信用貨幣論
ケインズもソロン(債務免除と貨幣標準変更)を評価していた。
貨幣論1(全集5)
14頁
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の 行使であって、それは鋳造貨 幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の 変更であった。 …
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので はない。
以下、ケインズ全集28,324〜5頁
第2章 ケインズと古代通貨
13頁
国家による重量の標準の最初の改革は、はっきりした記録のあるところでは、紀元前3000年代終り頃のバビロニアの改革であった。
(略)後に13世紀にもなってイングランドの政府が英貨1ペンスを「穂の 真中にある小麦の粒三二」の重さと定めていたときのように〜〜やはり国家あるいは社会であったであろう。今日の ウガンダでは山羊がその土地の慣習的な標準物となっているが、その一地方長官が私に語るところによれば、彼の公 的な任務の一部は、特定の山羊があまり年をとりすぎていて、あるいはあまりやせすぎていて、債務の弁済のための 標準物の山羊になるかどうかについて争いがある場合に、それを裁決することであるということである。
貨幣は文明にとって不可欠な他の幾つかの要素と同様に、われわれが数年ばかり前までそのように教えられて信じ ていたものよりも、はるかに古い制度である。その起源は、氷河の氷が溶けつつあった時代の霧の中へ没しており そしてそれは、気候は快く、心は自由で、新しい考えを豊かに培っていた〜〜ヘスペリデス姉妹たちの島、あるいは アトランティス、あるいはどこか中央アジアのエデンの園で〜〜間氷期 (interglacial) の人類の歴史に おける 楽園 の合い間にまで及ぶとみてよいであろう。
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の行使であって、それは鋳造貨 幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の 変更であった。さらにまた、第二ボエニ戦役以前には、表券主義的な変更が、公衆の犠牲によって国家の利益を得ると いう明確な意図のもとに企画された〜〜ローマはこの方法を国政の武器につけ加えた最初の創案者である〜〜例を、 私は一つも知らない。その時代以降、標準の表券主義的な変更は一般に質の劣悪化という形で、時にはある目的のた めに、また時には他の目的のために行なわれてきたが、それは歴史家にはよく知られている論題である。
〜〜
ケインズ全集28,324〜5頁
第2章 ケインズと古代通貨
記録ある歴史の殆ど全期間を通じての貨幣価値の低下は、ちょっとした討論に値する。それは一方でなければ他方 で、という二つの方法で実現して来た〜〜貨幣が造られる金属の増大する豊富さによって、そうでなければ貨幣単位 に含まれる金属の中味の減少によって。前者を価値低下(Depreciation)、そして後者を品位低下(Debasement) と 呼ぶのが便宜である。若し歴史のコースと自然とが前者を引き起こさなければ、人類は一般に後者に頼るのである。
初め、貨幣の使用が物々交換にとって代る時、コインは金属地金の一定量以上の何ものでもなく〜〜その刻印が品 質を保証し、量目を示しているにしても〜〜その地金の価値に応じて以外、流通するものではなかったであろう。こ の初歩的な段階では、品位低下という便宜的手段は利用可能ではなかったのである。それは、契約の発展につれて計 算貨幣(money of account]の概念が拡がり、国家によって発行されたコインが法貨 [legal tender] の性格を獲得し、 この計算貨幣で計算された債務の法的決済としての強制通用力(cours forcé) を享受するに至るまでは、現れ得なか った。我々が理解する意味での貨幣が、人類の制度のうちに入り込んで来るのは、この段階においてである。
この理由の故に、「貨幣の歴史」は、現に在る計算貨幣に新しい基準コインを適応させるべく、法の力を用いたも のとして歴史が記録する最初の政治家ソロンと共にはじまるのだ(※)。ギリシアにおける貴金属の不足は彼の時代に、基 準の高騰すなわち物価の低下傾向を引き起こしたに違いないのであって、それは、借り入れた貨幣で農業ビジネスを 経営するという古代社会〜〜近代社会と同様に〜〜の欠くべからざる階級にとって、耐え難いほどに抑圧的なもので あった。
※即ち、そのような債務者救済のための名高い手段についての一解釈によれば、その詳細の上には、古代においてさえ、歴史の霧務と 混乱が降りて来ていた。オリジナルの典拠は、次の二つから成る。(i)ソロンの改革の中での短い直接的な記述であるが、それ は爾後の二五〇年以上経ってからアリストテレス(『アテネの国制論[The Constitution of Athens)』において)とアンドロティオ ン(ブルタークにより彼の『ソロンの生涯(Life of Solon]』で引用された)によって述べられたもの。そして(ii)当代のソロン の詩であるが、改革の性質については推定し得るにとどまる。ソロンは確かに二つの独特な施策、即ち債務者の為のSeisachtheia と貨幣標準の変更をなし遂げた。Seisachtheia、即ち古代の原典の言葉で言えば債務の「切り捨て」アポコペー(àOKOTH)が、債 務のために収監されている人々を解放すると共に、土地の抵当の全面的な或いは部分的な解除ということにあるのか、それとも単 に、利子負担の軽減にとどまるのかは、議論のあるところである。貨幣標準の変更は、それまで流通していたアイギナ·ドラクマ よりも二七ないし三〇パーセント軽いドラクマのアッティカの法貨としての採用にあった。この事の効果は、債務者がそれでもっ てドラクマ表示の負債額面を免ぜられたと見なされる貨幣の金属含有量を縮減することであった。ソロンが自ら古典時代のアッテ ィカ·ドラクマを導入したのか、それとも彼の度量が既にあるエウボイア·コインを法貨としてアイギナに代えて確立することに あったのかは、定かでない。古典時代のアッティカ·ドラクマは、エウボイア·ドラクマに対し七三対七○であった。私は前者の 仮定に立った議論の方を好む。後者の場合には、アッティカ·ドラクマはベイシストラトゥス(前五五〇~五二七年)によって導 入されたことになる。
☦️貨幣が流通から引きあげられてアクロポリスのアテネの宝庫へ流入したことが、ソロンが処理しつつあったトラブルの根底にあっ たかも知れない。
ソロン/ソロンの改革
ソロンは古代ギリシアのアテネで前6世紀に活躍した政治家、立法者。貴族と平民の対立を調停するため、前594年にアルコンとなって行った負債の帳消し、財産政治などを「ソロンの改革」という。その後のペイシストラトスの僭主政にも強く反対した。
調停者ソロン
ソロンは前7~6世紀にギリシアの代表的ポリス、アテネで活躍した政治家、立法者。アテネでは王政から貴族政に移行していたが、貴族の少数者支配に対して参政権を持たない市民(平民)が不満を持つようになっていた。また、貨幣が市民生活に浸透し、貧富の差が拡大、平民の中には身体を抵当にした借財によって奴隷にされるものも増加していた。そのようなポリス社会の矛盾が拡大するなか、前621年のドラコンの立法が行われ、慣習法が成文化されて市民の権利保護は進んだが、それでも土地は少数の貴族に握られ、貴族と平民の対立はなおも続いていた。前594/3年、40歳ぐらいであったアテネの政治家ソロンは、対立していた貴族と平民双方から支持されて、アルコンになり、全権を委ねられると、改革を行った。その改革の狙いは、貴族と平民の対立を調停することにあった。その姿勢から、「調停者」といわれることもあるが、実際には貴族や富者に対して厳しくあたり、市民生活を保護することに目指した改革であった。
また、ソロンは国政の改革に当たっただけでなく、ドラコンに続いてポリス社会の規範となる法を定めた立法者としても知られていた。その立法は厳格なことで知られていたという(細部は伝えられていない)。さらに詩人としてもその作品の一部が伝えられている。
ソロンの改革で貴族と平民の対立は一時的に調停されたが、力を付けた平民はなおも現状に不満を持ち続けた。そのような平民の不満を背景に、ペイシストラトスが独裁的な権力を握り僭主となろうとした。老人となっていたソロンは激しく抵抗したが大衆の支持を得られず、市民に警告を残して一旦アテネを離れた。彼が帰国したときには警告通り、独裁政治が行われていた。晩年は失意のうちに前560年頃、キプロスで亡くなった。なお、ソロンはギリシアの七賢人の一人に加えられている。 → タレースの項参照
ソロンの改革
「ソロンの改革」といわれる、アテネの民主政形成過程で重要な意味を持つソロンが行った国政上の改革の内容をまとめると次のようになる。- 負債の帳消し:市民が負債のために没落し債務奴隷となることを防ぐため、負債を帳消にした。これは「重荷おろし」と言われ、負債に苦しんでいた中小農民を救済するためであった。
- 債務奴隷の禁止:身体を抵当にして借財することを禁止(つまり借財のある市民を奴隷として売買することを禁止)し、さらに有力者が土地を独占することを禁止した。これによって中小農民の没落を防止した。
- 財産ごとに権利・義務を定めた:また以前からあった市民の財産による4等級それぞれに権利と義務を定めた(財産政治)。これによって一定の財産のある平民が国政に参加できるようになった。
- 民衆裁判の設置:ソロンの改革で最も重要なことで、全市民が参加し、抽選で陪審員が決められる法廷において、役人を訴えることができるようにした。この民衆裁判所はアテネの民主化の礎石となった。
- 400人評議会の設置:4部族からそれぞれ100人、合計400人の評議員から成る評議会を創設した。
資料 ソロン自身のことば
