2022年1月17日月曜日

大隈重信 - (Sigenobu Oauma 1838~1922)

英雄たちの選択「“円”はこうして生まれた!大隈重信 通貨改革の七転八倒」[字][再]
2022/5/4 (水) 8:00 ~ 9:00 (60分) 
NHK BSプレミアム
番組概要 
明治初め、新政府の大きな課題が通貨改革だった。江戸の通貨から新たな「円」にいかに移行するか。担当する大隈重信には偽金、新政府紙幣の暴落など次々と難題が降りかかる。
番組詳細 
 明治初め、新政府の財政責任者となった大隈重信。最大の課題は新たな通貨制度の確立だった。生まれたばかりの新政府が発行した紙幣「太政官札」は信用がなく値崩れ。さらに戊辰戦争のために各地で偽金が作られ国際問題に発展。貿易決済は金銀どちらをベースにすればいいのか、海外での動きもにらんで決めてゆくが、幕末の両替レートの不備と輸入超過で肝心の金銀が不足。国内の通貨は紙幣のみに。「円」誕生の悪戦苦闘をたどる。
【司会】磯田道史,中山果奈,【出演】明治大学教授…飯田泰之,江上剛,信州大学特任教授…山口真由,【語り】松重豊

M10~14:


大隈重信以後:


