2022年1月2日日曜日

統計図書館 福沢諭吉と大隈重信

統計図書館コラム【人物編】№0001
福沢諭吉

奥積雅彦(総務省統計研究研修所教官)

福沢諭吉

ふくざわゆきち(1835〜1901) MENU

1

福沢諭吉が大隈重信にスタチスチックの仲間らを推薦した書簡について
2

福沢諭吉は、なぜStatistics を政表と訳したのか

3
ベストセラー作家・福沢諭吉の著書における統計の用例


統計図書館コラム【人物編】№0001  福沢 諭吉 奥積雅彦(総務省統計研究研修所教官) 福沢 諭吉  ふくざわ  ゆきち (1835…

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なお、大隈侯八十五年史第 1 巻(大隈侯八十五年史編纂会、 こうし
【参考資料】、【写真】:国立国会図書館HP「近代日本人
の肖像」 大正 15 年(1926 年)出版)第 5 章「(4)国勢調査の嚆矢」
によれば、「君(大隈)は、明治 13 年(1880 年)初頭の頃、福沢諭 吉に向かって、統計の必要について語り、慶應義塾の秀才が、 統計研究に力を致すよう希望し、福沢もまた君の意を了とし て、統計学の進歩に寄与しようとした。蓋し同塾の新人中に は統計の必要を知り同志時々会して研究していたものもあ ったと見える。それらの事は、福沢が君に呈した手紙に明白 である。」とされています。



前述のとおり、大隈重信は大蔵省の立場で、正確な統計の
必要を感じ、アメリカのような統計ビューロー(統計局)の 組織の創設について福沢に相談していた可能性も考えられ ます。ちなみに、Bureau について、幕末から明治初期に出版 された英和辞書をみると、調べた範囲では、明治 6 年出版の 英和字彙で「局」の訳字が初めて登場しています。
大隈は福沢に統計ビューロー(統計局)の中心的役割を担 うことが期待される人材の推薦を依頼し、福沢はこれを受け て「是ハ統計局の人」と注記したのではないかと推察するこ ともできるのではないかと考えられます。

4 大隈の統計院設立構想と統計観

大隈重信は、明治14 年(1881年)に統計院の設立を建議し、自ら院長に就任しましたが、その2年前の福沢書簡は、大隈の統計院設立構想に何らかの影響を与えたのかもしれません。 大隈の統計院設立構想と統計観については、明治31年の統計懇話会における大隈の演説6から読み取ることができます。それによれば

「・・・熱心なる杉君なりその当時人口を調査して一つ・・・行ってみようと言うので、試験として甲斐国一国をやったその時の勢いでいけばよほど疾に進まねばならぬ。それから、(統計は 、)とても大蔵省ではいかぬ。十分強い権力をもってやらなくちゃどうしても各省各箇でもってやるようなことではいかぬ、何と任じても大蔵省だけではいかぬ、そこで中央に統計院を拵こしら えて・・・一つの大きな組織でやるとなったものだから・・・自分(大隈)の道楽のことには大きなことをやるというので余程攻撃を受けました。しかし、これは決して道楽ではない。・・・統計院それから会計検査院二つを拵えた。十分中央に権力を集めて行政の整理をこれから行っていこうという企て、政略と真に統計を進歩させようという二つのものが結びついて地位の高いものを拵えた。・・・」

としています。さらに、

「・・・議論で国政をやっていく 政治も社会も学術も悉く議論である、その議論の根拠には何を以てして行くかと云ふと是非一つの学理から拠る所のものがなければならぬ、あるいは漠然たる理想、漠然たる想像これだけでは一向議論の根拠がかたくない、段々議論が進んでいくにしたがって議論を決するものは一つの証拠である、・・・この問題は何で決するか ここに拠るべき統計があるか、ないかである」

と論じ、大隈はEBPM(事実・根拠に基づく政策立案)の視点でも統計をみていることは現代にも通用することであると言えます。福沢の「学問のすすめ」、「文明論之概略」などの著書でも統計の重要性が論じられており、大隈と福沢の統計観については二人の間で共通する部分があったと考えられます。

5 福沢書簡がもたらしたもの

福沢書簡の現代文への書き下ろしについては、必ずしも微妙なニュアンスを踏まえた解説を加えるレベルには至らなかった面があることは否めませんが、福沢書簡の大意はある程度理解できました。 福沢書簡からも、明治初期に大隈重信と福沢諭吉の二人の偉人の交遊関係がいかに政府統計の発達(国勢調査の実現などに貢献した統計結社の創設、統計院設立)のための原動力になったかをうかがい知ることができると思います。


