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福沢諭吉 学問のすすめ
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四編 学者の職分を論ず
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《民間の事業のうち十に七、八までは官に関係している。 このおかげで世間の人の心は、ますますその習慣に染まっていき、官を慕い、官を頼み、官を恐れ、官にへつらい、ちっとも独立の気概を示そうとするものがない。その醜態は見るに耐えない。》齋藤孝訳
小浜逸郎:福沢諭吉は完璧な表券主義者だった
https://nam-students.blogspot.com/2020/04/blog-post_22.html
福沢諭吉 まだMMT理論を知らない貧困大国日本 新しい『学問のすゝめ』
https://nam-students.blogspot.com/2020/04/blog-post_30.html
《帳合之法》 (読み)ちょうあいのほう
【簿記】より
…ただし,勘定の左右の肩に付される記号de dare―de avereは,類型Iの様式が伝播したドイツとフランスではそれぞれSoll―Haben(soll geben―soll habenの省略形),Doit―Avoirとなり,類型IIの様式が伝播したイギリス,アメリカではDebitor―CreditorまたはDebit―Credit(Dr.―Cr.)となっている。またアメリカのBryant & Strattonの簿記書《Common School Bookkeeping》(1871)のきわめて個性的な翻訳書である福沢諭吉の《帳合之法(ちようあいのほう)》(1873)により洋式簿記法が導入された日本では借方―貸方となっている。以後,日本では従来の〈帳合せ〉法すなわち大福帳を中心とした固有帳合法から徐々に洋式簿記法に転換していったが,全面的普及は大正末期または昭和初期ころであったといわれる。…
借方・貸方を「左右」で呼ばない理由
現代に通じる複式簿記を輸入した福沢諭吉
現在、皆さんが学習されている複式簿記の仕組みを西洋から日本に紹介したのは、一万円札の肖像でおなじみの福澤諭吉です。福澤諭吉は、アメリカの商業学校で使用されていた『ブックキーピング』という教科書を翻訳した『帳合之法』を出版し、西洋式の複式簿記を日本に普及させる先鞭を切りました。
明治維新の頃には日本にこれまで存在しなかった概念が続々と日本に輸入されたため、それをどのように日本語に置き換えるのかで、かなりの苦労があったようです。
例えば、"society"という単語。今では「社会」という日本語訳があてられていますが、これも明治維新後に作られた日本語で、それまでは該当する日本語がなかったようです。
福沢諭吉は、明治8年に『文明論之概略』という書籍も出版していますが、この書籍では"society"という単語を「人間交際」と訳しているそうです。既に皆さんもご存知の通り、現代ではこの訳は一般的ではありません。
このように、新しい概念がどんどんと西洋から取り入れられてきた明治の日本では、その訳語を考えるのも一苦労だったようで、あの福澤諭吉でさえもすべてをうまく翻訳できたわけではなさそうです…。
福澤諭吉を悩ませた"debit"と"credit"
簿記を学習する方のほとんどが最初にぶつかる壁、それが「借方」と「貸方」ではないでしょうか。英語では借方を"debit"、貸方を"credit"と表現しますが、それぞれに「借方」と「貸方」という日本語訳をあてたのも、福澤諭吉と言われています。
会計の世界での「借方」と「貸方」という呼び名に、特に「貸し借り」の意味合いはないのですが、どうしても「貸し借り」を連想させる上、貸借対照表では資産である『貸付金』が「借方」に、負債である『借入金』が「貸方」に記載されるため、多くの方が混乱されているようです。
ただ、『帳合之法』を読むと、初編の34ページ辺りにある〔譯者註〕(訳者注)に、この点に関する福沢諭吉の苦悩と想いをうかがい知ることができます。
今回、この記事を書くにあたって頑張って読み解いてみた結果、分かりやすくなるようにまとめてみましょう。
訳者である福沢諭吉自信も、お金を貸したとき(貸付金が生じたとき)は「借」とある側(借方)に、お金を借りたとき(借入金が生じたとき)は「貸」とある側(貸方)に記入することに違和感が生じることは認識していたようです。
西洋式の簿記(当時でいう「帳合」)では、取引先の相手の名前を記し、その取引先当人にとって「借り」の状態か「貸し」の状態かを記録するという考え方を採っているようです。