アリストテレスの『アテナイ人の国制』には、ソロンが自ら書いた詩を引用している。ソロンがどのような意図で改革にあたったか、ソロン自身の声を聞いてみよう。(引用)私は民衆に充分なる権力を与え、その名誉については何も奪いはせず、また何も加えはしなかった。権力を持ち、財産のゆえに尊ばれる人々に対してもこれに不当なる取扱いをせぬように図った。私は双方のために強き楯を執って立ち、いずれにも不当の勝利を許さなかった。(中略)その土地から私はあちこちに立てられた抵当標を引き抜き、かくて土地は以前の隷属の状態からいまや自由となった。多くの人々を私は神の造れる祖国アテナイに連れ戻した。彼らは或いは不当に、或いは正当に奴隷に売られ、或いはやむを得ぬ事情で故国を棄て、諸処に流浪したためにもはやアッティケの言葉を語り得なかった。私はまたこの土地で恥ずべき奴隷の地位に下り、主人の恣意の前に身震いする人々をも自由の身とした。私はこれらのことを力もて強制と正義とを調和せしめつつなし遂げ、約束した通りにおこなってきた。(下略)<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.29,30>ソロンが強い意思の力を以て農民の救済、農民の没落防止にあたったことがよく理解できる。ソロンの政治は人気取りではなかったので敵も多く、結局アテネを去ることになった。また、高齢となってアテネに帰ってからペイシストラトスの僭主になろうとした野望には激しく抵抗した。結局、僭主の出現を防ぐことはできなかったが、その後のクレイステネスやペリクレスの改革でソロンの理念は再現され、実を結ぶ。「双方のために強き楯を執って立ち、いずれにも不当の勝利を許さなかった」という言葉は現代の政治家にとって、耳の痛い言葉であるだろう。
意義と評価
ソロンの改革は、貴族と平民のいずれかの側に立つのではなく、両者の対立への「調停者」の役割を担うものであった。またその調停のねらいは、貧富の差の拡大による市民の没落を防止し、ポリス民主政を維持するところにあった。<太田秀通『スパルタとアテネ』1970 岩波新書 p.118~60 などによる>ソロンは調停者と言われたが、貴族にとっては債権の放棄を求めるものであり、もとより反対は根強かった。一方で富の再分配のさらなる徹底を求める民衆にとっては、ソロンの改革は不十分と捉えられた。そのいずれかに与(くみ)することをきらったソロンは、国法と国家機構が機能することを期待してまもなく自ら辞任し、アテネを離れた。アテネではその後、ソロンが激しく抵抗したにもかかわらず、ペイシストラトスによる僭主政といわれる独裁政治が登場し、前6世紀末のクレイステネスの改革で民主政がようやく実現する。ソロンの改革は民主政への端緒となったと評価できる。
資料 プルタルコスに見るソロンの改革
プルタルコスの英雄伝(『対比列伝』)にはソロンの人物とその改革についての評伝が載せられている。そこからいくつかの記事を拾い出してみよう。以下引用<『プルタルコス英雄伝』上 ソロン 村川堅太郎訳 ちくま学芸文庫>
- (改革の背景) 当時貧民と富者の間の不均衡はいわば絶頂に達し、市(アテネ)は全く危険状態に陥っていた。正に僭主政治が出なければ市が安定を取り戻し騒動が静まることは不可能と思われたほどだった。というのは民衆がことごとく富者から借財をしていたから。彼らはあるいは収穫物の六分の一を収める条件で耕作して「六分一」とか労働者と呼ばれ、あるいは身体を抵当に借財をしたため債権者に引き立てられることがあり得て、ある者はその場所で奴隷となり、あるものは外国に売られていた。やむなく自分の子供を売ったり――これを禁ずる法はなかったから――債権者の苛酷に耐えかねて市から逃亡する者も多かった。そこではなはだ多数の屈強な人たちが一所に集まって互いに励まし合い、これ以上傍観することなく、誰か信頼すべき人物を首領に戴いて期限が過ぎても返済できない人々を解放し、土地の再分配を行い、国制を完全に変更しようと企てた。(p.118)
- (ソロンの就任) そこでアテナイの人のうち最も思慮に富んだ人たちがソロンに眼を着けた。彼らは、ソロン独りが最も過ちが無く、また富者と不正をともにしないし、また貧者の窮境に陥ってもいないのを見て、彼に進んで公共の問題と取り組み、不和を停止してもらいたいと懇願した。・・・そして彼はフィロンプロトスの後を継ぐアルコンに、また同時に調停者と立法者の役に選ばれたが、富者たちは彼を裕福な人だとして、貧民どもは正直な人として彼を心から迎えたのであった。(p.119)
- (その政治姿勢) 彼は僭主政は拒否したが、事態の処理に穏やかに過ぎたわけではない。立法に際しては有力者たちに柔らかく譲歩したりせず、自分を選んでくれた人々の機嫌を伺うこともなかった。しかしうまく行っているところは治療も革新も行わなかったが、それは"国家を完全にかき乱してしまって、再建と最良状態への調整を行なう力を失う"のを恐れたからであった。(p.121)
- (重荷おろし) 後世の人々はアテナイ人が不愉快な物事を便利で人聞きのよい名で蔽って、上品に洒落て呼ぶと評する。たとえば娼婦を友達、貢税を醵出金、都市の駐留軍を守備軍、監獄を部屋と呼んだりするごとくである。かような工夫は負債の帳消しを重荷おろしと呼んだソロンをもって嚆矢とするらしい。これが彼の最初に実行した政策であり、現存の借財を廃棄し、今後は身体を抵当にとっての貸金を禁ずると決定した。(p.122)
- (改革に対する反応) 彼はどちらの側も満足させなかった。契約の破棄によって富者たちを悲しませたし、更に一層貧民たちの不満も買ったが、それは彼らの期待に反して彼が土地の再分配を実行せず、また、リュクルゴスのように生活において人々を絶対平等とはしなかったからであった。・・・しかし人々はやがて改革の利益に気付き、双方とも自分たち同士の非難をやめて公の犠牲に捧げたが、その犠牲を"重荷おろし"と命名した。(p.124-125)
ソロンの「重荷おろし」策
(引用)ソロンは政権を握った後、身体を抵当に取って金を貸すことを禁止して民衆を現在のみならず将来も自由であるようにし、またいろいろの法律を定め公私の負債の切り捨てを行ったが人々は重荷を振り落としたという意味でこれらを重荷おろしと呼んでいる。<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.22>この記事の後にアリストテレスは、ソロンに対する誹謗があったことも記している。貴族の一部にはソロンの「重荷おろし」の企てを知り、実施される前に借金をして土地を買い込み、まもなく負債の切り捨てが行われた結果、富裕になる者がいた。誹謗する人々はソロンもその計画に関与していたという。しかし、アリストテレスは、ソロンは「他人を抑えて国家の独裁者となることもできたのに、たとい双方の側から憎まれても自己の利益よりも美徳と国家の安全を重んじたほとに節制であり公平であった彼が、かかる些細な、かつ見えすいたことをして自己を汚したことはありえそうにもない」と見ている。<アリストテレス『同上書』 p.23>
Episode 万人の気に入るのは難しい
ソロンは立法権も付与されたので、殺人罪を除いてドラコンの立法をすべて廃止し、つぎつぎと新しい法律を作った。それが財産政治の制度であり、裁判への市民の参加(陪審員制)などであった。その他、ソロンの立法は遺言の規定、女性の服装、公共の井戸の使用法、暦の制定など、生活の全般にわたっていたため、沢山の人がソロンに言いがかりをつけにやってきた。辟易したソロンは"大きな事業において万人の気に入るのは難しい"という言葉を残し、海外に旅立ち、その間に市民たちが彼の法律に慣れることを期待した。しかし、その後のアテネでは人々はふたたび党争を始め、平野党(寡頭政を主張し貴族が支持)・海岸党(中庸の混合政体を主張)・山岳党(民主政を主張し平民が支持)の三派が争うようになった。ペイシストラトスの僭主政に抵抗
年老いたソロンがアテネに戻った時には山岳党の支持を受けたペイシストラトスが台頭していた。ペイシストラトスが自らの手で身体を傷つけたのち馬車で運ばれてアゴラに現れ、民衆を扇動して僭主になろうとしたとき、ただひとりその前に立ちふさがってそれを非難した。ペイシストラトスが権力を握ってからも、「ソロンはすでに大変な高齢で支持者もなかったが、それでも広場(アゴラ)に赴いて市民たちに向かって語り、彼らの無思慮と柔弱とを非難するとともに、自由を放棄せぬようにと鼓舞し激励した。このとき人々の記憶するあの有名な言葉を述べた。すなわち少し前に僭主政の樹立されるのを防ぐのは容易だったが、今では既に確立し成長しているのだから、これを打倒し撲滅するのは一層偉大で輝かしい仕事である、と説いたのである。」友人たちは亡命を勧めたが、それに従わず、詩作でアテナイ人を非難し続けた。<『プルタルコス英雄伝』上 ソロン 村川堅太郎訳 ちくま学芸文庫 p.144-145>参考 ソロンの警告
民衆はソロンを尊敬し、彼が独裁者として支配してもよろこんでこれを受け入れようとした。しかし彼は独裁者となることを拒んだ。そして、縁者のペイシストラトスの野望を見抜くや、全力をあげてこれを阻止した。(引用)彼は槍と楯をたずさえて急ぎ民会に乗り込み、ペイシストラトスの企図を人びとに警告した。そしてたんに警告しただけでなく、次のように言って、民衆を助ける用意があることも告げた。「アテナイ人諸君、わたしはあなた方のなかのある人たちよりは賢いし、ある人たちよりも勇気がある。つまり、ペイシストラトスの詭計を見破れないでいる人たちよりは賢いし、またそれを知りながらも、恐怖心のために沈黙している人たちよりは勇気があるのだ」と。すでにペイシストラトスの側に立っていた政務審議会の議員たちは、彼は気が狂っているのだと言った。そこで彼はこう言い返した。古代ギリシアにも独裁政治に抵抗して民主政治を守ろうとした人がいた。ソロンの抵抗はこの時は効を奏しなかったが、この抵抗があったから、アテネの人びとは次の段階での僭主の出現を防止する知恵を出し、民主政治を確固たるものにできたのだろう。20世紀においてさえ、ヒトラーやスターリン、その他もろもろの独裁政治が行われたことを考えるとき、ソロンの警告と勇気には感心させられる。
少しの時がたてば、町の人たちには分かってもらえるだろう。わたしが狂っているいるかどうかは。 真理がみんなの真ん中へ現れてくるそのときには。
また、彼が予言したペイシストラトスの独裁制に関するエレゲイア調の詩は、次のようなものであった。
雲から雪や霰(あられ)はもたらされ、光る稲妻から雷鳴は生じる。
そのごとくに、強力な男たちによって国家は滅び、民衆は知らぬ間に独裁者に隷属することになるのだ。
しかし、その説得は効を奏しないで、ペイシストラトスの支配がすでに確立してしまうと、ソロンは将軍たちの詰所の前に彼の武器をおいて、「祖国よ、わたしはお前を言葉と行為の両方で守ってやったのに」と言った。(その後ソロンは、エジプト、キプロス、リディアに旅立った。)<ラエルティウス/加来彰俊訳『ギリシア哲学者列伝』上 岩波文庫 p.48-49>
