2021年4月25日日曜日

Amazon.co.jp:カスタマーレビュー: 井原西鶴 (人物叢書 新装版)

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森銑三氏(1895~1985)は生涯の大半を在野で過ごした歴史家、書誌学者である。図書館や資料庫などから発掘した資料の研究をコツコツと積み重ね、
日本史を独自の視点で探究し大量の著書を刊行した。それらの著書は歴史小説家にとって執筆のうえでの基本資料、必須アイテムとして重宝されている。
そんな森氏の数多い著作のなかでもこの井原西鶴の評伝は特に有名である。その刺激的な内容で物議を醸し、アカデミズムを大いにゆさぶった問題作で
ある。

森氏は西鶴を敬愛しその人物と作品の研究につとめてきたが、その研究の結果彼はこのような結論を下す。「浮世草子の中で西鶴作品として扱われてい
るもののうち、実際に西鶴が書いたのは『好色一代男』のみであり、それ以外は西鶴が監修をのみ行ったに過ぎない作品、もしくは西鶴の名義だけを借りた
偽作である」と。森氏は『一代男』を「ついにこれ高級文学であった」(119p)と高く評価し、その本質は「主人公のある長編俳文といってもよい」(113p)と指摘
する。俳諧師出身であった西鶴は当然の如く俳諧趣味の持ち主であり、その俳諧趣味が最良の形で結実している作品が『一代男』だと見なした。アカデミズ
ムには以前から「『一代男』は『源氏物語』を俗化したもの」という説が存在するが森氏はこれを否定、「『伊勢物語』に倣ったのであった」(111p)と主張する。
『一代男』を長編俳文のつもりで書いていたのなら歌物語の古典である『伊勢物語』に倣うのは当然である、と森氏は考えたのだ。森氏は西鶴と『一代男』を
愛するがゆえにこの傑作が正しく理解・評価されていないとし「西鶴文学の真価は、まだまだ知られていないのである」(120p)と嘆いてみせる。

では『一代男』以外の作品への森氏の評価はというと、これが実に手厳しい。『諸艶大鑑』は「あまり好感の持たれぬ書物」(141p)、『大下馬』は「ついに噛
みしめた味わいに乏しい」(151p)、『好色五人女』は「軽佻で、浮華で、(中略)底力を欠いている」(177p)、『本朝二十不孝』は「結末が見え透いていて面白
からぬ」(220p)など、これでもかと言わんばかりの罵倒のオンパレードである。ただこれらの作品には部分的には優れた箇所もあるので、森氏は西鶴本人
の執筆ではなくとも編集や校訂などの作業には関与していたと見る。『世間胸算用』の序文や『好色一代女』の附記の小文の文章の清新さを高く評価し、こ
れは西鶴自らが書いた文章であると森氏は考えている。

『一代男』以外の作品についての疑問点については古くから指摘する人は存在していて、例えば幸田露伴は『本朝桜陰比事』について「本書は西鶴の作は
あるまい」と指摘していたりしたが(245~246p)、森氏は自身が西鶴の真正の自作と信じる『一代男』とそれ以外の著作を語句や思想の面から徹底検証
し、ついにこのような結論に至ったのである(ちなみに森氏は露伴の見解の正しさを賞賛している)。では『一代男』以外の作品を主に執筆したのは誰なの
かという問いに、森氏が出した答えは「北条団水説」である。北条団水(1663~1711)は西鶴門人の筆頭格で西鶴の遺稿の保護や編集に努めた人物とし
て知られているが、この団水を中心とした幾人かが執筆を担当し西鶴その人はいわば編集者のような立場で関与した、と森氏は強調している。団水は
作家として能力は師の西鶴より大きく劣るというのはアカデミズムにおいても常識になっているが、森氏も本書の中で団水の能力の乏しさを繰り返し指摘
し厳しく批判している。特に西鶴が『一代男』で提示した新しい価値観や道徳観を弟子の団水がまったく理解できておらず、相変わらず古臭い価値観で文章
を書いていることについて森氏は「旧套を墨守するだけの作家」(202p)と斬って捨てている。

アカデミズムはこの刺激的な森氏の説を完全に無視した。2度刊行された西鶴の作品全集においても森説は全く採用されていない。団水の研究者からは
森説への反論も上がっており、森説は今だ仮説の一つという扱いになっている。ただ一部のアカデミズム研究者にも森説を支持する人は居り、これからも
この本は西鶴研究の「台風の目」であり続けるだろう。


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