福沢諭吉との関係には触れられなかった。

ーー
 
大隈重信 - Wikipedia


大隈重信 ★


多分、大隈も最初はMMT的な財政学を理解していない。自叙伝を読むと段々と理解していったとわかる。

岩波文庫自叙伝より

九 財政に関する外交 〔各地外交問題解決への余の尽力〕  横須賀の恢復と云い、軍艦兵器の受取と云い、はたまた英人暗殺事件と云い、何れもその当時における外交事件の頗る困難なるものなりき。余のその衝に当りてこれが結局を為ししは、只時の出来事に際会して、一部分の関係を有し、一事件の処理を為したるに過ぎず。身は外交官の列に在りたれども、あえて外交の全局に当り、その責に任じてその事を執りしにあらず。特に片々たる外交問題のため、時に東国の風に櫛り、あるいは西陲の雨に沐し、始終奔走して外に在りし故を以て、中央政府との関係も自然薄きに至り、外交のことは言うに及ばず、維新の大改革なる活劇の進捗の上についても、前後連続して親炙すること能わず、僅かにその一局部一事件につきて関知するところあるのみなりき。然るにかの長崎に於ける英人暗殺事件も、二ヶ月に余る吟味捜索の極に、その落着を告げしを以て、漸く京師に還り、ここに初めて中央政府の平常の事務に服することとなりぬ。 〔外交責任者としての小松帯刀の台頭〕  この時に当り余は外交上の問題よりして財政に関係することと為り、これより外交全局の責に任じて事を執るに至れり。これより先、余が英人暗殺事件の取調として長崎に赴き、同地に滞在する時に当り、小松帯刀は抜擢せられて外国官の副知官事と為りぬ。地方の藩士を以て副知官事と為すは誠に異常の例にして、小松の抜擢を嚆矢と為す。蓋し当時の知官事たり、副知官事たるものは、大藩の諸侯にあらずんば公卿にして、地方の藩士のごときはその部下に趨走するに過ぎざりき。しかし、その実権は部下の藩士の掌中に帰し、諸侯もしくは公卿は、単に形式上にその地位を占めて、体裁を装備するのみなりしも、維新の改革ほとんど成り、世進み物開くるに従い、その不便不利は少しとせず。ことに外交に関する官職威権にして、名実その地を異にすることあれば、煩累紛雑なる交渉事件を処理する上に於て、不便利不都合更に甚だしきものあり。二百数十年来積習の致すところにて内治の局に任ずるものは、諸侯と云い公卿と云い、謂ゆる門閥を以て必要と為すこともなきにあらざれども、独り外交に至りては、理情ともに官権の名実その地を異にするを許さず。ここにおいて乎、他の軍務、内務及び会計のごときは、暫くその旧に依って革むるところなきも、外交に関する官職はその実権とともにこれを地方の藩士に移し、名実一致を計らざるべからざることとなり、さては在来の例習を破り小松を抜擢して副知官事と為せしなり。  小松は余等の先輩にして且つ同僚なりき。風采堂々として弁舌爽快に、やや学識あり、志気卑しからず。これに加うるに、薩藩の名門として威望頗る重く、外国の副知官事として最も適任の人なりき。 〔小松による余の推挙〕  好事魔多く桂蘭摧け易し。不幸なる哉、天は名士に福せず。小松は副知官事の任を受くる前より二竪の侵すところと為り、在職未だ幾干の日月ならずして、また起たず。内治に、外交に、往時に、前途に、満腔の雄図を懐きたるまま、空しく無限の血涙を吞んで、奄然幽冥の途につく。嗚呼、また悲しからずや。抑々また国家民人の不幸にあらずや。而してその後を襲うたるものは誰ぞ。小松は誰を推薦せしぞ。想うにその当時は薩と云い、長と云い、何れも戦勝の余威に乗じてその権勢は誠に非常なるものあり。従って政府の官吏、地方の職司たるものの中にも、薩長出身の人士を見ること多し。外交の官司のみ豈に独り然らずとせんや。寺島陶蔵(宗則)、町田民部(久成)、五代才助(友厚)は薩藩の人にして外国官判事たり。長藩の井上聞多(馨)、土藩の後藤象二郎(元曄)も同列に在り。これらの人々は、多くは小松の援引にてその地位を占めたる者にして、何れも余の先輩なりき。小松が二竪の侵すところと為りて再び起ざるを知り、その後任者を推薦する時に当り、これらの人々中より抜擢するは、必ずしも私心に出で情実に牽かされたるものと謂うべからず。然るに彼はついにこれらの人々を抜擢せずして、この大隈重信を推薦せんとは、吾も人も皆予想の外なりき。  余は小松と旧交あるにあらず。維新の前後に僅か三四回、相会見せしことありしのみ。また他に優れたる外交上の学識技倆を有するにあらず。況んや熟達したる経験、赫々たる功績をや。もし有りとするも、横浜、江戸の間に於て、横須賀の恢復、軍艦兵器の受取に奔走周旋し、且つ長崎に於ける耶蘇教問題について談判の局に当りし等、些細の経験功績に過ぎざるのみ。只これに過ぎざるのみ。如何んぞ、ここを以て直に薩長の非常なる権勢を凌ぎ、先輩の士を軼きて小松の後を襲うに至るの価値ありと為さん。しかも小松はなお他を措きて余を推薦し、当時の政府はその忠実なる意見を容れて、小松の死後直ちに余を外国官の副知官事に任命することとなりぬ(61)。誰か意外の感なからん。今にしてこれを思うに、小松は事に当りて公平を持するものなりしなり。公に処して一片の私心を挟まざるものなりしなり。「同郷も何かせん、知縁も何かせん。藩閥も顧みるところにあらず、情実も取るところにあらず。惟才これ用い、只だこれ任に適す」と。これ小松が公に処し、人を採るの意なり。当時、世人滔々として私に殉い、利に趨るの時に際し、かくのごときの名士を見る、誰か敬して仰がざるものあらん。時の国家の重局に任じ、枢機を司りしものにして、公平無私の心を持すること小松のごとくにして、以て天下に臨み、以て政務を執りしならば、官民の衝突、未だ今日のごとく甚しきに至らず。且つ世の志士仁人が、最も論難を逞うするかの藩閥情実の弊害はその間に成立たずして、維新の改革、大業の進歩は更に大に見るべきものあり。明治維新の歴史は、一層の光輝を放ちしならん。惜い哉、小松は早く没してまたその風を追うものなく、藩閥と云い、情実と云う不祥の言辞は、潔白なる天下人士の口より発せられて、時の政府を攻撃するの已むを得ざるに至りしこと。  余のこれを言うは豈に小松が推薦の恩を謝せんとの私情に出でたるならんや。誠に公平にして私なきの意志の掩わんとして掩うべからざるものありしを以てなり。史を読み、昔を憶い、一念此に至る毎に、無限の感慨の懐に往来するに勝えざるなり。  かくて余は突然その任命を受け、その外交上に於ける学識、技倆、経験、功績を有せざりしに拘わらず、直ちにその命を受け、以て全く外交の責に任ずることと為れり。 〔外交問題としての貨幣問題の浮上〕  王政親裁の古に復し、維新革命の大業僅かに成るの際、欧米の諸強国は時を利し、強を恃み、以て交渉関連する事々物々に臨むの傾きあるを以て、外交上のこととしいえば、簡単軽微なる事体も、その交渉談判は頗る困難煩雑にして、時の当局者を悩ますこと鮮なしと為さざりき。横須賀恢復のことと云い、軍艦兵器の買入といい、はた英人暗殺事件といい、ともにこれを今日に処せしめば、謂ゆる『朝飯前の仕事』に過ぎざるべきも、その当時に在りては幾多の時日を費し、幾多の心身を労するも、なお且つ容易にこれを処理する能わざるほどの問題なりき。時の外交の局に当る者の困難は、以て概見すべし。然るに余が命を受けて外国官副知官事と為るや、新奇にして且つ困難なる外交問題は余の処断を俟って眼前に横われり。乃ちこれまで一再話頭に上りしかの貨幣引換のことにして、これを細言すれば、一分銀二分銀の品位を落して鋳造したること、及び偽造贋造の盛んに行わるること等に依て、外国よりしきりに貨幣の引換を請求することこれなり。 〔幕末期の貨幣問題〕  思うに貨幣の良悪は国運の隆汚に関する少しとせず。遡りて旧幕府の情況を見るに、天正慶長の頃に際し、国運隆盛にして武威明韓を震動し、通商貿易は東南洋に雄視して南蛮天竺の地に及べり。この時に当りて鋳造せし貨幣は、謂ゆるかの慶長判にしてその品質はほとんど比び稀りと称す。その後、治平相継ぎ、四民無事に狎れ、奢侈の風漸く起りて、国帑窮乏を告げ、新鋳もしくは改鋳の貨幣は日一日劣悪に赴き、また到底するところを知らざるほどなりし。降りて享保の時に至り、徳川家中興の主を以て称せらるる吉宗が兵馬の権を握りて世に臨むに及び、慨然起ちて積年の弊政を釐革し、百般の制度を改新し、貨幣のごときも改鋳して慶長判と優劣なからしめたり。謂ゆる享保判なるもの即ちこれなり。然れども悪風除却し難く、吉宗の薨後、忽ちに改鋳のこと更に行われ、貨幣の品位益々劣悪に赴けり。蓋し往時の政府は、今日のごとく政費の不足に随いて新税を課する能わざりしを以て、かくのごとき場合には、貨幣の改鋳を以て一箇の財源と為し、国帑の窮乏に遇えば直にこれを実行し、劣悪の貨幣を以て在来の良貨と交換し、その金分の差を以て益金と為すの弊風相継ぎて行われたりき。加之に、全国大小幾百の諸藩も、かの尊王攘夷の論盛んに起りて内外騒然たる時に際しては、自ら兵器を整え、軍隊を練りてその封内の防務に任ぜざるべからずといえども、如何せん、二百数十年来の太平に狎れ、驕奢に耽り、財帑既に窮乏を告げ、平時の供用すらなお不足に苦しむの時なりしを以て、ついにこれに応ずる能わざりしを。ここにおいて乎、各々藩札を発行し、物産を搉占し、以て一時苟且の計を為せしのみならず、幕府の已に末路に際してその威令漸く衰うるに乗じて、貨幣の偽造贋造を企て、その急を済うに至りたりき。 〔維新直後の貨幣問題〕  かくて明治の当初に至りたれば、一分銀、二分銀等の品位は益々失落し、一般商人のごときも、幕府の一分銀、二分銀、太政官の一分銀、二分銀と、故さらにその貨幣の鋳造元を称呼して、以て太政官の鋳造にかかる一分銀、二分銀を嫌厭するに至る。特にかの大小諸藩に於て行い来りし貨幣の偽造贋造は、徳川幕府の全く亡びて王政維新なるの時に当りても、なお依然として行われ、ために悪貨は滔々として天下に流布するに至れり。これに加うるに、明治の初年に際し、時の窘急を済わんがため、数千万円の不換紙幣(62)を発行せしを以て、その価格非常に下落するに至り、幣政の紛乱はここにその極に達せり。かくのごとき幣政の紛乱は、独り内地に於ける商業の上に容易ならざる影響を及ぼすのみならず、実に外国との貿易の上に不便不利を与うることはもとより言を俟たず。特に我が国人こそ能く貨幣の真贋を判別し得べけれ、外国商人に至りては、種類多き偽造贋造の貨幣を真貨と判別すること能わずして、往々巨額の損失を蒙ることありしを以て、かの慶応二年〔一八六六〕に締結せし改税約定(63)に拠り、相率いて貨幣の引換を請求し、且つその国の公使領事の手を経て我が国政府に迫り、「日本政府、自ら品位を失落したる貨幣を鋳造するは、取りも直さず外国との条約に悖戻したるものと謂わざるべからず。且つ偽造といい、贋造といい、ともにこれ全国大小の藩侯が公然実行して憚からざるもの、その国法に背反したる挙措なるは、もとより言うまでもなきことなるに、政府は断然これが処分を施すことを為さず、放縦してその跋扈に任ずるは、豈に不都合の至極ならずや。偽造に対し、贋造に対し、はた品位劣悪の貨幣に対する責任は、日本政府断じてこれを負い、外国商人にして誤てこれを受取ることあらば、必ず相当の貨幣を以てこれを引換えざるべからず。顧うに、日本政府は先に造幣局を設立して正貨の鋳造を約束したるも、今に至りてなお且つこれを怠り、却て劣悪の貨幣を鋳出するは抑々なんぞや」といい、意気激して議論甚だ切なり。 〔改税約定第六条〕  案ずるに、慶応二年〔一八六六〕に締結せし改税約定の第六条左のごとし。 日本と外国との条約中に、外国貨幣は、日本貨幣と同種同量の割合を以て通用すべしと取極めたる箇条に従い、これまで日本運上所(64)にて、墨士哥ドルラル(65)を以て運上を納むる時は、一分銀の量目に比較し、ドルラル百枚を一分銀三百十一ヶの割合を以て請取来れり。然るところ日本政府に於て右仕来を改め、すべて外国の貨幣日本の貨幣と引替る事に障りなき様にし、また日本通用の貨幣を不足なき様にし、交易を便利にせんことを欲するに依り、日本金銀吹立所を盛大にせんことを既に決せり。然る上は日本人または外国人より差出すべきすべて外国金銀貨幣並び地金は、日本貨幣に吹替え、その諸雑費を差引、その質の真位を以てそのため定めたる場所に於て引替んとす。この処置を行うため、日本と条約を取結びし各国は、その条約に書載たる貨幣通用に関係せる箇条を改むること緊要なれば、右箇条を改むる様日本政府より申談じ、承諾の上、日本来丁卯年十一月中(西洋千八百六十八年第一月一日)よりその処置を取行うべし。 吹替の雑事として取立べき高の割合は、向後、双方の全権協議の上定むべし。 〔貨幣問題の担当となる〕  この時に当り外交の局は横浜に在り。寺島宗則はその判事としておもにその事務に鞅掌せり。かかる促責を受けて頗る困難し、これを中央政府に通じ、以てその処断を迫れり。中央政府はその促責に接して、また頗る困惑するところありき。而して時の外国官副知官事たる小松帯刀は、この時既に疾を獲て病褥に在り、親しくその間に立ちて奔走周旋する能わざりき。ここにおいて小松は特に余を推薦してその後を襲がしめんとし、中央政府もまたその推薦を容れて余を外国官副知官事に任命することと為し、英人暗殺事件の取調を終え長崎より帰るを待ちてこの難局に当らしむことに決し、諸外国の公使領事に向っても、予じめこの趣きを通じて、その要求促責に応ずる処断を遷延しつつあり。従って諸外国の公使領事は、日一日、余の帰来の遅きを責めて、貨幣の引換を迫る甚だ切なり。ここを以て余の長崎より帰り来るや、直にその官に任ぜられて身を難局に投ずることと為りしなり。  外国官副知官事の職たる、もとこれ一箇の外交官たるに過ぎざるのみ。然れども当時の外交問題にしておもに幣政に関係するものならしめば、その職に官たる者、必ず思を貨幣の上に回らし、慮を財政の点に及ぼさざるべからず。 〔会計官兼任〕  ここを以て余も思慮を幣政のことに致し、深く当時の会計の事情を察するところありしに、その混乱紛雑、蓋し言うに忍びざるもの多し。思うに外国商人がしきりに貨幣の引換を請求するは、単に貨幣の濫悪にしてかれこれの貿易上に、不便不利を蒙むること少なからざるに因るのみならず、その濫悪なる貨幣を買収し、これを以て真良の金銀と交換して、その間に巨利を博せんとの野心に出ずるものなきにあらず。ともかくも、貨幣の品位は日一日劣悪に赴き、偽造贋造の益々行われて制止するところなく、特に当時の会計に官司たりしものにして、ややもすれば陰私の行を為して、また幣政の紛乱を顧みざるがごときことあるに至っては、その商業貿易の上に、容易ならざる影響を及ぼすのみならず、延きて外交の上に困難を与うるもの、もとより少しとせず。ここにおいて余は当時の会計官の不都合を詰り、幣政の紛乱かくのごとくにして処断するところなくんば、外交の困難は日に益々その極に赴き、敏腕俊才も施すに由なくして、ついに如何ともすべからざるに至らんことを説き、激議痛論し毫も忌避するところなかりき。されば当時の政府も、ためにその経理に一任して久しく放擲し置くべからざるを知り、ついに余を以て会計の御用係と為し、外国官副知官事より兼ねて会計の事に参与し、以て外交と幣政とを併せ処理することと為せり。これぞ余が案外のことよりして、我が国の財政に関与するに至りたる端緒なり。 〔会計責任者由利公正との対抗〕  余の会計官御用係を命ぜらるるや、時の会計官副知官事由利公正等と商議協談してその整理を努むべき任務を負いしといえども、顧みてこれを思えば、身は僅かにその御用係と為りて外交官の地位よりこれを兼ねたるもののみ。未だその全権を握りて意のままにこれ施為する能わず。且つその学識に乏しく、経験を有せず、従って容易く喙を容れ手を下す能わざる事情なきにあらず。さればとて、空しく他の論議施為に任せてこれを譲し、手を拱して傍観し去るべきにあらず。ここを以て余はまず明治初年以来の財政の変遷と事情とを調査し、貨幣の濫悪、紙幣の発行より実際の出納を視察し、延きて幣政の将来を考究してその詳細を了するに及び、ここに初めて吏員に夥冗あり、経費に濫浪あり、これに加うるに陰私の行為屢次にして会計全体の上に種々の不都合あるを発見し、会計官の処置、その宜しきを得ざるもの甚だ多きを知り、謂えらく、「事態已に此に至る。断じてその根本より革むるにあらずんば、以て能くその紛乱を済うなく、従って外交上の問題を処決するなし」と。ここにおいて当初は単に貨幣の濫悪を非議したりしもの、今は百尺の竿頭に一歩を進めて、会計全体の上に向って厳鋭なる論難を加うるに至れり。これよりして議は益々由利の一派と相諧わざりし。 〔由利の辞任〕  これより先、後藤象二郎、五代才助〔友厚〕等も、会計全体の上について慊焉たらざるところあり、会計官の処置に痛く反対し、中央政府に向ってその革新を迫りしといえども、当時由利は大久保利通、木戸孝允等の深く信用するところと為り、且つ理財家として頗る勢威を有せしを以て、多少の反対非議のために、輒くその地位を動かすべくもあらず。従って会計の整理を見る甚だ難かりしなり。この時に当り、唯一の以て輒くその地位を動かし、且つ会計の整理を見るを得べきの事あり。他なし。外交に関係せし事、否、むしろ困難なる外交問題の素因と為りしこと、乃ちこれなり。  外交上のこととしいえば、簡単軽微なる事体も、その交渉談判は甚だ困難紛雑にして、時の当局者を苦悩せしめしこと已に前に述べたるがごとし。ここを以て当局者も、外交の問題に対しては深く思いを致し、特に重きを置き、ために諸般の内治も往々外交の上より動かされて変化するがごときこと鮮しとせず。従って少しく識見あり思慮あるの士は、外交の問題を以て内国の政治を掣肘し、革新し、謂ゆる外を以て内を制するの政略を執るもの多く、現に外に対する攘夷の精神を発揮して、内に於ける尊王の志気を鼓舞し、ついに能く徳川の幕府を仆して、維新改革の大業を創成するに至り、且つ外艱の故を以て能く内地の滅裂を防ぎたりしほどなりき。  されば外国官副知官事たりし余が、痛言激議して以て外交の問題の困難なるを説き、困難の由て来るところを論じ、且つ会計全体の上について一大革新を施し、その基礎を変改するにあらずんば、外交の問題、ついに得て調理するの期なく、日一日とその困難紛乱に陥りて、また収拾すべからざるに至らんことを絶叫して、極端なる反対の鋒を会計の上に擬せしに至っては、当時の政府も初めて豁然として覚り、悚然として動き、幣政の一日も苟且に附すべからざるを知り、まず外交官と会計官とを一致せしむるの必要を感じ、さては余をして兼ねて会計官の御用係たらしめ、ついに進んで会計の基礎に一大変革を加えんとの決心を起すに至れり。時あたかも明治二年〔一八六九〕の一月なりき。由利は反対の気焰益々盛んに、事情日に非なるを見て疾と称して引籠り、また出でて事務に鞅掌せず。越えて翌二月に至り、ついに辞表を提出して会計官副知官事の職を退かんことを乞えり。由利は資性頗る剛愎にして容易に人に屈せず、加うるに深く先進の信任を得たるあり。手腕の以て勢威を占めたるあり。而してなお且つその職を退くの已むを得ざるに至る。時運の然らしむるところと云うといえども、今にしてこれを思えば、また憐むべきなり。  由利已に去る。その後に任ぜられて副知官事たりしものは即ち余なりき。 〔明治政府の会計責任者となる〕  余は外交上に於けると一般に、会計及び幣政のことについても、熟達したる経験、赫々たる功績を有せざるは、もとより言うまでもなく、その学識に富めるにあらず、その技倆を有するにあらず、正しく真箇の門外漢たりしなり。しかもなお且つ会計官の御用係と為りて辞退せざりしは、誠に外交と会計との関係上、已むを得ざるものありしに因るなり。今にしてこれを思えば、これすら頗る大胆の挙動なりき。その由利の後を受けて会計官の副知官事たるがごときは、ただに余の欲せざるところなるのみならず、却って困却して而して迷惑せしところなりき。  且つ余が会計全体の上に向って厳鋭なる論難を加えたりしゆえんのもの、豈にあえて自らその地位を占めて経綸を行わんと欲するがごとき野心に出でたるものならんや。只時事の困難にして且つ紛雑なる、これを外交の上より見るも、これを内治の点より察するも、ともに全く幣政紛乱して会計官の処理その宜しきを得ざるに出でたるものなるを以て、特に外を以て内を制し、外交の困難を仮りて内治の改良を謀らんとせしに過ぎざりしのみ。一朝に由利これに堪えずして辞表を提出し、飄乎として引退するに及び、その職を以て余に嘱し、外交と会計とを兼ね行わしめんとす。むしろ意外の感を為せしところなり。ここを以て余は再三其任命を辞し、他に適当の人を求めてこれを襲がしめんことを請えり。  適当の人あらざりし乎。適当の人ありとするも、この際に外交と会計との一致を充全ならしめずんばその間杆格衝突してついに能くその困難を済うなしと思惟せし乎。時の政府はその請求を容れず、強いて余を会計副知官事と為し、由利の後に任じて、根本的大革新を為さしめんとせり。 〔貨幣制度改革の実施〕  当時、徳川の幕府全く仆れ、王政統一に帰せしといえども、各自藩々の念、未だ少しくも去るにおよばず。上は文武の将相より、下は僚属の小吏に至るまで、その郷藩の利害に迷惑して、ややもすれば諸般の行政施設に躊躇すること鮮なからず。特に全国大小の各藩が行い来りし貨幣の偽造贋造を禁絶して、幣政の改革を成すが如きは、時の当局者の容易に為す能わざりしところ、ここにおいて余はむしろ死地に陥りてその整理を謀り、その革新を努むるにあらずんば、以て能く時艱を済うなきを思い、即ち兼ねて会計官副知官事の任を奉じ、ここに初めて全く責を負うて外交と財政との事務を司掌するに至れり。  事既に此に至る、この上は如何にして幣政の整理を為すべき乎の一事は余が胸脳を打ちし唯一の問題なり。  人を射るにはまず馬を射よ。悪弊を洗滌せんには、その根本の革新を為すべきなり。幣政紛乱の由て来るところ、中央政府に於て鋳造する貨幣の品位、日一日劣悪に陥りたるに在り。全国幾多の藩侯が盛んに偽造贋造を行うに在り。この源を清め、この根を絶つにあらずんば、焉んぞ能くその悪弊を洗滌し、その紛乱を整理するを得ん。  ここにおいて、余は第一着として、江戸及び大阪において発行しつつある劣貨の鋳造を停止し、金銀座を閉鎖し、極印を打壊し、且つ貨幣の鋳造に関係ある職員のごときは尽くこれを免黜し、甚だしきは金銀座の官吏を捕えて一時これを拘留し、以て信を立て威を示して貨幣に対する政略の厳格なるを知らしめ、他方には速やかに造幣局の建築を落成せしめて正貨の鋳造に着手せんとし、在来の会計官が計画せし種々の建築の工事を停止して、その全力を造幣局の建築に注がしむることと為せり。  これより先、已に述べたる如く、従来の金銀座に於て発行する貨幣は、とてもその当時の需要に応ずべくもあらざりしより、余等の建言に基づき、鎮将府の英断に依り、香港にある英国の鋳造器械を買入ることとなり、横浜なるオリエンタル・バンク(東洋銀行)の手を経て、これを契約し了りしを以て、早晩我が国に到着すべく、造幣局の建築竢るを俟ち、据えて以て正貨の鋳造を為すべきなり。  正貨の鋳造を為すべしとは、ほとんど内外人士のともに唱うるところ、而して外国官の特に請求するところ、只その貨幣は在来の模型に依りてその品位を真良にすれば則ち足る乎。抑々新たに極印を製してその形式を更むべき乎。簡短に言えば、果して如何なる貨幣を鋳造すべき乎とはこれ実に一の難問題なり。この難問題を解釈するの前に当り更に心を労すべきは、かの幣政紛乱の一根源たる諸藩の偽造贋造を禁絶してその形影を滅ずることこれなり。顧うに、当時は幕府已に仆れて封建の制漸く敗れたりといえども、因襲の漸しき二百数十年、その積勢の余に頼りて、藩侯の威権未だ少しくも減却するところあらず。従って中央政府の命達も往々に遵奉せられざることなきにあらず。この時に際し、断じてその偽造贋造を禁絶せんとす。蓋しまた至難至艱の事と謂うべきなり。さればとて、速やかにこれを処断し、以て貨幣に対する政略を一定するにあらずんば、ただに幣政の紛乱を整理する能わざるのみならず、日本政府を代表して外国との交渉談判を為す能わざるなり。嗚呼、それこれを如何にすべき。 〔貨幣制度をめぐる外国公使との交渉〕  これより先、遷都の問題已に決し、〔明治〕二年三月には陛下再び東に幸し、東京城に入らせ給うことと為り、文武百般の職司官衙も従ってこれを東京に移すことと為りしを以て、当時の政府はその準備のため、匆忙混雑、云わん方なく、また幣政に関する種々の問題を顧みるの暇なし。さればとて、幣政の紛乱を整理して会計の基礎を革新すべきの事は、一日も緩うすべからざるのみならず、遷都なる一大英断のために要する経費も少なからず、従ってこれが補充を為さざるべからざるの必要あるを以て、会計官の多忙混雑も、またほとんど名状の外にして、貨幣に対する政策を一定するがごときは、容易に為し難きのことなりき。而して横浜に在る諸外国の公使領事、及び我が国の外交官よりは、切りに余が東上を促がし来りしを以て、余は謂えらく、「かかる匆忙混雑の中に処して荏苒日を曠うせんより、むしろ速やかに東京に出で、然る後に貨幣に対する政策を一定し、充分に整理革新の実を挙ぐるに如かず」と。ここにおいて、直ちに旅装を整え、車駕の御東幸に先だちて京師を発し、東京に入れり。  東京に入るや、直ちに諸外国の公使領事を集め、余が東上の遅延せしゆえんの事由を述べ、且つこれに告げて曰く、「我が国貨幣の品位濫悪に陥りて幣政頗る紛乱を極め、その弊害は延て相互の商業貿易の上に影響を及ぼすもの鮮しとせず。我が政府は疾にこれを憂い、匡済整理の意なきにあらざりしといえども、時艱世難のこれを遮ぎりて迅急にこれに着手するの余地を与えず、荏苒日を曠うして今に迨び、足下等の促責を蒙むるに至る、誠に慚愧の念に禁えざるなり。今や余、命を受けて会計の任に当ることとなれり。精励拮据してその弊害を除去し、幣政の紛乱を整理すべきは、もとより言うまでもなし。速やかに造幣局を設立して正貨の鋳造を為し、以て相互の商業貿易に便にすべきは、余の企画して且つ已に着手するところなり。また永く足下等を煩わすごときこと勿るべし。但し事体頗る大にして、その施設容易ならざるもの、日を期し、時を刻して能く成就し得べきのことにあらず。請う幸いにこれを諒せよ」と。諸外国の公使領事は、余が諭告の旨を頷ぜざるにあらざるも、我が国情は果して余が言質の実行を許すや否やについて疑惑の念を懐きたるもののごとく、「如何にして貨幣の濫悪を防ぐ乎」、「如何にして幣政の整理を為す乎」、「如何なる貨幣を鋳造すべき乎」などとの種々の質問を起して容易に首肯すべくもあらず。談判数回を重ねて漸く承服するに至り、六七ヶ月間の困難煩累もここに初めて解除し、財政に関する外交もひとまず局を結びて一段落を告ぐることと為れり。  如何にして諸藩の偽造贋造を禁絶すべき乎。  如何なる貨幣を鋳造すべき乎。  この二問題は、余がこれよりして解釈し、企画し、ついに成効して財政上に一生面を開きしものなり。 〔「版籍奉還」「封建と憲法」「進歩主義と保守主義の消長」前半略〕 〔編者注〕  大隈と副島種臣は鍋島閑叟に版籍奉還の必要性を説き、薩長土肥の藩主連署による版籍奉還奉請が一八六九(明治二)年一月二〇日に行なわれた。六月には版籍奉還が許可され、藩知事がそれぞれ任命された。  しかし、版籍奉還が実現された一八六九年には、次章にみるように、明治政府内部で進歩主義と保守主義との対立が激化し、進歩主義の代表者として大隈がさかんに攻撃されるようになった。大隈は、その中で、さらなる飛躍をとげていく。


