6.為替レートと国際収支(Exchange rates and the balance of payments):ここでちょっと個人的な話をさせてもらいたい。国際貿易論を研究している学者の大半は、ひとたび為替レートや国際収支の問題に議論が及ぶや、話の筋を見失ってしまいがちになる。これまでにも何度か指摘したことがあるが、(実体経済を対象とする学としての)国際貿易の研究に従事している学者は、(貨幣経済学としての)国際マクロ経済学をブードゥー(voodoo)経済学と見なす一方で、国際マクロ経済学の研究に従事している学者は、国際貿易論を退屈で現実との関連が薄い学問と見なす傾向にある (私の機嫌が悪い時には、どちらの主張もともに正しい、と言ってやることにしている)。しかしながら、リカードの貿易理論に関するドーンブッシュ=フィッシャー=サミュエルソン論文(1977年)(Dornbusch, Fischer, and Samuelson(1977))を読んでからというもの、私個人は、国際貿易論と国際マクロ経済学との対立から逃れることができるようになった。ドーンブッシュ=フィッシャー=サミュエルソン論文の中では、国際貿易とマクロ経済とが、為替レートと国際収支とが、そして、貿易の利益が発生する可能性と(輸入品と競合する国内の産業で生じる;訳者注)失業の可能性とが、それぞれ自然なかたちで相互に関連付けられている(=統一的に分析されている)のである。
サミュエルソンにとっても、国際貿易論と国際マクロ経済学とをいかにして関連付けたらよいか、という課題を明確に理解するにあたって、ドーンブッシュ=フィッシャー=サミュエルソン(1977年論文)による整然とした定式化が大きな助けとなったらしいが、サミュエルソンがこの課題にぶつかったのは時期的にずっと前に遡るようだ。ここで、1964年に公刊されたサミュエルソンの論文「貿易問題に関する理論的覚書」(”Theoretical notes on trade problems”(pdf))の中から、関連する箇所を引用してみることにしよう。「雇用の水準が完全雇用水準以下であり、国民純生産(Net National Product)が準最適な(suboptimal)水準にとどまっている(最適な水準には達していない)ようなケースでは、通常であれば馬鹿げている重商主義者(mercantilist)の議論のどれもこれもが妥当性を持つようになる」。そして、これに続けてサミュエルソンは、自らが執筆したテキストである『経済学』の(当時の)最新版の付録(appendix)の中で、「通貨の過大評価(overvaluation)によって引き起こされる問題――自由貿易擁護論にとって真に厄介な問題――を指摘した」事実に言及している。ここでサミュエルソンが、問題解決の方法(訳者注;完全雇用を達成し、国民純生産を最適な水準に復帰させる方法)として提示したのは、貿易の制限ではなく、通貨の過大評価をストップさせること(=為替安(通貨の減価)への誘導;訳者注)であった。つまりは、サミュエルソンは、まっとうなマクロ経済政策(good macroeconomic policies)は、まっとうなミクロ経済政策(good microeconomic policies)の前提条件である(訳者注;まっとうなマクロ経済政策なくして、まっとうなミクロ経済政策はありえない)、と理解していたわけである。この点については、また少し後で触れることにしよう。
ハリネズミがいて、キツネがいて、そして・・・ポール・サミュエルソンがいる。
ご存知だとは思うが、ここで私は、アイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)が思想家を類別するために使った、かの有名なたとえ話を持ち出しているのである。キツネは多くのことを知っている(foxes who know many things)。一方で、ハリネズミはたった一つのことしか知らない、ただし、非常に重要なアイデア(=ビッグ・アイデア)を一つ(hedgehogs who know one big thing)・・・というお馴染みのアレである。経済思想家としてのサミュエルソンを、人類史上にわたって比類なき経済学者たらしめているのは、彼が非常に重要なアイデアを数多く知っていた(he knew many big things)――そして、我々にそれらのことを教えてくれた――という事実にこそある。サミュエルソンほどに数多くの独創的なアイデアに恵まれた経済学者は、他には見当たらないのだ。
Google Scholarの助けもちょっと借りて、サミュエルソンが発案したビッグ・アイデアを以下にいくつかリストアップしてみることにしよう。わざわざ「いくつか」と断ったのは、このリストではサミュエルソンのビッグ・アイデアを網羅し尽くしてはいないことが明々白々だからだ。しかしながら、ともかくも、ここでは彼の独創的な洞察の中から、一応8つ――8つだってさ!――のアイデアをピックアップしてみた。どのアイデアも、その後に発展性ある研究成果を大量に生み出す契機となったものである。
