2022年6月4日土曜日

ウェーバーのクナップ論 中公世界の名著50

参考:








第三章 前資本主義時代における財貨および貨幣の流通


第六節 貨幣および貨幣史 A1,2

1 參考文献

E. Daenell, Die Blütezeit der deutschen Hanse, 2 Bde., Berlin 1905-1906.

A. Kiesselbach, Die wirtschaftlichen Grundlagen der deutschen Hanse und die Handelsstellung Hamburgs, Berlin 1907.

K. Bahr, Handel und Verkehr der deutschen Hanse in Flandern während des 14. Jahrhunderts, Leipzig 1911.

こういう要求をもったため、ハンザ同盟はたえずダンチヒの反抗に遭った。ダンチヒはその造船を勝手に行いたかったから

である。


第六節 貨幣および貨幣史

貨幣の成立過程とその機能

一貨幣と個人的私有財産

 発展史的に見ると、貨幣は個人的なる私有財産の創造者である。この特質を貨幣は最初からもっている。逆にまた、

貨幣的性質を有する對象にして、個人的所有の性質をもたないようなものはない。

 最古の個人的私有財産は、該個人が自分で完成した對象物である。すなわち、男にあっては道具・武器、男女共通

のものでは装飾品のごとき、これである。こういう對象物は、人格から人格へ傳えられる特別相續權の基礎をなすも

のである。何よりも先ずこれらの對象物の範圍内で、われわれは貨幣の発生をもとめなければならない。


二 純粋なる支拂手段としての貨幣

 今日では貨幣は先ず二つの機能をもっている。すなわち、貨幣は欽定的支排手段 oktroyiertes Zahlungsmittel およ

び一般的交換手段として役立つ。以下この二つの機能について考察しよう。

 歴史的には、この両者の中、欽定的支排手段たる機能の方が古い。 さてこの段階においては、貨幣は交換されざる

貨幣 tauschloses Geld である。 しかし交換されざる貨幣というごときものは如何にして可能であるか。 交換なき經濟

の場合でも、個別經濟から個別經濟への給付が交換にもとづかずして起り、しかも支排手段を必要とする場合(例え

ば調貢・首長贈與物・結納料・持參金・人命金・贖罪金・罰金)が存するからである。要するに、交換はなくとも、

典型的支拂手段によって給付さるべき支拂は存するからである。これと關連して――しかし第二次的過程としてよう

やく起るのは、臣下から首長への贈物ではなく、首長から家來への贈物である。 すなわち、領主がその家臣に對

して贈物の形で興える給料(ゾールド)、更に後には、傭兵指揮官の傭兵に對する支拂いのごとき、これである。ペルシア帝國に

おいてはもちろん、さらにカルタゴのごとき都市においてさえも、貨幣鋳造は、一般には、ただ軍事上の支排手段の

造出だけのために行われたのであった。それは決して交換手段の調達のためにおこなわれたのではないのである。

 この発展段階においては今日の意味における統一的貨幣をかんがえることは許されない。むしろ給付の種類がこと

なるにつれて、それぞれ特定種類の財が―しかもそれぞれの經濟領域においてそれぞれ事情を異にしながら――支

挑機能をもつものとしてあらわれる。 それゆえに、種類を異にする特殊貨幣が並存することになる。例えば、如何な

る時、如何なるところでも、貝殻を以てしては女を買うことはできず、これを購うには常に家畜を以てするほかなか

った。これに反して小取引においては、貝殻が授受された。 けだし貝殻は比較的小さな個片として存在するからであ

る。かようにして對内的支排義務より端を愛した貨幣を、共同體内部の貨幣ないし内部貨幣 Binnengeld と稱す

ネン Binnen アウセン Aubenとの別にって。

ることにする


邦訳ではKnappは巻末参考文献に名前があるだけ


G.クナップの貨幣国定理論について--マックス・ウェーバー(「経済と社会」第1部第2章第36節補給論)(資料)
水沼 知一 訳解説 1977
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I1751049-00

https://iitomo2010.blogspot.com/2022/06/g-1236.html

マックス・ウェーバーの貨幣論新資料--ウェーバーのクナップ宛,1906年7月21日付書簡
田中 真晴 1978
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I1869082-00

ウェーバーのクナップ宛書簡は田中真晴『ウェーバー研究の諸論点』(2001)第4章に原文と共に一部所収。

Max Weber · 1984 · ‎スニペット表示
次の書籍のコンテンツと一致: – 115 ページ
Ich bin natürlich ganz derselben Meinung . Mein Problem Ihrem Buch 20 gegenüber bleibt : ist es richtig , ( was Sie S47des Vortrages wiederholen ) , daß eine nicht ,, staatliche “ Theorie sich in „ Forderungen “ auflösen 1 Gemeint ...

この書籍の 1 ページで  Ich bin natürlich ganz derselben Meinung. Mein Problem Ihrem Buch gegenüber bleibt: ist es richtig, (was Sie S. 47 des Vortrages wiederholen), dass eine nicht. staatliche Theorie sich in Forderungen auflösen müsse? Wie verhält sich (bei Ihnen und sonst) juristische und soziologi. sche Begrif が見つかりました



Gesamtausgabe, 第 2 部、第 5 巻

前表紙

Max Weber - Gesamtausgabe: Band II/5: Briefe 1906-1908 ハードカバー – イラスト付き, 1990/12/31 

~~

邦訳されなかった箇所で、ウェーバーはクナップに賛同しつつも貨幣価値の切り上げ、切り下げが国家にとって恣意的になされ得る危険を訴えている。

中公世界の名著50

#32



2. Die Definition des Geldes als gesetzliches Zahlungsmittel und Geschöpf der »lytrischen« (Zahlungsmittel-)Verwaltung ist soziologisch nicht erschöpfend. Sie geht aus von »der Tatsache, daß es Schulden gibt« (G. F. Knapp), insbesondere Steuerschulden an die Staaten und Zinsschulden der Staaten. Für deren legale Ableistung ist das gleichbleibende Geldnominale (mag auch der Geldstoff inzwischen geändert sein) oder, bei Wechsel des Nominale, die »historische Definition« maßgebend. Und darüber hinaus schätzt der Einzelne heute die Geldnominaleinheit als aliquoten Teil seines Geldnominaleinkommens, nicht: als chartales metallisches oder notales Stück. 
Der Staat kann durch seine Gesetzgebung und der Verwaltungsstab desselben durch sein tatsächliches (regiminales) Verhalten formal in der Tat die geltende »Währung« des von ihm beherrschten Geldgebiets ebenfalls beherrschen. Wenn er mit modernen Verwaltungsmitteln arbeitet. China z.B. konnte es nicht. Weder früher: dazu  waren die »apozentrischen« und »epizentrischen« Zahlungen (Zahlungen »von« und »an« Staatskassen) zu unbedeutend im Verhältnis zum Gesamtverkehr. Noch neuerdings: es scheint, daß es Silber nicht zum Sperrgeld mit Goldreserve machen konnte, da die Machtmittel gegen die dann ganz sichere Nachprägung nicht ausreichen. 
Allein es gibt nicht nur (schon bestehende) Schulden, sondern auch aktuell Tausch und Neukontrahierung von Schulden für die Zukunft. Dabei aber erfolgt die Orientierung primär an der Stellung des Geldes als Tauschmittel [Kap. II, § 6] – und das heißt: an der Chance, daß es von unbestimmt vielen Anderen gegen bestimmte oder unbestimmt gedachte Güter künftig in einer (ungefähr geschätzten) Preisrelation in Abtausch werde genommen werden. 
1. Zwar unter Umständen auch primär an der Chance, daß dringliche Schulden an den Staat oder Private mit dem Erlös abgetragen werden könnten. Doch darf dieser Fall hier zurückgestellt werden, denn er setzt »Notlage« voraus.
 2. An diesem Punkte beginnt die Unvollständigkeit der im übrigen völlig »richtigen« und schlechthin glänzenden, für immer grundlegenden, »Staatlichen Theorie des Geldes« von G. F. Knapp.


 2 貨幣を法定の支払手段と定義し、「支払手段」管理の産物なりとすることは、 社会学的にはいまだ十分な

説明とはいえない。 貨幣の定義は「債務があるという事実」「G・F・クナップ]、とくに国家にたいする租税負

債と国家の利子負債にもとづく。債務の法的な履行のためには名目的な貨幣量が一定に保持されることが必要で

あり 〔貨幣の素材はその間に変化しているとしても]、または名目量が変化する場合には「歴史的規定」が与え

られることが必要である。そしてこんにちでは、個人は"この点を超えて貨幣の名目単位を名目貨幣所得の割り切

れる一定部分として評価しているのであって、表券的金属貨幣もしくは券貨個片として評価しているのではない。(6)

 国家はその立法活動をつうじて、また国家の行政幹部はその事実上の[統治上の活動をつうじて、国家によ

って支配されている貨幣領域の妥当する「価値」をもじっさい形式的に左右することができる。




(4) 宮田訳、前掲書、一四ページ。

(5) 「歴史的規定」の原則については、第六節三二〇ページを参照。

(6) 「券貨」 (notales Geld) もクナップの造語であって、本位正貨でないすべての貨幣の総称である。これについては以下の第三四節で詳論される



これは国家が近代的な管理手段を有して活動している場合にかぎる。たとえば中国では国家はそのようなことをなしえなか

った。古代中国においては、 「中心支払い」および「中心受取り(1)」「国庫「から」出る支払いと「心」入る支払い]は流通の

全量に比してあまりに僅かなものでしかなかった。近代になってからでも、中国は銀を金準備のある限定貨幣(2)となしえなかったと思われるが、これは当時貨幣を悪鋳されることが確実で、そのことを防止する権力手段が十分でなかったことによってい

る。

[すでに存在している〕 債務だけにとどまらず、じっさいには将来にたいする債務との交換および再契約もある。

しかしその場合には、貨幣を交換手段として位置づけるという指向が第一次的となる [第六節]――すなわち、

貨幣が、将来不特定多数の他者とのあいだで、特定のもとして想定された、または特定されない財と、一定の

[大ざっぱに見積もられた〕 価格関係で交換されるであろう、という機会に指向することがそれである。



(1) 事情によっては、国家あるいは私的個人にたいするさしまった債務にたいして売上げの中から支払いをすることが

できる、という機会に第一次的に指向することもまたこれに該当するといえるかもしれない。しかしこれはあくまで「緊急事

態」を想定したものだから、ここではそのようなケースは考えずにおいてもよいであろう。


 (2) G・F・クナップの『貨幣国定学説』 は、常に基本的ともち、他の点では完全に「正しく」、まったく光かがくものであるが、この点で欠点がはじまる。

ーーー

を決定することによって〔自由平行本位制〕、

(2) 定期的にレートを決定することによって定期

レートによる平行本位制〕、

(3) 永続的な法定レートによって [複金属主義、た

とえば両金属本位制〕。

項目(1)と(2)の場合は、通常一つだけの金属が国定の

かつ効力ある本位金属であって[中世社会では銀がそうであっ

た、他のものは国庫とのあいだの交換レートが定められた商

通貨であった〔フリードリヒスドルやデュカテン」。流通貨

の個々について正金化率を完全にきめてしまうということは

近代貨幣制度においては稀であるが、以前はしばしばそうであ

った〔中国、ヨーロッパ中世。


 2 貨幣を法定の支払手段と定義し、「支払手段」管

理の産物なりとすることは、 社会学的にはいまだ十分な

説明とはいえない。 貨幣の定義は「債務があるという事

「実」「G・F・クナップ]、とくに国家にたいする租税負

債と国家の利子負債にもとづく。債務の法的な履行のた

めには名目的な貨幣量が一定に保持されることが必要で

あり 〔貨幣の素材はその間に変化しているとしても]、

または名目量が変化する場合には「歴史的規定」が与え

られることが必要である。そしてこんにちでは、個人は

"この点を超えて貨幣の名目単位を名目貨幣所得の割り切

れる一定部分として評価しているのであって、表券的金

属貨幣もしくは券貨個片として評価しているのではない。

(6)

 国家はその立法活動をつうじて、また国家の行政幹部

はその事実上の[統治上の活動をつうじて、国家によ

って支配されている貨幣領域の妥当する「価値」をもじ

さい形式的に左右することができる。


(1) この個所、初版から第四版までの全部をつうじて、「防止する」

P

(unterdrücken) の代わりに「惹起する」 (herbeiführen) と

なっており、「防止」 (Unterdrückung) はそのあとの項目(a)

だけについていたので、(b) 以下の諸項目について意味が通らな

かった。 第五版ではじめてヴィンケルマンによって現在のように訂

正された。このあたり原著者ウェーバーの文章推敲の不足が感じら

れる。[] は校訂者ヴィンケルマンの記号。

(2) フリードリヒスドル (Friedrichsd'or) はドイツで「ターレル」

(銀本位貨幣)が正貨であった当時これと並んで自然発生的に通用

していた金貨。したがって両者のあいだの交換レートが定められる

必要があった。

(3) デュカテン (Dukaten) は板金でその都度秤量して通用してい

た金貨。しかし金地金そのものではなく鋳造されていたので、クナ

ップはこれを「秤量的定型的支払用具」と呼んでいる。

(4) 宮田訳、前掲書、一四ページ。

(5) 「歴史的規定」の原則については、第六節三二〇ページを参照。

(6) 「券貨」 (notales Geld) もクナップの造語であって、本位正貨

でないすべての貨幣の総称である。これについては以下の第三四節

で詳論される。


これは国家が近代的な管理手段を有して活動している場合に

かぎる。たとえば中国では国家はそのようなことをなしえなか

った。古代中国においては、 「中心支払い」および「中心受取

り」「国庫「から」出る支払いと「心」入る支払い]は流通の

全量に比してあまりに僅かなものでしかなかった。近代になっ

てからでも、中国は銀を金準備のある限定貨幣となしえなかっ

たと思われるが、これは当時貨幣を悪鋳されることが確実で、

そのことを防止する権力手段が十分でなかったことによってい

る。

P

[すでに存在している〕 債務だけにとどまらず、じっさ

いには将来にたいする債務との交換および再契約もある。

しかしその場合には、貨幣を交換手段として位置づける

という指向が第一次的となる [第六節]――すなわち、

貨幣が、将来不特定多数の他者とのあいだで、特定のも

として想定された、または特定されない財と、一定の

[大ざっぱに見積もられた〕 価格関係で交換されるであ

ろう、という機会に指向することがそれである。


(1) 事情によっては、国家あるいは私的個人にたいするさ

しまった債務にたいして売上げの中から支払いをすることが

できる、という機会に第一次的に指向することもまたこれに該

当するといえるかもしれない。しかしこれはあくまで「緊急事


態」を想定したものだから、ここではそのようなケースは考え 40

ずにおいてもよいであろう。

 

 (2) G・F・クナップの『貨幣国定学説』 は、常に基本的

ともち、他の点では完全に「正しく」、まったく光かが

くものであるが、この点で欠点がはじまる。


 さらに、国家自身のがわでも、貨幣を必要とする。 す

なわち、国家は租税その他の方法によって貨幣を手に入

れるが、その場合の貨幣は交換手段であるだけでなく負

債利子の支払いにあてられることも非常に多い。しかし

国家にたいする債権者は貨幣をまさに交換手段として用

いることを欲し、それゆえに貨幣を求める。 国家自身も

またほとんど常に貨幣を必要としており、そして非常に

しばしばそれは、将来市場において国家の効用サーヴィ

スにたいする欲求を[流通経済的に〕充足するための交

換手段としてのみ、求められるのである。 それゆえ、支

払手段としての性質は、概念的にはたしかにこれを分離

しなければならないが、けっして決定的というわけでは

ないのである。市場財との比較においてなされた評価に

もとづく、特定の他財にたいする貨幣の交換機会を、

質的価値〔これは、支払手段としての形式的・法的な

価値、および、②交換手段としての貨幣の形式的使用に


467~9頁

 ここでの全論述は、明らかにG・F・クナップのみごとな著
作『貨幣国定学説』 [初版一九〇五、第二版一九一八、[第三版
一九二一、第四版一九二三三〕との一つの討論である。ただも
ちろんこの討論はここでの枠組にあてはまるもののみに限られ、
またかれの高度に縮約されたあらゆる精緻さの中からも多くの
ものが除かれてしまっている。この本は出版されるとただちに、
著者の意図に反して、 しかしおそらく著者にまったく責任がな
いとはいえないであろうが、価値評価のために切り刻まれた。
しかしまた、当然のことだが、とくにオーストリアの「紙幣
的」 支払手段管理によって熱狂的に歓迎された。経過はいかな
る点でもクナップの理論が「誤っている」という判定を下しは
しなかったが、 ただこの理論は実質的な貨幣価値の側面から見
ると不完全である、との確証が示された。以下この点について
たちいった検討がなされねばならない。

 (1) このあと原書には「貨幣国定学説についての付論」と題するウェ
ーバーのクナップ批判が数ページにわたって挿入されているが、こ
の部分はウェーバーの本論からははずれた付録的部分であり、また
クナップ批判に特別の現代的意義があるとも思われなかったので、
本書では省略した。







Ersichtlich sind diese gesamten Auseinandersetzungen eine freilich nur in diesem Rahmen gehaltene und auch innerhalb seiner höchst summarische, alle Feinheiten ganz beiseite lassende Diskussion mit G. F. Knapps prachtvollem Buch: »Staatliche Theorie des Geldes« (1. Aufl. 1905, 2. Aufl. 1918 [3. Aufl. 1921, 4. Aufl. 1923]). Das Werk ist sofort, entgegen seiner Absicht, aber vielleicht nicht ganz ohne seine Schuld, für Wertungen ausgeschlachtet und natürlich besonders von der »papieroplatischen« lytrischen Verwaltung Oesterreichs stürmisch begrüßt worden. Die Ereignisse haben der Knappschen Theorie in keinem Punkte »Unrecht« gegeben, wohl aber gezeigt, was ohnehin feststand: daß sie allerdings nach der Seite der materialen Geldgeltung unvollständig ist. Dies soll nachfolgend etwas näher begründet werden.

