http://nam-students.blogspot.jp/2016/08/2009.html
熊野純彦『資本論の思考』2013は最後に
現行『資本論』第三巻第五篇第三五章「貴金属と為替相場」の一文を引用しコメントしている。
712
《「重金主義は本質的にカトリック的であって、信用主義は本質的にプロテスタント的である。
The Scotch hate gold." (「 スコットランド人は金を嫌う」]。紙幣としては、諸商品の貨幣定在は
ひとつのたんに社会的な定在をそなえている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊
としての、貨幣価値に対する信仰、生産様式とその預定秩序に対する信仰、じぶん自身を価値
増殖する資本のたんなる人格化としての、個々の生産当事者に対する信仰。しかし、プロテス
タンティズムがカトリシズムの基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から
解放されはしないのだ。」(ebd., S.606)
最後に語られているところは、明白である。「それだからこそ、恐慌時には信用主義から重金主義
への急転回が生起する」からである(S.552)。問題はここで語られている「信仰 Glaube」 かの
ルターの「ただ信仰のみ sola fide」なのだーーのほかならぬ内実にある。
個々の資本にとって競争は、その外部にある超越的条件であった。資本制そのものにとって競争
は、その内部でのみ資本制総体の作動が可能となる一箇の超越論的審級である。信用主義(クレディット・ディステール)ある
いは信用システムは、その超越論的審級それ自身の制約にほかならない。現前せず、そのかぎりで
は未確定な未来を先どりすることは、時間という存在の条件に対する信頼を意味し、なにほどかは
また「預定秩序 prádestinierte Ordnung」に対する信仰を意味する。この信そのものが現在しない
場合には、資本制それ自体が作動しえない。資本制が産出する商品はかならずW-Gの過程を通過
しなければならず、その通過は、しかし〈命がけの跳躍〉として、すでにつねに無数の不確定性に
さらされているからである。そのいみで、信用制度もしくは信用システムを裏うちする信は資本制
にとっていわば本源的な信であり、資本制それ自身と起源をおなじくする信である。
その信は、とはいえ不断に揺らぐ。信は、ここでいわば「超越論的仮象」であるからだ。「危機」
はそこで「原理的に不可避」である。「他なる社会の可能性」を問うためには、それゆえマルクスが
読まれなければならない。資本制が不断に危機をうちにふくみ、その危機を暴力的に解除すること
でたえず再生するリヴァイアサンであるしだいをみとめるならば、「マルクスを読まないこと、読み
なおさないこと」は「つねに過失 toujours une faute」となるはずなのである。》
同じ箇所を宇野弘蔵が引用している。
宇野弘蔵『経済原論』岩波文庫
74頁
2-1-2
《ではいわば生産過程自身に基づいてその根拠を明らかにせられる。貨幣たる金をも含む、
あらゆる生産物が、労働力の商品化によって、すべて商品として資本によって生産せら
れ、貨幣たる金自身も、その生産に要する労働時間の変化と共に、その価値を変化する
ものとして、 商品の価値を尺度するものであることが明らかになる。事実、資本の生産
週程においては、人間の行動自身が資本の運動としてあらわれるのであって、その物化
が現実的となるのである(4)。かくしてまた労働の生産力の増進も資本の生産力の増進とし
てあらわれ、生産方法の発展もまたこの特殊の形態の下に促進されることになる。
(4)商品経済の物神崇拝的性格は、商品自身よりも、商品に対して直接交換可能性を与えられ
ている貨幣において、具体的にあらわれる。もっともそれは貨幣はもちろんのこと、商品にし
ても、そういう性格に対応して、それを根拠づける機能を現実的にもっているからであって、
単なる物神崇拝をなすわけではない。ところが資本となると、商品や貨幣と異なって特定の使
用価値と価値との関係ではなく、価値自身が種々なる使用価値としてその姿を変えながら価値
増殖することになるのであって、商品経済の物神崇拝的性格は、いわば一段の深化をとげるこ
とになる。マルクスは「重金主義(モネタール・ジステーム)は本質的にカトリック的であり、信用主義(クレディット・ジステーム)は本質的に
プロテスタント的である。」(『資本論』第三巻[イ]六四〇頁、[岩](七)四二五頁)といっている。
また「商品生産者の一般的社会的関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として
取扱い、この物的形態において彼らの私的労働を同等な人間的労働として相互に関係させると
いうことにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽
象的人間の礼拝をもって、特にそのブルジョア的発異たるプロテスタンティズム、理神論等に
おいて、 最も適応した宗教形態となっている。」(『資本論』第一巻[イ]八五頁、(岩)(一)一四二
頁)ともいっている。労働力の商品化によって、 資本の形態の下に社会的に生産過程が展開さ
れるとき、マルクスのいう「商品生産者の一般的社会的関係」も確立されるのである。それと
同時に労働力の商品化によってすでにその物化を前提される資本の生産過程にあっては、その
物化の「外観さえも消滅する」(同上(イ)八八頁、[岩](一)一四九頁)のである。マルクスはいう。
「重金主義は、金銀から、それらが貨幣としては社会的生産関係を、ただし奇妙な社会的な属
性をもつ自然物の形態で、あらわしているということを、看取しなかった。しかし近代の経済
学者も、高慢に重金主義を冷笑してはいるが、 資本を取り扱うや否やその物神崇拝が明白にな
るではないか。地代は土地から生ずるのであって、社会から生ずるものではないという重農主
義的幻想が消えてから、どれだけたったことか。」(同上)と。資本主義的生産の「物神崇拝的性
格」は、経済学批判としての科学的解明を要するわけである。》
マルクスも熊野も宇野も金属主義を留保する。
ただし金属主義は呪術に似ている
信用貨幣は宗教か?いや呪術以前の何かだ。モースはそれを古くて新しいものと再規定した。
以下『可能なるアナキズム』山田広昭より
227
《…金本位制の完全な停止にともなって、二〇世紀後半には貨幣の本質が「社会的信用」
にあることは誰の目にも隠せないものとなった。貨幣をめぐる争点は、したがってこの信用の本
質が何であるかへと移る。新たな貨幣理論が主張するように、貸幣が、モノでも、また単なる交
換手段でもなく、流動性を備えた債務(譲渡可能な信用)なのだとすれば、それは結局のところ
誰の債務(信用)なのかということである。信用の支えが主権国家にほかならないなら、あらゆ
るマネーは、主権国家(の中央銀行)が発行するソヴリン・マネーに基礎づけられるしかない。
国家から自律する領域の拡大と新たな交換様式の探求にはこれによってあらかじめ箍がはめられ
ていることになる。しかし、もし信用の本体が主権国家ではなく、私たちの「社会」そのものだ
とすれば、話はちがってくる。》
クナップは貨幣の受領のみを国権に委ねた。社会を主体的に動かす際に信用貨幣論は必須だ。
iPhoneから送信
現行『資本論』第三巻第五篇第三五章「貴金属と為替相場」の一文を引用しコメントしている。
712
《「重金主義は本質的にカトリック的であって、信用主義は本質的にプロテスタント的である。
The Scotch hate gold." (「 スコットランド人は金を嫌う」]。紙幣としては、諸商品の貨幣定在は
ひとつのたんに社会的な定在をそなえている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊
としての、貨幣価値に対する信仰、生産様式とその預定秩序に対する信仰、じぶん自身を価値
増殖する資本のたんなる人格化としての、個々の生産当事者に対する信仰。しかし、プロテス
タンティズムがカトリシズムの基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から
解放されはしないのだ。」(ebd., S.606)
最後に語られているところは、明白である。「それだからこそ、恐慌時には信用主義から重金主義
への急転回が生起する」からである(S.552)。問題はここで語られている「信仰 Glaube」 かの
ルターの「ただ信仰のみ sola fide」なのだーーのほかならぬ内実にある。
個々の資本にとって競争は、その外部にある超越的条件であった。資本制そのものにとって競争
は、その内部でのみ資本制総体の作動が可能となる一箇の超越論的審級である。信用主義(クレディット・ディステール)ある
いは信用システムは、その超越論的審級それ自身の制約にほかならない。現前せず、そのかぎりで
は未確定な未来を先どりすることは、時間という存在の条件に対する信頼を意味し、なにほどかは
また「預定秩序 prádestinierte Ordnung」に対する信仰を意味する。この信そのものが現在しない
場合には、資本制それ自体が作動しえない。資本制が産出する商品はかならずW-Gの過程を通過
しなければならず、その通過は、しかし〈命がけの跳躍〉として、すでにつねに無数の不確定性に
さらされているからである。そのいみで、信用制度もしくは信用システムを裏うちする信は資本制
にとっていわば本源的な信であり、資本制それ自身と起源をおなじくする信である。
その信は、とはいえ不断に揺らぐ。信は、ここでいわば「超越論的仮象」であるからだ。「危機」