ソロン
ソロン(ソローン、古希: Σόλων, Solōn、紀元前639年頃 - 紀元前559年頃)は、古代アテナイの政治家、立法者、詩人、本名は不明。当時のアテナイにおいて、政治・経済・道徳の衰退を防ごうとして法の制定に努めたことで有名である。この一連の法制定はソロンの改革と呼ばれ、短期間のうちに失敗したが、アテナイの民主主義の基礎を築いたとして、しばしば高い評価を受けている。[1][2][3][4]
ソロンに対するこの写実的な表現は、紀元前6-7世紀ごろの彫像に類似点がほとんどない(要:下の写真との比較)
ソロンについての史料は、紀元前6世紀前半のアテナイにおける文書や考古学的史料が不足しているため、あまり多くない[5][6]。愛国的なプロパガンダとして、そして、彼の政治的改革の弁護のために、彼は詩を残したが、彼の作品は、断片として残っているだけである。その断片についても、後の作家たちによって改ざんされ、断片が誤って彼の作とされた可能性が指摘されている(#改革者として、詩人としてを参照)。主な史料はヘロドトス、プルタルコスのような古代[注 1]の作家の著書であるが、彼らは、歴史学がまだ学問の一分野と見なされていない上に、ソロンの死からずいぶん経った時代に作品を著した。後の時代、アイスキネスのような紀元前4世紀頃の演説者は、アテナイの全ての法律をソロンの成果だと考えた[7][8]。
哲学者プラトンとは遠縁にあたる。具体的な関係は、クリティアスの系図を参照。また、ギリシア七賢人の一人として知られている。
生涯
ソロンは紀元前639年頃に、アテナイで生まれた。一族は莫大な資産を持っていたわけではなかったが、貴族、あるいはエウパトリデス(英語版)としてアテナイでは有名であった[9]。ソロンの父はエクセスティデスであったとされ、それが確かであればソロンの血筋はアテナイ最後の王、コドロス(英語版)に連なる[10]。ディオゲネス・ラエルティオスによれば、ソロンの兄弟、ドロピデスはプラトンから6代遡った先祖にあたる[11]。また、プルタルコスによれば、ソロンは、僭主のペイシストラトスのはとこであった[9]。
アテナイとメガラがサラミス島の所有を巡って争っていた時、ソロンはアテナイ軍を指揮していた。度重なる失敗の後、ソロンは島についての詩を書くことで士気を高めた。ペイシストラトスの支持もあって、ソロン率いる軍勢は紀元前595年頃にメガラ軍に勝利した。この際、姑息な手を使ったとも、英雄的に戦ったともされる[12]。その後もメガラ人はサラミス島の権利を主張し続けたが、その論争にスパルタが参入し、最終的にアテナイに権利が与えられた[13]。
ディオゲネス・ラエルティオスによれば、ソロンは紀元前594年にアルコーンに選出された。「ソロンの改革」は、この任期中に実行された。ソロンは友人たちに、自身が計画している改革について話し、彼がアテナイにおいて、全ての借金を帳消しにしようとしていることを知った友人たちは借金をして、即座に土地を購入した。共謀の疑いをかけられたため、ソロン自身もその法に従い、自身の債務者を5タラントン(資料によっては15タラントン)の借金から解放した。また、彼の友人はその後、借金を返済することはなかったという。[14]
改革の後、彼はアテナイ人たちが彼に法律の撤廃を求めることが出来ないようにと、10年間の旅に出た[15]。彼は最初にエジプトに立ち寄り、ヘロドトスによればそこで、ファラオのアマシス2世に謁見した[16]。プルタルコスによれば、彼はエジプトの神官、ヘリオポリスのプセノピスや、サイスのソンキスとも対話をしたという[17]。また、プラトンの対話篇『ティマイオス』と『クリティアス』によれば、彼はサイスでネイトの神殿を訪れ、神官たちからアトランティスについて聞いたとされる。次にソロンはキプロス島へ向かい、島の王のための新たな首都建設を監督し、それに対する感謝として王はその地を「ソロイ」と名付けた[17]。
最終的に彼はリュディアの首都サルディスへ到達した。ヘロドトスとプルタルコスによれば、彼はクロイソスに出会って助言を与えた。クロイソスは自身を最も幸福な人間であると自負していたが、ソロンは彼に、「人は死ぬまで幸福であり続けるとは限らない」と言った。クロイソスがその言葉の意味を理解したのは、ペルシア帝国の王キュロス2世との戦争に敗北し、捕虜となった後の事であった[16][18]。
アテナイに戻った後、ソロンはペイシストラトスに反対する立場をとった。彼に抗議するため、そして他者の手本となるために、ソロンは武装して家の外に立ち、通行人に、僭主にならんとしているペイシストラトスに対抗するよう働きかけたが、効果は得られなかった。ペイシストラトスがアテナイにおける権力を力ずくで奪い取った直後、ソロンは死亡した[19]。死んだ時、ソロンはキプロスにおり、80歳であった。彼の希望に従い、遺灰はサラミス島の周囲に散骨された[20][21]。
旅行家のパウサニアスは、デルポイのアポロン神殿に格言が刻まれている七賢人の一人として、ソロンの名を挙げている[22]。ストバイオスはFlorilegiumでソロンの幼い甥がサッポーの詩を朗誦したシンポシュオン(饗宴)について書いている。朗誦を聞いたソロンは彼に歌い方を教えるよう頼んだという。それに対して別の誰かが「なぜそのようなことに時間を浪費するのか?」と尋ねた際、ソロンは「死ぬ前に覚えるためだ[注 2]」と答えたという[23]。
ソロンの改革の背景
ソロンの時代、古代ギリシアの多くのポリスには、僭主や、日和見主義でありながら都市の実権の多くを掌握する貴族が存在した。ペロポネソス半島北部、コリントス北西にあるシキュオンでは、クレイステネスがイオニア人の少数派を代表して権力を強奪した。メガラでは、テアゲネス(英語版)がその土地の寡頭制の支配者たちの敵として権力者の地位についた。紀元前632世紀、テアゲネスの義理の息子であるアテナイの貴族キュロン(英語版)は、アテナイにおける不成功に終わった権力強奪を企てた。一方で、ソロンは仲間の市民たちのために平和的かつ公平なやり方で、意見の不一致を解決できる知恵を持っているという理由で、選挙で一時的に独裁的な権力を勝ち取った。[24] 古代の資料によると、[25][26]紀元前594-3年にソロンが執政官(エポニュモス・アルコン)に選ばれた時に、これらの権力を得たとされる。さらに近代の学者の中には、以下のように考える者もいる。それは、ソロンが執政官になった何年か後にこれらの権力が実際に授けられ、その後アレオパゴス(ローマにおける元老院に類する機関)のメンバーとなり、おそらく(貴族の)仲間たちからより尊敬される政治家となった、ということである。[27][28][29]
ソロンの時代を特徴づける社会政治の大変動は、古代から現代までの歴史家たちによって、多様に解釈されている。ソロンの時代のアテナイについて、2人の現代の歴史家たちは3つの明確な歴史的要因を、極めて異なる対立関係を強調しながら、特定している。つまり、「経済とイデオロギーの対立」、「地域的対立」、「貴族の一族間の対立」である。[30][31] これらの要因は、関連する問題についての見通しのための便利な基礎を与えてくれる。
- 「経済とイデオロギーの対立」は、古代のどの資料にも共通する要因である。これに類する要因は、ソロンの詩の中から現れている(例えば、#改革者として、詩人としてを参照)。そこには、不節制で手に負えない2つの派閥の間で、高潔な仲裁者の役割に身を投じるソロンの姿がある。3世紀後アリストテレス学派の著者が書いた『アテナイ人の国政』 Athenaion Politeiaが、興味をそそるような例証こそ無いが、この要因を取り上げている。
「……長期間にわたる、貴族と一般民衆との間のいさかいがあった。その理由は、彼らの政治制度があらゆる面で寡頭制を採り、妻や子供と共に貧しい人々が金持ちに奴隷として仕えていたからである。全ての土地が、少数者の手にあった。そしてもし人々が賃貸料を払わなければ、彼らは自身と、彼らの子供たち共々、奴隷として差し押さえられなければならなかった。ソロンの時代まで、全ての貸付金の担保は、借主の人間であった。ソロンは一般民衆にとって、第一の擁護者だった。」[32]
上記においては、ソロンは民衆運動の熱心な支持者として示されているが、一方で、ソロン自身の詩によれば、彼はむしろ対立する派閥の仲裁者であったと判断される。プルタルコスが1世紀後半ないしは2世紀の前半に、書いているところによれば、より重要な他の例が古代の歴史的な報告に現れている。
「アテナイは、政治制度についての再発した争いによって引き裂かれている。都市は、その領土に存在する地域的な区分と同じ数の政党に分割されてしまった。丘に住む人々の政党は、ほとんどが民主主義に賛成し、平地に住む人々の政党はほとんどが寡頭制に賛成した、しかし一方で第三のグループである海岸に住む人々は、他の二つの混成体を好み、障害物となっており、他のグループが支配権を得ようとするのを妨害していた。」[33]
この古代の歴史の記述は、政治プロセスのより洗練された理解(の正しさ)を証明する。- ソロンの報告にある2つの面は、互いに地域的な基礎と政治体の基盤を持つ、3つの政党を作った。プルタルコスは次に繰り返して言う、通常の古代の描写は、一方に残忍な地主をもう一方に悲惨な賃借人がいるというものである、と。しかし、どのようにこの「持てるもの」と「持たざるもの」の間の芝居がかった争いが3つの地域的なグループと適合するのか? - 「地域的対立」は近代の学者の間で共通に見出されるテーマである。[34][35][36][37]
「地域への忠誠心によって結びつけられ富裕な土地所有者によって先導される地域的グループが、その間で引き起こす争いの1つが現れた新しい事態である。これらの目的は、アテナイの中央政府の制御権を握りアッティカ地方から他の地域の競争相手たちを政府の力を使って支配することである。」[38]
