§ 中 国 万 華 鏡 § 之 北京ごろごろ日記: 皇甫平:浮雲の目隠しを畏れるな
http://wanzee.seesaa.net/article/95639796.html
ここにおいて、康熙帝の「帝王治天下、自由有本原、不専恃険阻。守辺之道、惟在修徳安民。民心悦則邦本得、而辺境自固、所謂衆志成城是也」という諫言を思い起こそう。これこそ、歴史におけるチベットの統治経験の深刻な総括である。
清代疆域“大一统”观念的变革-中国社会科学网
http://www.cssn.cn/mzx/202007/t20200722_5158583.shtml
康熙三十年(1691),康熙皇帝停修长城,是突破“华夷之辨”的伟大举措,彻底改变历朝修长城隔离边疆民族的现象,把“大一统”的疆域范围扩至长城以北的边疆地区,“帝王治天下,自有本原,不专恃险阻,秦筑长城以来,汉唐宋亦常修理,其时宁无边患。明崇祯中我太祖统大兵长驱直入,各路瓦解,皆莫敢当,可见守国之道惟在修徳安民。民心悦,则邦本得,而边境自固”。边疆地区隶属于中国,是中国固有领土,将其纳入“大一统”疆域内,是疆域一统观的划时代突破。作为中国外藩的海外朝贡国,清朝虽没有实际的管辖统治权,但也将其载入《大清一统志》内,成为宣示“大一统”疆域观的附属,“本朝功德隆盛,声教遐讫,幅员之广,亘古所无,外蕃各国例,宜备载。今自朝鲜、琉球、安南等国,尚易考究。惟盛京边外所辖地方,及奉贡诸部,凡沿革、风俗、山川、物产,无有故牍可稽,乞敕在馆诸臣成草藳,付与臣,一体编入,一一统志例载”。外藩的载入更多地是象征性意义,有助于塑造广阔的疆域空间观念。
https://www.arachina.com/map/
現在,遺跡として整備が進む函谷関は,河南省霊宝市北坡頭郷王垜村に所在. する函谷関遺跡と洛陽市新安 ... 11 月の調査は先にも記したように,これまでの現地調査の成果と古地図,. 衛星画像の再検証 ...
函谷関って復元なの?秦時代より小さくて低い?絵や画像で紹介 | オールらんだー
https://ahurohornet.com/manga/4854/
中国河南省にあった関所で函谷関には旧関と新関とがあり、旧関は昔壊された歴史があります。
趙や魏から秦に入るときには必ず通らないといけない場所であり、歴史上多くの戦いが行われた場所でもあります。
戦国時代東方からの侵入を防ぐため、現在の三門峡(さんもんきょう)・霊宝市(れいほうし)に作られる。
当時は3層の楼閣(塔)が2棟あったという。
ところで函谷関とかは名前は知っていますが実際何処にあるん ... トップ; ポイント; メール; 天気; ニュース; 地図; 路線; グルメ ... 陽関(ようかん)は中華人民共和国甘粛省敦煌市の南西 ...
明の長城、そして・・・ みんみんの庭
http://mingniwa.blog94.fc2.com/blog-entry-4420.html
清が成立して半世紀余り、長城の倒壊が多く、修築を行いたいと臣下が進言すると、康熙帝はもはや修築の必要はないと考えたという。
『空旅中国 万里の長城』は康熙帝の言葉で終わった。
秦築長城以来、漢唐宋亦常修理、其時豈無辺患?
明末我太祖統大兵、長駆直入、諸路瓦解、皆莫能当。
可見守国之道、惟在修徳安民。
民心脱服、則邦本得、而辺境自固。
所謂衆志成城者是也。
秦が長城を築き、漢唐宋が壁の修復をしたが、国境の敵が消えたことがあったか? 明の末期、わが太宗が長城を越えたとき、路を阻むものがあったか。これを見るに国を守る道は、徳を修め民を安らかにすることのみ。民がすすんで従う国になれば、国境の心配などなくなる。言ってみれば民の心 それが長城となるのだ。