Exkurs über die staatliche Theorie des Geldes.

Knapp weist siegreich nach: daß jede sowohl unmittelbar staatliche, als staatlich regulierte »lytrische« (Zahlungsmittel-)Politik der letzten Zeit beim Bestreben zum Uebergang zur Goldwährung oder einer ihr möglichst nahestehenden, indirekt chrysodromischen, Währung »exodromisch«: durch Rücksicht auf den Valutakurs der eigenen in fremder, vor allem: englischer, Währung, bestimmt war. Wegen des »Münzparis« mit dem größten Handelsgebiet und dem universellsten Zahlungsvermittler im Weltverkehr, dem Goldwährungslande England, demonetisierte zuerst Deutschland das Silber, verwandelten dann Frankreich, die Schweiz und die anderen Länder des »Münzbundes«, ebenso Holland, schließlich Indien, ihr bis dahin als freies Verkehrsgeld behandeltes Silber in Sperrgeld und trafen weiterhin indirekt chrysodromische Einrichtungen für Außenzahlungen, taten Oesterreich und Rußland das gleiche, trafen die »lytrischen« Verwaltungen dieser Geldgebiete mit »autogenischem« (nicht einlöslichem, also selbst als Währung fungierendem) Papiergeld ebenfalls indirekt chrysodromische Maßregeln, um wenigstens ins Ausland tunlichst jederzeit in Gold zahlen zu können. Auf den (tunlichst) festen intervalutarischen Kurs allein also kam es ihnen in der Tat an. Deshalb meint Knapp: nur diese Bedeutung habe die Frage des Währungsstoffs und der Hylodromie überhaupt. Diesem »exodromischen« Zweck aber genügten, schließt er, jene anderen indirekt chrysodromischen Maßregeln (der Papierwährungsverwaltungen) ebenso wie die direkt hylodromischen Maßregeln (siehe Oesterreich und Rußland!). Das ist zwar – ceteris paribus – für die Hylodromien keineswegs unbedingt wörtlich richtig. Denn solange keine gegenseitigen Münzausfuhrverbote zwischen zwei gleichsinnig hylodromischen (entweder beide chryso- oder beide argyrodromischen) Währungsgebieten bestehen, erleichtert dieser Tatbestand der gleichsinnigen Hylodromie die Kursbefestigung doch unzweifelhaft ganz erheblich. Aber soweit es wahr ist – und es ist unter normalen Verhältnissen in der Tat weitgehend wahr –, beweist es doch noch nicht: daß bei der Wahl der »Hyle« (Stoff) des Geldes, heute also vor allem der Wahl einerseits zwischen metallischem (heute vor allem: goldenem oder silbernem Geld) und andererseits notalem Gelde (die Spezialitäten des Bimetallismus und des Sperrgeldes, die früher besprochen sind, lassen wir jetzt füglich einmal beiseite), nur jener Gesichtspunkt in Betracht kommen könne. Das hieße: daß Papierwährung im übrigen der metallischen Währung gleichartig fungiere. Schon formell ist der Unterschied bedeutend: Papiergeld ist stets das, was Metallgeld nur sein kann, nicht: sein muß, »Verwaltungsgeld«; Papiergeld kann (sinnvollerweise!) nicht hylodromisch sein. Der Unterschied zwischen »entwerteten« Assignaten und künftig vielleicht, bei universeller Demonetisation, einmal ganz zum industriellen Rohstoff »entwertetem« Silber ist nicht gleich Null (wie übrigens auch Knapp gelegentlich zugibt). Papier war und ist gerade jetzt (1920) so gewiß wenig wie ein Edelmetall ein »beliebig« jederzeit vorrätiges Gut. Aber der Unterschied 1. der objektiven Beschaffungsmöglichkeit und 2. der Kosten der Beschaffung im Verhältnis zum in Betracht kommenden Bedarf ist dennoch so kolossal, die Metalle sind an die gegebenen Bergvorkommen immerhin relativ so stark gebunden, daß er den Satz gestattet: Eine »lytrische« Verwaltung konnte (vor dem Kriege!) papierenes Verwaltungsgeld (verglichen sogar mit kupfernem – China –, vollends: mit silbernem, erst recht: mit goldenem) unter allen normalen Verhältnissen wirklich jederzeit, wenn sie den Entschluß faßte, in (relativ) »beliebig« großen Stück-Quantitäten herstellen. Und mit (relativ) winzigen »Kosten«. Vor allem: in rein nach Ermessen bestimmter nominaler Stückelung, also: in beliebigen, mit dem Papierquantum außer Zusammenhang stehenden Nominalbeträgen. Das letztere war offenbar bei metallischem Gelde überhaupt nur in Scheidegeldform, also nicht entfernt in gleichem Maß und Sinn der Fall. Bei Währungsmetall nicht. Für dieses war die Quantität der Währungsmetalle eine elastische, aber doch schlechthin »unendlich« viel festere Größe als die der Papierherstellungsmöglichkeit. Also schuf sie Schranken.

明らかに、これらの論争全体は、G. F. Knappの素晴らしい著書: "Staatliche Theorie des Geldes" (1st ed. 1905, 2nd ed. 1918 [3rd ed. 1921, 4th ed. 1923]) の議論であり、この枠組みの中で、しかも微妙な点は完全に脇において、その非常に要約された中でのみ行われていることが認められます。彼の意図に反して、しかしおそらく彼の落ち度が全くなかったわけではなく、この作品はすぐに価値判断に利用され、もちろん、特にオーストリアの「紙芝居的」リトミック行政によって、嵐のような歓迎を受けたのである。しかし、この事件は、クナップの理論が「間違っている」ことを証明したのではなく、「しかし、物質的なお金の面では不完全である」という、すでに分かっていたことを明らかにしたのである。これについては、以下で詳しく説明します。

 貨幣の国家理論に関する付論

クナップは、近年のあらゆる「リトリック」(支払い手段)政策が、直接的に国家が規制するもの、国家が規制するものの、金通貨またはそれにできるだけ近い間接的クリソドロミック通貨への移行を達成しようとする「エキソドロミック」なものであり、自国通貨の外国通貨、とりわけ英国通貨に対する為替レートを考慮して決定されていたことをうまく証明している。最大の貿易地域であり、世界貿易で最も普遍的な決済仲介機関である金貨の国イギリスとの「貨幣平価」のため、まずドイツが銀貨を廃止し、次にフランス、スイスなどの「貨幣同盟」諸国、同様にオランダ、最後にインドが廃止した。オーストリアやロシアも同様で、これらの通貨圏の「抒情」行政は、可能であればいつでも金で対外支払いができるように、「自生」(換金不可、つまり通貨そのものとして機能する)紙幣による間接的なクリソドロームの取り決めを行った。彼らにとっては、(できれば)固定されたインターバル・レートだけが重要なのだ。だからこそ、ナップは、通貨やヒュロドロミー全般の問題には、このような意味しかないと考えているのである。しかし、この「エキソドロミック」な目的は、直接的なヒロドロミック対策(オーストリアとロシアを参照!)と同様に、(紙幣行政の)間接的なクリソドロミック対策によっても果たされたと、彼は結論付けている。しかし、これは決して文字通りの意味で正しいことではありません。等距離秩序の通貨圏同士(両クリソまたは両アルグロドロン)において、コインの輸出が相互に禁止されていない限り、この等距離秩序の事実が為替レートの固定をかなり容易にすることは間違いないだろう。しかし、それが真実である限りにおいて-そして、それは実際、通常の条件下ではほとんど真実であるのだが-、貨幣の「hyle」(実体)の選択において、したがって今日とりわけ、一方では金属貨幣(今日とりわけ、金または銀貨)、他方では想定貨幣(ここでは、先に論じたバイメタル主義およびブロック貨幣の特殊性はひとまず置いておこう)を選ぶ際に、この視点のみが考慮され得ることをまだ証明していないのである。

Gewiß: wenn sich die lytrische Verwaltung ausschließlich exodromisch, am Ziel des (möglichst) festen Kurses orientierte, dann hatte sie gerade bei der Schaffung notalen Geldes wenn auch keine »technischen«, so doch normativ fest gegebene Schranken: das würde Knapp wohl einwenden. Und darin hätte er formal – aber eben nur formal – recht. Wie stand es mit »autogenischem« Papiergeld? Auch da, würde Knapp sagen, die gleiche Lage (siehe Oesterreich und Rußland): »Nur« die technisch-»mechanischen« Schranken der Metallknappheit fehlten. War das bedeutungslos? Knapp ignoriert die Frage. Er würde wohl sagen, daß »gegen den Tod« (einer Währung) »kein Kraut gewachsen ist«. Nun aber gab und gibt es (denn wir wollen von der momentanen absoluten Papierherstellungsobstruktion hier einmal absehen) unstreitig sowohl 1. eigene Interessen der Leiter der politischen Verwaltung – die auch Knapp als Inhaber oder Auftraggeber der »lytrischen« Verwaltung voraussetzt –, wie 2. auch private Interessen, welche beide keineswegs primär an der Erhaltung des »festen Kurses« interessiert, oft sogar – pro tempore wenigstens – geradezu dagegen interessiert sind. Auch sie können – im eigenen Schoß der politisch-lytrischen Verwaltung oder durch einen starken Druck von Interessenten auf sie – wirksam auf den Plan treten und »Inflationen« – das würde für Knapp (der den Ausdruck streng vermeidet) nur heißen dürfen: anders als »exodromisch« (am intervalutarischen Kurs) orientierte und darnach »zulässige« notale Emissionen – vornehmen.

 Zunächst finanzielle Versuchungen: eine durchschnittliche »Entwertung« der deutschen Mark durch Inflation auf 1/20 im Verhältnis zu den wichtigsten naturalen Inlandsvermögensstücken würde, wenn erst einmal die »Anpassung« der Gewinne und Löhne an diese Preisbedingungen hergestellt, also alle Inlandskonsumgüter und alle Arbeit 20 mal so hoch bewertet würden (nehmen wir hier an!), für alle diejenigen, die in dieser glücklichen Lage wären, ja eine Abbürdung der Kriegsschulden in Höhe von 19/20 sein. Der Staat aber, der nun von den gestiegenen (Nominal-) Einkommen entsprechend gestiegene (Nominal-)Steuern erhöbe, würde wenigstens eine recht starke Rückwirkung davon spüren. Wäre dies nicht verlockend? Daß »jemand« die »Kosten« zahlen würde, ist klar. Aber nicht: der Staat oder jene beiden Kategorien. Und wie verlockend wäre es gar, eine alte Außenschuld den Ausländern in einem Zahlungsmittel, das man beliebig höchst billig fabriziert, zahlen zu können! Bedenken stehen – außer wegen möglicher politischer Interventionen – bei einer reinen Außenanleihe freilich wegen Gefährdung künftiger Kredite im Wege, – aber das Hemd ist ja doch recht oft dem Staat näher als der Rock. Und nun gibt es Interessenten unter den Unternehmern, denen eine Preissteigerung ihrer Verkaufsprodukte durch Inflation auf das Zwanzigfache nur recht wäre, falls dabei – was sehr leicht möglich ist – die Arbeiter, aus Machtlosigkeit oder weil sie die Lage nicht übersehen oder warum immer, »nur« 5- oder »nur« 10 »mal so hohe« (Nominal-) Löhne erhalten. Derartige rein finanzmäßig bedingte, akute »Inflationen« pflegen von den Wirtschaftspolitikern stark perhorresziert zu werden. In der Tat: mit exodromischer Politik Knappscher Art sind sie nicht vereinbar. Während im Gegensatz dazu eine planmäßige ganz allmähliche Vermehrung der Umlaufsmittel, wie sie unter Umständen die Kreditbanken durch Erleichterung des Kredits vornehmen, gern angesehen wird als im Interesse vermehrter »Anregung« des spekulativen Geistes – der erhofften Profitchancen, heißt das –, damit der Unternehmungslust und also der kapitalistischen Güterbeschaffung durch Anreiz zur »Dividenden-Kapitalanlage« statt der »Rentenanlage« von freien Geldmitteln. Wie steht es aber bei ihr mit der exodromischen Orientiertheit?

確かに,もしリート行政が排他的で,(できれば)固定為替レートという目標を指向していたならば,特に想定貨幣の作成において,「技術的」ではないにしても,少なくとも規範的に固定された限界を持っていたことになる。そして、この点では、彼は形式的に-しかしあくまでも形式的に-正しいのであろう。自生する」紙幣は?そこでも、クナップは同じ状況(オーストリアとロシアを参照)だと言うだろう。金属不足という技術的、「機械的」な障壁が「だけ」欠けていたのだ。それは意味がなかったのでしょうか?Knappはその質問を無視する。彼はおそらく、「(通貨の)死に対して」「どんな雑草も育たない」と言うだろう。しかし、昔も今も(ここでは一瞬の絶対的な紙生産障害は無視しよう)、1.政治行政の長-ナップも「歌詞」行政のオーナーあるいはクライアントと仮定している-自身の利益、2.また私的な利益の両方があることは疑いようがない。どちらも「固定為替レート」の維持にはまったく主目的を持っておらず、しばしば-少なくとも一時的に-真っ向から反対さえしていた。彼らもまた、政治的・叙情的な行政の懐の中で、あるいは利害関係者からの強い圧力によって、効果的に現場に足を踏み入れ、「インフレーション」-この用語を厳密に避けているクナップにとっては、「エキソドロミック」(間隔的速度で)とは異なる方向を向き、それによれば「許される」表記問題-を遂行することができるのである。

 まず第一に、財政的な誘惑である。インフレによるドイツマルクの平均的な「切り下げ」 は、最も重要な国内天然資産との関係で 1/20 となり、いったん利益と賃金のこの価格条件 への「調整」が確立されると、すなわちすべての国内消費財とすべての労働力は 20 倍の価 値となり(ここではそう仮定しよう!)、この幸運な立場にあるすべての人々にとっては、 実に 19/20 という額の戦争負債の借入れとなるのだ。しかし、国家は、増加した(名目)所得から相応に高い(名目)税金を徴収することになり、少なくともこのことからかなり強い反作用を感じることになる。これは魅力的でしょう?その「コスト」を「誰か」が負担することは明らかです。しかし、そうではありません:国家やその2つのカテゴリー。そして、外国人に対する古い対外債務を、できるだけ低コストで製造できる支払い手段で支払えるようになったら、どんなに魅力的だろうか。政治的な介入の可能性は別として、純粋な外部融資は将来の融資に対するリスクがあるため、もちろん抵抗はあるが、シャツはスカートよりも国家に近いことが多い。そして今、企業家の中には、販売製品の価格がインフレで20倍になったことを喜ぶだけの利害関係者がいる。もしその過程で-非常に簡単に可能だが-労働者が、無力感からか、状況を見過ごせないからか、理由はどうあれ、「たった」5倍か10倍の(名目)賃金を受け取るのであれば。このような純粋な金融誘導による急性の「インフレ」は、経済政策担当者から強く嫌われる傾向がある。実際、希少性タイプの外延的な政策とは相容れない。それとは反対に、循環手段の計画的で非常に緩やかな増加は、信用銀行が信用を促進することによって行う可能性があるが、投機精神、すなわち、期待される利益のチャンス、したがって起業家精神、したがって自由貨幣資源の「年金投資」ではなく「配当資本投資」への動機づけによる資本家の商品調達の「刺激」の増加に役立つと喜んでみなされているのだ。しかし、そのエクソドロミック方向はどうでしょうか?

