2021年6月9日水曜日

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日光仕法(二宮尊徳全集巻28) | GAIA - 楽天ブログ

報徳仕法雛形書抜 - 国立国会図書館デジタルコレクション

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日光仕法(二宮尊徳全集巻28)★


日光神領仕法 | 哲学ネットカフェ

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1853年(嘉永六年)〈すなわち振り返ってみれば最晩年期の3年間の初めの年にあたる〉に二宮尊徳翁はいよいよ正式に日光神領復興の命を受け、1855年(安政二年)4月〈すなわちさらに振り返ってみれば最晩年期の18か月間の初めの月にあたる〉に自らの病をおして、一家をあげて、今市に新築された、報徳仕法役所に移り住み、全身全霊を捧げて荒れ地の本格的な復興に取り組みました。
先々週にはその遺構の一つで、二宮尊徳翁一家の移住の前年にあたる1854年(安政元年)に完成した五か村用水路(二宮堀)を訪ね、感慨一入でした。
二宮尊徳翁は日光神領仕法の実践においても「至誠」・「勤労、分度、推譲」をモットーに、村づくり、人づくりに力を注ぎ、日光神領仕法の成果は、五か村用水路(二宮堀)をはじめ、正に各地で脈々と今でも生き続けていると言えるのではないでしょうか。
そして、日光神領仕法をはじめとする報徳仕法とは、そもそも二宮尊徳翁の報徳の教えを具体的に実践することを意味しますが、換言すれば、二宮尊徳翁が何よりも人心開発が不可欠な、文字通り、荒廃の極みにあると言わざるを得ない村の復興の経験とその過程で得た「至誠」・「勤労、分度、推譲」をモットーに、これを村々に拡げていこうとする真の農村復興計画とも言えるものなのです。なお、今市で聞き及んだところでは所在不明とも言われているのが極めて残念なのですが、二宮尊徳翁が制作を指示した、いわゆる「日光神領仕法書」は、二宮尊徳翁・全集にも収録し切れない程の、天文学的ともいえる精緻な質や厖大な量に達していると言えるのではないでしょうか。
また、二宮尊徳翁は、五か村用水路の完成の8年前にあたる1842年(天保十三年)、老中水野忠邦によって、幕府普請役格に登用され、利根川分水路見分目論見御用・手賀沼悪水掘割水盛見分御用を命ぜられています。利根川の河川改修については1624年(寛永元年)から1643年(寛永二十年)の寛永年間にも、治水のため、水路開鑿が試みられてきましたが、大変な難事業でした。そのため、二宮尊徳翁は現地調査実施後に幕府に提出した「利根川分水路開削御普請見込之趣申上候書付」に次のように述べています。それは、利根川分水路開鑿事業の実施は「容易ならざる大業」であるとして、「いわば報徳仕法により、何よりも人の和を得ること」が肝要と次のように力説しています。「恐乍ら天の時により、地の利に就き候儀は申上ぐるに及ばず、人の和を得ずしては成就仕りがたく候」と記し、さらに「下賤の人情を得るに道あり、内に誠ならずんば得がたく候」とも主張しています。要するに「至誠」こそが、全てと強調しているにも関わらず、当時、幕府は二宮尊徳翁をして、一治水事業の技能者としか見ておらず、利根川分水路開鑿事業の遂行にあたっても、利根川分水路開鑿に関わる地域の人の和の構築こそが何よりも先決とする、一見迂遠とみられかねない、二宮尊徳翁の利根川分水路開鑿事業計画は、結局のところ採用されることはありませんでした。しかし、公共事業実施にあたって、何よりも人の和を得ることの重要性を力説しているところは、農民の人心開発に通暁する二宮尊徳翁の面目躍如といえるのではないでしょうか。そういうこともあってか、その翌年の1843年(天保十四年)に、幕府に「荒地開墾安民法」を上呈し、さらにその翌年の1844年(弘化元年)には二宮尊徳翁は日光神領の荒地起こし返し(開発)の仕法調査を命ぜられています。二宮尊徳翁はこの仕法実施に先だち、嫡男弥太郎、門弟富田高慶、斎藤高行、福住正兄等、多数の人々を動員し、1846年(弘化三年)6月に約2年間を費やして「日光再興策御仕法雛形」六十[84]巻を脱稿し、幕府に献上しています。なお、この「仕法雛形」は桜町仕法の体験や思索に基づいてどこの地でも適用できる、いわば仕法の規範として作成されたもので、その意味で仕法原則としての意義をもつものでした。1853年(嘉永六年)の日光仕法の開始にともない、日光奉行所手付となり、70歳で病没する8か月前の1856年(安政三年)2月、御普請役に昇進していますが、二宮尊徳翁の年譜から窺がわれるように、その後半生は、西は遠州、東は相馬の東日本各地における報徳仕法の実践におかれていました。特に桜町仕法の実践活動こそが二宮尊徳翁徳の実践哲学を形作り、報徳仕法を完成せしめる母胎となっているのではないでしょうか。ゴールデンウィークの、生誕の地である、小田原市栢山訪問に始まり、真岡市の桜町仕法の実践地訪問を経て、終焉の地である日光市の今市報徳仕法役所跡地に立つことで、これからの遠州から相馬への東日本各地に拡がる報徳仕法の実践の故地再訪への意欲がさらに高まった次第です(次回以降は、後年、柳田国男が批判を加えたとも言われている、いわゆる五常講と称された、「無利息貸付」について取り上げるとともに、その背景ともなる、いよいよ貨幣経済理論を巡る議論を深めていきたいと思います)。