『空旅中国 万里の長城』は康熙帝の言葉で終わった。
秦築長城以来、漢唐宋亦常修理、其時豈無辺患?
明末我太祖統大兵、長駆直入、諸路瓦解、皆莫能当。
可見守国之道、惟在修徳安民。
民心脱服、則邦本得、而辺境自固。
所謂衆志成城者是也。
秦が長城を築き、漢唐宋が壁の修復をしたが、国境の敵が消えたことがあったか? 明の末期、わが太宗が長城を越えたとき、路を阻むものがあったか。これを見るに国を守る道は、徳を修め民を安らかにすることのみ。民がすすんで従う国になれば、国境の心配などなくなる。言ってみれば民の心 それが長城となるのだ。
「長城」をつくったのは? みんみんの庭
「長城」をつくったのは?
『空旅中国 万里の長城』(BSプレミアム)は「万里の長城 中国の大地を這う1匹の巨大な龍・・・」のナレーションから始まった。「この龍の背中、ぐるりと飛べば中国三千年の歴史ドラマが見えてくる。風になって長城の絶景を飛んでみよう!」
2002年晩秋、訪れたのは総延長2万1196 km余のほんのわずか、今や観光地となった「八達嶺」や「居庸関」。前日の雪でうっすらと雪化粧した紅葉の山々、果てしなくつづく長城・・・。まさに巨大な龍が這っているようだった。
八達嶺 2002.10
スケッチする I さん長年の夢が叶いスケッチすることができたあの日のことは今も鮮明に覚えている。(「晩秋の北京から」「あの万里の長城が・・・」)
「一体だれがつくったのか、秦の始皇帝?巷の大工さん?どれも正しく、きっとどれも違う」「万里の長城をつくったのは、さまざまな民族が攻め合い、競い合った中国の歴史そのものだ」と。
万里の長城が今のような姿になったのは、明の時代。英語で「Great Wall」という。
歴代王朝が継ぎ足し継ぎ足しつくってきたそのもとは? 知っているようで知らないことだらけだった。
明時代の長城春秋時代(2500年以上前~)
楚の長城
そもそものこの壁がつくられたのはおよそ2千数百年前。黄河の南に楚の国があった。山を越えて200km、現在の河南省方城県で黄河流域の国々から領土を守るために石を積んだもっとも古い長城がみつかった。
麓から運びあげた石を2mの高さに積みあげた。幅1mほどの壁には武器を出すための砲眼もある。
BC656年 黄河流域の連合軍が 楚を取り囲んだが、堅固な長城を前に連合軍は楚と和睦、やがて北へ兵を引き上げたという。
戦国時代(BC403~221) 黄河を中心に7つの有力な国があった。
楚の国境には長城が築かれたやがて、北をモンゴル高原に接する軍事大国趙が台頭する。
趙の都の邯鄲(かんたん)は、戦国の世に歌舞音曲も盛ん、華やかな街だったとか。
趙の長城 土を積み上げた高さ3~4mの壁が国境沿いに300kmつづく。手ごわい北方の遊牧民の侵入を防ぐため。
北はモンゴル方面 南は趙 趙は、遊牧民の「胡服騎射」を真似て屈強な騎馬隊をつくり、領土を広げていった。
のちに趙は組織化された騎馬隊により、遊牧民を北へ追いやった。
やがて200年の戦国の世に終止符を打ったのが秦の始皇帝。
始皇帝は、父が人質となっていた趙の都 邯鄲で生れた。秦に戻ったのは9歳、王になったのが13歳。
『空旅中国 万里の長城』で空を飛び、古く2500年前の長城も見ることができた。
春秋戦国時代、楚は周辺の国との境に築いた長城、そして趙は土の長城を築き北の遊牧民と戦った。(「長城をつくったのは?」)
秦の始皇帝は、200年の戦国時代に終止符をうった。
始皇帝が生れたのは趙の都 邯鄲(かんたん)。9歳で秦に戻り、13歳で王に即位。
中国ではじめての統一国家が誕生した。

