プルードンはコモンズ等制度学派の系譜で言及されることが多い。
自然価値論 ヴィザァ 著,大山千代雄 訳 有斐閣 1937
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882849
↓ 自然価値論 [167]
標題
目次
第一部 個人經濟における價値
第一章 價値の基礎理論
一 價値の根元/1
二 欲望滿足の價値/5
三 欲望飽滿についてのゴツセンの法則/7
四 飽和の度盛り/11
五 限界利用/14
六 將來の欲望滿足の價値/18
七 財貨の價値/22
八 個々の財貨の評價/25
九 蓄積されてゐる財貨の評價(一般的の價値法則、限界利用の法則)/28
一〇 價値の矛盾と價値運動の二分派/33
一一 價値の二律背反と價値の經濟上の役立ち/39
第二章 流通價値と自然價値
一二 價格/45
一三 主觀的意義の交換價値/55
一四 客觀的意義の交換價値(流通價値)/59
一五 流通價値の二律背反/64
一六 國民經濟における流通價値の役立ち/66
一七 自然價値/71
一八 社會主義者の價値說/76
第三章 生產收益の自然的歸屬
第一 歸屬の一般原則
一九 收益價値/80
二〇 歸屬の問題/83
二一 社會主義の問題の見方(勞働者の全生產收益請求權)/91
二二 これまでの解決の試み/95
二三 解決の原則 生產的寄與/101
二四 續き 寄與と協働/107
二五 續き 歸屬の經濟上の働らき/109
二六 續き 歸屬と限界法則/114
二七 個々の歸屬動因 (一)蓄積/119
二八 續き (二)需要と相補財貨/120
二九 續き (三)技術/124
三〇 續き (四)費用財貨の歸屬と獨占財貨の歸屬/127
三一 續き (五)特に優良な性質を有する生產因子の歸屬/132
第二 自然地代
三二 特に優良な性質を有する土地の差額地代(リカアドオ)/134
三三 特に優良な性質を有する地力の差額地代(リカアドオ)/137
三四 リカアドオ理論の批評/139
第三 自然的資本收益
三五 資本の生產性/145
三六 原始經濟と發達した經濟との資本收益計算/151
三七 總收益歸屬と純收益歸屬/154
第四章 土地、資本、勞働の自然價値
三八 緖言/158
三九 資本の價値と資本利子 (一)割引/161
四〇 續き (二)利率/167
四一 續き (三)利率の均一計算の法則/170
四二 續き (四)利率の變化/173
四三 續き (五)固定資本の評價/175
四四 續き (六)資本還元/178
四五 追加 (七)消費貸付と賃貸利子/180
四六 土地の價値/183
四七 勞働の價値/187
四八 生產財貨の價値―現在および將來の關心の間の競爭を考へて/191
第五章 生產物の自然的費用價値
四九 費用法則/197
五〇 費用の槪念/200
五一 費用法則の由來/203
五二 費用法則通用の諸條件/207
五三 決定的な費用の大いさ/210
五四 費用法則と一般的價値法則/212
五五 いはゆる勞働の生產費/215
五六 個々の費用要素 (一)序言/221
五七 續き (二)勞働/224
五八 續き (三)資本/232
五九 續き (四)資本利子/237
六〇 續き (五)地代/241
六一 國民經濟における個人經濟的價値の役立ち/245
第二部 國家經濟における價値
六二 緖言/251
六三 國家經濟の職分/255
六四 自然的國家經濟における價値/263
六五 經驗的國家經濟における價値/272
六六 集合的評價の根本法則/277
か、技術の進歩によって供かにかつ大愛に収益が増すとか、或ひは生産者が利得を貪らんとするの飲まり、または
需要を馬鹿に過大に見積つて、生産を張し過ぎるの誤りに陥るとかかういふことのために、個々の経済部
門が、一時、仮値運動の下り勾配に移されるといふやうなことは、普通では、滅多にない偶然のことに過ぎない。
殆んど過剰といつてもよい位に生産されて、それで、價値の下降運動がやって来ないわけには行かぬといふやうな、
それほどに恵まれた件の下に、経済全が永きに亘っておかれることはないといふのが、十中八九である。 しか
自然の賜る二、三の自由財貨の例は、過剰となれば直ちに慣値がなくなるといふことについて、疑ひを容れる
ことを全然許さない。 過剰に相當近けば、慣値は減少しなければならぬといふ見解は、立派に説明されてゐる。
値列は経験の示すところによれば缺陷はあるけれども、 しかし典型的な数列を最後まで支障なく辿ることができ
十分な支持 が経験によつて興へられてゐる。
一一 價値の二律背反と慣値の經濟上の役立ち
大抵の場合には、経済の繁栄に伴ひ、所有物の慣値は増加するものであることが認められる結果として例外
