2021年4月23日金曜日

エチカ 補遺


 エチカ


 定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。
 証明 これを否定する者は、もしできるなら、神が存在しないと考えよ。そうすれば(公理七により)その本質は存在を含まない。ところがこれは(定理七により)不条理である。ゆえに神は必然的に存在する。Q・E・D・



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 定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。
 証明 神のほかにはいかなる実体も存せずまた考えられえない(定理一四により)。言いかえれば(定義三により)神のほかにはそれ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられる物は何もない。一方、様態は(定義五により)実体なしには在りえずまた考えられえない。つまり様態は神の本性のうちにのみ在りうるし、かつこれによってのみ考えられうる。ところが実体と様態のほかには何物も存しない(公理一により)。ゆえに何物も神なしには在りえずまた考えられえない。Q・E・D・
 備考 神が人間のように物体〔身体〕と精神とから成り・感情に支配される、と想像する人々がある。しかし彼らが神の真の認識からどんなに遠ざかっているかはすでに証明されたことどもから十分明白である。私はこうした人々のことを問題にせずにおこう。神の本性についていやしくも考察したほどの人なら誰でもみな神が物体的であることを否定するからである。このことを彼らは、次のことから、〜〜物体とは長さ・幅・深さを有しある一定の形状に限定された量をいうのであるが、神すなわち絶対に無限な実体についてそうしたことを言うほど不条理なことはありえないということから、最もよく証明している。
 しかし一方彼らは、このことを証明するのに用いた他の諸理由によって、彼らが物体的実体そのものあるいは延長的実体そのものをも神の本性からまったく遠ざけていることを明らかにし、そして物体的実体は神から創造されたものであると主張する。しかしそれがどんな神の能力によって創造されえたのかを彼らは全然知っていない。これは彼らが自分自らの言うところを理解していない明白な証拠である。私はいかなる実体も他のものから産出ないし創造されえないことを、少なくも自分の判断では、十分明瞭に証明した(定理六および定理八備考二を見よ)。我々はまた定理一四で、神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえないことを示し、このことから〈(この部の同定理系二の中で)〉延長的実体が神の無限に多くの属性の一であることを結論した。
 しかしこれをもっと詳しく説明するため、私はここに反対者たちの論拠を反駁するであろう。彼らの論拠はすべて次の点に帰着する。
 第一に彼らは、物体的実体が実体として部分から成っていると思っている。そのゆえに彼らはそれが無限でありうることを、したがってまた神に属しうることを否定する。彼らはこれを多数の例で説明する。その一、二を私は引用してみよう。彼らはこう言う。〜〜もし物体的実体が無限であるなら、それが二つの部分に分割されると考えてみよ、そうすればその各部分は有限であるか無限であるかであろう、もし前の場合なら無限のものが二つの有限なる部分から成ることになるが、これは不条理である。もし後の場合〈すなわち各部分が無限である〉ならある無限のものより二倍の大きさの無限のものが存することになるがこれも不条理である。次に、もし無限の量をフィート単位で測るならそれは無限に多くのフィートから成るに相違ない。またインチ単位で測るなら同様に〔それは無限に多くのインチから成るに違いない〕、したがって一の無限なる数より三倍大きいことになり〈これも前のことに劣らず不条理である〉、最後に、もしある無限の量の中の一点から発するAB、ACのような二線が初めはある一定の距離をもって遠ざかりつつ無限に延長されると考えるならばBとCの間の距離はたえず増大して、ついには限定された距離から限定されえぬものになるであろう。〜〜こうしたもろもろの不条理は、彼らの考えによれば、無限の量を仮定することから生ずるのであるから、彼らはこのことから、物体的実体は有限でなければならぬこと、したがってまたそれは神の本質には属さないことを結論するのである。


