2020年6月20日土曜日

奥平昌洪『東亜銭志』

貨幣史「東亜銭志」成る


人類生活に重大な役割をはたした通貨を上古から今日まで一貫して研究しこれを明確にした史書というものは殆どなく上古中世にさかんに用いられた銅幣の起源さえ不明瞭でわが国でもいま欠本になっている朱雀朝の勅撰「秘□記録」が唯一の古代貨幣の社会的重要さを示しているに過ぎなかったが今回商都大阪から素晴らしい貨幣史がかくれた一老学徒の三十年の努力によって著わされ銅幣の誕生地もその年代も明らかにされ経済史学者や貨幣学者をアッといわした—大阪北区老松町三丁目大阪弁護士会所属弁護士奥平昌洪氏(笠南居士)は古銭のかくれた研究家で東洋貨幣協会顧問その他古銭会の有力なメンバーであるが東洋にも西洋にも銭幣に関する完書なく、ために古来の社会制度、経済状態、治乱興亡のあとも貨幣経済から見るときは全く盲目状態であるのを遺憾とし日露戦役当時から内外の書籍をあつめ古銭を探求しその間支那全土、朝鮮その他を親しく踏査すること前後三回あらゆる艱苦と戦いつつ東洋諸国興亡の跡をたずねて今回漸く「東亜銭志」なる著述全十八巻三千五百ページを完成した
 これに収録された貨幣史はわが国をはじめ支那、朝鮮、安南、ウィグル、トルキス、西蔵ヅンガル、大平天国等東洋に興亡したすべての国におよび貨幣がいかに文明、経済、治乱成敗、宗教風俗の変遷に重要な役割をなしたかを余すところなくメスを入れ学界で問題となっている朝鮮李朝銭の鋳造年代、安南の匠代銭を明確にした功績は大きいがとくに今日なお不明瞭である支那銅幣の起源についても、殷周時代の銅器の銘文、殷墟発掘物など苦心殷蒐集した貴重な資料によって「銅幣は殷代すでに行使されていた」という結論を下し得たことは万丈の気を吐くものといわれ
氏はまた日本銭についても和同開宝銭以前の前人未到の貨幣はじめて試鋳されたというわが貨幣文明史上の一大新説をたてるに至った、このほか朝鮮通宝銭、安南匠代銭幣の全貌を明らかにしたことも注目すべく、従来銭幣の著録は李氏「古泉匯」を第一としていたが奥平氏の著には古泉匯にないウィグル、トルキス、南詔、ヅンガルの貨幣の全貌をも明らかにしている、商都、大阪からかかる研究発表がなされたことは非常な誇りで史研究をすすめ朱雀朝の勅撰「秘庫記録」の佚書の残欠本を基礎に研究の結果応神天皇の御宇「古今銭幣の著録において未だかつて有らざるところ」と古銭学の大家、前造幣局技師甲賀工学博士も讚嘆した序文を寄せている
 氏は七十一歳の高齢であるが壮者を凌ぐ元気さで、本邦法曹界有数の漢学者の上に文章をよくし大正三年には日本弁護士史千四百三十八頁の大著をなし、さらに大阪弁護士会の委嘱により同会史二十巻を著している
同氏宅を訪えば
 支那銅幣の源流は経伝や書経詩経、左伝など幾等くり返して見ても駄目だ、殷周時代の銘文発掘物によってはじめて銅の重さを計り「●」を単位として通用していたことが明らかとなった、わが国の銭幣の起源も日本書記で判らず、秘庫記録の佚書の残欠本により詳かにし得たのは歓喜この上もない、書中あらゆる貨幣の図をかかげたので印刷は写真版によらねばなるまい



https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SB/0016/SB00160L001.pdf
元末の至正権鈔銭と通貨政策
宮澤知之

