2021年5月11日火曜日

クリフォード・ヒュー・ダグラス ベーシックインカムの財源としての政府貨幣 国民配当 (ベーシックインカム パブリック カレンシー クリフォード・ヒュー・ダグラス) - 関心空間

クリフォード・ヒュー・ダグラス ベーシックインカムの財源としての政府貨幣 国民配当 (ベーシックインカム パブリック カレンシー クリフォード・ヒュー・ダグラス) - 関心空間
ケインズ一般理論#23



《 戦後、異端の過少消費理論が雨後の衛のように現れた。中でも最も有名なのがダグラス少佐のものである。ダ

グラス少佐の主張の強みは、言うまでもなく、正統派が彼の破壊的批判の多くにまともな回答を与えなかったこと

に大きく依存している。ひるがえって、彼の下した診断の細部、とりわけA +B 定理とやらには、眉唾としか言い

ようのないものもたくさんある。もしダグラス少佐が彼のB 項目を、取替や更新のための当期支出に充てられない

企業者の金融的準備に限定していたなら、彼はもっと真理に肉薄していたであろう。しかしその場合でも、これら

の準備が、増加した消費支出とともに他方面における新たな投資によってもまた埋め合わされる可能性のあること

は頭に入れておく必要がある。ダグラス少佐は、自分はわれわれの経済体系が抱える重要な問題を少なくとも全く

忘れていたわけではない、正統派の幾人かの論敵との違いはここにある、と主張する資格をもっている。だが、マ

ンデヴィル、マルサス、ゲゼル、それにホブソンの列に伍す資格があるかといえば、彼にはとてもそれほどの資格

はない。勇敢な異端軍の少佐ならぬ、おそらくは兵卒といったところである。一方、これらの人々は、明快で首尾

一貫し論理は平易なるも現実離れした仮定にもとづいて導出された謬説を奉ずることを潔しとせず、みずからの直

の命じるまま、たとえ暖味で不完全ではあっても、真理を究める途を選んだのである。》



10分でわかるダグラスの社会信用論 – ベーシックインカム(BI)の祖 ★

︎A+B理論とは?

ダグラスの理論の核心はA+B理論です。A+B理論とは、「常に商品の価格は、所得分配よりも上回る」ということです。

例えば、新たなラジオを作ろうとする会社があるとします。銀行からの融資で、資金(B)を借金し、設備投資などを行なって、従業員の給与(A)を払いながらラジオを生産します。するとラジオの価格は、設備投資などの資金(B)+従業員の給与(A)を加味した価格が設定されることになります。

つまり、商品の価格はA+Bで設定されますが、給与はAしか支払われません。
必ずA+B > Aという不等式が成立することになり、従業員に支払われる給与からの需要のみでは、供給を満たす事ができないことを指摘しました。

︎富の源泉は生産にある

ダグラスは既存の金融システムは奴隷を作るシステムだと批判します。あなたが資産だと思っていたものでさえ、銀行が取り上げることができるからです。

上記で、預金は借金であると述べました。またA+B理論でも述べたように、生産力より購買力が必ず下回ってしまうという問題も指摘しました。

MEMO

ダグラスは、生産力があるにも関わらず、購買力がない状態を、豊かさの中の貧困と述べています。現代ではよく言われていることですが、100年近く前にダグラスも述べています。

このような金融システムの問題がある中で、ダグラスは生産力が富の源泉であり、その富の源泉から購買力のための給与を分配すべきだと述べています。

既存のシステムは、富の源泉はマネーの流通量でした。このマネーは銀行からの借金でまかなわれます。一方、ダグラスは、生産量と同額のマネーを流通させることを提唱しています。つまり、生産できることが社会の富であるという考え方です。

この理屈はとても単純です。1人で生きていれば、お金は何の役にも立ちません。しかし、健康な体や畑があれば生きていくことができます。富の源泉を生産力としようと提唱しています。

では「生産力と同額のマネーをどのように流通させるのか?」というと、ダグラスは国民配当という形で、全員に配ろうと提唱しています。供給と需要のギャップを全員に配ることによって埋めてしまおうとしました。

ベーシックインカム(BI)の祖

ダグラスは国民配当(ベーシックインカム)を初めて提唱した学者です。

現代では国民の需給ギャップを埋めるためにベーシックインカムを導入しようという動きが先進国で見られます。

ダグラスは資本主義の限界を予期していたのかもしれません。今まさに経済の行き詰まりが起きています。ダグラスの資本論を見返す時なのかもしれません。




クリフォードヒューダグラス(Clifford Hugh Douglas)はイギリスで1879年に生まれ、1952年に死去しています。 かなり異色の経歴で、産業機械工学博士、産業電気工学修士、技術顧問などのエンジニア的な側面を持ちながら、エコノミスト、著述家としても活躍しています。2020/05/23
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/L1/211028.htm