 第二の論拠を、彼らは同様に、神の最高完全性からとっている。彼らは言う。神は最高完全な実有であるから働き受けることができぬ、ところが物体的実体は分割可能であるから働きを受けることができる、ゆえに物体的実体は神の本質に属さないと。
 このようなものが著作家たちの間に見られる論拠である。彼らはこれによって、物体的実体は神の本性に価せずまた神の本性に属さないこと示そうと試みている。しかし正当に注意する者は、私がこれにたいしてすでに答弁していること見いだすであろう。なぜなら、これらの論拠は物体的実体が部分から成るという仮定の上にのみ立っているのであるが、そうした仮定が不条理なことは私のすでに(定理一二および定理一三)示したところであるから。さらにまた事態を正常に熟考しようとする者は、次のことを、〜〜すなわち、延長的実体が有限であるという彼らの結論の基礎となっているこれらすべての不条理(それについて今私は論争しないがもしそれがみな不条理なものとして)は決して無限なる量を仮定することから生ずるのではなく、むしろ無限なる量が測定可能でありかつ有限な部分から成ると仮定することから生ずるということを、認めるであろう。ゆえにこの仮定から生ずるもろもろの不条理から彼らの結論しうることは、〜〜無限なる量は測定可能ではなくかつ有限な部分から成りえない〜〜ということだけである。そしてこれは我々が上に(定理一二その他)すでに証明したことと同じである。だから、彼らが我我を狙った投槍は、実は彼ら自身に向かって投げられているのである。
 ゆえにもし彼らがそれにもかかわらず、彼らのこの不条理な仮定から、延長的実体は有限でなければならぬと結論しようと欲するなら、それはある人が、円は四角形の諸特質を有すると想像して、それから、円は円周に向かって引かれたすべての直線の等しいような中点を有しない、と結論するのとまったく異なるところがない。なぜなら、無限で唯一で不可分であるとしか考えることのできない物体的実体(定理八および一二を見よ)について、彼らは、それが有限であることを結論するために、それは有限な部分から成り、多様であり、可分的であると考えているのだからである。同様にまた他の人々は、線が点から成ると想像した上で、線が無限に分割されえないことを示す多くの論拠を発見することを心得ている。そして実に、物体的実体が物体あるいは部分から成るという仮定は、物体が面から成り面が線から成り最後に線は点から成るという仮定に劣らず不条理なのである。
 このことは明晰な推理が誤りないものであることを知るすべての人々、ことに空虚の存在を否定する人々が容認しなければならぬことである。なぜなら、もし物体的実体はその諸部分が実在的に区別されうるようなふうに分割されうるものとしたら、その一部分が消滅して他の部分は依然として前のように相互に結合しているということも不可能ではなくなるであろう。また空虚ができないようなふうにすべての部分が接合しなければならぬという理由もなくなるであろう。まったくのところ、相互に実在的に区別される物にあっては、一が他なしに在りうるしまたその状態にとどまりうるのである。しかし自然の中には空虚なるものが存せず(これについては他の個所で述べる)、すべての部分は空虚ができないようなふうにたがいに協力し合わなければならぬのであるから、このことからしてもまた、部分は実在的には区別されえぬこと、すなわち物体的実体はそれが実体である限り分割されえぬことが帰結されるのである。
 しかし今もし誰かが、なぜ我々は生まれつき量を分割する傾向を有するのかと尋ねるなら、私はその人にこう答える。我々は量を二様の仕方で考える。一は抽象的にあるいは皮相的にであり、これは量を〈普通に〉表象する場合である。他は量を実体として考える場合であり、これは単に知性のみによって〈表象の助けを借りずに〉行なわれる。ゆえにもし我々が表象においてあるままの量に心を留める(これはしばしばそしてより容易に我々のするところだが)なら、量は有限で可分的で部分から成るものとして現われるであろう。これに反してもし知性においてあるままの量に心を留め、そしてこれを実体である限りにおいて考える(これはきわめて困難なことだが)なら、それは、我々がすでに十分示したように、無限で唯一で不可分なものとして現われるであろう。このことは表象と知性とを区別することを知っているすべての人に十分明白であろう。ことに物質はいたるところで同一であってその部分は物質がいろいろなふうに変状すると考えられる限りにおいてのみ区別されるのであり、したがってその部分は様態的にのみ区別されて実在的には区別されないということにも注意するならば、いっそう明らかであろう。例えば水は水である限りにおいて分割されまたその部分は相互に分離されると我々は考える。しかしそれが物体的実体たる限りにおいてはそうでない。その限りにおいては水は分離されも分割されもしない。さらに水は水としては生じかつ滅する。しかし実体としては生ずることも滅することもない。   (水)
 これをもって私は第二の論拠にも答弁したと信ずる。なぜなら、それもまた、物質は実体として可分的でありかつ部分から成っているということに基づいているからである。そして仮にこの答弁でまだ十分でないとしても、なぜ物質が神の本性に価しないかは私の解しえないところである。なぜなら(定理一四により)神のほかには神の本性が働きを受けるいかなる実体も有りえないからである。あえて言うが、すべてのものは神のうちに在る。そして生起する一切のことは神の無限なる本性の諸法則によってのみ生起しかつ神の本質の必然性から生ずる(私がまもなく示すように)。ゆえに神が他のものから働きを受けるとか延長的実体が神の本性に価しないとかいうことは、いかなる理由をもってしても言うことができない、〜〜たとえ延長的実体を可分的であると仮定してもただそれが永遠かつ無限であることを容認しさえするならば。しかし今のところこのことについてはこれで十分である。