3.貿易の利益(Gains from trade): 国際貿易は有益(beneficial)である、との主張によって意味されていることは一体何なのだろうか? また、この主張はどのような限界(あるいは留保条件)を抱えているのだろうか? 「貿易の利益」に関するサミュエルソンの分析――この分析においては、顕示選好の方法と、経済厚生分析との両者が応用されている――は、これらの問いに取り組む上での出発点となっている。「市場の歪み」に関するバグワティ(Bhagwati)やジョンソン(Johnson)2の分析から、一般化された比較優位(generalised comparative advantage)に関するデアドロフ(Deardorff)の分析までに至る(貿易の利益に関する)一切の研究業績は、サミュエルソンの洞察の上に立脚しているのだ。
4.公共財(Public goods): ある特定の財やサービスが政府によって供給されねばならないのは、なぜなのだろうか? また、ある財――それも、限られた数の財――の生産を市場に委ねるべきであるとすれば、一体どのような事情ゆえにそうなるのだろうか? すべての答えは、サミュエルソンの1954年論文「公共支出の純粋理論」(“Pure theory of public expenditure”)にある。
6.為替レートと国際収支(Exchange rates and the balance of payments):ここでちょっと個人的な話をさせてもらいたい。国際貿易論を研究している学者の大半は、ひとたび為替レートや国際収支の問題に議論が及ぶや、話の筋を見失ってしまいがちになる。これまでにも何度か指摘したことがあるが、(実体経済を対象とする学としての)国際貿易の研究に従事している学者は、(貨幣経済学としての)国際マクロ経済学をブードゥー(voodoo)経済学と見なす一方で、国際マクロ経済学の研究に従事している学者は、国際貿易論を退屈で現実との関連が薄い学問と見なす傾向にある (私の機嫌が悪い時には、どちらの主張もともに正しい、と言ってやることにしている)。しかしながら、リカードの貿易理論に関するドーンブッシュ=フィッシャー=サミュエルソン論文(1977年)(Dornbusch, Fischer, and Samuelson(1977))を読んでからというもの、私個人は、国際貿易論と国際マクロ経済学との対立から逃れることができるようになった。ドーンブッシュ=フィッシャー=サミュエルソン論文の中では、国際貿易とマクロ経済とが、為替レートと国際収支とが、そして、貿易の利益が発生する可能性と(輸入品と競合する国内の産業で生じる;訳者注)失業の可能性とが、それぞれ自然なかたちで相互に関連付けられている(=統一的に分析されている)のである。
サミュエルソンにとっても、国際貿易論と国際マクロ経済学とをいかにして関連付けたらよいか、という課題を明確に理解するにあたって、ドーンブッシュ=フィッシャー=サミュエルソン(1977年論文)による整然とした定式化が大きな助けとなったらしいが、サミュエルソンがこの課題にぶつかったのは時期的にずっと前に遡るようだ。ここで、1964年に公刊されたサミュエルソンの論文「貿易問題に関する理論的覚書」(”Theoretical notes on trade problems”(pdf))の中から、関連する箇所を引用してみることにしよう。「雇用の水準が完全雇用水準以下であり、国民純生産(Net National Product)が準最適な(suboptimal)水準にとどまっている(最適な水準には達していない)ようなケースでは、通常であれば馬鹿げている重商主義者(mercantilist)の議論のどれもこれもが妥当性を持つようになる」。そして、これに続けてサミュエルソンは、自らが執筆したテキストである『経済学』の(当時の)最新版の付録(appendix)の中で、「通貨の過大評価(overvaluation)によって引き起こされる問題――自由貿易擁護論にとって真に厄介な問題――を指摘した」事実に言及している。ここでサミュエルソンが、問題解決の方法(訳者注;完全雇用を達成し、国民純生産を最適な水準に復帰させる方法)として提示したのは、貿易の制限ではなく、通貨の過大評価をストップさせること(=為替安(通貨の減価)への誘導;訳者注)であった。つまりは、サミュエルソンは、まっとうなマクロ経済政策(good macroeconomic policies)は、まっとうなミクロ経済政策(good microeconomic policies)の前提条件である(訳者注;まっとうなマクロ経済政策なくして、まっとうなミクロ経済政策はありえない)、と理解していたわけである。この点については、また少し後で触れることにしよう。