3 留守政府首脳と大蔵省との対立 〔財政整理を進める大蔵省への不満〕  当時最も重きを置かれ、従ってその権力最も大なりしものは大蔵省にてありき。当時の大蔵省は只財政の事務を統轄するのみならず、今の農商務省、司法省、及び内務省の管理する事務のごときも大概これを管轄し、ほとんど一国政務の七八分を総理せりと云うも不可ならぬほどなりし。されば喬木の風、皓月の雲は必ず免がれ難し。已に一国政務の七八分を総理する責任の重きが如くに、その権力の大なるもまた言を待たず。ここを以て嫉妬は此に集り、怨望も此に集り、従って論難攻撃もまた多く此に集る。かの旧物の破壊、百事の改革に対して起りたる反動のごとき、多くはこれ大蔵省に向って集注せしと云うも決して過当にあらざるなり。  これより先、内閣に於ては、裁判事務を地方行政より分離して独立せしむること、及び新たに学制を定めて普通教育を施行することの必要を認め、これを決行せんとしたるも、これらのことは単にその制式を発表したるのみにて実行を見るべくもあらず。必ずや少なからざる経費を支出してその効果を収めざるべからず。然るに時の財政を掌る井上〔馨〕等はその決行に反対して曰く、「裁判の独立、学制の新定、理論上に於てはもとより異議の容るべきなし。実際の上に於てもまたその必要を認めずとはいわず。但し目下国庫痛く欠乏してその決行に伴うべき経費の支出に応ずべくもあらず。姑くこれを猶予して財政整理の時を待つに如かず」と。財政の当局者より国庫欠乏の故を以てその決行に反対す。その反対は一般人士の反対に比すれば特に強大なる勢力を有するものなり。然れども内閣は毫もこれらの非難反対に顧慮するところなく、断々乎としてその所信を決行したり。知らず、時の国庫はかくまで痛く欠乏せし乎。語を換て言えば、時の財政は果して井上等の揚言するごとくに裁判の独立、学制の新定を決行するに必要なる経費をも支出する能わざるまでに困難を感ぜし乎。これは必ずしも然らざるべし。然れどもその比は謂ゆる『維新の改革』に莫大の経費を抛ちたる後を承け、また封建廃滅の後を承け、その藩々の負債は内債、外債の区別なく尽くこれを中央政府に引受けたることなれば、現に国庫は頗る欠乏し、財政痛く困難を告げつつありしなり。 〔米価下落による財政窮迫の拡大〕  ことにその時の租税はおもに土地より収むるものにして、即ち米穀なりき。これより先、藩を廃せざるまでは、各藩々に於て米穀の輸送を掌り、あるいはその為替を振出すなど、純然たる米穀問屋の働きを為し来りしに、一朝封建の制度を廃滅するに及び、米穀問屋たる働きも自ら消滅し、而してこれに代るべき輸送為替の機関は未だ成立するに至らず。然るに廃藩の後は行政諸般の権を親裁の下に集めたるを以て、租税も尽く中央政府に於て収入することと為り、その両三年は米穀頻に登りたるを以て、中央政府に於ては勿論(租税として収入したるもの)、その他の各所に於ても米穀頗る滞積し、随意にこれを輸送売却するを得ず、従って米穀の価格痛く下落し、俄にその到底するところを知らず。中央政府に於て諸般の行政に充つべき経費を獲んには、収め来りし米穀を売却して金銭に換ざるべからざるも、かくのごとくこれを売却するの容易ならざるのみならず、その価格痛く下落しつつあるを以て、予算を立つることの困難は言うまでもなく、その売却よりして生ずる収入も存外に多からざりしなり。故に財政の局に当りしものは、如何にもしてその下落を済い、兼ねて財政を整理せんとせしも、輸送、為替の機関未だ成立せざると、米穀の連年豊実せしとは、駆りに駆りて米価を下落せしめ、財政当局者の苦心をしてほとんど水泡に帰せしめたりき。