アテナイが所有するような比較的広い領土においては、地域的な派閥主義が生じることは避けることができなかった。ほとんどの都市国家において、農業経営者たちは便利に街に滞在したり、自分の田畑へ行ったりすることが毎日のようにできた。歴史家トゥキディデスによると、他方で、ほとんどのアテナイ人はペロポネソス戦争が生じる直前までは、地方に定住を続けていた。[39]威嚇と近隣国のいくつかの再入植と残りの国の奴隷化を通じてスパルタが支配権を得たラコニア(地方)において、広い領土における地方主義の効果は見ることができた。同様に、ソロンの時代のアッティカも見苦しい(国家の)溶解に向けて進んでいるように見えた。アッティカは、ヘイロタイ(奴隷身分)の状態へと至る危険にさらされていたのである。[40] - 「貴族の一族間の対立」は、学者によって近年発展させられたテーマである。それは親類関係にあるグループの政治的な重要性の評価に基づいている。[38][41][42][43][44][45]この説明によると、親族間のつながりは、地域的な忠誠よりむしろ強く、アルケイック期[46]のアテネにおける出来事に決定的な影響を与えていた。アテナイ人はヒュレー(部族)とフラトリー(兄弟関係)という小地域にのみ属しているのではなく、広範囲の家族つまりゲーノ(英語版)(民族)に属しているのである。これらの相互接続される親族の構成単位が、貴族的一族を頂点とする階層的な構造を強化した、ということについて(研究者の間で)議論が戦わされてきた。[30][47]したがって、貴族的一族の間で対立関係が地域的なきずなに関わりなく、社会の全階層に関わっていた可能性がある。その場合、強い貴族と、対立している弱い構成員(ないしはおそらく同じぐらい反抗的な構成員)との間での争いが、富裕層と貧困層の間の争いと同じであることになる。多くの世紀を超えて、相反する物語ないしは様々なやり方で解釈される複雑な物語へと、ソロンの時代のアテナイの歴史的な記述は展開してきた。より多くの証拠が蓄積するにつれて、そして、歴史家がこの問題を討議し続けるのに従って、ソロンの改革の背後にある動機と意図が、(様々な)推測を生み出し続けるだろう。[48]
ソロンの改革
プリュタニウム(英語版)において、ソロンの立法は、広い厚板ないしは円筒形の大きな木の板に刻まれていた。その木の板は、まっすぐに立てられた軸に取りつけられ、その軸は列をなしていた。[49][50] これらの「木板の取りつけられた軸の連なり(軸索)」は回転式食卓(英語版)と同じ原則に基づいて、便利な保管とアクセスの良さを可能にしていたようである。その木板には、当初はアテナイの立法者ドラコンによって紀元前7世紀(伝承的には621年)に制定された法律が記録されていた。ドラコンの法律は「殺人」(ドラコンは初めて故意と過失を区別した)に関するものを除いて、全て散逸してしまった。しかしドラコンの法律は、憲法のようには体系化されなかったというのが、学者たち大多数の一致した意見である。[51][52]「殺人」に関する項目を除いて、ソロンはドラコンの法律を破棄した。[53]
法律の書かれた木板の断片は、プルタルコスの時代においてはまだ閲覧可能だった。[54] しかし今日においては、ソロンの法律として私たちが目にできる記録は文学的資料の中にプルタルコスによって書かれた断片からなる引用文と論評だけである。さらにいえば、彼の法律の言葉は、(前)5世紀の基準によるとすでに時代遅れなものであり、これは古代の解説者に解釈上の問題を引き起こす。[55] ソロンの立法についての資料と知識の信頼性は、それ故に細部にわたって本質的に定まっているということを、近代の学者たちは疑っている。一般的に言って、ソロンの改革は、政治、経済、道徳、これらの領域で現れたように見える。この区別はいくらか作為的なものであるが、ソロンの作である法律を検討するのを可能にする、便利な枠組みを提供する。彼の改革による目先の結果については、この節の終わりで検討される。
政治改革
ソロンの改革の前は、9人のアルコンが、アテナイの国家を指揮してきた。そのアルコンは、高貴な生まれと財産に基づく(ローマの元老院に類する組織である)アレオパゴスによって、任命ないしは選挙された。[56][57]アレオパゴスは前にアルコンを務めた人物によって構成され、ひいては、任命権の権力に加えて、諮問(しもん)機関として絶大な影響力を振るっていた。9人のアルコンたちは、アゴラにある石の上に立ちながら、服務の宣誓を行った。その宣誓は、万一アルコンたちが法を侵犯した場合、金の彫像を捧げることを承諾するものであった。[58][59] アテナイ人の民会(エクレシア)はあることにはあったが、下層の市民(肉体労働者)は参加を許されておらず、審議の手順は貴族によって統制されていた。[60] それゆえに、アレオパゴスが告訴に賛成しない限り、(集会において)アルコンを誓言の不履行による尋問のために呼び出す方法は無かったようである。アリストテレスによれば、ソロンは全ての市民が民会に参加することを認める法律、及び、[61]民衆裁判所が全ての市民から構成されることを定める法律を、制定した。[62]民主裁判所は、民会ないしは民会の一部の機能を代表する審査員団として開廷していたようである。[63][64]一般民衆に、役人を選ぶ権限を与えるだけでなく、役人を糾弾する権限も与えることによって、ソロンは本当の民主主義の基礎を確立したようである。 けれども、アルケイック期[46]の貴族にとっては民会に下層の市民を受け入れることは大胆すぎるやり方であるために、これを本当にソロンが行ったかどうか疑問視している学者もいる。[65] 古代[注 1]の資料[66][67]は、ブーレ(古代ギリシア)(立法議会)を作り出したことの功績を、ソロンに与えている。ブーレは、4つの部族から招集されたメンバーで、膨張した民会に対して運営委員会としての役割を果たす評議会である。けれども多くの学者は、これについても疑いを持っている。[68][69] 学者たちの間で意見の一致があるのは、ソロンが公務員の選挙時に必要とされる財政的、社会的制限を緩和したという点についてである。[61][70] かつては軍事や課税の目的のためだけに国務に役立てられていた階級分けであったが、ソロンの政治においては、定義された4つの政治的階級に市民を振り分ける。その振り分けは、課税対象となる財産の大きさに従うものとされた。[71]階級への振り分け評価の基準となるのは、穀物のメディムノス"medimnos"(液量の単位で約4リットル)であった。下に階級の種類を示すが、あまりに単純化されており歴史的に正確でないと判断されるかもしれない。[72]
- ペンタコシオメディムノス Pentacosiomedimnoi
- 500メディムノイ/年
- 将軍の資格がある。
- ヒッペウス Hippeis
- ゼウギテス Zeugitai
- テテス Thetes
アリストテレスによれば、ペンタコシオメディムノスだけがアルコンとして高い地位に選ばれる資格をもっており、それ故に彼らだけアレオパゴスに参加する権利を得た、ということである。[73] 現代の見解としては、同じ権利をヒッペウスにも与えられていた、と考える。[74]上から3つの階級は、種類の豊富な少ないポストを得る資格があり、テテスは全ての官職から排除されていた。
私たちがどのように歴史的事実として知っていることを解釈するかによって、ソロンの改革を、民主主義の過激な先取りということもできるし、断固とした貴族の政権に、単に金権政治風味を加えただけであるともいえる。もしくは、その2つの両極端の中間のどこかに、真実がある。[注 3]
経済改革
ソロンの経済改革を理解するためには、彼の生きた時代の、そして彼の死後にも続いた原始的な物々交換の経済の状況を知る必要がある。ほとんどのアテナイ人はペロポネソス戦争が生じる直前までは、地方に定住を続けていた。[75]アテナイの国境の内側においてさえ、取引は制限されていた。典型的な農家は、古典時代においてさえ、自分たちが食べていくのに必要な生産をするのがやっとであった。[76] 国外での取引は、最小限のものだった。ローマ時代においてさえ、商品は100マイル(約160km)陸上輸送される毎に40%値上がりした。それに対して、船を使った海上輸送の場合は同じ距離でも1.3%しか上昇しない[77] が、アテナイが約紀元前525年まで、商業用の船を所有していた記録はない。[78] その時まで、狭い軍艦が貨物船の役割を兼ねていた。紀元前7世紀におけるアテナイも、他のギリシアの都市国家と同様に人口増加の問題に直面していた。[79] 約紀元前525年まで、自国の食料を自給できたのは「豊作の年」だけであった。[80]
それ故にソロンの改革は、経済における転換点における危機的な時期に実施されたと見られる。物々交換の田舎の経済が、生じようとしている商業の領域の支援を必要とする時であった。ソロンの功績とされる具体的経済改革は下記のとおりである。
- 父は、息子のために仕事を見つけることが奨励され、もし見つけられなかった場合、老年に父を息子たちが養う法的な要求は無くなる、とした。[81]
- 外国の商人はアテネに定住することが奨励され、商人たちが彼らの家族も連れて定住するということを条件に、市民権を認めた[82]。アテナイに居留する外国人は、のちにメトイコイと呼ばれるようになった。
- オリーブの栽培が奨励された。オリーブのみ輸出が許可され、他全ての生産品は輸出禁止とした。[83]
- 度量衡の見直しを通じて、アテナイの交易の競争力を増進させた。その度量衡は、アイギナやエヴィアないしは、アルゴス(アルゴス説は古代の報告にはあるが現代の学者には支持されていない)[84]などで、すでに使用され成功していた基準に基づいていたものと推測される。[85][86]
古代の解説者の出典 [84][87]によると、ソロンはアテナイの貨幣制度も改革したと見なされた。けれども、最近の貨幣学者の研究では、アテナイは約紀元前560年まで、ソロンの改革の後も、いかなる貨幣も持っていなかったという結論に至っている。[88]
ソロンの経済改革は、対外貿易を刺激するという点で成功を収めた。アテナイの黒絵式陶器は、紀元前600年~560年の間、その量を増加させながら質の良い状態でエーゲ海の至るところに輸出された。そのサクセスストーリーは、コリント人の陶器の取引の減少と一致している。[89]穀物の輸出禁止は貧しい人たちのためになる救済策として理解されるかもしれない。しかし、輸出向けのオリーブ生産の推奨は、多くのアテナイ人に耐えがたい困難を増やしたも同然の結果になった。なぜなら、この改革は、穀物のための耕作地を全体として減らす結果となったからである。加えて、オリーブは最初の6年間は実を付けないのである。[90] ソロンの経済改革の本当の動機は、彼の政治改革の動機と同じ程度に疑わしいものである。貧しい人々は、変動する経済の必要に合わせることを強制されていたのか? それとも、その経済が貧しい人々の要求に合わせ改革されていたのだろうか?