Ihre eigene Wirkung aber: jene »Anregung der Unternehmungslust« mit ihren Folgen vermag die sogenannte »Zahlungsbilanz« (»pantopolisch«) im Sinn der Steigerung oder doch der Hinderung der Senkung des Kurses der eigenen Währung zu beeinflussen. Wie oft? wie stark? ist eine andere Frage Ob eine finanzmäßig bedingte, nicht akute Steigerung des Währungsgeldes ähnlich wirken kann, sei hier nicht erörtert. Die »Lasten« dieser exodromisch unschädlichen Anreicherungen des Währungsgeldvorrats zahlt in langsamem Tempo die gleiche Schicht, welche im Fall der akuten Finanzinflation material »konfiskatorisch« betroffen wird: alle diejenigen, die ein nominal gleich gebliebenes Einkommen oder ein Nominal-Wertpapiervermögen haben (vor allem: der feste Rentner, dann: der »fest« – d.h. nur durch langes Lamentieren erhöhbar besoldete Beamte, aber auch: der »fest« – d.h. nur durch schweren Kampf beweglich – entlohnte Arbeiter). – Man wird also Knapp jedenfalls nicht dahin verstehen dürfen, daß für die Papierwährungspolitik immer nur der exodromische Gesichtspunkt: »fester Kurs« maßgebend sein könne (das behauptet er nicht), und nicht für wahrscheinlich halten, daß – wie er glaubt – eine große Chance sei, daß nur er es sein werde. Daß er es bei einer völlig in seinem Sinn rational, d.h. aber (ohne daß er dies ausspricht): im Sinn der möglichsten Ausschaltung von »Störungen« der Preisrelationen durch Geld schaffungsvorgänge, orientierten lytrischen Politik sein würde, ist nicht zu leugnen. Keineswegs aber wäre zuzugestehen – Knapp sagt auch das nicht –, daß die praktische Wichtigkeit der Art der Währungspolitik sich auf den »festen Kurs« beschränke. Wir haben hier von »Inflation« als einer Quelle von Preisrevolutionen oder Preisevolutionen geredet, auch davon: daß sie durch das Streben nach solchen bedingt sein kann. Preis revolutionäre (notale) Inflationen pflegen natürlich auch den festen Kurs zu erschüttern (preisevolutionäre Geldvermehrungen, sahen wir, nicht notwendig). Knapp wird das zugeben. Er nimmt offenbar, und mit Recht, an, daß in seiner Theorie kein Platz für eine valutarisch bestimmte Warenpreispolitik sei (revolutionäre, evolutionäre oder konservative). Warum nicht? Vermutlich aus folgendem formalen Grund: Das Valutapreisverhältnis zwischen zwei oder mehreren Ländern äußert sich täglich in einer sehr kleinen Zahl (formal) eindeutiger und einheitlicher Börsenpreise, an denen man eine »lytrische Politik«rational orientieren kann. Es läßt sich ferner auch für eine »lytrische«, insbesondere eine Umlaufsmittelverwaltung schätzen, – aber nur (an der Hand vorhandener, durch periodischen Begehr darnach sich äußernder, Tatbestände) schätzen: – welche Schwankungen eines gegebenen Zahlungsmittelvorrats (zu reinen Zahlungszwecken), für eine bestimmte verkehrswirtschaftlich verbundene Menschengruppe in absehbarer Zukunft, bei annähernd gleichbleibenden Verhältnissen, »erforderlich« sein werden. Hingegen, welches Maß von preisrevolutionären oder preisevolutionären oder (umgekehrt) preiskonservativen Wirkungen eine Inflation oder (umgekehrt) eine Einziehung von Geld in einer gegebenen Zukunft haben werde, läßt sich nicht im gleichen Sinn berechnen. Dazu müßte man bei Erwägung einer Inflation (die wir hier allein in Betracht ziehen wollen) kennen: 1. die gegenwärtige Einkommensverteilung, – daran anschließend 2. die gegenwärtig darauf aufgebauten Erwägungen der einzelnen Wirtschaftenden, – 3. die »Wege« der Inflation, d.h.: den primären und weiteren Verbleib der Neuemissionen. Dies wiederum hieße aber: die Reihenfolge und das Maß der Erhöhung von Nominaleinkommen durch die Inflation.

しかし、「起業家精神の刺激」は、その結果として、自国通貨の為替レートを上昇させる、あるいは少なくとも低下を防ぐという意味で、いわゆる「国際収支」(「パントポリー」)に影響を与えることができるのだ。金融条件付の非急性通貨増発が同様の効果を持つかどうかは、ここでは論じない。これらの外見上無害な貨幣ストックの増加の「負担」は、急性の金融インフレの場合に物質的に「没収」されるのと同じ層、すなわち名目上一定の収入または名目上の証券資産を持つすべての人々(とりわけ:固定年金生活者、次に:「固定」-すなわち長い間の嘆きによってのみ増加可能な給与公務員、さらに:「固定」-すなわち厳しい闘争によってのみ移動可能な-給与労働者)によりゆっくりとしたペースで支払われています。- いずれにせよ、ナップは、エキソドロミックな視点:「固定為替レート」だけが常に紙幣政策に決定的な影響を与えることができる(彼はこれを主張していない)という意味にとらえてはならないし、--彼が考えているように--そうなる可能性が大きいと考えてはならない。彼の意味で完全に合理的な、つまり(彼がそう言わなくても)貨幣創造プロセスによる価格関係の「乱れ」を可能な限り排除するという意味で志向されたリトリックス政策の場合にそうなることは否定されない。しかし、決して、金融政策のタイプの実際的な重要性が「固定為替レート」に限定されることは認めない-Knappもこのことは言っていない-だろう。ここでは、価格革命や物価革命の原因として「インフレ」があること、また、それを追求することによってインフレが引き起こされることがあることをお話ししました。価格革命的な(表記上の)インフレも当然、固定為替相場を揺るがす傾向がある(価格革命的な貨幣の増加は、必要ないと見ている)。クナップはこれを認めるだろう。彼は、価値決定型の商品価格政策(革命的、進化的、保守的)のための場所は、彼の理論にはないと仮定しているようで、それは正しい。なぜダメなのか?おそらく次のような形式的な理由があるのだろう。2カ国以上の国の間の為替価格関係は、ごく少数の(形式的に)あいまいで均一な為替価格で毎日表現され、それに対して「溶解政策」を合理的に方向付けることができるのだ。さらに、「溶解性」、特に循環手段行政についても、-ただし、(それに対する定期的な需要を通じて表現される既存の事実に基づいて)-交通経済の観点から結びついたある集団にとって、(純粋な支払い目的の)所定の支払手段のストックのどの変動が、ほぼ一定の条件を与えられた場合に予見できる将来に「必要」であるかが推定可能である。一方、インフレや(逆に)貨幣の引き揚げが、ある将来にどの程度の価格革命的、価格進化的、(逆に)価格保守的な効果をもたらすかは、同じ意味では計算できない。そのためには,(ここで考えたいのはあくまで)インフレを考える場合,1.現在の所得分布,-次に2.それに基づく個々の経済主体の現在の考察,-3.インフレの「経路」,すなわち,新しい問題の主要な,さらに先の行方を知る必要がある.しかし、これはひいては、インフレによる名目所得の増加の順序と尺度を意味することになる。


Dann 4. die Art der Verwendung (Verzehr, Vermögensanlage, Kapitalanlage) der dadurch wiederum verursachten Güternachfrage nach Maß und vor allem: Art (Genußgüter oder Beschaffungsmittel in allen ihren Arten). Endlich 5. die Richtung, in welcher dadurch die Preisverschiebung und durch diese wiederum die Einkommensverschiebung fortschreitet, – und die zahllosen nun weiter anschließenden Erscheinungen von »Kaufkraft«-Verschiebung, auch das Maß der (möglichen) »Anregung« der naturalen Güter mehr beschaffung. Alles das wären Dinge, die ganz und gar durch künftige Erwägungen einzelner Wirtschaftender gegenüber der neu geschaffenen Lage bestimmt wären und ihrerseits wieder auf Preisschätzungen von anderen solchen Einzelnen zurückwirken würden: diese erst würden dann im Interessenkampf die künftigen »Preise« ergeben. Hier kann in der Tat von »Berechnung«: (etwa: 1 Milliarde Mehr-Emission voraussichtlich gleich Eisenpreis von + x, Getreidepreis von + y usw.) gar keine Rede sein. Um so weniger, als zwar temporär für reine Binnenprodukte wirksame Preisregulierungen möglich sind, aber nur als Höchst-, nicht als Mindestpreise und mit bestimmt begrenzter Wirkung. – Mit der (empirisch unmöglichen) Berechnung der »Preise« an sich wäre überdies noch nichts gewonnen. Denn sie würde allenfalls die als reines Zahlungsmittel erforderte Geldmenge bestimmen. Aber daneben und weit darüber hinaus würde Geld als Mittel der Kapitalgüterbeschaffung, in Kreditformen, neu und anderweit beansprucht werden. Hier würde es sich aber um mögliche Folgen der beabsichtigten Inflation handeln, die sich jeglicher näheren »Berechnung« überhaupt entzögen. Es ist also, alles in allem (denn nur dies sollten diese höchst groben Ausführungen illustrieren) verständlich, daß Knapp für moderne Verkehrswirtschaften die Möglichkeit einer planvollen, rationalen, auf einer der »Devisenpolitik« an Rechenhaftigkeit irgendwie ähnlichen Grundlage ruhenden Preispolitik durch Inflation ganz außer Betracht ließ. Aber sie ist historische Realität. Inflation und Kontra-Inflation sind – in recht plumper Form freilich – in China unter wesentlich primitiveren Verhältnissen der Geldwirtschaft wiederholt, aber mit erheblichen Mißerfolgen, in der Kupferwährung versucht worden. Und sie ist in Amerika empfohlen worden. Knapp begnügt sich aber in seinem offenbar nur mit, in seinem Sinn, »beweisbaren« Annahmen operierenden Buch mit dem Rat: der Staat solle »vorsichtig« bei der Emission autogenen Papiergelds sein. Und da er sich ganz und gar am »festen Kurs« orientiert, scheint dies auch leidlich eindeutig: Inflationsentwertung und intervalutarische Entwertung hängen meist sehr eng zusammen. Nur sind sie nicht identisch und ist vor allem nicht etwa jede Inflationsentwertung primär intervalutarisch bedingt. Daß tatsächlich preispolitisch orientierte inflationistische lytrische Verwaltung gefordert worden ist, und zwar nicht nur von den Silberbergwerksbesitzern bei der Silberkampagne, von den Farmern für Greenbacks, gibt Knapp nicht ausdrücklich zu, bestreitet es aber auch nicht. Sie ist – das beruhigte ihn wohl – jedenfalls nie dauernd geglückt. – Aber so einfach liegen die Dinge vielleicht doch nicht. Einerlei ob als Preismaßregel beabsichtigt, haben Inflationen (im obigen Sinn) jedenfalls oft tatsächlich stattgefunden, und Assignatenkatastrophen sind in Ostasien wie in Europa nicht unbekannt geblieben. Damit muß sich die materiale Geldtheorie doch befassen. Daß gar kein Unterschied zwischen der »Entwertung« des Silbers und der »Entwertung« von Assignaten stattfinde, wird gerade Knapp nicht behaupten. Schon formal nicht: entwertet ist das nicht in Münzform gebrachte, sondern umgekehrt das für industrielle Zwecke angebotene, rohe, Silber, nicht notwendig die (gesperrte) chartale Silber münze (oft im Gegenteil!). Entwertet wird dagegen nicht das für industrielle Zwecke angebotene rohe »Papier«, sondern (natürlich) gerade die chartale Assignate. Endgültig, auf Null oder den »Sammler«- und »Museums«-Wert, allerdings (wie Knapp mit Recht sagen würde) erst: wenn sie von den Staatskassen repudiiert wird: also sei auch dies immerhin »staatlich«, durch regiminale Verfügung, bedingt. Das trifft zu. Aber auf winzige Prozente ihrer einstigen materialen Geltung (ihrer Preisrelation zu beliebigen Gütern) trotz nominaler »epizentrischer« Weitergeltung oft schon lange vorher.

次に、4.メジャーと上記のすべてによると、順番にこれによって引き起こされる財の需要の使用(消費、投資、設備投資)の種類:種類(喜び財またはそのすべての種類での調達の手段)。最後に、物価の変動が進む方向、それを通じて所得の変動が進む方向、-そして、今続いている無数の「購買力」変動の現象も、商品の自然調達の(可能な)「刺激」の尺度である。これらはすべて、個々の経済主体が新しく作り出した状況に対して将来考えることによって決定されるものであり、その結果、他のそうした個人の価格推定に影響を与えることになり、それだけが利害関係の争いにおける将来の「価格」となる。ここで、「計算」の問題はありえない。(例えば、10億個の排出量が増えると、鉄の価格が+x、穀物の価格が+yになる、などということはありえない)。なぜなら、純国産品には一時的に有効な価格規制が可能だが、それは最低価格ではなく最高価格であり、その効果は確実に限定的だからだ。- また、(経験的に不可能な)「価格」そのものを計算しても、何も得るものはない。なぜなら、純粋な支払い手段として必要な通貨供給量を決定するのがせいぜいだからです。しかし、それだけではなく、それをはるかに超えて、貨幣は資本財を調達する手段として、信用の形で、新しい、さまざまな方法で使われるようになるであろう。しかし、ここでは、意図したインフレがもたらす可能性の問題であり、より緊密な「計算」を超えるものであろう。したがって、クナップが、計算可能性という点で「外国為替政策」に類似した根拠に基づき、現代の交通経済におけるインフレによる計画的で合理的な物価政策の可能性を完全に無視したことは、あらゆることを考慮しても理解できる(このことだけが、非常に荒っぽい説明の目的であったから)。しかし、それは歴史的な現実なのです。インフレとカウンター・インフレは、中国において、貨幣経済のはるかに原始的な条件のもとで、かなり不器用な形で、銅貨で繰り返し試みられたが、かなりの失敗をした。そして、アメリカでも推奨されています。しかし、ナップは、自国通貨を発行する際には「注意深く」あるべきだというアドバイスにとどめている。そして、彼は完全に「固定為替レート」を指向しているので、これもまた合理的に明らかなように、インフレ的切り下げとインターバル的切り下げは通常、非常に密接な関係にあるのです。しかし、両者は同一ではないし、なによりも、すべてのインフレ切り下げがインターバル主義を主体としているわけでもない。ナップは,銀キャンペーンにおける銀山所有者だけでなく,グリーンバックのための農民からも,価格志向のインフレ抑制行政が実際に要求されてきたことを,明確には認めないが,否定はしない。いずれにせよ、永久に成功することはなかった--それで彼は安心したのだろう。- しかし、物事はそんなに単純ではないのでしょう。物価の指標として意図されたかどうかは別として、いずれにしても(上記の意味での)インフレはしばしば起こり、ヨーロッパだけでなく東アジアでもアサーション・カタストロフィーは知られていないわけではない。貨幣の物質論は、これに対処しなければならない。クナップは、銀の「切り下げ」とアサニアの「切り下げ」に違いがないとは主張しない。形式的でもない:切り下げられたのはコインにされない銀で、逆に工業用に提供される生銀であり、必ずしも(ブロック化された)シャルタル銀貨とは限らない(逆の場合も多い!)。一方、切り下げられるのは工業用に提供される生の「紙」ではなく、(もちろん)まさにシャルタル・アサイヤ人である。最後に、ゼロにするか、「収集家」や「博物館」の価値にするかだが、(クナップが正しく言うように)国家の財源によって返済されたときだけだ:だからこれも、政府の命令によって条件付けられた「国家」である。その通りです。しかし、名目上の「叙事詩的」な有効性がずっと前から続いていたにもかかわらず、かつての物質的な有効性(あらゆる商品との価格関係)のごく一部に過ぎないのである。

  Aber von diesen Katastrophen ganz abgesehen, gab es sonst der Inflationen und andererseits (in China) der »Währungsklemmen« durch außermonetäre Verwertung des Währungsmetalls genug in der Geschichte. Und da nehmen wir nicht nur davon Notiz: daß dann unter Umständen (gar nicht immer) eben gewisse Geldarten »akzessorisch« werden, die es nicht waren, sich in den Staatskassen »stauen« und »obstruktionale« Währungsänderungen erzwingen. Sondern die materiale Geldlehre müßte natürlich auch die Frage nach der Art der Beeinflussung der Preise und Einkommen und dadurch der Wirtschaft in solchen Fällen wenigstens stellen, zweifelhaft aus den früher erwähnten Gründen vielleicht –: wieweit sie theoretisch zu beantworten wäre. Und ebenso wollen wir, wenn infolge Sinkens des Gold- oder Silberpreises (im anderen Metall ausgedrückt) im formal bimetallistischen Frankreich material bald Gold allein, bald Silber allein effektiv valutarisches Geld, das andere Metall »akzessorisch« wird, nicht nur darauf verweisen, daß jene Preisverschiebungen eben »pantopolisch« bedingt seien. Ebenso nicht in sonstigen Fällen von Geldstoffänderungen. Sondern wir wollen auch fragen: Liegt in Fällen der Vermehrung eines Edelmetalls Beutegewinn (Cortez, Pizarro) oder Anreicherung durch Handel (China im Anfang unserer Aera und seit 16. Jahrhundert) oder Mehrproduktion vor? Wenn letzteres, hat sich die Produktion nur vermehrt oder auch (oder nur) verbilligt und warum? Welche Verschiebungen in der Art der nicht monetären Verwendung haben etwa mitgewirkt? Ist etwa ein für dies Wirtschaftsgebiet (z.B. das antik mittelländische) definitiver Export in ein ganz fremdes (China, Indien) eingetreten (wie in den ersten Jahrhunderten nach Chr.)? Oder liegen die Gründe nur (oder auch) auf seiten einer »pantopolisch« bedingten Verschiebung der monetären Nachfrage (Art des Kleinverkehrsbedarfs)? Mindestens diese und andere verschiedene Möglichkeiten müssen in der Art, wie sie zu wirken pflegen, erörtert werden.