3 会計検査院と三田派の秀才──矢野と小泉、中上川等  かくの如く、海軍の廓清、警視庁の改革は失敗におわったんであるが、この間一方、会計状態は頗る散漫に流れて、冗費が多かった。海軍に於てことに甚だしく、警視庁また然りであった。そこでこれを匡正すべく、新たに会計検査院を設けた。当時の検査院は、今日の検査院よりは法律上に於ても少し権力があった。違法の出入に対しては、検査院で裁判を開くと云う権力があったんである。  小野梓はその時入ったので、梓に命じて条例文を起草させた。それまでは大蔵省の中に検査局はあったが、これを独立させて大きくし、単に大蔵省のみならず、各省の出入を検査することにした。小野は当時の自由民権家であったが、大喜びで腕をさすって起草に着手した。  これに先だって、三田の福沢〔諭吉〕君とも親しく交わり、その門人連とも接近するようになり、その門下生を我輩に頼まれたので、この際矢野文雄、中上川彦次郎、小泉信吉を始めとし、漸次に慶應義塾出の秀才が十幾人入ったんである。その内の一番年少が犬養〔毅〕、尾崎〔行雄〕であった。  小泉、中上川と云う二人は、福沢門下の最も俊才であった。小泉は少し酒でも飲むと愉快な人だが、どちらからと云うと学者肌で、学問には忠実で、学力は中上川より勝れていたようである。中上川は福沢の甥で、何れかと云えば才幹な方で、井上が三井にも入れて三井の改革をもやらせたが、不幸にして早世した。福沢門下では経営の才では図抜けていた。我輩大分人を知っているが、前後を通じてこの二人が一番勝れていたようである。慶應の優等生で、福沢も最もこの二人を愛していたようで、英国に留学させ、帰ってから我輩のところへ委ぬるからと云うので、役人になったんで、後中上川は外務省にも入って、書記官位にもなったんである。小泉は租税局に入った。後正金銀行(108)の副頭取にもなり、また大分永らく慶應義塾の教頭をしておったと記憶する。この両人は犬養、尾崎ほど英雄的でないから話しもこの両人ほど面白くもない。尾崎、犬養もその頃役人になったが、やはりその時から大分手こずらせていた。  これ等の福沢門下の秀才中、唯一人役人にならなかったのは藤田茂吉であった。藤田は新聞を行ていたから、それをやらせたらいいと云うことで、そのまま報知新聞(109)にいた。  大いに俊秀を集めて改革に着手したが、漸々にやればよかったものを、我輩あまりに急激に過ぎたから、さなくとも平日敵の多い我輩、益々敵が多くなって、十二、三年〔一八七九、一八八〇〕頃からソロソロ薩長連合で我輩に衝って来るようになった。こうなれば我等は国民の力、即ち議会に拠るの外無しとして、福沢に相談すると、福沢も大いに同意して力を入れてくれた。  大体福沢にも初めに大分役人になるように勧めたが、福沢はドウしても、己れは何処までも筆の人口の人で行く、それでお前達の後援をしよう、即ち新聞を起して、お前達の機関にする──これが、後に時事新報(110)の創設となる──『憲法政治を起すなら己れも力を添える』と云う風で役人にはならなかったが、こんな風に意気相投じて、色々集会等もしていたこととて、我輩の失敗がはしなくも、福沢及び慶應義塾にも少からざる迷惑をかけた、と云うのが現われて、北海道開拓使官有物払下問題の勃発である。  これは我輩の思慮の足らぬところからでもあるが、一つには時勢が急変したので、あたかも山巓より石を転ばすが如くに、天下の人心自ずから我れに向えり、藩閥も軍人も眼中に無し、と過信したのが我輩の大いなる誤りであった。伊藤、井上はもともと長州の出であるから、我輩と行動をともにして頗る立場が苦しくなる。其処で後に至ってソロソロ躊躇し始めた、逡巡し始めた。ついには伊藤、井上も我輩と離れると云う不幸に陥った。これ即ち明治十四年の我輩の失脚で、少しくその間の消息について語ろうと思うが、それにはまず北海道開拓使官有物払下げの問題を語らねばならぬ順序となるんである。

