2022年12月9日金曜日

MMT勉強してて、信用貨幣論ってワードが出てきたんですけど、簡単に... - Yahoo!知恵袋

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MMTの「信用貨幣」というのは、紙切れに価値があると思う、じゃないです。硬貨の素材が金銀だろうと、穀物だろうと、絹織物だろうと、貨幣は信用貨幣なのであり、商品が貨幣になったことは一度もない、という話です。 金貨や銀貨も信用貨幣なのだけれど、その素材が金銀で出来ているに過ぎない。「貨幣」と、その素材の「金銀」ははっきり区別しなければならない。貨幣というのは、金銀の素材の上に刻印された「数字」(あるいは表面に数字が刻まれていなくても、布告などによって定められた数字)のことであって、金銀といった素材はせいぜいその担保として役立つに過ぎない、というのがMMTの主張です。この点は、実はレイの金ぴか本の中では序文で(言い方は違いましたが)言及されているのですが、残念なことにそのすぐ後に訳者注釈で、本書ではこの区別には実際には意味がない、と付記されてしまい、分りにくくなっています。 MMTが言っているのは、貨幣物(支払い手段として流通しうるもの)は誰にでも発行できるのだけれど、それを受取ってもらうためには、それを受け取ることのメリットを明示し、そして受け取った人がそのメリットを確実に受けられるように発行者自身が約束しなければならない、約束を果たすべく責務を担う、というものです。これが「債務を負う」ということです。ですから貨幣は経済活動のあらゆる次元で発行されているのですが、これらは現代的には「負債」という形をとるわけです。 例えば日本では、多くの企業が仕入をするときには、現金で支払うことはなく「手形(電子記録債務)」を振出して支払っています。手形自体は、支払日を延期する債務証書に過ぎません。ですが、「〇月〇日に○○円支払う」ということが確実なら、この手形は、業者の間そを、まるで紙幣のように支払い手段として流通します。あるいはこうした「手形」を受けっとった業者や銀行が、それを原資産(担保)として、自分自身で手形を再発行することもあります。 国家も同様で、国家は昔から自ら金貨や銀貨といった貨幣物(トークン)を発行して資材や労働力を調達していました。ただし国家は、ビジネスと異なり、具体的な対価なしに地域住民に債務を負わせることが出来ます。罰金や人頭税、租税などがそれです。国家のトークンを受取った地域居住者は、このトークンを政府に提出することで、罰金や人頭税、租税等の債務を償還できました。つまり政府は、一方でトークンを発行し、実物資源を徴用することで地域居住者に債務を負い、他方で、課税をすることで地域居住者に対して債権を有することになるので、それらを相殺することで、相互の債務の償還を行っているわけです。 MMTにとって、この「信用貨幣」観が重要なのは、以下の理由です。 古代オリエント・中世ヨーロッパの歴史を通じて、国内の貨幣単位が統一されていた時代はほとんどない。近代に入ってすら、例えばアメリカでは1913年に連銀が設立されるまで(正確には、その少し前の時代に連邦財務省が全国にまたがる準備銀行的な役割を果たすようになる前まで)、国内には複数のドル通貨(シカゴドル・ニューヨークドルなど)が流通していた。そのため通商の発展が妨げられていたのみならず、中央銀行に今でいう「最後の貸し手」としての機能を期待するすべもなかった(もっともこの時代は金本位制ですから、もとよりそのようなことを期待すべくもなかったのですが)。現代においては、政府がある特定の準備銀行に唯一の政府口座を開設し、主要な出納をすべてその口座で一元的に行うようにすることで、「中央銀行」が機能するようになり、それによって国債の全トークンの価値評価の単位が一元化され、そうすることによって中央銀行は「最後の貸し手」として機能することが出来るようになり、そして政府は国内で売りに出されているものなら何でも購入できるようになる、 と、MMTはそう考えている、それゆえ、信用貨幣論が重要になります。 