2020年8月5日水曜日

現代貨幣論(MMT)はどこが間違っているのか<ゼロから始める経済学・第7回> | ハーバー・ビジネス・オンライン

Ryouji Ishizuka (@ISHIZUKA_R)
国定信用貨幣論は中野剛志さんですね。結城さんがそれを採用しているようです。
hbol.jp/195466?cx_clic… twitter.com/shirakawa_love…
Ryouji Ishizuka (@ISHIZUKA_R)
"integrates a credit theory of money (or, “endogenous money theory,” as it is usually termed by post-Keynesians) with state money theory"
「国定信用貨幣論」という言い方でよいのかな。
引用元を書き忘れました。

リッキーさんが紹介していたレイのワーキングペーパーからの引用でした。
The "Kansas City" Approach to Modern Money Theory
2020
http://www.levyinstitute.org/pubs/wp_961.pdf
http://www.levyinstitute.org/publications/l-randall-wray

現代貨幣論(MMT)はどこが間違っているのか<ゼロから始める経済学・第7回> | ハーバー・ビジネス・オンライン
2019/07/01


 結城《しかし、税を課し、税を支払わなければ罰するという権力関係と、商品の売り買いから生じる信用関係とは本質的に異なるものです。くわえて、国定貨幣が国家権力に基づいて創出されるとの想定が適切ではありません。かりに、国が純粋に力で商品を買っているのだとしたら、それは購買ではなく、徴発です。国が商品を買うためには、市場がもたらす価値を国に引き上げるほかありません。つまり、課税を通じて、市場で生み出された価値を集めて使うかたちになります。》

信用貨幣論は商品貨幣論と対義語となるはずなのに商品貨幣論内部における信用創造の理論と曲解している
信長の楽市楽座ではないが武力で自由な交易を外部に対して守るというのが権力、帝国の常套なのだから
権力と市民間の交易は矛盾しない
自由な交易を保証する帝国になら資本家は税を払うのである
MMTer内でも市井銀行の重要度は異なるが、これは置かれている状況にもよる