【参考】
福沢諭吉の著書における「統計」に係る用語の具体的な掲載内容 福沢諭吉の著書における「統計」に係る用語の具体的な掲載内容の一部を紹介します。 注:【】は国立国会図書館デジタルコレクションの該当頁のコマ (1)「分権論」 明治10年(1877年)出版の「分権論」で「統計表」、「スタチスチック」が用いられており、調べた範囲では、福沢諭吉の著書で最初に「統計」の用語が登場しています。 ●「分権論」で「統計表」、「スタチスチック」が用いられている箇所 【60コマ】 附 録 一 本編は地方分権の大略を論じたるものなれども、分権の議論あれば分財の議論も亦なかるべからず。蓋し権と財とは大概その通行の路を共にして、権の集る所には財も亦集り、権の分るゝ所には財も亦共に分るゝものなり。故に今別に一編の分財論を著して、始めて本編の意を全うすべしと雖ども、理財の事を吟味するには、先ず統計表の詳なるものなかるべからず。即ち西洋に所謂「スタチスチック」是なり。然るに旧幕府の時代、固(もと)よりこの表を記したるものあらざれば、今日に在ては博く諸書を詮索して、先ず之を統計表の形に作り、その表を以て理財の本義に照合して、始て分財、集財の得失をも明にすべきことなれども、その事業を企てんとするも、数月の労を以て能すべきに非ず。加之維新以来の政府の会計とても、その細密なる精算を知るべからざれば、止を得ず分財の議論は之を他日に譲り、唯この議論に就き我輩が目的とする所の吟味の趣向を示すこ左の如きのみ。今日にても世上有志の士に、この吟味の路を得てよくその力を尽し、国財分集の利害得失を明〔に〕する者あらば、独り余輩の悦ぶのみならず、社会一般の大幸と云うべし。 (2)「民間経済録」 明治10年(1877年)出版の「民間経済録 初編」において、明治初期の総合統計書である太政官調査局「明治7年日本政表」(警察の部)における3府60県の明治7年中の盗賊の害に係る統計が引用されています。調べた範囲では、福沢諭吉の著書で最初に総合統計書の統計データが引用されています。 ●「民間経済録」で明治7年中の盗賊の害に係る統計データが引用されている箇所 【初編42コマ】 既に日本に於ても明治七年中の統計に拠れば、三府六十県にて盗賊の害を蒙りたること左の如し。 殺されし人 八十六人 疵付られし人 二百八十五人 追剥、追落しに遇いし人 四百八十二人 押込に遇いし家 三千二百〇一戸 窃盗に遇いし家 九万〇四百五十八戸 附火にて焼かれし家 六百十二戸 (3)「通貨論」 明治11年(1878年)出版の「通貨論」で、明治元年~同4年の外国米の輸入に係る統計データが引用されています。そのデータは、東洋経済新報社「日本貿易精覧」輸入品表の「米及び 麹」のデータと同じ情報源とみられます。 なお、「統計局の表」の「統計局」については、当時の政府にその名称の組織は存在しないなど、はっきりしない面もあります。 ●「通貨論」で外国米の輸入に係る統計データが引用されている箇所 【19コマ】 統計局の表に拠れば、明治元年、外国米の輸入二千〇九十七万七千二百十斤、代価四十三万五千九百五十五円、同二年、輸入一億六千二百〇七万千三百二十三斤、代価四百四十三万千八百八十六円、同三年、輸入五億三千七百七十一万〇七百五十六斤、代価千四百五十九万八千百十四円、同四年、輸入四千百九十五万七千八百六十斤、代価百二十六万〇百七十八円なりと云う。 (4)「全国徴兵論」 明治17年(1884年)出版の「全国徴兵論」では、「統計年鑑」(明治15 年出版)の明治13年人口が引用され、徴兵の対象となる20歳以上50歳未満の男子人口(母数)を推計しています。 ●「全国徴兵論」で「統計年鑑」の明治13年人口が引用されている箇所 【8コマ】 故に寧ろ免役料の名に代るに兵役税の文字を以てして全国の男子唯皇族を除くの外一名も免すことなく生れて二十歳に至れば三ヶ年の間身躬から役に服する歟、然らざれば三ヶ年の問兵役税を納めしめて其常備軍役を免すること公平至当の法ならんと信ず右の主義果して公平至当ならば其実施の法を案ずるに統計年鑑明治十三年人口の調に全国の男子二十年以上五十年未満の者七百五十八万五千百三十八名とあり之を三十分して其割合は少者の方多かるべきが故に満二十年の者は大数二十六万と仮定・・・(以下略) (5)「福翁百話」 明治30年(1897年)出版の「福翁百話」では、「統計」の用語が用いられ、統計の重要性を説いています。特に、「苟いやしくもこの統計全体の思想なき人は共に文明の事を語るに足らざるなり。」とまで断じていることからも、福沢の統計に対する熱い思いが伝わってきます。 ●「福翁百話」で「統計」が用いられている箇所 【161コマ】 人間社会の進歩とは凡そ右等の事情にして誠に分り切ったることなるに、彼の尚古論者が兎角古風に恋着して前進の道を知らざるこそ奇態なれ。啻に前進を知らざるのみならず、時として之を妨るに至る。その愚は殆んど測るべからざるに似たれども、元来彼輩の思想は至極簡単にして、殊に数字統計の何物たるを知らず、単に和漢の歴史を通読して往々自分の心に感じたる所を記憶し、是れは善し其れは悪しと判断を下して局部の善悪に眼を注ぎ、眼孔豆の如くにして全面の利害を視るの明なきが故に、知らず識らずして自から迷の淵に沈むことなり。 【162コマ】 文明進歩の目的は国民全体を平均して最大多数の最大幸福に在るのみならず、その幸福の性質をして次第に上進せしむるに在り。歴史百千年の前後を比較してこの幸福の数果して増したるや減じたるや、幸福の性質上進したるや低落したるや、即ち是れ統計の数字に見るべき所にして、我輩は断じてその増進を明言して尚ほ未来の望を抱く者なり。苟もこの統計全体の思想なき人は共に文明の事を語るに足らざるなり。




正編と続編の間に変化?


『民間経済録』初篇は明治10(1877)年 


「僅かに租税を払ふて一国に政治の仕組を設け、幾千万の人民が日夜出入共に身の安心を買ふは、価の高きものと云う可らず」と述べ、政府の財政的基盤として租税の重要性を指摘しています。  15、6 歳の初学者を対象に書かれた


『民間経済録』初篇の続編として、明治13(1880)年に『民間経済録』二篇






ただし、
文明論之概略』(ぶんめいろんのがいりゃく)初版は、1875年(明治8年)8月20日に刊行。全6巻10章より成る。

大隈重信と福沢諭吉の国債共闘は1878年から?邂逅は1873年



 メール情報が飛び交うのは、それだけ人々の心が揺れているからだ。このような場合、われわれはどう心の動揺を抑えたらよいのか。一つのエピソードがある。1868(慶応4)年5月、新政府軍と旧幕府側の彰義隊が上野で戦闘を開始した。慶応義塾を創設した福沢諭吉はこのころ、芝新銭座の有馬家中屋敷(現在の東京都港区浜松町1丁目)で英語塾を開講(のちに慶応義塾)していた。福沢は、噴煙があがるのを見ながらも、塾を休むことなく、塾生たちに英書『ウェーランドの経済書』を講義した。

ウェーランド1868
バックル1875


●福沢諭吉(1835〜1901)

《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と

紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには

異論のさしはさむ余地はない》  『通貨論』1878年より

小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)より

原文は福沢諭吉著作集〈第6巻〉民間経済録・実業論所収。



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市島謙吉編﹁大隈家収蔵文書﹂︵抄録︶ 下 - 早稲田大学

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M11

1878

27頁

#31

大隈先生侍史福沢諭吉

尚以内国債之公告も出たり。この事に付而も新聞紙抔へ229氏明細書差出候様御文通、則別紙之通りに御座候。兼而申上候如く同人は一方に身を委て従事する積り、就而は御雇よりも本官之方志願に御座候。其辺も御含置奉願候。但し是は唯々御都合に任するのみ。右要件而已申上度。早々頓首七月八日大隈先生侍史福沢諭吉論し度ケ条も有之、本文矢野なれば筆は十分に立



国債論争で共闘した





https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/354/1/SZK0002726_20040929063121739.pdf


温 故 知 新 静岡県立中央図書館所蔵の貴重書紹介(50) 平成14年7月1日 幕末・明治初期の経済書(その4) 福沢諭吉  『民間経済録』(K086/12、331/132、330.4/フク)  『民間経済録』は福沢諭吉が初めて著した経済書です。これ以前、福沢はチェンバーズ編の『Political   Economy  ,  for   Use  in   Schools,  and   for   Private   Instruction  』の前半部、ウェーランド著の『The  Elements   of   Political   Economy』の第4編第3章の公的消費論(福沢訳では収税論)を翻訳し、それぞれ『西洋事情外篇』(慶応4(1868)年刊行)と『西洋事情二篇』(明治3(1870)年刊行)に収録し出版しています。また、『西洋事情外篇』ではチェンバーズの後半部を訳出しなかった理由として、神田たかひら孝平訳の『経済小学』(原著はウイリアム・エリス著『Outlines   of   Social  Economy』)と内容がほぼ同じであることを挙げており、同書を読了していることがわかります。上記の外国語の経済書はいずれも古典派経済学のテキストです。幕末・明治期の啓蒙的知識人である福沢諭吉が、こうした輸入学問をどう捉え、展開したのかを知る手がかりのひとつとして『民間経済録』は興味深くあります。  『民間経済録』初篇は明治10(1877)年に刊行されました。その序には、ベストセラーとなった『学問のすゝめ』の刊行について唯一遺憾に思うのは「其毎編の所論、連絡なきが為に、或は読者の誤解を致す可きやの一事なり」であり、そのため初学者用に経済学のテキストを書くことにしたと記されています。また、学問が嫌いにならないように、世俗とかけ離れた内容を避け、字も文章もやさしく書いた、とあります。さらに、本文の各ページ上部には確認用の小問が多く用意されいて、復習しやすいように、学習者の立場に立った工夫がなされています。  『民間経済録』初篇は10章から構成されます。「第3章  倹約の事」「第4章  正直の事」「第5章  勉強の事」などは、一見、経済理論とは関係のない項目のように思われますが、福沢は「経済に大切なるものは、智恵と倹約と正直と、此三箇条なり」と考え、経済活動においてこれらの徳目が重要であることを説明しています。


