意識の不幸を―ヘーゲルの著作ではおなじみのもので、知ることの宙づり状態にすぎないとさえ言うことができますがー、フロイトの著作にある文化への不満から隔てている距離をみずにいられる人があるでしょうか。たとえ、フロイトの著作を読んだときに、主体を性から隔てている歪んだ関係以外のところでは分節化できないものがわれわれに示されるのは、いわば否認された文がひらめいたときだけであるとしても。
それゆえ、フロイトを位置づけるわたくしの接近法の中には、心理学者がのめり込んでいる正しい占星術に何かを負っているようなものは何もありません。質を、ましてや強度を基盤にして生じるものはなにもありませし、観念論が再確認を引き出せるような現象学ではなおさらのことです。フロイトの領野では、いろいろ言われているにもかかわらず、無意識を位置づけるにあたって意識がわれわれには時代遅れの特徴であるのは-というのも、無意識は聖トマス・アキナスにまで遡るのですが、無意識を意識の否定の上に位置づけることはできないのですから-、それは役人のいない役所のようなものであり、感情が初期の主体の役割をするのにふさわしくないのと同じようなものです。
フロイトによって始めれば、無意識とは、(彼が書いているように、別の段階や異なった舞台といった)どこかの場所で反復したり、そこに固着したりするシニフィアンの連鎖のことですが、それが実際の言説によってそこに加えられた切れ込みや、それが教えてくれる考えに干渉していきます。
この表現は、フロイトのテキストだけでなく、それが切り開いた経験とも密接に合致しているという意味においてはわたくしのものなのですが、その表現の中で核心的な用語はシニフィアンです。これは現代言語学によって古典修辞法からよみがえったのですが、ここでは追跡できないさまざまな段階があるものの、フェルディナン・ド・ソシュールやロマン・ヤコブソンといった名前がその黎明と現在の絶頂を代表している言語学の原理の中にみられますが、この西洋の構造主義という先導的な科学は、フォルマリスムが最初に繁栄したロシアにその源泉があるということを忘れてはいけません。1910年のジュネーヴと1920年のぺトログラードが、なぜこの特殊な道具をフロイトが自由にできなかったかを説明するのに十分です。しかしながら、歴史的に引き起こされた欠落は次に述べる事実を一層教訓的にしています。無意識が統御されている一次過程としてフロイトによって記されている機序が、言語効果の最も根源的な枢軸、つまり隠喩と換喩を決定していると、言語学のこの学派が信じているような機能に、このシニフィアンに正確に対応しています-言いかえると、言説の中に現れている共時的、および通時的次元におけるシニフィアンの置き換え、および結合それぞれの効果のことです-。
いったん言語の構造が無意識の中に認められれば、われわれはそれにふさわしいどのような種類の主体を考えることができるのでしょうか。
われわれはここで方法へ関心を向けて、シニフィアンとしてのわたくしの厳密な言語学的定義を開始することができます。わたくしはシフターにすぎないですし、陳述の文法的主体として今現在話しているという限りでの主体を指しているということを示しています。
いわば、それは今言語表現している主体を示しているのであって、その人を意味しているのではありません。このことは、陳述において今言語表現している主体のシニフィアンはないかもしれないという事実から明らかです-わたくしとは別のシニフィアンがあることは言うまでもないですし、それが複数の祈りや自己暗示の自己[Soi]に留まることができたと付け加えようとも、不十分ながら一人称単数と呼ばれているシニフィアンだけではありません。
例えば、わたくしが考えるに、フランス語のシニフィアン、neには今表現している主体があります。それは、文法的には「虚辞」と呼ばれますが、せいぜいその形をまったくの気まぐれによるとみている人たちの、信じがたい意見をすでに予兆している用語です。わたくしがそれに与えている評価を、彼らが重要点を見逃したことが明らかになる前に[avantqu'il ne soit avare qu'il n'y comprennent rien]、彼らが十分に再考してくれるといいのですが-この虚辞[ne]を取ってしまうと、わたくしが非人称のわたくしを省くことになり、この表現から攻撃的な力が失われます。しかし、このようにして彼らがわたくしの悪口を言うことがあるのではないかと怖れます[Mais je crains ainsi qu'il n'en viennent a me honnir]-この虚辞[n']を除くと、わたくしが反感を述べているのだとされるのではないかという怖れを臆病な主張へとレベルダウンさせるので、この虚辞の不在がわたくしを陳述の中に位置づけることになり、表現の強調を減弱させています。
しかしながら、彼らがわたくしを殺そうとしているという理由で、わたくしが「tue」(殺す)と言ったとしたら、わたくしが彼らを睨みつけている[toise]のを理由にして、tuの中でないとしたら、わたくしをどこに位置づけたものでしょうか。
むくれないでください-わたくしは、臨床作業に必須の指針でもって隠すのを躊躇するようなことをさりげなく参照しているにすぎません。
つまり、無意識の主体が問題になっているときに「誰が話しているのか」との問いに答える正しい方法です。というのも、すべての分析経験が教えてくれるように、彼が話していること、あるいは彼が話しているということさえ彼が知らないのなら、答えを彼から得ることはできないのですから。
だから、2主体間の「間で言われたこと」[intra-dit]によって構成されている、「言われたことの間」[inter-dit]の場所は、より純粋なシニフィアンを求める神秘化のせいでフロイト的主体を特別なものにしている衰弱効果をあのように被っているために、古典的主体の透明性が分裂している、まさにその場所です。この効果がわれわれを、口が滑って発せられた言葉と冗談が共謀しており区別しがたくなる前線へと導いてくれます。あるいはまた、存在をその隠れ家へと追いやってしまうことで省略がより多く暗示されるために、驚くことに、現存在の探索がそこから何もすることがなくなってしまう前線であってもそうなのです。
われわれの探索をうっちゃっておきましょう。分析家はあらゆるものを言説の機能についての切れ目へともたらさなくてはいけません。その最も重要なものは、シニフィアンとシニフィエの間の棒を構成している切れ目です。ここではわれわれの興味を引く主体に出会うのですが、主体は意味作用に縛りつけられており、前意識に住まっているように思われるからです。ここからわれわれは、分析治療の場での言説が言いよどんだり、中断した限りでだけ言説の価値があるのだと考える逆説へと導かれますーただし、治療の場自体が偽りの言説、すなわち言説が空虚な発言となっているときに、マラルメが述べているように手から手へと「沈黙のまま」受け渡される、使い古された造語にすぎないときに、言説によって現実化されているものの切れ目として始められないという条件下においてです。
シニフィアンの連鎖によって作られた切れ目は、現実界の非連続性としての主体の構造を実証している唯一の切れ目です。言語学によってわれわれが、シニフィアンを意味されたものを決定するものとみなすことが可能であれば、分析が明らかにしているのは、言説を決定するものを意味するにあたって穴を作ることによるこの関係の真実です。