クリフォード・ヒュー・ダグラス

クリフォード・ヒュー・ダグラス  既に200年の歴史を持つといわれるベーシックインカムの生みの親で  あるダグラスを知る必要があるが、これも森野さんがゲゼル研究会  で報告している。その転載をする。       Fより    賛否があると思うが、欧州では給付つき税額控除があるし、米国に  はフードスタンプという変形した形ながら既に存在している。    日本の貧困層には、このような社会福祉制度がないため、非常な社  会的な不公平が米国より大きな形で存在している。    米国を悪く言う人が多いが、この面では日本の方が遅れている。  この事実を現時点で確認する必要があるのだ。  ==============================  クリフォード・ヒュー・ダグラス  :Morino,Eiichi   http://www.grsj.org/colum/colum/dagras.html    [gesell2505]クリフォード・ヒュー・ダグラス01  現在の地域通貨のうねりには、いろいろな理論や思想が流れこんで  きています。  私は戦前に貨幣改革論として知られながら、ケインズの表現によれ  ば経済学の「地下世界」に存在するしかなかった、諸理論も大いに  貢献しうるものがあるはずと考えてきました。  それらはまず、シルビオ・ゲゼルの理論であり、そしてクリフォー  ド・ヒュー・ダグラス、さらにはフレデリック・ソディの理論です。  いま、LetsのMLでは、ダグラス理論にたつ経済学者の発言が目立っ  ています。  日本では、歴史的にみても、ダグラス理論にたつ社会信用論者の運  動が存在しなかったようで、あまり知られていません。  エンデの遺言では、触れませんでしたが、戦前、ヴェルグルと並ん  で注目すべき取組が存在しました。  それはカナダ、アルバータ州の実権を握ったダグラス支持者の社会  信用政府の取組です。  そこで、これから少し基本的な情報をポストすることとします。  まず巷間、ダグラス少佐といわれる人間とはどんなひとであったか  、です。    クリフォード・ヒュー・ダグラス(Clifford Hugh Douglas)は英国人  です。1879年生まれ、1952年に死去。    ゲゼルと同じ時代を生きたひとです。  レーニンが「帝国主義論」を書くときに参考にしたボブソンの論敵  でありました。  産業機械工学博士、産業電気工学修士、技術顧問、エコノミスト、  著述家、そして社会信用運動の創始者でした。  その初期の職歴は、カナダ・ジェネラル・エレクトリック社(カナ  ダ、ピーターバロ)の技術者、ラシーン・ラピッズ・ハイドローリ  ック・コンストラクションの技術助手、ブエノスアイレス・アンド  ・パシフィック・レエイルウェイの副主任電気技師、インドの英ウ  エスティングハウス社の主任兼マネージャー、英王立空軍航空機工  場(英国、ファーンバロ)の指導監督助手がある。    第一次世界大戦中、彼は英国王立空軍航空兵科で少佐を務め、後に  王立空軍(予備役)に籍を置いた。  技術者生活から引退後、妻と二人で、数年間、サウサンプトン港の  近くで小さなヨット製造工場を営んだ。  優れた設計のレーシングヨットのもつ美しさと機能性の組み合わせ  が彼をとりわけ惹きつけたのだ。  ハンプシャー州の古い水車場で暮らしたとき、彼は水車を利用して  発電機を回し、得られた電力を旋盤や他の機器類ばかりでなく、家  の照明や暖房に使った。  その後、スコットランドに移ったが、彼の多くの友人や支持者たち  は、彼が小さな水力発電所を自分の土地を流れる小川に建てるのを  手伝ったそうだ。  経済力の分散が彼の考えの神髄であり、彼が自ら唱えたことを実践  したことは記録されてしかるべきである。  1914年の大戦の少し前に、彼が携わった興味深い仕事の一つが  、ロンドンの郵便局地下トンネルの電気工事に関する事前の試験作  業の計画、仕様作成、実施で、後にその作業の監督を務めたが、こ  れは工学史上における完全自動化事例の初期の一つであった。  この仕事に具体的な問題はひとつもなかったが、ダグラスはしばし  ば作業を遅らせるよう、また人員を解雇するよう命じられた。  しかし、戦争が始まってみると、政府が望むものについてはもはや  カネの問題は発生しないことに気づかされた。  1916年に、ダグラスは王立航空機工場の事業の「無駄」を特定  するためにファーンバロに送り込まれたようだ。  そのために、彼は、非常に注意深く原価計算を調べる必要に直面した。  彼はこの作業を当時、「表作成機」として知られる機械を導入して  処理したが、これはそれからかなり後の、コンピュータの使用を予  想させるアプローチであった。  またこの仕事は彼の関心を、工場が賃金や給与のかたちで収益を分  配する割合に比べて、コストを発生させる割合の伸びのほうが急激  なことに向けさせた。  これはどの工場にも民間の事業所にもあてはまるのであろうか、と。    [gesell2517]クリフォード・ヒュー・ダグラス02  そこでダグラスは、英国の100以上の大企業から情報を集め、そ  の結果、倒産に瀕している企業を除き、どの事例でも総費用が常に  賃金や給料、配当として支払われる総額を上回っていることを発見  した。    このことから出てくるのは、最終生産物の一部のみがその生産によ  って支払われた所得を通して配分されうるだけで、さらに産業工程  が迂回化し、複雑化することで、現行賃金に対する間接費の割合の  増加を伴いながら、その配分が減少していくということであった。  財務上の簿記計算におけるこうした欠陥が正されなければ、彼はそ  れが完全に実行可能と考えたが、分配はますます、信用貸付や輸出  信用によって融資され、倒産や産業力の集中につながるコスト割れ  販売によって資金手当された将来の製品のための仕事(需要のいか  んに関わりなく)を進めることに依存するようになる。  それは悲惨な結果をもたらすほかないであろう。    事実、現代のジレンマである失業による大量の貧困やインフレの拡  大、債務、独占を生みだしているし、人間の努力や「完全雇用」を  維持するために地球資源の無駄遣いを伴いながら、耐えざる「成長  」や国家間の経済戦争を必要とし、軍事戦争へと発展するものだ。  この、彼の考え方は、金融制度を商品の効率的な分配のための簿記  上の便宜とみなしている、その発券制度に関する考えと同様に、当  時に経済理論家たちには完全に異質で受け入れがたいものであった。  ただひとり、オーストラリアのシドニーのアービン教授だけが賛同  したが、その直後、同教授はその職を退いている。    しかし、経済学者たちによる非難は二つの矛盾した考えによるもの  であった。  すなわち1、費用と所得の差は、費用がすべて賃金や給料などとし  て事前に支払われた金額であることをダグラスが理解できないため  に生じた幻想であるとして、ダグラスの分析の要点である時間要因  を無視している。    2、この差は金融及び財政制度が新たな生産を刺激し、雇用水準の  維持に有効に働くとして、ダグラスの基本的な視点、つまり生産の  目的は「雇用」やその他の金融目的ではなく、消費者の利用のため  だとする見解を無視していた。    1930年代の大恐慌が残酷にもダグラスの分析を立証し、彼に世  界的な評判と支持者をもたらしたとき、彼の批判家たちは彼が金融  制度の一時的な過失を恒常的な欠陥と取り違えたのだと説明した。  しかし、その後の出来事がことごとく彼の予測に従ってきたことか  ら、こうした批判は妥当性をもたなくなった。  当時の体制側の拒絶にもかかわらず、ダグラスは1923年のカナ  ダ銀行経営調査会議及び1930年のマクミラン委員会で証言を求  められた。    また数回にわたる世界ツアーでは特に、カナダ、オーストラリア、  ニュージーランドで多数講演し、1929年には東京の世界工学会  議でもスピーチをしている。  1935年に彼はオスロ・マーチャント・クラブでノルウェー国王  及び英国公使の列席のもと重要な講演を行った。  同年、彼はカナダのアルバータ州の「連合農民」政府の主席経済再  建顧問に任命され、その年の後半、同州は「社会信用」政府と名付  けられた初の政府を選出した。  しかしカナダ連邦政府はダグラスの勧告の具体化をあらゆる方法を  使って妨害し、立法化を否決した。  いくつかの立法は通過したが、再度否決された。  その後同党は30年以上政権の座にあったが、党が最初に選出され  る基になったその原則は段階的に放棄された。  前例として、歴史に記されるべきは、二回の「州による配当」の支  払いが市民に支払われたこと、ダグラスの勧告に基づく活動期間中  に同州は借り入れを増やすことなく経済的に自立し、州の負債を大  幅に削減したことである。    こうしたダグラス理論の党派政治の袋小路への逸脱は広く知られる  ところとなった。  しかし1934年以降、政治への実験的アプローチが試みられた。  それは彼の講演や著作、すなわち英国での5回の主要講演、「民主  主義の本質」、「人間活動の悲劇」、「現実への取組」、「哲学の  政策」、「現実的立憲主義」で手がかりが提供されたものである。    1934年に社会信用事務局がダグラスを議長に設立され、議会や  政党のためでなく、有権者が望む政策目的のために投票を利用する  キャンペーンが開始された。  これに続き、地方でも、政策目的重視、無党派選挙キャンペーンが  取り組まれ、低地方税並びに地方税評価キャンペーンが取り組まれ  行政サービスを低下させず、地方税納税者の負担の軽減に成功した。  第二次大戦が組織的なこうした取組に終止符を打たせた。  社会信用運動は地方的な分散状況を示すこととなった。    晩年、1939年から1952年まで、ダグラスは自分の考えを包  括的にまとめ上げたが、それは信用の独占を強化するものときわめ  て対照的な議論となっている。  世界に多大の影響をもたらしてきた彼の理論のうちよく知られたも  のは経済の分野でのものである。    リアルクレジットの理論協同関係の増分の観念文化的遺産の理論国  民分配分の理論公正価格(補正価格)の理論などがある。  彼の政治上の考えはあまり知られていないが、重要なものである。  それはダグラス特有の実際的見地から実行され、事態の推移のなか  でフィードバックされたもので、民主主義の本質をこれほど明らか  にしているものはないとの評価があるほどである。    地方分権の重視、階層的行政管理の必要性の提起、有権者の政策立  案、並びに拒否権など多くの提起がある。  1947年、ロンドンで開催された立憲調査会でダグラスは最後の  講演を行い、現行の無記名、無責任な多数決投票の考えの転換を求  め、責任投票、記名選挙を提起した。  元労働党党首のヒュー・ゲーツケルはかつて皮肉を込めて「科学と  いうよりむしろ宗教的改革者」と述べた。  これは彼が感じた以上に的を射ているかもしれない。    哲学や政策、宗教の問題に関するダグラスの考えや、これらの言葉  に与えられた特別な意味は宗教的信条と社会に適用される原則との  関係の回復に重要な貢献となるものだ。  彼の考えでは「哲学」すなわち宇宙の概念は常に、「政策」、  -これは「哲学」によって定められた目的に向かう特有な一連の長  期的行為であるが-としてはっきりと現れるものである。    宗教(ラテン語religare「結合する」という意味)は単にキリスト  教の教義で表されるような一連の信条ではなく、まさにこれらの信  条を個人レベルのみならず社会の政治、経済関係において我々の生  活に現実に「結合し直す」ことである。  つまり彼における宗教は社会経済関係のなかで現実に宗教の教義を  結合し直す(religare)目的性のなかで政策として成立するもので  ある。      