  しかし、このような大惨事とは別に、歴史上、十分なインフレと、他方では(中国では)通貨金属の超金融利用による「通貨危機」が起こっているのである。そして、ある状況下(常にではない)で、そうでなかったある種の貨幣が「付属品」となり、国家財政に「蓄積」され、「妨害的」な通貨変更を強いられることに留意するのみではない。しかし、貨幣の唯物論は、もちろん、そのような場合に物価や所得、ひいては経済にどのような影響を与えるかという問題を少なくとも提起しなければならない。そして同様に、金や銀(もう一方の金属で表現)の価格が下落した結果、形式的にはバイメタルなフランス素材において、すぐに金だけが、すぐに銀だけが、事実上の価値貨幣となり、もう一方の金属は「アクセサリー」となった場合、これらの価格変動は単なる「パントポリー」条件付きであるという事実に言及したいだけではあるまい。また、他の貨幣状物質の変化の場合も同様です。貴金属が増えた場合、それは戦利品の獲得(コルテス、ピサロ)なのか、貿易による富裕化(我々の時代の初めや16世紀以降の中国)なのか、それとも生産量の増加なのか、ということも問いたい。後者の場合、生産量は増えただけなのか、それとも安くなったのか、その理由は?非金銭的な使用の性質にどのような変化があったのでしょうか?この経済圏(例えば古代の中王国)から完全に外国(中国、インド)へ(キリスト後の最初の数世紀のように)決定的な輸出が行われたのだろうか。それとも、金銭需要(小口輸送ニーズの性質)の「パントポリティカル」な変化の側だけに(あるいは同時に)理由があるのだろうか。少なくとも、これらをはじめとするさまざまな可能性を、その傾向に合わせて議論する必要があります。

 Schließlich noch ein Blick auf die verkehrs wirtschaftliche Regulierung des »Bedarfs« an »Geld« und das, was dieser Begriff in ihr bedeutet. Das ist klar: Aktueller Zahlungsmittel-»Bedarf« von Markt-Interessenten bestimmt die Schaffung »freien Verkehrsgelds« (»freie Prägung«). Und: aktueller Zahlungsmittel- und vor allem Kreditbedarf von Markt-Interessenten in Verbindung mit Beachtung der eigenen Solvenz und der zu diesem Zweck oktroyierten Normen sind es, welche die Umlaufsmittel-Politik der modernen Noten banken bestimmen. Immer also herrscht heute primär Interessentenbetrieb, – dem allgemeinen Typus unserer Wirtschaftsordnung entsprechend. Nur das kann also in unserer (formal legalen) Wirtschaftsordnung »Geldbedarf« überhaupt heißen. Gegen »materiale« Anforderungen verhält sich auch dieser Begriff – wie der der »Nachfrage« (des »kaufkräftigen Bedarfs«) nach »Gütern«– also ganz indifferent. In der Verkehrswirtschaft gibt es eine zwingende Schranke der Geldschaffung nur für Edelmetallgeld. Die Existenz dieser Schranke aber bedingt eben, nach dem Gesagten, gerade die Bedeutung der Edelmetalle für das Geldwesen. Bei Beschränkung auf »hylisches« Geld aus einem (praktisch) nicht »beliebig« vermehrbaren Stoff, insbesondere aus Edelmetall, und daneben: auf gedeckte Umlaufsmittel ist jeder Geldschaffung eine – gewiß: elastische, evolutionäre Bankinflation nicht gänzlich ausschließende, aber: immerhin innerlich recht feste – Grenze gesetzt. Bei Geldschaffung aus einem im Vergleich dazu (praktisch) »beliebig« vermehrbaren Stoff, wie: Papier, gibt es eine solche mechanische Grenze nicht. Hier ist dann wirklich der »freie Entschluß« einer politischen Verbandsleitung, das heißt aber: es sind dann, wie angedeutet, deren Auffassungen von den Finanz-Interessen des Herrn, unter Umständen [sind] sogar (Gebrauch der Notenpresse durch die roten Horden!) ganz persönliche Interessen ihres Verwaltungsstabes die von jenen mechanischen Hemmungen gelösten Regulatoren der Geldquantität. In der Ausschaltung, richtiger: da der Staat ja von ihnen zur Aufgabe der Metall- und zum Uebergang zur Papierwährung gedrängt werden kann, – in einer gewissen Hemmung dieser Interessen also besteht heute noch die Bedeutung der Metallwährungen: der Chryso- und Argyrodromie, welche – trotz des höchst mechanischen Charakters dieses Sachverhalts – immerhin ein höheres Maß formaler, weil nur an reinen Tauschchancen orientierter, verkehrswirtschaftlicher Rationalität bedeuten. Denn die finanzmäßig bedingte lytrische Politik von Geldverwaltungen bei reiner Papierwährung ist zwar, wie oben zugegeben: – Oesterreich und Rußland haben es bewiesen – nicht notwendig rein an persönlichen Interessen des Herrn oder Verwaltungsstabs oder an rein aktuellen Finanzinteressen und also an der möglichst kostenlosen Schaffung von soviel Zahlungsmitteln wie möglich, einerlei was aus der »Gattung« als Tausch mittel wird, orientiert. Aber die Chance, daß diese Orientierung eintritt, ist unbestreitbar chronisch vorhanden, während sie bei Hylodromie (»freiem Verkehrsgeld«) in diesem Sinn nicht besteht. Diese Chance ist das – vom Standpunkt der formalen Ordnung der Verkehrswirtschaft aus gesehen – (also ebenfalls formal) »Irrationale« der nicht »hylodromischen« Währungen, so sehr zuzugeben ist, daß sie selbst durch jene »mechanische« Bindung nur eine relative formale Rationalität besitzen. Dies Zugeständnis könnte – und sollte – G. F. Knapp machen.
  Denn so unsäglich plump die alten »Quantitätstheorien« waren, so sicher ist die »Entwertungsgefahr« bei jeder »Inflation« mit rein finanzmäßig orientierten Notalgeldemissionen, wie ja doch niemand, auch Knapp nicht, leugnet. Sein »Trost« dem gegenüber ist durchaus abzulehnen. Die »amphitropische« Stellung »aller« (!) Einzelnen aber, die bedeutet: – jeder sei ja sowohl Gläubiger wie Schuldner –, die Knapp allen Ernstes zum Nachweis der absoluten Indifferenz jeder »Entwertung« vorführt, ist, wir alle erleben es jetzt: Phantom. Wo ist sie nicht nur beim Rentner, sondern auch beim Festbesoldeten, dessen Einnahmen nominal gleichbleiben (oder in ihrer Erhöhung auf vielleicht das Doppelte von der finanziellen Konstellation und: von der Laune der Verwaltungen abhängen), dessen Ausgaben aber nominal sich vielleicht (wie jetzt) verzwanzigfachen? Wo bei jedem langfristigen Gläubiger? Derartige starke Umgestaltungen der (materialen) Geltung des Geldes bedeuten heute: chronische Tendenz zur sozialen Revolution, mögen auch viele Unternehmer intervalutarische Gewinne zu machen in der Lage sein und manche (wenige!) Arbeiter die Macht haben, sich nominale Mehrlöhne zu sichern. Diesen sozialrevolutionären Effekt und damit die ungeheure Störung der Verkehrswirtschaft mag man je nach dem Standpunkt nun für sehr »erfreulich« halten. Das ist »wissenschaftlich« unwiderlegbar. Denn es kann (mit Recht oder Unrecht) jemand davon die Evolution aus der »Verkehrswirtschaft« zum Sozialismus erwarten. Oder den Nachweis: daß nur die regulierte Wirtschaft mit Kleinbetrieben material rational sei, einerlei, wieviel »Opfer« auf der Strecke bleiben. Aber die demgegenüber neutrale Wissenschaft hat jenen Effekt zunächst jedenfalls so nüchtern als möglich zu konstatieren, – und das verhüllt die in ihrer Allgemeinheit ganz falsche »Amphitropie«-Behauptung Knapps. Neben Einzel-Irrtümern scheint mir in dem vorstehend Gesagten die wesentlichste Unvollständigkeit seiner Theorie zu liegen, – diejenige, welche ihr auch Gelehrte zu »prinzipiellen« Gegnern gemacht hat, welche dies durchaus nicht sein müßten.

§ 37. Abgesehen von der Geldverfassung liegt die Bedeutung der Tatsache, daß selbständige politische Verbände existieren, für die Wirtschaft, primär in folgenden Umständen:
 
 最後に、循環経済における「貨幣」の「必要性」の規制と、その中でこの言葉が意味するものについて見てみよう。これは明らかなことで、市場利害関係者の現在の支払い手段の「必要性」が、「自由な流通貨幣」(「自由貨幣」)の創出を決定している。そして、現代の発行銀行の流通貨幣政策を決定するのは、支払い手段に対する現在の需要と、とりわけ市場における利害関係者の信用ニーズであり、自らの支払能力の遵守とこの目的のために課された基準との関連である。したがって、今日では、常に利害関係者のビジネスが優先されるのである。これは、我々の(形式的に合法な)経済システムにおいて、「貨幣需要」と呼べる唯一のものである。物質的」な要求に対しては、この概念は、「モノ」に対する「需要」(購買力のある必要性)と同様に、極めて無頓着に振る舞う。輸送経済では、貴金属貨幣に限り、貨幣の創造に強制的な制限がある。しかし、この限界の存在こそが、通貨制度における貴金属の重要性を決定しているのである。お金が(実質的に) "任意 "増殖可能な材料、特に貴金属から作成され、これに加えて:循環のカバー手段から、お金のすべての作成が対象となります - 確かに:弾性、進化銀行インフレを完全に排除しないが、:少なくとも内部かなり固定 - 限界。紙のように(実質的に)「自由に」増殖できる材料から貨幣を作る場合、そのような機械的な限界があるのである。紙には、そのような機械的な制限はありません。ここでは、本当に政治的指導者の "自由な意思決定 "ですが、それは意味:それはその後、示されているように、マスターの金融利益の彼らの概念は、特定の状況下で[である]も(赤い大群による紙幣のプレスの使用!)、それらの機械的阻害から切り離され、お金の量を調節する彼らの管理スタッフの非常に個人的な興味です。金属通貨を捨て、紙幣に切り替えるよう国家に働きかけることができるため、これらの利害をある程度抑制することで、今日でも金属通貨の意義が存在している。クリソドロミーとアルギロドロミーは、この状態の非常に機械的な性格にもかかわらず、純粋な交換機会、交通経済合理性を志向しているだけに、より高度な形式を意味する。なぜなら、純粋な紙幣を持つ通貨管理機関の財政的条件付きの溶解政策は、上で認めたように:-オーストリアとロシアがそれを証明した-必ずしも、主人や管理スタッフの個人的利益や純粋に現在の財政的利益だけを指向するものではなく、したがって、交換手段としての「種」がどうなろうと、できるだけ自由に、できるだけ多くの支払い手段を作り出すことに指向するのである。しかし、このような方向性が生じる可能性は、紛れもなく慢性的に存在するのであって、ハイロドロミー(「自由流通貨幣」)の場合には、このような意味での可能性は存在しないのである。このチャンスは、交通経済の形式的秩序の観点から、非「ハイロドロミック」通貨の(したがって形式的にも)「非合理的」なものである。この譲歩は、G.F.クナップによってなされる可能性があり、またなされるべきものである。
  古い「数量理論」が言いようのない不器用なものであったのと同様に、純粋に金融志向の想定貨幣発行による「インフレ」のたびに「切り下げの危険」があることは、ナップでさえも誰も否定しないのだから。これに対する彼の「慰め」は拒否されるべきものである。しかし、「すべての」(!)個人の「両性具有」の立場、つまり、「誰もが債権者であり債務者である」ことを意味し、クナップは、あらゆる「切り下げ」の絶対的無関心を証明するものとして大真面目に提示するが、我々は今、それを経験している:ファントム(幻)である。年金生活者の場合だけでなく、収入が名目上変わらない(あるいは2倍に増えるかは財政状況や行政の気まぐれによる)が、支出が(現在のように)名目上20倍になるかもしれない固定給の人の場合も、どこにあるのだろう。長期債権者がいる場合は?今日、貨幣の(物質的)価値のこのような強い変容は、たとえ多くの企業家が間歇的な利益を上げ、一部の(少数の!)労働者が名目上の追加賃金を確保する力を持っていたとしても、社会革命への慢性的傾向を意味しています。この社会革命的な効果、それに伴う交通経済の途方もない混乱は、今では見方によっては非常に「喜ばしい」ことと言えるかもしれない。 これは「科学的に」反論の余地がない。なぜなら、誰かが(善かれ悪しかれ)、そこから「交通経済」から「社会主義」への進化を期待するかもしれないからだ。あるいは、いくら「被害者」が道連れになろうとも、中小企業による規制経済だけが物質的に合理的であることの証左である。しかし、この点では中立である科学は、まずこの効果をできるだけ冷静に述べなければならない。-そして、これには、一般性において全く誤ったクナップの「アンフィトロピー」主張が隠されているのである。個々の誤りは別として、彼の理論の最も本質的な不完全性は、上に述べたようなところにあるように思われる--そのために、「原則的」な反対者は、そうである必要がない学者までそうさせている。

§ 37. 貨幣憲法は別として、独立した政治結社が存在することの経済的意義は、主として次のような事情にあると思われる。



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クナップ 1906 講演

Die rechtshistorischen Grundlagen des Geldwesens クナップ 1906

Die rechtshistorischen Grundlagen des Geldwesens (1)
Von
G. f. Knapp.
Inhaltsverzeichnis. Die metallistische Theorie des Geldes kann nicht alle Geldverfassungen erklären, ist also nicht allgemein genug. Die staatliche Theorie hingegen erklärt sowohl die „normalen" wie die „anomalen", zum Beispiel die österreichische Währung. Denn die Werteinheit ist überall ein historisch nicht technisch definierter Begriff, den die Rechtsordnung schafft.

Das Geld ist noch immer das vorwiegende Zahlungsmittel in den Ländern unserer Kultur, aber keineswegs das einzige. Ganz überwunden ist bereits die Zahlung durch Zuwägen von Metall; sie ging dem Gebrauch des Geldes voraus und kann hier übergangen werden. Dagegen ist die Girozahlung in starker Ausbreitung begriffen und verdrängt in wachsendem Maße den Geldgebrauch; diese höhere Stufe des Zahlungsverkehrs soll aber ebenfalls hier nicht besprochen werden. Wir beschränken uns auf die Betrachtung des Geldes, also auf die mittlere der drei genannten Stufen, und fragen nach den rechtshistorischen Grundlagen dieser Einrichtung.
Unsere Staaten sind Zahlungsgemeinschaften und stellen Rechtsregeln auf, die den Gebrauch des Geldes zu Zahlungen ordnen. Freilich bleibt den Bürgern, richtiger den Bewohnern des Staates,

「貨幣制度の法制史的基盤」
G. f. Knapp.