これがある一つの命令形が充足されうる道です。すなわち、フロイトが自身の公式における前ソクラテス的格言の卓越した重要性にまで高めた命令形、「エスのあったところに、自我はならなくてはならない」です。これをわたくしは一度ならず取り上げましたし、今は別の仕方で解釈しようと思います。
わたくしはその文法の一段階を吟味することに限定しようと思います。それがあったところ[la ou cefut]とは、何を意味しているのでしょうか。そこにあったのが、(単純過去を使って)、単にこれ[ca]であったら、今それを述べることで、自分自身を同じ場所にあらしめるために、どのようにしてそこにやってくるのでしょうか。
しかしフランス語訳では、「La ou c'etait」となっています。それが示している明瞭な半過去の利点を取り上げてみましょう。それがたった今あったところ、まだ燃えている鎮火とよろよろと始められた作業とのほんの束の間にあったところに、わたくしの陳述[dit]から消えることで、わたくしは存在へと至ることができます[peut]。
自分自身を責める言明、自分自身を放棄する陳述、自分自身を吐き出してしまう無視、自己破壊する機会-存在から脱落するために実際にあらねばならないものの痕跡でないとしたら、ここには何が残っているのでしょうか。
フロイトの論文、「精神機能の二原則についての公式」の中で述べられている夢がわれわれに与えてくれる、「彼は自分が死んでいることを知らなかった」という文章は、死んだ父親が幽霊として帰ってくる姿が持たされているパトスと関連しています。
わたくしはすでにこの文章を、主体のシニフィアンとの関係を述べるのに使いました-主体自身の陳述から主体へと戻ってくるためらいのせいで、人間存在を震え上がらせる言明を通じてでしたが。
この死んだ父親の姿が存在し続けるのが、もっぱら彼が気づいていない真実を彼に教えないという事実によるのだとすれば、この存続が依拠するわたくしの位置とはいったい何なのでしょうか。
彼は知らなかった。…彼はちょっと後で知るはずだった。ああ、そんなことは起こってほしくない。彼が知るくらいなら、わたくしはむしろ死にたい。そう、それがわたくしがそこ、それがあったところに至る仕方だ。このように、わたくしが死んでいたと誰が知っていたのか。
非在の存在とは、彼の知識によって、それにまた実存を下支えしているのが死であるような言説によって、廃絶されるような本当の存続という二重の難問を帯びた主体として、わたくしがどのようにして舞台に現れるかということです。
われわれはこの存在を、捏造された主体であるヘーゲル的存在と対置しましょうか-ヘーゲルは、歴史を考えるのに完全知の言説を採用している主体です。ヘーゲルは狂気の誘惑を体験したことを認めたのをわれわれは思いおこします。この言説の空虚さという真実へとまっすぐに進むことによって、それを乗り越える道がわれわれの道ではないでしょうか。
ここで狂気についてのわたくしの教義を説明するつもりはありません。というのも、わたくしがこの終末論へと寄り道をしたのは、主体と知との(フロイト的、およびヘーゲル的)関係を区別している間隙を述べるためにほかなりません。
そして、欲望の弁証法がそれら両者間で区別されている違った方法以外に、この関係のより確実な根拠はないことをお示しするためです。
というのもヘーゲルの作品においては、もし真実が知の現実化に内在しているはずであれば、主体が古典知(connaissance)に対して維持しなくてはいけない最低限の繋がりに責任を負うのは欲望(Begierde)だからです。「理性の狡知」が意味しているのは、最初からまさに終わりまで、主体は彼の欲しているものを知っているということです。
ここにおいてフロイトは真実と知との結びつきを可動性に向けて再開し、そこから革命が生じるのです。
この点において、かの欲望は他者の欲望との結合点に拘束されますが、知りたいとの欲望はこの輪から外れています。
フロイトの生物学主義は、精神分析の本部からわれわれの方に漂ってくる説教じみた悲惨さとは何の関係もありません。
だから皆さんは、フロイトの生物学の真の波長に乗るためには、そこでは忌まわしいものだと考えられている死の本能を体験させられなくてはならなかったのです。というのも、彼の教義において死の本能を回避することは、まったく彼の教義を知ることにはならないからです。
わたくしが皆さんに用意した接近方法に基づいて、無生物への回帰-それをフロイトはどの生物にもあるものだとしていますが-という隠喩の中に、人間には話すという事実があるせいで言語によって保障されている、生を超えた辺縁を皆さんは認めなくてはなりません。その辺縁はまさしく、人間存在が、交換可能であるという理由でそこに自分を捧げている身体の部分だけでなく、身体それ自身を意味作用の地点に位置づけている場所です。このように、対象の身体との関係は,そこでいずれは全体化されるはずの部分的同一化にもとづいて定義されるものでないのは明らかになります。というのも、反対に、この対象は人間の掛け金としての身体のシニフィアン性の原型だからです。
ここでわたくしは、フロイトのTrieb-衝動(drive)と英語に翻訳するのがよかったと思われるのですが、標準版では採用されませんでしたがーと呼んだものが本能(instinct)と訳されたときに、わたくしになされた挑戦を取り上げてみましょう。フランス語でpulsion[衝動]という質の落ちた用語をその訳語として使えなかったとしたら、私が最終的に頼ったのはderive[疎隔]という語でした。
だから、生物学的観察に基づこうとそうでなかろうと、本能-生き物がその必要を満たすためにその本性によって要求される知[connaissance]のあり方の一つですが-とは、それが[分節化された]知[un savoir]にはなりえないがために、われわれが感服している一種の[経験上の]知[connaissance]として定義されます。しかし、フロイトの著作では全く異なったものが問題となっています。つまり、それは確かに知[savoir]ではあるのですが、少しも知[connaissance]を含んでいないような知です。それは言説の中に刻み込まれていますが、主体は-古代の通信奴隷のように、この男を死に処するという死刑執行書を髪の毛の中に入れて運んでおり-その言説の意味も知らず、テキストも知らず、どのような言語[langue]で書かれているかも知らず、眠っている間に髪の毛をそり落とされた頭蓋に入れ墨されていることさえ知らないのです。
この弁明は、無意識がほとんど生理学とは関連があるはずがないということを強調し過ぎるということはありません。
このことは、精神分析が生理学に対してその最初からしてきた貢献を点検することによって推測できます。たとえ性的器官を含めたとしても、その貢献は全くありませんでした。どれだけの作り話をでっち上げたところで、この均衡を破ることはないでしょう。
というのも、精神分析はもちろんのこと、身体の現実性[reel]とその想像的な身体図式にかかわっているからです。しかし、「発達」によってお墨付きを与えられた視点からその意味を理解するためには、発達段階を説明しているようにみえる、多かれ少なかれ断片化された統合性がまず第一には紋章、つまり身体の紋章の要素として機能しているということを、われわれはまずもって知らなくてはなりません。このことは、子供たちの絵を解釈するときそれらの要素が使われる仕方によって確認されます。
これは逆説的特権の核心-それについてはのちに触れることになりますが-であり、その特権をファルスは、無意識の弁証法、それを説明するには不十分な部分対象理論において持ち続けています。