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クリフォード・ヒュー・ダグラス ベーシックインカムの財源としての政府貨幣 国民配当

既に200年の歴史を持つといわれる
ベーシックインカムに興味を持っています。

単なる社会保障/生活保障としての
ベーシックインカム制度、という側面よりも・・・

どちらかというと
「食料品非課税の国」「医療/教育は原則無料の国」等の理念を
「21世紀にもなってるんだし、それが当然でしょ」
と心から思う気持ちから。

地域を循環する、生活のお金〜循環型経済と
世界を駆け巡る銀行マネー〜市場経済を分けて考えないこととか

アンペイドワークは「仕事」ではないの?とか
それに交換価値を与える仕組み(タイムダラー的なもの)とか

仕事/お金/利子/銀行/経済/景気みたいなものの
常識の「矛盾」「ウソ」に、もやもや感が募っていて・・・

それでこのサイトに出会いました。ベーシックインカムの財源としての政府貨幣について触れられています。
政府貨幣のモラル論、クリフォード・ヒュー・ダグラスについても・・・

「ところでダグラスは、ベーシック・インカムではなくて国民配当(National dividend) という言葉を使っています。これは配当なんだと。」
というところも、面白かったです。だってもう21世紀ですから。
文化的遺産(カルチュラル・ヘリテージ)の恩恵・・・。

「ベーシックインカムのある暮らしというのは、決して不労所得で遊び呆けて毎日を過ごすというようなものではなく、生活に必要な最低限の物資でつましく生きて行くというイメージのものだと私は思っています」

これは単に、東京の感覚なんて実はよく知らないヨーロッパ人が
昔から愛するスタイルのことを言ってるだけですが、
つましく生きていくことを強制されるなんて、
洗脳されるのと同じくらい迷惑な人も多いことでしょう。



でももし、今までの半分しか働かなくて良くなったら
そして遊び呆けることにも飽きたら・・・

人はどんな「仕事」を選び直すのでしょうか?
人はどんな「仕事」を創造し始めるのでしょうか?


「人間は経済というものに関心がなくなるだろう、基本的欲求の充足はもう何ら問題でなくなって、おそらく我々の孫たちは経済には関心がなくなり、芸術や学問など文化的な活動に忙しいだろう」ケインズ

「現代ではオートメ技術をフルに活用するなら全労働人口の四分の一程度ですべての生産ができてしまうようですね。
ですから大半の現代人は潜在的失業者であるわけです」


早くその次元へ進んでほしいなと思いました。


「恐慌は資本主義の原理的な矛盾や欠陥に起因するもので、その矛盾や欠陥にラディカルに取り組むことなしにはどうにも解決しない」

「勤労者の購買力が限られていることが競争の主要な原因」

「恐慌を予防する経済的方策ということも
 国民配当を正当化する理論的な論拠」

勤労者の購買力をアップできる新しい方法があるなら
それは景気を良くすることなのだから、
全部試す価値があるはず・・・?
(エコポイント→ポイント交換→?)

「雇用と所得を切り離して人々の購買力を保証する必要がある。そうしないと経済は恐慌になってしまう。このように負債経済を解体すること、その一環として雇用と所得を切り離して円滑なマネーの流れを作り出す」

銀行の信用創造独占に対する「社会信用」の創造・・・


「かつてマルクスが描いた産業革命の時代には資本が不足していて、そのせいで資本家による労働者の搾取ということが起きました。だが現代は反対で、資本の過剰が恐慌の原因になっている。その点では、資本の不足がえげつない資本家を生んでいた時代の「蟹工船」と言った小説、今読んでもあまり意味ないと思います。時代錯誤じゃないですかね(会場笑い)」

「文明の未来はダグラスかマルクスかによって決定されるだろう。そして自分はマルクスは嫌いだ」ケインズ

「生産の問題はすでに解決した、現在の問題は分配である」ダグラス



10分でわかるダグラスの社会信用論 – ベーシックインカム(BI)の祖

ダグラスの社会信用論は、現在まで続く金融システムを痛烈に批判し、政府通貨の発行と国民配当を提唱しました。今でこそベーシックインカム(BI)という考え方は一般的ですが、当時はかなり革新的な考え方でした。

ダグラスの社会信用論は、資本主義が停滞し始めた今こそ、読み返す必要性があるのではないでしょうか。海外でかなり再注目されてきています。

なお、この記事は下記の社会信用論を元に記載しています。

クリフォード・ヒュー・ダグラスとは

クリフォード・ヒュー・ダグラス(Clifford Hugh Douglas)はイギリスで1879年に生まれ、1952年に死去しています。

かなり異色の経歴で、産業機械工学博士、産業電気工学修士、技術顧問などのエンジニア的な側面を持ちながら、エコノミスト、著述家としても活躍しています。そして社会信用論という書籍を残しています。

ちなみに彼は、カナダ・ジェネラル・エレクトリック社、ラシーン・ラピッズ・ハイドローリック・コンストラクションの技術助手などの大企業の技術者として務めながらも、第一次大戦中は、英国王立空軍航空兵科で少佐を務めています。

彼の大企業の技術者を務めたという経験から、100以上の大企業を調査していくことになります。そして、「社会信用論」を展開していきました。

社会信用論とは

社会信用論の書籍の冒頭は下記の文で始まります。

社会系信用論 序文

本作の初稿は、金融理論と、社会、産業、哲学のあるべき姿を相互に関連づけるために書かれた。

この本は、経済についての論文ではなく、様々な考え方を複合して、社会信用について書いています。また、金融システムによって得られた現在の繁栄は、このままいくと必ず崩壊するだろうと述べています。

また、ダグラスは賞罰教育そのものを批判しています。賞罰教育とは、良いことをしたから経済的に報われた、悪いことをしたから報わらないというような、在り方全般のことを言います。人間の考え方、つまりは哲学的な背景から批判しています。

MEMO

哲学とは「モノの考え方、捉え方」のことです。〇〇だから、こうであるというような因果律をもとにした帰納法など、考え方そのものなども考察しています。

︎預金は借金

ダグラスは、金融システムの欠陥を簡潔に述べています。

つまり誰かの預金は、借金の返済にいずれ使われるということです。通貨の発行は中央銀行のみが行なっています。政府や一般銀行は、中央銀行からの借金という形でお金を受け取っています。

つまり、あなたの預金は、厳密には中央銀行からの借金です。国の借金を返済しようとすればあなたの預金は消えて無くなることになります。

自分の資産だと思っていたものでさえ、取り上げることができるほど金融システムの力は強大であるとダグラスは批判しました。

中央銀行の仕組みについては、下記のリンクで記載しています。金融システムの課題について理解できます。

10分で分かる中央銀行の仕組み。中央銀行と紙幣の歴史

︎A+B理論とは?

