2022年4月23日土曜日

転形論アンソロジー 50~60頁

転形論アンソロジー50~60頁


第一章 マルクス体系における価値計算と価格計算(一九〇六~七年)

Wertrechnung und Preisrechnung in Marxschen System,
von Ladislaus von Bortkiewicz

ラディスラウ・フォン・ボルトキェヴィツ 
第一節

8 ツガン=バラノウスキー
 正統派マルクス主義に属するヒルファディングに対して、ツガン=バラノウスキーは修正派(急進的修正派といってよいだろう)の立場を代表している。急進的といったのは、彼が多くの点で、いく人かの「俗流経済学者」よりもはるかにマルクスの学説を認めていないからである。そして彼は、いわゆる科学的社会主義に対する最も有力な反対者たちが、遠い昔からマルクスに加えてきた反論にまでさかのぼることをいとわなかった。こうしてツガン=バラノウスキーは、ゲオルグ・アドラーに依拠しながらこういっている。「資本主義的に組織されている国民経済においては、価格構成のさいに重要なものは、けっして商品に保有される労働量ではなくして、これに照応する資本投下である」(1)と。そしてこのことから、彼はマルクスの価値論を「崩壊してゆくもの」と見なしているし、また「商品交換という現実にはなんらかかわりのない、無内容なものだ」となしている。もちろんバラノウスキーは、マルクスの価値論の出発点となっている根本概念、すなわち「絶対的労働価値の概念」を内的矛盾に陥っていると批判し、これにもとづいてマルクス価値論に対する自分の駁撃にある独特の方向をあたえようと試みる(2)。

(1)ツガン=バラノウスキー『マルクシズムの理論的基礎』(ライプチヒ、一九〇五年)一四〇ページ。
(2)ツガン、同上書、一四一ページ。

 ツガンは次のように主張する。すなわちマルクスによると、価値は「対象化された労働」である。「労働を生産物へ対象化させる要因は、商品経済においては、さまざまな労働生産物をつくるのに使用された労働を直接に比較することが不可能だいという事実に存する。この比較不可能性は、こうした経済方法においての社会的経済が独立した自主的個人経済からなりたっており、これらの個人経済をむすびつける唯一のものが交換の対象物、つまり商品にはかならないからである。そうである以上、労働の対象化は商品価格のうちにあらわれざるをえない。だから商品は、その価格のほかには、商品のうちに含まれる労働量を表現しようにもすべがない。といっても価格は、労働価値と一致するものではない。したがって、価値はけっして対象化された労働ではないのである(1)。」

(1)ツガン、上掲書、 一四〇ページ。

 右のような論述に対して、ツガン=バラノウスキー自身は、重大な意義をあたえているように思われる。彼の論証の全体をつらぬく基礎は、マルクスの時として使用している「対象化された労働」という言葉をマルクスとはちがった意味に解している、という点にある。このことを見ぬくのにさしたる困難はない。マルクスは、生産物における労働の対象化、あるいは物象化について論じるさい、生産物はただ一つの目に見える、物質的な労働の成果をあらわしている、ということ以上のことを主張していない。ということは、マルクスにおいては、労働は非物質的なものとしての「労働力の支出」とみなされており、これに対立するのが物質的な事物としての生産物、すなわち商品だ(1)、とみられている。そうだとすると、バラノウスキーのように、労働が価格のうちに対象化されている、という主張は、マルクスの表現方法に相反している。けだし、たとい価格という現象は、それを交換関係だというふうに解しようと、あるいは交換に登場する財、つまり貨幣だというふうに解しようと、いずれにせよ二つの財を相互に関係させることによってのみ成立するものであるからだ。ところがマルクスでは、労働の対象化というときそれは、ある財をつくるため支出された(抽象的。人間的な)労働と生産された財そのものとの間の関係を示すはずのものなのである。ここでは、その他の点についてマルクスの用語を弁護する必要はないであろう。われわれはただ、ある特定の言葉に拘泥するだけであって、言葉の正確な意味に注意をはらわないような批判にたいしては、いつでも抗議しなければならない(2)。

(1)『資本論』第一巻、五ページ〔邦訳、Ia、五二―五三ページ〕。
(2)ツガン=バラノウスキーによると、マルクス体系に特有な概念は、「絶対的労働価値」である。そしてこの彼の表現方法は、「絶対的」労働価値理論と「相対的」労働価値理論の区別に対応する。前者は労働を唯一の価値要因とするものであり、後者はさまざまな価値要因のうちで労働が相対的に最も重要な要因となるばあいを指している(上掲書、136ページ)。 したがって「絶対的労働価値」とは、絶対的労働価値理論によって規定される価値のことだ、ということができるだろう。私はこの点を注目したいと思う。というのは、もしそうでないとしたら、「絶対的価値」は普通、交換価値に対立させて理解してしまうからである。この論点については、フランクの明晰な考察『マルクスの価値理論とその意義』(一八三―一九三ページ)を参照されたい。