しかしながら、帳簿を記録する当人にとって「借り」の状態か「貸し」の状態かで慣れ親しんでいる日本人にとっては、貸借を逆にしたり、あるいはお金の出入りに合わせて「入」や「出」という表記にしたりといった訳をあてた方が、初めて西洋式の帳合を習う日本人にとって都合が良いのではないかと、福澤諭吉も相当悩んだようです。
では、なぜこのようなアイディアは採用されなかったのでしょうか。
その理由は、福澤諭吉がこれからの日本のグローバル化を見据えていたからと言えるかもしれません。
これからの日本が海外との交易を盛んに行うのであれば、日本だけ呼び名が異なると不便になるはずです。 そのことを勘案した結果、日本人の初学者にとっては不便であることを承知で「借方」と「貸方」という現代に通じる日本語訳を当てることを決めたようです。
なぜ、「左」と「右」ではだめなのか
ここまでで、福澤諭吉の苦悩や「借方」・「貸方」と呼ぶことになった経緯はある程度お分かり頂けたかと思います。ただ、これだけでは、多くの簿記受験生が疑問に思っていることは解決しないでしょう。
おそらく、ほとんどの受験生はこう思うに違いありません。
『なぜ、「左」と「右」ではダメだったのか。』
簿記のテキストなどで、「左側のことを『借方』といいます」という説明を見て、「普通に『左側』じゃダメなの?」と思いたくなる気持ちも分かります。
「借方」と「貸方」の日本語訳をあてた福沢諭吉が、なぜ「左」と「右」という日本語をあてなかったのか。この理由の推測は、意外と単純です。
冒頭のご紹介した『帳合之法』ですが、実は国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができます。 以下のリンクから閲覧できますので、ちょっと開いてみて下さい。
今、皆さんが簿記を勉強する際に使っているテキストと大きな違いはお分かりいただけたでしょうか。
日本で初めての簿記の教科書は縦書きだったのです。
まだ日本語に横書きが無く、縦書きで記すのが当たり前の時代です。
原書(英語)は当然横書きですから、今の簿記と同じように帳簿を左右に分けていたもので紹介されていたはずですが、その表記のままでは縦書きの日本語には馴染みません。
かといって、日本語の表記まで変えることは不可能でしょうから、『帳合之法』では縦書きの日本語に合うように、帳簿を上下に分けて、上を「借方」、下を「貸方」と表現することになっています。
このように縦書きで帳簿を書く時代に、「左」や「右」という表現が馴染むはずもないでしょう。 そのまま、上が「借方」、下が「貸方」という表現が使われるようになったまま、それから時代が流れで日本語でも横書きが一般的になった際にも、『帳合之法』当時の表現にならい、上に書かれた借方のものが左側に、下に書かれた貸方のものが右側にという表記になったと考えられます。
多くの簿記受験生も悩ませる「借方・貸方」問題。 その背景には、福澤諭吉の葛藤と日本の未来に託した展望、そして日本語特有の「縦書き」という表記法が関連していたことがうかがいしれます。

慶應義塾大学出版会|慶應義塾・福澤諭吉| ウェブでしか読めない|福沢屋諭吉
前回・前々回と『帳合之法(ちょうあいのほう) 初編』を見てきたが、福沢は同書を翻訳した趣意について、凡例の中で次のように述べている。今回もまた、適宜現代風に改めた。

第一に、日本では学問と商売との間に関連がない。学者も商人もこの『帳合之法』を学べば、学者は実学を知り商人は理論を知り、日本の国力が増すことになる。
第二に、この『帳合之法』を学べば、会計事務が一変して便利になる。
第三に、日本では学問は非実用的であるとして、敬遠されてきた。この『帳合之法』を学校で生徒に教えれば、その生徒を通じて家族にも伝わり、洋学の実用的なことが認識されて、人々を学問・読書に導くことになる。
第四に、この『帳合之法』を学べば商工業を軽蔑することなく、実業界で独立しようという大志が生れてくる。
いわゆる入門書・手引書の類ならば、その刊行の目的は上記の2番目の内容だけで十分なように思われる。しかし、単に簿記の方法を伝授するだけでは終わらないのが福沢諭吉! 国力の増加、人々の啓蒙、独立心の育成という大きな目的をも含みながら世に送り出されたのが、他ならぬ『帳合之法』であった。
そのような福沢の熱い思いは、次の二通の書簡からも読み取ることができる。
一通目は、明治6年11月6日付の松田道之宛書簡(慶應義塾『福沢諭吉書簡集 第一巻』岩波書店 2001年 所収)。宛名の松田道之は、この連載の第21回目でも顔を出している。この書簡の中で福沢は、すでに慶應義塾出版局では『帳合之法』を会計に採用していると述べている。人に勧めるからには、まず自分自身で実践している。さらに、福沢の友人である中村道太という人物が、横浜の丸屋商社で『帳合之法』による西洋流の会計を担当しているので、松田が県令をしていた滋賀県に対して中村を派遣して、県の会計方法を改革することまで提案している。