「第6章 通用貨幣の事」には面白い例話が使われています。


なめりかわ滑川に落とした10文の銭を拾うために50文の賃金を払って人足を雇ったあおと青砥さえもん左衛門の話です(この話は『太平記』の巻第35に書かれており、『太平記』では50文を払い、銭を探すためのたいまつを買っています)。福沢はこれを40文の社会的損である、と断じていますが、1930年代に登場するケインズ経済学では、この行為は有効需要を創出するので社会にとって有益となります。


第9章、第10章では政府や租税のことが書かれています。『民間経済録』初篇が刊行された明治10(1877)年は西南戦争が勃発し、政治的にも経済的にも混乱をした時代です。こうした状況の中で福沢は火付盗賊など具体例を示しながら治安、司法、国防、外交など政府の役割と必要性をわかりやすく解説しています。そして、


「僅かに租税を払ふて一国に政治の仕組を設け、幾千万の人民が日夜出入共に身の安心を買ふは、価の高きものと云う可らず」


と述べ、政府の財政的基盤として租税の重要性を指摘しています。  15、6 歳の初学者を対象に書かれた『民間経済録』初篇の続編として、明治13(1880)年に『民間経済録』二篇(330.4/フク 当館所蔵は明治14年刊)が刊行されます。


初篇が家計を中心に据えた身近かな家庭経済学であったのに対し、二篇は、初篇を学習した18、9歳を読者に想定し、保険、銀行、運輸交通、公共事業、国家財政など、より視野の広い公共経済学、 社会経済学が講じられています。  【参考文献】 『福沢諭吉の経済思想』(331.2/173) 『福沢諭吉全集』第4巻(081.6/フ1) 


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統計図書館コラム【人物編】№0001  福沢 諭吉 奥積雅彦(総務省統計研究研修所教官) 福沢 諭吉  ふくざわ  ゆきち (1835〜1901) MENU 1  福沢諭吉が大隈重信にスタチスチックの仲間らを推薦した書簡について 2  福沢諭吉は、なぜStatistics  を政表と訳したのか 3  ベストセラー作家・福沢諭吉の著書における統計の用例 


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 奥積雅彦(総務省統計研究研修所教官) 福沢 諭吉  ふくざわ  ゆきち (1835〜1901) 

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1  福沢諭吉が大隈重信にスタチスチックの仲間らを推薦した書簡について 

2  福沢諭吉は、なぜStatistics  を政表と訳したのか 

3  ベストセラー作家・福沢諭吉の著書における統計の用例 


明治の代表的な啓蒙思想家。父は中津藩士で、福沢が生まれた当時は大阪の蔵屋敷詰であった。父の死後中津に戻り、白石常人に師事し、その後大阪に出て、緒方洪庵に蘭学を学ぶ。万延元年(1860)から慶応 3 年(1867)にかけて幕府の遣欧米使節に3度参加し、『西洋事情』等の著作を通じて欧米文化を紹介した。その頃に『万国政表』(世界統計年鑑に相当)の翻訳を行っていましたが、渡米することになったため、その翻訳を岡本博卿(古川節蔵の著名で著作)に引き継ぎ、帰国後に校閲して(1860 年に)刊行しました。慶應4年1868年)慶応義塾を創設。明治以降官職に就かず、位階勲等を受けなかった。『学問のすすめ』(1872)、『文明論之概略』(1875)など多数の著作を発表した。 【参考資料】、【写真】:国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」 【参考情報】 三田評論2020年6月号で「福澤諭吉と統計学」が特集されています。 ・特集記事の一覧 https://www.keio-up.co.jp/mita/202006/ 1  福沢諭吉が大隈重信にスタチスチックの仲間らを推薦した書簡について (本稿は総務省統計局HP「統計図書館ミニトピックス№3」を基に作成) 


1  明治12年1月に福沢諭吉が大隈重信あてた書簡 福沢諭吉と大隈重信の出会いは、明治6年(1873年)になります。それまで、お互いに食わず嫌い、犬猿の仲と思っていましたが、会ってみたら意気投合し親密な関係となったようです。

1 明治12年1月の福沢諭吉が大隈重信あてた書簡(以下「福沢書簡」といいます。)の内容と現代文へ書き下ろしたものは、別記のとおりです。それによると、福沢は「慶應義塾」塾員ら13 名を「スタチスチックの仲間」として推薦しています。ほかに、杉亨二、新井金作、呉文聰を「是ハ統計局の人」として書き添えています。これが何のために書かれた書簡であったかははっきりしませんが、当時、福沢諭吉と大隈重信がスタチスチク(統計)に関することで密に交流していたことがうかがわれます。 ちなみに、この書簡に名を揚げられた16名のうちの13名は、前年の明治11年12月に創設された製表社(のちの東京統計協会)の創立メンバーでもありました(表参照)。西川俊作「統計学-福澤諭吉から横山雅男へ」によれば、この書簡を「製表社・・・を結成した慶応義塾の「スタチスチクの[研究]仲間」のリストを添えて、政府に統計院を設けるよう大隈重信に慫慂した」(最初に指摘したのは横山雅男である)としています。ただ、そのような解釈を裏付ける資料を確認することはできませんでした。大隈から福沢に人材の推薦を依頼し、それを受けて福沢が人材をリストアップしたのがこの書簡であると解することもできると考えられます。 なお、大隈侯八十五年史第1巻(大隈侯八十五年史編纂会、大正15 年(1926 年)出版)第5章「(4)国勢調査の嚆矢こうし」によれば、「君(大隈)は、明治13年(1880年)初頭の頃、福沢諭吉に向かって、統計の必要について語り、慶應義塾の秀才が、統計研究に力を致すよう希望し、福沢もまた君の意を了として、統計学の進歩に寄与しようとした。蓋し同塾の新人中には統計の必要を知り同志時々会して研究していたものもあったと見える。それらの事は、福沢が君に呈した手紙に明白である。」とされています。



2 福沢書簡の年次とその時代 

伊藤廣一「統計歴史散歩」21頁によれば、福沢諭吉が大隈重信あててスタチスチック仲間を推薦した書簡について、「横山雅男は、製表社創立当時の顔ぶれと(書簡の)別紙の顔ぶれとほとんど同じであることから、明治12年(1879年)ではないかと推察しているが、もしそうであれば既に製表社は発足した後であることから、何を大隈に頼もうとしたのかはっきりしない」としています。 また、早稲田大学図書館所蔵市島謙吉編「大隈家収蔵文書」(抄録)下(早稲田大学大学史資料センター編)


https://www.waseda.jp/culture/archives/assets/uploads/2018/01/WasedaDaigakushiKiyo_46_Editors1.pdf