 バラノウスキーはマルクスの価値論にたいして、限界効用理論の立場からもう一つの反論を加えようと試みている。この場合においても彼は、先達者たちのマルクスに対立する非難をある新しい形で装うことに熱中している。すかちツガンの強調するところによれば、労働は、マルクスの教えるような価値の「唯一の実体」ではなくて、「絶対的費用」の「唯一の実体」だというのである。

(1)ツガン、上掲書、 一四五ページ。 

 ツガンの絶対的費用という概念は、生産過程のある解釈に対応している。この解釈によると、人間は経済の主体として直接的に自然に対立しているものであり、したがってそのあいだに存在する社会的中間項はいっさい無視される。もしもこういう見方に立つならば、財が人間に費やさせるものは労働しかない。これは、わかりきったことであり、そしてまた正当な命題であるが、しかしけっして新しいことではない。私の知るかぎりでは、ツガン=バラノウスキーよりも前にいわれることのなかったものは、「絶対的」費用と「相対的」費用という名称(相対的費用というのはこれまでの学説で「生産費」にあたる)だけである。しかも実質的にみると、アドルフ・ワグナーにおいてツガン以上に厳密に、しかも注意深く論じられているのである(1)。

(1)アドルフ・ワグナー『経済原論』第一部、四〇〇―四〇五ページ。

 ついでいえばツガンによると、絶対費用というカテゴリーは「新しい経済学の要点」となるべきものである。かれはその「絶対的労働理論」を代表していろいろ語っているけれども、残念ながらその内容にたちいってみると、この新理論の厳密な説明が何もないのだ(1)! ただはっきりしていることは、それが価格形成の理論となんのかかわりもないということだけである(2)。

(1)ツガン、上掲書、一五一、一四五ページ。
(2)同上書、一四九ページ。

 価格形成の理論にとってはむしろ、ツガンの相対的費用の方が考察に値するし、それとならんで効用および限界効用という要因も重要な考察の対象となるだろう。だがこうした点をめぐってのツガンの論述は、思想の独自性という点からみても、またその立論の仕方からみても特にすぐれたものということができない。そこでここではこれ以上ふれないことにしよう(1)。

(1)ツガン=バラノフスキーは、とくに労働組合が賃金に及ぼす影響を限界効用理論の立場から説明しようと試みているが、この点はフォン・ウィザーと一致している。『経済価値の根源と根本法則』二〇五―二〇六ページ。

 けれどもツガンは、マルクスの「価値表式」と「価格表式」との関係をいっそう詳細に論じ、これによってマルクス批判家として非常に有利な立場に立っている。すなわち彼は、平均利潤率を導きだすために総剰余価値を総資本と比較するマルクスのやり方は、承服しがたいものだといって、これを一つの計算実例にもとづいて指摘した。この場合ツガンは、マルクスとは逆に、ある大いさの価値ないしは剰余価値から出発するということはせず、またこれによってそれに照応する価格関係および利潤関係に到達しょうともしないのである。そのかわりに、価格と利潤とにかんしてある仮定をつくり、そしてそこから照応する価値表現と剰余価値率を決定しようとしているのだ。

 ツガンによると、社会的生産には三つの部門が区別される。第一の部門Iにおいては生産手段が、第二の部門IIにおいては労働者の消費手段が、第三の部門IIIにおいては資本家の消費手段が生産される。このさい、労働者と資本家との二つの階級のほかの社会階級は度外視される。さらに、不変資本ならびに可変資本は一年に一回転すること、なんらの資本蓄積も行われないこと、これらのことが仮定される。このような前提のもとで、再生産および社会的所得の分配が次のような表式にしたがって行なわれる。 ただし次の表式において、p、a、rは、それぞれ貨幣価格(じつは百万マルク単位)であらわされた生産手段(不変資本)、賃金(可変資本)、資本利子(利潤)の年分量を示している。さらに、表式にあらわれる数は、利潤率が三つの部門においてすべて等しい (つまり二五パーセント)だという条件をみたすものと仮定する。