始皇帝が力をいれたのは街道整備。それまで国ごとにバラバラだった轍の幅を統一したことで、同じ馬車で全国を往来できるようになり商業も栄えた。

2200年前に始皇帝がつくった大規模な軍用道路が残っている。真っ直ぐ北に700km、幅30~50mの道。
秦の長城
北の匈奴の侵入を防ぐため石の壁を築いた。建設に従事したのは30万人とか。

趙の国がつくった長城と自らの秦の長城をつなぎ、さらに燕の国など古い国の長城も繋ぎ合わせたことで全長1万里(4000km)を超えたことになる。「万里の長城」となった。
万里の長城
春秋戦国時代、楚は周辺の国との境に築いた長城、そして趙は土の長城を築き北の遊牧民と戦った。(「長城をつくったのは?」)
秦の始皇帝は、200年の戦国時代に終止符をうった。
始皇帝が生れたのは趙の都 邯鄲(かんたん)。9歳で秦に戻り、13歳で王に即位。
中国ではじめての統一国家が誕生した。

始皇帝が力をいれたのは街道整備。それまで国ごとにバラバラだった轍の幅を統一したことで、同じ馬車で全国を往来できるようになり商業も栄えた。

2200年前に始皇帝がつくった大規模な軍用道路が残っている。真っ直ぐ北に700km、幅30~50mの道。
秦の長城
北の匈奴の侵入を防ぐため石の壁を築いた。建設に従事したのは30万人とか。

趙の国がつくった長城と自らの秦の長城をつなぎ、さらに燕の国など古い国の長城も繋ぎ合わせたことで全長1万里(4000km)を超えたことになる。「万里の長城」となった。
万里の長城 秦始皇帝の長城 みんみんの庭
秦始皇帝の長城
『空旅中国 万里の長城』で空を飛び、古く2500年前の長城も見ることができた。春秋戦国時代、楚は周辺の国との境に築いた長城、そして趙は土の長城を築き北の遊牧民と戦った。(「長城をつくったのは?」)
秦の始皇帝は、200年の戦国時代に終止符をうった。
始皇帝が生れたのは趙の都 邯鄲(かんたん)。9歳で秦に戻り、13歳で王に即位。
中国ではじめての統一国家が誕生した。

始皇帝が力をいれたのは街道整備。それまで国ごとにバラバラだった轍の幅を統一したことで、同じ馬車で全国を往来できるようになり商業も栄えた。

2200年前に始皇帝がつくった大規模な軍用道路が残っている。真っ直ぐ北に700km、幅30~50mの道。
秦の長城
北の匈奴の侵入を防ぐため石の壁を築いた。建設に従事したのは30万人とか。

趙の国がつくった長城と自らの秦の長城をつなぎ、さらに燕の国など古い国の長城も繋ぎ合わせたことで全長1万里(4000km)を超えたことになる。「万里の長城」となった。
万里の長城 統一から10年余り、始皇帝は全国を巡る旅の途中で病死した。その後、胡亥が皇帝になったが、始皇帝の死後わずか4年で秦は滅亡した。
漢の長城 みんみんの庭
漢の長城
コロナ禍の影響で、テレビは「いわゆる反響の大きかった」番組の再放送が目白押し。巣ごもり生活に耐えられたのは新しいレコーダーで録画できるようになったことが大きい。そのほとんどはNHKBSプレミアムで、巨樹シリーズや「空旅中国」「桃源紀行」などの中国旅は欠かさず録画するようになった。中国を舞台にした番組には訪れたことのある山奥の土地が時々出てくることがたまにあり、楽しかったあのころの旅を思い出させてくれた。
とくにドローンで撮影された「空旅中国」シリーズは、万里の長城、黄河流域や茶馬古道、少数民族の暮らす桃源郷などは鳥になって旅を楽しんだ。
『空旅中国 万里の長城』では2500年前の楚が築いた長城も見ることができた。万里の長城が今のような姿になったのは、明の時代。思えば、長城のほんの一部分を歩いただけの旅だったが、敵の侵入を防ぐための多くの壁が残っていたことに驚く。
「万里の長城をつくったのは、さまざまな民族が攻め合い、競い合った中国の歴史そのものだ」と言われればなるほどと納得。(「長城をつくったのは?」「秦始皇帝の長城」)
シルクロードが西へ西へと伸びていく時代となった。秦の半途をそのまま引き継いだのが漢王朝(前漢)。
西側の砂漠のオアシスに暮らす月氏は匈奴とは異なる遊牧民族で優れた馬を育てることで知られていた。
「天高く馬肥ゆる秋」は、「匈奴秋に至り 馬肥え弓勁し」という「漢書」からきている。
月氏のオアシス 力をつけた匈奴は豊かなオアシスに押し寄せてくるという。月氏ははるかかなた中央アジアへ逃げのびて、大月氏をつくった。
力をつけた匈奴漢が成立して60余年、BC141年、武帝が即位し、匈奴への対抗策を準備し始めた。
長安の都から張騫という若者が西へ向かった。匈奴を倒すために大月氏と軍事同盟を結ぶという武帝からの密命を受けて。
だが、張騫は捕えられ匈奴の王のもとへ。人としての魅力が彼の命を救った。10年後、現地で娶った妻と共にの妻とともに匈奴を逃げ出し大月氏のもとへ辿り着いたという。
軍事同盟はならなかったが、西にある豊かな国々のこと、遊牧民が育てる優れた天馬のこと、知られざる情報を都へ持ち帰った。
武帝は大軍を持って匈奴へ攻め込んだ。張騫はシルクロードの開拓者といわれている。
漢が家畜を育む草原から匈奴を追い出した。
「我 祁連山を亡い 六畜をして蕃息せざらしむ 我 焉支山を失い 嫁婦をして顔色なからしむ」と草原を追われた匈奴の民が詩を残している。紅花の産地である焉支(えんし)山も奪われたという。
明の長城 漢の長城境界線としてつくった壁がつづく。西へ西へと伸びて7900km、すでに2万里を超えた。点々と残るのろし台。
辿り着いたのは敦煌の郊外にあるオアシス陽関。
漢と匈奴をめぐる争いはこの後も数百年つづいたという。
漢の時代が終わると、しばらく混乱の時代。万里の長城は忘れ去られてしまう。
三国志の英雄たちも長城を構う余裕はなかったという。そうこうするうちに中国は五胡十六国時代に入って行った。
五胡十六国時代 みんみんの庭
http://mingniwa.blog94.fc2.com/blog-entry-4419.html五胡十六国時代
『空旅中国 万里の長城』(BSプレミアム)は「万里の長城 中国の大地を這う1匹の巨大な龍・・・」のナレーションから始まった。「この龍の背中、ぐるりと飛べば中国三千年の歴史ドラマが見えてくる。風になって長城の絶景を飛んでみよう!」
漢の時代が終わると、しばらく混乱の時代。万里の長城は忘れ去られてしまう。
三国志の英雄たちも長城を構う余裕はなかったという。そうこうするうちに中国は五胡十六国時代に入って行った。(「長城をつくったのは?」「秦始皇帝の長城」「漢の長城」)
五胡十六国時代 匈奴など5つの遊牧民族がかつて漢民族の国が栄えていた場所に国を構え、漢民族と北方の民族が競いながらも共存する時代が始まった。