でも、かっこ書で「明治12年」と補足しています。いずれにしても、その年次については「明治12年」とする説のみでそれ以外の年次を主張する説は存在していません。 ちなみに、総務省統計局HPの「なるほど統計学園」によれば「大隈は明治政府の第4代大蔵卿(現在の財務大臣)として財政整理に当たっているうちに正確な統計の必要を感じ、統計院の設立を建議し、自ら初代の院長に就任して統計整備の先頭に立ちました。」とあり、大隈が第4代大蔵卿であったのは、明治6年 10月25日~明治13年2月28 日であることから、福沢書簡の「偶然に其御省之思召立おぼしめしたち何卒尽力為致事なしいたすことに御座候ござそうろう」の「御省」は大蔵省であると推察され、大蔵卿である大隈重信から何らかの協力を求められて、スタチスチックの仲間らを紹介する書簡を発出したものと考えられます。 ここで、製表社の創設の動きをみると、福沢書簡でスタチスチックの仲間の一人としてリストアップされた小幡篤次郎らが中心となり、製表社は明治11年12月に創設されました(前述のとおり創立当時の会員の多くは福沢書簡の別紙で挙げた義塾出身又はその関係者と一致)。このことを考えると、その著書(「文明論之概略」など)でスタチスチク(統計) の重要性を指摘する福沢の思いを通じて、小幡篤次郎らによの残ることを指摘しています。 る製表社の創設に向けた原動力になったことも考えられます。ちなみに、福沢書簡でも、時候のあいさつの次のパラグラフで小幡の名前が出てきます。 製表社の創設の翌年、明治12年2月に渡辺洪基、馬屋原彰、小野梓も統計に関する学会を起す企画があり、これを杉亨二に相談したところ、杉はその趣旨は、製表社と概ね同様であることから、協議の結果、同年3月6日これを合一することに決し、更に委員を挙げて規則案を作らせ、4月1日にこれを議定し、その名称を統計協会(のちの東京統計協会)と改称し、幹事に渡辺洪基、小野梓、阿部泰蔵、矢野文雄、小幡篤次郎の五名を挙げて諸般の事を委任したとされています。4 ここで、小野梓は、大隈重信のブレーン(立憲改進党、東京専門学校(のちの早稲田大学)の創設に深くかかわる)として有名です。また、阿部泰蔵(本邦初の生命保険会社創設者。日本ではじめて統計処理により算出される予定死亡率などから保険料を導いた近代的生命保険事業として誕生させた)、矢野文雄、小幡篤次郎は言わば福沢の門下生(慶應義塾塾員)で、このうち、阿部、小幡は、福沢書簡のスタチスチックの仲間としてリストアップされています。矢野は、福沢と大隈の交流が縁で、大隈の宅に来るようになり、とうとう大隈の側近になってしまったとされています。5また、矢野は、犬養毅いぬかいつよし、尾崎行雄とともに明治14  年に設立された統計院(院長は大隈重信)に勤務しました。 このように、明治12年1月の福沢書簡の後、同年4月、製表社との合体による統計協会の設立、明治14年4月、大隈重信による統計院の設立の建議、同年5月、大隈自らの院長就任と展開し、その中で福沢の門下生(慶應義塾塾員)や大隈の側近が深く関わっています。言わば福沢書簡による人材の紹介は、我が国の統計史にとって重要な位置づけにあると言えるのかもしれません。 


3 福沢書簡の年次とその別紙で「是ハ統計局の人」と注記していることについて 伊藤廣一「統計歴史散歩」21頁によれば、書簡の別紙で「是ハ統計局の人」と注記していることについて、統計局ができたのは明治18年(1885年)(内閣統計局)のことであり、明治12 年は(太政官)政表掛であったことからいささか疑問

4【参考文献】東京統計協会「東京統計協会沿革略誌」 

5【参考文献】木村毅「大隈重信は語る」21頁 前述のとおり、大隈重信は大蔵省の立場で、正確な統計の必要を感じ、アメリカのような統計ビューロー(統計局)の組織の創設について福沢に相談していた可能性も考えられます。ちなみに、Bureauについて、幕末から明治初期に出版された英和辞書をみると、調べた範囲では、明治6年出版の英和字彙で「局」の訳字が初めて登場しています。 大隈は福沢に統計ビューロー(統計局)の中心的役割を担うことが期待される人材の推薦を依頼し、福沢はこれを受けて「是ハ統計局の人」と注記したのではないかと推察することもできるのではないかと考えられます。 


4  大隈の統計院設立構想と統計観 

大隈重信は、明治14 年(1881年)に統計院の設立を建議し、自ら院長に就任しましたが、その2年前の福沢書簡は、大隈の統計院設立構想に何らかの影響を与えたのかもしれません。 大隈の統計院設立構想と統計観については、明治31年の統計懇話会における大隈の演説6から読み取ることができます。それによれば


「・・・熱心なる杉君なりその当時人口を調査して一つ・・・行ってみようと言うので、試験として甲斐国一国をやったその時の勢いでいけばよほど疾に進まねばならぬ。それから、(統計は 、)とても大蔵省ではいかぬ。十分強い権力をもってやらなくちゃどうしても各省各箇でもってやるようなことではいかぬ、何と任じても大蔵省だけではいかぬ、そこで中央に統計院を拵こしら えて・・・一つの大きな組織でやるとなったものだから・・・自分(大隈)の道楽のことには大きなことをやるというので余程攻撃を受けました。しかし、これは決して道楽ではない。・・・統計院それから会計検査院二つを拵えた。十分中央に権力を集めて行政の整理をこれから行っていこうという企て、政略と真に統計を進歩させようという二つのものが結びついて地位の高いものを拵えた。・・・」


としています。さらに、


「・・・議論で国政をやっていく  政治も社会も学術も悉く議論である、その議論の根拠には何を以てして行くかと云ふと是非一つの学理から拠る所のものがなければならぬ、あるいは漠然たる理想、漠然たる想像これだけでは一向議論の根拠がかたくない、段々議論が進んでいくにしたがって議論を決するものは一つの証拠である、・・・この問題は何で決するか  ここに拠るべき統計があるか、ないかである」


と論じ、大隈はEBPM(事実・根拠に基づく政策立案)の視点でも統計をみていることは現代にも通用することであると言えます。福沢の「学問のすすめ」、「文明論之概略」などの著書でも統計の重要性が論じられており、大隈と福沢の統計観については二人の間で共通する部分があったと考えられます。 学問のすすめ 文明論之概略 【画像】:国立国会図書館デジタルコレクション 「学問のすすめ」(第13編)7(ひらがな表記にし、句読点を加えたもの) 古来若しこの大悪事に付きその数を記したる「スタチスチク」の表ありて御殿に行われたる毒害の数と、世間に行われたる毒害の数とを比較することあらば、御殿に悪事の盛なること断じて知るべし。 此法は人間の事業を察して其利害得失を明にするため欠て事物の探索に所得多しと云ふ。 く可らざるものにて、近来西洋の学者は専ら此法を用ひ凡そ土地人民の多少、物価賃銭の高低、婚する者、生るゝ者、病に罹る者、死する者等、一々其数を記して表を作り、此彼相比較するときは、世間の事情、これを探るに由なきものも、一目して瞭然たることあり。 「文明論之概略」(巻之2)8(ひらがな表記にし、句読点を加えたもの) 天下の形勢は一事一物に就て臆断す可きものに非ず。必ずしも広く事物の働を見て一般の実跡に顕はるゝ所を察し、此と彼とを比較するに非ざれば真の情実を明にするに足らず。斯の如く広く実際に就て詮索するの法を、西洋の語にて「スタチスチク」と名く。 此法は人間の事業を察して其利害得失を明にするため欠て事物の探索に所得多しと云ふ。 く可らざるものにて、近来西洋の学者は専ら此法を用ひ凡そ土地人民の多少、物価賃銭の高低、婚する者、生るゝ者、病に罹る者、死する者等、一々其数を記して表を作り、此彼相比較するときは、世間の事情、これを探るに由なきものも、一目して瞭然たることあり 