は忘れられるか、または従屬的な、どうでもよい障碍として注意されないから~~価値は、人がこれに従つて行動
しなければならぬ最高の經濟原則であるといふ思想が起って来た。 常に、人は全として最高の債値位が達せられ
るやうに行動しなければならないとされてゐる。
もしこの思想が正しいならば、経済生活は、経済主義の目的には多少反する結果を生する力によつて、動かされ
第一章 個値の基礎理論
三九
第一部 個人経済における値
四〇
るわけである。すなはち、一定の標準~~上り勾配~~を越えて、この目的に近づくことを許さない限りは、さう
いふことになる。 しかして價値法則の二律背反はプルウドンがいつたやうに、交換價値にあるだけではなく、どん
な價値形態にもあるといつて差支へないわけである。利をふ上の見地からばかりではなく、自分の家庭経済
の見地からも~~全然賣ることができぬロビンソンでさへも~~價値を作り價値を殖やすために、過剰を缺乏に、
缺乏をさらにヨリ大なる缺乏に薄換しなければならぬはずである。しかしそんな事をしようといふものはないであ
らう。それ故に、慣値が經濟を左右するといふのは異質ではない。 あらゆるの最高は利用である。慣値と
利用が衝突するならば、利用が勝たなければならぬ。價値には、これに優越性を興へ得る何ものもない。價値には
利用は完全には含まれてかないか、これに含まれる利用の大いさが、財貨といふ観念に密接な關係をもつてゐると
いふ、特殊な随伴現象をもつてゐる。この随伴現象には、財貨の利用を完全に合算することが有利であると教へる
やうな所爲を抑止する力はない。もし私が、何事かを試みて、あらゆる財貨の役立ちの常時過剰を保障すること
ができるならば、この場合には、私の心を財貨の役立ちから財貨に移す必要はもはやないと考へられるから、
私は一瞬時もこれに躊躇しないであらう。 または、私がある事をなせば、ヨリ多い利用を得ることができると考へ
るならば、同時にこの行為によって、財貨の観念に結びついてゐる闘心が、いくらかヨリ低くなるといふ結果がも
たらされるとしても、私は、この後の事情のために、この行為を思ひ止まらうといふ衝動は少しも受けないであら
しかしかやうな關係の下に、どんな役立ちが経済上の価値に幾つてゐろか? 極めて重要な役立ちが價値には
第一部 個人経済における値 六四
この著しい例は、リカアドオの価値理論である。 覚際、債は今日でも多く相対的であると解されてゐる。ドイツの文献は、夙に
流通値について透徹した批評と、これを補足する種々の試みに乏しくないといふで書だ優ぐれてゐるが、しかし勿論最後の出
口は登見されなかった。最近価値理論改革者のうちで、ジェヴォンスは二つの値概念を、密かつ正確に分けたといふで優ぐ
れてゐるが、しかし主観の完成にも(さきの第九節の謎を見よ)また二種の個値の機能の決定にも成功しなかった。これに反
メンガアは最も完全な主観慣値の理論を奥へたが、しかし客観的價値概念を展させなかった。
『値の根元』の私自身の研究は、殆んど主観で占められてゐる。 好意をもつてゐる批評家でさへも、この故を以て、私は客
親値を認めないといふ結論を下してゐる。この非はつてゐない。私は(三八頁)客観的概念の必要を確かに認めてみる。
主観と客観慣との係についてはペニーム・パヴェルクが最もよく述べてをり、また特に経済上におけるこの二つの値の
機能 別については、ザックスが述べてゐる。
一五 流通價値の二律背反
流通價値は主観價値と同じ運動を示してゐる。 販賣量の増加に伴ひ需要がある場合) 財貨一つ々々に
ついての利益は低下するが、全部利益はまだ上昇する~~上り勾配。 一定からは全部利益が下降する~~下り勾
配。最後に、一般的に過剰である場合には全然價格は得られない。
この運動の原因は、流通價値の場合には、幾分か強い。 欲望が自然に制限せられて、飽和以上には及ばないと
いふわけで、さうであるばかりではなく、そのほかに、多くの買手の購買力は事實上制限せられて、飽和まで
欲望を満足するだけの手段をもたないといふわけで、さういふことになるのである。 欲望といふからいへば、まだ
買手があるはずの財貨が、市場ではもう一つも賣れないといふことが往々ある。それ故に、價格利益の最高は、
往々主観價値の最高よりもヨリ早く達せられる。
それにも拘らず、 流通賀値の二律背反といふやうなことは、主観價値のそれと同様、いへる理由がない~~社
を支配する経済秩序が、國民經濟上の流通價値に対し、個人経済上の主観償値のそれに、遙かに優さる效力を
へないなら。統一的に支配される経済においては、すべて、利用が最高の原則である。しかし国民経済において、