現代貨幣論(MMT)はどこが間違っているのか<ゼロから始める経済学・第7回>


MMTは政策論ではなく、貨幣論の観点から検討すべき

連載第6回の余論で筆者は、今話題の「現代貨幣論(MMT: Modern Money Theory)」についてこう書いておきました。 「財政が魔法の泉であるかように説く、通俗的な紹介がまかり通っているようです。しかしMMTは財政赤字を正当化する小手先の政策技法ではありません。本稿では、現代金融論ではなく、現代貨幣論と訳してみせたように、もっと経済の根幹にかかわる問題なのです」  海外メディアでは「金のなる木(Magic Money Tree)」理論と揶揄され、国内メディアでも「異端の経済理論」、危険で極端な主張と非難囂々です。もっぱら非難されているのは、MMTの財政政策の考え方です。  MMTを推奨する評論家の中野剛志氏は『富国と強兵』(東洋経済新報社、2016年)の中で、次のように説明しています。 「しかし、個人や企業といった民間主体とは異なり、政府は通貨発行の権限を有する。それゆえ、政府が自国通貨建ての国債の返済ができなくなることは、政府がその政治的意志によって返済を拒否でもしない限り、あり得ない。通貨を増発して返済に充てればよいからである。したがって、自国通貨建てで国債を発行している政府には、個人や企業のような返済能力の制約が存在しない。その限りにおいて、政府には、財政収支を均衡させる必要性は皆無なのである」  またMMTの主唱者である経済学者のステファニー・ケルトン氏は朝日新聞のインタビューに、MMTが主張するように「自国通貨建ての債務は返済不能にならないと、市場は理解しているのです」、日本の「債務は全く過大ではありません」と答えています。(参照:日本学び「財政赤字恐れるな」 米「伝道師」の異端理論|朝日新聞)  両氏に代表されるMMTの見解が、インフレにならない限りとの留保付きではあれ、国は無制限に通貨を発行できるため、まだまだ財政赤字を増やしても問題がないと主張する、放漫財政の勧めと受けとめられてしまっています。  それゆえに、これらの主張に対して、経済学会の重鎮や中央銀行の首脳、そして財務省から繰り返し反論が提起されています。それぞれの主張には耳を傾けるべき内容が含まれていますし、とりわけ財務省の作成した資料は緻密です。しかし、おそらくこれらの批判はMMTの支持者に響かないことでしょう。的を外しているからです。  MMTは貨幣論です。これを財政・金融政策を論ずる政策論の次元で評価しても空振りに終わります。既存のMMT批判は、政策論の根幹にある貨幣論に届いていません。  MMTの主な主張は次の通りです。 政府は通貨を発行する権限を有する。 政府には返済能力の制約がないため、国債の返済ができなくなることはない。 したがって、財政収支を均衡させる必要はない。  しかし本稿は、次のように考えます。 政府は通貨を発行する権限を有さない。 政府には返済能力の制約があるため、国債の返済ができなくなることがある。 したがって、財政収支を均衡させる必要がある。  もっとも財政収支の均衡は弾力的に考える余地があるため、さほど重要な問題ではありません。問題の本質は、お金を創るのは国であると考える国定貨幣論と、市場の売買関係からお金が生まれると考える信用貨幣論の接合にあります。  MMTの貨幣論は、中野氏が「国定信用貨幣論」と呼ぶように、国定貨幣論信用貨幣論の合成です。これらは一般に相いれるものだとは考えられず、2つの異なる貨幣論があると考えられてきました。ところが、経済学者のランダル・レイが『現代貨幣論』(Randall Wray, Modern Money Theory: A Primer on Macroeconomics for Sovereign Monetary Systems, Palgrave Macmillan, 2012)と題する著書の中で、この2つの理論をきれいにつないで見せたのです。  MMTによれば、貨幣は本質的に債務であり、国が創るものです。そして、債務が貨幣の本質なので理論的には現金のない信用経済を考えます。信用経済とは、貸借によって成り立つ経済です。ところがここで、貨幣の本質が債務と国定の2つになるため、理論的にはパラレルな構造になります。2つの貨幣論の後先を決定する原理はなさそうですが、MMTの独自性は国定説に信用貨幣論を組み込んだ点にありますので、国定貨幣を起点に説明します。  仮に国が定めた貨幣がない状態を仮定すると、商品の価値をはかる共通の単位がなく、市場での取引を始めることができません。そこで国が、円、ドル、ポンドようなお金の単位を設定します。そうすると、人びとは国が定めた単位で計算できるようになります。  次に、国は国民に納税の義務を課します。すると国は国民に対して「税債権」を、国民は国に対して「税債務」を負うことになります。国が発行した貨幣は、納税手段としての価値をもちます。しかし、国民は納税するための貨幣を持っていませんので、まず国が財政支出を行い、国民に貨幣を供給します。財政支出を行うと国の負債は、国民の資産となります。課税・納税によって税債務が支払われると、国と国民の間の債権債務関係は清算されます。ここから、財政赤字は民間資産の創出であり、財政黒字は民間資産の吸収である、との知見が得られます。   さらに、民間の主体は、売買を通じて債権と債務をもちます。MMTによれば、貨幣は本質的に債務であるため、民間債務は国の債務と同じように、貨幣の役目を果たします。私人間の信用(貸借)関係から生まれてくる信用貨幣です。  問題は、国と国民の間の国定貨幣循環(タテの循環)国民間の信用貨幣循環(ヨコの循環)が、理論的にはパラレルな関係になっていることです。レイは、国が国民に課税し、国民が国に納税するという権力関係を、私人間の信用関係と同じレベルの債権債務関係に類するものだとみなし、タテとヨコの本来交わらない「デュアル・サーキット」(二重の貨幣循環)債務というひとつの契機でつなぎました。ここがMMTの要石です。拡張的な財政政策は貨幣論から自然に出てくるものであり、いくら政策を批判してもMMTの土台をなす貨幣論はまったく揺らがないのです。  しかし、税を課し、税を支払わなければ罰するという権力関係と、商品の売り買いから生じる信用関係とは本質的に異なるものです。くわえて、国定貨幣が国家権力に基づいて創出されるとの想定が適切ではありません。かりに、国が純粋に力で商品を買っているのだとしたら、それは購買ではなく、徴発です。国が商品を買うためには、市場がもたらす価値を国に引き上げるほかありません。つまり、課税を通じて、市場で生み出された価値を集めて使うかたちになります。  また、納税義務の全うを至上とするような、意識の高い国民ばかりではないでしょう。かりにMMTが主張するように、国定貨幣が税債務の支払手段としての価値をもつのだとしても、その貨幣は国と国民の間でのみ循環するだけです。税債務としての貨幣が、信用貨幣のように私人間で広範に流通する根拠が示されていません。MMTは、国と国民の間の権力関係から生まれる徴税と納税の関係と、私人間の商品売買関係から生まれる債権債務関係という、まったく含意の異なる社会関係を同じものとみなしている点で決定的に誤っているのです。(第6回参照)