自由への道を新たに切り開くこの奴隷制度-もちろん実際の発生源というよりはむしろ神話なのですがーに関しては、それ以前は誰も持っていないものだとしてこの奴隷制度が隠していたものを明らかにしたために、ここではそこに隠されているものを指摘することができます。
この奴隷制度を生じさせている闘争はまさに純粋な威信の闘争と呼ばれます。だから、賭けられているもの-生それ自体-は、ヘーゲルは気づいていなかったものの、わたくしは鏡像的捕捉の力動的な原発力として位置づけたのですが、誕生の発生的未熟性という危険を反映するのにうまく適合しています。
しかしながら、死は-(値がどれほど高くつけられようと限界があるので、ヘーゲルの賭けもまたポーカー・ゲームであるのですが、死をパスカルの賭けよりも公正なものにしている)掛け金へと死が引きずられているというまさにその理由で-、最初の規則ばかりか最終的な決着によっても省かれるものを同時的に示しています。というのは、最終的な分析において負けた人が奴隷になるのならば、彼は死んだはずはないからです。言いかえると、平和を持続させるには常に平和が暴力に先行しますし、わたくしが象徴界と呼んでいるものが想像界を支配しており、本当に殺人者が絶対的主人であるかどうかと、われわれが疑問に思うこととなります。
というのは、その効果である死に基づいて問題を決定するのは十分ではないからです。われわれは、生がもたらす死か、生をもたらす死か、どちらの死なのかを知る必要があります。
ヘーゲルの弁証法が抜け落としているものがあると批判するのではなく-主人たちの社会をまとめ上げる結束の欠如がずっと以前に指摘されましたが-、わたくしがもっぱら強調したいと願うのは、わたくし自身の経験をもとにすれば、そこで露骨に症候学的なものとして、つまり、抑圧を示唆しているものとしてわたくしを驚かせているものです。これは明らかに理性の狡知のテーマであり、その魅惑は決してわたくしが以前指摘した誤謬によって減弱するものではありません。ヘーゲルが述べているように、死の恐怖のせいで享楽を諦めて奴隷が従事している仕事とは、まさしく、彼が自由に到達するための道なのです。政治的にも心理学的にもこれほど明瞭な囮はありえません。享楽はやすやすと奴隷に訪れますから、彼を農奴制の下で働かせることになるのです。
強迫的構造は知識階級の間でありふれていると知られており、そのように周知の強迫症者に特徴的な個人的神話を反映しているために、理性の狡知というのは魅惑的な考えです。しかし、たとえこの範疇にある誰かが教授の間違った信念を避けえたとしても、自分の仕事が享楽への接近を許してくれているのだと誤解することがよくあります。ヘーゲルによって書かれたこの物語にまさしく無意識的な敬意を払うことで、奴隷はしばしば自分のアリバイを主人の死に見いだします。しかし、この死の何にでしょうか。奴隷はそれをただ単に待っているのです。
実際、彼が自分自身を位置づけている大文字の他者の地点からゲームを始めて、死がほんの冗談であるような「自己意識」の中で、自身に対するあらゆるリスクを-特に論争のリスクを-取り除いていきます。
わたくしがこう言うのは、フロイトが欲望について語ったことによってなされた侵入の重要性を低減できると哲学者たちが思わないようにするためです。
そして、これは、もはや怠惰によって補完されることさえないような教育的平凡さへと退行してしまった実践、そこから哲学者に滴り下りてくるあらゆるものを、要求が欲求不満の効果とともに埋没させてしまった、という言い訳の上でのことです。
そう、フロイトの発見にかかる解決しがたいトラウマが、今では単なる抑圧された切望であると考えられているのです。子供の観察や症例観察を幼児期に遡ることによって精神分析は養われてきました。このようになされた報告は、すべてそのままに承認しておいて端折りましょう。
そして、それらすべてを今あるがままにして、ユーモアのほんのわずかなほのめかしも取り除きましょう。
その著者たちは今では立派な地位を獲得するのに関心があるので、無意識が言語の根源のせいにしている取り返しのつかない馬鹿さ加減に対する余地を残していません。
しかしながら、主体の起源にあると想定されている必要には、要求が受け入れられるやり方によっては不一致が導入される、と文句をいう人たちにとっては、シニフィアンの狭い道をどの点でも通らないような要求はないのだという事実を無視することは不可能です。
そして、人が出産後しばらくの間は動けない、まして自給自足できないという身体的な弱点は、依存の心理学の根拠を提供しているのですから、この依存が言語の宇宙によって維持されているという事実を、この心理学はどうして無視することができましょうか。実際、必要は言語によって、そして言語を通して、多様化し抑制されてきたので、われわれが主体を、あるいは政治を取り扱っているのであれ、必要の導入が全く異なった次元にあるようにみえるほどです。言いかえると、この必要は、この新しい経験の中でわれわれが直面させられているあらゆるものとともに、欲望の貯蔵庫へと移っていくほどです。あらゆるもののうちには、欲望がモラリストのために作り上げた古臭い逆説と、神学者がそこに見いだした無限の印があり、その地位の不安定さは言うまでもないことですが、その一番最近の形はサルトルによって述べられています-欲望、無用の情熱。
種の生存がそれによっているがために、最も自然な機能と呼んでよいものの中における欲望につぃて、精神分析がわれわれに示しているものは、その仲介や充当性さらに正当性においても主体の歴史の偶然性(不測の事態としてのトラウマの概念)に従っているだけでなく、欲望すべてが構造的要素-調停するためには、これらの偶発事がなくてもかなりうまくやることができますが-の支持を必要としています。構造的要素の調和がとれておらず、予期されてなくて、しかも反抗的な影響は、[最も自然な機能における欲望の]経験に確かに痕跡を残しているようにみえますが、それによってフロイトは、性的なものが、とても自然とはいえないある種の欠点の印であったことを認めることとなりました。
フロイトのエディプス神話がその問題についての神学に終止符を打ったと考えたとしたら、われわれは間違っていることとなります。というのも、この神話は性的ライヴァルの人形を操ることに限ってはいないからです。そこに読み取った方がいいものとは、フロイトの座標軸を使ってわれわれがじっくり考えるようにとフロイトが要請しているものです。というのは、それらはつまるところフロイト自身が始めた問いになるからです。父とは何者か。
「それは死んだ父だ、」とフロイトは答えますが、誰も彼の言うことを聞きません。そして嘆かわしいことに、ラカンが「父の名」の標語でもって再びそれを取り上げたという事実のせいだけで、とても科学的とはいえない状況のために、さらに彼の通常の聴衆まで奪うはめになったのです。
しかしながら分析的考察は、一定の原始的人類の間での男親の機能についての問題含みの誤解をぼんやりと話題にしてきました。だから、精神分析家は-「文化主義」という密売品の旗のもとに集まることで-権威の諸形態について議論してきましたが、それに関しては、人類学のいかなる分派も重要な定義を提供してきたとはとてもいえるものではありません。
われわれがもったいなくも父の機能に評決を下すまでは、時がたてば標準的なものになるような実践、ファルス中心主義を受け入れない女性にだれか立派な男性の精子を人工的に播種するという実践に、われわれが出合うまで待つのでしょうか。
しかし、エディプスのショーは、悲劇のもつ意義を失いつつある社会の諸形態においては、もっと広範囲にどこまでも進むということはありえません。