ダグラスの理論の核心はA+B理論です。A+B理論とは、「常に商品の価格は、所得分配よりも上回る」ということです。

例えば、新たなラジオを作ろうとする会社があるとします。銀行からの融資で、資金(B)を借金し、設備投資などを行なって、従業員の給与(A)を払いながらラジオを生産します。するとラジオの価格は、設備投資などの資金(B)+従業員の給与(A)を加味した価格が設定されることになります。

つまり、商品の価格はA+Bで設定されますが、給与はAしか支払われません。
必ずA+B > Aという不等式が成立することになり、従業員に支払われる給与からの需要のみでは、供給を満たす事ができないことを指摘しました。

︎富の源泉は生産にある

ダグラスは既存の金融システムは奴隷を作るシステムだと批判します。あなたが資産だと思っていたものでさえ、銀行が取り上げることができるからです。

上記で、預金は借金であると述べました。またA+B理論でも述べたように、生産力より購買力が必ず下回ってしまうという問題も指摘しました。

MEMO

ダグラスは、生産力があるにも関わらず、購買力がない状態を、豊かさの中の貧困と述べています。現代ではよく言われていることですが、100年近く前にダグラスも述べています。

このような金融システムの問題がある中で、ダグラスは生産力が富の源泉であり、その富の源泉から購買力のための給与を分配すべきだと述べています。

既存のシステムは、富の源泉はマネーの流通量でした。このマネーは銀行からの借金でまかなわれます。一方、ダグラスは、生産量と同額のマネーを流通させることを提唱しています。つまり、生産できることが社会の富であるという考え方です。

この理屈はとても単純です。1人で生きていれば、お金は何の役にも立ちません。しかし、健康な体や畑があれば生きていくことができます。富の源泉を生産力としようと提唱しています。

では「生産力と同額のマネーをどのように流通させるのか?」というと、ダグラスは国民配当という形で、全員に配ろうと提唱しています。供給と需要のギャップを全員に配ることによって埋めてしまおうとしました。

ベーシックインカム(BI)の祖

ダグラスは国民配当(ベーシックインカム)を初めて提唱した学者です。

現代では国民の需給ギャップを埋めるためにベーシックインカムを導入しようという動きが先進国で見られます。

ダグラスは資本主義の限界を予期していたのかもしれません。今まさに経済の行き詰まりが起きています。ダグラスの資本論を見返す時なのかもしれません。

おすすめの書籍

この記事は下記の社会信用論の原文の日本語訳を元に記載しています。社会信用論の書籍は下記しかほぼ出版されていません。社会信用論について詳しく理解したい方は下記の書籍を読むことをお勧めします。原文ですので非常に難しくはありますが、深く理解するのにおすすめです。



クリフォード・ヒュー・ダグラス

  

:: Morino,Eiichi 

[gesell2505]クリフォード・ヒュー・ダグラス01
現在の地域通貨のうねりには、いろいろな理論や思想が流れこんできています。
私は戦前に貨幣改革論として知られながら、ケインズの表現によれば経済学の「地下世界」に存在するしかなかった、諸理論も大いに貢献しうるものがあるはずと考えてきました。
それらはまず、シルビオ・ゲゼルの理論であり、そしてクリフォード・ヒュー・ダグラス、さらにはフレデリック・ソディの理論です。
いま、LetsのMLでは、ダグラス理論にたつ経済学者の発言が目立っています。
日本では、歴史的にみても、ダグラス理論にたつ社会信用論者の運動が存在しなかったようで、あまり知られていません。
エンデの遺言では、触れませんでしたが、戦前、ヴェルグルと並んで注目すべき取組が存在しました。
それはカナダ、アルバータ州の実権を握ったダグラス支持者の社会信用政府の取組です。
そこで、これから少し基本的な情報をポストすることとします。
まず巷間、ダグラス少佐といわれる人間とはどんなひとであったか、です。
.................クリフォード・ヒュー・ダグラス01CliffordHughDouglasは英国人です。
1879年生まれ、1952年に死去。
ゲゼルと同じ時代を生きたひとです。
レーニンが「帝国主義論」を書くときに参考にしたボブソンの論敵でありました。
産業機械工学博士、産業電気工学修士、技術顧問、エコノミスト、著述家、そして社会信用運動の創始者でした。
その初期の職歴は、カナダ・ジェネラル・エレクトリック社(カナダ、ピーターバロ)の技術者、ラシーン・ラピッズ・ハイドローリック・コンストラクションの技術助手、ブエノスアイレス・アンド・パシフィック・レエイルウェイの副主任電気技師、インドの英ウエスティングハウス社の主任兼マネージャー、英王立空軍航空機工場(英国、ファーンバロ)の指導監督助手がある。
第一次世界大戦中、彼は英国王立空軍航空兵科で少佐を務め、後に王立空軍(予備役)に籍を置いた。
技術者生活から引退後、妻と二人で、数年間、サウサンプトン港の近くで小さなヨット製造工場を営んだ。
優れた設計のレーシングヨットのもつ美しさと機能性の組み合わせが彼をとりわけ惹きつけたのだ。
ハンプシャー州の古い水車場で暮らしたとき、彼は水車を利用して発電機を回し、得られた電力を旋盤や他の機器類ばかりでなく、家の照明や暖房に使った(柴田さん、中川さんの大先輩よー)。
その後、スコットランドに移ったが、彼の多くの友人や支持者たちは、彼が小さな水力発電所を自分の土地を流れる小川に建てるのを手伝ったそうだ。
経済力の分散が彼の考えの神髄であり、彼が自ら唱えたことを実践したことは記録されてしかるべきである。
1914年の大戦の少し前に、彼が携わった興味深い仕事の一つが、ロンドンの郵便局地下トンネルの電気工事に関する事前の試験作業の計画、仕様作成、実施で、後にその作業の監督を務めたが、これは工学史上における完全自動化事例の初期の一つであった。
この仕事に具体的な問題はひとつもなかったが、ダグラスはしばしば作業を遅らせるよう、また人員を解雇するよう命じられた。
しかし、戦争が始まってみると、政府が望むものについてはもはやカネの問題は発生しないことに気づかされた。
1916年に、ダグラスは王立航空機工場の事業の「無駄」を特定するためにファーンバロに送り込まれたようだ。
そのために、彼は、非常に注意深く原価計算を調べる必要に直面した。
彼はこの作業を当時、「表作成機」として知られる機械を導入して処理したが、これはそれからかなり後の、コンピュータの使用を予想させるアプローチであった。
またこの仕事は彼の関心を、工場が賃金や給与のかたちで収益を分配する割合に比べて、コストを発生させる割合の伸びのほうが急激なことに向けさせた。
これはどの工場にも民間の事業所にもあてはまるのであろうか、と。