不变p 可変a 利潤r p + a + r
I  180 60 60 300
II  80 80 40 200
III  40 60 25 125

 この表式にしたがえば、不変資本は生産手段の生産に最大の役割を演じており、これにたいして資本家階級c消費手段の生産においては最小の役目をはたしている、ということが知られる。
 さて次に、貨幣価格を労働価値に変えること、より簡単にいえば価格を価値に変えることが必要とされるわけであるが、この目的のため、第一の生産部門においては一五万人の労働者が一年中働いていると仮定される。一億八千万マルクの価格の生産手段の助けによって、かれらは三億マルクの産出高をつくりだす。この産出高の価値を千単位の労働年であらわしたものをXとすれば、生産に費やした生産手段の価値は、

180/300X

にひとしい。したがって次の方程式をえる。

180/300X+150=X

これから

X=375

 これをいいかえると、 生産手段における価値と価格との割合は、375 対 300、すなわち5 対 4 である。さらに労働者一人あたり年賃金は、上述の金額によるとこうなる。

60,000,000マルク/150, 000=400マルク

 そして第一、第二、第三部門の生産手段の価値は、それぞれ 225, 100, 50千労働年によって、第二、 第三部門の労働者数はそれぞれ200, 150千労働年によって、さいご に第二、第三部門において生産された生産物の価値は、 それぞれ300, 200 千労働年によって、 あらわされることが知られる。しかしながら、

200/300

の商は明らかに剰余価値率をあらわしている。これらの結果は次のような式で綜合することができる。

不变p' 可変a' 利潤r' p' + a'+ r'
I  225 90 60 375
II  100 120 80 300
III  50 90 60 200

(1)ツガン=バラノウスキーが価格を価値に換算するさいに用いた方法の根底には、つぎのような仮定がある(Xを規定するのに用いた方程式を参照せよ)。すなわち、三つの生産部門で使用される生産手段の三つの群をみると、そこでのいっさいの生産において資本の有機的構成が同一だ、という仮定である。

 p'、a'、r'の大いさは、p、α、rという価格表現に対応する価値表現であって、ツガンは次のように説明している。「この二つの式を較べてみると、いっさいの分配関係は、それが貨幣で表現されるか、あるいは労働価値で表現されるか、に応じて異なったものになるということが知られる。つまり第一の表式においては、社会的可変資本は、社会的総生産物の価格のヽ鍵呻すなわち32パ‐セントを占めているのにたいして、労働価値としては社会的総生産物の出出すなわち34パーセント(より正確には34.3パーセント)を占めている。また利潤は、貨幣価格によって計算すると、25パーセントに等しい。ところが労働価値によってみれば、200/675すなわちおおよそ30パーセント(より正確には29.6パーセント)に達しているのである」(1)と。

 (1)ツガン、上掲書、 一七四ページ。

 さて次に、ツガンはこういう問題を提出する。すなわち、この二つの利潤率のうちのいずれが「現実的妥当性」をもっているか。これに答えて彼は次のようにいう。第一の表式、すなわち価格表式であらわされている方が、現実に妥当するものだ。なぜかといえば、「利潤形成は事実上、商品価格を基礎にして初めて行なわれるものである」からだと。このように、 マルクスが樹立した価値と剰余価値とにかんする法則は、かれ自身がみとめているように、たんに個々の生産部門のうえに全く適用できないばかりか、資本家階級全体に帰属する社会的生産物の分け前すらもぜんぜん決定することができないのである。

(1)ツガン、上掲書、 一七三ページ。

 この点にかんする限り、ツガンのマルクスヘの反論は、疑いようもなく正当である。しかもここで取り扱われている問題は、けっして軽視すべき性質のものでないことも明らかである。というのも、この問題は「利潤率低落の法則」と最も密接な関連をもっているからである。

(1)マルクスの理論構造にたいして(例えばカウツキーほど無批判的ではないにしても)反論を加えているコンラッド・シュミットもまた、平均利潤率は前貸資本に対する総剰余価値量の割合に一致するという命題を明らかにしている。『社会政策中央公論』2八九五年)第二二巻、二五八ページを参照。