シニフィアンの地点としての大文字の他者という概念から始めましょう。権威ありげな陳述は、その言明それ自体を除けば他にいかなる保証もありません。というのも、陳述が別のシニフィアンの中に保証を求めたところで、その地点以外のところには決して現れることができないために無駄だからです。わたくしはこれを公式化して、話すことができるようなメタ言語は存在しないと言いました。あるいは、もっと警喩的に言えば、大文字の他者の大文字の他者はないのです。そして、立法者(法を規定すると主張する人)がこれを償いにやって来るとしたら、彼は詐欺師としてそれをしているのです。
しかしながら、法それ自体が詐欺師なのではありませんし、法に基づいて自身の行動を権威づけるのが詐欺師でもありません。
父が法の権威の本来の代理者とみなされるかもしれないという事実は、大文字の他者の場所を現実的に占めるように導く主体、すなわち母を超えて自身を維持していくのに、どのような特権的な存在様式によったものかを、われわれが特定することを要求してきます。問いはこのようにして一段階押し戻されます。
この点について-要求は愛の要求ですから、(あらゆる要求が内包している)あまり相応しくない空間をここで開陳することでーさらに「でっち上げたり」、議論するのをわたくしが許さなかったのは、奇妙に見えることでしょう。
だから、その代りにわたくしは、欲望の場所を本当に作り上げるために、要求の同じような効果のせいでそれを満たすことなく閉じてしまっているものに、それを焦点化しました。
実際それは極めて単純であり、最初はその中の必要を表すために主観的な不透明さを引き留めているだけなのですが、人間の欲望が具体化している大文字の他者の欲望のように、どのような意味なのかを述べるつもりです。
ある意味でのこの不透明さが、どのようにして欲望の実質をなしているかをここで説明してみましょう。
欲望が形をとり始めるのは、要求が必要からもぎ取られる辺縁においてですが、この辺縁は、普遍的な満足はないのですから(これが「不安」と呼ばれます)、要求が-その訴えは大文字の他者に関してのみ無条件でありうるのですが-、必要によってここで生み出されるかもしれない間隙を装うことで開いている辺縁です。辺縁は直線的であるかもしれないので、大文字の他者の気まぐれという象の足で踏みつけられなければ、めまいを起こすような特性の現れることがあります。そうではあっても、この気まぐれが全能の幻想を生み出し、-それは主体のでなく、主体の要求が任じている大文字の他者の全能です(そろそろこのバカげた言い回しが一度だけ、しかもすべての関係者にとって、それ自身の場所に置かれる時です)-この幻想と一緒に、大文字の他者が法によって抑えられるべき必要性を生み出しているのです。
しかしもう一度欲望の場所に戻るためにここでやめましょう。法は欲望の中で生まれるものですから、欲望は法の仲介とは独立して生まれます。愛に対する要求の無条件性を、いびつな均衡によって欲望が反転させているという事実に負っています。そこでは、大文字の他者を絶対条件(「絶対」はまた「分離」を意味します)の力に持ち上げるために、主体は大文字の他者に従属したままでいます。
必要と関連した不安が克服されて事態が首尾よく運ぶと、この分離はまさにそのつつましい様式のおかげでうまくいきます。その様式は、ある精神分析家の子供に関する仕事によって混乱させられており、彼はそれを「移行対象」、言いかえると、子供が唇や手で触るのをやめられないような毛布の切れ端や大事な小物のこと、と呼んでいます。
率直に言って、これは記章にほかなりません。絶対条件下での代理の代理者は無意識の中のしかるべき場所に存在しますが、そこでは無意識が、わたくしがそこから引き出そうとしている幻想構造に一致した欲望を生じます。
というのは、ここで明らかなように、人の欲望の持続的な非科学性は彼が要求するものの非科学性ほどではありません。それは結局、彼が欲望している場所の非科学性のように孤立しているかもしれません
これは、無意識は大文字の他者についての言説[discours de l'Autre]であるというわたくしの公式が当てはまっているところですが、deはラテン語のde(目的語の確定)の意味で理解されるべきです:de Alio in aratione (それを完成させれば tua res agitur)。
しかしながら、人の欲望は大文字の他者の欲望である[le desir de l'homme est le desir de l'Autre]とも付け加えなくてはいけませんが、そこではdeが文法学者のいう「主語の確定」とよぶものを提示しています。つまり、人が欲望するのは大文字の他者としてです(これが人の情動の本当の範囲を提示しているものです)。
こうした理由で大文字の他者の問い-それは、主体が神託の返答が来るのを期待している場所からやって来るのですが-は、「おまえは何を欲するのか」という形をとりますが、主体を彼自身の欲望の細道へと最もうまく導いてくれる問いです。もっとも、精神分析家としての同伴者の作業手順のおかげで、主体がそれを知らなくても、「彼はわたくしから何を欲するのか」という形でその問いを取り上げると仮定してのことですが。
このように上に架された構造次元が、わたくしのグラフ(図3)をその完成された形へと推し進めてくれることでしょうが、最初にそこに入り込むのは、大文字のAの円から延びた疑問符の形をとりますが、不安を呼び起こすような小丘形をなしており、それが何を意味しているのかとの問いを象徴化しています。
これはどのような瓶を開ける栓抜きなのでしょうか。どのような答えのシニフィアン、つまりマスターキーなのでしょうか。
注目されるべきは、主体をして自身の本質への問いに向かって突進させるのに任せている明瞭な疎外の中に、その手掛かりが見いだされることです。そこでは、彼の欲望しているものが彼の望んでいないものとして彼に提示されている、と誤解されているかもしれません。誤解が奇妙な仕方で入り込んでいる否認によって想定された形であり、この誤解について彼自身は気づいていませんし、それによって彼の欲望の永遠性を自我に受け渡すのですが、自我はそれでもやはり明らかに間欠的ですので、逆に、この間欠性そのものを自我のせいにすることで、自身の欲望から自身を防衛しています。
もちろん、自己意識に接近可能なものの拡がりには驚いてしまうことがありますが、別の通路によってそれを知ったという条件があってのことです。ここでの場合がまさにその別の通路です。
というのは、このことすべてが適切であると再発見しなければならないとしたら、分析経験の内容にしか位置づけることのできない十分に洗練された研究によって、われわれが幻想構造を完成できなくてはなりません。ここでは、時々省略されるのは無視して、主体の消失あるいは食の時-それは、主体がシニフィアンに従属しているために被っている分割と緊密に結びついているのですがーを、対象の状態(わたくしはその特権に通時性を参照して触れることしかしませんでした)と根源的に結びつけることによってなされました。
これが短縮形(S/<>a)によって象徴化されているものですが、それをわたくしはアルゴリズムとして取り入れました。そして、意味作用の単位によって構成された音素を、まさに文字の原子にまで破壊するのは偶発的な事ではありません。というのは、種々の多様な読み方を見越すべくそれが構想されているからであり、その多様性はそれについて言われているものが代数に基づいている限りで受け入れられています。