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 定理一八 神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。
 証明 在るものはすべて神のうちに在りかつ神によって考えられなければならぬ(定理一五より)。したがって(この部の定理一六系一により)神はその中に在るものの原因である。これが第一の点である。次に神のほかにはいかなる実体も存在しえない(定理一四により)。言いかえれば(定義三により)神の外にあって自立するようないかなるものも存在しえない。これが第二の点であった。ゆえに神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。Q・E・D・

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 定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。
 証明 この定理を否定しようとする者は、もしできるなら、神のある属性の絶対的本性からして、その属性の中に有限でかつ定まった存在ないし持続を有するあるものが生ずる、〜〜例えば思惟の中に神の観念が生ずる、と考えてみよ。さて思惟は神の属性と仮定されているのだから、その本性上必然的に無限である(定理一一により)。しかし思惟は神の観念を有する限り有限であると仮定されている。ところが(定義二により)思惟が有限と考えられるのはそれが思惟自身によって限定される場合のみである。だが思惟は神の観念を構成する限りにおいての思惟そのものによっては限定されない、なぜならその限りにおいて思惟は有限であると仮定されているのだから。ゆえにそれは神の観念を構成しない限りにおいての思惟によって限定されるのである、そしてそうした思惟もまた必然的に存在しなければならぬ(定理一一により)。これで見れば神の観念を構成しない思惟が存在することになる。したがって神の観念は絶対的なものである限りにおいての思惟の本性から必然的に生ずるのではないということになる(なぜなら神の観念を構成する思惟と構成しない思惟とが考えられるのであるから)。このことは仮定に反する。ゆえにもし神の観念が思惟の中に、またはあるものが神のある属性の中に(この証明は普遍的なものであるから何をとろうとも同様である)その属性の絶対的本性の必然性から生ずるとしたら、それは必然的に無限でなければならぬ。これが第一の点であった。
 次に、ある属性の本性の必然性からこのようにして生起するものは定まった存在ないし持続を有することができない。なぜというに、これを否定しようと思う者は、ある属性の本性の必然性から生ずる物が神のある属性の中に在る、例えば神の観念が思惟の中に在ると仮定し、なおまたこの観念がかつて存在しなかったあるいは将来存在しなくなるであろうと仮定せよ。ところで思惟は神の属性と仮定されているがゆえに必然的にかつ不変的に存在しなければならぬ(定理一一および定理二〇系二により)。ゆえに神の観念の持続する限界の外では(というのは神の観念はかつて存在しなかった、あるいは将来存在しなくなるであろうと仮定されているのだから)思惟は神の観念なしに存在しなければならないであろう。ところがこのことは仮定に反する。なぜなら、思惟が与えられればそれから必然的に神の観念が生ずると仮定されているのだから。このゆえに、思惟の中における神の観念、または、神のある属性の絶対的本性から必然的に生起するある物は、定まった持続を有することができ、むしろその属性によって永遠である。これが(証明すべき)第二の点であった。
 神の絶対的本性から神のある属性の中に必然的に生起するすべてのものについても同じことがあてはまることに注意されたい。 

 定理二二 神のある属性が、神のその属性によって必然的にかつ無限に存在するようなそうした一種の様態的変状に様態化した限り、この属性から生起するすべてのものは同様に必然的にかつ無限に存在しなければならぬ。
 証明 この定理の証明は前定理の証明と同様の仕方で進められる。

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  愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名で呼ばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができる。

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 定理八 存在しない個物ないし様態の観念は、個物ないし様態の形相的本質(エッセンティア・フォルマリス)が神の属性の中に含まれていると同じように神の無限な観念の中に包容されていなければならぬ。
 証明 この定理は前の定理から明白であるが、さらに前の備考からいっそう明瞭に理解される。
  この帰結として次のことが出てくる。個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有(エッセ・オブエクティヴム)すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。
 備考 もし誰かがこの事柄をもっと詳細に説明するために例を求めても、私がここに語っている事柄は特殊な事柄だから、これを十分に説明するいかなる例も私は挙げることができないであろう。しかし私はできる限りこの事柄を(一つの例をもって)解説することに努めよう。