5  福沢書簡がもたらしたもの 


福沢書簡の現代文への書き下ろしについては、必ずしも微妙なニュアンスを踏まえた解説を加えるレベルには至らなかった面があることは否めませんが、福沢書簡の大意はある程度理解できました。 福沢書簡からも、明治初期に大隈重信と福沢諭吉の二人の偉人の交遊関係がいかに政府統計の発達(国勢調査の実現などに貢献した統計結社の創設、統計院設立)のための原動力になったかをうかがい知ることができると思います。 








2  福沢は、なぜ政表と訳したのか 


岡部進「福澤諭吉と「スタチスチク」-校閲書『萬國政表』(万延元年・1860年)を中心にー」(日本大学工学部紀要第38巻、平成9年(1997年))によれば、「福沢諭吉は、『万国政表』から「万国ノ形勢ヲ察スル」(凡例)ことができ、これこそ世界の状況を知るには好都合な資料であると思ったのであろう。・・・これを(掲載項目:面積、人口、政治体制、生産物など)みると、『万国政表』は確かに「国家の状態」を示す「国勢」表といってもよいくらいで、だから「政表」と訳したのであろう。」としています。 


3  政表の訳字の用例 

福沢が関わった「万国政表」(万延元年(1860年)刊行)で「Statistics」を初めて「政表」と訳した後、文久2年(1862のフィッセリングによる五科(参考1)、学習の際の授業の道筋および講義の根本方針を記述10した「性法万国公法国法制産学政表口訣」(参考2)で「政表」の用語が登場するとともに、西周がフィッセリングの講義「性法説約」の巻首として起草11した「記五科授業之略」(参考3)で「政表之学」の用語が登場しています。さらに、津田真道が、オランダ留学において学んだフィッセリングの講義を翻訳した「表紀提綱一名政表学論」(明治7年(1874年)太政官政表課刊行)でも「政表学」と「政表」の用語が登場しています。 また、明治4年6月に岩倉使節団のため太政官で「日本政表」、「日本国勢便覧」を編集し、同年12月に太政官に「政表課」が置かれ、明治5年に「辛未政表」が刊行(我が国最古の総合統計書。以降、明治6年「壬申政表」、明治8年「明治6年日本政表」、明治11年分まで刊行。)され、これらにおいて「政表」の用語が登場しています。 その後、太政官政表課は、明治 14 年には太政官統計院となり、総合統計書である「日本政表」も明治 15 年には「統計年鑑」として刊行され、徐々に「統計」という用語が使われ始め、それとともに「政表」という用語は使われなくなりました。 



2  福沢諭吉は、なぜStatisticsを政表と訳したのか 

(本稿は総務省統計局HP「統計図書館ミニトピックス№7」を基に作成)

 1  万国政表とは 「万国政表」(万延元年(1860 年)刊行)は、世界の国々について、面積、人口、政治体制、生産物などが掲載されており、西洋の統計書の日本における最古の翻訳書です。「Statistics」に「政表」という訳語をつけたのは、本書が最初です。凡例において「スターチスチセ、ターフル、ファン、アルレ、ランデン、デル、アヽルデ」を「万国政表」の義としています。 ちなみに、赤松則良は、咸臨丸で渡米の際、福沢諭吉らと一緒でした。その縁で、赤松則良は、福沢が翻訳に関わった「万国政表」を所蔵していたのかもしれません。初めは福沢諭吉が翻訳に取り組みましたが、咸臨丸で渡米することとなったため、岡本博卿が後を継ぎ、帰国後に福沢閲として出版しました。「万国政表」は、我が国で唯一、磐田市立図書館(静岡県)の電子書籍サービスのサイトで提供されています。 「万国政表」は、なぜ、磐田市立図書館(静岡県)にある? 「万国政表」は、昭和42年(1967年)に、元磐田市の赤松照彦市長より、磐田市立図書館に寄贈された赤松文庫の資料の一つです。  「赤松文庫」は、江戸時代初期から明治・大正にかけての幅広い分野の貴重な資料約3,300冊で、同市長の祖父である赤松則良らが所蔵していたものです。 2  福沢は、なぜ政表と訳したのか 岡部進「福澤諭吉と「スタチスチク」-校閲書『萬國政表』(万延元年・1860年)を中心にー」(日本大学工学部紀要第38巻、平成9年(1997年))によれば、「福沢諭吉は、『万国政表』から「万国ノ形勢ヲ察スル」(凡例)ことができ、これこそ世界の状況を知るには好都合な資料であると思ったのであろう。・・・これを(掲載項目:面積、人口、政治体制、生産物など)みると、『万国政表』は確かに「国家の状態」を示す「国勢」表といってもよいくらいで、だから「政表」と訳したのであろう。」としています。 3  政表の訳字の用例 福沢が関わった「万国政表」(万延元年(1860年)刊行)で「Statistics」を初めて「政表」と訳した後、文久2年(1862のフィッセリングによる五科(参考1)、学習の際の授業の道筋および講義の根本方針を記述10した「性法万国公法国法制産学政表口訣」(参考2)で「政表」の用語が登場するとともに、西周がフィッセリングの講義「性法説約」の巻首として起草11した「記五科授業之略」(参考3)で「政表之学」の用語が登場しています。さらに、津田真道が、オランダ留学において学んだフィッセリングの講義を翻訳した「表紀提綱一名政表学論」(明治7年(1874年)太政官政表課刊行)でも「政表学」と「政表」の用語が登場しています。 また、明治4年6月に岩倉使節団のため太政官で「日本政表」、「日本国勢便覧」を編集し、同年12月に太政官に「政表課」が置かれ、明治5年に「辛未政表」が刊行(我が国最古の総合統計書。以降、明治6年「壬申政表」、明治8年「明治6年日本政表」、明治11年分まで刊行。)され、これらにおいて「政表」の用語が登場しています。 その後、太政官政表課は、明治 14 年には太政官統計院となり、総合統計書である「日本政表」も明治 15 年には「統計年鑑」として刊行され、徐々に「統計」という用語が使われ始め、それとともに「政表」という用語は使われなくなりました。 【参考1】 国立国会図書館HP「江戸時代の日蘭交流」によれば、「西周と津田真道の二人は、オランダのライデン大学において経済学、政治学を教えていたフィッセリング(Simon  Vissering 1818-1888)に、次の五科目を学んでいる。①性法之学(Natuurregt  自然法)、②万国公法之学(Volkenregt  国際公法)、③国法之学(Staatsregt  国法学)、④制産之学(Staatshuishoudkunde  経済学)、⑤政表之学(Statistiek 統計学)。これらを「五科」と称し、帰国後は、その講義を翻訳、刊行している。」とされています。 【参考2】「性法万国公法国法制産学政表口訣」12 原文にルビを加えたもの 現代文への書き下ろし 政表に於て之(これ) 而(しこうし)て國の情状如何を察する其(その)周密を悉(つく)すの術(すべ)を以てすと云ふ 政表においては、これはこのようにして国の情状がどうなっているかを理解し、すみずみまで知り尽くす方法を示すことをいう。 【参考3】「記五科授業之略」13 原文 政表之学於察國之情状為如何悉其周密之術也 現代文への書き下ろし 政表之学は、国の情状がどうなっているかを理解し、すみずみまで知り尽くす方法である。

 9西周と津田真道のプロフィール:統計図書館コラム【人物編】№3 10【参考資料】:国立国会図書館HP「江戸時代の日蘭交流」 11  同上 12  「性法万国公法国法制産学政表口訣」国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3851067/1 13  「記五科授業之略」国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3851066/1 


4 雑感

 「政表」は、「万国政表」の凡例のほか、西と津田の「性法万国公法国法制産学政表口訣」や「記五科授業之略」の資料から、国家(政府)の状態を明らかにする表の意味であることが分かります。 正確な「政表」は、客観的にものごとをとらえ、他の属性との比較などの実態把握を可能とし、政策目標の設定、政策評価などの基礎となり、まさに国家の統治の基本に関するものであると言えると思います。


 5  政表という訳語に定着した可能性も?! 