〔抄 録〕元の最末期、腹裏の中央政権と長江以南の元朝地方政権は反乱によって分断された。腹裏では至正通宝を発行し至正鈔(中統新鈔)と相権し、江西行省吉安路では至正之宝という権鈔銭を発行し、中統旧鈔を権鈔した。中央政府と地方政府で紙幣の安定策が異なった理由は基軸と認識された紙幣が異なったからである。本稿は至正之宝権鈔銭が発行された江南における元朝最末期の通貨事情を検討する。キーワード:至正之宝、権鈔銭、至正鈔、中統鈔、吉安路緒言至正10年(1350)11月、元朝は四回目の幣制改革を断行した。華中で群雄が独立し始めた時期にあたり、第二次至元幣制で通用した紙幣(至元鈔と中統鈔)が価値を下げていた。今回の幣制改革を要素に分けてみると、一つは約40年ぶりに銅銭(至正通宝)を発行したこと、二つは貶値した至元鈔・中統鈔より上位の紙幣として至正鈔をあらたに導入し、至正鈔1 貫(両)=至元鈔2貫(両)としたこと、三つは至正通宝1貫=至正鈔1貫とし、銅銭と紙幣をリンクしたこと、である(1)。

この結果、至正鈔1貫=至元鈔2貫=中統鈔10貫=至正通宝1貫の関係となった。これが至正幣制であり、紙幣と銅銭のリンク、すなわち子母相権を実施したことに特徴がある。ところが至正鈔は中統鈔の背面に新たに「至正印造元宝交鈔」の印を押したものであった(図1)。それゆえ至正鈔を中統新鈔とも称した。これに対し印のない旧来の中統鈔は、至元鈔1貫=中統鈔5貫の関係のまま中統旧鈔と称したから、市場には新旧の中統鈔が併存することとなった。さて至正通宝と同時期に至正之宝という銅銭がある。同時代の記録がないけれども、一

5:
私がここで注目したいのは、中統幣制では鈔で銭を権り、至元幣制では鈔(至元鈔)で鈔(中統鈔)を権り、至正幣制では銭(至正之宝)で鈔(至大銀鈔)を権ったものというように、二種類の貨幣の関係において、あとから発行した貨幣ですでに存在する貨幣の価値を確定し安定させたものと捉えられていることである(なお、中統幣制において銅銭は正式に発行されなかったので、中統鈔発行のとき通用していた歴代銭が想定されている)。所謂る子母相権という考えである。この場合はあとから生まれた子が母を権ったものとなる。その結果権鈔銭の数値は、例えば権鈔伍銭の場合、至大銀鈔の五銭と等価であることを意味し、それはまた至大通宝500文となる。すなわち、至正之宝伍分=至大銀鈔五分=至大通宝50文…………の関係で、李佐賢の考えでは、至正之宝(権鈔銭)と至大銀鈔と銅銭(至大通宝)の三者の関係である。
    奥平昌洪『東亜銭志』(歴史図書社、1974年、初版は1938年)第3巻322頁~328頁。『古泉匯』の至正銀鈔は至大銀鈔の誤りだが、至正之宝が至正を遡る40年前に廃された至大銀鈔を権るとするのは不可であるとする。そして奥平自身は、葉子奇『草木子』巻3下、雑制篇に、

元朝至元宝鈔凡十等。一十文為半銭、二十文為一銭、三十文為一銭半、五十文為二銭半、一百文為五銭、二百文為一貫、三百文為一貫五銭、五百文為二貫五銭、一貫為五両、二貫為十両、五箇一貫為半錠、五箇二貫為一錠。元朝の至元宝鈔は凡そ十等。一十文を半銭と為し、二十文を一銭と為し、三十文を一銭半と為し、五十文を二銭半と為し、一百文を五銭と為し、二百文を一貫と為し、三百文を一貫五銭と為し、五百文を二貫五銭と為し、一貫を五両と為し、二貫を十両と為し、五箇の一貫を半錠と為し、五箇の二貫を一錠と為す。

とあるのを引き、権鈔銭の伍分・壱銭・壱銭伍分・弐銭伍分・伍銭は、それぞれ至元通行宝鈔(至元鈔)10文、壱銭は至元鈔20文、壱銭伍分は至元鈔30文、弐銭伍分は至元鈔50文、伍銭は至元鈔100文であり、至正鈔の価格は至元鈔の二倍であるから、権鈔銭の至正

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