目次 
貨幣の金属論は、すべての貨幣構成を説明することはできないので、一般性に欠ける。一方、国家論は、例えばオーストリアの通貨のように、「正常」と「異常」の両方を説明するものである。なぜなら、価値の単位はどこでも、歴史的に非技術的に定義された、法制度によって作られた概念だからである。

私たちの文化圏では、お金は今でも主要な支払い手段ですが、決して唯一の手段ではありません。金属の計量による支払いは、すでに完全に克服されている。それは貨幣の使用に先行しており、ここではパスすることができる。一方、ジロ決済は急速に普及し、貨幣の使用に取って代わりつつあるが、この上位の決済取引については、ここでも論じない。ここでは、貨幣の考察、すなわち前述の3段階のうち中間の段階に限定し、この制度の法的・歴史的基盤について問うことにする。
私たちの国家は決済共同体であり、決済のためのお金の使い方を規制する法的ルールを確立しています。もちろん、国民、より正確には国家の住人のために残っている。

1 Öffentlicher Vortrag, gehalten in Stuttgart am 18. April 1906, bei der IX. Versammlung deutscher Historiker. Die ausführliche Darstellung findet sich in dem Werke: G. F. Knapp, Staatliche Theorie des Geldes. Leipzig 1905, Duncker & Humblot.

noch eine gewisse Berechtigung, diese oder jene Geldstücke unter Umständen abzulehnen, aber es wäre ein großer Jrrtum, zu glauben, daß solche private Erwägungen an leßter Stelle den Geldgebrauch maßgebend in Ordnung halten. Nicht stillschweigende Übereinkunft, nicht Gewohnheitsrecht, sondern staatliche Gebote liegen unserer Geldverfassung zugrunde. Wer fich diesen Geboten widerseßt, der stößt auf die Gerichtsherrschaft des Staates und könnte erleben, daß der Staat ihn zwingt, nach den herrschenden Regeln zu zahlen oder sich regelrechte Zahlungen gefallen zu lassen.
Es ist beispielsweise eine Rechtsregel, daß wir im Deutschen Reich Goldstücke unbegrenzt in Zahlung nehmen müssen; daß wir Talerstücke unbegrenzt annehmen müssen, ist ebenfalls ein Saß des Gefeßes - Rechts, gerade so wie es eine Rechtsregel ist, daß wir die Silbermünzen mit Reichsprägung nur bis zum Betrage von 20 Mk. in Zahlung nehmen müssen.
Damit haben wir den Boden gefunden, auf dem sich unsere Betrachtungen aufbauen: Die Rechtsordnung des Geldwesens haben wir ins Auge zu fassen.
Die schwierigste Frage dieses Gebietes wollen wir vorläufig nur andeuten: Ist es eine Rechtsregel, daß unsere Goldmünzen, die bekanntlich Kronen und Doppelkronen heißen, 10 Mk. bezw. 20 Mk. gelten? Daß sie soviel gelten, ist klar; tun sie es aber auf Grund einer Rechtsregel oder tun sie es auf Grund ihres Goldgehaltes, also aus technischen Gründen? Hierüber müssen wir zu einer Entscheidung gelangen.
In jedem Staate werden die Zahlungen in Werteinheiten ausgedrückt, um die Größe derselben anzugeben. Bei uns hat die Werteinheit den Namen Mark; in Frankreich heißt sie Frank; in England Pfund Sterling; in Rußland Rubel. Eine Verpflichtung, zu zahlen, ist ihrer Größe nach bekannt, wenn sie in Deutschland ausgedrückt wird in Mark; in Frankreich, wenn sie ausgedrückt wird in Franken. Ferner hat jeder Staat Geldstücke; woraus die Stücke bestehen, ist zunächst gar nicht wichtig; bei uns gibt es Geldstücke aus Gold, aus Silber, aus Nickel, aus Kupfer, und zu diesen Münzen gesellen sich noch gewisse Scheine, wie die Banknoten und die Reichskassenscheine. Ganz unerläßlich aber ist es, daß wir wissen, wieviel Mark jene Stücke gelten. Diese Geltung wird von der Rechtsordnung festgeseßt. Sehr häufig ist die Geltung auf dem Stück angegeben. Auf unseren Goldstücken findet sich der Aufdruck 20 Mk. oder 10 Mk. Aber auf unseren Talerstücken steht es nicht, daß sie 3 Mk. gelten;

gleichwohl gelten fie 3 Mk., da dies in unseren Gefeßen steht. Augemein ausgedrückt heißt dies: Die Rechtsordnung gibt an, wieviel Werteinheiten jedes Geldstück gilt.
Soll nun eine Zahlung geleistet werden, so ist, praktisch betrachtet, nur folgendes zu fragen: 1. wieviel Werteinheiten sind zu leisten? und 2. wieviel Werteinheiten gelten die etwa zur Verfügung stehenden Stücke, soweit dieselben bei jener Zahlung zulässig sind ?


1 1906年4月18日、シュトゥットガルトで開催された第九回ドイツ歴史家集会での公開講演。詳細な説明は、G. F. Knapp, Staatliche Theorie des Geldesという著作にある。Leipzig 1905, Duncker & Humblot.

しかし、そのような私的な配慮が、貨幣の使用を秩序立てておくための決定的な要因であると考えるのは、大きな間違いである。通貨憲法の根底にあるのは、暗黙の了解でもなく、慣習法でもなく、国家の戒律なのだ。この戒律に反する者は、国家の管轄下に置かれ、国家によって、一般的なルールに従って支払いを強制されたり、定期的な支払いを我慢しなければならなくなる可能性があるのだ。
例えば、ドイツ帝国では、金貨の支払いは無制限に受け入れなければならないというのが法規則であり、ターラーコインの支払いは無制限に受け入れなければならないというのも法規則であり、帝国が鋳造した銀貨の支払いは20マルクまでしか受け入れなければならないというのも法規則であり、同様に法規則である。
これで、私たちの考察の土台ができたことになります。通貨制度の法秩序を考えなければならない。
当面は、この辺りの最も難しい問題をほじくり出すにとどめる。よく知られているように、クラウンやダブルクラウンと呼ばれる我が国の金貨は、それぞれ10マルク、20マルクの価値があると法律で決められているのでしょうか?しかし、それは法律で決められていることなのか、それとも金の含有量、つまり技術的な理由によるものなのだろうか?これについては、決断を下さなければなりません。
どの州でも、支払いはその大きさを示すために価値の単位で表されています。わが国では、価値の単位をマルク、フランスではフラン、イギリスではポンド、ロシアではルーブルと呼んでいる。支払い義務は、ドイツではマルクで、フランスではフランで表現されると、その大きさによって知られる。さらに、どの国家にも硬貨がある。硬貨の材質はまず重要ではない。金貨、銀貨、ニッケル、銅貨があり、これらの硬貨に加えて、銀行券やReichskassenscheineなどの特定の紙幣がある。しかし、これらのコインが何マルクの価値があるのかを知ることは、絶対に必要なことなのです。この有効性は、法制度によって決定されます。多くの場合、作品に宗派が表示されています。金貨には20マルクまたは10マルクの刻印がありますが、ターラーには3マルクの有効期限は書かれていません。

それでも3マルクの価値があるのは、私たちのコインにそう書かれているからです。一般的な言葉で表現すると、このような意味になります。法制度では、各コインが何バリュー単位で有効かを定めています。
もし支払いが行われるのであれば、実務的には、1.何単位の価値が支払われるのか、2.その支払いに認められる限りにおいて、利用可能な駒は何単位の価値が有効なのか、ということだけが問われることになる。

Mehr als dies ist nicht erforderlich; mehr weiß auch der gemeine Mann nicht, der jeden Tag mit Hülfe dieser wenigen Renntnisse Zahlungen leistet oder Zahlungen empfängt. Wenn er in Deutschland lebt, so fält es ihm nicht ein, fremde Geldstücke anzubieten oder fremde Geldstücke anzunehmen. Er weiß, daß unsere Geldstücke eine staatliche Einrichtung sind und daß die anderen Staaten, jeder für sich, ebenso ihre Geldstücke immer nur für ihr Gebiet schaffen. Die Stücke gelten nur in ihrem Gebiet; die Geltung ist also eine aus der Rechtsordnung entspringende Einrichtung; fie beruht auf einem Befehl des Staates; sie ist proklamatorisch. Das Geldwesen bezieht sich stets auf Staatsgebiete, und wenn es Staaten gibt, die mit ihren Nachbarn Verträge schließen, um gewisse Geldarten gemeinsam zu machen, so sind solche Staaten eben nicht mehr unabhängig voneinander; in diesem Falle entstehen durch geschlossene Verträge größere Gebiete, die als Ganzes zu betrachten sind. Unabhängige, ungebundene Staaten haben ihr Geldwesen stets nur für sich. Man kann wünschen, daß es anders wäre; aber für die Rechtsgeschichte steht der Saß fest, daß unabhängige Staaten ihr Geldwesen staatlich ordnen. Daher kann eine Theorie des Geldwesens nur staatlich sein oder sie löst sich in unhistorische Forderungen auf.
Richten wir nun unsere Aufmerksamkeit auf einen bestimmten unabhängigen Staat, gleichgültig, welcher es sei, so bedeutet die Frage nach den rechtshistorischen Grundlagen des Geli
des Geldwesens schließlich folgendes: In dem Staate hat die Werteinheit einen Namen; bei uns heißt sie Mark; was ist der Sinn dieses Namens ? Was versteht man unter einer Mark? Ist es möglich, den Begriff „Mark" bei uns, oder in Frankreich den Begriff „Frank" zu definieren? Solange die Werteinheit nicht definiert ist, bleibt der Theoretiker unbefriedigt, er fragt also: ,,Was versteht man unter einer Mark?Ist die Mark etwa der 1395. Teil eines Pfundes feinen Goldes?
Wer ist aber gemeint, wenn ich frage, was versteht man unter einer Mark? Soll darüber der oder jener Auskunft geben, der sich Volkswirt nennt? Etwa ein Lehrer an der Universität oder an einer

Handelshochichule? Meinetwegen nur stelle ich eine Bedingung. Wer es auch sei, ich will nicht seine Privatmeinung hören; denn sonst rückt er wohl gar mit dem Paragraphen seines Heftes heraus, worin er rund und reinlich ausgesprochen hat, daß nach seiner Meinung die Mark oder der Frank dies und jenes sein solle; er bedient mich also mit einem wohl erwogenen Ratschlage, vermutlich mit einem ganz vortrefflichen; und belehrt mich, daß die etwa davon abweichende Wirklichkeit eine bedauerliche Ausnahme darstelle; denn leider sei es eine merkwürdige Laune des Staates, Einrichtungen zu treffen, die mit den Paragraphen der Professorenhefte im Widerstreite stehen.
Aber nicht mit Ratschlägen wollen wir bedient rerden; der Mann, von dem wir Antwort erwarten, muß uns vorher versprechen, daß er die Rechtsordnung des Staates in ihrer geschichtlichen Entwickelung untersucht und auf Grund dieser Sachlage, die für uns die Wirklich keit darstellt, rein beobachtend und nachdenkend herausbringt, was hiernach die Werteinheit ist. Hat er das getan, so wollen wir als Zugabe auch noch geduldig anhören, welche Ratschläge für die Gesekgebung unser Gewährsmann etwa auf Lager hält.

これ以上のことは必要ない。毎日、このわずかな賃借料で支払いをしたり、支払いを受けたりしている庶民でさえ、これ以上のことは知らないのだ。ドイツに住んでいれば、外国のコインを提供したり受け取ったりすることは思いもよらない。彼は、私たちの硬貨が国家の制度であり、他の国家もそれぞれ自分のために、自分の領土のためだけに硬貨をつくっていることを知っているのです。硬貨は、その領土内においてのみ有効である。したがって、その有効性は、法的秩序から生じる制度であり、国家の命令に基づくものであり、宣言的なものなのである。通貨制度は常に国家の領土と関係しており、ある種の貨幣を共同で作るために隣国と条約を結んだ国家があれば、その国家はまさに互いに独立した存在ではなく、この場合、締結された条約によってより大きな領土が生まれ、全体として考慮されなければならない。独立した無所属の国家は、常に自分たちのためにのみ通貨制度を持つ。そうでなければいいと思うかもしれない。しかし、法の歴史にとって、独立した国家が国家によって通貨制度を秩序づけていることは確かである。したがって、通貨制度の理論は、国家に基づくものでなければ、歴史的でない要求に溶解してしまうのである。
いま、ある特定の独立国家に目を向けると、それがどの国家であっても、通貨制度の法史的基盤の問題は、最終的に次のことを意味する。
その国では、価値の単位に名前がついています。私たちはそれをマルクと呼んでいますが、この名前の意味は何でしょうか?マークでわかることとは?わが国では「マルク」、フランスでは「フラン」という言葉を定義することは可能だろうか。価値の単位が定義されない限り、理論家は満足できないので、こう問うのである。"マークとはどういう意味ですか?" このマルクは、例えば、上質な金の1ポンドの1395分の1なのでしょうか?
しかし、マルクとは何かというと、誰のことを指しているのだろう。経済学者を名乗る者は、それについて情報を与えるべきなのか。大学の先生や

商業大学?私のために、ひとつだけ条件を出します。そうでなければ、自分の冊子の中で、マルクやフランはこうあるべきだということを、丸ごときれいに述べている段落さえ出てくるかもしれないのだ。そして、そこから逸脱した現実は、残念な例外であると教えてくれた。残念ながら、教授のノートの段落に矛盾する取り決めをするのは、国家の奇妙な気まぐれなのだ。
しかし、われわれは忠告を受けることを望んでいるのではない。われわれが答えを期待する人は、まず、国家の法秩序をその歴史的発展のなかで検討し、われわれにとって現実を表すこの状態を基礎にして、これによると価値の統一はどうなるかを、純粋に観察し考察することを約束してくれなければならないのだ。そのうえで、専門家がどのような法制化のアドバイスをしてくれるのか、根気よく聞いていきます。

Wir erwarten aljo eine rechtshistorische Antwort auf unsere Frage, welche genauer lautet: was versteht der Staat unter dem Begriff der Werteinheit? Denn da der Staat injer Zahlungswesen rechtlich ordnet, und wir an diese Rechtsordnung gebunden sind, so wollen wir hören, was der Staat meint. Da der aber keine natürliche Person ist, so können wir die Antwort nur aus seinen Taten erschließen – und die Handlungen des Staates entnehmen wir aus der von ihm geschaffenen Rechtsordnung.
Dies unser Vorgehen kann man ablehnen, und statt dessen vorschlagen, daß ältere Schriftsteller und neuere Kollegienhefte zu Rate gezogen werden sollen, in denen die Definition der Werteinheit enthalten sei. Wer das aber tut, der widerlegt uns nicht, es sei denn, daß er unsere Darstellung der Rechtsverfassung des Geldes widerlegt: denn wir wollen ja gerade diese Verfassung in ihren Entwickelungsstufen aufdecken, um zu sehen, welchen Zielen sie zustrebt. Alle Angriffe auf die staatliche Theorie müssen also auf diesem Boden stehen, auf dem der Rechtsgeschichte, oder sie sind bloße Gegenrede von Männern, die sich auf die gestellte Frage nicht einlassen wollen. Diese Frage aber lautet in anderer Fassung: von welchem Grundgedanken aus erscheint die Rechtsordnung des Geldwesens in sich folgerichtig ? Wenn wir einen solchen Grundgedanken nachweisen, so ist er als rechtshistorische Grundlage des Geldwesens anzuerkennen, gleichgültig, ob er uns gefält oder nicht.

Hören wir zuerst die herrschende Meinung; deren Träger wollen wir als Metallisten bezeichnen, ohne weiter darauf zu achten, daß es Monometallisten und Bimetallisten gibt. Der Metallist erklärt alle Erscheinungen durch die beiden Stichwörter Metal und Kredit.
Er stellt zunächst den Saß auf: eine Mark bedeutet den 1395. Teil eines Pfundes feinen Goldes, denn das Metal Gold wird bei uns schrankenlos in diesem Verhältnis in 20 - Markstücke ausgeprägt. Was etwa noch fehlt, das erklärt der Metallist aus dem Kredit.
Wir wollen uns einmal auf diesen metallistischen Standpunkt einlassen und in die ältesten Zeiten zurückblicken, die dem Metallisten stets vorschweben.
Die Verpflichtung, so und so viele Werteinheiten zu zahlen, bedeutet in der Tat ursprünglich: es ist die und die Gewichtsmenge eines Metalles zu liefern. Darin hat der Metallist ganz recht, wie jedermann zugibt, denn niemand behauptet, daß der Metallist nur Hirngespinste vorträgt." Die Frage, welches Metall zu liefern sei, lassen wir, wie gesagt, beiseite: sei es Erz, sei es Silber, sei es Gold – das ist uns einerlei. Ale diese Metalle kommen ursprünglich nur als Stoff in Betracht; die Entwicklung beginnt also mit dem Autometallismus; der Zusaß „Auto" bedeutet die Gleichgültigkeit aller Form und die Wesentlichkeit des Stoffes an und für sich.
Die nächste Stufe der Entwickelung wird von den Metallisten so geschildert: das Metall wird geformt; abgewogene Stücke des Metalles werden in die Form von Münzen gebracht und rechtlich nur in dieser Form zugelassen, wenn Zahlungen geleistet werden sollen. Das vom Staat gewählte Metall ist schrankenlos in folche Münzen verwandelbar. So entsteht an Stelle des formlosen Zahlungsmittels das geformte und dies geformte Zahlungsmittel ist die früheste Form des Geldes; es ist bares Geld. Das bare Geld ist die erste Art des Geldes, welche in der Rechtsgeschichte auftritt. Unsere deutschen Goldmünzen, ebenso die englischen und französischen, sind heute noch bares Geld. Vor dem Jahre 1871 waren unsere Taler bares Geld, denn damals war das Silber ichrankenlos verwandelbar in Geld – während heute nur das Gold diese Eigenschaft hat. Man beachte, daß auch die schrankenlose Verwandelbarkeit irgendeines Metalles in bares Geld eine Eigenschaft ist, welche auf der Rechtsordnung beJahrbuch XXX 3, hrsg. v. Schmoller.
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ruht: diese Ordnung verleiht dem Metalle diese Eigenschaft oder entzieht sie demselben.
Nun gibt es aber daneben noch anderes Geld: unsere Silbermünzen sind gewiß Geld, aber nicht bares Geld; ebenso unsere Nickelund Kupfermünzen; auch unsere papiernen Kassenscheine sind Geld und die Banknoten sind Geld; aber sie sind nicht bares Geld, sondern notales Geld: es fehlt ihnen die Eigenschaft, daß der Stoff, aus welchem die Platten bestehen, schrankenlos in das betreffende Geld verwandelbar ist.