「年表で見る二宮尊徳・尊行父子の生涯と日光神領の農村復興仕法について」(佐藤治由著)より抜粋

1842 天保13(56) 幕府に召される
1844 弘化元 (58) 日光神領復興見込み調査を命じられる
1846 弘化3 (60) 「富国方法書」84巻を幕府に献上
              日光神領復興仕法雛形64巻を幕府に提出する
1850 嘉永3 (64) 山口・石那田・徳次郎村など、天領14か村で仕法を開始する。
1851 嘉永4 (65) 日光山御貸付所に金5,500両(1億5千万円相当)の寄付を申し入れる。
1852 嘉永5 (66) 日光神領の仕法開始を願い出る
1853 嘉永6 (67) 2月、日光神領復興の命を受ける
              7月、病をおして神領内中部・北部の47か村を廻村指導する。
              8月、神領内南部・西部の27か村を廻村指導する
1854 安政元 (68) 七里~野口~和泉~平ヶ崎~千本木の五ヶ村用水(二宮堀)が完成する
1855 安政2 (69) 4月、今市の報徳仕法役所が新築し、入居する
              病中の尊徳が千本木を視察する
              9月 轟村の一村式仕法を開始する
              栗山郡西川村の大開発(50里湖跡の田畑造成)を開始する
              11月、弥太郎の長男金之丞(尊親)誕生
1856 安政3 (70) 2月、千本木村の一村式仕法を開始する
              10月20日、尊徳死去 享年70歳
              10月23日、葬儀、如来寺に埋葬する
1857 安政4尊行37歳 今市瀬川用水・轟用水を改良完成する
1858 安政5尊行38歳 神領内20か村に植林する
              3月、尊行の次男延之助が誕生する
1859 安政6尊行39歳 今市・瀬川入会地(瀬尾)の大開発を行う
              大谷向の大開発に着手し翌年完成する 
              芹沼・倉ヶ崎入会地の大開発に着手し、翌年完了する
1862 文久2尊行42歳 板橋村遠下坪と大渡村の大開発を行う
              今市沢蔵司(たくぞうす)稲荷の仕法を開始する
1865 慶応1尊行45歳 吉沢村の金助に新築の屋敷を与え、轟村潰れ弥八式を再興させる
1866 慶応2尊行46歳 土沢・森友・矢野口などの荒地に植林する
1867 慶応3尊行47歳 原宿用水が完成する
1868 明治1尊行48歳 戊辰の戦火が今市に及び、仕法書類を鹿沼近在の引田村・相馬へ送り、弥太郎の家族も相馬へ向かう
              6月6日、弥太郎が相馬に移り、報徳仕法を終わる。