[gesell2517]クリフォード・ヒュー・ダグラス02
クリフォード・ヒュー・ダグラス02...................そこでダグラスは、英国の100以上の大企業から情報を集め、その結果、倒産に瀕している企業を除き、どの事例でも総費用が常に賃金や給料、配当として支払われる総額を上回っていることを発見した。
このことから出てくるのは、最終生産物の一部のみがその生産によって支払われた所得を通して配分されうるだけで、さらに産業工程が迂回化し、複雑化することで、現行賃金に対する間接費の割合の増加を伴いながら、その配分が減少していくということであった。
財務上の簿記計算におけるこうした欠陥が正されなければ、彼はそれが完全に実行可能と考えたが、分配はますます、信用貸付や輸出信用によって融資され、倒産や産業力の集中につながるコスト割れ販売によって資金手当された将来の製品のための仕事(需要のいかんに関わりなく)を進めることに依存するようになる。
それは悲惨な結果をもたらすほかないであろう。
事実、現代のジレンマである失業による大量の貧困やインフレの拡大、債務、独占を生みだしているし、人間の努力や「完全雇用」を維持するために地球資源の無駄遣いを伴いながら、耐えざる「成長」や国家間の経済戦争を必要とし、軍事戦争へと発展するものだ。
この、彼の考え方は、金融制度を商品の効率的な分配のための簿記上の便宜とみなしている、その発券制度に関する考えと同様に、当時に経済理論家たちには完全に異質で受け入れがたいものであった。
ただひとり、オーストラリアのシドニーのアービン教授だけが賛同したが、その直後、同教授はその職を退いている。
しかし、経済学者たちによる非難は二つの矛盾した考えによるものであった。
すなわち1、費用と所得の差は、費用がすべて賃金や給料などとして事前に支払われた金額であることをダグラスが理解できないために生じた幻想であるとして、ダグラスの分析の要点である時間要因を無視している。
2、この差は金融及び財政制度が新たな生産を刺激し、雇用水準の維持に有効に働くとして、ダグラスの基本的な視点、つまり生産の目的は「雇用」やその他の金融目的ではなく、消費者の利用のためだとする見解を無視していた。
1930年代の大恐慌が残酷にもダグラスの分析を立証し、彼に世界的な評判と支持者をもたらしたとき、彼の批判家たちは彼が金融制度の一時的な過失を恒常的な欠陥と取り違えたのだと説明した。
しかし、その後の出来事がことごとく彼の予測に従ってきたことから、こうした批判は妥当性をもたなくなった。
当時の体制側の拒絶にもかかわらず、ダグラスは1923年のカナダ銀行経営調査会議及び1930年のマクミラン委員会で証言を求められた。
また数回にわたる世界ツアーでは特に、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドで多数講演し、1929年には東京の世界工学会議でもスピーチをしている。
1935年に彼はオスロ・マーチャント・クラブでノルウェー国王及び英国公使の列席のもと重要な講演を行った。
同年、彼はカナダのアルバータ州の「連合農民」政府の主席経済再建顧問に任命され、その年の後半、同州は「社会信用」政府と名付けられた初の政府を選出した。
しかしカナダ連邦政府はダグラスの勧告の具体化をあらゆる方法を使って妨害し、立法化を否決した。
いくつかの立法は通過したが、再度否決された。
その後同党は30年以上政権の座にあったが、党が最初に選出される基になったその原則は段階的に放棄された。
前例として、歴史に記されるべきは、二回の「州による配当」の支払いが市民に支払われたこと、ダグラスの勧告に基づく活動期間中に同州は借り入れを増やすことなく経済的に自立し、州の負債を大幅に削減したことである。

クリフォード・ヒュー・ダグラス03.....................こうしたダグラス理論の党派政治の袋小路への逸脱は広く知られるところとなった。
しかし1934年以降、政治への実験的アプローチが試みられた。
それは彼の講演や著作、すなわち英国での5回の主要講演、「民主主義の本質」、「人間活動の悲劇」、「現実への取組」、「哲学の政策」、「現実的立憲主義」で手がかりが提供されたものである。
1934年に社会信用事務局がダグラスを議長に設立され、議会や政党のためでなく、有権者が望む政策目的のために投票を利用するキャンペーンが開始された。
これに続き、地方でも、政策目的重視、無党派選挙キャンペーンが取り組まれ、低地方税並びに地方税評価キャンペーンが取り組まれ行政サービスを低下させず、地方税納税者の負担の軽減に成功した。
第二次大戦が組織的なこうした取組に終止符を打たせた。
社会信用運動は地方的な分散状況を示すこととなった。
晩年、1939年から1952年まで、ダグラスは自分の考えを包括的にまとめ上げたが、それは信用の独占を強化するものときわめて対照的な議論となっている。
世界に多大の影響をもたらしてきた彼の理論のうちよく知られたものは経済の分野でのものである。
リアルクレジットの理論協同関係の増分の観念文化的遺産の理論国民分配分の理論公正価格(補正価格)の理論などがある。
彼の政治上の考えはあまり知られていないが、重要なものである。
それはダグラス特有の実際的見地から実行され、事態の推移のなかでフィードバックされたもので、民主主義の本質をこれほど明らかにしているものはないとの評価があるほどである。
地方分権の重視、階層的行政管理の必要性の提起、有権者の政策立案、並びに拒否権など多くの提起がある。
1947年、ロンドンで開催された立憲調査会でダグラスは最後の講演を行い、現行の無記名、無責任な多数決投票の考えの転換を求め、責任投票、記名選挙を提起した。
元労働党党首のヒュー・ゲーツケルはかつて皮肉を込めて「科学というよりむしろ宗教的改革者」と述べた。
これは彼が感じた以上に的を射ているかもしれない。
哲学や政策、宗教の問題に関するダグラスの考えや、これらの言葉に与えられた特別な意味は宗教的信条と社会に適用される原則との関係の回復に重要な貢献となるものだ。
彼の考えでは「哲学」すなわち宇宙の概念は常に、「政策」、-これは「哲学」によって定められた目的に向かう特有な一連の長期的行為であるが-としてはっきりと現れるものである。
宗教(ラテン語religare「結合する」という意味)は単にキリスト教の教義で表されるような一連の信条ではなく、まさにこれらの信条を個人レベルのみならず社会の政治、経済関係において我々の生活に現実に「結合し直す」ことである。
つまり彼における宗教は社会経済関係のなかで現実に宗教の教義を結合し直す(religare)目的性のなかで政策として成立するものである。

2002 Gesell Research Society Japan: All Rights Reserved


カナダの政党/社会信用党

 

 

 

 

●社会信用党The Social Credit Party of Canada/Parti Crédit social du Canada)

 社会信用党→東西に分裂→統合→クリスチャン自由社会信用党→クリスチャン自由党→消滅

【歴代党首】
初 代 ジョン=ホーン・ブラックモア(1935~1944)
第2代 ソロン=アール・ロー(1944~1961) 
第3代 ロバート=ノーマン・トンプソン(1961~1967) 
第4代 レアル・カウエット(1972~1976) 
第5代 アンドレ=ジル・フォルタン(1976~1977) 
第6代 ローヌ・レズノースキー(1978) 
第7代 フェビアン・ロイ(1979~1980) 
第8代 マーチン・ハッタースレー(1981~1983) 
第9代 ケン・スウェイガード(1983~1986) 
第10代 ハービー・レインソン(1986~1990) 
第11代 ケン・キャンベル(1990~1993)

 