 円は、その中でたがいに交わるすべての直線の線分から成る矩形が相互に等しいような本性を有する。ゆえに円の中には、相互に等しい無限に多くの矩形が含まれていることになる。しかしこういう炬形は、どれも、円の存在する限りにおいてでなくては存在すると言われえない。同様にまたこれらの矩形の観念は、どれも、円の観念の中に包容されている限りにおいてでなくては存在すると言われえない。今、かの無限に多くの矩形の中でただ二つだけ、すなわちEおよびDの線分から成る矩形だけが〔現実に〕存在すると仮定しよう。そうすればたしかに、それらの矩形の観念もまた、単に円の観念の中に包容されている限りにおいて存在するだけでなく、さらにまたそれらの矩形の存在を含む限りにおいても存在する。そしてこれによってそれらの矩形の観念は、他の矩形の観念と区別されるのである。

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定理一一 人間精神の現実的有を構成する最初のものは、現実に存在するある個物の観念にほかならない。
 証明 人間の本質は(前定理により)神の属性のある様態から、すなわち(この部の公理二により)思惟の諸様態から構成されている。そしてこれらすべての様態にあっては(この部の公理三により)観念が本性上さきであって、観念が与えられればその他の諸様態(すなわち本性上観念のあとになるもの)が同じ個体の中に存しなければならぬ(この部の公理三により)。したがって観念は人間精神の有を構成する最初のものである。
 しかしそれは存在しない物の観念ではない。なぜなら、その場合は(この部の定理八により)観念自身が存在すると言われえないからである。ゆえにそれは現実に存在する物の観念でなければならぬであろう。
 しかしまたそれは無限な物の観念ではない。なぜなら、無限な物は(第一部定理二一および二二により)常に必然的に存在しなければならぬ。しかし人間についてそれを言うのは(この部の公理一により)不条理である。
 ゆえに人間精神の現実的有を構成する最初のものは現実に存在する個物の観念である。Q・E・D・
  この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。
 備考 ここで読者は疑いもなく蹟(つまず)くであろう。そして躊躇を促す多くのことが心に浮かぶであろう。この理由から私は、読者がゆっくり私とともに歩を進めて、すべてを通読するまではこのことについて判断を下さないようにお願いする。


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すべての個体は精神を有する 二定理13備考

 備考 これによって我々は、人間精神が身体と合一していることを知るのみならず、精神と身体の合一をいかに解すべきかをも知る。しかし何びともあらかじめ我々の身体の本性を妥当に認識するのでなくてはこの合一を妥当にあるいは判然と理解することができないであろう。なぜなら、我々がこれまで示したことどもはごく一般的な事柄であって、人間にあてはまると同様その他の個体にもあてはまる。そしてすべての個体は程度の差こそあれ精神を有しているのである。…



http://nam21.sakura.ne.jp/spinoza/#note4p32

 定理三二 人間は受動に従属する限りにおいては本性上一致すると言われえない。
 証明 ある物が本性上たがいに一致すると言われる場合、それはそれらの物が能力の点で一致するという意味であって(第三部定理七により)、無能力あるいは否定の点で、したがってまた(第三部定理三備考を見よ)受動の点で一致するという意味ではない。このゆえに人間は受動に従属する限り本性上一致するとは言われえない。Q・E・D・
 備考 このことはそれ自体においても明らかである。なぜなら、白と黒とはその両者とも赤でないという点においてのみ一致すると言う者があれば、それは白と黒とはいかなる点においてもー致しないことを絶対に肯定する者である。同様にまた石と人間とはその両者とも有限で無力である、あるいはその両者とも自己の本性の必然性によって存在するものでない、あるいは最後にその両者とも外部の原因の力によって無限に凌駕される、という点においてのみ一致すると言う者があるとしたら、それは石と人間とはいかなる点においても一致しないことをまったく肯定する者である。なぜなら、単に否定においてのみ、すなわち自らの有せざるものにおいてのみ一致する物は、実はいかなる点においても一致していないのだから。  

「スピノザは、石がある衝撃によって空中を飛ぶとき、石に意識があれば、自分自身の意志で飛んでいるのだと考えるだろう、と言っている[書簡六十二]。わたしはこれにさらにつけ加えて、石の考えていることは正しいとだけ言っておく。」「意志と表象としての世界」第24節より

Spinoza sagt (epist. 62), daß der durch einen Stoß in die Luft fliegende Stein, wenn er Bewußtsein hätte, meinen würde, aus seinem eigenen Willen zu fliegen. Ich setze nur noch hinzu, daß der Stein Recht hätte.
Die Welt als Wille und Vorstellung §24

ショーペンハウエル(『意志と表象としての世界』)

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