二宮尊徳全集第28巻 仕法 日光神領(読みやすくするため表記を一部変更)
 発端総記並びに初期
1 日光御神領仕法発端と総記
(1) 日光御神領仕法発端の由来
 天保13年二宮尊徳先生が利根川分水路掘割治水の命を受けた時には、幕府は全く先生を土工治水の技術者として取り扱ったのであるが、追々その創造的技量が、村柄取直し興国安民にあると認めたので、大生郷を視察をさせ、更に東郷、真岡、小名浜の陣屋付とした。これはまだその任用の適正を欠いたものであった。
 先生はある年月をもって社会状態の表面を視察し、定まった制度の上において、定例の事務をとる行政官吏のような待遇を受けることを好まないで、その本来の趣旨によって、困窮艱渋のものを救済し、荒廃地を復興し、住民と領主とに永安の道を開いて与えることが主な願望であった。しかし幕府登用以来住所も定まらず、任務も一定しないため、たびたび奉行所に伺いを出して、またその直系の上司である渡邊棠之助その他へ願い出た。その顛末は書簡、日記等にしばしば見えている。
 この願い出によって幕府の当局は、先生の真価を了解したとみえ、弘化元年4月5日「日光御神領村々荒地見分いたし、起返方法仕法付見込之趣委細可申上候」と申し渡され、早速登山の予定で、途中先触れまでも発送されたが、庁議一変して、日光御神領だけでなく広く何国でも行うことができるように取調べて差し出すようにということになったので、日光登山を見合わせて、いよいよ「日光御神領村々荒地起返仕法雛形」を江戸にいて取り調べることになった。
門外不出半年たっても完成せず、1年となっても終わらなかった。当局からもはやなにぶん答申するべきである旨の催促があった。
よって5月28日、渡邊棠之助方へ、雛形の一部、開発帳、天部6冊内覧に供したが、余り大部であるから簡略にということであった。
よって更に推敲の結果、64巻とし、弘化3年6月28日夕刻渡邊棠之助方へ持参し奉呈した。
雛形は千古の鉄案である。この案を答申した後早速日光仕法の任命があるかと思いの外、山内総左衛門付となった。これはまだ当局において報徳仕法の意味が充分に了解しえなかったからである。しかし先生を任用して10年、真岡管内の実地正業によって、始めて報徳仕法開発の意義が判明したので、ようやく嘉永6年に正式に日光仕法一任の命令が発せられるにいたった。
以上の次第で日光の仕法書は、その発端に関する書状、仕法雛形等を編集すべきであるが、雛形は第2巻におさめてあり、書簡は全部第6巻以上におさめたから、仕法発端書類としては僅々6冊に止まる。
一 日光御神領 日光御神領村々荒地起返方仕法付見込之趣申上候書付
これは第2巻「仕法雛形」の巻頭に掲げたものと同一であるが、第2巻は単式印刷であって、往々読了に馴れない人に迷惑ということである。しかし仕法施設の要領を指示した最も必要な書類であるから再録することにした。
 この1冊は弘化2年にいよいよ雛形84冊を差し出した時に、雛形閲覧の手引して、また実行に際しての心得書として仕法執務上の要略を説いたものである。自然の力に人力を加えて新しい開発力を増進する教訓書である。
 二、日光御神領 村々荒地起返方仕法荒田畑起返入用年賦返納産出方年限長短得失雛形
 三、同 仕法入用金産出方御土台田畑得失雛形
(二)は荒地開発の際上々、上、中、下、下々等地質の良否によって、一反歩の収穫が相違するので、その産出方計算の基礎を田畑二様に分類して示し、そして全部1反歩を基本として計算したものである。
(三)は同様の場合に、全部1石の産出する田畑の広さを基調として調査したものである。このため(二)は田畑3口しめて反別2町歩であって(三)は60町5反歩となる。
 四、日光御神領 村々荒地起返方仕法入用金遣道分数見積雛形
(四)は仕法入用金の遣い道を示し、その仕法土台金を千両と仮定し、将来開墾の為に何ほどの活動をなすには何ほどを必要とするかを明らかにしたものである。
 五、同仕法金千両無利五ヶ年賦貸付報徳金付撫育料被下雛形
 六、元金千両無利十、七、五ヶ年賦貸付六十ヶ年惣寄陰陽十八段書抜帳
(五)は(四)によって元金千両をもって開墾を始めるとすれば、仕法雛形によって報徳金がいかに増倍するかを示し、(六)はその貸付の結果現れる六十ヶ年間の年々の増進について十八段の計算とその根源の書抜であって、教化の意味の十二分にあふれた書類である。以上六冊全部仕法執行上の取扱指針である雛形である。