我々は、より正確には、国家が価値の単位という概念で何を理解しているのか、という我々の問いに対する法史的な答えを期待している。国が決済システムを法的に規制しており、私たちはこの法制度に縛られているので、国の意向を聞きたいのです。しかし、国家は自然人ではないので、その行動から答えを推論するしかない。そして、国家が作り上げた法秩序から国家の行動を推論するのである。
私たちのこのアプローチは否定され、代わりに古い作家や最近の大学の論説を参照することを提案することができ、そこには価値の統一の定義が含まれているのである。しかし、このようなことをする者は、貨幣の法的構成についての我々の説明に反論しない限り、我々に反論しない。なぜなら、我々がその発展段階において明らかにしたいと思うのは、まさにこの構成であり、それがどんな目的に向かって努力しているかを見るためである。したがって、国家論に対するすべての攻撃は、このような根拠、つまり法史の上に立たなければならない。そうでなければ、提起された問題に関与しようとしない人々の単なる反論に過ぎないのである。しかし、この問いは、別の言い方をすれば、「通貨制度の法的秩序は、どの基本的な考え方からすれば、それ自体一貫しているように見えるか」ということである。このような基本的な考え方を証明できるのであれば、好むと好まざるとにかかわらず、それは貨幣制度の法的・歴史的基盤として認識されなければならない。

まず、一般的な意見を聞いてみよう。ここでは、モノメタリストとバイメタリストが存在することにこれ以上注意を払わず、その支持者をメタリストと呼ぶことにする。メタリストは、すべての現象を金属と信用という2つのキーワードで説明する。
まず、1マルクは純金1ポンドの1395分の1を意味し、わが国の純金はこの割合で無制限に20マルクで表現される、という原則を打ち出した。それでも足りないものは、クレジットからメタリストが説明する。
このメタリストの視点に立ち、メタリストが常に念頭に置いている最古の時代を振り返ってみることにしよう。
を支払う義務は、実際には元々、引き渡されることになる金属の重量と数量である。この点では、誰もが認めるように、メタリストがまったく正しい。鉱石であれ、銀であれ、金であれ、どの金属を供給するかは置いておく。これらの金属は、もともと物質としてのみ考慮される。したがって、開発はオートメタリズムから始まる。「オート」という形容詞は、すべての形の無関心と、それ自体における物質の本質を意味する。
次の段階は、金属学者によってこう説明される。「金属は成形され、計量された金属片は硬貨の形になり、支払いが行われる場合はこの形でのみ法的に認められます。国が選んだ金属は、制限なく硬貨に変えることができる。このように、形のない支払手段に代わって、形のある支払手段が生まれ、この形のある支払手段が最も古い貨幣の形であり、それが現金通貨である。現金通貨は、法制史上に初めて登場した貨幣の一種である。私たちのドイツの金貨も、イギリスやフランスの金貨も、今日でもキャッシュマネーとして使われています。1871年以前は、銀は何の制限もなくお金に変えることができたので、タラは現金通貨でした。なお、あらゆる金属が無制限に現金通貨に変換できることも、法制度に基づく財産である。
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4: この命令は、この特性を金属に与えるか、金属から引き離す。
銀貨は確かに貨幣であるが、現金貨幣ではない。同様に、ニッケルや銅貨も貨幣であり、紙製の現金紙幣も貨幣であり、銀行券も貨幣であるが、現金貨幣ではなく、想定貨幣である。


Wie verhält sich nun der Metallist zu dieser Erscheinung? Er leugnet sie nicht, denn das wäre eine handgreifliche Beschränktheit. Vielmehr sagt der Metallist: das notale Geld beruht auf Kredit; es ist Kreditgeld; und dies bedeutet: es muß eine Einrichtung im Staate bestehen, welche dem Inhaber des notalen Geldes gestattet, dafür bares Geld auf Wunsch zu erhalten; das notale Geld besteht also für den Metallisten aus Anweisungen auf bares Geld. Und in der Tat: bei uns kann man Silbermünzen, Kupfermünzen, Nickelmünzen amtlich umwechseln lassen in Goldgeld; die Reichsbank, als Zentralstelle für die Verwaltung des Geldwesens, besorgt diese Umwechselung von Amts wegen. Ebenso löst sie die Reichskassenscheine und die Banknoten ,,bar" ein.
Daraus ergibt sich: Die beiden Stichwörter Metall und Kredit sind allenfalls ausreichend zur Erklärung unserer heutigen deutschen Geldverfassung; entweder ist das Geld bar: dann genügt es, die Werteinheit metallistisch zu definieren; oder das Geld ist notal: dann ist es eine Anweisung auf bares Geld. Andere Geldarten kommen nicht vor. Also reicht die Theorie der Metallisten aus; man kann also sagen: die Werteinheit Mark ist jeßt der 1395. Teil eines Pfundes feinen Goldes; und in der früheren Verfassung, vor 1871, war es ähnlich: die Werteinheit, genannt Taler, war der 30. Teil eines Pfundes feinen Silbers. Denn bekanntlich wird jeßt das Pfund Gold zu 1395 Mark ausgebracht; und früher wurde das Pfund Silber zu 30 Talern ausgebracht. In beiden Fällen ist also die jeweilige Werteinheit als eine bestimmte Menge Edelmetalls definierbar.
Soweit reicht die Theorie der Metallisten; sie ist so klar, daß jedes Kind sie versteht; sie scheint sogar selbstverständlich, so sehr, daß viele oder alle Gelehrte überrascht sind, dafür den Namen Metallismus ertönen zu hören: dies, meinen sie, ist ja nicht eine Theorie neben anderen, sondern es ist ganz einfach die Theorie des Geldes; über
rascht rufen sie aus: Metallisten sind wir natürlich immer gewesen, aber was sollen wir denn sonst gewesen sein! Auch hast du ja freiwillig eingeräumt, daß der Metallismus zur Not ausreicht, unsere Verfassung des Geldes zu erklären; also: Wozu der Lärm ?
Aber laßt uns nur zu Worte kommen. Ihr Metallisten könnt unsere Geldverfassung erklären; unsere jebige und auch unsere vorige. Es handelt sich aber nicht um diese besonderen Fälle. Wir verlangen eine Theorie des Geldes für alle Verfassungen. Könnt ihr Metallisten alle Geldverfassungen erklären? — darum handelt es sich, und das ist noch nicht bewiesen. Besondere Lösungen beweisen nichts. Es gilt, die allgemeine Lösung der gestellten Aufgabe zu finden. Vielleicht gibt es Geldverfassungen, die der metallistischen Theorie widerstreben. Und in der Tat, es gibt solche. Dann wird der Metallist ungeduldig und ruft: Solche widerstrebende Verfassungen sind anomal, man verändere fie, man dulde sie nicht, denn sie stellen Ausnahmen dar.
Aber es sind doch, bei aller Abnormität, immerhin Geldperfassungen. Daher geben die Metallisten gerade durch ihre Unduldjamkeit zu, daß sie nicht alle Geldverfassungen, sondern nur die „normalen" erklären können. Das ist der schwache Punkt im System der Metallisten; sie müssen die wirklichen Geldverfassungen unterscheiden in normale, die sie erklären können, und in abnorme, für welche ihnen der Schlüssel fehlt; denn für die abnormen ist es jedenfalls nicht mehr wahr, daß die Werteinheit eine bestimmte Menge von Metall sei.
Solche abnorme Verfassungen kommen in der Tat zeitweilig in allen Staaten vor; es genügt, als Beispiel die österreichische Verfassung zu nennen, wie sie von 1866–1892 war. Betrachten wir sie ein wenig genauer. Sie hieß bekanntlich „österreichische Währung", wobei das Wort Währung im weiteren Sinne, gleichbedeutend mit Geldwesen, genommen war.

この現象に、メタリストはどう関わっているのでしょうか?彼はそれを否定しない。それは明らかに鈍感であるからだ。つまり、想定貨幣の保有者が要求に応じてその対価として現金を受け取ることができる制度が国家に存在しなければならないのです。我が国では、銀貨、銅貨、ニッケル貨を金貨と正式に交換することができる。貨幣制度運営の中央機関であるライヒスバンクが、職権でこの交換を引き受けているのだ。また、帝国国債や銀行券を「現金で」償還している。
このことから、金属と信用という二つのキーワードは、現在のドイツの貨幣構造を説明するには、せいぜい十分である。貨幣が現金であるか:それなら、価値の単位を金属的に定義すればよい。それ以外の種類のお金は発生しません。つまり、金属学者の理論で十分なのである。「マークの価値の単位は、せいぜい上質の金の1ポンドの1395分の1であり、1871年以前の以前の憲法でも同様で、ターラーという価値の単位は、上質の銀の1ポンドの30分の1であった」と言うことができる。よく知られているように、現在、金1ポンドは1395マルクで発行されており、かつては銀1ポンドは30ターラーで発行されていたのである。したがって、いずれの場合も、価値の単位は一定量の貴金属と定義することができる。
メタリストの理論はここまで広がっている。あまりに明確なので、どの子供でも理解できる。自明のことのようにさえ思えるので、多くの、あるいはすべての学者がメタリストという名前を聞いて驚く。
と叫ぶ。もちろん、我々は常にメタリストであったが、それ以外の何ものでもなかったのだ あなたはまた、金属論が私たちのお金の構造を説明するのに十分であることを自由に認めている、だから:なぜノイズ?
でも、私たちにも言わせてください。あなた方金属学者なら、現在の貨幣の構造も、以前の貨幣の構造も説明できるはずです。しかし、こうした特定のケースを問題にしているわけではありません。すべての憲法に貨幣論を要求する。メタラーの皆さんは、すべての貨幣構造を説明できるのでしょうか?- それが、まだ証明されていないのです。特定の解決策は何の証明にもならない。提起された問題に対する一般的な解答を見つけることが問題なのだ。もしかしたら、メタリスト説と矛盾する貨幣体質があるのかもしれない。そして、実際にあるのです。そこで、金属学者が焦って叫ぶ。このような矛盾した体質は異常である、変えるべきだ、許容してはならない、なぜならこれは例外だからだ。
しかし、その異常さはともかく、貨幣体質であることに変わりはない。だからこそ、メタラーたちは、その不寛容さゆえに、すべての貨幣把持を説明することはできず、「正常な」ものだけを説明することを認めているのである。この点が、金属学者のシステムの弱点である。彼らは、現実の貨幣制度を、説明できる通常のものと、その鍵がない異常なものとに区別しなければならない。異常なものについては、価値の単位が一定の量の金属であるということは、いかなる場合でも、もはや真実ではない。
このような異常な憲法は、確かにどの国にも時々ある。例として、1866年から1892年までのオーストリア憲法を挙げれば十分だろう。もう少し詳しく見てみましょう。周知のように、この通貨は「オーストリア通貨」と呼ばれ、通貨という言葉は広義には貨幣制度と同義に捉えられていた。

Darnach leistete der österreichische Staat seine Zahlungen in uneinlösbaren Banknoten und in uneinlösbaren Staatsnoten. Wer 1000 Gulden vom Staate zu fordern hatte, erhielt diesen Betrag in Banknoten oder in Staatsnoten; auf jedem dieser Blätter war ein Betrag in Gulden genannt; man erhielt so viele Blätter, daß der summierte Betrag auf 1000 Gulden lautete. Wenn man die Banknoten bei der Bank, die Staatsnoten bei der Zentralkasse des Staates einreichte, um dafür filberne Guldenstücke zu fordern, so zuckte der

Kassier die Achseln oder brach in ein beinahe unhöfliches Gelächter aus: „Wissen Sie denn nicht, daß die Banknoten und die Staatsnoten nicht einlösbar sind ?" Man hatte also Papier in der Hand, und es konnte kein Zweifel sein, daß man auch keine Anweisung auf Silbergeld in der Hand hatte.
Der Metallist hatte nun zwar seine beiden Stichwörter, Metall und Kredit, auf der Zunge; aber mit dem Metall war es jedenfalls nichts; also mußte das andere Stichwort herhalten: Kredit. Bei juristisch wirksamen Anweisungen hat es einen guten Sinn, von Kredit zu reden. In Österreich aber war von solchen Anweisungen gar nicht die Rede. Das einzig Feste war ja gerade dies, daß dort keine juristisch wirksame Anweisung eristiert: die Banknote ist es nicht, die Staatsnote ist es nicht, die verschiedenen Arten der Scheidemünzen sind es ebenfalls nicht. Was sollte nun der Metallist beginnen? Er tat einen fühnen Sprung und erklärte kurz und keck: Rredit findet auch dann statt, wenn juristisch keine Einlösung in Aussicht steht! Also, Kredit ist auch dann vorhanden, wenn kein Kredit vorhanden ist. Kredit ist eben ein höchst seltsamer Begriff, sagt der Metallist: man kann die österreichische Verfassung des Geldwesens aus dem Kredit erklären - aber für den Begriff des Kredits gibt es noch keine Definition !
Durch diesen Ausweg haben die Metallisten ganz einfach zugegeben, daß ihnen der Atem ausgegangen ist; aber sie wollen es nicht eingestehen und umhüllen alles mit einem Schwall von Sorten.
Wie sah es nun in der Praris aus ?
Unser Metallist, mit den tausend Papiergulden in der Hand, sagt zu dem Kassier: „Das ist ja der reine Betrug." Der Kassier erwidert: ,,Wiffen Sie denn nicht, daß diese Papiergulden Zwangskurs haben? Bezahlen Sie doch Ihre Gläubiger damit; der Hauswirt, dem Sie die Miete schuldig sind, der Schneider, der Ihnen seine Rechnung gesendet hat, und alle andern Leute müssen ja das Papier annehmen." Unser sonst ganz ehrliche Mann hat also nur die Wahl, entweder den erlittenen Betrug weiter zu üben an seinen Gläubigern oder sich auf einen Stuhl zu seßen und zu warten, bis der Staat und die Bank wieder zur Einlösung in Bar übergehen, wobei ihm das Schicksal des Ritters von Toggenburg in Aussicht steht: „Und so jaß er, eine Leiche, eines Morgens da."
Es gab also damals in Österreich eine Geldverfassung, welche freilich wegen des Verkehrs mit dem Auslande recht schlimm war, die aber doch ausreichte, um dem inneren Verkehr zu dienen. Wir sind weit entfernt sie zu empfehlen; aber eine Geldverfassung war sie, und das allein kommt hier in Betracht.
Wie war denn damals die Werteinheit zu definieren? War der Gulden, in welchem man zahlte, etwa der 45. Teil eines Pfundes Silber ? Gewiß nicht; der Gulden war gar nicht metallistisch definierbar; er war ein Begriff der Rechtsordnung, der nur dazu diente, die Größe der Schulden auszudrücken und die Geltung der Zahlungsmittel zu proklamieren. Der Zusammenhang mit dem Silber war ganz ausgeschaltet für den Gulden, mit welchem man damals tatsächlich zahlte. Es gab einen nominalen Gulden: ein Gulden ist seit 1859 jedes Zahlungsmittel, welches der Staat als juristisch zulässig erklärt, um eine Schuld zu tilgen, welche Ende 1858 allerdings durch einen silbernen Gulden hätte getilgt werden müssen. Die Werteinheit war nominal, und es kam nicht auf den Metallgehalt des Zahlungsmittels an; man durfte noch immer in Silbergulden zahlen, man konnte aber mit der gleichen Rechtswirkung auch in uneinlösbaren Papiergulden zahlen. Diese Verfassung ist also nicht erklärbar auf metallistischer Grundlage, aber sie ist nicht an sich uns erklärbar: die Werteinheit war damals nominal; die üblichen Zahlungsmittel gewährten keine reale Befriedigung im Sinne des Metallisten; aber sie gewährten eine zirkulatorische Befriedigung nach dem Grundfaße: „Wie du mir, so ich dir."