はそこで「原理的に不可避」である。「他なる社会の可能性」を問うためには、それゆえマルクスが
読まれなければならない。資本制が不断に危機をうちにふくみ、その危機を暴力的に解除すること
でたえず再生するリヴァイアサンであるしだいをみとめるならば、「マルクスを読まないこと、読み
なおさないこと」は「つねに過失 toujours une faute」となるはずなのである。》
同じ箇所を宇野弘蔵が引用している。
宇野弘蔵『経済原論』岩波文庫
74頁
2-1-2
《ではいわば生産過程自身に基づいてその根拠を明らかにせられる。貨幣たる金をも含む、
あらゆる生産物が、労働力の商品化によって、すべて商品として資本によって生産せら
れ、貨幣たる金自身も、その生産に要する労働時間の変化と共に、その価値を変化する
ものとして、 商品の価値を尺度するものであることが明らかになる。事実、資本の生産
週程においては、人間の行動自身が資本の運動としてあらわれるのであって、その物化
が現実的となるのである(4)。かくしてまた労働の生産力の増進も資本の生産力の増進とし
てあらわれ、生産方法の発展もまたこの特殊の形態の下に促進されることになる。
(4)商品経済の物神崇拝的性格は、商品自身よりも、商品に対して直接交換可能性を与えられ
ている貨幣において、具体的にあらわれる。もっともそれは貨幣はもちろんのこと、商品にし
ても、そういう性格に対応して、それを根拠づける機能を現実的にもっているからであって、
単なる物神崇拝をなすわけではない。ところが資本となると、商品や貨幣と異なって特定の使
用価値と価値との関係ではなく、価値自身が種々なる使用価値としてその姿を変えながら価値
増殖することになるのであって、商品経済の物神崇拝的性格は、いわば一段の深化をとげるこ
とになる。マルクスは「重金主義(モネタール・ジステーム)は本質的にカトリック的であり、信用主義(クレディット・ジステーム)は本質的に
プロテスタント的である。」(『資本論』第三巻[イ]六四〇頁、[岩](七)四二五頁)といっている。
また「商品生産者の一般的社会的関係は、彼らの生産物を商品として、したがって価値として
取扱い、この物的形態において彼らの私的労働を同等な人間的労働として相互に関係させると
いうことにあるのであるが、このような商品生産者の社会にとっては、キリスト教が、その抽
象的人間の礼拝をもって、特にそのブルジョア的発異たるプロテスタンティズム、理神論等に
おいて、 最も適応した宗教形態となっている。」(『資本論』第一巻[イ]八五頁、(岩)(一)一四二
頁)ともいっている。労働力の商品化によって、 資本の形態の下に社会的に生産過程が展開さ
れるとき、マルクスのいう「商品生産者の一般的社会的関係」も確立されるのである。それと
同時に労働力の商品化によってすでにその物化を前提される資本の生産過程にあっては、その
物化の「外観さえも消滅する」(同上(イ)八八頁、[岩](一)一四九頁)のである。マルクスはいう。
「重金主義は、金銀から、それらが貨幣としては社会的生産関係を、ただし奇妙な社会的な属
性をもつ自然物の形態で、あらわしているということを、看取しなかった。しかし近代の経済
学者も、高慢に重金主義を冷笑してはいるが、 資本を取り扱うや否やその物神崇拝が明白にな
るではないか。地代は土地から生ずるのであって、社会から生ずるものではないという重農主
義的幻想が消えてから、どれだけたったことか。」(同上)と。資本主義的生産の「物神崇拝的性
格」は、経済学批判としての科学的解明を要するわけである。》
マルクスも熊野も宇野も金属主義を留保する。
ただし金属主義は呪術に似ている
信用貨幣は宗教か?いや呪術以前の何かだ。モースはそれを古くて新しいものと再規定した。
以下『可能なるアナキズム』山田広昭より
227
《…金本位制の完全な停止にともなって、二〇世紀後半には貨幣の本質が「社会的信用」
にあることは誰の目にも隠せないものとなった。貨幣をめぐる争点は、したがってこの信用の本
質が何であるかへと移る。新たな貨幣理論が主張するように、貸幣が、モノでも、また単なる交
換手段でもなく、流動性を備えた債務(譲渡可能な信用)なのだとすれば、それは結局のところ
誰の債務(信用)なのかということである。信用の支えが主権国家にほかならないなら、あらゆ
るマネーは、主権国家(の中央銀行)が発行するソヴリン・マネーに基礎づけられるしかない。
国家から自律する領域の拡大と新たな交換様式の探求にはこれによってあらかじめ箍がはめられ
ていることになる。しかし、もし信用の本体が主権国家ではなく、私たちの「社会」そのものだ
とすれば、話はちがってくる。》
クナップは貨幣の受領のみを国権に委ねた。社会を主体的に動かす際に信用貨幣論は必須だ。
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