混乱の後、遊牧民族は万里の長城の内側に国をつくった。彼ら遊牧民族がシルクロードがもたらすものを熱心に学んだか、絶壁に築いた仏教寺院が今も残る。
彼らは仏教を保護し、インドからもたらされた経典の翻訳事業を尽くすなど、東アジアの仏教の発展の糸口をつくったという。
麦積山石窟 7200体を超える仏教彫刻と1000平方米超に及ぶ壁画がある石窟群。 着工は後秦時代。
炳霊寺石窟 断崖に700体もの仏が並ぶ仏教石窟。
最初の岩屋は西秦末期の420年頃に作られ、北魏・北周・隋・唐・宋・元・明・清の各王朝で石窟の拡張が続けられた。
唐の時代に彫られたという弥勒大仏の高さは27m。
どちらも現在の甘粛省にあり、「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録されている。

13世紀初め、チンギス・ハンは、歴代王朝が築いた巨大な関所「居陽関」を抜いて北京を落とし、巨大なモンゴル帝国元をつくった。
14世紀、モンゴル帝国は漢民族が建てた明王朝によって長城の外に追いやられた。
数百年ぶりに長城の内側に強大な漢民族、長城の外に遊牧民が対峙することとになった。
「万里の長城をつくったのは、さまざまな民族が攻め合い、競い合った中国の歴史そのものだ」と始まった『空旅中国 万里の長城』。
漢民族の明王朝が石や煉瓦で長城の増強工事を始めると、やがて、龍のような巨大な姿が現れた。(「長城をつくったのは?」「秦始皇帝の長城」「漢の長城」「五胡十六国時代」)
全長2万1000kmと推定される万里の長城だが、明王朝の時代に建設された「万里の長城」の約3分の1が、自然現象や人為的な破壊によって消失しているといわれる。

明はさらに広範囲で長城の補強を始めた。壁は高さ6mほど。石や煉瓦で築いた屋根付き見張り台には武器や弾薬を備えていた。中には10人以上の兵士が住むこともできたという。