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大隈 重信
おおくま しげのぶ
Shigenobu Okuma 5.jpg
生年月日 1838年3月11日
(和暦:天保9年2月16日
出生地 Flag of Japan (2000 World Factbook).svg 日本肥前国佐賀城下会所小路
(現佐賀県佐賀市水ヶ江町)
没年月日 1922年1月10日(83歳没)
死没地 日本における郵船商船規則の旗 日本東京府東京市牛込区早稲田
(現東京都新宿区
出身校 弘道館(佐賀藩校)
前職 公務員佐賀藩士)
所属政党立憲改進党→)
無所属→)
(立憲改進党→)
進歩党→)
憲政党→)
憲政本党
称号 従一位
菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章
大礼記念章
レジオンドヌール勲章グランクロワ
聖アレクサンドル・ネフスキー勲章
旭日桐花大綬章
頭等第三双竜宝星
オーストリア帝室レオポルト勲章グランクロワー
グランクルースダレアールオールデンミリタールデノーサセニオーラダコンセイサンデヴィーラヴィソーザ勲章
白象第一等勲章
リツデルグロイトクロイスインデヲルデヴアンデンネーデルランドセンレーイ勲章
イタリア王冠勲章グラン・コルドーネ
正二位
赤鷲勲章
大日本帝国憲法発布記念章
白鷲勲章
従二位
正三位
聖アンナ勲章一等
勲一等旭日大綬章
従三位
正四位
従四位下
従五位下
配偶者 大隈美登
大隈綾子
親族 娘婿・大隈信常(貴族院議員)
孫・大隈信幸(参議院議員)[注釈 1]
サイン OkumaS kao.png

内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1914年4月16日 - 1916年10月9日
天皇 大正天皇

日本における郵船商船規則の旗 第8代 内閣総理大臣
内閣 第1次大隈内閣
在任期間 1898年6月30日 - 1898年11月8日
天皇 明治天皇

内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1915年8月10日 - 1915年10月13日

内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1915年7月30日 - 1915年8月10日

日本における郵船商船規則の旗 第26代 内務大臣
内閣 第2次大隈内閣
在任期間 1914年4月16日 - 1915年1月7日

その他の職歴
日本における郵船商船規則の旗 第14代 外務大臣
(1898年6月30日 - 1898年11月8日)
日本における郵船商船規則の旗 第13代 農商務大臣
1897年3月29日 - 1897年11月6日
日本における郵船商船規則の旗 第12代 外務大臣
1896年9月22日 - 1897年11月6日)
日本における郵船商船規則の旗 第7代 外務大臣
1888年2月1日 - 1889年12月24日
日本における郵船商船規則の旗 第4代 大蔵卿
1873年10月25日 - 1880年2月28日
日本における郵船商船規則の旗 貴族院議員
1916年7月14日 - 1922年1月10日)
憲政本党総理
1900年 - 1907年1月20日
立憲改進党総理
1882年4月16日 - 1894年
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大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈和暦:天保9年2月16日〉- 1922年大正11年〉1月10日)は、日本政治家[1]位階勲等爵位従一位大勲位侯爵菅原[2]

参議大蔵卿内閣総理大臣(第817代)、外務大臣(第34101328代)、農商務大臣第11代内務大臣(第3032代)、枢密顧問官貴族院議員報知新聞経営者(社主[3]同志社大学社友。