標準的な経済学の商品貨幣観では、最も貨幣にふさわしい商品が選ばれると、国内の他の商品価格は自動的にその商品との交換比率で表現されるようになる。この段階ですでに国内の商品は単一の貨幣単位により価格が表現されることになる。信用貨幣とは、商品の代わりに中央銀行が、あたかもその商品そのものを供給するかのようにふるまうことで国民の信任を得ている、ということに過ぎません。しかし、いったい中央銀行になぜそんな魔法のような力があるのかは、全く説明されません。 MMTは、歴史的に言って、通貨単位が統一されるようになるのは、歴史的にそんな古いことではないし、それは政府や民間の銀行・ノンバンクの間の複雑なシステムの結果として成立している、としています。政府が発行する単一の「お金」があるわけではなく、民間の発行する様々な負債が「お金」として流通しているのだけれど、その債務を表現する数字の単位(「貨幣」)が統一されているものだから、その違いになかなか気が付かないようになっている。特に銀行預金のように、中央銀行や政府が特別に保護しているものだと、民間の私企業が発行する債務(銀行預金通貨)と政府(中央銀行)の発行する通貨(紙幣)の間の区別を意識することがほとんどできないようになっている。実際には、各種負債、手形やCP、クレジットカード債務などの「債務」は銀行預金通貨により決済され(それゆえ、これらの額面価値は銀行預金通貨によって定義される)、そして銀行預金通貨は準備通貨によって決済され、そして準備通貨は預金者自身の租税債務との相殺によって償還される。つまり最終的には、準備通貨が租税を納付する単位であることによって、銀行の負債の単位が定義され、そして銀行の負債の単位によってノンバンクや一般企業の負債の単位も定義されている。こうした諸債務間のヒエラルキーが構成されている、というのが、MMTの言う信用貨幣制度の意味です。 まあ、文脈で違うでしょうから、よく読んでみてください。日本ではよく、「MMTは金本位制後の信用貨幣制度時代に当てはまる」などと言っている人がいますけれど、それはウソ。MMTが言っているのは、金本位制だろうと、金銀が通貨として流通していようと、貨幣はすべて信用貨幣だ、ということです。 また、よくMMTの主張として、「主権国家の発行する国債は破綻しない」なんて言っている人もいますけれど、これもウソ。MMTが言っている「主権」Sovereign というのは、内に向かっては「最高の」「最上の」、外に向かっては「独立している」ということで、結局、上記の「債務ヒエラルキー」の頂点にある、という意味です。国家が政治的に主権を持っているかどうかは関係ない。ユーロ圏のように共通通貨を利用すれば、その国の政府はMMTの言う通貨主権を放棄したことになる。政府の発行する債務(ベースマネー)がこうした債務ヒエラルキーの頂点にある場合は、政府債務は、経済金融上の理由で破綻することはない、なぜなら、こうした債務はただ租税との相殺によってのみ償還されるからだ、ということです。こうした政府は自縄自縛的法的制約を除いて破綻することはないし、発行量(残高ではない)も、実物資源によって制約されるだけだ、という話です。


MMT勉強してて、信用貨幣論ってワードが出てきたんですけど、簡単に言うと

「MMTを勉強していたら出てきた、、」というお話ですが、それだけでは文脈がわからないので、何とも言えないんですが、、、 ご質問を読む限りでは、そこで出てきた「信用貨幣」はMMTが言う「信用貨幣」ではなく、標準的経済学で言われているもののような感じですね。 MMTではなく、標準的な経済学では、信用貨幣とは、、、 貨幣はもともと商品のはず(数ある商品の中から、交換の仲立ちとして最もふさわしいものが、自然と「貨幣」になってゆく)なのに、商品として実態がない紙切れが貨幣として流通するのは何故か、という形で推論が進み、そこで「紙きれの紙幣は信用によって流通する」という言い方をします。 その場合「信用」というのは、「商品」という貨幣の根拠がなくなってしまった空隙を埋めるだけの無意味な言葉です。特に「負債だ」ということではなく「それを受取る人が中央銀行のことを信用しているからだ」という意味での「信用」です。 