2021年7月29日木曜日

荻生徂徠 - Wikipedia

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荻生徂徠

荻生 徂徠(おぎゅう そらい、寛文6年2月16日1666年3月21日) - 享保13年1月19日1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者思想家文献学者

荻生 徂徠
(おぎゅう そらい)

荻生徂徠(『先哲像伝』より)

人物情報
全名 荻生双松なべまつ雙松なべまつ[1]
別名 茂卿もけい)、惣右衛門そうえもん(通称)、蘐園けんえん(号)[1]
生誕 1666年3月21日[1]
日本武蔵国江戸[1]
死没 1728年2月28日(61歳没)[1]
学問
時代 江戸時代中期
研究分野 儒学文献学
特筆すべき概念 古文辞学の確立
影響を
受けた人物
伊藤仁斎李攀竜王世貞
影響を
与えた人物
太宰春台服部南郭安藤東野山県周南平野金華
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名は雙松なべまつ・実名は「茂卿」で、字としては「もけい」、実名としては「しげのり」と読む[2]。通称は惣右衛門そうえもん[2]徂徠そらいと号し(一説では「徂來」が正しいとする)、また、蘐園けんえんとも号した。「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともにに関する名であることが指摘される[2]本姓物部氏で、「物徂徠ぶっそらい[1]」「物茂卿」とも号した[2]

父は5代将軍徳川綱吉侍医荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓[3]

概要

朱子学、仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜した。朱熹を古代の言語を全く知らないと批判し、多くの場合、仁斎をも批判する。ただし、仁斎の解釈への批判は、それに相当する記述が『論語古義』に見えない場合もある。

生涯

江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りにふれた父が江戸から放逐され、それによる蟄居にともない、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・茂原市)に移った[4]。 ここで主要な漢籍・和書・仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。元禄5年(1692年)、父の赦免で共に江戸に戻り、ここでも学問に専念した。増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられたといわれている(#徂徠豆腐参照)。

元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人柳沢保明やなぎさわ やすあきら[1]に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えた。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えた。将軍・綱吉の知己も得ている。吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記している[2]宝永6年(1709年)、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾けんえんじゅくを開いた。やがて徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成するに至る。なお、塾名の「蘐園」とは塾の所在地・茅場町にちなむ(隣接して宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句がある)。

享保7年(1722年)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。追放刑の不可をのべ、これに代えて自由刑とすることを述べた。豪胆でみずから恃むところ多く、支那趣味をもっており、中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて享保13年(1728年)に死去、享年63。

墓所東京都港区三田4丁目の長松寺ちょうしょうじにあり[1]、昭和24年(1949年)に国の史跡に指定された。

思想

徂徠学の成立

朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と批判、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派、日本の儒教学派においては古学に分類される)を確立した。支那趣味を持ち、文学や音楽を好んだ徂徠は、漢籍を読むときも訓読せず、元の発音のまま読むことによって本来の意味が復元できると考えた。

主著「弁名」や「弁道」[5]では、「名」と「物」の関係を考察した。「名」とは道や仁義礼智のような儒教の概念のことであり、それは古代の聖人(先王)の時代には儀礼や習俗のことである「物」と一致していた。それは先王が「名」を与えることで「礼楽刑政」という儀礼体系を「道」(道徳ではなく社会制度)として成立させ、社会を創出したからである。しかし、後世になると「物」は忘れられ、「名」だけが残った。その「名」を南宋時代の意味で理解する朱子に対して、徂徠は「六経」を読むことで古代の「物」を考証し、本来の「名」を復元できると主張した。

経世思想

古文辞学によって解明した知識をもとに、中国古代の聖人が制作した「先王の道」(「礼楽刑政」)に従った「制度」を立て、政治を行うことが重要だとした。徂徠は農本思想を説き、武士や町人が帰農することで市場経済化に適応できず困窮(「旅宿の徒」)していた武士を救えると考えた。

徂徠は柳沢吉保や8代将軍・徳川吉宗への政治的助言者でもあった。吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。人口問題の記述や身分にとらわれない人材登用論は特に有名である。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。服部南郭をはじめ徂徠の弟子の多くは風流を好む文人として活躍したが、『経済録』を遺した弟子の太宰春台や、孫弟子(宇佐美灊水弟子)の海保青陵は市場経済をそれぞれ消極的、積極的に肯定する経世論を展開した。兵法にも詳しく、『孫子国字解』を残した。卓越した『孫子』の注釈書と言われている。