 (1) ダグラスの社会信用論
 クリフォード=ヒュー・ダグラス(18791952)はイギリス空軍の少佐だったが、航空機工場で生産管理と原価計算に従事するうち、ある矛盾に気がついた。商品の価格を調べてみると、その大部分を構成しているのは生産設備の減価償却費や銀行への返済や研究開発費などで、労働者の賃金はわずかな部分を占めるものでしかなかったのである。彼は1919年から「ニュー・エイジ」に経済理論の論文を掲載し、翌年それをもとに「経済的民主主義」という著書を出した。 
 ダグラスは、資本主義経済では製品は過剰に生産され、それが輸出によって解決されようとするために国際間の紛争が起こるというイギリスの経済学者J・A・ホブソンの考え方にも共感を表明し、戦争を防止するためにも国内の購買力を高める必要があると考えた。1921年出版の「信用のテキスト ボックス: ヒュー・ダグラス。力と民主主義」、1924年出版の「社会信用論」では、数式を駆使して自説を理論づけていった。 
 その理論の根幹を成したのは、「A+B理論」と呼ばれるものだった。消費財の価格はA(賃金・俸給・配当)の部分とB(原材料・利子費用・減価償却費など)の部分から成るが、労働によって資本家はAとBを得るのに対し、労働者は賃金としてAだけしか得られず、働けば働くほど搾取されることになり、またAによってA+Bの価値のものを購入することはできないから、消費者はBの分の購買力を供与されるべきだと考えた。なお今日では、世界の総商品に対し総賃金は、2割に満たないと考えられている。
 そこで、勤勉な人には「社会信用」があるから、その「社会信用」を担保として国は国民に配当すべきだというのが社会信用論の骨子である。ダグラスは、不況を回避するには国が国民に「信用」を供与し、購買力を活性化する必要があると訴えたのである。 
 社会信用論を最も簡単に理解できるたとえ話として、A・R・オレージは「劇場の座席数と同数の入場券を発売する」という話を挙げている。財を座席数、貨幣を入場券にたとえ、不況や失業は「入場券」の数が「座席数」より少ない数しか発行されていないから起こっているというのである。 
 1930年代の世界恐慌はダグラスの正しさを裏付けたように見え、その後の出来事はことごとく彼の予想通りとなり「経済学のアインシュタイン」とさえ呼ばれた。国際的名声を得た彼は1923年にカナダ銀行経営調査会議、1930年にはマクミラン委員会で証言を求められた。数回にわたる世界ツアーではカナダ、オーストラリア、ニュージーランドで講演し、1929年には東京の世界工学会議でもスピーチしている。1935年にはオスロ・マーチャントクラブでノルウェー国王とイギリス公使の列席のもとで重要な講演を行い、同年アルバータ州政府の主席経済再建顧問に任命された。だがカナダ連邦政府は、ダグラスの勧告の立法化をあらゆる手段で阻止した。 
 ダグラスの考えの根底にあった、購買力を高めるには信用を拡大する必要があるとする考え方は、今日では景気刺激策として普通に採られている。だが金本位制度に強く固執していた当時の政治家や経済学者にとって、彼の説はとうてい受け容れがたいものだった。イギリス労働党は1922年ダグラスの説を退け、ヒュー・ゲーツケルは「科学というよりむしろ宗教改革」と語っている。共産党も「信用を拡大して価格を下げるという両方のことはできない」としてダグラスの説を否定した。信用を拡大すればインフレを伴うという共産党の見解は正しかったが、景気を刺激するために信用の拡大が必要であることは故意に見過ごされた。

 ケインズは1935年、「雇用・利子および貨幣の一般理論」において「A+B理論はまやかしに過ぎない」と断定し、「ダグラス少佐が彼のB項目を、取替および更新のための当期の支出をともわない企業者の金融準備に限定していれば、彼はいっそう真理に近づくことができたであろう。しかしその場合でさえ、これらの準備金が新投資によって相殺される可能性を考慮することが必要である」と説明した。社会信用論は、第二次大戦までには説得力を失っていた。

 

 (2) 社会信用党の本質
 社会信用党は、ダグラスの社会信用論に基づきイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ソロモン諸島で結成されたが、政権獲得したのはカナダ西部だけだった。現実の社会信用党は例外なく最後にはダグラスの理論を否定し、キリスト教保守主義に傾倒した。キリスト教では教会を現実に合わせ改革することがしばしば起こるが、社会信用党は現実の世界をキリスト教に合わせ改革しようと試みたという点において特筆されるべきである。 

 (3) カナダ社会信用党の結成
 世界恐慌はカナダ西部の農民の生活を直撃した。社会信用党と、社会民主主義の協同連邦党はこれがきっかけで創設されたものである。 
 戦後長く平和と経済成長が続くなかで、恐慌の時代に考案された社会信用論は次第に矛盾を露呈し、カナダ社会信用党は1960年代には事実上これを放棄した。だがケベックのレアル・カウエットは真のビリーバーで、カリスマ福音伝道士でもあった。彼は社会信用論とケベック民族主義を融合させ人気を博した。また他に先駆けて英仏二か国語政策を主張し、国会議事堂内の食堂メニューを二か国語表記に変えさせている。 
 1960年代の初め、党内にはアングロフォン派とフランコフォン派の間に抜き差しなテキスト ボックス: レアル・カウエット。らぬ対立が生じた。党の基盤は西部にあり、アルバータでは1935年から1971年まで与党、ブリティッシュ・コロンビアでは1952年から1972年と1975年から1991年まで与党と、州レベルにおいては西部で圧倒的な強さがあった。だが連邦レベルでは、ケベック選出議員が次第に増加していったのだった。 
 1960年、党首選でアルバータのロバート・トンプソンとカウエットが対決した。ところがアルバータ州首相で連邦社会信用党を牛耳っていたアーネスト・マニング(改革党創設者プレストン・マニングの父)は、党首選に先立ち「アルバータはフランコフォン・カトリックを絶対に党首として認めない」という声明を発表した。そしてトンプソンがカウエットを下して党首に当選したと発表されたが、その内訳は公表されなかった。多くの党員は真の勝利者はカウエットで、投票結果はトンプソンによって捏造されたという疑いを抱いた。しかし1962年総選挙で、当選した30名のうち26名がケベック選テキスト ボックス: アーネスト・マニング。出議員となり、西部はわずか4議席に終わる。トンプソンはカウエットの勢力を無視できなくなり、副党首に就けた。 

 (4) 分 裂
 1963年総選挙で社会信用党は24議席に減少したが、トンプソン党首は辞任を拒否したため、カウエットらケベック議員はフランス語で「信用運動(Ralliement des créditistes、後にRalliement créditiste)」を旗揚げし、社会信用党は事実上東西に分裂した。ケベック議員20人のうち13人がカウエットの「信用運動」に加わり、2人が進歩保守党に移籍し、5人は無所属となった。 
 1967年総選挙でわずか5名となった西部社会信用党は、進歩保守党との合併を模索したが果たせなかった。トンプソンは1967年党首を辞任して離党し、1968年総選挙では進歩保守党から出馬した。1968年総選挙では、「信用運動」が14議席を獲得するいっぽう、西部社会信用党は西部の最後の議席を失った。 
 こうして1971年、ケベックの「信用運動」と西部の社会信用党は再統合する。カウエットは党首選で3人の挑戦者を破り党首に就任した。だが不運にもスノーモービル事故に遭い、政治活動が不可能になると党は急速に求心力を失っていった。カウエットは1976年に死去した。

 

 (5) クラーク内閣不信任
 1979年総選挙では、定数282のうちジョー・クラーク率いる進歩保守党が136議席を獲得し、少数与党政権を築いた。同党は過半数にわずか6議席足りないだけだったが、右派の社会信用党がちょうど6議席持っているため、連立すれば安定政権を築くことができた。だが「原理原則の人」クラーク首相は譲歩を嫌い、統一会派を作って社会信用党に公認政党の地位を与えることを拒否した。そればかりか、社会信用党のリシャール・ジャネル議員に自党への入党を勧めた。 
 同年12月、与党提出の予算案に対し、社会信用党はガソリン税収益をケベック州に割り当てるための修正を迫った。だがクラーク首相がこれを拒否したため、社会信用党は予算案採決の棄権を決意する。いっぽう野党自由党は、入院中の議員を救急車で引っ張り出してまで反対票を投じさせ、予算案を否決させ、クラーク首相を解散・総選挙に追い込んだ。そして翌年2月の総選挙は、クラーク政権だけでなく社会信用党をも吹き飛ばした。重要案件においてささいな取引を迫り、受け容れられないと見るや棄権するという策略は、国民の反感を買ったのである。社会信用党は全ての議席を失い、その後二度と回復することはなかった。 