二通目は、明治11年10月11日付の高木喜一郎宛書簡(慶應義塾『福沢諭吉書簡集 第二巻』岩波書店 2001年 所収)。宛名の高木喜一郎は、慶應義塾卒業後に慶應義塾出版局に勤務して、当時は秋田の太平学校教員であり、後に大阪毎日新聞社の社長になる人物である。この書簡の中で福沢は、慶應義塾に「記簿」(まだ「簿記」という訳語が定着していなかった)の科を立てて、27~28人の生徒に対して毎夜2時間の稽古をしていると述べている。
さらに慶應義塾『慶應義塾五十年史』(1907年)によると、明治12年には福沢の出資により、京橋区南鍋町(現在の銀座6丁目あたり)に簿記講習所を開設して、3年間で約500人の入学者を数えるに至ったという。
このように『帳合之法』は、まさに実学を重視した福沢の姿勢を体現した著訳書と位置付けるにふさわしい内容を持つものであった。
もっとも一般国民の立場からすると、政府によって改暦を断行され、福沢からは大福帳のやり方を改めよと言われ、「文明開化」も何かと大変ではある…。
| 【写真1】 | 『帳合之法 初編』巻之二 表紙 |
| (慶應義塾福沢研究センター蔵) | |
| 【写真2】 | 松田道之「第7代東京府知事 松田直之肖像」(『東京市史稿 市街編第63巻』より ※写真は東京都公文書館蔵) |
【参考文献】
小林惟司「福沢諭吉と『帳合之法』」『福沢手帖』第70号 福沢諭吉協会 1991年
《帳合之法》 (読み)ちょうあいのほう
【簿記】より
…ただし,勘定の左右の肩に付される記号de dare―de avereは,類型Iの様式が伝播したドイツとフランスではそれぞれSoll―Haben(soll geben―soll habenの省略形),Doit―Avoirとなり,類型IIの様式が伝播したイギリス,アメリカではDebitor―CreditorまたはDebit―Credit(Dr.―Cr.)となっている。またアメリカのBryant & Strattonの簿記書《Common School Bookkeeping》(1871)のきわめて個性的な翻訳書である福沢諭吉の《帳合之法(ちようあいのほう)》(1873)により洋式簿記法が導入された日本では借方―貸方となっている。以後,日本では従来の〈帳合せ〉法すなわち大福帳を中心とした固有帳合法から徐々に洋式簿記法に転換していったが,全面的普及は大正末期または昭和初期ころであったといわれる。…
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福澤諭吉が慶應3年の渡米の際に多量に購入して持ち帰ったとされる書籍について、どのようなものがあるか知... | レファレンス協同データベース
レファレンス事例詳細(Detail of reference example)
https://libguides.lib.keio.ac.jp/ld.php?content_id=47070601
渡米の際に持ち帰った書籍は、【参考資料1】収載の「福澤文集」の477ページに「慶應三年の春、諭吉は又「アメリカ」に航し、此度は前に比すれば資本も豊にして、多分に英書を買入れ、一私塾生徒の用に供して不自由なき程のものを携帰たり。即ち其書類は辞書の外、英氏の経済論、「クヮッケンボス」の窮理書、文典、米国史、「バーレー」及び「グードリチ」の万国史、英国史等、何れも皆古今未だ會て目撃せざる所の珍書…」と記載があるように主な資料があげられています。
これらの資料は、【参考資料2】の207ページの記載「これらはひとり福沢の塾の用に供するためのみでなく、紀州和歌山藩、奥州仙台藩のためのものも入っていた」とあるように全ての資料が慶應義塾に所蔵されたわけではありません。
福澤の塾の用に持ち帰った書籍については、【参考資料3】第1章「ヅーフ部屋の流れ」の26ページに「塾生達の勉学のために大量購入して米国から持ち帰った図書には「福沢氏図書記」の朱印が先づ捺印された」と記載があり、「福澤氏図書記」の朱印が捺印されている資料の一覧を公開しています。
【参考資料4】は福澤が渡米で持ち帰った資料を中心に訳書の原拠本が紹介されていますが、すでに除籍されている資料も含まれています。また、【参考資料5】の中に一部「福澤氏図書記」の印がある資料が掲載されています。
仙台藩のために持ち帰った資料については、早稲田大学所蔵の『藩学養賢堂蔵洋書目録』があります。この目録についての解説と目録本文の一部が【参考資料2】に掲載されておりますが、この目録にある書籍については、213ページに「戊辰の混乱の中で、これらの書籍がどうなったかは明らかでない」とあります。
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