まあ紙幣が中央銀行の「負債」だということ自体はいいんですけれど、それには実質的な意味はない。なぜなら、中央銀行に紙幣を持って行って「これはお宅の負債なんだから、償還してください」といったところで、他の紙幣に取り換えてくれるだけだ。したがって、「負債」という言葉には事実上意味がない。では、中央銀行の、いったい何を信用しているのか、というと、、、、、実はそれはよくわからない。貨幣の謎だ。これが標準的な経済学の構造です。 いったいなぜ、国民がそんなに中央銀行を「信用」しているのか――なんせ「最後の貸し手」として好きなだけ不良資産を購入しても、その信用は揺るがないほど強固に信用している――、それはわからない。ところがその一方で、政府が中央銀行に国債を直接引き受けさせるや否や、途端に「信用」が失われ、ハイパーインフレに陥る、、、そんな摩訶不思議な言葉です。これは「科学的」な経済学では自明の理ということになっていて、いまだに多くの「経済学者」達が、このテーゼを信奉しています。 ここまでは標準的なエコノミストが言う「信用貨幣」であって、MMTはこれを批判していることになります。 MMTの「信用貨幣」というのは、紙切れに価値があると思う、じゃないです。硬貨の素材が金銀だろうと、穀物だろうと、絹織物だろうと、貨幣は信用貨幣なのであり、商品が貨幣になったことは一度もない、という話です。 金貨や銀貨も信用貨幣なのだけれど、その素材が金銀で出来ているに過ぎない。「貨幣」と、その素材の「金銀」ははっきり区別しなければならない。貨幣というのは、金銀の素材の上に刻印された「数字」(あるいは表面に数字が刻まれていなくても、布告などによって定められた数字)のことであって、金銀といった素材はせいぜいその担保として役立つに過ぎない、というのがMMTの主張です。この点は、実はレイの金ぴか本の中では序文で(言い方は違いましたが)言及されているのですが、残念なことにそのすぐ後に訳者注釈で、本書ではこの区別には実際には意味がない、と付記されてしまい、分りにくくなっています。 MMTが言っているのは、貨幣物(支払い手段として流通しうるもの)は誰にでも発行できるのだけれど、それを受取ってもらうためには、それを受け取ることのメリットを明示し、そして受け取った人がそのメリットを確実に受けられるように発行者自身が約束しなければならない、約束を果たすべく責務を担う、というものです。これが「債務を負う」ということです。ですから貨幣は経済活動のあらゆる次元で発行されているのですが、これらは現代的には「負債」という形をとるわけです。 例えば日本では、多くの企業が仕入をするときには、現金で支払うことはなく「手形(電子記録債務)」を振出して支払っています。手形自体は、支払日を延期する債務証書に過ぎません。ですが、「〇月〇日に○○円支払う」ということが確実なら、この手形は、業者の間そを、まるで紙幣のように支払い手段として流通します。あるいはこうした「手形」を受けっとった業者や銀行が、それを原資産(担保)として、自分自身で手形を再発行することもあります。 国家も同様で、国家は昔から自ら金貨や銀貨といった貨幣物(トークン)を発行して資材や労働力を調達していました。ただし国家は、ビジネスと異なり、具体的な対価なしに地域住民に債務を負わせることが出来ます。罰金や人頭税、租税などがそれです。国家のトークンを受取った地域居住者は、このトークンを政府に提出することで、罰金や人頭税、租税等の債務を償還できました。つまり政府は、一方でトークンを発行し、実物資源を徴用することで地域居住者に債務を負い、他方で、課税をすることで地域居住者に対して債権を有することになるので、それらを相殺することで、相互の債務の償還を行っているわけです。 MMTにとって、この「信用貨幣」観が重要なのは、以下の理由です。 古代オリエント・中世ヨーロッパの歴史を通じて、国内の貨幣単位が統一されていた時代はほとんどない。近代に入ってすら、例えばアメリカでは1913年に連銀が設立されるまで(正確には、その少し前の時代に連邦財務省が全国にまたがる準備銀行的な役割を果たすようになる前まで)、国内には複数のドル通貨(シカゴドル・ニューヨークドルなど)が流通していた。