道徳改革
ソロンは詩の中で、アテナイ人を市民自身の抑制の無い強欲と傲慢さに由来する危機に瀕した存在として描いている[91] ギリシア神話の神々の力強い母、ガイアでさえ、虜(とりこ)となってしまった。[92]自然と社会の秩序におけるこの堕落の、目に見える象徴は「ホロス」"horos"(複数形:「ホロイ」"horoi")と呼ばれる、境界線の標識である。その標識は木か石の柱に、農民がだれかに借金ないしは契約上の義務を負っていることを示す。その相手とは、貴族の後援者か、債権者である。[93] ソロンの時代まで、土地は家族ないしは、一族の奪う事のできない財産であり、[94] 売られたり抵当に入れられたりできないものであった。これは広い土地を所有する一族にとって不利ではなかった。なぜなら、小作制度においては、いつも農地を貸し出すことができたからである。しかし、小さな農地でなんとか生活する家族は、もし農場を所有しているのでないなら、農地を借金の担保として使うことができなかった。その代わりに、農家はよく、返済の代わりに奴隷のような形で働くことを条件に、彼自身ないしは彼の家族を担保として提供しなければならない事態に落ちいった。同様に、家族は自ら進んで彼らの農場の収入ないしは労働力の一部を、有力な一族に与えたかもしれない。これらの取りきめに従わなければならない農家たちは、大まかに「ヘクテモロイ"hektemoroi"」として知られ、[95]借金の返済かもしくは農地の年間収益の6分の1を納める必要があった。[96][97][98]「破産」の出来事において、すなわち「ホロイ"horoi"」によって結ばれた契約が守られなかった時、事実上、農場主とその家族は奴隷として売られる可能性があった。
これらの不公平に対するソロンの改革は、後にアテナイ人の間で「積み荷下ろし"seisachtheia"」として知られた。[99][100]彼の改革全てがそうであるように、多くの学術的な議論がこの改革の本当の意味について行われている。多くの学者たちが、古代の資料による説明として受け入れているのが、「借金の帳消し」としてである。一方で、他の学者はそれを封建制の関係の廃止として解釈したり、他の解釈の可能性を探ることを好む者もいる。[3] 改革は、以下の内容を含んだ。
- 「ホロイ"horoi"」に象徴される、全ての契約の無効化。[101]
- 債務者が借金の担保として使用されることの禁止[99][100]
- 奴隷化されていた全てのアテナイ人の解放[101]
「ホロイ"horoi"」の撤廃は、アッティカで最も抑圧されていたグループに対して、はっきりと即時の経済的な救済を与えた。そして、それは同国人によるアテナイ人の奴隷化の終結をもたらした。アテナイ人のあるものはすでに海外へ売り飛ばされたり、ある者は海外へ奴隷制を逃れて逃亡していた―ソロンはこの離散した者たちの帰還を誇らしげに詩に記録している。[102]しかし、皮肉なことに、これらの(海外にいた)不運なアテナイ人で帰ってきたものたちはほとんどいなかった。[103] 「積み荷下ろし"seisachtheia"」は、奴隷状態と蓄積した負債を取り除いただけでなく、一般の農家が、さらなる信用を得る唯一の方法をも取り除いた、と見られた。[104] しかし、「積み荷下ろし"seisachtheia"」は道徳改革の幅広い指針を含んだ改革の、単なる一部分に過ぎなかった。他の改革は下記を含む。
- 非常に高額の持参金の廃止[105]
- 相続のシステム内における悪用、特に「女相続人(ギリシア)(英語版)」に関しての悪用に対する法律の制定(すなわち、父の財産を相続する兄弟を持たない女性は、父の遺産の後継ぎを生むために最も近い父方の親戚と結婚するように義務付けられていた)[106]
- どんな市民でも他の人を代表して、訴訟を起こす権利を持つ[107][108]
- 都市国家間の争いが生じた時に、兵士となることを拒否するかもしれない市民に対する市民権はく奪。これは政治的無関心の危機的なレベルを是正することを意図した方法であった。[109][110][111][112][113]
続いて起こるアテナイ人の都市の黄金時代における、富裕で権力のある人間の、人格的な謙虚さとつつましさはデモステネスによって証言された。[114]人間としての見本そして制定された改革によって、おそらくソロンはこの礼儀正しい行動の前例を確立した。市民の義務についての英雄的な感覚は後に、 ペルシャ帝国の勢力に対して、アテナイ人たちを団結させた。おそらくソロンとその改革によって、この公共精神はアテナイ人に徐々に教え込まれたものである。#ソロンとアテナイ人の性も参照。
ソロンの改革の余波
改革の仕事を成し遂げた後、ソロンは、彼の臨時の権限を放棄し、国を去った。ヘロドトスによると[115]国はソロンによって10年間、彼の改革を維持するよう義務付けられた、とされる。しかし一方でプルタルコス[54]と、『アテナイ人の国政』の著者 [116] (通説ではアリストテレスとされている) によると、義務付けられた期間はむしろ100年だったとされる。現代の学者は[117]は、ヘロドトスのいう期間が、歴史的に正確であると考えている。なぜなら、ソロンが国外に出ていたといわれている期間に、10年という期間が合うからである。[118]ソロンが出発してから4年間の間は、古い社会的な亀裂が再び現れた。しかし、新しい困難は伴わなかった。新しい政府には不正行為があり、選ばれた役人は時々、職を辞することを拒否し、時々重要な職が空席となった。彼らのトラブルの原因がソロンにあるとして責める人間もいた、といわれている。[119]最終的に、ソロンの身内の一人であるペイシストラトスが、派閥主義を力ずくで終わらせ、それ故に違法に僭主となった。プルタルコスの説明によれば、僭主を生み出す事態を許したことについて、ソロンはアテナイ人の愚かさと臆病さを責めた、とされる。[120]
改革者として、詩人として
ソロンは、その作品が現代まで生き残っている、最古のアテナイ人の詩人である。彼の詩が伝わったのは、プルタルコス、デモステネスのような古代の著者による断片的な引用句においてである。[121]彼らは、ソロンの詩を、自身の議論がより明らかになるように使った。断片の中には、誤って彼の作とされているものが存在する可能性があり、[122]学者の中には、後の作家による改ざんを見抜いた者もいる。[123]
ソロンの詩の文学的価値は、一般的に月並みのものだと見られている。詩人としてのソロンは時々「独善的」、「尊大」というように見られたといえる。[124] より才能豊かな哀歌詩人、ミムネルマス(英語版)に対する道徳的忠告とともに、ソロンは哀歌を詠んだことがあった。現存している詩のほとんどは、ソロンが(自らの)権威と指導力を主張する政治活動家の役割を書き留めているところを示しており、ドイツの古典主義者 ヴィラーモヴィッツはそれらの詩を、「詩で表現された説教」(Eine Volksrede in Versen)と解説した。[125]しかし、プルタルコスによれば[126]ソロンは、当初詩を気晴らしのために書き、哲学的なやり方というよりも、人々に受けの良いやり方で、楽しいことを話題とした。ソロンの哀歌の様式は、例えば、テュルタイオス(英語版)などに影響を与えたといわれている。[127]彼は、弱強格、強弱格の詩も書き、ある現代の学者によると[128] それらは、彼の哀歌よりも生き生きとし、率直なもので、アテナイ人の戯曲の弱強格の詩のための道を開いた可能性がある、とされる。
ソロンの詩は、大部分が審美的な判断より、彼の改革とその姿勢についての個人的記録として歴史的に重要なものである。しかし、詩は事実をやり取りするのに望ましい分野ではなく、残存する断片からは、具体的な情報はほとんど確認できなかった。[129] 詩人としてのソロンによれば、改革者としてのソロンは、アテナイの彼の仲間の市民が、ますます社会的・経済的格差により対立を深めていた時の、政治的な節制の代弁者であった。
| ギリシア語(原文) | 英訳(ジョン・ドライデン)[130] | 日本語訳(参考) |
|---|---|---|
πολλοὶ γὰρ πλουτεῦσι κακοί, ἀγαθοὶ δὲ πένονται: | Some wicked men are rich, some good are poor; | 意地悪な男たちは金持ち、良い人たちは貧しい |
イギリスの詩人ジョン・ドライデンによって英訳されたソロンの言葉は、金持ちと貧しい人々の格差を我慢できるか、ないしは大抵は気にしない「道徳の優位性」をはっきり説明したものである。 ソロンが、国内の対立する派閥の間に平和的な和解を確立するために、異常なほど強い立法権を行使しようとしたことを、彼の以下の詩は示している。
| ギリシア語(原文) | 英訳(ジョン・ドライデン) | 日本語訳(参考) |
|---|---|---|
ἔστην δ' ἀμφιβαλὼν κρατερὸν σάκος ἀμφοτέροισι: | Before them both I held my shield of might | それらの両方に直面して、私は権力の盾を構えた |
彼の試みは、明らかに誤解されてしまった。
| ギリシア語(原文) | 英訳(ジョン・ドライデン) | 日本語訳(参考) |
|---|---|---|
χαῦνα μὲν τότ' ἐφράσαντο, νῦν δέ μοι χολούμενοι | Formerly they boasted of me vainly; with averted eyes | 以前、彼らは私を無駄にもてはやした、目を逸らしながら |
ソロンはアテナイ人の「ナショナリズム」を表明した。特に、アテナイが争っているメガラとその近隣国及びサロニコス湾における対立国に対して、強く表明した。プルタルコスは、アテナイ人をメガラの支配下にあったサラミス島の奪還に駆り立てた、ソロンの哀歌への称賛を明らかにしている。[132] 同じ詩は、ディオゲネス・ラエルティオスによっても伝えられ、[133]他のどんな詩よりも、アテナイ人を奮起させたとされる。
| 英訳 | 日本語訳(参考) |
|---|---|
Let us go to Salamis to fight for the island | あの島のために戦うために、どうか私たちをサラミスへ行かせてください |
ソロンは、この詩的な虚勢を戦場での実際の武勇で裏付けたのかもしれない。[135]
ソロンとアテナイ人の性
ある著者によれば、アテナイ人社会の調整者としてソロンは、アテナイの性風俗を、正式なものとしたとされる。喜劇の脚本家であったフィレモン[136]の、「兄弟たち」 "Brothers"という作品の中に残存している断片によると、性的な喜びを享楽することを民主化"democratize"するために、公的に出資された売春宿をアテネに設立した、とされる。[137] この喜劇の脚本の記述の真実性への疑義は、避けようのないことである。しかし、少なくとも一人の現代の作家は、ソロンの死から約300年の古代のアテネにおいて、ソロンの改革と、異性愛の喜びを享楽する機会の増加を結びつける講演があったことは、特筆すべきことだと考えている。[138]古代の著者は、一方で、ソロンはアテナイにおける少年愛(同性愛)を規制した、とも言っている。これは、ポリスの新しい構造に対する慣習の適応として、示された。[139][140]様々な著者によると、古代の立法者(つまりソロンのことも含意している)は、一連の法律を起案するにあたって、同性愛の制度を促進し、保護し、そして自由民に対してはそれを制御するように、意図したとされる。とりわけ、演説者アイスキネスは、奴隷を格闘場から追放し、市民の息子たちと少年愛の関係になることを禁止した法律について言及している。[141]ソロンの法についての、アイスキネスのような紀元前4世紀の演説者による説明は、多くの理由から、あてにならないと考えられる。[8][142][143]