九門口長城は、水深浅く騎馬も渡れる九江につくられた唯一の水上の長城。長さは約110m、幅23mで、高さは水面から6~7mあり、9つのアーチ型の水門がある。かつてはこの水門に木製の扉があったというが、今は失われている。
九門口長城 遼寧省
明王朝の作り上げた長城は完璧なものに思えた。さらにシルクロード寄りの長城も修復した。
だが、明王朝の終わりはあっけなくやって来た。敵は長城の内側にあった。農民の反乱が起き、北京は落した。明の皇帝は自ら命を絶ったという。
実は、長城の内側にある練兵場から関所を通らずに長城の外側にある山の中に出られる秘密のトンネルがあった。トンネル内には大小29の洞、食糧庫、弾薬庫、兵器庫、井戸などがあり、2000人以上の兵士が密かに暮らすことができたという。
農民の反乱が起きたころ、満州族と睨みあっていた明の武将呉三桂は北京陥落の知らせを聞き、寝返って満州族をトンネルに招きいれた。満州族は地下から北京に入り、反乱軍を追放した。
北京はその後、清の都となった。明の長城が破られたのはその構造やシステムに欠陥があったのでなかった。
河北省 板廠峪 長城を築き見守る人々の村。明の時代に長城のレンガを焼いた窯がいくつも見つかった。石灰に糯米を混ぜて接着していたことで長城が数百年耐えられることができたという。
天下第一関 山海関は東シナ海から第一番目の関で、満州族が北京に都をおくと、無用の長物となった。
清が成立して半世紀余り、長城の倒壊が多く、修築を行いたいと臣下が進言すると、康熙帝はもはや修築の必要はないと考えたという。
『空旅中国 万里の長城』は康熙帝の言葉で終わった。
秦築長城以来、漢唐宋亦常修理、其時豈無辺患?
明末我太祖統大兵、長駆直入、諸路瓦解、皆莫能当。
可見守国之道、惟在修徳安民。
民心脱服、則邦本得、而辺境自固。
所謂衆志成城者是也。
秦が長城を築き、漢唐宋が壁の修復をしたが、国境の敵が消えたことがあったか? 明の末期、わが太宗が長城を越えたとき、路を阻むものがあったか。これを見るに国を守る道は、徳を修め民を安らかにすることのみ。民がすすんで従う国になれば、国境の心配などなくなる。言ってみれば民の心 それが長城となるのだ。
康熙帝は、清朝第4代皇帝。唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。
今、世界に真に国民のことを考える優れたリーダーがどれほどいるのだろうか・・?いろいろ考えさせられた「空旅」だった。
漢民族の明王朝が石や煉瓦で長城の増強工事を始めると、やがて、龍のような巨大な姿が現れた。(「長城をつくったのは?」「秦始皇帝の長城」「漢の長城」「五胡十六国時代」)
全長2万1000kmと推定される万里の長城だが、明王朝の時代に建設された「万里の長城」の約3分の1が、自然現象や人為的な破壊によって消失しているといわれる。

明はさらに広範囲で長城の補強を始めた。壁は高さ6mほど。石や煉瓦で築いた屋根付き見張り台には武器や弾薬を備えていた。中には10人以上の兵士が住むこともできたという。

九門口長城は、水深浅く騎馬も渡れる九江につくられた唯一の水上の長城。長さは約110m、幅23mで、高さは水面から6~7mあり、9つのアーチ型の水門がある。かつてはこの水門に木製の扉があったというが、今は失われている。
九門口長城 遼寧省明王朝の作り上げた長城は完璧なものに思えた。さらにシルクロード寄りの長城も修復した。
だが、明王朝の終わりはあっけなくやって来た。敵は長城の内側にあった。農民の反乱が起き、北京は落した。明の皇帝は自ら命を絶ったという。
実は、長城の内側にある練兵場から関所を通らずに長城の外側にある山の中に出られる秘密のトンネルがあった。トンネル内には大小29の洞、食糧庫、弾薬庫、兵器庫、井戸などがあり、2000人以上の兵士が密かに暮らすことができたという。
農民の反乱が起きたころ、満州族と睨みあっていた明の武将呉三桂は北京陥落の知らせを聞き、寝返って満州族をトンネルに招きいれた。満州族は地下から北京に入り、反乱軍を追放した。
北京はその後、清の都となった。明の長城が破られたのはその構造やシステムに欠陥があったのでなかった。
河北省 板廠峪 長城を築き見守る人々の村。明の時代に長城のレンガを焼いた窯がいくつも見つかった。石灰に糯米を混ぜて接着していたことで長城が数百年耐えられることができたという。
天下第一関 山海関は東シナ海から第一番目の関で、満州族が北京に都をおくと、無用の長物となった。
清が成立して半世紀余り、長城の倒壊が多く、修築を行いたいと臣下が進言すると、康熙帝はもはや修築の必要はないと考えたという。
『空旅中国 万里の長城』は康熙帝の言葉で終わった。
秦築長城以来、漢唐宋亦常修理、其時豈無辺患?
明末我太祖統大兵、長駆直入、諸路瓦解、皆莫能当。
可見守国之道、惟在修徳安民。
民心脱服、則邦本得、而辺境自固。
所謂衆志成城者是也。
秦が長城を築き、漢唐宋が壁の修復をしたが、国境の敵が消えたことがあったか? 明の末期、わが太宗が長城を越えたとき、路を阻むものがあったか。これを見るに国を守る道は、徳を修め民を安らかにすることのみ。民がすすんで従う国になれば、国境の心配などなくなる。言ってみれば民の心 それが長城となるのだ。
康熙帝は、清朝第4代皇帝。唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。
今、世界に真に国民のことを考える優れたリーダーがどれほどいるのだろうか・・?いろいろ考えさせられた「空旅」だった。
明の長城、そして・・・ みんみんの庭
http://mingniwa.blog94.fc2.com/blog-entry-4420.html明の長城、そして・・・
「万里の長城をつくったのは、さまざまな民族が攻め合い、競い合った中国の歴史そのものだ」と始まった『空旅中国 万里の長城』。漢民族の明王朝が石や煉瓦で長城の増強工事を始めると、やがて、龍のような巨大な姿が現れた。(「長城をつくったのは?」「秦始皇帝の長城」「漢の長城」「五胡十六国時代」)
全長2万1000kmと推定される万里の長城だが、明王朝の時代に建設された「万里の長城」の約3分の1が、自然現象や人為的な破壊によって消失しているといわれる。