グラフで使われているアルゴリズムやそれの類似物は、わたくしが以前メタ言語について話したことと決して矛盾しません。それらは超越的なシニフィアンではありません。それらは絶対的な意味作用、つまり、これ以上の解説がなくても幻想の条件にふさわしいと思われるだろうとわたくしが考える概念の指標です。
グラフは-ちょうど自我の身体像との関係がそうであるように-、欲望がこのように位置づけられた幻想に適応することを示していますが、グラフはまた、一方が他方にそれぞれ基礎づけられている誤認の反転をも示しています。このようにして想像的な道が閉じられますが、それによってわたくしは、無意識がそれ自体であった(はず)の精神分析されている状態に入っているに違いありません。
幻想は実際のところ-文法的自我についてのダムレットとピションによって使われた比喩を借り、さらに、それがよりふさわしい主体に対して適用されることで-、それが言明の消失する場合にだけ示されうるのだから、一次的に抑圧されているわたくしの「本質」であると言うことにしましょう。
実際われわれの関心は今や、無意識、より適切には一次的抑圧(原抑圧)下にあるシニフィアン連鎖の主体の地位にひきつけられています。
しかしながら、わたくしの完成したグラフによれば、われわれは欲動をシニフィアンの宝庫として位置づけるのができるのですが、その表記(S/<>D)は、欲動を通時性と結びつけることでその構造を維持しています。主体が要求から姿を消すときに、欲動はそこから由来します。切れ込みが残存することを除けば、要求もまた消えてしまうのは言うまでもありません。というのも、切れ込みは欲動とそれが住まっている器質的機能とを区別するものに存在し続けているからです。すなわち、文法的技巧のことですが、源泉と対象の両方についてその技巧の分節化が反転することに明白に表れています。(フロイトはこの点についての豊富な源泉です。)
欲動が機能代謝(むさぼり行為は口以外の器官も巻き込んでいるーパヴロフの犬にちょっと訊いてみなさい)から分離している「性感帯」の限界設定そのものは、辺縁あるいは境界の解剖学的特徴を利用している切れ込みの結果です。口唇、歯の閉鎖部分、肛門の辺縁、ペニスの溝、膣、両瞼によって作られた隙間、耳の穴は言うまでもありません(わたくしはここで胎生学の詳細に立ち入ることはしません)。呼吸器の性愛性はほとんど研究されていませんが、明らかに痙攣によってそれは働いています。
切れ込みのこの特徴は、分析理論によって記載された対象(乳房、糞便、想像的対象としてのファルス、それに尿流)に、なんといっても非常に広くみられることを記しておきましょう。(わたくしたちがしているように、音素、視線、声、それに無を付け加えるのでなければ、思いもよらないリスト。)というのも、対象において正しく強調されているような部分的であるという特徴は、この対象が対象全体(身体がそうであると想定されていますが)の部分であるという理由からでなく、対象がそれを生み出す機能を部分的にしか代理していないという理由で当てはまるのだ、ということが明らかにわかるのではないでしょうか。
これらの対象に共通の特徴は、わたくしが明確にしているように、わたくしが明確にしているようなそれが特別な像を、言いかえると変更可能性*をもたないということです。こういう理由から、これらの対象は、意識の主体であると考えられている主体それ自体の「素材」、あるいはこういった方がいいのでしょうが、その裏地-そうはいっても裏側ではないのですが-であるのです。というのは、陳述において自分自身を名指すことで、この主体は自分に同意できると考えるのですが、この主体とはそのような対象に他なりません。スランプにある誰かに彼の感じている不安について訊いてみなさい、そうすれば彼は自分の幻想の中で誰が糞の塊かあなたに教えてくれるでしょう。
鏡の中では把握できないこの対象に向かって、特別な像は自分の衣装を貸し与えます。影の網に捕らえられた実質、しかも、影で膨らまされた嵩がなければ、まるで実質であるかのような影という陳腐な囮をもう一度付与している実質。
このグラフがわれわれに提供しているものは、シニフィアンの鎖のどれもが誇りを持ってその意味作用を閉じている点にあります。われわれが無意識の言明からそのような効果を期待できるとしたら、それはここS(A/)にあり、大文字の他者における欠如、つまりシニフィアンの宝庫としての大文字の他者の機能そのものに内在する欠如のシニフィアンとして読まれます。そしてこれは、この宝の価値に答えるように、すなわち、上位の連鎖を構成するシニフィアンでもって-言いかえると欲動の観点から-下位の連鎖でのその場所に答えるようにと、大文字の他者が要求される限りでのことです。
問題になっている欠如はわたくしがすでに公式化したものです。それは、大文字の他者の大文字の他者はないというものです。しかし、真理の不誠実というこの特徴は、われわれ分析家が大文字の他者の代弁者として、「大文字の他者はわたくしから何を欲しているのか」という問いを発するときに、本当に答えるに値する最終的な言葉なのでしょうか。もちろん違います。というのもまさしく、われわれの役割については教義上なにもないのですから。われわれは、どのような究極的な真理に賛意を示すことも、もちろんいかなる特別な宗教に賛成することも、反対することもありません。
わたくしが、ここに[S(A/)に]フロイトの神話にある死んだ父を位置づけなくてはならなかったのはすでに意義深いことでした。しかし、神話というものは、儀式を下支えするのでないのならば、何ものでもありませんし、精神分析はエディプスの儀式ではありません。-この点は後程論述されます。
疑いもなく、死体はシニフィアンですが、モーゼの墓がフロイトにとって空なのは、キリストの墓がヘーゲルにとってそうであるのと同じことです。アブラハムは彼らどちらにも自分の秘密を明らかにしませんでした。
わたくしとしては、短縮形S(A/)が分節化するもの、それは何よりも一シニフィアンなのですが、それでもって始めようと思います。わたくしのシニフィアンの定義(それ以外にはないと思うのですが)は次のようです。シニフィアンは主体を別のシニフィアンに対して代理するものであるというものです。だから、この後者のシニフィアンは、すべての他のシニフィアンが主体を代理している当のシニフィアンなのです。それが意味するのは、このシニフィアンが欠けていれば、すべての他のシニフィアンは何も代理していないということです。というのは、何ものもただ代理されているだけですから。
今では、諸シニフィアンの集合がある限りそれは完全です。そして、このシニフィアンは、その数に入れられることができずに、その円から引かれた線であることしかできません。これは、諸シニフィアンの集合の中における-1の内在性によって象徴化されます。
それはそのようなものとして発音することはできませんが、その作動性はそうではありません。というのは、後者は、適切な名前が発音されるときにはいつも生じるものですから。その陳述はその意味作用と同等です。
だから、わたくしの使う数式に従ってこの意味作用を計算すれば、このようになります。
S(シニフィアン)
――――――― = s(陳述)
s(意味されたもの)
S=-1であれば、s=√-1
これは、主体がコギトによって徹底的に所在確認されているものと考えているときに、主体が取り逃がしているものです-主体は自身について考えられないものを取り逃がしているのです。この存在は適切な名前の海からは何らかの仕方で取り逃がされているようにみえるのですが、それはどこから由来するのでしょうか。