宮川公男「統計学の日本史」によれば、「統計という訳語が最終的に定着したことには何ら問題はないにせよ、政表という語がその有力な代替候補であった事実は、スタチスチックが単なる方法の学でなかったという統計学の発生の歴史を銘記するためにも、また現代社会において統計学が持っている真に重要な役割を再認識するためにも忘れてはならないことである」とされています。 筆者は、総務省統計局HPに掲載した統計Today  №136において


「現代では、当たり前のように使用されている「統計」というコトバも、調べてみると明治の先人たちの熱い思い(無責任な統計の作成を許さないという戒めを含む。)が伝わってきます。そして、私たちは、このことを冷静に後世に伝えなければならないのです。」


としましたが、「政表」の用語を調べれば調べるほど、「統計」は、国家の統治の基本に関するものであることを肝に銘じなければならないと感じる次第です。 


14  統計図書館ミニトピックス№4参照 3  ベストセラー作家・福沢諭吉の著書における統計の用例 (本稿は総務省統計局HP「統計図書館ミニトピックス№2」を基に作成) 1  福沢の著書における「統計」に係る用語の掲載状況 福沢諭吉の著書における「統計」に係る用語の掲載状況を調べた結果は、別表のとおりです。調べ方は、慶應義塾大学メディアセンターデジタルコレクションに掲載の福沢の著書について、当該サイトの検索機能を利用して「統計」の用語をキーワードとして検索することにより行いました。 2  学問のすすめ、文明論之概略では「統計」の用例なし 明治7年(1874)12月、明治8年4月に出版された「学問のすすめ(第13編)」14、「文明論之概略(巻之2)」15では「統計」の用例はなく、「スタチスチク」の用例があります。 これらの著書においてスタチスチクの有用性についても言及し、その上で国民に自立を、また、文明開化を通じて人々の意識改革を促し、日本の未来を創造しようとしたように思います。「スタチスチク」の用語は、原語をムリに訳さず原語を使用すべきと主張した杉亨二の影響を受けた可能性も考えられます。二人は明六社で親交があったとみられます。 3  福沢の著書で「統計」の用語の初出は「分権論」 明治10年(1877年)11月に出版された「分権論」のなかで「統計表」が用いられ、それ以降の福沢の著書では一貫して「統計」が用いられています。これは、明治7[1874]年6月に出版されたモロー・ド・ジョンネ著、箕作麟祥訳「統計学」(文部省)


https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805698


において「スタチスチック」を「統計学」と訳していることなども影響しているものと考えられます。 ちなみに、箕作麟祥は、元治元年(1864年)10月、外国奉行支配翻訳御用頭取を命ぜられ、福沢諭吉、福池源一郎等とともに翻訳に従事し、その後、福沢らとともに明六社のメンバーとして親交があったと考えられます。 また、明六社発足の頃、福沢諭吉と大隈重信との親交が始まり、二人の会話で「統計」という言葉が飛び交っていたのかも知れません。


IMG_6586.jpeg


なお、大隈侯八十五年史第 1 巻(大隈侯八十五年史編纂会、 こうし

【参考資料】、【写真】:国立国会図書館HP「近代日本人の肖像」 大正 15 年(1926 年)出版)第 5 章「(4)国勢調査の嚆矢」によれば、「君(大隈)は、明治 13 年(1880 年)初頭の頃、福沢諭吉に向かって、統計の必要について語り、慶應義塾の秀才が、 統計研究に力を致すよう希望し、福沢もまた君の意を了とし て、統計学の進歩に寄与しようとした。蓋し同塾の新人中に は統計の必要を知り同志時々会して研究していたものもあ ったと見える。それらの事は、福沢が君に呈した手紙に明白 である。」とされています。



前述のとおり、大隈重信は大蔵省の立場で、正確な統計の必要を感じ、アメリカのような統計ビューロー(統計局)の 組織の創設について福沢に相談していた可能性も考えられ ます。ちなみに、Bureau について、幕末から明治初期に出版 された英和辞書をみると、調べた範囲では、明治 6 年出版の 英和字彙で「局」の訳字が初めて登場しています。

大隈は福沢に統計ビューロー(統計局)の中心的役割を担 うことが期待される人材の推薦を依頼し、福沢はこれを受けて「是ハ統計局の人」と注記したのではないかと推察するこ ともできるのではないかと考えられます。


https://www.waseda.jp/culture/archives/assets/uploads/2018/01/WasedaDaigakushiKiyo_46_Editors1.pdf


4  大隈の統計院設立構想と統計観 


大隈重信は、明治14 年(1881年)に統計院の設立を建議し、自ら院長に就任しましたが、その2年前の福沢書簡は、大隈の統計院設立構想に何らかの影響を与えたのかもしれません。 大隈の統計院設立構想と統計観については、明治31年の統計懇話会における大隈の演説6から読み取ることができます。それによれば


「・・・熱心なる杉君なりその当時人口を調査して一つ・・・行ってみようと言うので、試験として甲斐国一国をやったその時の勢いでいけばよほど疾に進まねばならぬ。それから、(統計は 、)とても大蔵省ではいかぬ。十分強い権力をもってやらなくちゃどうしても各省各箇でもってやるようなことではいかぬ、何と任じても大蔵省だけではいかぬ、そこで中央に統計院を拵こしら えて・・・一つの大きな組織でやるとなったものだから・・・自分(大隈)の道楽のことには大きなことをやるというので余程攻撃を受けました。しかし、これは決して道楽ではない。・・・統計院それから会計検査院二つを拵えた。十分中央に権力を集めて行政の整理をこれから行っていこうという企て、政略と真に統計を進歩させようという二つのものが結びついて地位の高いものを拵えた。・・・」


としています。さらに、


「・・・議論で国政をやっていく  政治も社会も学術も悉く議論である、その議論の根拠には何を以てして行くかと云ふと是非一つの学理から拠る所のものがなければならぬ、あるいは漠然たる理想、漠然たる想像これだけでは一向議論の根拠がかたくない、段々議論が進んでいくにしたがって議論を決するものは一つの証拠である、・・・この問題は何で決するか  ここに拠るべき統計があるか、ないかである」


と論じ、大隈はEBPM(事実・根拠に基づく政策立案)の視点でも統計をみていることは現代にも通用することであると言えます。福沢の「学問のすすめ」、「文明論之概略」などの著書でも統計の重要性が論じられており、大隈と福沢の統計観については二人の間で共通する部分があったと考えられます。 


5  福沢書簡がもたらしたもの 


福沢書簡の現代文への書き下ろしについては、必ずしも微妙なニュアンスを踏まえた解説を加えるレベルには至らなかった面があることは否めませんが、福沢書簡の大意はある程度理解できました。 福沢書簡からも、明治初期に大隈重信と福沢諭吉の二人の偉人の交遊関係がいかに政府統計の発達(国勢調査の実現などに貢献した統計結社の創設、統計院設立)のための原動力になったかをうかがい知ることができると思います。 



