公債の起源
中世イタリアの都市国家が、 戦争遂行費用を調達する手段として公債を発行。
一一六四年、 ヴェネツィア共和国が、 12 の富裕な一族から借り入れ (最古の公債)。
基金が、 債務支払いの担保である税を管理し、 基金への出資証券の売買が市場を通じて行われる仕組み。
イタリアの都市国家に続き、ネーデルラントやラインラントなど
北部ヨーロッパの都市国家においても、関税や物品税を担保にした
年金公債の発行が行われた。
「ダッチ・ファイナンス」
一六四八年、ネーデルラントの七州が独立を宣言し、ネーデルランド連邦共和国 (オランダ共和国)が成立。
オランダ共和国は、 独立戦争、 オーストリア継承戦争、英蘭戦争、 スペイン継承戦争などを繰り返す中で、
公債が累積したが、 長期金利は低かった。
共和国では、 借り手の国家と貸し手の市民が、 運命共同体
→ 「ダッチ・ファイナンス」
イングランド銀行の創設
一六八八年の名誉革命の際、ホラント州から来て即位したウィリアム三世が、 対仏戦争の戦費調達のため、
「ダッチ・ファイナンス」を導入し、 一六九二年、国債に関する最初の法律が成立。
一六九四年、 対仏戦争の戦費調達のため、 イングランド銀行を創設。
イギリス政府は、イングランド銀行に、 銀行券発行業務の独占を認め、イングランド銀行券と同行の預金債務を徴税の支払い手段として受け入れることとした。
→イングランド銀行券=「国民通貨」
金融革命
度重なる戦争で、 イギリスの国債が大量に発行され、国債を取引するための金融市場が発達 ( 「金融革命」)。
→ 「金融革命」 が 「産業革命」 を準備
オランダ共和国は、 各州の議会に徴税権があったが、連邦政府の徴税権は著しく制限され、連邦共和国として国債を大量発行できず。イギリスは、 統一国家であったため、国債の大量発行が可能。
→イギリスがオランダとの覇権戦争に勝利
意図せざるマクロ経済政策
イギリスは、フランス革命後の対仏戦争により、公債の大量発行 (3600万ポンド (1798年)→8億ポンド (1815年))
→積極財政
フランスが金を国内に流入させる政策をとり、イングランド銀行が保有する金が急減。
一七九七年、「銀行制限法」によって、 イングランド銀行券と金の換を停止 (一八二一年まで) し、 イングランド銀行券を増発。
→金融緩和
イギリスは、 一七九○年から一八一五年までの間、年率2.25%の経済成長
大英帝国の覇権
ナポレオンは、 公債の発行を不道徳とみなし、赤字財政も不換紙幣の発行も拒絶。 戦費調達のため、 侵略を繰り返し、疲弊。
→イギリスが、フランスとの覇権戦争に勝利
イギリスは一七六〇年から一八六〇年の百年間、累積政府債務が国民総生産の100%を下回る事がなかった。
十九世紀前半には300%にまで達したが、財政破綻せず、 逆に、大英帝国の最盛期を謳歌。
地金論争
一七九七年~一八二一年、 金兌換が停止され、 紙幣増発。
同時期に、 インフレが勃発したため、 その原因を巡って論争。
地金主義者: インフレの原因は、金の裏付けのない紙幣の増発
反地金主義者 : インフレの原因は、 戦争など、 貨幣以外の要因
地金主義者が優勢となり、 一八二一年、 金兌換再開。
しかし、その後、 金融恐慌が発生。
通貨論争
金融恐慌の周期的な発生により、 一八四〇~四一年、イングランド銀行の銀行券供給方法を巡り、 論争が勃発。
通貨学派 : インフレの原因は、 通貨発行の過剰
銀行学派: 通貨は需要に応じて発行されるので、 通貨の過剰発行はあり得ない (トーマス・トゥック)
通貨学派が勝利し、 一八四四年ピール銀行法が成立し、厳格な金兌換制度を導入。
しかし、金融危機により、 金兌換を三度も停止。








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