そのため通商の発展が妨げられていたのみならず、中央銀行に今でいう「最後の貸し手」としての機能を期待するすべもなかった(もっともこの時代は金本位制ですから、もとよりそのようなことを期待すべくもなかったのですが)。現代においては、政府がある特定の準備銀行に唯一の政府口座を開設し、主要な出納をすべてその口座で一元的に行うようにすることで、「中央銀行」が機能するようになり、それによって国債の全トークンの価値評価の単位が一元化され、そうすることによって中央銀行は「最後の貸し手」として機能することが出来るようになり、そして政府は国内で売りに出されているものなら何でも購入できるようになる、 と、MMTはそう考えている、それゆえ、信用貨幣論が重要になります。 標準的な経済学の商品貨幣観では、最も貨幣にふさわしい商品が選ばれると、国内の他の商品価格は自動的にその商品との交換比率で表現されるようになる。この段階ですでに国内の商品は単一の貨幣単位により価格が表現されることになる。信用貨幣とは、商品の代わりに中央銀行が、あたかもその商品そのものを供給するかのようにふるまうことで国民の信任を得ている、ということに過ぎません。しかし、いったい中央銀行になぜそんな魔法のような力があるのかは、全く説明されません。 MMTは、歴史的に言って、通貨単位が統一されるようになるのは、歴史的にそんな古いことではないし、それは政府や民間の銀行・ノンバンクの間の複雑なシステムの結果として成立している、としています。政府が発行する単一の「お金」があるわけではなく、民間の発行する様々な負債が「お金」として流通しているのだけれど、その債務を表現する数字の単位(「貨幣」)が統一されているものだから、その違いになかなか気が付かないようになっている。特に銀行預金のように、中央銀行や政府が特別に保護しているものだと、民間の私企業が発行する債務(銀行預金通貨)と政府(中央銀行)の発行する通貨(紙幣)の間の区別を意識することがほとんどできないようになっている。実際には、各種負債、手形やCP、クレジットカード債務などの「債務」は銀行預金通貨により決済され(それゆえ、これらの額面価値は銀行預金通貨によって定義される)、そして銀行預金通貨は準備通貨によって決済され、そして準備通貨は預金者自身の租税債務との相殺によって償還される。つまり最終的には、準備通貨が租税を納付する単位であることによって、銀行の負債の単位が定義され、そして銀行の負債の単位によってノンバンクや一般企業の負債の単位も定義されている。こうした諸債務間のヒエラルキーが構成されている、というのが、MMTの言う信用貨幣制度の意味です。 まあ、文脈で違うでしょうから、よく読んでみてください。日本ではよく、「MMTは金本位制後の信用貨幣制度時代に当てはまる」などと言っている人がいますけれど、それはウソ。MMTが言っているのは、金本位制だろうと、金銀が通貨として流通していようと、貨幣はすべて信用貨幣だ、ということです。 また、よくMMTの主張として、「主権国家の発行する国債は破綻しない」なんて言っている人もいますけれど、これもウソ。MMTが言っている「主権」Sovereign というのは、内に向かっては「最高の」「最上の」、外に向かっては「独立している」ということで、結局、上記の「債務ヒエラルキー」の頂点にある、という意味です。国家が政治的に主権を持っているかどうかは関係ない。ユーロ圏のように共通通貨を利用すれば、その国の政府はMMTの言う通貨主権を放棄したことになる。政府の発行する債務(ベースマネー)がこうした債務ヒエラルキーの頂点にある場合は、政府債務は、経済金融上の理由で破綻することはない、なぜなら、こうした債務はただ租税との相殺によってのみ償還されるからだ、ということです。こうした政府は自縄自縛的法的制約を除いて破綻することはないし、発行量(残高ではない)も、実物資源によって制約されるだけだ、という話です。

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