屋根裏部屋の嘆願者は、彼らの事案に沿うものなら、ソロンのせいにすることもためらわない。そして、後の作家たちは、早い時期の仕事と遅い時期の仕事を区別するいかなる判断基準も持たなかった。また、判断基準を完全に仕上げるものは無く、ソロンの法令の正真正銘の収集物は、古代の学者たちが参考にするものは残らなかった。[144]
主張されているソロンの少年愛への関与の立法の観点に加えて、個人的な関与の示唆が存在する。古代の著者によれば、ソロンは未来の僭主である、ペイシストラトス を彼の「少年愛の相手」"eromenos"だと考えていた、とされる。アリストテレスが紀元前330年頃に書いてたものによれば、アリストテレスはその意見に反論を試みた。彼の主張は「ソロンがペイシストラトスの恋人であったと偽っている人間が、たわごとを言っているのは明白である。なぜならソロンとペイシストラトスの年齢がそれを許さないから。」ソロンはペイシストラトスより約30歳上であるから、というものである。[145]それにも関らず(この2人の関係は、)言い伝え続けられた。4世紀後、プルタルコスはアリストテレスの疑念を無視し[146]、彼自身の憶測で補足しながら、以下の逸話を記録した。
そして、人々はソロンがペイシストラトスを愛したと言った。私が推測するところによると、統治に関して彼らが意見を違えた後、敵意がいかなる怒りと暴力的な感情も生み出さなかったこと、そこにその根拠がある。彼らはかつての思いやりの感情を覚えていたのではないだろうか。そして彼らの愛と親しみの優しい気持が、「まだその燃えさしの中に強い炎が生きていた」のだろう。[147]
プルタルコスの一世紀後のアイリアノスも、ペイシストラトスはソロンの「少年愛の相手」"eromenos"だと言った。(少年愛の)説の持続にも関わらず、それが、歴史的な説明なのか、作り話なのか知られていなかった。(僭主となったペイシストラトスが)自己と、自分の息子の統治を合法化するために、平和で幸せなソロンとペイシストラスの共存を紹介する言い伝えがペイシストラトスの統治の間に育まれたのではないか、と言われている。その情報源がなんであろうと、後の世代は談話として聞いたことに信用を置く。[148]ソロンの推定されている少年愛の欲望は、ソロンのの詩の中の表現に見つけられなければいけない大昔の考えだが、詩は今日では、少ない残存している断片からしか示されない。[149][150]しかし、ソロンの作とされる全ての詩の断片の信ぴょう性は、不明確である。特にいくつかの古代の資料からソロンのものとされた少年愛的アフォリズムは、他の資料によってテオグニス(英語版)のものであるとされた。[122] (#改革者として、詩人としても参照)
脚注
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注釈
- ^ a b 古代"ancient"は西洋史において、記録された人間の歴史~西ローマ帝国の滅亡(紀元476年頃)までの期間を指す。「同時代」の作家といってもソロンの活動期間からヘロドトスは100年以上、プルタルコスに至っては600年以上後の人物であり、彼らも伝聞に頼ってソロンを知ったことに注意。
- 原文:ἵνα μαθὼν αὐτὸ ἀποθάνω
- 「完全な民主主義の発展のための基礎を確立したということにおいて、当時のあらゆる領域におけるソロンの業績は決定的なものであった。」 ― Marylin B. Arthur, 'The Origins of the Western Attitude Toward Women', in Women in the Ancient World: The Arethusa Papers, John Patrick Sullivan (ed.), State University of New York (1984), page 30.
「ソロンの評価において、古代の資料はソロンの立法の民主主義的な特徴を読み取ることに専念していた。しかし、ソロンは、並はずれた指令を貴族たちから受けたのである。貴族たちは、彼に貴族たちの地位を全面的に転覆させかねない(一般民衆の)脅威を取り除くことを、ソロンに指令したのであった。」 ― Stanton, G.R. Athenian Politics c800–500BC: A Sourcebook, Routledge, London (1990), p. 76.
出典
- Stanton, G.R. Athenian Politics c800–500BC: A Sourcebook, Routledge, London (1990), p. 76.
- Andrews, A. Greek Society (Penguin 1967) 197
- ^ a b E. Harris, A New Solution to the Riddle of the Seisachtheia, in 'The Development of the Polis in Archaic Greece', eds. L.Mitchell and P.Rhodes (Routledge 1997) 103
- Aristotle Politics 1273b 35–1274a 21.
- Stanton G.R. Athenian Politics c800–500 BC: A Sourcebook, Routledge, London (1990), pp. 1–5.
- アリストテレス『政治学』1273b 35–1274a 21。
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- ^ a b V.Ehrenberg, From Solon to Socrates: Greek History and Civilization, Routledge (1973) 71
- ^ a b プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」1節
- "Solon" in Magill, Frank N. (ed)., The Ancient World: Dictionary of World Biography (Salem Press/Routledge, 1998), p. 1057.
- "Diogenes Laertius, Lives of Eminent Philisophers, BOOK III, PLATO (427-347 B.C.)". Perseus Digital Library. 2018年9月13日閲覧。(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第3巻「プラトン」第1章)
- プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」8節および9節
- プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」9節
- プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」15節
- ヘロドトス『歴史』1.29。
- ^ a b ヘロドトス『歴史』1.30。
- ^ a b プルタルコス『対比列伝』「ソロン伝」26節
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関連項目
外部リンク
28
357~
第2章 ケインズと古代通貨
III貨幣 の 起 源
貨幣の特異な性質については、少くとも次の幾つかの事柄が考えられるであろう。(1)それは宗教的賦課、罰金
あるいは賞金のような或る慣習的な価値評価を表わすために規則的に用いられるか、(2)それは貸金や契約が表現
される文言(ターム)として用いられるか、(3)価格が表現される文言として用いられるか、或いは(4)交換の慣行的媒体
として用いられるか、である。最初の三つのケースでは、問題の事案は、計算貨幣[money-of-account]に相当し、
四番目のケースでは、それは実際の貨幣[actual money]として用いられる。今、最重要な社会的および経済的目的
に対して、大切なのは計算貨幣である。何故なら、契約の、そして慣習的債務の主題であるのは、計算貨幣なのであ
るから。問題となる貨幣改革は、計算貨幣を変えるそれに他ならない。
我々が古代の実際の記録に立ち戻る時、我々は、最初期のギリシア史のうちに、貨幣の使用において非常に原始的
な共同体を見出すのであるが、最初期のバビロニア史においては、紀元前第三千年紀の最も濫かなる記録においてす
*ヒル氏は、古代の重量測定の精確性に関し幅広く、若干の有益な観察をしている。彼は同じ日付を持ち摩損もないリシマコスの金
スタテルのひと損みを取出し、そこに二·三パーセントの幅を見出す。「これらのコインは、古代の如何なる時期と比較してもコ
インの重量が高度に管理されていたと想像される時代(前三二三~二八一年)に属する。」そして彼は次のように結論づける。「ギ
リシア人が(誤差を〕O.○五グラム以下におさめるよう注意を払ったと想像するのは正当ではない」と。 |それは即ち、ドラ
クマの一パーセントより幾分多く、ダリクの一パーセントより少ないことを意味する。
ら、実際これら全ての点で非常に進んだ共同体を見出すのである。個人主義的資本主義と、そのシステムに適合した
経済的実践は、疑いもなくバビロニアにおいて発明され、考古学者たちがこれまで探究して来たよりも逃かに遠い時
代に高度の発展段階に達していたのである。移住して来るギリシア系諸部族は、個人主義的資本主義からは非常に遠
い(恰も、エジプトの神権的奴隷制国家社会主義が、反対方向で資本主義から遠かったように)社会システム(氏族
ないし封建制の)をもつ北方人であった。旧いバビロニアの権力は、ギリシアが舞台に登場するずっと以前に一掃さ
れた。しかし、その経済システムは、アッシリアとネオ·バビロニア時代を通じて大きな修正なしに持続し、そして
多分、ペルシア帝国の間、小アジア全体に、可成りの程度まで浸透したのである。
恐らく、ホメーロス時代から紀元前五世紀へかけてのギリシアの経済史への手がかりは、部分的には、個人主義的
資本主義への、部族の原始的経済の漸進的な適応のうちに見出されよう。その資本主義を、彼らは小アジアのうちに
退廃し混乱した形において見出したのであるが、それはその起源および背後の経験において、偉大な古代の高度に発
