみなさい。しっかりと努力しなくてはならない。


 このファイルは、『漢文教室』189号(大修館書店)にて紹介した、『三字経』本文に、通釈と注を付したものです。
 『三字経』本文の著作権は消滅していますが、通釈・注の著作権は加藤敏先生にあります。原則として引用・転載は自由ですが、その際には、大修館書店ホームページ「漢字文化資料館」よりの転載であること、訓読・通釈・注は加藤敏先生のものであることを明記してください。


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1 件のコメント:


  1. https://wheatbaku.exblog.jp/32008082/

     尾高惇忠の教え方は、論語などを一字一句教えて暗誦のできるようにするという方法ではなく、多くの本を読んで自身で考えるに任せるといふ教育方法だったようです。
     そのため、栄一は「三国志」とか、「里見八犬伝」といった読みやすい本を読んでいました。それについて尾高惇忠は「読み易いものから入るが一番よい。(中略)今の処では、かえって三国志でも八犬伝でも、何んでも、面白いと思ったものを、心をとめて読みさえすれば、いつか読み方がわかり、難しい本も読めるようになり、十八史略も史記も漢書もだんだん面白くなるから、せいぜい多くの本を読むのがよい」といったそうです。
     そこで、軍書・小説の類を読みましたが、その熱中ぶりは、「12歳の正月の年始の廻礼に、本を読みながら歩いていて、溝の中へ落ちて、晴れ着の衣裳を大層汚して大きに母親に叱られたことを覚えて居ます。」(「雨夜譚(かたり)」より))というほどだったようです。

     「青天を衝け」で、栄一が山田長政の小説に夢中になっていて溝におちてします場面が描かれていましたが、この場面は、「雨夜譚(かたり)」のこの部分を再現したものでしょう。
     なお、栄一が好きであったのは「三国志」や「馬琴」の小説だったそうですが、「渋沢栄一伝記資料」に収録されている「藍香翁」(塚原蓼洲著)によると尾高惇忠のススメで山田長政の本も読んでいたそうです。
     脚本の大森美香さんは、これらを総合して「青天を衝け」の栄一が溝に落ちる場面を書いているのだと思います。

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