政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ教育者

目次

  • 1 略歴
  • 2 生涯
    • 2.1 生い立ち
    • 2.2 明治維新時の活躍
    • 2.3 新政府での活動
    • 2.4 大久保政権下の活動
    • 2.5 伊藤政権下の大隈
    • 2.6 明治十四年政変
    • 2.7 立憲改進党の設立
    • 2.8 外務大臣
    • 2.9 松隈内閣
    • 2.10 隈板内閣
    • 2.11 憲政本党総理
    • 2.12 在野活動
    • 2.13 第二次大隈内閣
      • 2.13.1 対華21カ条要求
      • 2.13.2 改造内閣
      • 2.13.3 後継首相をめぐる暗闘
    • 2.14 「準元老」
    • 2.15 死去と「国民葬」
  • 3 人物
    • 3.1 政策
    • 3.2 人物像
    • 3.3 人間関係
      • 3.3.1 伊藤博文との関係
      • 3.3.2 元勲との関係
      • 3.3.3 福沢諭吉との関係
      • 3.3.4 その他の人物との関係
    • 3.4 逸話
    • 3.5 後世
  • 4 評価
    • 4.1 評論
    • 4.2 同時代人物の人物評
  • 5 栄典
  • 6 系譜
  • 7 大隈重信像
  • 8 著作
    • 8.1 単著
    • 8.2 共著
    • 8.3 編著
    • 8.4 序文
    • 8.5 監修・校閲
    • 8.6 作品集等
      • 8.6.1 大隈文書
      • 8.6.2 大隈重信叢書
    • 8.7 著作目録等
  • 9 脚注
    • 9.1 注釈
    • 9.2 出典
  • 10 参考文献
  • 11 関連項目
  • 12 関連作品
  • 13 外部リンク

略歴

幕末佐賀藩の上士の家に生まれて志士として活躍し、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府の首脳となり、参議大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。また教育者としても活躍し、早稲田大学1882年東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる。

生涯

生い立ち

佐賀藩士時代の大隈

天保9年(1838年)2月16日、佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。幼名は八太郎。大隈家は、知行300を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。幕末の上士出身で明治後半まで活躍した元勲には井上馨板垣退助後藤象二郎ら総理大臣には就けなかった者が多いが、大隈は数少ない例外である。

重信は7歳で藩校弘道館に入校し、『朱子学』中心の儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館の南北騒動をきっかけに退学となった[4]。このころ、枝吉神陽から国学を学び、枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣江藤新平らと参加した。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任したが、実際には講義は殆ど行わず、議論や藩からの命を受けて各地で交渉を行うなどの仕事をしている[5]

文久2年(1862年)前島密らと共に聖公会チャプレンのチャニング・ウィリアムズに英語や数学などの洋学を学ぶ。

大隈は、長州藩への協力および江戸幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するにはいたらなかった。慶応元年(1865年)、長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」の校長で、オランダ出身の宣教師グイド・フルベッキ英学を学んだ。この頃にアメリカ独立宣言などを知り、大きく影響を受けた。致遠館では、副島種臣と共に教頭格となって指導にあたった。また京都と長崎を往来し、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島とともに将軍徳川慶喜大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛のうえ佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。謹慎後、大隈は鍋島直正の前に召され、積極行動を呼びかけたが容れられなかった[6]

明治維新時の活躍

慶応4年[注釈 2]1868年)、幕府役人が去った長崎の管理を行うために、藩命を受けて長崎に赴任した[6]。長崎では有力藩士との代表とともに仮政府を構成していたが、2月14日には朝廷より長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨が赴任、引き継ぎを行った[7]。まもなく裁判所参謀助役として、外国人との訴訟の処理にあたった。3月17日、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。大隈の回想によれば、井上馨が「天下の名士」を長崎においておくのは良くないと木戸孝允に推薦したためであるという[8]。当時隠れキリシタンの弾圧である浦上四番崩れについて、各国政府との交渉が行われており、大隈はイギリス公使パークスとの交渉で手腕を発揮し、この問題を一時的に解決させた[9]。12月18日には前任の小松清廉の推挙により、外国官副知事に就任している[10]

新政府での活動

大隈財政」も参照
壮年期の大隈

明治2年(1869年)1月10日、再び参与に任じられ、1月12日からは会計官御用掛に任ぜられた[11]。これは当時贋金問題が外交懸案の一つとなっていたためであり、大隈は財政や会計に知識はなかったが、パークスと対等に交渉できるものは大隈の他にはなかった[12]。2月には旧旗本三枝七四郎の娘、三枝綾子と結婚した[13]。美登との離婚は明治4年(1874年)に成立している[14]

3月30日には会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定、版籍奉還への実務にも携わった。4月17日には外国官副知事を免ぜられたが、それ以降もパークスとの交渉には大隈があたっている[15]。7月8日の二官六省制度の設立以降は大蔵大輔となった。この頃から木戸孝允に重用され、木戸派の事実上のナンバー2と見られるようになった[16]。またこの頃から「八太郎」ではなく「重信」の名が使用されるようになる[17]。7月22日には民部大輔に転じ、8月11日の大蔵・民部両省の合併に基づき双方の大輔を兼ねた[17]。この頃大隈邸には伊藤博文や井上馨、前島密渋沢栄一といった若手官僚が集まり、寝起きするようになった。このため大隈邸は「築地梁山泊」と称された[18]。強大な権限を持つ大蔵省の実力者として、地租改正などの改革にあたるとともに、殖産興業政策を推進した。官営の模範製糸場、富岡製糸場の設立、鉄道・電信の建設などに尽くした。しかしこれは急進的な改革を嫌う副島種臣や佐々木高行広沢真臣といった保守派や、民力休養を考える大久保利通らの嫌うところとなった。

【日本初の鉄道敷設計画】

大隈・伊藤が鉄道計画を立てたのは1869~1870年と考えられます。

 その計画は井上馨(造幣局、後に大隈の仲介で結婚をしている)と渋沢栄一(民部省、大隈の説得があり入省している)に話したところ「賛成せざりしにあらざれども、時の情勢に危ぶところあり」が「斥けかかる反動の気焔を挫かんには、かかる大事業を企成して天下の耳目を新たにするに如くはなし」と答えています。[19]

 また1869年11月5日、右大臣三条実美の東京邸宅において、岩倉具視(大納言)、沢宣嘉(外務卿)、大隈重信(民部兼大蔵大輔)、伊藤博文(同少輔)がパークスと非公式に会談したことがあたると思います。

大隈と伊藤が事前にパークスと協議した脚本どおりに議事は進行します。

「折から東北・九州は凶作に見舞われ、北陸・近鉄は反対に豊作と聞く。鉄道があれば豊作地の米を凶作地に短時間で大量に輸送することが可能になり、以降の日本は凶作への不安から解放される」というパークスの主張に三条・岩倉ともに手を打って賛同したようです。

11月10日には鉄道敷設が正式に廟議決定されました。

その内容は「幹線として東西両京[東京⇔京都]を結び、支線として東京⇔横浜線ならびに琵琶湖⇔敦賀港線を敷設するが、その第一着手線としたのは、ときの政治拠点と外交拠点を直結するという意味以外に、爾後の鉄道拡張に必要な資材を外国から輸入する港湾の確保という意味もあったようです。[20]

 12月には廟議で東京と関西を結ぶ幹線と、枝線として東京都横浜間の計画が決定し、手始めに東京~横浜間の建設になったようです。

 この時に決まった東京~関西のルートは、中山道沿いを通るものであったようです。山間部の開発に繋がることと、海に近い東海道では軍艦からの攻撃を受けやすいので避けたい、という陸軍の意向があったようです。[21]

 ただ大隈重信は『大隈重信自叙伝』にて「その計画は、鉄道敷設の起点を東京とし、横浜より折れて東海道を過ぎり、京都・大阪を経て神戸に達するを幹線と為し、京都より分かれて敦賀に至る支線を敷き、この幹線と支線とを以て第一着手の敷設線路と為し、これより漸次してついに全国に及ぼさんと図りしなり。」と述べています。[19]

 前述の1869年12月廟議の計画とは東海道ルートを通ることで変更をされていますが、中山道ルートは山間部の開発があまりにも大変なため中止になったようです。

 そして資金は外債募集に頼りました。

そのため「我が神洲の土地を典じて外債を募集する」という陸軍・兵部大輔の前原一誠を筆頭とする反対があったようです。「(鉄道を建てる試験のための)電信線を傷け電線を切断する」などの行為があったようです。因みに兵部の西郷隆盛の反対があり、最初の京浜鉄道は陸路を使う事ができず海を埋め立てて通したとも言われています。

 また枢密院議長たる黒田清隆はそのときは大反対であったようですが、1871年1~5月のアメリカ合衆国・ヨーロッパ諸国を旅行して鉄道の重要性を体感し、賛成に転じたと大隈は述べています。[19]