「年表で見る二宮尊徳・尊行父子の生涯と日光神領の農村復興仕法について」(佐藤治由著)より抜粋

1842 天保13(56) 幕府に召される
1844 弘化元 (58) 日光神領復興見込み調査を命じられる
1846 弘化3 (60) 「富国方法書」84巻を幕府に献上
              日光神領復興仕法雛形64巻を幕府に提出する
1850 嘉永3 (64) 山口・石那田・徳次郎村など、天領14か村で仕法を開始する。
1851 嘉永4 (65) 日光山御貸付所に金5,500両(1億5千万円相当)の寄付を申し入れる。
1852 嘉永5 (66) 日光神領の仕法開始を願い出る
1853 嘉永6 (67) 2月、日光神領復興の命を受ける
              7月、病をおして神領内中部・北部の47か村を廻村指導する。
              8月、神領内南部・西部の27か村を廻村指導する
1854 安政元 (68) 七里~野口~和泉~平ヶ崎~千本木の五ヶ村用水(二宮堀)が完成する
1855 安政2 (69) 4月、今市の報徳仕法役所が新築し、入居する
              病中の尊徳が千本木を視察する
              9月 轟村の一村式仕法を開始する
              栗山郡西川村の大開発(50里湖跡の田畑造成)を開始する
              11月、弥太郎の長男金之丞(尊親)誕生
1856 安政3 (70) 2月、千本木村の一村式仕法を開始する
              10月20日、尊徳死去 享年70歳
              10月23日、葬儀、如来寺に埋葬する
1857 安政4尊行37歳 今市瀬川用水・轟用水を改良完成する
1858 安政5尊行38歳 神領内20か村に植林する
              3月、尊行の次男延之助が誕生する
1859 安政6尊行39歳 今市・瀬川入会地(瀬尾)の大開発を行う
              大谷向の大開発に着手し翌年完成する 
              芹沼・倉ヶ崎入会地の大開発に着手し、翌年完了する
1862 文久2尊行42歳 板橋村遠下坪と大渡村の大開発を行う
              今市沢蔵司(たくぞうす)稲荷の仕法を開始する
1865 慶応1尊行45歳 吉沢村の金助に新築の屋敷を与え、轟村潰れ弥八式を再興させる
1866 慶応2尊行46歳 土沢・森友・矢野口などの荒地に植林する
1867 慶応3尊行47歳 原宿用水が完成する
1868 明治1尊行48歳 戊辰の戦火が今市に及び、仕法書類を鹿沼近在の引田村・相馬へ送り、弥太郎の家族も相馬へ向かう
              6月6日、弥太郎が相馬に移り、報徳仕法を終わる。

 
「二宮尊徳の日光神領廻村の記録を読む」佐藤治由著 より

二宮尊徳全集 廻村日記(用水路関係)

嘉永6年
6月29日 天気快晴 早朝の4時(七つ時過ぎ)に東郷陣屋出発、弥太郎、吉良八郎、伊東発身同行。宇都宮で昼食。中徳次郎村で用水路の掛樋を見分。午後4時(7つ時過ぎ)中徳次郎の市左衛門宅に到着、止宿する。
6月30日 天気遠雷 朝6時(六つ時)、徳次郎宿出立、徳次郎、石那田の水路視察。山口村の荒地起しと田畑の手入れが行き届いているので、鎌を買い求めるよう村人たちに金1両を与える。山口村の農民Aが潰れ農家を再興し、家を新築したので金5両を与え、その他に金5両を無利息5年賦で貸した。
山口村で昼食。午後2時に山口村を出立し、夕方5時過ぎに日光鉢石宿の松野屋に到着する。衣服を改めて日光奉行所へ出向き、日光奉行の用人に明日改めて着任の挨拶にうかがいたい旨を伝えて松野屋に戻り、止宿する。
7月1日 天気 昼頃より少々雨 早朝奉行所へ出頭。10時頃日光奉行に会い、着任の挨拶とする。
夕刻、再度奉行所に出頭し、明日から神領の村々を廻村視察する旨を奉行に報告し、関係する村々へ通知を発送する。
7月2日 天気 朝6時、裃(かみしも)を着用し、弥太郎、吉良八郎、伊東発身とともにお宮を参拝。賽銭と御神酒料を奉納する。9時頃松野屋に戻り、宿泊代金を支払い、10時に松野屋を出立。弥太郎、吉良八郎同道。日光同心野中包五郎の案内で小百村に向かう。途中七里村に大谷川の水除け堤防200間ほどがあり、その近くにある芝地を開墾したら耕地にすることができそうに感じた。所野村は大谷川沿いに開けた村だが、朝鮮人参の栽培の適地らしい。猪の窪、善坊にも小さな集落があるそうだが、そこまでは行かずに小百に向かった。
小百では石見川の水を利用して畑を水田にすることもできそうだ。小百から原宿村に向かう。原宿村では荒地が多く新堀を開削して水田耕作ができるようにしたいとのことなので、村人とともに村内を見て歩いた。小百村では岩見川流域の水田開発費用として農民2人に金3両を与えた。午後5時頃、一行は小百村の嘉蔵方に止宿した。


無利息貸付の趣法 報徳記(三)より | 哲学ネットカフェ
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無利息貸付の趣法 報徳記(三)より