 (6) その後の行方
 地方の社会信用党は、ブリティッシュコロンビア州では1991年まで、アルバータ州では1971年まで与党であった。マニングは1968年の州首相退任後、1970年にカナダ上院議員に任じられ、社会信用党唯一の上院議員となった。彼は1983年に引退し、連邦議会における社会信用党の歴史に終止符を打った。社会信用論は銀行を敵視したが、彼は政界引退後に銀行の取締役になった。
 1990年に最後の党首となったケン・キャンベル牧師は、党名を「クリスチャン自由社会信用党」、後に「クリスチャン自由党」に変更したが、1993年総選挙で最低50人の候補者を擁立することができず、選挙管理委員会によって政党登録を抹消されカナダ社会信用党は消滅した。現在はキャンベル個人の所有となり、キリスト教理念に基づく政治的出版物を発行する「有限会社カナダ社会信用党」として今日も存在している。 
 1968年、西部社会信用党が最後の議席を失ったとき、多くの党員は進歩保守党に加わりポピュリスト・グループを成した。その後ケベックでも党が崩壊し、党員の多くは進歩保守党でケベック民族主義グループを成した。両者はマルローニ党首のもとで「大連立」を形成し、1984年総選挙大勝利の立役者となったが、ミーチレイク協定を契機に離党し、後者はケベック連合を結成し、前者の多くは改革党、一部はクリスチャン・ヘリテージ党に流れて行った。衆知の通り改革党は後にカナダ保守党となり、現在の与党である。社会信用党は今日存在しないが、政界再編の重要なファクターを務め、そのポリシーは今も生き続けていることになる。

 

 

 

●世界初の社会信用政権-「繁栄証書」の実験

 政府が国民に「社会信用」を供与するというダグラスの社会信用論は、カナダ社会信用党では、政府が住民に月々25ドルの「社会保障費」を支払うという公約として表れた。だがこの公約は、実際には実現することはなかった。 
 カナダ社会信用党が初めて挑んだ選挙は、1935年のアルバータ州議会選挙であった。この選挙はカナダの歴史上、最も恥ずべきものとなった。社会信用党の選挙運動は反対党のポスターを傷つけたり、クラクションを鳴らして演説を妨害することであり、また彼らの演説も、多党の批判ばかりだった。 
 当日の投票率は80%にものぼり、この記録は今日も破られていない。結果は定数63のうち、与党農民連合が39議席から0議席に転落するいっぽう、社会信用党は56議席の絶対多数を獲得し、世界初の社会信用政権を樹立した。翌日のボストン・グローブ紙は「アルバータは狂ったのか!」という見出しを打った。多くの歴史家が、この選挙を北米政治史上最も大きい変化をもたらしたものだとしている。 

 アルバータ社会信用党政権は、大恐慌の打撃を軽減するため1936年、「繁栄証書」の発行に踏み切った。それは1ドル相当の価値で流通するものだった。証書保有者は、その効力を維持するため毎週1セントの切手を貼り付けなければならなかったが、この手間は住民には不評で、しかもしばしば切手は脱落した。州政府は、公務員給与の一部を繁栄証書で支払った。 
 やがて新聞は“funny money”と呼ばれた「繁栄証書」ボイコット運動を始めた。そもそも通貨の発行は連邦政府の権限であり、銀行法第138条に抵触していた。そして「繁栄証書」の実験は、わずか1年で終了した。 

 社会信用党政権はさらに、州内の銀行を州の統制下に置く2つの法案を議会で可決させたが、ジョン・ボーエン副総督が署名を拒否して廃案にした。副総督と政府の関係は一気に険悪化し、副総督は解散の大権行使すら示唆して「憲法危機」を招いた。この問題は法廷に提訴され、連邦最高裁は後に、金融及び財政は連邦政府の管轄であるとして、一連の法案は違憲立法であると断じた。

 

 

 

ブリティッシュコロンビア社会信用党

 ブリティッシュコロンビア社会信用党が初めて政権に就いたのは、1952年のことである。W.A.C.ベネットの政権が20年、その息子ビル・ベネットの政権が10年8か月続いた。社会信用論を放棄した党の政策は、実質的にはポピュリズムと保守主義であり、その実態は連邦自由党とキリスト教保守主義の緩やかな連合であった。党の経済政策は自由競争主義を標榜していたにもかかわらず、W.A.C.ベネット首相は1958年、BCフェリーとブリティッシュコロンビア銀行を創立し、1961年にはBC電力公社を設立している。 

 (1) バンダーマニア
 1986年に党首に就任したビル・バンダーザムは、名前でわかる通りオランダ出身(Vander ZalmFrom the salmon)で、1947年ブリティッシュコロンビアに移住した。元は自由党員で、1969年から75年までサーレー市長を務めている。1975年にブリティッシュコロンビア州会議員に転進し、75年から78年までビル・ベネット内閣の人的資源大臣を務め、福祉詐欺反対運動に尽力した。1978年から81年までは市町村担当大臣、1981年から83年までは文部大臣を務テキスト ボックス: 州議会選挙勝利に歓喜するバンダーザム(右)とリリアン(左)。めている。だがベネット首相と閣僚を「意気地なし」と非難したため、閣僚を罷免されてしまう。 
 バンダーザムは1983年、無所属候補としてバンクーバー市長選に出馬するが落選。ベネット首相はこれを見て「バンダーザムは引退した」とコメントした。バンダーザムはリッチモンドに土地を購入して1984年、オランダ風の風車のついた聖書テーマパーク「ファンタジー・ガーデン・ワールド」を開業する。誰もが彼の政治生命は終わったと思った。
 だがバンダーザムは1986年、社会信用党の党首選に突如打って出た。彼の映画スターのような端正な顔立ちと笑顔、そして頭にヘッドバンドを巻いた妻リリアンは人々を魅了した。ファンタジー・ガーデン・ワールド-夢の世界-の中にあるオランダ風の城に暮らす二人は熱狂的な「バンダーマニア」を生み、彼女たちはファンタジー・ガーデンで販売される「リリアン・バンド」を頭に巻いてバンダーザム夫妻を応援した。こうしてバンダーザムは党首選に勝利し、ブリティッシュコロンビア州首相の地位に就いたのである。 
 首相に就任して間もなく、州議会選挙が行われた。バンダーザムは政策を決して訴えることなく、「新しいスタート」「刷新」「希望」の抽象的なスローガンだけを掲げたイメージ選挙に徹し、討論も拒否した。いっぽう、有力野党であるブリティッシュコロンビア新民主党のボブ・スケリー党首は、インタビューで持病の発作を起こしてしまい、「きのう間違ってチューリップの球根を食べたせいだ」とジョークでかわそうとしが、それはバンダーザムをはじめとするオランダ系移民がナチス占領時代にチューリップの球根を食べて飢えを忍んだことへの侮辱と受け取られテキスト ボックス: ファンタジー・ガーデン。た。選挙は社会信用党の圧勝に終わった。 

