ミステリの構造論まで深く掘り下げた論考
本作は、『ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか?』というサブタイトルがつけられていることからもお分かりのとおり、著者が『ミステリ・マガジン』に同タイトルで連載していたミステリ論の91回から120回までをまとめたものに加筆修正した作品になります(1回から30回までは『ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つか?』として、31回から60回までは『探偵小説と20世紀精神』、61回から90回までは『探偵小説と記号的人物』としてそれぞれまとめられています)。
本作では、著者が『第三の波』と呼ぶ本格推理小説の一つの区切りの起点となったとする辻本行人作『十角館の殺人』が叙述トリックであること、そもそも我が国の本格推理小説の『第一の波』の起点であった江戸川乱歩作『二銭銅貨』もやはり叙述トリックを用いていたことを指摘し、叙述トリックに焦点を当てて論考した作品になっています。
まず、はじめに叙述トリックとはどういうものを指しているかについて確認しておきましょう。
ミステリにおける通常のトリックは、作中の犯人が探偵に向けて仕掛けるトリックです。
作品の外にいる読者は、作品のテキストを通じてそれを読み、その謎を解こうとするわけです。
もちろん、犯人が探偵に向けて仕掛けるトリックというのは、とりもなおさず、やはり作品外にいる(つまりメタな存在である)作者が、作中の犯人を通じて探偵に仕掛けているわけですが、それはさらに探偵を通じて作品外にいる読者に向けられているとも言えます。
これに対して、叙述トリックと呼ばれるものは、作品外の作者が、やはり作品外の読者に向けて、作品のテキストを通して直接仕掛けているトリックと言う事ができます。
著者がいうところの『第三の波』では、このようなメタな叙述トリックが用いられている例が大変多いというのですね。
このような叙述トリックを巡り、著者の論考はミステリの文体、作品構造にまで及んでいきます。
〇 一人称ミステリの場合
ミステリが一人称で書かれている場合、そこに書かれていることは語り手の視点で書かれていることになり、あくまでも語り手の主観を通して見た(感じた)事柄という意味合いを持ちます。
ですから、語り手が誤解しているのであれば、それは誤解したままがテキストに著されることになります。
例えば、ホームズものは、語り手であるワトソンの一人称で書かれていますので、そこに書かれていることはあくまでもワトソンが見て、知って、感じたことになるわけで、客観的真実と必ずしも合致はしていませんし、また、探偵であるホームズが考えていることでもありません。
ですから、読者は、いくらワトソンがこの事件の真相はこうであろうと書いていても、それが探偵であるホームズが解き明かした真相を聞いて書いているのでない限り、ワトソンの考えに過ぎないということを承知の上で読んでいるわけで、ワトソンが言っているだけでは真偽は不明と判断するわけです。
叙述トリックの傑作とも言える、クリスティの『アクロイド殺し』も途中まではやはり一人称で書かれています。
この作品、フェアかアンフェアかで論争を呼んでいるわけですが、二階堂黎人はアンフェアを主張します。
その理由を簡単に言ってしまうと、『アクロイド』はいきなり『私』の一人称で書かれているため、それはあくまでも語り手(実はこの部分は手記なので書き手と言うべきでしょうか)が好き勝手に書いているに過ぎず、その内容が真であるという保障を与えられていない。
従って、そこに書かれていることを基にして推理しようにも真偽が確定していない以上推理のしようが無く、そのような手掛かりで犯人を当てろと言われてもアンフェアであるということになるでしょう。
著者は二階堂とは異なる立場を取り、二階堂に反論しています。
二階堂の論で行けば、『私』の一人称の部分の冒頭に、作者が登場して、「以下の一人称の部分に嘘は無い」とでも『枠囲い』をすれば真であることの保障が与えられるからフェアであるということになるが、結局、そのような『枠囲い』を与えたところで同じ事であると言うのです。
というのは、『アクロイド』の解決編はやはり『私』の一人称で語られ、そこで作者が(『私』を通じて仕掛けた)叙述トリックが明かされ、それが真相であるとされるわけであるが、その解決編も一人称で書かれている以上、やはり真であるという保障は与えられないではないかというわけです。