いよいよ、今回は『報徳記』の巻一の「小田原侯、先生を抜擢して分知宇津家の采邑を興復せしむ」の温泉と風呂の喩えを巡る、逸話を紐解いてみることにします。
それは、「時に、文政四年(1821年)、先生小田原を発し、はるかに下野国桜町に至り、毎戸に臨み、その貧富を察し、田野に往きて、そのひこう、を鑑み、人民の勤惰を察し、水理の難易を計り、遠く往古を探り、近く目、今の風俗を観察し数十日にして風土民情興廃成不成の理既に胸臆に了然たり。小田原に帰り言上して曰く、君それがしの不肖を察したまわず、宇津家の采邑興復の業を命ず。その任にあらざるを以て固辞すといえども、あえてこれを許したまわず、止むことを得ず、かの地に至り、土地と民情とを察し、再復のことを考えるに、土地せきはくにして人民の無頼怠惰もまた極る。然りといえどもこれを振起するに仁術を以てし、邑民旧染の汚俗をあらため、もっぱら力を農事に尽す時は再興の道なきにあらず、しこうして仁政行われざる時は、たとえ年々四千石の貢税を免ず、といえども、かの貧困は免れることある、べからず。たとえば都下において巣鴨の地と日本橋の地の如し。日本橋の土地は屋賃いかほどたかしといえども、売買の利厚き、が故に、人競いて居住し富優を得、巣鴨の如きに至っては金銀融通売利薄き、が故に、屋賃なしといえども人之を望まず。又貧窮を免れず。
上国は貢税多し、といえども、民その益多き、が故に繁栄し、下国は貢税なしといえども田産薄き、が故にその艱難を免れ難し。これ土地の厚薄の致す所なり。然してこの如き下国をして上国と共に栄えしめんと欲せば、必ず仁政にあらざるならばあたわず。いかんとなれば温泉は人力をまたずして周年温かなり、風呂は人力を以てたくが故に暖か也。暫時も火を去る時は忽然として冷水となる。上国は温泉の如く下国は風呂ににたり。故に仁術を行う時は栄え仁政なき時は衰える。今野州桜町の衰廃を救い、永く民を安ずる、の道は他無し。厚く仁を施しその艱苦を去らせて、安栄に導き、大いに恩沢を布きてその無頼の人情を改め、もっぱら土地のたつときの所以を教え、力をたんぼに尽くさせしむ、にあり。然してこの興復の用度幾千万金なるや予めその数を定め難し。前々君かの土地再復を命ずるに、いくたの財を下したまう。これを以てそのこと成らず。以後之を興復せんに必ず一金も下したまうことなかれと。公曰く、汝の言う所至道というべし。然れども廃亡を挙げるに財を用うれども猶興らず、今財なくしてこれを挙げる、の道いかん。先生こたえて曰く、君財を下せば邑宰村民共にこの財に心奪はれ、互に財の手に入らんことを欲し、下民は邑宰の私を論じ、宰官のものは下民の私曲のみをうれうる。互にその非を論じ、その利を貪り、ついに興復の道を失い、いよいよ人情を破り、こと廃するにいたる。これ用財を下したまう、の災なり。公曰く、よいかな、汝の言、財無くして廃亡を挙げること、その道いかん。こたえて曰く、荒蕪を開くに荒蕪の力を以てし、衰貧を救うに衰貧の力をもってする、なんぞ、財を用いるや。公曰く、荒蕪を開くに荒蕪の力を以てすることいかん。こたえて曰く、荒田一反を開き、その産米一石有らんに、五斗を以て食となし、五斗を以て来年の開田料となし、年々この如くにして止め、ざれば、他の財を用いずして何億万の荒蕪といえども開き尽すべし。わが神州往古開闢以来、幾億万の開田、その始異国の金銀を借りて起したるにはあらず。必ず一鍬よりしてこの如く、開けたるなり。今荒蕪を挙げんとして金銀を求めるは、その本を知らざるが故なり。いやしくも往古の大道を以て荒蕪を挙げんに、何の難きことかこれあらん。そもそも宇津家の采邑四千石なりといえども、実事納まる所の租税は僅か八百俵のみ。これ全く四千石の虚名があって、実は八百俵の禄なり。この八百俵を以て再復までの分限と定め、その余を求めず。艱難にそして艱難を行い、生地の分はわが国が開けたるが如く、その余の荒蕪は未だ開けざる蝦夷の如くなれば、一金の用財をも下したまわず、荒蕪を開き邑民を安んずるに荒蕪の地を以てそれがしに任じ、たまわば、十年にして必ず功を奏すべし。然れどもここに一つの難事あり、いかんともすべからず。公曰く、その難事とはいかん。こたえて曰く。かの土地いかなる難場なりといえども、前段の道を以て興復せんこと難きにあらず。いかにせんその功を奏するに至って、二千石の不足を生ずる。荒蕪のままに置く時は四千石の名あり。今千辛万苦を尽し、幾千万の財を布き、功を成すに至っては、四千石にあらずして全く二千石となる。然らば則ち再復せざるがまされるに如かざるなり。公曰く、再興成就して二千石を減ずる者いかん。