そして、オーストリア国家は、償還不能の銀行券と償還不能の国家紙幣で支払いを行った。1000グルデンを国に請求する人は、銀行券か州紙幣で受け取り、その一枚一枚にグルデン単位で金額が記載され、合計1000グルデンになるように何枚も受け取ることになりました。銀行券は銀行へ、国債は国庫へ提出し、フィルベルネ・ギルダーを要求すると、出納係は肩をすくめるか、何かつぶやいた。

銀行券や州紙幣は換金できないことをご存じないですか?だから、手に持っているのは紙であり、銀貨の注文もないことは間違いない。
金属屋は、金属と信用という2つのキーワードを舌の上に乗せた。しかし、金属には何の問題もない。クレジット 法的効力のある指示の場合、信用を語ることは良い意味を持つ。しかし、オーストリアでは、そのような指示の話はなかった。ただ一つ確かなことは、そこには法的に有効な指示は存在しないということだった。銀行券もそうではないし、州札もそうではない。様々な種類の硬貨もそうでない。メタリストはどうすればよかったのか?彼は大胆に飛躍し、簡潔に、そして大胆に宣言した。「法的な救済の見込みがない場合にも、信用は与えられるのだ!」と。つまり、信用がないときにも信用は存在するのです。オーストリアの通貨制度は信用から説明できるのに、信用という概念にはまだ定義がないのです。
このように、メタリストたちは、自分たちが息切れしていることを端的に認めている。しかし、彼らはそれを認めず、すべてを激流で包み込んでしまう。
さて、プラリスはどうだったのでしょうか?
この金属屋は1000ギルダーを手に、レジ係に言った。「これは純粋な詐欺だ」。レジの人が答える。この紙ギルダーには強制的に交換レートが設定されていることに気づかないのでしょうか?家賃を払っている大家さん、請求書を送ってきた仕立屋さん、その他すべての人がその紙を受け取らなければならないのです。つまり、この極めて正直な男は、債権者に対して詐欺行為を続けるか、椅子に座って国と銀行が換金に戻るのを待つか、その場合はトッゲンブルグの騎士のような運命に直面することになる。「そしてある朝、彼は死体となってそこにいた」。
当時のオーストリアには、外国との交通のためにかなり悪い通貨憲法があったが、それでも国内の交通をまかなうには十分であった。私たちはそれを推奨しているわけではありません。しかし、それは金銭的な憲法であり、ここではそれだけが考慮されるのです。
では、価値の単位はどのように定義されるのだろうか。1フロリンは1ポンドの銀の約45分の1だったのですか?ギルダーは金属的に定義できるものではなく、債務の大きさを表し、支払い手段の有効性を宣言するためだけの法体系の概念であったのだ。当時、実際に支払われていたギルダーは、銀とのつながりが完全になくなっていた。1859年以降、フロリンは国家が負債を返済するために法的に認めるあらゆる支払手段であり、1858年末には銀フロリンで返済しなければならなかったが。価値の単位は名目的であり、支払い手段の金属含有量は問題ではない。銀フロリンでの支払いは依然として認められていたが、償還不能の紙フロリンでも同じ法的効力を持つことができた。したがって、この体質は、金属学的な根拠では説明できないが、それ自体、我々にとって説明可能なものではない。当時、価値の単位は名目的であり、通常の支払手段は、金属学者の意味での真の満足を与えなかった。しかし、それらは基本原理に従って、"Tit for tat" [叩かれたら叩く、しっぺ返し]という循環型の満足を与えていたのだ。

Man erwidere nicht, eine nur nominale Werteinheit sei uns möglich; damit wäre ja behauptet, daß die damalige Geldverfassung Österreichs unmöglich gewesen sei, während sie doch wirklich war. Eine nur nominale Werteinheit ist erfahrungsmäßig als möglich erwiesen; wer sie bedenklich findet, wer darin bedeutende Gefahren insbesondere für den auswärtigen Verkehr erkennt, der muß urteilen: die bloß nominale Werteinheit ist zwar möglich, aber man eile, aus einem solchen Zustande herauszukommen. Das ist eine Auffassung, die sich hören läßt.
Daraus ergibt sich nun, wie die einsichtigeren Metallisten meinen, eine Gabelung der Theorie; statt einer gibt es deren zwei; bei guter Geldverfassung ist die Werteinheit metallistisch definierbar; bei jener entarteten Verfassung hingegen ist die Werteinheit nur nominal.
Dann aber gibt es keine einheitliche Theorie; denn die beiden Fälle schließen – so scheint es - einander aus; im ersten Falle wird durch Übergabe von Metall bezahlt; im anderen Falle wird nur nominal bezahlt; ein greller Gegensaß. Die Untersuchung ist

also durch diese zweifache Lösung zu Ende. Es ist auch gar nichts Schwieriges dabei: alle Einteilungen sind leicht faßbar, solange sie ein einfaches Dilemma darbieten, wie zum Beispiel dieses: entweder Metallgehalt; oder kein Metallgehalt. Angewendet auf unsere Untersuchung wären wir also zu dem Ergebnis gelangt: man zahlt in ordentlichen Staaten durch Übergabe von Metall, in unordentlichen Staaten aber nur nominal, also ohne Übergabe von Metal.
Soll es aber eine einheitliche, nicht zweifache, Theorie des Geldes geben, so dürfen nicht etwa die schwierigen Fälle bei Seite gesegt werden, denn das wäre eine Feigheit der Theorie.
Sondern es muß nachweisbar sein, daß jenes Dilemma unrichtig ist. Und es ist unrichtig, so sehr dies überraschen mag. Die staatliche Theorie des Geldes kann in der Tat einheitlich sein, und zwar deshalb, weil jenes Dilemma nicht richtig gestellt ist.
Das glaubt uns niemand aufs erste Mal. „Die nur nominalen Zahlungen in Österreich sind doch ganz gewiß Zahlungen ohne Über: gabe von Metall." Dies gebe ich zu. „Und die Zahlungen in geordneten Ländern wie Deutschland sind doch ganz gewiß Zahlungen durch Übergabe von Metall, also keine Nominalzahlungen." Das gebe ich nicht zu.
Ich behaupte vielmehr: dort wie hier ist jede Zahlung, vom Staate aus gesehen, also juristisch beurteilt, eine Nominalzahlung. Der linterschied ist nur der : in Österreich hatte man Nominalzahlung ohne Übergabe von Metall, im Deutschen Reiche hat man Nominalzahlung mit Übergabe von Metall.
Juristisch betrachtet ist überall, wo Geldverfassung ist, die Nominalzahlung die legte Grundlage; überall ist die Werteinheit nominal definiert; aber mitunter sind die Stücke, mit denen man zahlt, mit Metallgehalt ausgestattet, mitunter sind sie es nicht. Der Metallgehalt ist also juristisch nicht wesentlich für den Vorgang der Zahlung. Ich leugne gar nicht die höchst wichtigen und von jeher erkannten Vorzüge des Metallgehaltes der Stücke, genauer: die ganz ungemein große Bedeutung der Barverfassung, insbesondere für den Verkehr mit dem Auslande. Aber wichtig sein für den wirtschaftlichen Verkehr ist etwas ganz anderes als wesentlich sein für die Rechtsverfassung. Und in diesem Sinne sei es also gejagt: bei aller Geldverfassung ist die Werteinheit nominal; manchmal kommt Metallgehalt der Stücke vor, und manchmal fehlt er; das Dilemma öffnet sich also erst, wenn wir die Nominalität der Werteinheit als gemeinsame obere Eigenschaft aller Geldverfassungen anerkannt haben.

単に名目的な価値の単位は、われわれにとって可能であると答えてはならない。これは、当時のオーストリアの通貨構成が不可能であると主張することになるが、実際には不可能であったのである。経験上、純粋な名目的な価値単位は可能である。それを疑問視する人、特に外国貿易にとって重大な危険を認める人は、純粋な名目的価値単位は可能だが、そうした状態から抜け出すのを急がなければならないと判断するはずである。それはそれで、聞く価値のある意見だと思います。
このことから、より洞察力のある金属学者が考えるように、理論が二分されることになる。
しかし、この場合、統一された理論があるわけではなく、2つのケースは互いに除外される。前者は金属を渡すことによって支払いが行われ、後者は名目上だけ支払いが行われる。調査は

この二重の解決策によって 金属を含むか含まないか、そういう単純なジレンマがある限り、すべての区分は簡単に把握できる。そうすると、「普通の国では金属を渡して支払うが、無秩序な国では金属を渡さずに名目上だけ支払う」という結果になる。
しかし、もし貨幣の理論が二重でなく一重であるべきなら、難しい事例を脇に追いやってはならない、それは理論の臆病になるからだ。
しかし、そのジレンマが誤りであることが実証されなければならない。そしてそれは、意外にも不正解なのです。貨幣の国家理論は確かに統一されうるが、それはそのジレンマが正しく提起されていないからである。
これを初めて信じる人はいない。"オーストリアの名目上の支払いは、きっと金属の移動のない支払いだけだ" それは認めます。"そしてドイツのような秩序ある国での支払いは、確かに金属を渡すことによる支払い、つまり名目上の支払いではありません。" 私はこれを認めない。
むしろ、ここでもそうだが、国家から見て、つまり法的に判断して、すべての支払いは名目的な支払いであると主張する。ただ、オーストリアでは金属を渡さずに名目上の支払いをしたのに対し、ドイツ帝国では金属を渡して名目上の支払いをした、という違いがあります。
法的な観点から言えば、貨幣が構成されているところではどこでも名目上の支払いが基本であり、価値の単位はどこでも名目上定義されている。しかし、支払いのための駒には、金属が含まれている場合もあれば、含まれていない場合もある。したがって、金属含有量は、決済のプロセスにとって法的には不可欠なものではありません。私は、硬貨の金属含有量が非常に重要であり、常に認識されている利点、より正確には、特に外国との貿易のための現金体質の絶大な重要性を否定するものではない。しかし、経済交通にとって重要であることと、法体系にとって不可欠であることとは、まったく異なるものである。そして、この意味で、それを追い詰めよう。すべての貨幣構成において、価値の単位は名目的であり、破片の金属含有量が生じることもあれば、ないこともある。このジレンマは、価値の単位の名目性をすべての貨幣構成に共通の上位財産として認識したときに初めて開かれるのである。

Das ist der Grund, weshalb es eine einfache, gemeinsame Theorie des Geldes geben kann.
Die Unterscheidungen sind aber etwas feiner als man erwartet: es kommt auf ein zweistöckiges Schema an, das von einstödigen Geistern nicht sofort erfaßt wird. Aber schwierig ist es nicht.
Der oberste Begriff ist die Zahlung. Nun fragt es sich zuerst: kommt die Zahlung zustande durch Zuwägen von Metal ? Wenn ja, so hat man pensatorische Zahlung und es fehlt noch das Geld. Wenn aber die Zahlung zustande kommt durch Übergabe von gezeichneten Stücken, welche proklamatorisch gelten, dann ist die Geldverfassung da.
Hier ist der Punkt, den die Metallisten übersehen haben. Sie meinen, das Geld jei durch den Metallgehalt definiert; der Metallgehalt ist aber ein technischer Umstand. Wir hingegen geben dem Gelde eine juristische Definition: gezeichnete Stücke mit proklamatorischer Geltung sind Geld, gleichgültig ob sie Metallgehalt haben oder nicht. Hierfür brauchen wir einen kurzen Ausdruck: das Geld ist ein chartales Zahlungsmittel; erst die Chartalität schafft Geld. Zahlungsmittel
. ist der weitere Begriff; so lange noch zugewogen wird, hat man kein Geld; das Geld entsteht erst mit der Chartalität, welche ein juristischer Umstand ist.
Hiermit ist das erste Stockwerk unserer Unterscheidungen erstiegen. Das zweite Stockwerk fieht so aus:
Das Geld hat entweder Barverfassung oder Notalverfassung. Beide Arten werden zusammen gehalten durch die Klammer der proklamatorischen Geltung: sie werden aber getrennt durch die Rechtsregeln über die Entstehung. Bares Geld feßt ein Metall voraus, welches schrankenlos in Geldstücke verwandelt werden darf. Notales Geld hat diese Vorausseßung nicht.
Bei einer solchen zweistöckigen Einteilung haben wir den Vorteil, daß alle Geldverfassungen einheitlich umfaßt werden; sowohl die der ordentlichen Staaten, wie die der in Unordnung geratenen; sowohl die deutsche Geldverfassung, wie die vielgeschmähte österreichische. Dann gibt es also, und nur dann gibt es eine einheitliche Theorie des Geldes, die bekanntlich den Metallisten fehlt; uns aber fehlt sie nicht!
Nun ist es leicht, über die rechtshistorischen Grundlagen des Geldwesens Auskunft zu geben. Nicht als ob die Theorie der
. Metallisten ganz unwahr wäre fie ist nur nicht die ganze Wahrheit. Wir wollen zunächst einmal feststellen, was die Metalle wirk

lich bedeuten. Vor allem ist die früheste Stufe der Zahlung autometallistisch, also an den Gebrauch eines Metalles gebunden. Zweitens ist die technische Erfindung des Ausmünzens natürlich ebenfalls an den Gebrauch eines Metalles gebunden: das sind bereits zwei ganz unleugbare Dienste, die das Metall rechtshistorisch geleistet hat. Es ist aber ein Irrtum, daß hiermit alles gejagt sei, wie die Metallisten glauben. Denn es fehlt noch der Staat mit seinem juristischen Eingreifen. Der Staat in seiner Rechtspflege schafft den rein juristischen Begriff der Werteinheit; er sagt: ihr Name ist Mark; und er definiert die Mark durch Anschluß an die frühere Werteinheit: die Mark ist der dritte Teil eines Talers. So ist es bei uns; in Österreich schafft der Staat die Werteinheit Krone, und er definiert sie durch Anschluß an die frühere Werteinheit Gulden: die Krone ist ein halber Gulden. So entsteht eine Kette von Definitionen, deren erstes Glied mit dem Autometallismus zusammen hängt.

これが、シンプルで共通した貨幣の理論が存在し得る理由である。
しかし、その区別は予想以上に細かく、かつての悲壮な心にはすぐには理解できない二階建てのスキームになっているのだ。しかし、決して難しいことではない。
最高のコンセプトは「支払い」です。さて、最初の疑問は、金属の重さを量ることで支払いが発生するのか、ということです。もしそうなら、感覚的な支払いで、お金がまだ不足していることになります。しかし、宣言的である購読作品の手渡しによって支払いが発生するのであれば、お金の体質はそこにある。
ここに、金属主義者が見落としているポイントがある。彼らは、お金は金属の含有量で定義されると考えている。しかし、金属の含有量は技術的な事情である。一方、私たちはお金に法的な定義を与えています。宣言的な効力を持つ描かれた作品は、金属を含むかどうかにかかわらず、お金です。そのためには、「貨幣はチャート的な支払手段であり、チャート性だけが貨幣を生み出す」という短い表現が必要です。支払手段
秤量している間は、お金はありません。お金は、法的状況であるチャート性によってのみ存在するようになります。
こうして、私たちの区別の最初の階を登ったのである。2階はこのような感じです。
お金には、現金憲法と観念憲法があります。この2つの種類は、宣言の有効性という括弧でつながれている。しかし、それらの作成に適用される法的規則によって分離されている。現金通貨は金属を前提としており、その金属は無限に硬貨に変化させることができる。ノーティカルマネーはこの前提条件がない。
このような2階建ての分割により、秩序ある国家の通貨憲法と無秩序な国家の通貨憲法、ドイツの通貨憲法と悪名高いオーストリアの通貨憲法など、あらゆる通貨憲法が一様に包含される利点がある。そのとき初めて、貨幣の統一的な理論が生まれるのです。よく知られているように、金属学者にはそれが欠けていますが、私たちには欠けていません
今なら、お金の法的・歴史的基盤に関する情報を提供することは容易である。の説はまるでない。
 ただ、それは真実のすべてではありません。まず、金属の本当の意味を確認しましょう。

を本当に意味します。まず、支払いの最も初期の段階は、オートメタル的、つまり金属の使用と結びついている。第二に、貨幣の技術的な発明は、もちろん金属の使用とも関連している。これらはすでに、法的な歴史において金属が提供した極めて否定しがたい二つのサービスである。しかし、金属学者が信じているように、これですべてが追い詰められたと思うのは間違いである。まだ足りないのは、法的介入を行う国家だからだ。国家は司法行政において、価値の単位という純粋に法的な概念を作り出し、「その名称は標章である」と言い、標章を先の価値の単位と結びつけて定義している:標章は1ターラーの3分の1である。オーストリアでは、国家が価値の単位であるクラウンを作り、それを以前の価値単位であるギルダーと結びつけて定義しているのです。こうして、定義の連鎖が生まれ、その最初のリンクがオートメタリズムとつながっていくのである。