われわれはこの質問をわたくしとしての主体にすることはできません。主体はこの答えができるためには、彼が必要とするあらゆるものを取り逃がすこととなります。というのは、この主体、すなわちわたくしが死んでいるのならば[ moi, J'etait mort]、わたくしが以前述べたように、主体はそのことを知らないでしょう。このように、主体はわたくしが生きていることを知りません。だから、どのようにしてわたくしはそのことを自身に証明できるでしょうか。
というのは、わたくしがせいぜい大文字の他者に証明できるのは、大文字の他者が存在するのは、何世紀も大文字の他者を殺し続けてきた神の存在の証明によるのでなく、キリスト教教義によって取り入れられた解決法である、大文字の他者を愛することによってです。
ともかく、われわれは何なのかというわれわれの問題を迂回するために、それを使おうと思うことさえあまりに根拠のない解決法です。
わたくしは、「宇宙は非在の純粋さにおけるひとつの欠陥である」と叫ばれるような場所にいます。
そして理由のないわけではありませんが、この場所自身を防衛することで、それは存在自身をやむなく在らしめているのですから。この場所は享楽と呼ばれ、享楽こそがその不在によって宇宙を虚無にしてしまうのです。
それでは、わたくしはそのことに責任があるのでしょうか。もちろんあります。それでは、その欠如によって大文字の他者を一貫性のないものにしてしまう、この享楽はわたくしのものなのでしょうか。経験が証しているように、享楽が通常わたくしに禁じられているのは、あるバカ者たちがしているように、悪い社会的手はずによるだけではなく、-大文字の他者が咎められるべきだからだと言いたいのですが-、もし宇宙が存在するはずだとしたら、そうだからです。しかし、宇宙は存在しないのですから、わたくしに残されていることのすべてのこととは、わたくしを咎めることです。すなわち、リストの先頭にフロイトを戴いたわれわれすべてが経験によって導かれていくもの、つまり原罪の存在を信じることです。というのは、たとえわれわれにフロイトの表明や悲しげな告白がなかったとしても、われわれがフロイトに負っている神話は-歴史上ごく最近ですが-、禁断の果実の神話ほど役立つものではないという事実があるからです。ただし、その神話はより簡潔であるから、あまりうんざりさせることはないという事実(しかもこれは神話としての資産の一つではないのです)を除けばの話です。
しかし、フロイトがエディプス神話を公式化したのとまさに同じころにそれを公式化したのですが、神話とは違いますが、去勢コンプレックスがあります。
去勢コンプレックスには、その弁証法という手段によってここで分節化しようとしている、まさしく転覆の源泉をわれわれは見いだします。というのは、このコンプレックスは、フロイトが欲望の形成にそれを導入するまではそうしたものとして知られていなかったのですが、主体へのいかなる反映においてももはや無視できません。
精神分析においては、さらにその言分節化をしていこうと試みるよりも、人々はそれに何らかの説明をするのを故意に避けてきたように思われます。そうしたことが、サムソンのような大柄な体が小さくされ、一般心理学というペリシテ人の工場にとって有益なものを提供するようになった理由です。
確かにここには勃起したペニス[os]があります。それはまさしくわたくしがいちゃもんをつけているものーすなわち、主体を構成しているものーですから、それは本質的には主体における間隙を構成しています。この間隙は、思考が弁証法的であれ数学的であれ、思考が循環的に自身を維持するのに明らかに成功しているときにはいつも、あらゆる思考により回避され、跳び越えられ、迂回され、あるいは塞がれています。
こうした理由でわたくしは、想像界から象徴界へと裂開する結合分離によって論理が台無しになる場所へと学生たちを導くように仕向けられますが、このように生じる逆説や、思考において想定される何らかの危機に耽るためではなく、反対に、その場所の偽りの輝きをそれが指定している間隙に仕向け直すためであり-それをわたくしはいつも教化的であると思うのですが-、そしてなによりも、まさしくその不適切さのせいで秘密が染め出されるような、一種の計算からひとつの方法を創造しようとするためなのです。
それが原因として知られている幻想ですが、それをわたくしは、似たものと似ていないものとの交替による想像的なものの純粋な象徴化の中に追究してきました。
それゆえ、マナあるいはそのような用語の意味を、わたくしのシニフィアンS(A/)に参照させるのに反対しているのは何なのかを、注意深く調べてみましょう。それは、そのような用語が想定されたある事実全体に遡ってたどれたとしても、われわれは社会的事実の貧弱さのせいで満足にそれを説明できないという事実です。
http://hiroshikaquail.cocolog-nifty.com/blog/2016/07/post-ecf9.html
クロード・レヴィ=ストロースはモースの仕事を批評するときに、疑いなくマナの中にゼロ記号の効果をみてとろうとしていました。しかし、われわれの症例において取り扱っているものは、むしろこのゼロ記号の欠如のシニフィアンであるように思われます。こうした理由で、ある程度公然の非難を受ける危険を冒してまで、わたくしなりの使い方をすることで数学的アルゴリズムを捻じ曲げるに至ってしまったことを示しました。例えば、複素数理論ではiとも書かれる記号√-1のわたくしの使い方は、その後の操作でもそれが自動的に使われうるという権利を諦めた場合にだけ明らかに正当化できます。
享楽それ自体は、話す人だれにも禁じられている[interdit]ということを心に留めておかなくてはいけません。あるいは別の言い方をすれば、法はまさしく禁止の上に打ち立てられているのですから、享楽は法の主体である誰によっても行間で言われうる[dite]だけです。
確かに、法が「享楽せよ」[Enjoy]と命令を与えるものだとすれば、主体は「わかった」[I hear]としか返事できません。そこでは、享楽はもはや聞き届けられる[sous-entendue]以外の何ものでもありません。
しかし、主体が享楽に接近するのを妨げるのは法それ自体ではありませんー法はほとんど自然な妨害物から斜線を引かれた主体を作り上げるだけです。というのは、享楽に限界を設定するのは快だからです。それは、フロイトが一次過程とそれに関連した快法則として発見した規制から別の禁止がーこれは変化できないものですがー生じるまでは、首尾一貫しない生を結び合わしているものとしての快です。
この発見においてフロイトは、彼の時代の科学-いいえ、長く続く伝統です-によってすでに追跡されてきた道をただ辿って来たのだといわれてきました。彼の歩みの真の大胆さを評価するには、遠からずやって来た彼への報いを考えてみるだけでいいでしょう。すなわち、去勢コンプレックスの種々雑多な本性についての行きづまり。
後者はこの享楽の無限性における唯一の徴候ですが、それは同時に禁止の印をもたらし、この印を構成するための犠牲を要求します。それは、その象徴であるファルスを選ぶのと同じ行為に内包されている犠牲です。
この選択が許されるのは、ファルス-すなわちペニスの像です-が、特別な像として位置づけられているところでは否定されているからです。それは、欲望の弁証法においてファルスが享楽に形を与えるようにあらかじめ宿命づけているものです。
それゆえ、われわれは、象徴的なものである犠牲の原理と、それに捧げられてはいるが、この原理にその道具を提供すると同時に、この原理を覆い隠している想像的機能とを区別しなくてはなりません。