社會の財貨調達が、これによって利益を営み、また自分の仕事に対して報酬を望む個人企業者によって行はれるな
らば、どんな場合でも、流通償値が最高原則である。個人企業者の目的とするところは、にとつての最高利用
ではなくして最高の値であり、そしてまたこれが同時に彼の最高利用である。利用は企業者の経済上の最高原則
たる資質を示すけれども、 しかしまさにこの故を以て、流通價値と社會的利用とがふ場合、勝つものは~~企
業者が自己の利益をどこまでも追及する力をもつてゐるならば~~前者である。
それ故に、ブルウドンが流通価値の二律背反といふことをいつたのは正常である~~尤も彼はこの主張を、必ず
しも正確に、方式に表はしたわけではない。 企業者は誰れでも、 賣ることができぬ自由財貨をることができる、
經濟的に稀少な財貨にすることができるならば、そのときは利である。そして販賣量を減らして利益を高める
ことができるならば、そのときには利益であるやうに、販賣量が殖えて利益が減するならば損失である。
しかし、社会主義的社會組織でなくては、この不一致を解決することができないといふ、ブルウドンの結論は
正しくない。
第二章 流通個値と自然價値
六五
第一部 個人経済における慣値
六六
二律背反は、総じて、価値運動の『上り勾配』にはない。しかしこの『上り勾配』には、 甚だ多くの實際の価値
形態があるどころではない、そのほかに、企業者が介を支配することができるならば、それだけで二律背反があ
る。しかし實際に自由競争が行はれる場合には、企業者はかやうな力をもたない。 實際に自由競争の行はれる場合
には、社會的利用が~~さうでなければならないやうに~~国民經濟の最高原則である。 互ひに競争する企業者は
誰れでも、自分の企業の領域を、できるだけげるように努めなければならない。 企業者一人々々によつてなされ
る供給の増加は、全供給に比較すれば極めて微々たるものであつて、これによって價格は著しく歴迫はされない。
しかし一人々々としては、資ることができる分量が著しく増加する。 企業者は誰れでもかう打算する。 またかう打
算するから、極端といふところまで、生産が行はれるのである。今日の経済史は、流通価値の下り勾配においては、
競争によつて價格がどこまで下がるか知れないといふ諸例に富んでゐる。
その他の場合には、社會は、損害を受けないためには、共同計算で生産を行はなければならない(または個人に
よつて行はせなければならぬ)。しかしかやうな場合は極く少いから、このことからは社會主義的社會組織は生じな
い。 最初から、いつまでも、政府はかやうな使命を引受けてゐる。 流通価値の二律背反によって、自由経済的社會
秩序の改は要求されない。 政府の適宜な干渉によつて、これを補足することが要求されるだけである。
一六 國民經濟における流通慣値の役立ち
流通價値を形成する諸要素を考察するならば、二律背反の告訴は、これに対して提起され得る最も厳しい告訴で
Wieser, Natural Value, 55
1893年
http://bibliotecadigital.econ.uba.ar/download/Pe/181770.pdf
Proudhon, therefore, is right-although he may not have formulated his contention quite correctly-when he affirms the antinomy of exchange value. Every undertaker finds it to his advantage when he succeeds in turning free goods which he cannot sell, into economically scarce goods which he can sell. And it is to his advantage when he is successful in reducing the amount to be sold, and raising the returns, just as it is to his disadvantage to increase the amount that is to be sold, and thereby diminish the returns. The conclusion which Proudhon draws from this-that the discord can only be resolved by a socialist organisation of society is nevertheless incorrect.