後世への影響

直接の弟子筋の他にも徂徠学に影響を受けた者は多い。大坂町人が運営した私塾である懐徳堂では朱子学者の中井竹山などが徂徠学を批判した[6]。その中からは富永仲基のような優れた文献学者が輩出されていった。また、本居宣長は古文辞学の方法に大きな影響を受け、それを日本に適用した『古事記』、『日本書紀』研究を行った。徂徠学の影響力は幕末まで続き、西洋哲学者の西周は徂徠学を学んでいた。

赤穂事件と徂徠

赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡をはじめ室鳩巣浅見絅斎などが賛美助命論を展開したのに対し、徂徠は義士切腹論を主張した。「徂徠擬律書」[注 1]と呼ばれる文書において、

「義は己を潔くするの道にして法は天下の規矩也。礼を以て心を制し義を以て事を制す、今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず」

と述べている。

徂徠豆腐

落語講談浪曲の演目で知られる「徂徠豆腐[7]」は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話。

江戸前落語では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、

「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」

と法の道理を説いた。さらに、「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる。

著作

単著

全集

『荻生徂徠全集』は、みすず書房河出書房新社から出版されたが、各・未完結である[8]

みすず書房版・全集

河出書房新社版・全集

  • 『荻生徂徠全集』第1巻、今中寛司・奈良本辰也 編、河出書房新社、1973年。 - 収録:弁道、弁名、蘐園随筆、蘐園十筆。
  • 『荻生徂徠全集』第2巻、今中寛司・奈良本辰也 編、河出書房新社、1978年7月。 - 収録:論語徴、大学解、中庸解、孟子識。
  • 『荻生徂徠全集』第3巻、島田虔次 編輯、河出書房新社、1975年。 - 収録:読荀子、読韓非子、読呂氏春秋、尚書学、孝経識、経子史要覧、論語弁書、原文・校異・解題。
  • 『荻生徂徠全集』第5巻、島田虔次 編輯、河出書房新社、1977年1月。 - 収録:訳文筌蹄、訓訳示蒙、絶句解、絶句解拾遺、古文矩・文変、詩文国字牘、南留別志、風流使者記。
  • 『荻生徂徠全集』第6巻、島田虔次 編輯、河出書房新社、1973年。 - 収録:政談、太平策、徂徠先生答問書、蘐録、蘐録外書。

選集

  • 『荻生徂徠 日本の名著 16』中央公論社〈新装版 中公バックス〉、1983年12月。ISBN 978-4-12-400406-9

門人

演じた俳優

脚注

注釈

  1. 幕府の諮問に対して徂徠が上申したとされる細川家に伝わる文書だが、真筆であるかは不明。

出典

  1. ^ a b c d e f g h "荻生徂徠 とは". コトバンク. 2018年12月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e 髙橋 2011, p. 143.
  3. その弟の影響を受けて、『明律国字解みんりつこくじかい』を著している。
  4. "荻生徂徠勉学の地". 茂原市. 2018年12月1日閲覧。
  5. 以下、子安(2008)
  6. 子安(2000)
  7. "第130話落語「徂徠豆腐」". ginjo.fc2web.com. 2020年3月19日閲覧。
  8. "「峡中紀行」は荻生徂徠全集の何巻に載っているか知りたい。". 国会図書館 (2012年). 2018年12月1日閲覧。

参考文献

  • 尾藤正英 「荻生徂徠」、相良亨松本三之介源了圓編 『江戸の思想家たち』 下巻 研究社出版、1979年11月。ISBN 978-4-327-38410-4 
  • 尾藤正英「荻生徂徠の思想――その人間観を中心に」『東方学』第58輯、東方学会、1979年7月。
  • 澤井啓一「人情不変――徂徠学の基底にあるもの」『寺子屋語学・文化研究所論叢』創刊号、寺小屋語学・文化研究所、1982年7月。
  • 髙橋修 「荻生徂徠」 『柳沢吉保と甲府城 山梨県立博物館企画展』 山梨県立博物館、2011年10月。 
  • 八木清治 「荻生徂徠と「江戸」の発見」、武蔵大学公開講座ワーキング・グループ編 『時代を生きた人々』 御茶の水書房〈武蔵大学公開講座〉、2001年10月。ISBN 978-4-275-01880-9 