 以上のように、MMTは貨幣論に未解決な矛盾を抱えていますが、それにもかかわらず、3つの理論的メリットをもっています。 (1)現代の貨幣を説明しやすい。 (2)主流派経済学の金融論の不備を指摘しやすい。 (3)アベノミクスの金融政策の問題点を指摘しやすい。  現代のお金はお札(銀行券)と預金です。ミクロ・マクロ経済学に代表される現代の主流派経済学は、現代のお金を適切に説明することに成功していません。この問題に正面から切り込んでいる点でMMTの研究姿勢は真摯であり、評価できます。しかし、どうして主流派経済学は現代の貨幣をうまく説明できないのでしょうか。そして、それにもかかわらず、なぜ現代の貨幣をうまく説明できない経済学が主流の地位に収まっているのでしょうか。このことを理解するためには、なぜMMTなる貨幣論が考案されたのか、その経緯を理解する必要があります。  長い間、私たちが使用しているお金の価値は、中央銀行が保有している金に支えられていると考えられてきました。戦後の資本主義体制を支えてきたブレトンウッズ体制は、アメリカ合衆国で発行されるドルを基軸通貨として、1オンスの金と35ドルを交換することを通じて、ドルと各国の通貨の交換比率を固定する制度です。この制度では通貨ドルと金とのリンクが目に見えます。ところが、1971年に金とドルの交換が停止されると、市場で為替相場が決まる制度になりました。こうして、各国のお金と金との直接的なリンクが失われたのです。私たちが普段使っているお札は、日本銀行のような中央銀行が発行する銀行券ですが、金との兌換が約束されていない不換銀行券です。また、預金通帳に記載された数字が表わす預金通貨もあります。  MMTは、現代の通貨が兌換のない信用貨幣であることを適切に説明しています。  そもそもの問題は、現代の主流派経済学が、不換銀行券と預金通貨からなる現代のお金を整合的に説明できていない、という点にあります。この問題を解決することなく、MMTがいいとか悪いとかいってみてもほとんど意味がありません。  では、MMTが批判する主流派の金融論とはどのようなものでしょうか。高校や大学の教科書を開けば大抵載っている内容なので、聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。この理論は、はじめに一定額のお金がA銀行に預けられると、A銀行が一部を残して貸付け、A銀行からお金を借りた企業がB銀行に預金すると、B銀行も一部を残して貸付け、同様の貸付を各銀行が繰り返していくことで、最終的に市場に流通している貨幣の量が増える、というものです。乗数貨幣論といいます。この説明の問題は、本源的預金(はじめにA銀行に預けられたお金)という概念に集中しています。  まず理論的には、本源的預金がどこから来たのか分からない、という問題があります。次に、この信用創造の説明が銀行実務の実態から乖離しています。  銀行は、本源的預金をどこかからか集めてきて、その現金を顧客に貸し付けるわけではありません。銀行からお金を借りたことがある方ならイメージできるはずです。銀行から借りたお金は顧客の通帳に記載されます。こうして預金通貨が創造されます。金庫から札束を持ってくるわけではないのです。  本源的預金に依拠する説明が不適切であることはずいぶん昔から知られていますが、いまでも標準的な説明として教科書に君臨しています。MMTを唱える人々が苦々しく思っていることは想像に難くありません。  MMTにおいても、現代のお金を完全に説明できるようになったわけではありませんが、少なくとも信用貨幣論を受け入れている点で、MMTを批判する主流派経済学の金融論よりもずっと整合的に説明しています。  アベノミクスのコアは、日本銀行が毎年80兆円の国債を買い上げることを通してお金(マネタリーベース)を供給する「大胆な金融政策」にあります。本源的預金として供給されたマネタリーベースが市場に出て行くと考えている点で、貨幣乗数論に依拠しているといえます。ここでの問題は、マネタリーベースとしてのお金を一般の銀行に供給しても、企業や個人にお金が流れていかないことです。(第3回参照)  信用貨幣論に基づいて考えれば、お金は銀行の貸出によって創造されるものなので、お金を借りて使いたいと考える顧客の資金需要がなければ増えません。お金が増えないのは資金需要がないためだと分かります。ただし、信用貨幣論自体は現状を説明するだけですが、MMTでは資金需要を積極的に創るとの主張が加わります。そして、需要は財政支出を通じて創られ、財政支出は国による通貨発行を通して行われるため、租税収入の制約から解放されると主張する点に、国定貨幣論の限界が典型的に現れます。  かりに貨幣が信用貨幣であるならば、それは市場で創造される価値であり、国は税を通じて市場からその価値を吸い上げなければなりません。税収の制約がなくなるのは貨幣を国定貨幣と見なした場合であり、信用貨幣論はその根拠を提供しません。  次の問題は「大胆な金融政策」で資金供給を続けても、物価が上がらないことです。アベノミクスが採用する物価の理論は貨幣数量説といいます。貨幣数量説では、物価は、市場で流通しているお金の量と市場で販売されている商品の量との比率で決まります。したがって、お金の量を増やせばお金の価値が薄まって物価が上がります。しかし、理論的にも政策的にもこれが誤りであることは既に指摘してきました。信用貨幣論をとれば、物価を貨幣量との関係で考えなくて済みます。しかしMMTは価格決定論を欠き、総需要と総供給の関係で物価を説明しなければならなくなっている点に限界があります。この点では主流派経済学に一日の長があるといえるでしょう。  本稿ではMMTの良い面も包み隠さず指摘しました。巷でなされるMMT批判には、MMTが支持される理由を理解してないという限界があるからです。もちろん、MMTには理論的に看過しえない瑕疵があり、残念ながら支持しうる内容を備えていませんが、心情的には共感できるところもあります。少なくとも、主流派経済学が未解決のまま放置してきた理論問題に向き合っています。この点には敬意を払わなければなりません。しかしMMTが理論的に誠実であるならば、貨幣論に矛盾を抱えながら進むのか、それともいずれか一方の貨幣論で一貫させる道を選ぶのか、迫られることになるでしょう。
埼玉大学大学院人文社会科学研究科・教授。専門は貨幣論。著書に『労働証券論の歴史的位相:貨幣と市場をめぐるヴィジョン』(日本評論社)などがある。

0 件のコメント:

コメントを投稿