こたえて曰く。他なし、せきはく、の地なるが故なり。薄地の一反は必ず二反の地でなければ、民飢渇を免れず。然るにかの地縄のゆるみなく、一反は一反なり。この故に邑民衰亡の禍、皆これより起る。一度、これを旧復すといえども、又数年ならずして亡邑とならんこと必せり。果して然らばなんぞ興復の益あろうか。故にこれを興し、この民を安んぜんとすれば、二反を以て一反とせざるを得ず。然らば宇津家禄俸の半を減じて二千石となり、公私の用度不足なれば、必ず民に命じてその不足を補しめるであろう。いやしくもこの如くならば再度の衰廃たちどころに至らん。君無益の地に心力を労したまわんよりは、むしろ四千石の名実共に全き所の土地を分ち、之を与えたまわんにはしかざるなり。公曰く、よいかな、汝の言。至れる哉汝の計る所、今貢租至当の地を分たんこと難きにあらずといえども、廃衰の地を挙げずして、いよいよ不毛の地に帰らせしめることは、予が本意にあらず。これ故に今汝の言によって、かの地再興の業を委任す。内外共に汝一人の処分たるべし。汝うれうる所の二千石減少の数に至っては成功の後我必ず之を補い四千石となさん。汝うれうることなかれ。かの地に至り身を愛し、国家の為にいよいよその志を励まし、貧民を愛撫し、廃亡を挙げ、我が苦心をも安んじてくれよと命じたまう。先生謹みてその命を受けられ、たり。ああ君々たり、臣々たり、実に名君と賢臣との希世の遭遇と謂うべし
(ときに文政四年〈1821年〉、二宮翁は小田原を発し、遠く下野国桜町におもむき、一戸一戸訪ねては、その貧富を観察し、田野に出かけ、その地味を調べ、村民が勤勉か怠惰かを観察し、水利の難易を計り、遠くは過去の様子を探り、近年の風俗を観察し、数十日で風土、民心、再建が成るか或は成らないかがはっきりと分りましたので、帰って、次のように報告しました。
「お殿様は私の不肖を察せられず宇津家の所領復興の事業を命ぜられました。その任ではあらずと固辞しましたが、どうしても許されませんでした。
私は仕方なく、桜町におもむいて、土地と民心とを観察し、再建の方策を考えてみましたところ、土地がやせており、村民は素行が悪く怠惰もまた極まっておりました。しかしながらこれを振い起こすに仁術を施すことで、村民の昔から染みこんでいる悪い習俗を改革し、もっぱら農業に人事を尽す時は再建の道がないわけではありません。しかし仁政が行われない時は、たとえ毎年四千石の年貢を免じても、村民の貧困はのがれられることはないでしょう。たとえば江戸市内において巣鴨の地と日本橋の地のようなものです。日本橋の土地は家賃がどれほど高くても、商売の利が厚いために、人が競って住み、富有を得、巣鴨のような土地は金銀の融通、商売の利が薄いために、家賃が安くとも人々はこれを望みません。また貧困を免れません。上国は年貢が多くても、人々はその利益が多いために繁栄し、下国は年貢がなくても田畑の産物が少ないためにその難儀を免れがたいのです。これは地味が良いか或は悪いかが左右するところです。そしてこのような下国を上国と共に栄えさせようと欲するならば、必ず仁政を施さなければなりません。なぜかといえば温泉は人力を待たないで年中、あたたかなままです。風呂は人手を尽くしてたくことではじめてあたたかくなるのです。しばらく火をたかなければたちまちに冷たい水となります。上国は温泉のようで下国は風呂に似ております。つまり、仁術の施す時は栄え、仁政が行わなければ衰えます。今、下野国桜町の荒廃を救い、末ながく人々を安らかにする道は他にありません。ただただ厚く仁術を施し、その苦しみをとり除き安泰へと、さらには繁栄へと導いて、おおいに恩恵を施し、素行の悪い人情を改め、もっぱら土地の尊い理由を教え、力を田畑に尽させることにあります。そしてこの復興資金が幾千万両必要になるか、あらかじめその金額を定めること極めて困難です。前々お殿様がかの土地の再興を命ずるのに、多くの資金を下されました。このためにその復興が成功しなかったのです。今後これを復興させるのに必ず一両も下されることのないように」と。大久保忠真公は言いました。
「そなたの言う所は至道というべきです。しかし廃亡を挙げるのに資財を用いてもなお復興しない、今資財がなくてこれを挙げる道はどのようなものなのですか」と。二宮尊徳翁は答えて言いました。
「お殿様が資金を下さると村の名主も村民もともにこの資金に心を奪われ、互いにこの資金を手に入れることを願い、村民は名主の勝手次第だと言い、名主は村民の利益になるだけにはさせたくないと憂慮します。互いに非難合戦にあけくれ、己の利のみをむさぼり、ついに復興への道を失い、いよいよ人心は荒み、事業も中断するに至ります。これが資金を下されることから起こる災いです」と。大久保公が言いました。