1869年11月10日鉄道敷設の正式決定した2日後には大隈重信と伊藤博文はレイと仮契約(レイ借款:100万ポンドの借款で、30万ポンドは鉄道敷設に使い、残りは外債償却につかったといいます)をしていました。[20]

またレイによって「(大隈重信が外国では鉄道の軌間[ゲージ]基準がどうなってるか尋ねると)日本のような川や山が多く平地が少ないところでは、南アフリカなどに敷設されている3フィート6インチ(1067mm:ケープゲージ)が適当」と勧められて導入しています。

ただこれはレイが同じケープゲージを採用していたインドの中古資材を購入して、その利ザヤで儲けをたくらんでいたための回答で、通常の欧米よりも狭い軌道であったようです。そのため、後に大隈重信は「一生一代の不覚」と反省しているようです。

 ただ、1870年5月20日に英国から『タイムズ』大隈らのもとに届き、4月23日にレイがロンドンにおいて公債公募による詐欺を行っていた記事を読み、すぐにこの「レイ借款」を解除するという騒動になりました。[22]

 1871年7月半ば、横浜港にイギリスから届いた機関車と客車が陸揚げされました(基本的にこの京浜鉄道は外国からの中古品や流れものによって構成されていたよう[22])。

 11月6日には、岩倉遣欧使節により伊藤と岩倉は日本に不在になったため、日本初めての鉄道の開業は留守政府の大隈のもとで行われることになります。

 1872年5月7日(あるいは6月12日とも)に品川-横浜間で仮営業を始めました。

そして1872年9月12日(あるいは10月14日)に開業しています。 

【明治4年以降】

明治4年6月25日、大久保主導の制度改革で参議と少輔以上が免官となり、新参議となった木戸と西郷隆盛によって新たな人事が行われることになった。大隈はこの日参議と大蔵大輔を免ぜられ、6月29日に大蔵大輔に再任された。しかし7月14日には参議に任ぜられ、大蔵大輔は免ぜられた[23]。11月12日に岩倉使節団が出国すると、大隈は留守政府において三条・西郷らの信任を得て、勢力を拡大し、大蔵大輔となっていた井上馨と対立するようになる[24]1873年(明治6年)5月に井上が辞職すると、大蔵省事務総裁を兼ねて大蔵省の実権を手にした。5月26日には大蔵卿の大久保が帰国したが、その後も実権を握り続けた[25]

一方でウィーン万国博覧会の参加要請を日本政府が正式に受け、博覧会事務局を設置。大隈が総裁、佐野常民が副総裁を務め、明治になって政府が初めて参加した万国博覧会となり、近代博物館の源流となった。大隈は会場に出席するため渡欧しようとしたが、政府内の同意が得られず出国しなかった[26]

明治六年政変では、当初征韓論に反対の態度を示さなかったが、10月13日以降反征韓派としての活動を始めた[27]。征韓派は失脚し、佐賀藩の先輩であった江藤新平・副島種臣と袂を分かった。政変後の10月25日には参議兼大蔵卿になった[28]。また大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出している。

大久保政権下の活動

明治7年(1876年)1月26日には三条より、大久保とともに台湾問題の担当を命ぜられ、積極的に出兵方針を推し進めることになる[29]。4月4日には台湾蕃地事務局長官となり、出兵のための船を閣議に図らず大蔵卿の職権で独断で確保した[30]。大隈は出兵を命ぜられた西郷従道とともに長崎に向かったが、その間にイギリスとアメリカから抗議があったため、出兵を一時見合わせる方針となった。ところが西郷は独断で出兵を行い、政府も追認せざるを得なくなった。この間、大隈が西郷の出兵を止めようとしたという記録は残っていない[31]。大隈は出兵後も駐兵を続けるべきと主張していたが、大久保らが早期撤兵の方針を取ると、それに従った[32]。5月23日には左大臣となっていた島津久光が、大隈とその腹心である吉田清成の免職を要求した。大隈は病気を理由に辞表を提出したものの、台湾問題の最中に担当者である大隈を辞職させることもできず、久光の意見は却下された[33]

明治8年(1875年)1月4日には「収入支出ノ源流ヲ清マシ理財会計ノ根本ヲ立ツルノ議」という意見書を三条宛に提出し、条約改正の実現と、間接税の重視と内需の拡大、官営事業の払い下げなどを主張している[34]。2月11日の大阪会議の開催については全く知らされておらず、大隈を嫌うようになっていた木戸の復帰は、大隈の権力基盤を脅かすこととなる[35]。この頃から大隈は体調を崩したとして出仕せず、三条・岩倉・大久保らは大隈の大蔵卿からの解任を検討しているものの、後任候補の伊藤が受けなかったことや、大隈以上の財政家がいないことを理由に大隈を慰留して続投させた[36]。しかし復帰した木戸と板垣退助も大隈の辞任を要求し、大久保が大隈を庇護する形となった[37]。久光と板垣が10月29日に辞職し、木戸も病気が悪化したことで大隈への攻撃は消滅することとなる[38]

伊藤政権下の大隈

明治11年(1878年)5月14日に大久保が紀尾井坂の変によって暗殺されると、政府の主導権は伊藤に移った[39]。大隈は大久保暗殺を聞いた後、伊藤に「君が大いに尽力せよ、僕はすぐれた君に従って事を成し遂げるため、一緒に死ぬまで尽力しよう」と述べている[39]

大隈は、会計検査院創設のための建議を行っており、会計検査院は明治13年(1880年)3月に設立された。明治14年(1881年)には、正確な統計の必要性を感じ統計院の設立を建議・設立し、自ら初代院長となった。

1879年6月27日、大蔵卿大隈は、地租再検延期・儲蓄備荒法の設定・紙幣消却の増額・外国関係の度支節減・国債紙幣償還法の改正の「財政四件ヲ挙行センコトヲ請フノ議」を建議する。

明治13年(1880年)2月28日、参議の各省卿兼任が解かれ、大隈も会計担当参議となった[40]。大隈は佐賀の後輩である佐野常民を大蔵卿とし、財政に対する影響力を保とうとしたが、大隈が提案した外債募集案に佐野も反対したことで、大隈による財政掌握は終焉を迎えた[41]。またこの頃から伊藤・井上らから冷眼視されるようになり、井上は駐露公使に大隈を据えるなどの左遷案を提案している[42]

明治十四年政変

その頃自由民権運動の盛り上がりにより、各参議も立憲政体についての意見書を提出する動きがあったが、大隈はこれになかなか応じなかった。明治14年(1881年)1月には伊藤・井上・黒田清隆とともに熱海の温泉宿で立憲政体について語り合ったが結論は出なかった[43]。3月、大隈は意見書[注釈 3]を提出するが、それは2年後に国会を開き、イギリス流の政党内閣とするという急進的なものであり、しかも伊藤ら他の内閣閣員には内密にしてほしいという条件が付けられていた[44]。7月にこの意見書の内容を知った伊藤は驚愕し、大隈は「実現できるような見込みのものではない」と弁明したが[45]、伊藤は抗議のため出勤しなくなり、大隈は7月4日に謝罪することとなる[46]

7月26日、自由民権派の『東京横浜毎日新聞』が北海道開拓使による五代友厚への格安での払い下げを報道し、世論が沸騰した[47]。参議の間ではこの件をリークしたのが大隈であるという観測が広がり、孤立を深めることとなった[47][注釈 4]。大隈が自らを排除する動きが進んでいたのを知ったのは10月3日のことであり、10月11日には払い下げの中止と、明治23年(1890年)の国会開設、そして大隈の罷免が奏上され、裁可された。これは同日中に伊藤と西郷従道によって伝えられ、大隈も受諾した[48]。10月12日に大隈の辞任が公表されると、小野梓ら大隈系の官僚や農商務卿河野敏鎌、駅逓総監前島密らは辞職した。また大隈派官僚とつながりがあるものも罷免された[49]

立憲改進党の設立

野に下った大隈は、辞職した河野、小野梓、尾崎行雄犬養毅矢野文雄らと協力し、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)4月には立憲改進党を結成、その党首となった。また10月21日には、小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現・早稲田大学)を、北門義塾があった東京郊外(当時)の早稲田に開設した[50]。明治20年(1887年)、伯爵に叙され、12月には正三位にのぼっている[51]

外務大臣

遭難事件で右脚を失った大隈が使用した義足(佐賀市・大隈記念館)