まず第1の要素は、彼の茶目っけたっぷり(playfulness)の態度である。サミュエルソンの文章を読む人の脳裏には、非常に堅苦しい論文を書き上げるために机の前に座している男の姿ではなく、楽しみながらアイデアを紡ぎだしている男の姿が浮かび上がってくることだろう。茶目っけは、時に、洗練されたおふざけ(inspired silliness)のかたちをとって表れることがある。例えば、先にも触れた1958年の世代重複モデル論文の注9を見てみるといい。そこには、こうある。「確かに(Surely)、“確かに”(’surely’)という言葉で始まる文の最後がクエッションマークで終わることは、普通であればあり得ないことである? しかしながら、一つの論文においては、一つのパラドックスで十分であって・・・」(“Surely, no sentence beginning with the word ‘surely’ can validly contain a question mark at its end? However, one paradox is enough for one article …”)。サミュエルソンの茶目っけたっぷりな態度は、彼の想像力(imagination)を解放すると同時に、創造力(creativity)の刺激にもつながったに違いないと思われるのである。
>>75
返信削除過大評価の修正進む日本経済
~わが国特有のデフレ圧力の一因に内外価格差の是正あり~ 経済調査部
永濱 利廣 近江澤 猛 http://group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/monthly/pdf/0909_7.pdf
○為替レート換算で見た日本の経済力は過大に評価されてきた。この過大評価の修正がデフレの
一因である。一物一価が国際的に成り立てば、各国間の同じ商品が同じ価格に裁定されるように
為替や物価が決まり、長期的に為替レートは購買力平価に収斂するというのが購買力平価説に
沿った考え方である。
○各国の物価水準を考慮した購買力平価とドル円レートで換算したGDPを比較すると、80年代
後半から日本経済は過大評価されてきたことがわかる。こうした内外価格差が生じたのは、貿易財
では一物一価の法則で為替レートが決まりやすいが、貿易による裁定が働きにくい非貿易財に
価格差が生じたためである。こうして、貿易財と非貿易財を合わせて計測される購買力平価と
貿易財の換算比率である為替レートで評価したGDPには乖離が生じる(バラッサ=サミュエルソン効果)。
…為替レート換算で見た日本のGDPの過大評価の修正とほぼ同じタイミングでわが国の非
貿易財価格は下落に転じており、購買力平価に近づく過程でデフレの一因となっている。
○一方、国内の非貿易財価格下落は、90 年代後半以降に非貿易財産業の賃金抑制を通じて
内需低迷の一因となった。…
三橋貴明
https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11226265410.html
なぜ購買力平価(PPP)ベースが廃れているかと言えば、財はともかく「サービス」に
ついて「一物一価の法則(PPPの前提)」が成り立つはずがないためです。クルーグマン
は、購買力平価について、
「購買力平価はどのような形に直しても現実のデータをうまく説明しない。とりわけ、
各国の物価水準変化は為替レートの動向について我々にはほとんど何も教えてくれない
ことがしばしばある。」
と語っています。
具体的に書くと、「床屋で髪を切るサービス」の場合、アメリカで切っても日本で切って
も、中国で切っても、本来は同じ価格(一物一価)のはずだ」という無茶な前提になって
いるのです。「髪を切る」サービスの場合、日本国内でさえ様々な価格水準があるのに、
それを「全世界で実は共通」などと仮定するのは、無茶もいいところです。
財にしても、例えばビッグマックを買うために「どれだけ、国民が働かなければならないか」を
計測するビッグマック指数では、実は日本が「最短」です。日本国民は世界で最も短く働く
だけで、ビッグマックを購入できます。
が、現実にはビッグマックその他の財の価格は、「その国の市場競争がどれだけ激しいか」
により変わってきます。日本のビッグマックが安いのは、他の飲食店(ファーストフード含む)
との競合が激しいことが大きな理由です。
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三橋の書き方は誤解を生む
ビックマック指数は有効で
メキシコと日本は極端にビックマック指数の伸びが低いデフレ国である