 マルクスは利潤率低落の法則を、「アダム・スミス以来の経済学がいずれも解決しようと苦しんできた神秘」だと称した。そして彼はまた、利潤率低落の傾向法則を容易に説明できることが、彼の理論がすぐれたものであることの決定的な証拠であると主張したのである。すなわち、総資本にたいする剰余価値(m)、いいかえると不変資本(c)と可変資本(v)との量にたいする剰余価値の割合としての利潤率は、総資本のなかの不変資本の分量が時代とともに増加し、それが資本家的生産の発展法則だというそれだけの理由から、ますます小さくならぎるをえないと。だから、もしマルクスとともに利潤率をm/(c+v)であらわすなら、利潤率はm/vとv(c+v)との積としてあらわすことができるはずである。さてこのうちの第一の要因姦.、いいかえると剰余価値率は不変であるが、一方もう一つの要因、つまり総資本中に占める可変資本の分量をあらわすv/(c+v)が減少するとしよう。(このことは不変資本の増加と同じことを意味している)そうすると今問題になっている積、いいかえれば利潤率は明らかに小さくなるわけだ。
 けれどもこのような推論は、次のような事情からくつがえされるであろう。というのも、分数m/(c+v)というのは、利潤率を正しく表現していないからである。この低下の傾向はマルクス以前のすべての経済学者が問題としているが、事実上それがどうであったかということだけが興味の対象になるものであろう。さきにあげたツガンの表式の言葉をかりるならば、 マルクスの犯した誤りは、r/(p+a)とr'/(p'+a')との二つの大いさを混同したところにあると確言できるだろう。

 こうみてくるとわれわれは、マルクスの基礎的理論にもとづく利潤率低下の法則は、「偽りにみちたみせかけの議論」以外のなにものでもない、というツガンの説に無条件に同意しなければならない。
 このようなマルクス批判の結論と関連して、ツガンはこれとは独立に、「利潤率変動の正しい法則を確立しようとする」ある試みをなしている。それはこういう法則である。すなわち総資本中に占める不変資本の分け前の増加は、それが社会的労働の生産性の減少とともに起きるか、それとも増加とともに生じるか、によって相反する結果をもたらす。つまり第一の場合には利潤率の低落を生じ、第二の場合には利潤率の上昇をもたらすのであると。
 このような法則の論証過程をめぐっては、いろいろな問題が指摘されうるだろう(1)。しかしながら、本書の対象としては、ツガンの議論のうちでマルクスの学説を説明したり、反論したりするために役立つ限りにおいてのみ、考察されるだろう。

(1)この論証のさいに、ツガンは価値と価格との大いさをもはや区別していない。三つの生産部門のすべてにわたって資本の有機的構成が同じだと仮定したからといって、それが誤りだとはいえない。

 このような立場からみると不変資本の分け前が増加するにもかかわらず、利潤率が増加するケースをツガンが説明(1)している箇所があるが、しかしこのさい、この現象は剰余価値率の増加と手をたずさえて進むものだ、ということを明らかにしておく必要があるだろう。ところが、剰余価値率の上昇が利潤率の低落を抑制する働きをもつということ(2)は、 マルクス自身が指摘したところである。

(1)ツガン、上掲書、一八〇―一八一ページ。
(2)マルクス『資本論』第三巻、二一三―二一六ページ〔邦訳、Ⅲa、二九一―二九五ページ〕。

 しかしながら、この点よりも、利潤率の変化を解明する表式から資本利潤にかんするマルクスの理論を拒否しようとするツガンの方法の方が、いっそう重要な疑問点をよびおこす。すなわち、一般的利潤率は社会的資本の構成、いいかえると不変資本と可変資本の割合に依存するものではない、と彼は信じている。だが、もしそうだとすると、可変資本は利潤の唯一の源泉だとみなすことができなくなる。このようにして、物的生産手段と生ける労働との区別は、利潤形成にかんするかぎり根拠のないものとなり、「マルクスが不変資本と名づけた資本部分は、可変資本とまったく同じように利潤の源泉である」とツガンはいう。こうしてマルクスの利潤論はことごとく崩壊し、総資本を無差別的に利潤の源泉とみなすような「俗流経済学」が正しいという結末になる。

(1)ツガン、上掲書、 一八八ページ。

 明らかにこのツガンの論証は、まちがっている。というのも、利潤率が資本の構成にかかわるところがないということを、彼は実際上すこしも証明していないからである。せいぜい、 マルクスが主張しているような資本構成と利潤率との関連は存在しない(1)、ということを述べたにすぎない。もっとも、これによって出てきた状況というのは、資本利潤を説明するための「生産力説」にもどらねばならないほど絶望的なものではないけれども。 

(1)もともとツガンは、ここで主張されている両者の関連を説明するのに、マルクスの議論は有効でないという証明しか提出しなかった。

 ツガンとは反対に、わたくしはこう信じている。「生産力説」はベーム=バウェルクによって決定的排撃をうけているのであって、この理論を再建しようとする試みはいずれも、無益な企てとなるだろうと(1)。資本利潤をめぐってのツガン自身の主張する理論、より正確にいうとこの理論の純経済的な側面、とくに資本の増殖過程は「搾取される」労働者階級の存在によって制約されるものではないという彼の議論にみられるような純経済的側面は、じつは上述の生産力説のほかのなにものでもない(2)。