展した複雑なシステムに辿り着くものであった。我々の時代のルネサンスのケースと正に同じように、伝統の発見と
古代研究の断片〜〜それが、発見者の手中にあって思想の革命的な革新の用具となった訳であるが〜〜が、封建制か ぶ
ら個人主義的資本主義へ強く傾く経済的動向と符合した。ソロンは、ルネサンス的性格の人物であった。
一部の歴史家たちは、紀元前七~八世紀のギリシア本土における経済的発展と、長くバビロニアの影響下にあった
地域におけるそれとの間のコントラストを過小評価していると私は考える。或る特殊な種類の刻印ないし打刻貨幣
[sealed or coined money]が前六~七世紀に小アジアで初めて造幣されたという理由で、貨幣経済の特徴は、ギリシ
アにおけるよりも、そこで逃造かに古かった訳ではないと考えられて来た。しかしながら、事実は、刻印貨幣の工夫は
非常に些細な意味を持つ発明でしかなかった。パビロニアの慣行における初めての重要な革新は、本質的に現代的な
それ、即ち代表貨幣[representative money]の発明であった。地方的なトレードマークをもつ金属小片のスタンピ
ングは、広汎な重要性を全く持たない単なる厚かましい虚栄、愛国心あるいは宣伝の小片にすぎない。それは、幾つ
かの重要な商業地域において、決して流行ることのなかった慣行である。エジプトはプトレマイオス以前には決して
(訳注29)
造幣しなかったし、中国(チャイナ)(広義の)は、その価値基準たる銀を、今日に至るまで鋳貨しなかった。カルタゴ人は造幣
には気が進まず、多分、海外活動のため以外には造幣しなかった。ギリシアの都市国家や小アジアのコイン~~それ
は幅広く変化する重さを持ち、且つ削り取り易い~~が、如何なる意味でも法貨として、彼ら自身の狭い領土の外で
通用した(たとえ領土内で通用したにしても)と考えるのは、馬鹿げているのであって、総ての重要な取引で、重さ
で数えられたに違いない。取引業者や金貸しは、自らの秤を持たずに移動することはなかったであろう(*)。コインのス
タンピングは重さの証しとしてより、金属の品質の証しとして意図されたというのが、より尤もらしい。或る特定の
コインは、標準的品質を持つものとしての名声と取引価値をかち得たかもしれないが、標準的重量を持つものとして
では必ずしもなかった。貨幣の真の導入を規定する造幣の法律から見る限り、貨幣経済を基礎づけ、その発展のため
に特別の才能を発揮した民族は、コインの不正確さとおとし穴について、とりわけ懐疑的で、それをしたにしても、 いやいや造幣したのであり、金(銀)地金の直裁性と単純性を好んだのだということが論じられ得よう。コインの無
いところでは、物々交換(バーター)が行われたという多くの著者たちの仮定は、真実とは程遠いものである。
* この事は別として、史上最初期におけるリュディアの造幣に関してヘロドトスによって詳説された伝承は、それ自体不確実である。
ジョンズ博士は、多分イスタル(Istar)の頭を帯びた金属の小板が前七世紀以前のニネヴェで打刻されたという考えを否定すべき
でないのは「一応、正しいと推定される(prima facie)」ものとした。彼は証拠なしにであるが、これらのコインがイスタルと呼
ばれたこと、そしてギリシアのスタテル(στατήρ)はイスタルあるいはアッシリアのアスタルテ(Astarte)から導かれたのかも
知れないと推測する(「アッシリアの証書と文書」第二巻、二七八~九一ベージ)。しかし、より可能性が高いのは、スタテル (στατήρ) が、アジアのコインに、発音の暗示的な類似性の故に、特別に適用されて用いられるようになったギリシ ア語だという
ことである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%86%E3%83%AB
スタテル(古代ギリシア語: στατήρ, stater)は、ギリシアや周辺の地域で使われた古代の硬貨である。 その名称は古代ギリシア語で「重さ」を意味する。 西ヨーロッパでは、ギリシア北部で傭兵として働いていたケルト人を経由してもたらされたため、マケドニア起源だと思われていた。
他方、貴金属の、貨幣としての~~本節のはじめで概説した四つの本質的目的の各々についての~~成熟した使用 は、少なくとも二千年以上にわたって、バビロニアの影響下の領域内で、既に普遍的に行われて来た。時間的要素を 伴う貸付や契約がその数値で表現され得る貨幣というものの導入は、原始社会の経済状態を真に変革するものである。 そして、この意味での貨幣は、バビロニアにおいて、高度に発展した形で、ソロンの時代より何年も~~ビアポン ト、モルガン氏からソロンに遡る年数程~~前に存在し、その発祥の地で全期間を通じて持続的な伝統を有した。
青銅、鉄器時代の農業社会においては、土地と奴隷以外の譲渡可能な富の主要な対象、即ち交換の主要な材料は、 牡牛または離年、羊、一定量の穀物、鉄と青銅、そして馬、金と銀、羊毛、一定量の油および外国の稀少な或いは二 次的商品としての一定量のワイン等であった。これらについて、通常の単位でとらえた場合、より重要なのは、日常 的な目的に対して慣行的な価値の序列が、そして慣行的な価値の関連性さえもがあるということである。例えば、雌 牛は、羊や銅の壷や一定量の大麦よりも、より素敵な商品であり、より厳しい罰金であり、より高価な生け贄である だろう、といった具合にである。雌牛が慣行的に使われているところで、たまたま一匹の雌牛が間に合わなかった場 合、一〇匹の羊なり一定量の青銅ないし鉄が合理的に適切な等価物であったというようなことも考えられよう。その ような考え方にとって、雌牛や羊が不変の価値を持つ標準的な動物でなければならないとか、それらの市場価格が、 常に一〇対一という厳密な関係にあるべきだとかいうことは必要ではない。実際、これらの条件の何れも、事実にお いて近似的にすら真実でないのは明らかである。にも拘わらず、これらの漠とした基準物は、多くの半経済的目的に 対しては、完全に満足すべきものであるだろう。例えば、人は金持について、非常に沢山の雌牛や羊を所有すること と語ることができた~~恰も、公爵たちが今なお何エーカーもの土地を所有することを「紳士録」(フーズ・フー)に記載するように。 人は、何らかの違反に対する罰金ないし科料の大きさを、これらの対象物のタームでもって確定することができた。 人は、オリンピックの勝者に対する慣行的な賞金をそうしたタームで呼ぶことができた。或る特定の機会における特 定の神殿での相応しい生け贄が、そのようにして確定され得た。これらの目的に対しては、標準の曖昧さの要素は、 深刻な問題ではなかったであろう。もし、運動競技の勝利者が痩せこけた動物を得たならば、土地のパトロンはけち な人物として評判を落とすかもしれない。聖職者は傷ついた動物を拒むかもしれない。しかし、それは起こり得る最 悪の事態である。そうした条件下では、提供された品目の品質と正確な価値については、現況のもとで相応しいもの が が何かについての世論以外に、如何なる有効な保証もありえない。近年においても、発達した利益追求型経済の方式 と近い接触を持つに至っていない未開の種族の現実のうちには、正確な交換についての同様な暖味さの豊富な事例が 存在する。例えば、世論に照らして凡そ等価と見なされる「贈り物」の交換による取引慣行を考えてみよ。
他方、各当事者が利益と商的「見返り」を求めて、或いは市場における日常的交換の目的を追って鋭敏になってい…

返信削除ケインズはソロンを評価していた。
貨幣論1
14頁
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の 行使であって、それは鋳造貨
幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の
変更であった。
…
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので
はない。
13頁
国家による重量の標準の最初の改革は、はっきりした記録のあるところでは、紀元前3000年代終り頃のバビロニアの改革であった。
第1編 貨幣の性質
12
後に13世紀にもなってイングランドの政府が英貨1ペンスを「穂の
真中にある小麦の粒三二」の重さと定めていたときのように〜〜やはり国家あるいは社会であったであろう。今日の
ウガンダでは山羊がその土地の慣習的な標準物となっているが、その一地方長官が私に語るところによれば、彼の公
的な任務の一部は、特定の山羊があまり年をとりすぎていて、あるいはあまりやせすぎていて、債務の弁済のための
標準物の山羊になるかどうかについて争いがある場合に、それを裁決することであるということである。
貨幣は文明にとって不可欠な他の幾つかの要素と同様に、われわれが数年ばかり前までそのように教えられて信じ
ていたものよりも、はるかに古い制度である。その起源は、氷河の氷が溶けつつあった時代の霧の中へ没しており
そしてそれは、気候は快く、心は自由で、新しい考えを豊かに培っていた〜〜ヘスペリデス姉妹たちの島、あるいは
アトランティス、あるいはどこか中央アジアのエデンの園で〜〜間氷期 (interglacial) の人類の歴史に おける 楽園
の合い間にまで及ぶとみてよいであろう。
紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の行使であって、それは鋳造貨
幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の
変更であった。さらにまた、第二ボエニ戦役以前には、表券主義的な変更が、公衆の犠牲によって国家の利益を得ると
いう明確な意図のもとに企画された〜〜ローマはこの方法を国政の武器につけ加えた最初の創案者である〜〜例を、
私は一つも知らない。その時代以降、標準の表券主義的な変更は一般に質の劣悪化という形で、時にはある目的のた
めに、また時には他の目的のために行なわれてきたが、それは歴史家にはよく知られている論題である。
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、商品貨幣の段階を超えるもので
はない。標準物の質的劣悪化、すなわち計算貨幣の価値を突然に低下させるような標準の変更は、それ自体ではわれわ
れを一歩も代表貨幣の方へ導くものではない。商品貨幣は、単に商品の単位が質的に変化し、あるいは量的に減少し
返信削除ケインズはソロン(債務免除と貨幣標準変更)を評価していた(古川2020,153頁参照)。
貨幣論1、ケインズ全集5,14頁より
《 紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の
行使であって、それは鋳造貨幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、
それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の変更であった。 …
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、