関連文献

関連項目

外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、荻生徂徠に関連するカテゴリがあります。


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安野真幸『日本中世市場論』2018

安野真幸『日本中世市場論』2018

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https://twitter.com/makotosaito0724/status/1099497341436911616?s=21
ここ数年の古川顕先生の通貨と信用に関する歴史研究はとても印象的。信用通貨の優越性を論じ、
信用創造の誤解を解く。この論文は、貨幣の起源について福田徳三や内田銀蔵の祓除(はらい)と
返済や購入の「払い」の関連で貨幣の宗教的起源に着目。


齊藤 誠 (@makotosaito0724)
2019/11/04 6:59
安野真幸「日本中世市場論」、市場が公開の「祓い」の場であることを象徴している。市場ては裁判
だけでなく処刑や債務奴隷の儀式も。市場の売買や貸借も祓いとパラレルな公開の行為だった。鋳貨
を介した取引は、祓いの儀式をバイパスする装置と考えたくなる。
https://twitter.com/makotosaito0724/status/1191112778632683520?s=21

日本中世市場論―制度の歴史分析― 単行本 – 2018/10/26
安野 眞幸 (著)

支払い・貸借・契約・裁判・差押えなど、市場が果たした多様な役割を明らかにするとともに、債権取立てを軸に中世日本の展開を描き出したライフワーク。神人・悪僧に発し金融を担う「公界」と公権力とは、慣習法と制定法、文書とその破棄、暴力と秩序等をめぐり、いかに切り結ぶのか。

【書評】
・『経済研究』 [第70巻第4号、2019年10月] から(評者:横山和輝氏)

・『日本歴史』(2019年9月号、第856号、評者:長澤伸樹氏)
"…… 副題とその重厚な内容からも明らかなように、本書が注目するのは、市場内部での売買・契約行為を成り立たせた背景にある「制度」(制度史)の実態である。なかでも説話や狂言・往来物、戦国大名の分国法などを素材として、市場のもつ多様な機能に注目し、かつて網野善彦氏が唱えた「公界」論へのアンチテーゼも含んでいる点に、大きな特徴があろう。…… 市場を一義的に解釈せず、平安末期から戦国時代に至る長期的なスパンのなかで捉え直し、その多面的な役割を明らかにした著者の姿勢は、大いに学ぶべきものがある。本書は、長年にわたり「市」や「港」といった交易空間のあり方を軸に、多くの業績を積み重ねてきた、著者ならではの市場論の集大成と評することができよう。市場史や法制史はもちろん、ひいては近年注目される債務史研究などにも大きな議論を呼ぶ一冊であることは疑いない。……"(『日本歴史』2019年9月号、pp.82-83)


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今昔物語』はそれより古い『日本霊異記』と比較すると面白いらしいです。『日本霊異記』では批判されなかった僧侶による高利貸しが、約3世紀後の『今昔物語』では批判されるようになった。


参考

『日本中世市場論』安野真幸 2018


「銭を貸す聖たち」赤坂憲雄1988


『日本霊異記』はグレーバーが『負債論』で言及している。


グレーバーは『日本霊異記』内のエピソードの扱い方のなかに債権者と債務者のどちらが悪いかの判断の混乱が既にあると言う。『負債論』邦訳20,21頁


https://nam-students.blogspot.com/2020/04/blog-post_68.html


ちなみに岩村が芥川龍之介経由で紹介した今昔物語の瓜売りの話の結語は
贈与の有効性を説いている

外術を以て瓜を盗み食はるる語 今昔物語集巻二十八第四十

https://japanese.hix05.com/Narrative/Konjaku/konjaku2/konjaku211.uri.html

《下衆共、瓜を惜しまずして、二つ三つにても翁に食はせたらましかば、
皆は取られざらまし。惜しみけるを翁も みて、此くもしたるなめり。》
下衆どもが瓜を出し惜しみせず、二つ三つでも食わせてやったならば、
全部とられることもなかったであろうに。物惜しみしたお怪我で、こんな目にあったのだ。)

MMT シラカワスキーさんのツイート

https://twitter.com/shirakawa_love/status/1420166425293979651?s=21

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