【参考】 

福沢諭吉の著書における「統計」に係る用語の具体的な掲載内容 福沢諭吉の著書における「統計」に係る用語の具体的な掲載内容の一部を紹介します。 

注:【】は国立国会図書館デジタルコレクションの該当頁のコマ 

 (1)「分権論」 明治10年(1877年)出版の「分権論」で「統計表」、「スタチスチック」が用いられており、調べた範囲では、福沢諭吉の著書で最初に「統計」の用語が登場しています。  

●「分権論」で「統計表」、「スタチスチック」が用いられている箇所

 【60コマ】 附 録 一 本編は地方分権の大略を論じたるものなれども、分権の議論あれば分財の議論も亦なかるべからず。蓋し権と財とは大概その通行の路を共にして、権の集る所には財も亦集り、権の分るゝ所には財も亦共に分るゝものなり。故に今別に一編の分財論を著して、始めて本編の意を全うすべしと雖ども、理財の事を吟味するには、先ず統計表の詳なるものなかるべからず。即ち西洋に所謂「スタチスチック」是なり。然るに旧幕府の時代、固(もと)よりこの表を記したるものあらざれば、今日に在ては博く諸書を詮索して、先ず之を統計表の形に作り、その表を以て理財の本義に照合して、始て分財、集財の得失をも明にすべきことなれども、その事業を企てんとするも、数月の労を以て能すべきに非ず。加之維新以来の政府の会計とても、その細密なる精算を知るべからざれば、止を得ず分財の議論は之を他日に譲り、唯この議論に就き我輩が目的とする所の吟味の趣向を示すこ左の如きのみ。今日にても世上有志の士に、この吟味の路を得てよくその力を尽し、国財分集の利害得失を明〔に〕する者あらば、独り余輩の悦ぶのみならず、社会一般の大幸と云うべし。   (2)「民間経済録」 明治10年(1877年)出版の「民間経済録 初編」において、明治初期の総合統計書である太政官調査局「明治7年日本政表」(警察の部)における3府60県の明治7年中の盗賊の害に係る統計が引用されています。調べた範囲では、福沢諭吉の著書で最初に総合統計書の統計データが引用されています。  

●「民間経済録」で明治7年中の盗賊の害に係る統計データが引用されている箇所

 【初編42コマ】 既に日本に於ても明治七年中の統計に拠れば、三府六十県にて盗賊の害を蒙りたること左の如し。 殺されし人 八十六人 疵付られし人 二百八十五人 追剥、追落しに遇いし人 四百八十二人 押込に遇いし家 三千二百〇一戸 窃盗に遇いし家 九万〇四百五十八戸附火にて焼かれし家  六百十二戸   

(3)「通貨論」 明治11年(1878年)出版の「通貨論」で、明治元年~同4年の外国米の輸入に係る統計データが引用されています。そのデータは、東洋経済新報社「日本貿易精覧」輸入品表の「米及び 麹」のデータと同じ情報源とみられます。 なお、「統計局の表」の「統計局」については、当時の政府にその名称の組織は存在しないなど、はっきりしない面もあります。  ●「通貨論」で外国米の輸入に係る統計データが引用されている箇所 【19コマ】統計局の表に拠れば、明治元年、外国米の輸入二千〇九十七万七千二百十斤、代価四十三万五千九百五十五円、同二年、輸入一億六千二百〇七万千三百二十三斤、代価四百四十三万千八百八十六円、同三年、輸入五億三千七百七十一万〇七百五十六斤、代価千四百五十九万八千百十四円、同四年、輸入四千百九十五万七千八百六十斤、代価百二十六万〇百七十八円なりと云う。  

(4)「全国徴兵論」 明治17年(1884年)出版の「全国徴兵論」では、「統計年鑑」(明治15 年出版)の明治13年人口が引用され、徴兵の対象となる20歳以上50歳未満の男子人口(母数)を推計しています。  

●「全国徴兵論」で「統計年鑑」の明治13年人口が引用されている箇所 【8コマ】 故に寧ろ免役料の名に代るに兵役税の文字を以てして全国の男子唯皇族を除くの外一名も免すことなく生れて二十歳に至れば三ヶ年の間身躬から役に服する歟、然らざれば三ヶ年の問兵役税を納めしめて其常備軍役を免すること公平至当の法ならんと信ず右の主義果して公平至当ならば其実施の法を案ずるに統計年鑑明治十三年人口の調に全国の男子二十年以上五十年未満の者七百五十八万五千百三十八名とあり之を三十分して其割合は少者の方多かるべきが故に満二十年の者は大数二十六万と仮定・・・(以下略)   

(5)「福翁百話」 明治30年(1897年)出版の「福翁百話」では、「統計」の用語が用いられ、統計の重要性を説いています。特に、「苟いやしくもこの統計全体の思想なき人は共に文明の事を語るに足らざるなり。」とまで断じていることからも、福沢の統計に対する熱い思いが伝わってきます。

  ●「福翁百話」で「統計」が用いられている箇所 

【161コマ】 人間社会の進歩とは凡そ右等の事情にして誠に分り切ったることなるに、彼の尚古論者が兎角古風に恋着して前進の道を知らざるこそ奇態なれ。啻に前進を知らざるのみならず、時として之を妨るに至る。その愚は殆んど測るべからざるに似たれども、元来彼輩の思想は至極簡単にして、殊に数字統計の何物たるを知らず、単に和漢の歴史を通読して往々自分の心に感じたる所を記憶し、是れは善し其れは悪しと判断を下して局部の善悪に眼を注ぎ、眼孔豆の如くにして全面の利害を視るの明なきが故に、知らず識らずして自から迷の淵に沈むことなり。

  【162コマ】 文明進歩の目的は国民全体を平均して最大多数の最大幸福に在るのみならず、その幸福の性質をして次第に上進せしむるに在り。歴史百千年の前後を比較してこの幸福の数果して増したるや減じたるや、幸福の性質上進したるや低落したるや、即ち是れ統計の数字に見るべき所にして、我輩は断じてその増進を明言して尚ほ未来の望を抱く者なり。苟もこの統計全体の思想なき人は共に文明の事を語るに足らざるなり。

 

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市島謙吉編﹁大隈家収蔵文書﹂︵抄録︶ 上 - 早稲田大学

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そうした大隈宛の書を含む資料集として. 、. 活字本とし. 早稲田大学. 図書館所蔵. 市島謙吉編﹁大隈家収蔵文書﹂︵抄録︶. 上. 早稲田大学大学史資料センター編.


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市島謙吉編﹁大隈家収蔵文書﹂︵抄録︶ 下 - 早稲田大学

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www.waseda.jp > 2018/01 > WasedaDaigakushiKiyo_46_Editors1


https://www.waseda.jp/culture/archives/assets/uploads/2018/01/WasedaDaigakushiKiyo_46_Editors1.pdf



M11

1878

27頁

#31

大隈先生侍史福沢諭吉

尚以内国債之公告も出たり。この事に付而も新聞紙抔へ229氏明細書差出候様御文通、則別紙之通りに御座候。兼而申上候如く同人は一方に身を委て従事する積り、就而は御雇よりも本官之方志願に御座候。其辺も御含置奉願候。但し是は唯々御都合に任するのみ。右要件而已申上度。早々頓首七月八日大隈先生侍史福沢諭吉論し度ケ条も有之、本文矢野なれば筆は十分に立



国債論争で共闘した



大隈重信. ︵. 明治六. ︶. 年九月二日. 早稲田大学. 図書館所蔵. 市島謙吉編﹁大隈家収蔵文書﹂︵抄録︶. 下. 早稲田大学大学史資料センター編. ﹃. 大隈重信関係文書.