 (2) ファンタジーの終焉
 バンダーザムは、親友のデビッド・プールを主席秘書官に任命した。プールは選挙の洗礼を一度も受けなかったにもかかわらず、首相に何を陳情するにもプールを通さなければならず、彼は州でナンバー2の権力者となっていた。党重鎮のグレース・マッカーシーは1988年、これに抗議して閣僚を辞任した。 
 バンクーバー博覧会「エキスポ86」は彼の功績の一つだが、ここでも友人のピーター・トイゴ氏にエキスポでの商売に便宜を図った疑惑が取り沙汰された。 
 また170万ドルで購入したファンタジー・ガーデンを、1991年台湾人実業家タン・ユー氏に1600万ドルで売却したことが報道された。しかもその後タン・ユー氏が副総督から昼食に招待された事実が発覚すると、人々はバンダーザム首相がタン・ユー氏から賄賂を受け取る代わりに政界へのルートを提供したと考え、一大スキャンダルに発展した。ポピュリズム政治は西部ではよく見られるが、バンダーザムは党内主流ではなく、その政権運営は彼個人の人気に大きく依存していたため、彼が利益供与によってリーダーシップを確立しようとしたのは宿命的なものだったともいえる。バンダーザムはガーデン売却の責任は妻にあると主張したが、これは少し前にリクルート株を譲渡された政治家が「妻の責任」と言い訳したのを連想させた。 
 さらにその後、レイノルズ環境大臣が連邦議会で偽証して辞任すると、このままでは総選挙は戦えないとして、17以上の支部が党本部に造反した。ガーデン売却の責任者は首相自身だったとする報告書を調査委員会が公表すると、バンダーザムは1991年4月、ついに辞任に追いこまれた。 

 (3) 転 落
 同じ日、副首相のリタ・ジョンストンが暫定党首に選ばれ、副総督より州首相に指名された。このころ連邦のマルローニ首相は支持率を大きく下げ、代わって新民主党が世論調査1位となり、オードリー・マクラフリン党首が初の女性首相になると期待する人がいるいっぽう、マルローニ首相が辞任しバーバラ・マクドゥーガル外相が初の女性首相になると考える人もいた。だがカナダ初の女性首相の栄誉は、誰もが予想しない形でリタ・ジョンストンのものとなった(なお連邦初の女性首相は1993年のキム・キャンベルである)。 
 彼女の政治歴の始まりは、サーレーの市会議員に当選したことだった。彼女はそこでバンテキスト ボックス: リタ・ジョンストン。ダーザム市長と知り合い、その後社会信用党に入り、ブリティッシュコロンビア州会議員に転身する。バンダーザムが州首相に就任すると、ジョンストンは副首相に任命された。
 だが彼女はバンダーザムの腹心であまりにも彼に近く、彼女の総理・総裁就任は党が真剣に反省しておらず、党執行部を刷新する意志がないと思われても仕方がなかった。新民主党のハーコート党首は後に、これを好都合だと思ったと述懐している。ジョンストンは1991年7月の党大会でグレース・マッカーシーを破り、正式に党首に選出された。 
 しかし社会信用党は199110月の州議会選挙でわずか7議席に転落。ジョンストン自身も議席を失い、党首を辞任した。 
 後継党首に就任したのは「アメージング・グレース」と呼ばれたグレース・マッカーシーだった。彼女には議会の議席がなく、1994年2月の補欠選挙は議席を得る絶好のチャンスだったが、確実と見られていたこの選挙に彼女は敗れた。すると残った議員6名のうち、4名が党を見限ってブリティッシュコロンビア改革党に移籍した。こうしてかつての支配政党だった社会信用党は公認政党の地位を失い、マッカーシーは党首を辞任した。 
 後継党首にはラリー・ジランダースが就任したが、1996年州議会選挙で全ての議席を失い、以後議席を獲得していない。党員の多くは改革党や自由党に流れて行き、ブリティッシュコロンビア社会信用党は今日も存在してはいるが、影響力は全くなく、党首も存在していない。 

 (4) つわものどもが夢の跡
 バンダーザム元首相は起訴されたが、1992年ブリティッシュコロンビア最高裁判所で無罪を勝ち取った。 
 バンダーザムは、ファンタジー・ガーデンを購入したタン・ユー氏がガーデンそのものに全く関心がなく、ただガーデン内にカジノを設置したかっただけだったということを知らなかった。汚職の象徴となったガーデンはイメージが悪く、聖書をモチーフにしたテーマパークもいかにも宗教右翼が考えそうな代物で、人々の関心を呼ばなかった。バンダーザムは後に、サクセス・ファンタジーの原点であるガーデンを買い戻したが、長年管理の手が及ばなかったガーデンはミドリガメの巣と化し、回復不能なほどに荒れ果てていた。現在も当時の外観を残したまま売りに出されているが、買い手はついていない。 
 長年の沈黙の後、バンダーザムは1999年ブリティッシュコロンビア改革党党首となり、同年デルタ・サウスの補欠選挙に立候補した。このときの与党新民主党もまた汚職まみれとなり、候補者はまるで人気がないところに加え、「汚職の元祖」バンダーザムの出馬で話題を呼んだが、バンダーザムは次点で落選し、政界引退を発表した。 
 2001年、バンダーザムの主導でブリテュッシュコロンビア州内の右派諸党を統合し統一党が結成されたが、党テキスト ボックス: ファンタジー・ガーデン内のビブリカルガーデン。写真中央は恥ずかしながら筆者(1991年撮影)。運営をめぐって争いが起こり、候補者をわずか2人しか立てられず、全員落選した。

 








2 件のコメント:

  1. 貨幣発行益を配当せよ 「ヘリコプターマネー」という言葉が良くないと多くの人から批判を受けている。私は、代わる名称として「国民配当」とか「国民ボーナス」というのを提唱している。 「ヘリコプターマネー」と似たような用語で「ベーシックインカム」(BI)がある。BIは社会保障制度の一種であり、国民全員(居住者全員の意味で常に用いている)に生活に必要な最低限のお金を給付することを意味する。財源はなんでも構わないのだが、一般には税金とされている。それに対し、ヘリコプターマネーは、基本的には社会保障制度という意味合いはなく、貨幣発行益を財源としたお金のばらまきを意味する。ただし、BIとヘリコプターマネーをオーバーラップさせて考えることもできる。  BIの基になる考えを論じた人がいろいろといて、そのうちの1人がクリフォード・ヒュー・ダグラスというイギリス生まれの経済思想家である。イギリス空軍の少佐だったこともあるので、ケインズの主著である『雇用・利子および貨幣の一般理論(*1)』という本に、ダグラス少佐という名前で登場する。  ケインズからは「面白いことも言っているけどトンデモっぽい人」という扱いを受けている。そのダグラスが、貨幣を発行してお金を国民に配れという意味のことを言っていて「国民配当」という言葉を使っている。  企業の株主は年に2回ぐらい配当という形で、企業からお金をもらうことができる。企業は収益を得ているから株主はお金をもらえるわけだ。そうすると、政府が収益を得ている場合、政府は儲かった分を国民に配当すべきではないか、というようにも考えられる。  そこから国民配当という考え方が出てくるわけだが、これは資源国ではすでに実施されている。国民配当という言葉は使っていないが、アラスカやイランでは、石油や天然ガスから得られる収益を元に国民にお金を給付している。  それでは、日本のように資源のない国は、国民配当として配当するものが何もないかというと、貨幣発行益がある。  貨幣発行益を配当せよ、ということを私はこの10年ぐらい主張し続けており、

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  2. 資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す 2021年3月30日初版1刷発行 2021年3月26日電子書籍版発行 著 者―松尾匡 井上智洋 高橋真矢 発行者―田邉浩司

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