想像的機能とは、対象を自己愛的なものとして支配する機能であるとフロイトは公式化しました。わたくしが、身体リビドーを対象へと注入することによってたどられた道筋が、この特殊な(想像的)像であることを示したとき、わたくし自身ここに立ち戻ってきました。しかし、自己性愛の最も親密な面をこの浸出自体の中で濃縮することによって、一部分がこの浸出から守られたままである限り、形の面での「先鋭的極端さ」としてのその位置は、この一部分がその幻想へと向かって崩れ落ちるように仕向けます。そこでは、特殊な像からの排除は、それが対象世界の代わりに構成している原型がそうであるように完全されます。
このように勃起器官は-それ自身としてではなく、ましてや像としてでもなく、欲望された像には欠けている一部分として-享楽の場所を象徴化しにやってきます。この理由で、勃起器官は√-1と等置されます。すなわち、上で生じた意味作用の、つまり欠けたシニフィアン(-1)の機能へと-言表の係数によって-勃起器官が復帰させようとしている、享楽の記号との等置です。
もしそれがこのようにして享楽の禁止に合致するのに役立っているとしても、やはりそれは形式的な諸理由によるのではなく、諸々の理由の交替が、熱望された享楽すべてを自己性愛の簡潔さへと還元させているものを意味しているからです。話す存在の解剖学的構造によって-すなわち、猿の一層完全な手によって-ずっと辿られてきている道は、実際のところ、不適切にもこれまで皮肉だと名づけられてきた知の道として、ある哲学的禁欲のもとで見下されてはきませんでした。われわれの時代のある人たちは、間違いなくこの記憶にとりつかれて、モースがそう呼んでいるような「身体的技術」の伝統にフロイト自身が属しているのだと、わたくしに諭してくれました。そのような実践によって生まれた罪の始原的な特徴を、分析経験が証しているという事実は残り続けます。
すなわち、現実の器官に付される機能に見いだされることのない、享楽を思い出させるものと関連した罪、それに、禁止する対象によるシニフィアンの想像的機能の神聖化です。
実際、これは根源的な機能で、それについての思いがけない原因をより野蛮な精神分析の時代が(教育によって)見いだしましたが、それはちょうど器官の聖別化(割礼)を外傷だとして、別の形で-立派なことに、その時代はそれに関心を持ってなかったのですが-再解釈したようなものです。
ファルスの像である-φ(小文字のphi)を想像界と象徴界の間の等式の一方から他方へと移動させることによって、たとえそれが欠損を埋めているとしても、ともかくも-φを肯定化しています。-φは-1を下支えしていますが、そこでΦ(大文字のphi)に、すなわち、(否定化されえない)象徴的ファルス、享楽のシニフィアンになります。そしてこのΦの特徴が、女性の性への接近の特殊性と、男性が倒錯に関して弱い性であることの両方を説明しています。
わたくしはここでは倒錯を取り上げるつもりはありません。欲望がAの替わりにしていることですが、幻想の中で対象aの優勢性を-享楽の特権的な場所において-構築している限り、倒錯が人における欲望の機能を強調することはほとんどないのですから。倒錯はそれにφの回復を付け加えますが、それがそのような大文字の他者にかなり特殊な仕方で関わらなかったとしたら、とても始原的であるようには見えないでしょう。わたくしの幻想の公式だけが、主体それ自体がここで大文字の他者の享楽の道具になっているという事実をわれわれにもたらしてくれます。
まさに神経症者がそれを歪ませているからこそ、神経症者にはこの公式が妥当するということを理解するのは、哲学者にとってより関心のあるところです。
実際、神経症者とは、ヒステリーであれ、強迫症であれ、もっと根源的な恐怖症であれ、大文字の他者の欠如を大文字の他者の要求と、すなわちΦをDと同一化している者のことです。
そうしたわけで、大文字の他者の要求は神経症者の幻想においては対象の機能を帯びます。つまり、彼の幻想は(わたくしの公式は直ちにこれを現実化するのを可能にしていますが)欲動(S/<>D)へと還元されます。神経症者の欲動をすべて列挙できたのはこの理由によります。
しかし、神経症者が要求に与える優先性は-それが、容易さを選択しようとする精神分析の動きにおいては、治療全体を欲求不満の操作へと向かわせているのですが-、大文字の他者によって彼に引き起こされる不安を隠します。この不安は、恐怖症の対象だけですっかり覆われたときには誤解されえませんが、他の二つの神経症の症例では、幻想を大文字の他者の欲望と仮定できるようにする脈絡を持ってはいないので、理解するのがより困難です。われわれがいったんこれを仮定すれば、幻想の二つの項が、いわば二つに引き離されます。ひとつは、強迫症の症例の場合で、大文字の他者の欲望を拒否して、主体の消滅できないことを強調するほどに自身の幻想を作り上げるという形で。ふたつめは、ヒステリーの症例の場合で、満足の欠如によってのみ欲望が幻想の中で支えられているという形でなのですが、ヒステリー者は欲望の対象として満足をなくすことで欲望をもたらしています。
これらの特徴は、大文字の他者の保証人でありたいという強迫症者の基本的な必要と、ヒステリー者の術策である忠実さによって確認されます。
実際、理想的な父の像は神経症者の幻想です。母-要求の現実的他者ですが、彼女がその欲望(すなわち母の欲望)の調子を下げるのをわれわれは望んでいます-の向こう側に、欲望に盲目の目を向けている父の像が屹立しています。これは、基本的には欲望を法へと結びつけている(対立させるのではなく)父の真の機能を印づけています-暴いているのでなく-。
神経症者が望んでいる父は、はっきり言って、死んだ父-それは容易に見てとれます。しかし、彼はまた欲望の完全な支配者であるような父でもあります-ですが、主体がかかわっている限りでは、まさしく正義として存在するのです。
これは、分析家が避けなくてはいけない躓きの石の一つであり、転移の終わりのない側面の核心です。
この理由で、分析家の「中立性」という計算されたためらいが、ヒステリー者には何らかの諸解釈よりも有効なのです。もちろん、このリスクが患者に引き起こす恐怖によって分析が打ち切りにならないという条件下でのことであり、結果的に分析者の欲望が決してこの事態に取り込まれていないと、被分析者が確信しているという条件下でのことです。もちろんこれは技法論に関して勧められるものではありませんが、(それについて他にはどのような考えも持つことができないような)人々にとっては分析家の欲望という問いに関する一つの観点です。分析家はどのようにして他者に対する自身の支配力や必然的な不完全さについての想像的次元を防衛すべきかということは、分析を求めて分析家のところにやって来る各主体についての非科学性や、誰も典型的な症例であるとは考えられないような、常に更新される無知について、分析家が計画的に強化していることと同じくらい重要に取り扱われるべき事態です。
幻想に戻れば、倒錯者は自分自身の享楽を確認するために自分が大文字の他者であると思っており、これは神経症者が自分を倒錯者であると思っているときに漏らしている-彼の場合は、大文字の他者への支配を確認するために-ことです。
これが説明しているのは、神経症の核心には倒錯が想定されるということです。神経症者の無意識においては、倒錯が大文字の他者の幻想を装っています。しかし、これが意味するのは、倒錯者の無意識はまさに大っぴらになっているということではありません。倒錯者もまた、自分なりの仕方で自分自身を欲望で守っています。というのは、欲望は防御、つまり享楽における限界を跳び越えないようにする防御になっているからです。