(1)ツガンはこう考えている。すなわち、このマルクス批判はベームによって決定的になっていない、というのは、ベーム自身、生産力説の基礎のうえにたっているからだと(上掲書、一九七ページ)。ところで一方、ベームの資本利子理論は、その主たる論点においては、けっきょく生産力説をむしかえして定式化したものに帰着するといえるだろう(この点、私の論文「ベーム=バウェルクの利子学説の根本的誤謬」『シュモラー年報』(一九〇六年を参照)。けれどもベーム自身はこのことを意識していない。そしてこのように、無意識的に、しかも自分の意志に反して、生産力説にたよってしまったことが、この説にたいしてなした反論を無効なものにしているのである。ベームはこのようなところに気付いていない。
(2)ツガン、上場書、二二三―二三九ページ、 とくに二三〇ページ。「労働者階級は消えうせるかもしれない。 しかしこのことは資本の増殖過程を少しも妨げないだろう。」

 このような説明は、もしわれわれが労働、あるいは「剰余労働」が資本利潤の唯一の創造者だという見解からはなれるとき、どのような誤りにおちいるものであるかということをよく示している。そしてこのように見る立場にこそ、マルクス(またはリカード)の体系の有効な点、真に意味のある点が存するのだ。剰余価値理論の意義も、剰余価値論のなかには「健全な社会的核心」があるというツガンの議論につきるものではないし、また彼が好んで論じた不労所得の存在を確認するということだけにつきるものではない。この点を論証するのが、第二節の課題である(1)。

(1)ツガン、上掲書、一八九―二〇六ページ。この第八章は、そこで展開されている思想が斬新であるためかえって陳腐なものになっているが、著者は、社会主義者の読者に、ある意味では自分自身に、心安まるような彼自身の確信を述べている。つまり、彼はなお主要な点ではマルクスから離れていないといっている。このため、ツガンは、どんな形をとる所有でも、それはある階級かもう一つの階級を「掠奪すること」ないしは「圧服すること」とおなじものだと考えているのである。

論争の状況、そして主役をになったひとびとの最近のコメントなどを集録、訳出したものである。訳者ははじめ、サ
Hエルソン論文(一九七一年)を含めた「マルクス。アンソロジー/現代理論による再評価」を構想したが、七七年、
伊藤·桜井,山口編訳『論争·転形問題||価値と生産価格|』(東京大学出版会)が出版された。また、森嶋の最近
の二論文、「近代理論からみたマルクス」(一九七四年)および「歴史的転形は存在するか」(一九七五年)をも訳出企画
に入れていたが、 この二つは くalue, Exploitation and Growth (1978, McGrow-Hill) に収められ、その邦訳も出産
た(森嶋通夫,カテフォレス/高須賀·池尾訳『価値·搾取·成長』《創文社>)。読者は、これらの編訳書もあわせて読まれ
ることが望ましい。
* Rt # H D r ERTA ' Wertrechnung und Preisrechnung in Marxschen System, von La-
dislaus von Bortkiewicz # Archiv Für Sozialwissenschaft und Social politik E*
に一九〇六年からその翌年にかけて、三部にわけて掲載されたものである。わが国では一九二三年、国松久弥、岩野
晃次郎共訳『マルクス価値学説批判』(日本評論社)として出版された。戦後の一九五二年、イギリス の 雑誌 Inter-
national Economic Papers は、その第二部と第三部のみを英訳掲載した(訳者は J. Kahne)。そして一九七六年、西
独でブルジョア的なマルクス批判文献の第二篇として、はじめて一本にまとめられて出版された (ホルスト.マイクス
ナー、マンフレド·ターバン編)。
旧邦訳はなにぶん五〇数年もまえのもので、文章解釈上の明らかな誤り、不適当な訳語、脱落、印刷上の誤植が目
だつ。また英訳にも原本の文章の欠落している箇所が散見される。そこで本編訳では右のドイッ版を底本とし、旧邦
訳と英訳とを参照した。なお旧邦訳には訳者註として補足的説明が附されている。英訳にも訳者註があちこちに播入
されている。ここではこれらを参照して必要なかぎり訳者註としての説明をいれた。
1 1 E URte XUH ("Objectivismus und Subjektivismus in der Werttheorie") 1R

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