「善いかな、そなたの言葉は。財が無くても廃亡を挙げるというが、その方法はどのようにするのですか」と。二宮翁は答えて言いました。
「荒れ地を開くのに荒れ地の力をもってし、貧者を救うのに貧者自身の力をもってするのです。どうして資金が必要でしょうか」と。大久保公は言いました。
「荒れ地を開くのに荒れ地の力をもってするとは具体的にはどういうことなのですか」と。二宮翁は答えて言いました。
「荒れ田一反を開墾し、そこから生産した一石の米があるとしましょう。五斗を食し、五斗を来年の田を開く元手として、毎年このようにして中断せずに続けていけば、資金を使わずに多くの荒れ地といえども開墾し尽すことができましょう。わが日本国は開闢以来、幾億万の開墾も、その始めは異国の金銀を借りて起したのではありません。必ず一鍬から始めてこのように開墾されたのです。今、荒れ地を復興しようとして金銀を求めるのは、その根本原理を知らないためです。いやしくも古の大道をもって荒れ地を開墾することに何のむずかしいことがありましょうか。そもそも宇津家の所領は四千石であるといっても、実際に納まっている所の年貢はわずか八百俵だけです。これは全く四千石の名ばかりあって、実は八百俵の俸禄です。この八百俵をもって再興までの分限と定め、その余を求めないことです。困難の上にそして困難をなし、生産の地の分はわが国の開けた地のように、その余の荒れ地はまだ開けない蝦夷地のようにみなせば、一両も下されることなく、荒れ地を開いて村民を安らかにするよう荒れ地のみをもって私に命じられるならば、十年で必ず成功したことをご報告申し上げることができましょう。しかしここに一つの困難なことがあり、どうにもすることができません」と。大久保公は言いました。
「その困難なこととはどのようなことですか」と。二宮翁は答えて言いました。
「かの土地がどのような困難な場所であったとしても、前段の道をもって復興することは困難ではありません。どうにもしようがないのは、その成功をご報告申し上げるにいたって、二千石の不足が生じます。荒れ地のままに放置しておく時には四千石の名があります。今、苦労に苦労を重ね尽して、何千万の財を施しても、成功の暁には、四千石ではなく全く二千石となり果てます。そうであれば再興しないほうがまさっているのではありませんか」と。大久保公は言いました。
「再興が成就して二千石を減ずるのは、どうしてなのですか」と。二宮翁は答えて言いました。
「他でもありません。土地がやせているからです。やせた土地の一反は必ず二反の地でなければ、村民が飢えを免れません。ところがかの地は検地時に縄のゆるみがなく、一反は一反です。村民が衰亡するという災いは、全てこれから起ったのです。ひとたびこれを旧に復したとしても、また数年もたたずに廃村となるであろうことは必然です。ほんとうにそうであればどうして復興が利益になりましょうか。従って、これを復興し、この村民を安らかにしようとするならば、二反をもって一反としないわけにはいきません。そうなりますと、宇津家はその禄俸の半ばを減らして二千石となり、公私に必要な資金が不足するので、必ず村民に命じてその不足を補わせるようとするでしょう。もしこのようになるとすると再び荒廃することになるでしょう。お殿様は無益の地に心労を費やされるよりは、むしろ四千石の名実ともに良い土地を分って、これを与えられるにこしたことはありません」と。大久保公は言いました。
「よいかな、そなたの言葉は。注意が十分に行き渡っているではありませんか、そなたの計画する所は。今、年貢が適当な土地を分かつことはむずかしいことではありませんが、荒廃した土地を復興しないで、ますます不毛の地にしてしまうのは予の本意ではありません。従って、今、そなたの言葉により、桜町復興事業を委任しよう。内外ともにそなた一人が処分すればよろしい。そなたが憂慮する所の2千石の減少については成功の後に予が必ずこれを補って四千石としよう。そなたが心配することはありません。かの地におもむき、自愛し、国のためにますますその志を励まし、貧民をいとしんで、すたれた村を立て直し、予が苦心をも安んじてください」と命じられました。先生はつつしんでその命を受けました。ああ、この主君をして、臣下があることよ、実に名君と賢臣との世にも類まれなる巡り会いというべきではありませんか
)と。