わたくしが享楽を定義した構造においては、幻想は去勢の想像的機能である-φを、その諸項のうちの一方から他方へと転換できる隠された形で含んでいます。言うなれば、複素数と同じで、幻想は諸項のうちの一つを他項との関連で二者択一的に想像化(この用語をわたくしに許してくださるのならば)しています。
対象aにはアガルマが含まれており、それは、アルキビアデスがソクラテスの姿という質素な箱の中にあって、自分のものであると言い張っている、計り知れない宝のことです。しかし、それにはマイナス記号(-)がついているということに注目しましょう。アルキビアデスがソクラテスのペニスをみたことがなかったからこそーここでプラトンを参照させていただきますが、彼はわれわれに詳細を述べませんでしたー、誘惑者であるアルキビアデスはソクラテスの中にアガルマを、つまり、アルキビアデスが自分の欲望を告白することで、ソクラテスから自分に譲ってほしいと思っている驚嘆すべきものを見つけ賛美します。アルキビアデスが自分の中にかかえている自身の主体分離は、この場合かなりはっきりと輝きます。
自身のベールの後ろに隠されていた女性もそういったものです。ペニスの不在こそが女性をファルス、つまり欲望の対象にするのです。女性に装飾的な衣装の下にかわいらしい偽のペニスを身に着けさせて、もっと詳細なやり方でこの不在を喚起してみてごらんなさい。そうすれば、あなたというより、むしろ彼女は、いっぱいわれわれに話しまくろうとするでしょう。その効果は、遠回しに言うことのない男に比べて100%保証されています。そういうものです。
このように自分自身の去勢された対象を見せびらかすことで、アルキビアデスは欲望に満たされているという事実-ソクラテスの注意から逃れることのない事実-を、そこにいる他の誰か、つまりアガトンに向かってひけらかします。ソクラテスは、精神分析の先駆者として、このきらびやかな集まりでの自分の位置に自信を持っており、アガトンを転移対象だと名ざすのに躊躇しないで、多くの分析家がまだ気づいていない事実に解釈によって光を当てています。すなわち、精神分析状況における愛憎効果はこの状況の外で見いだされるのです。
しかし、アルキビアデスは決して神経症者ではありません。実際、彼は欲しがる人の典型であり、可能な限り享楽を追究する人ですから、彼はこのように(役に立ってくれる酩酊の助けを借りてではありますが)、そのきらめきで飾られた対象の存在するときには、公衆の面前で転移という中心的な分節化を生み出すことができます。
彼が完壁な主人の理想をソクラテスに投影していたという事実-彼は-φの活動によってソクラテスのことを全く想像的にとらえていたという事実-は残っています。
神経症の症例では、-φは幻想のS/の下に滑り込み、神経症者の特徴である想像力、つまり自我の想像力を支持します。というのは、神経症者は最初のうち想像的去勢を被っているからです。この去勢は神経症者がそうであるように強い自我を支えているのですが、あまりに強いので彼の固有名詞が彼を悩ませていると言っていいほどですし、あまりに強くて心底では神経症者が無名であるほどです。
分析家の中にはもっと強化しようとしている人もいるのですが、この自我の背後にこそ、神経症者は彼が否定している去勢を隠しているのです。
しかし、見かけとは反対に、彼はこの去勢にしがみついています。
神経症者が望まないこと、彼が精神分析の終わりまで実行されるのを強く拒絶することは、彼の去勢を大文字の他者に役立たせることで、大文字の他者の享楽のために自身の去勢を犠牲にすることです。
そして、もちろん彼は間違っていません。というのは-自分は存在において最も無益なものだ、つまり在りたいと望むもの、あるいはひとつだけ余計なものだと、彼が心底では感じているのですが-、なぜ神経症者は、大文字の他者(そう、忘れないようにしましょう、それは存在しないものなのです)の享楽のために自身の意見の相違(それ以外の何か)を犠牲にするのでしょうか。ええ、しかし、たまたまそれが存在する[existait]としたら、それは享楽する[il en jouirait]でしょう。そして、それは神経症者が望まないことなのです。というのは、大文字の他者は彼の去勢を要求していると考えますから。
分析経験が実証しようとしているのは、正常事例と異常事例の両方で、欲望を制御しているのが去勢だということです。
神経症者が幻想におけるS/とaとの間を二者択一で揺れ動いているのであれば、去勢は幻想から、柔軟性があるものの延長はできない鎖を作り上げますが、この鎖によって対象の固定が**ますが、一定の自然な限界をほとんど超えることはできません。また、去勢は大文字の他者の享楽を確実なものにするという超越的な機能を引き受け、大文字の他者はこの鎖を法においてわたくしに譲り渡しています。
大文字の他者を本当に受け入れようとする人は誰も、大文字の他者の要求ではなくその意思を体験する道を自身に開けておきます。それから、自分自身を対象として現実化して、自身を仏教的秘儀のミイラにしようとします。あるいは、大文字の他者に刻み込まれている去勢しようとする意志を満足させ、見込みのないことの至高のナルシシズムを導きます(後者はギリシャ悲劇への道であり、クローデルは絶望のキリスト教においてそれを再発見しています)。
去勢が意味しているのは、欲望の法の逆転した秤の上で到達されるために、享楽は拒絶されねばならないということです。
これ以上ここでは進むつもりはありません。
結語
この論文はここで初めて出版されます。このような研究会の全会議録を出版するのに普通十分量備わっているはずの資金が予想外に少なかったので、出版とそれと関連する細々したことすべてを含めて中止に至りました。
記録のために言っておくべきことですが、「コペルニクス」の議論はのちになって付け加えられましたし、去勢に関する論文の末尾は、時間がなかったので研究会ではなされることなく、実際は、主体のシニフィアンとの関係が物質化されるという、語の現代的意味における機械についての2、3の発言と取って代わっていました。
どのような議論にも自然な感情を持つ仲間から、特別な不同意のためにわたくしの中に引き起こされた興奮を感じる仲間を排除しないようにしましょう。誰かがわたくしが言ったことに帰属させようとしていた「非‐人間的」という用語は、少なくともわたくしを困らせることはありませんでした。むしろわたくしは、この用語がそのカテゴリーにもたらした新しい要素の誕生する機会を手助けしたことで嬉しく感じました。「地獄」という語に対してはなはだしい怒りがそれにすぐ引き続いて生じたのですが、この怒りには勝るとも劣らぬ関心をもって注目しました。というのは、それを発音する声が、マルクス主義への話し手の忠誠心が宣言されているために、ある種明瞭な小気味よさがあったからです。わたくしがヒューマニズムを評価して受け入れるのは、どこか別のところと比べて勝るとも劣らぬ狡猾さが使われているとしても、それについて少なくともある率直さを示している領野からヒューマニズムがやって来るときです。「鉱夫が家に帰って、妻が彼の体をこすりあげる。」そうすれば、わたくしは無防備になってしまいます。
個人的な会話でわたくしと近しいある人が、煉瓦の壁に向かって話すことは永遠の律法学者を信ずることでしょうかとわたくしに尋ねました(これが彼の質問のし方です)。そのような信心は、どのような陳述もその効果を無意識から引き出すものだということを知っている人にとっては必要のないことだと、返事しました。
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