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早稲田大学図書館所蔵 市島謙吉編「大隈家収蔵文書」(抄録)(上 ...

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早稲田大学図書館所蔵 市島謙吉編「大隈家収蔵文書」(抄録)(上). 掲載誌 早稲田大学史記要 = Transactions of Waseda University Archives 45:2014.3 p.249-286.


www.wul.waseda.ac.jp > kotenseki > html

大隈家収蔵文書 / 小精廬主人 [編] - 早稲田大学

書名は題簽による大隈重信侯伝編纂会用箋朱書入あり和装市島春城旧蔵三条実美書翰(34通). 岩倉具視書翰(66通). 大久保利通公書束(15通). 伊藤博文書翰(18通).

未指定:所蔵


waseda.repo.nii.ac.jp > ...

45 - 早稲田大学リポジトリ-トップページ

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早稲田大学図書館所蔵市島謙吉編「大隈家収蔵文書」 (抄録) 上 · 早稲田大学大学史資料センター編『大隈重信関係文書』編集担当 ,. 早稲田大学史記要,45,249-286 ...


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早稲田大学リポジトリ-トップページ

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Root Waseda University Archives (大学史資料センター) Publications (紀要・刊行物等)... 早稲田大学図書館所蔵市島謙吉編「大隈家収蔵文書」 (抄録) 下.


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春城市島謙吉先生と早稲田大学図書館 - CORE

早稲田大学、特に図書館の発展に尽力した市. 島謙吉. ︵春城. 、一八六〇│一九四四︶. が同じく分家の一つ. 、. 角市市島家の出身であることから、市島家と早稲田大学.


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市島謙吉 - Wikipedia

ja.wikipedia.org > wiki > 市島謙吉


大正6年(1917年)早稲田騒動で辞するまで初代早稲田大学図書館長として和漢洋の蔵書の拡充に奔走した。大正4年(1915年)には大隈伯後援会会長となって大隈重信の晩年 ...

未指定:収蔵文書」


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福沢諭吉が大隈重信にスタチスチックの仲間らを推薦した書簡 ...

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また、早稲田大学図書館所蔵市島謙吉編「大隈家収蔵文書」(抄録)下(早稲田大学大学史資料セ. ンター編)でも、かっこ書で「明治 12 年」と補足しています。


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福澤諭吉が大隈重信にスタチスチクの仲間らを推薦した書簡が ...

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2020/6/3 -また、早稲田大学図書館所蔵市島謙吉編「大隈家収蔵文書(抄録)下」(早稲田大学大学史資料センター編)でも、かっこ書で「明治12年」と補足している ...




●福沢諭吉(1835〜1901)

《それ(通貨)が大切なのは、その質にあるのではなくて、働き(機能)にある。金銀と

紙とは質が異なっていても働きに何の違いもない。だから紙でも大丈夫であることには

異論のさしはさむ余地はない》  『通貨論』1878年より

小浜逸郎『まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい「学問のすゝめ」』(2020)より

原文は福沢諭吉著作集〈第6巻〉民間経済録・実業論所収。


大隈、福沢は緊縮策に反対し、特に福沢は外債に頼るべきとした。

「外債論」(1885)に関しては竹森俊平の以下の引用があった。


《「人民の一家ならば、貯蓄や貸金を増やすのを目的とするのも結構なことだが、政府の経済は、た

とえ負債があったとしても貯蓄は持つべきではない。なぜなら政府は本来、元手があるわけではな

く、ただ毎年国民の財を集めて、毎年これを消費するだけのものであるので、もしも政府の財政に

余裕が生じるくらいならば、始めからこれを取り立てずに国民の手元に残しておいた方が、経済に

とり都合がよいからである。このように一家の世帯と一国の経済は違うもので、政府が目的とする

べきことは、ただ全国の人民がその知力のあるかぎり、腕力のあるかぎり、心身を働かせて、天然

の物に人為を加え、それによって人間の快楽が多くなるようなそういう仕組みを作り、また自然に

そういう仕組みがある場合にはそれを妨害しないことにある。その生産活動から生じた利益が誰の

手に落ちようとも、自国内にあるならばそれで満足するべきである。政府は極貧にして借金が山の

ようにあっても、人民が豊かなら少しも心配することはない。なぜならば、その借金はすなわち人

民の借金なのだから、払おうと思えばいつでも容易に払うことができるからである。」(福澤全集第9巻一九二五~一九二六年 國民図書)


 この文章が明確に述べているように、人的資源をフルに活動させることこそが、経済政策の目的

であるべきだというのが福沢の主張である。財政が緊縮型か、積極型かによって、その目的の達成

に違いが出てくることも、福沢はもちろん認識していた。それで、この文章のように赤字財政でも

構わないという主張をするわけである。それはもちろん福沢の目的意識が、「自分は、国中に身体

障害者や病人の他は、手を空しくしている者が一人でも少ないことを望む」(前掲書)というとこ

ろにあったからである。》

竹森俊平『デフレは三度来(きた)る』上第三章 松方正義と金本位制 79頁より



1 件のコメント:



  1. 【特集:福澤諭吉と統計学】 福澤先生の統計的思考/山内慶太
    2020/06/05
    https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/features/2020/06-6.html
    福澤先生が、統計資料としてではなく、社会の現象にある傾向性、法則性を探究する学問としての「統計学」に
    言及した代表的な著作は『文明論之概略』である。
    先生はバックルの『英国文明史』を読み込んだ上で、これを執筆している。丸山眞男が『「文明論之概略」を読む』
    でこの書を次のように紹介している。
    「短い時間をとればとるほど、また狭い空間をとればとるほど、偶然性の支配が大きくなる。個々の特殊な事情が
    働く余地が出て来る。大量観察によって、特殊な事情が相殺されて、一般的法則性が出てくる。その大量観察の
    方法として、バックルがあげるのが(略)統計学です。」
    そして、こう『文明論之概略』を評価している。
    「これ(統計学)を一応政策論から独立した、社会法則の客観的認識の一般的方法としてとらえたのは、バックル
    から学んだ福澤のこの『概略』がはじめてでした。」

    【特集:福澤諭吉と統計学】 座談会:150年のスパンで「統計学」を見る
    2020/06/05
    https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/features/2020/06-1_2.html

    大久保 健晴(おおくぼ たけはる):
    福澤は『文明論之概略』のなかで、この『英国文明史』を媒介に、犯罪率や死亡率をめぐるケトレー統計学の成果
    を紹介し、次のように指摘します。「スタチスチク」こそ、「天下衆人の精神発達」を観察・比較し「真の情実を
    明にする」、「文明を論じる学者」の方法論である、と。
    このあたり、福澤はやはり思想家として非常に優れた嗅覚の持ち主であったと考えられます。

    統計図書館コラム【人物編】№0001  福沢 諭吉 奥積雅彦(総務省統計研究研修所教官) 
    https://www.stat.go.jp/library/pdf/column0001.pdf
    4  大隈の統計院設立構想と統計観 
    大隈重信は、明治14 年(1881年)に統計院の設立を建議し、自ら院長に就任しましたが、その2年前の福沢書簡は、
    大隈の統計院設立構想に何らかの影響を与えたのかもしれません。

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