Nicht unsere heutigen Werteinheiten sind definiert durch eine Metallmenge, sondern nur das erste Glied in der historischen Rette der Definitionen ist definiert durch eine Metallmenge. Die späteren Glieder sind nur historisch und nicht technisch definiert. Das ist der Inhalt der staatlichen Theorie des Geldes.
Man kann demnach das Metall niemals aus der Rechtsgeschichte des Geldwesens hinaus werfen. Wohl aber kann man das Metall aus dem Geldwejen hinauswerfen, was man aber keineswegs zu tun braucht: Man kann es nur, aber man tut vorläufig besser, das Metall noch beizubehalten. Die staatliche Theorie bekämpft also nicht den Metallgebrauch; sondern sie bekämpft nur die übliche Begründung des Metallgebrauches. Die Metallisten haben eine zu enge Theorie; eine wirklich allgemeine Theorie hat Raum für die Metallverwendung, bindet sich aber nicht daran. Eine zu enge Theorie ist aber immer falsch, nicht deshalb, weil sie nichts Richtiges enthielte; sondern deshalb, weil sie das Richtige nicht ganz enthält.
Die rechtshistorischen Grundlagen des Geldwesens bleiben also unvollständig, solange man nur von der technischen Verwendung der Metalle redet; vollständig werden die Grundlagen erst dann, wenn die Stellung des Staates und seiner Rechtsordnung mit gleicher Sorgfalt herangezogen werden. Ohne die Jurisprudenz des Geldwesens gibt es keine ausreichende Theorie dieser Erscheinung.
Mit Recht wenden die Historiker ihre Forschungen auf das Münzwesen. Immer werden Münzkabinette von hoher Bedeutung

sein, z. B. wegen ihrer Aufschlüsse über die Verbreitung der Gewichtssysteme von Babylonien aus über die Länder des Mittelmeers. Aber über die Geldverfassung lernt man daraus nichts Vollständiges, so lange die Rechtsregeln der Verwendung jener Stücke unaufgeklärt bleiben. Vor allem ist zu untersuchen: von welchem Zeitpunkte an gelten die Münzen proklamatorisch troß der etwa eingetretenen Abnußung? Erst von da an sind sie Geld; erst von da an haben sie Chartalverfassung; so lange aber das tatsächliche Gewicht entscheidet, sind die Münzen nicht Geld, sondern pensatorische Zahlungsmittel.
Es ist einige Hoffnung auf eine Geschichte des Geldwesens vorhanden, aber doch nur dann, wenn unsere Forscher zuerst einmal die neueren Geldverfassungen auch juristisch studieren, da nur die neueren Zeiten in heller und vollständiger Beleuchtung vor uns liegen. Man muß zuerst wissen, zu welchem Ziel die Geldverfassungen in der Neuzeit gelangt sind; auf andere Weise bleiben die Vorstufen, die im Altertum liegen, ganz unverständlich. Es ist nicht wahr, daß die heutige Ausbildung durch die schüchternen Anjäße der alten Zeit klar werden; sondern die tastenden Versuche der alten Zeit erklären sich nur aus der Einsicht in die juristische Verfassung des heutigen Geldwesens. Daher ist die staatliche Theorie des Geldes auch der Schlüssel für die Rechtsgeschichte der Zahlungen, während die Münzgeschichte allein immer nur Bruchstücke liefern kann.
Die staatliche Theorie lehrt aber auch die Neuzeit ganz anders beurteilen, als es bisher üblich war. „Bares Geld ist die Hauptsache; notales Geld darf nur ganz nebensächlich zugelassen werden, zum Beispiel für ganz kleine Zahlungen, wobei es dann als Scheidegeld, also mit beschränktem Annahmezwang, auftreten möge." Diese Barsucht, verbunden mit Notalscheu, ist in Deutschland seit 1857 weit verbreitet und gilt als die einzig wahre, als die gesunde Theorie. Was aber lehrt uns die wirkliche Entwickelung, sowohl in Deutschland als in England, Frankreich und Österreich ? Sie lehrt uns ganz das Gegenteil, nämlich, daß die notalen Geldarten bei jedem neuen Akte der Geseßgebung neue Ausbreitung gewinnen, und daß das bare Geld, dem entsprechend, in immer engere Grenzen gedrängt wird. Bei allen größeren Zahlungen verwendet man bei uns Banknoten und Reichskassenscheine; hingegen Goldstücke nur nebenbei; und wenn gesagt wird, jene Scheine seien ja einlösbar – so frage ich erstens: wer denkt daran, die Einlösung der Scheine zu fordern? Und zweitens: wer denkt daran, daß die einlösenden Rassen auch Taler darbieten dürfen, denn das dürfen sie nach unserer Gesek

gebung, wenn auch die Praris davon keinen Gebrauch macht; die Taler aber sind seit 1871 notales Geld.


私たちの現在の価値単位が金属の量によって定義されているのではなく、定義の歴史的連鎖の最初のリンクが金属の量によって定義されているだけなのだ。後のリンクは、歴史的に定義されているだけで、技術的には定義されていない。これが貨幣の国家理論の内容である。
したがって、貨幣の法制史から金属を放り出すことは決してできない。しかし、貨幣システムから金属を放り出すことはできるが、これをする必要はまったくない。人はそれをするしかないのですが、当面は金属を保持したほうがいいのです。したがって、国家論は金属の使用に反対するのではなく、金属の使用を正当化する通常の理由に反対するのみである。金属学者たちの理論は狭すぎる。本当に一般的な理論は、金属を使う余地はあるが、それに縛られることはないのだ。しかし、狭すぎる理論は常に間違っている。それは、正しいものを含んでいないからではなく、正しいものを全く含んでいないからである。
このように、貨幣制度の法的・歴史的基盤は、金属の技術的使用についてだけ述べている限り、不完全なままである。国家の立場とその法制度が同等の注意をもって考慮されて初めて、その基盤は完全なものとなる。貨幣制度の法理を抜きにして、この現象に対する十分な理論はないのである。
歴史家がコインに研究を向けるのは当然である。コインキャビネットは常に重要な位置を占めますが、例えば

例えば、バビロニアから地中海沿岸の国々に錘が伝わったという情報があるからだ。しかし、これらの貨幣の使用に関する法律上の規則が解明されていない限り、貨幣の構成について、これらから完全なものを学ぶことはできない。そして何より、どの時点のコインが、衰退したとはいえ、宣言的な価値を持っているのか、ということを検証する必要があるのです。しかし、実際の重量が決定的である限り、硬貨は貨幣ではなく、センセーショナルな支払手段である。
貨幣の歴史に希望が持てるのは、研究者がまず最近の貨幣憲法を法律的に研究する場合だけである。なぜなら、より最近の時代だけが明るく完全に照らされて目の前にあるからである。そうでなければ、古代にあるその前段階は、まったく理解できないままである。現在の形成が、古代の臆病な始まりによって明らかにされたとは言えない。しかし、古代の手探りの試みは、現在の貨幣制度の法的構成に対する洞察によってのみ説明される。したがって、貨幣の歴史だけでは断片的な情報しか得られないが、貨幣の国家理論は支払いの法制史の鍵でもあるのだ。
しかし、国家論は、これまでとは全く異なる方法で近代を判断することを教えてもいるのだ。「現金通貨がメインで、想定外通貨は、例えば非常に少額の支払いの場合など、ごく付随的に認められるだけで、その場合は、鞘取り通貨として、つまり限定的に強制的に受け入れられるものとして現れるかもしれません。この現金中毒は、観念的な恥ずかしさとあいまって、1857年以来ドイツで広まり、唯一の真の健全な理論と見なされている。しかし、ドイツとイギリス、フランス、オーストリアの両方において、実際の開発は何を教えてくれるのだろうか?つまり、新しい法律が制定されるたびに、想定される種類の貨幣は新たな広がりを見せ、それに応じて現金通貨はますます狭い範囲に押し込められるということである。私たちは、大きな支払いにはすべて銀行券とライヒスカーゼンシャインを使います。一方、金貨はついでに使うだけです。その銀行券が償還可能だと言われたら、まず、誰がその銀行券の償還を要求しようと思いますか?第二に、プラリスがターラーを利用しなくても、償還する民族がターラーを提供することもできる、という事実を誰が考えているのだろうか。

Ganz ähnlich steht es in unseren Nachbarländern.
Es ist also zutreffend, wenn wir sagen: im innern Verkehr herrscht das notale Geld in einer Weise vor, die ganz unverkennbar ist. Notale Geldarten sind also doch wohl für den innern Verkehr aus: reichend. Es gibt sogar schon Metalisten, die sich dieser Wahrheit öffnen. Es bleibt also der sehr viel engere Saß übrig: unser bares Geld hat seine Hauptverwendung im Verkehr mit dem Auslande. –
Unser bares Geld ist bekanntlich Goldgeld; ebenso das bare Geld in England, in Frankreich, in Österreich. Wenn es wesentlich dem ausländischen Verkehre dient, wie wir gejehen haben, so ist dies goldene bare Geld vielleicht das lang ersehnte Weltgeld, das Geld für den vielgepriesenen Weltverkehr. Ist es so, dann wäre eine hohe Stufe der Entwickelung erreicht. Aber ist es denn jo?
Das Weltgeld ist nichts weiter als eine bildliche Redensart. Es gibt Einrichtungen für den Weltverkehr, aber daß die Goldmünzen der genannten Staaten Weltgeld seien, ist nicht wahr. Niemals war der Saß strenger durchgeführt als heute, daß in jedem Staate nur das einheimische Geld zu Zahlungen verwendet wird. Das deutsche Zwanzigmarkstück gilt in Frankreich nicht. Das französische Zwanzig frankstück gilt in Deutschland nicht. Es gibt gar kein Weltgeld.
Die Ausbreitung der Goldwährung seit 1871 bedeutet etwas ganz anderes: die Staaten haben für ihr bares Geld das gleiche Metall gewählt, nämlich das Gold. Unser bares Geld ist technisch verwandelbar in französisches bares Geld; ohne diese Verwandelung aber gilt es dort nicht.
Der Sinn dieser Maßregel ist: es soll zwischen deutschem und französischem Gelde ein fester Kurs aufrecht erhalten werden; der Frank soll 81 Pfennige kosten, wenn der Deutsche auf der Börje Franken kaufen wil. Diese Einrichtung ist vortrefflich – aber wer kann so unjuristisch sein, hier von Weltgeld zu reden? Es besteht nur eine Verwaltung des Wechselkurses, und das ist doch etwas
ganz anderes.
Demnach dient unser bares Geld vorwiegend zur Befestigung der Wechselkurse. Gäbe es andere Mittel zu diesem Zwecke, so wäre das bare Geld auch im auswärtigen Verkehr nicht mehr so wichtig aber den Ausblick auf solche Möglichkeiten wollen wir lieber unterlassen. Bleiben wir bei der jeßt erreichten Entwickelung stehen: notales Geld im innern Verkehr; bares Geld, und zwar goldenes,
wegen des auswärtigen Verkehrs. Das ist heutzutage der Sinn der fast überall eingeführten Goldwährung. Halten wir sie also fest! Es hat lange genug gedauert, bis man zu diesem Ziele gelangt ist. Nur glaube man nicht, dieser Segen beruhe auf dem Gold: Mit Silber als Metall für unser bares Geld hätte man dasselbe erreichen können; aber England hatte Gold, und die anderen Staaten schlossen sich also an.
 Fassen wir alles Sejagte kurz zusammen.
 Ale Menschen begreifen leichter die Erscheinungen der sinnlichen Welt als die der geistigen Welt; alle Laien verstehen leichter die Erfindungen der Technik als die Erfindungen des Rechtslebens. Gezogene Kanonen und rauchloses Pulver sind verständlicher als die Organisation des Heeres. So ist auch in der Verfassung des Zahlungswesens der sinnliche Teil weit faßlicher als der administrative Teil. Jedermann versteht den Autometallismus, den wir nicht mehr haben; aber nur wenige verstehen die Chartalverfassung des Geldes, die wir haben: denn sie beruht auf Rechtsjäßen, die den Gebrauch der Stücke regeln, und auf einer Verwaltungstätigkeit, welche den internationalen Kurs in Ordnung hält. Die Rechtsordnung ist immer formalistisch, deshalb ist auch die staatliche Theorie des Geldes im Grunde ganz formalistisch. Wer das Geldwesen begreifen will, der muß sich auf den Boden des Rechtslebens stellen, und dann ist nicht mehr die Frage, ob man formalistisch denken will oder nicht sondern dann ist das formalistische Denken eine Notwendigkeit.
Die Aufgabe des Theoretikers ist so gestellt: von welchem Grundgedanken aus erscheint die Rechtsordnung des Geldwesens innerlich folgerichtig? Diesen Grundgedanken zu finden, ist die Sache des analytischen Verstandes. Wir finden ihn in dem oft erwähnten Saße: die Werteinheit ist nominal, sie ist ein historischer Begriff, und sie hat an sich keinen technischen Inhalt. Wem dies Ergebnis nicht gefällt, der muß entweder nachweisen, daß wir uns in der Entwickelung des Grundgedankens irren; oder er muß sagen: eine solche Rechtsordnung soll nicht bestehen. Dann aber muß er eine andere Rechtsordnung vorschlagen und dafür sorgen, daß sie sich verwirklicht. Bis jeßt hat man nicht erlebt, daß einzelne Besserwissende die Rechtsordnung umschaffen; denn sie beruht auf einem historischen Werden, dessen Ziele nicht von vorn herein vorschweben, sondern erst nachträglich werden diese Ziele vom Theoretiker erkannt, nachdem die unbewußt handelnde Praris einen Tatbestand geschaffen hat.
 Und so ist es heute schon ganz klar: das Geldwesen ist durch Erfindungen der Technik in seinem Werden unterstüßt, es ist aber nicht eine Ausgeburt der Technik, sondern ein Geschöpf des Rechts. Die Rechtsordnung aber wird nicht von vorn herein fertig gemacht, sie entsteht nach und nach aus Bruchstücken, die von den Praktikern dargeboten werden, – das weiß jeder Historiker – und erst nach träglich wird das so Gewordene durch die Rechtshistoriker auf seine Grundgedanken zurückgeführt. Dies für das Gebiet des Geldwesens zu leisten, ist das Ziel der staatlichen Theorie des Geldes.


60
6. F. Knapp. Die rechts historischen Grundlagen des Geldwesens.
(942


近隣の国でも状況はよく似ています。
したがって、社内取引においては、紛れもなく「想定元本」が支配していると言ってよい。そのため、内部取引は想定通貨で十分です。この真実に開眼したメタリストもいるくらいです。つまり、私たちの現金の主な用途は、外国との取引であるということだ。-
よく知られているように、わが国の現金通貨は、イギリス、フランス、オーストリアの現金通貨と同様、金貨である。この金貨が、これまで見てきたように、本質的に外国の交通に役立つものであるならば、この金貨は、おそらく悲願の世界貨幣、つまり、待望の世界交通のための貨幣なのであろう。そうであれば、高い開発段階に到達したことになる。しかし、それはjoなのか?
世界の貨幣は比喩的な表現に過ぎない。世界交通のための制度はありますが、前述の国家の金貨が世界貨幣かというと、そうではありません。各州で、地元のお金だけを支払いに使うという法律が、今日ほど厳格に施行されたことはなかった。ドイツの20マルク片はフランスでは通用しません。フランスの20フラン硬貨は、ドイツでは無効です。世界のお金はまったくない。
1871年以降の金貨の普及は、全く別の意味である。各州が現金通貨に同じ金属、つまり金を選んだのである。私たちの現金は、技術的にはフランスの現金に変換することができますが、この変換をしなければ、現地では有効ではありません。
ドイツ人が証券取引所でフランを買おうとするとき、フランは81フェニッヒでなければならないのである。このアレンジは素晴らしい。しかし、ここで世界のお金について語るほど、不純なことはないだろう。為替レートの管理だけで、それは全く別のものです。
は全く違います。
したがって、私たちのキャッシュマネーは、主に為替レートを固定する役割を担っています。そのための手段が他にあれば、海外との取引において現金の重要性はなくなるのだが、そのような可能性を検討するのは控えたい。私たちは、内部取引における想定貨幣、現金貨幣、そして金貨という、今到達した展開に留まることにしよう。
海外からのトラフィックのため それが、現在ほぼすべての国で導入されている金貨の意味である。だから、私たちはそれを持ち続けることができるのです この目標に到達するまでには、十分な時間がかかりました。しかし、この祝福が金に基づいていると考えてはいけない。現金通貨の金属が銀でも同じことができたが、イギリスは金を持っており、他の国もそれに参加した。
 ここで、これまでの話を簡単にまとめておこう。
 すべての人は、精神世界の現象よりも感覚世界の現象の方がわかりやすい。すべての素人は、法律生活の発明よりも技術の発明の方がわかりやすい。引き抜いた大砲と無煙火薬は、軍隊の組織よりも理解しやすい。だから、支払いシステムの構成においても、感覚的な部分の方が管理的な部分よりもはるかに理解しやすいのだ。貨幣は、駒の使用を規制する法律上の命令と、国際的な秩序を維持する行政活動に基づいているからである。法秩序は常に形式的であり、したがって、貨幣の国家理論も基本的には極めて形式的なものである。貨幣制度を理解しようとする者は、法的生活の場に身を置かなければならない。そうすれば、もはや形式的な思考をしたいか否かの問題ではなく、形式的な思考が必然的に生じるのである。
理論家の課題はこう設定される:貨幣システムの法的秩序は、どの基本的な考え方から内部的に一貫しているように見えるか?この基本的な考え方を見つけることが、分析的思考の仕事である。それは、よく言われるように、価値の単位は名目的であり、歴史的な概念であり、それ自体には技術的な内容はない、というサセの中に見出すことができる。この結果を好まない人は、基本的な考え方の展開に間違いがあることを証明するか、そのような法秩序は存在すべきではないと言わなければなりません。しかし、その後、彼は別の法制度を提案し、それが実現するのを見届けなければならない。なぜなら、法秩序は歴史的展開に基づいており、その目的は当初から考えられていたわけではなく、無意識に行動するプラリスが事実を作り出した後に、初めて理論家によって認識されるからである。


 つまり、通貨制度は技術の発明によってその発展を支えられているが、技術の産物ではなく、法の産物であることは、今日すでに明らかなのである。しかし、法制度は最初から完成しているわけではなく、実務家が提示する断片から徐々に現れてくるものであり、それは歴史家なら誰でも知っていることである。貨幣の国家理論が目指すのは、貨幣の分野での実現である。


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6 F. Knapp. 貨幣制度の法的歴史的基盤。
(942)


1 件のコメント:

  1. Saße サセ ではなく
    sache =case ケースのまちがい

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