加えて、一人称ミステリの場合であっても、三人称のところで述べる『語り落とし』は使えるわけで(それもアンフェアであるというのなら別ですが)、いくら書いてあることに嘘はないと保障しても無駄であるとも言えます。
そもそも、ミステリというものは、叙述トリックを使っていなくても、作者は問題編では全ての事実をテキストに書いているわけではありません。
多かれ少なかれ『語り落とし』をしているわけで(そうでなければ謎は生じませんから)、『語り落とし』というものはミステリにつきものだとも言えるのではないでしょうか。
〇 三人称ミステリの場合
三人称で書かれている場合、その書き手は神の視点を持った者(作者)であるため、その部分に書かれていることは真であるという作者と読者との暗黙の了解があるというのが近代小説の前提です。
そこに嘘が書かれていたのでは作品が成立しないというわけですね。
しかし、もちろん、三人称で書かれた作品であっても叙述トリックは成立します。
それは、積極的に嘘をついてはいないが、重要な部分を『語り落とし』することは可能であり、また、『語り落とし』によって引き起こそうとしている読者の誤解を助長する策略的な記述もまた使うことができるから。
ちょっと寄り道になりますが、さらに言えば、三人称ミステリの場合、さらにこのような問題もあると指摘します。
作中で探偵が入手した証拠以外の証拠が無いという保障が作中にはないではないか。
もしかしたら探偵が入手した証拠を覆すような他の証拠が存在しているかもしれず、そのような証拠は存在しないとは作中では保障されていないではないかというわけです。
この問題を回避しようとしたのがクイーンであり、『読者への挑戦』を挟むことにより、作者(神)の視点から、「ここまでで全ての証拠は出そろった」と保障を与えることによりこの問題を回避したというわけです。
しかし、実はさらに『後期クイーン的問題』と呼ばれる問題があると指摘されていることはご承知のとおり(これはクイーン作の『ギリシャ棺の謎』がきっかけで論じられた問題です)。
なるほど確かに読者への挑戦により、証拠が出そろったということは保障されたかもしれない。
しかし、その証拠が犯人によって偽造された証拠ではないという保障はどこにあるのか?と。
『ギリシャ棺』ではエラリーはまさに犯人が偽造した証拠により誤った推理をしてしまう場面が描かれます。
そういうことがあり得るということを意識させた作品でもあるわけですね。
であるならば、『読者への挑戦』で出そろったと保障が与えられた証拠の中にだって、やはり犯人によって偽造された証拠が含まれているかもしれないじゃないかというわけです。
じゃあ、『読者への挑戦』で、「出そろった証拠は全て本物である」ということも保障すれば良いのでしょうか?
でも、出そろった証拠からAという作中人物が犯人であるということは理論的に推理できるかもしれないが、そのAは別のB(もっと言えばさらにその背後にいるC、D……と無限に続きうる連鎖)という人物に操られていたという可能性を読者に提示された証拠からどうして排除できるのか?と。
一体、『読者への挑戦』でどこまでの保障を与えなければならないということになるのでしょうかね?
そして、これらの問題は、実は、作者による保障がどこまで及ぶのか、そもそもそれは必要なのかという叙述トリックとも根っこを同じくする問題に逢着することになるわけですね。
本書では、このようにミステリの構造にまで立ち入って叙述トリックについて論考されており、大変深い内容になっています。
まあ、普通にミステリを楽しんでいる読者の多くは、そこまで神経を使ってテキストを読んではおらず、素直に読んで結末に驚くことができれば十分満足するとは思うのですが、実はこういう問題があるのだということ、そしてミステリを書く側はそこまで考えて書いているのだということを考えさせられる好著だと思います。
かなり論理的で込み入った議論が展開されていますので、読んでいて頭が痛くなるという方もいらっしゃるかもしれませんが、ミステリを深く極めてみたいという方にはお勧めの一冊です。
読了時間メーター
□□□□□ しばらくお待ち下さい(5日以上、上限無し)
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