虚空蔵 福山先生一代記より | 哲学ネットカフェ
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虚空蔵 福山先生一代記より

さて、今回は、五常講に始まる「無利息貸付の趣法」こそが、報徳仕法の本旨であると断言し、報徳仕法完遂のために邁進した、小田原報徳社が生んだ、報徳仕法指導者の福山瀧助(文化十四[1817]年-明治二十六[1893]年)の『福山先生一代記』の「先生始めて報徳の教えを聞きたまうこと」を紐解いてみることにします。
それは、「先生成年に達したまいし頃のことにてありき。一日いつもの如く菓子を荷いて近郷を巡りたまいしに何れの家にても断わりのみ言って、一向に売れ、ざり、ければ、いといぶかしくその故を問いたまいしに報徳の仕法を行えばなりと、ぞ、答えぬ。この時、先生が大人になった頃、まだ報徳の仕法のなんたるやを知ら、ざり、しかば、世に奇なることの行わるものかなと思いたまけると、ぞ」(「福山先生が大人になった頃のある日、今の小田原市の郊外で、菓子を背負って売り歩くうち、断わられるばかりで、全然売れないので、なぜかと思い、その訳を尋ねると、報徳の仕法を行っているからと言われました。この頃は、福山先生は大人になったばかりの頃のことなので、報徳の仕法に何の関心もなく、世の中には、不思議なことがあるものだと思われましたとのことです」)と。この逸話の続きを掻い摘んで述べますと。次のようになります。先ず、それは、「ところが、たまたま、隣家の出で、小田原藩の重臣に仕えている人がいて、時々、その実家に帰ってくるという話を小耳にはさんだので、福山先生は、ある日、この人の帰省を待ち受けて、報徳の仕法のことを尋ねられたとのことです。隣人は、尊徳翁の履歴や桜町や小田原の仕法について懇切に説明してくれたたのちに、次のような話をしてくれたとのことです。それは、『あなたは、大人になったばかりだから、もしも、報徳の仕法の教えに従い真面目に勤労に励めば、死ぬまでに蔵の三つ四つは建てられるでしょう。しかし、それを全て蔵にはしないで、そのおよそ半分の蔵2つ位を建て、残りの約半分は分度の外として推譲された方がよいでしょう。これこそが、世にいう虚空蔵というもので、あなたの家のいわば越中控えとなります。そして、この控えがあるために、あなたの家は子々孫々より万代不朽に至ることになりましょう』」と。
また、「福山先生が尊徳翁に初めて面謁したのは、天保十四[1843]年八月、二十六歳の時に、小田原報徳社世話人の尾嶋屋忠次郎に伴われて、江戸の小田原藩邸に行った際でした。その藩邸では、尊徳翁の門人達が机を並べており、首席は富田高慶氏で、福住正兄氏もその中にいたとのことです。尊徳翁はそのとき、あいにく身支度をされており、それを済まされてから、福山先生に面会してくれたそうです。尊徳翁は福山先生に視線を向け、次のような問答におよばれたとのことです。それは、『何の商売を商っていられますか』、『菓子商です』、『菓子の菓と因果の果と、違いがありますか』と。そこで、福山先生が答えに窮していますと、福住正兄氏が次のように口をはさんで、次のように展開していきました。『草冠があるのと、ないとの違いがあります』、『しかし、音は同じだし、形も似ているのではないですか』、『それはそうです』と福住正兄氏は答えてくれました。さらに、尊徳翁は言葉をつなぎ、福山先生に向って、次のように説かれたそうです。それは、『何事でも第一に肝要なのは形なのです。形が似なければ、精神も同じものを顕わすことができません。だから、もし人がわが道を修めようと思うならば、まず形から入らなければならないのです』」と。
福山先生はその後も何回か、世話人達に同行し、尊徳翁に会われましたが、はじめて説かれた、この教えは、福山先生の一生を貫く大きな心の支えとなったとのことです。福山先生は二十八歳で一家を構えられ、福山家を継がれて、翌年結婚されましたが、長兄から渡された二十両の元手も、小田原報徳社からの十両の無利息貸付金も、そのまま長兄に預けたままで、菓子商に専念されました。報徳の教えを守り、百文につき一文の薄利多売のみしかを考えずに、誠心誠意、商ったために、すぐに大評判になって大繁昌し、日々、忙しく商われたとのことです。
なお、肝心の小田原報徳社は、尾嶋屋などの創立当時からの世話人達がいなくなると、たちまち衰微して、影の薄いものになってしまいました。嘉永元[1848]年、福山先生は、長兄と相談の上、五人の同志達とその再興にとりかかり、嘉永四[1851]年からは、菓子業の年間収入の約三十両、その二割の純利益全額にあたる約六両を推譲することとし、福山先生は隠居されるまでの十一年間これを実行されましたが、実生活には何の支障もなかったとのことです。小田原報徳社が、年々この六両を無利息五カ年賦、然るべき元恕金づきで、運用していけさえすれば、六十年後には六千四百八十四両にもふえますが、このことは、粘り強く、やり抜く決意を持ち続けていくとともに、緻密に、実行し続けていけさえすれば、実現できることなのです。そして、実に、これこそが報徳仕法の本来のあるべき形だと、福山先生は、つくづく悟られたとのことです」と。
その後、福山先生は、文久元[1861]年に隠居され、心学も学ばれ、以後、本来の報徳の仕法の形をとことん重視されて、その指導に専心されることになるのですが、その辺のことは、回を改めて、次回以降、お伝えすることに致したいと思います。


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