明はさらに広範囲で長城の補強を始めた。壁は高さ6mほど。石や煉瓦で築いた屋根付き見張り台には武器や弾薬を備えていた。中には10人以上の兵士が住むこともできたという。

九門口長城は、水深浅く騎馬も渡れる九江につくられた唯一の水上の長城。長さは約110m、幅23mで、高さは水面から6~7mあり、9つのアーチ型の水門がある。かつてはこの水門に木製の扉があったというが、今は失われている。
九門口長城 遼寧省明王朝の作り上げた長城は完璧なものに思えた。さらにシルクロード寄りの長城も修復した。
だが、明王朝の終わりはあっけなくやって来た。敵は長城の内側にあった。農民の反乱が起き、北京は落した。明の皇帝は自ら命を絶ったという。
実は、長城の内側にある練兵場から関所を通らずに長城の外側にある山の中に出られる秘密のトンネルがあった。トンネル内には大小29の洞、食糧庫、弾薬庫、兵器庫、井戸などがあり、2000人以上の兵士が密かに暮らすことができたという。
農民の反乱が起きたころ、満州族と睨みあっていた明の武将呉三桂は北京陥落の知らせを聞き、寝返って満州族をトンネルに招きいれた。満州族は地下から北京に入り、反乱軍を追放した。
北京はその後、清の都となった。明の長城が破られたのはその構造やシステムに欠陥があったのでなかった。
河北省 板廠峪 長城を築き見守る人々の村。明の時代に長城のレンガを焼いた窯がいくつも見つかった。石灰に糯米を混ぜて接着していたことで長城が数百年耐えられることができたという。
天下第一関 山海関は東シナ海から第一番目の関で、満州族が北京に都をおくと、無用の長物となった。
清が成立して半世紀余り、長城の倒壊が多く、修築を行いたいと臣下が進言すると、康熙帝はもはや修築の必要はないと考えたという。
『空旅中国 万里の長城』は康熙帝の言葉で終わった。
秦築長城以来、漢唐宋亦常修理、其時豈無辺患?
明末我太祖統大兵、長駆直入、諸路瓦解、皆莫能当。
可見守国之道、惟在修徳安民。
民心脱服、則邦本得、而辺境自固。
所謂衆志成城者是也。
秦が長城を築き、漢唐宋が壁の修復をしたが、国境の敵が消えたことがあったか? 明の末期、わが太宗が長城を越えたとき、路を阻むものがあったか。これを見るに国を守る道は、徳を修め民を安らかにすることのみ。民がすすんで従う国になれば、国境の心配などなくなる。言ってみれば民の心 それが長城となるのだ。
康熙帝は、清朝第4代皇帝。唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。
今、世界に真に国民のことを考える優れたリーダーがどれほどいるのだろうか・・?いろいろ考えさせられた「空旅」だった。

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