In the main the antinomy does not exist in the "up grade" of the movement of value. And in this up grade is found by far the greater number of the actual forms of value. Further, the antinomy only holds in so far as the undertaker is able to rule society. But where there is really free competition no undertaker has this power. Under free competition, social utility will be-as it ought to be the first principle of economic life. Here each of the competing undertakers is bound to strive to widen to the utmost the compass of his undertaking. The increase of supply which CHAP。
したがって、プルードンが交換価値の二律背反を肯定するのは、自分の主張を正しく表現していないかもしれないが、正しいことである。すべての葬儀屋は、自分が売ることのできない自由財を、自分が売ることのできる経済的に希少な財に変えることに成功すれば、自分に有利であることを見出す。そして、売るべき量を減らして見返りを増やすことに成功すれば有利であり、売るべき量を増やして見返りを減らすことは不利である。このことからプルードンが導き出した結論、すなわち、不和は社会の社会主義的な組織によってのみ解決されうるという結論は、それにもかかわらず、正しくない。
主要なところでは、価値の運動の「高級化」においては、二律背反は存在しない。そして、このアップグレードには、はるかに多くの実際の価値形態が見出される。さらに、二律背反は、葬儀屋が社会を支配することができる限りにおいてのみ成り立つ。しかし、本当に自由な競争があるところでは、葬儀屋はこの力をもたない。自由競争の下では、社会的有用性は、経済生活の第一原理であるべきである。ここで、競争している事業者は、それぞれ、自分の事業の範囲を最大限に広げようと努力するはずである。供給量の増大は
Contemporary Meanings of John R. Commons’s Institutional Economics: An ...
Hiroyuki Uni 編集
213 Appendix
Marx discovered that this contradiction arose from Proudhon's antithesis of production and marketing. Production creates use-value, and marketing creates scarcity-value. Proudhon, in Hegelian fashion, had reconciled the antithesis by his idea of "constituted value." Constituted value was "synthetical value," the synthesis that reconciled the thesis, use-value, and its antithesis meant the value that would be freely agreed upon by two persons on a market if they were entirely equal and entirely free of any form of collective compulsion either by the government or any other association.55 His synthesis was anarchism.
[p.142] But Marx denied the antithesis both of production versus exchange and of use-value versus exchange-value. They might be antithetical if we start with individuals producing in isolation, who then look around for other isolated individuals with whom they purpose to exchange their surplus products. But this is a false start. There are no such surplus products. None are produced for self with a surplus produced for others. All are produced for exchange. Production does not end before exchange starts. They are the same labor process, and hence exchange is itself a form of production. Division of labor and exchange are merely descriptions of social production. "From the moment that you suppose more than one hand assisting in production you have already supposed a whole system of production based on the sub-division of labor." Other individuals are indeed collaborators, as Proudhon had suggested, but this means that they are not individuals. They are different functions in the same social process. "The collaborators, and the diverse functions, the division of labor and the exchange which it indicates are all existing already... It would have been just as well to have supposed exchange-value in the first place."56
This is what Marx did. There is therefore, for him, no opposition or contradiction between use-value and exchange-value. Exchange-value is simply a "form" that use- value takes in the social process of production. The use-values of society are not a sum of individual use-values; they are each of them already a social use-value in the very process of production for use by others through division of labor and exchange. Exchange does not add to the value of commodities, nor deduct from their value, nor
55 Proudhon, P.J., Systeme des Contradictions Economiques, on Philosophe de la Misere, book I, chap II. (1st ed. 18[46]), (2d ed. 1850). 56 Marx, Capital Book I, Chapter 1.