商品貨幣の段階を超えるもので はない。》
以下、
ケインズと古代通貨(草稿)、ケインズ全集28,324〜5頁より
《この理由の故に、「貨幣の歴史」は、現に在る計算貨幣に新しい基準コインを適応
させるべく、法の力を用いたものとして歴史が記録する最初の政治家ソロンと共に
はじまるのだ。
…
ソロンは、恰もミダスがアジアの重金主義的傾向を物語るように、永遠にヨーロッパ
の天才を代表する。》
返信削除ケインズはソロン(債務免除と貨幣標準変更)を評価していた(古川2020,153頁参照)。
以下、貨幣論1、ケインズ全集5,14頁より
《 紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の
行使であって、それは鋳造貨幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、
それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の変更であった。 …
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、
商品貨幣の段階を超えるもので はない。》
以下、
ケインズと古代通貨(草稿)、ケインズ全集28,324〜5頁より
《この理由の故に、「貨幣の歴史」は、現に在る計算貨幣に新しい基準コインを適応
させるべく、法の力を用いたものとして歴史が記録する最初の政治家ソロンと共に
はじまるのだ。
…
ソロンは、恰もミダスがアジアの重金主義的傾向を物語るように、永遠にヨーロッパ
の天才を代表する。》
《それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、
商品貨幣の段階を超えるもので はない。》が気になるが、
ケインズは信用貨幣というよりも計算貨幣を重視している。
返信削除ケインズはソロン(債務免除と貨幣標準変更)を評価していた(古川2020,153頁参照)。
以下、貨幣論1、ケインズ全集5,14頁より
《 紀元前六世紀のアテネの通貨に関するソロン(Solon)の改革は、表券主義的大権の
行使であって、それは鋳造貨幣の存在と同時代ではあったが、しかしいかなる点でも、
それに依存するものではなかった。それはまさに、標準の変更であった。 …
それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、
商品貨幣の段階を超えるもので はない。》
以下、
ケインズと古代通貨(上の草稿)、ケインズ全集28,324〜5頁より
《この理由の故に、「貨幣の歴史」は、現に在る計算貨幣に新しい基準コインを適応
させるべく、法の力を用いたものとして歴史が記録する最初の政治家ソロンと共に
はじまるのだ。
…
ソロンは、恰もミダスがアジアの重金主義的傾向を物語るように、永遠にヨーロッパ
の天才を代表する。》
貨幣論における、
《それにもかかわらずこのような標準の変更は、貨幣の形態にかかわるかぎりでは、
商品貨幣の段階を超えるもので はない。》が気になるが、
ケインズは信用貨幣というよりも計算貨幣を重視している。
返信削除● ソロン(Solon、前639-前559)
《私は民衆に充分なる権力を与え、その名誉については何も奪いはせず、また何も
加えはしなかった。権力を持ち、財産のゆえに尊ばれる人々に対してもこれに不当
なる取扱いをせぬように図った。私は双方のために強き楯を執って立ち、いずれにも
不当の勝利を許さなかった。…》前594?
伝アリストテレス村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 29,30頁より
(ケインズが評価する古代ギリシアの代表的な改革者。改鋳、債務帳消しなどを断行)
●デモステネスDemosthenes(前384-前322)
《さらに、[レプティネスによって申し立てられている]国の公金が底をついていると
いうことに関してですが、諸君はこう考えるべきです。公共奉仕負担免除の特典を諸君が
廃止したところで、諸君の財政状態が少しでも改善される見込みはない。なぜなら、
個人個人のそうした公共奉仕への支出は国の歳入や余剰金には何の関係もないのだから、
と。また以上の点とは別のこととして、現在わが国は二つの善きもの、つまり富と、
万民の信望のうち、後者、すなわち信望という善きものは享受しています。しかしもし
誰かが、われわれには金銭がないのだから、輝かしい名声を保持し続ける必要もないと
思うならば、これは間違った考えです。》前355-347年頃
レプティネスへの抗弁、邦訳デモステネス弁論集第3巻、20頁
《 信用が金を稼ぐあらゆる元本の中で最大のものであるということをお前が理解しない
ならば、お前は何も理解しない人間であることになろう。》前349年頃
ポルミオン擁護 、邦訳デモステネス弁論集第5巻、272頁
● ジョージ・バークリー
George Berkeley (1685-1753), The Querist
《国民の富全体が実は国立銀行の資産にほかならないことを理解するのに、何らかの困難
があろうか。しかも、国立銀行の信用にかんしてすべての人々を安心させるのに、この点
を正確に理解させることほど必要なことがあるであろうか。(第3部質問84)》1735
《それゆえ、国立銀行は金鉱にもまして有益なものではないだろうか。(第2部質問23)》1735
《だがもし、(国立銀行の設立により)ペンを一走り走らせるだけで100ポンドもの資金を
調達できるようになれば、そのことは民間人にとって大きなめぐみではなかろうか。
(第2部質問27)》1735
Published in Dublin in three parts, 1735-. Anonymous.
邦訳 問いただす人 (初期イギリス経済学古典選集〈6〉) 1971
●ハミルトン(Alexander Hamilton, 1755 - 1804)
《国の借金は、それが過剰でなければ、我々にとっては国の恵みとなるでしょう。
[それは、我々の連邦の強力なセメントとなるだろう。 ]》1781
-アレキサンダー・ハミルトン、ロバート・モリスへの手紙、1781年9月3日
HAMILTON TO ROBERT MORRIS April 30, 1781.
ハミルトンはアメリカ連邦銀行創設者。最近ミュージカルになった。
チャーネバも参照するノーベル賞受賞学者ヴィックレーがよく引用している箇所。
ヴィックレーは典拠の手紙の年代を間違えて記している。
●ジョン・ラスキン(1819-1900 年)
《貨幣は、いわば財産の権利証書(title-deed of an estate)であり、仮にそれが失わ
れても財産自体がなくなるわけではなく、その財産権の所在が問題となるに過ぎない》
『政治経済要義論――塵のたまもの』
Munera Pulveris (1862-)『ラスキン政治経済論集』宇井丑之助訳、史泉房、所収
返信削除● ソロン(ソローン、古希: Σόλων, Solōn、紀元前639年頃 - 紀元前559年頃)
《私は民衆に充分なる権力を与え、その名誉については何も奪いはせず、また何も
加えはしなかった。権力を持ち、財産のゆえに尊ばれる人々に対してもこれに不当
なる取扱いをせぬように図った。私は双方のために強き楯を執って立ち、いずれにも
不当の勝利を許さなかった。(中略)その土地から私はあちこちに立てられた抵当標
を引き抜き、かくて土地は以前の隷属の状態からいまや自由となった。多くの人々を
私は神の造れる祖国アテナイに連れ戻した。彼らは或いは不当に、或いは正当に奴隷
に売られ、或いはやむを得ぬ事情で故国を棄て、諸処に流浪したためにもはやアッ
ティケの言葉を語り得なかった。私はまたこの土地で恥ずべき奴隷の地位に下り、
主人の恣意の前に身震いする人々をも自由の身とした。私はこれらのことを力もて
強制と正義とを調和せしめつつなし遂げ、約束した通りにおこなってきた。》
伝アリストテレス村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.29,30
(ケインズが評価する古代ギリシアの代表的な貨幣制度改革者)
●デモステネスDemosthenes(前384-前322)
《さらに、[レプティネスによって申し立てられている]国の公金が底をついているということ
に関してですが、諸君はこう考えるべきです。公共奉仕負担免除の特典を諸君が廃止したところで、諸君の
財政状態が少しでも改善される見込みはない。なぜなら、個人個人のそうした公共奉仕への支出は国の歳入
や余剰金には何の関係もないのだから、と。また以上の点とは別のこととして、現在わが国は二つの善きも
の、つまり富と、万民の信望のうち、後者、すなわち信望という善きものは享受しています。しかしもし誰
かが、われわれには金銭がないのだから、輝かしい名声を保持し続ける必要もないと思うならば、これは間
違った考えです。》前355-347年頃
レプティネスへの抗弁
邦訳デモステネス弁論集第3巻、20頁
《 信用が金を稼ぐあらゆる元本の中で最大のものであるということをお前が理解しないならば、お前は何も
理解しない人間であることになろう。》
ポルミオン擁護
邦訳デモステネス弁論集第5巻、272頁
● ジョージ・バークリー
George Berkeley (1685-1753), The Querist
Published in Dublin in three parts, 1735, 1736, 1737. Anonymous.
邦訳 問いただす人 (初期イギリス経済学古典選集〈6〉) 1971 [底本原著初版]
「国民の富全体が実は国立銀行の資産にほかならないことを理解するのに、何らかの困難
があろうか。しかも、国立銀行の信用にかんしてすべての人々を安心させるのに、この点
を正確に理解させることほど必要なことがあるであろうか。(第3部質問84)」[438]
「それゆえ、国立銀行は金鉱にもまして有益なものではないだろうか。(第2部質問23)[289]
「だがもし、(国立銀行の設立により)ペンを一走り走らせるだけで100ポンドもの資金を
調達できるようになれば、そのことは民間人にとって大きなめぐみではなかろうか。
(第2部質問27)」[290]
●ハミルトン(Alexander Hamilton, 1755 - 1804)
《国の借金は、それが過剰でなければ、我々にとっては国の恵みとなるでしょう。
[それは、我々の連邦の強力なセメントとなるだろう。 ]》
-アレキサンダー・ハミルトン、ロバート・モリスへの手紙、1781年9月3日
HAMILTON TO ROBERT MORRIS April 30, 1781.
ハミルトンはアメリカ連邦銀行創設者。最近ミュージカルになった。
●ジョン・ラスキン(1819-1900 年)
「貨幣は、いわば財産の権利証書(title-deed of an estate)であり、仮にそれが失わ
れても財産自体がなくなるわけではなく、その財産権の所在が問題となるに過ぎない」
『政治経済要義論――塵のたまもの』
Munera Pulveris [1862→1870=1981] 『ラスキン政治経済論集』宇井丑之助訳、史泉房、所収