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC
フリードリヒ・フォン・ヴィーザー
| オーストリア学派 | |
|---|---|
![]() | |
| 生誕 | 1851年7月10日 |
| 死没 | |
| 母校 | ウィーン大学 (Dr. jur. 1872) |
| 博士課程 指導教員 | カール・メンガー[1] |
| 博士課程 指導学生 | フリードリヒ・ハイエク[1] |
| 影響を 受けた人物 | カール・メンガー オイゲン・フォン・ベーム=バヴェルク |
| 影響を 与えた人物 | ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス フリードリヒ・ハイエク ヨーゼフ・シュンペーター |
| テンプレートを表示 | |
フリードリヒ・フォン・ヴィーザー(Friedrich von Wieser、1851年7月10日 - 1926年7月22日)は、経済学者。初期のオーストリア学派の一人。
略歴
- ヴィーザーは戦争省の高官の息子として、ウィーンで生まれた。彼は、最初に社会学と法律を学んだ。彼は、他のオーストリア学派の経済学者として著名なオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクの義理の兄弟だった。
- ヴィーザーはウィーンとプラハの大学で地位を得て、1903年にウィーン大学でオーストリア学派の創始者であるカール・メンガーの後を継ぐまでその地位にいたが、そこで彼は1890年後半から1900年にかけて、ベーム=バヴェルクと共にルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、フリードリヒ・ハイエク、ヨーゼフ・シュンペーター等を含む、オーストリアの経済学者の次の世代を形作った。
- 彼は1917年にオーストリアの商務大臣になった。
業績
主要貢献
- ヴィーザーの2つの主要な貢献は、生産要素の価格は生産物価格により決定される、と主張する「転嫁」の理論、および、価値理論の基礎---新古典主義理論における主観主義者の柱としての「機会費用」理論である。
- これらの考えを発展させる中で、ヴィーザーは限界効用(彼の造語である)の原理に基づく欠乏と資源配分---固定量の資源と限りない欲求---に関する研究へと、新古典主義経済学を確固として方向付けた、との名誉を与えてよいだろう。ヴィーザーの転嫁の理論は、その単純な原理がどこへでも適用されることを可能にした。費用を生産財の先行使用に換算して分析する、というヴィーザーの代替費用(まだ機会費用としては理解されていない)の理論は、アルフレッド・マーシャルの「実質費用」との間で、間もなく矛盾を生ずることになった。
- ヴィーザーは、代替費用の学説と転嫁の理論を注意深く詳述した『自然価値論』("Der natürliche Wert"、1889年)と、それらを現実の世界に適用しようとする意欲的な試みである『社会経済論』("Teorie der gesellschaftlichen Wirtschaft"、1914年)との2つの主著で有名である。
経済計算論争
- 経済計算論争は、経済効率についての厳密な計算を最高に重要とする彼の考えから始まった。価格は、とりわけ市場条件に関する情報を表現し、それゆえいかなる種類の経済活動に対しても必要である。社会主義経済はそれゆえ、稼動する為には価格機構を必要とするであろう。
企業家の重要性
- 彼はまた、経済変化に対する企業家の重要性を強調した。彼によれば、それは「新しい経済の岸への案内人として現れる個々の企業家の英雄的介入」としてもたらされる。この案内人の考えは、後にヨゼフ・シュンペーターによって、経済革新の取り扱いの中で取り上げられた。
自由主義の拒絶
- ほとんどすべてのオーストリア学派の経済学者と異なり、彼は「自由は秩序の体系に取って代わられなければならない。」と書いて、古典的自由主義を拒絶した。
脚注
| [脚注の使い方] |
- ^ a b Mathematics Genealogy Projectを参照。
主要著作
- Über den Ursprung und die Hauptgesetze des wirthschaftlichen Werthes, 1884
- Der natürliche Werth, 1889
- Über Vergangenheit und Zukunft der österreichischen Verfassung, 1905
- Die Theorie der städtischen Grundrente, 1909
- Recht und Macht, 1910
- Theorie der gesellschaftlichen Wirtschaft, 1914
- Deutschböhmens Selbstbestimmungsrecht, in: Rudolf Lodgman von Auen: Deutschböhmen, Berlin 1919
- Österreichs Ende, 1919
- Das geschichtliche Werk der Gewalt, 1923
- Das Gesetz der Macht, 1926
| この項目は、学者に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(PJ:人物伝/P:教育)。 |








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