明治20年(1887年)8月、条約改正交渉で行き詰まった井上馨外務大臣は辞意を示し、後任として大隈を推薦した[52]。伊藤は大隈と接触し、外務大臣に復帰するかどうか交渉したが、大隈が外務省員を大隈の要望に沿うよう要求したため、交渉はなかなか進まなかった[53]。明治21年(1888年)2月より大隈は外務大臣に就任した[54]。このとき、外相秘書官に抜擢したのが加藤高明である[54]。 また河野、佐野を枢密顧問官として復帰させ、前島密を逓信次官、北畠治房を東京控訴院検事長に就任させている[55]。同年、黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、外国人判事を導入するという条約案が「官吏は日本国籍保持者に限る」とした大日本帝国憲法に違反する[注釈 5]という指摘が陸奥宗光駐米公使より行われた[56]。大隈は裁判所構成法の附則から違憲ではないと主張するが、井上毅法制局長官からも同様の指摘が行われた。山田顕義法務大臣は外国人裁判官に日本国籍を取らせる帰化法を提案し、伊藤枢密院議長、井上馨農商務大臣もこれに同意して条約改正交渉の施行を遅らせるよう求めた[56]。大隈は帰化法の採用には応じたものの、条約改正交渉の継続を主張した。大隈を支持するのは黒田首相と榎本武揚文部大臣のみであり、また世論も大隈の条約改正に批判の声を上げた[57]

明治22年(1889年10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃(大隈重信遭難事件)を受け、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった[58][注釈 6]。大隈の治療は、池田謙斎を主治医とし、手術は佐藤進高木兼寛橋本綱常エルヴィン・フォン・ベルツの執刀で行われた[58]。翌10月19日、東京に在留していた薩長出身の閣僚すべてが条約改正延期を合意し、黒田首相も条約改正延期を上奏、10月23日に大隈以外の閣僚と黒田の辞表を取りまとめて提出した[60]。大隈は病状が回復した12月14日付で辞表を提出し、12月24日に裁可、大臣の前官礼遇を受けるとともに同日に枢密顧問官に任ぜられた[60]

その後大きな活動は見せなかったが、裏面で改進党系運動に関与しており、明治24年(1891年)11月12日には政党に関わったとして枢密顧問官を辞職することとなっている[61]。12月28日には立憲改進党に再入党し、代議総会の会長という事実上の党首職についた[62]。これ以降大隈は新聞紙上に意見を発表したり、実業家らの前で演説をすることも増えていく[63]。明治26年(1893年)3月25日には進歩党系新聞の『郵便報知新聞』紙上で「大隈伯昔日譚」の連載が開始されている[64]

明治29年(1896年)3月1日には立憲改進党は対外硬派の諸政党と合同し、旧進歩党を結成した。大隈は新党において中心的存在とされたものの進歩党には党首職はなく、8か月たってから設置された5人の総務委員のうち大隈派と呼べるのは尾崎行雄と犬養毅にとどまり、内訌を抱えたままの存在であった[65]。4月22日から5月17日には、長崎赴任以来28年間帰省していなかった佐賀に戻り、大規模な演説会などを催している[66]

松隈内閣

詳細は「第2次松方内閣」を参照
ブラックタイを着用した大隈

6月、伊藤博文首相は大隈と松方を入閣させて、実業家層の支持を得るとともに、内務大臣となっていた板垣の自由党勢力を抑えることを考慮するようになった。板垣は反対したが、松方は入閣に際し大隈の入閣を条件とした[67]。8月31日に伊藤は辞任し、元老会議では山縣が推薦されたが病気を理由に辞退した[68]。元老会議は松方を推薦し、9月18日、第2次松方内閣(「松隈内閣」と呼ばれる)が発足した。9月22日、松方との協議で大隈は外相に就任したが、尾崎行雄の回想によれば、一時大隈が怒って入閣が流れそうになったこともあったという[69]。進歩党員からの入閣はなかったが、内閣書記官長として進歩党の高橋健三が、また内閣法制局長官に進歩党に近い神鞭知常が就任している[70]

二十六世紀事件」も参照

10月25日、小雑誌『二十六世紀』に伊藤と土方久元宮内大臣を批判する記事が掲載された。『二十六世紀』には高橋内閣書記官長が関与している雑誌であり、閣議ではこの雑誌の発行禁止措置を巡って議論が起きた[71]。大隈は発禁に反対したが、閣議の大勢は発禁を主張する声が高く、結局『二十六世紀』は発禁となった[72]

明治30年(1897年)3月29日には足尾銅山鉱毒事件で批判を受けていた榎本武揚農商務大臣が辞職し、大隈は農商務相を兼ねることとなった[73]。大隈は次官に大石正巳を就任させるなど進歩党員を農商務省に送り込み、また古河鉱業に対して鉱害対策の徹底を求める一方で、操業は継続させた[73]。10月、松方首相が地租の増徴を図る方針をとると、大隈と進歩党はこれに反対し、10月31日に大隈は辞表を提出した[74]。松方内閣は12月25日に倒れ、後継首相は伊藤博文となった。伊藤は大隈に農商務大臣、板垣に法務大臣の地位を提示して入閣を求めたが、進歩党は大隈を内務大臣とし、更に重要大臣のポストを三つ要求するなど強気の対応を行った[75]。板垣の入閣も行われず、第3次伊藤内閣は政党の支援を得られない形となった。

隈板内閣

詳細は「第1次大隈内閣」を参照
アカデミックドレスを着用した大隈

明治31年(1898年)3月の第5回衆議院議員総選挙で進歩党は第一党となったが、過半数を抑えることはできなかった[76]。6月22日、進歩党は板垣退助の率いる自由党と合同して憲政党を結成した[77]。6月24日、伊藤首相は大隈と板垣に政権を委ねるよう上奏するが、明治天皇は伊藤内閣が存続し、大隈と板垣が入閣するものと勘違いして裁可を行った[78]。明治天皇は勘違いに気がついたが、6月27日に大隈と板垣二人に対して組閣の大命が降下した[79]。板垣が内務大臣の地位を望んだため、大隈が内閣総理大臣兼外相となり、6月30日に大隈内閣が発足した[80]。陸海軍大臣を除く大臣はすべて憲政党員であり、進歩党系からは大隈の他に松田正久大蔵大臣、大東義徹法務大臣、尾崎行雄文部大臣、大石正巳農商務大臣が入閣し、旧自由党系からは板垣を含む3人の大臣が入閣する、日本初の政党内閣であった[80]。大隈と板垣が主導する体制であったため、「隈板内閣」と呼ばれる。しかし、明治天皇も過去の経緯から大隈に対して不信感を持っていたほか、外務大臣職をはじめとするポストの配分を巡って旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じているなど前途は多難であった[81]。特に旧自由党の星亨は駐米公使を辞任して帰国し、野合に過ぎない憲政党内閣では本格的な政党内閣とならないとみており、倒閣にむけて動き出すことになる[82]

このような不安定な情勢であったため、内閣は成果をほとんど挙げられなかった。

星は文相・尾崎行雄の共和演説事件を執拗に攻撃し、板垣内相も明治天皇に上奏して尾崎の罷免を求めた[83]。10月22日、大隈と尾崎に不信感を持っていた天皇は、辞任の是非を問うこともなく大隈に勅使を派遣し、尾崎に辞表を提出させるよう命じた[84]。後任の文部大臣を巡っては進歩党系と自由党系の協議がまとまらず、大隈は首相の職権を使って犬養毅を後継に選んだ[85]。自由党系は大隈に反発し、星を中心として自由党系の三閣僚を辞任させることで倒閣に追い込む工作を開始した[86]。10月29日、自由党系は一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成し、進歩党系の三閣僚は辞表を提出した[86]。大隈は進歩党系で閣僚を補充しようとしたが、天皇は大隈と板垣に対して大命を下していたことからこれを認めなかった[86]。すでに各新聞からも内閣は見放されており、10月31日に大隈らは辞表を提出した[87]

憲政本党総理

憲政本党」も参照

11月3日、旧進歩党は憲政本党を結成した[88]。大隈は党の中心的人物であったが、内紛のため党首を置くことはできなかった[88]。明治32年(1899年)8月、伊藤は旧自由党派とともに立憲政友会を結成した[89]。このとき、大隈の側近であった尾崎行雄は脱党し、政友会に参加している[89]。明治33年(1900年)12月18日、大隈は憲政本党の党首である総理に就任した[90]。しかし憲政本党は政友会に押されて振るわず、翌年3月までに33名の議員が離脱した[90]。また桂園時代には裏面で桂太郎首相と連携しようと動いたが、与党にもなりきれなかった[91]。 明治35年(1902年)には伊藤と大隈が会談し、憲政本党と立憲政友会の合同、大隈の蔵相就任も噂されたが幻に終わった[92]

議員の中からは党体制の改革を求める声が高まった。明治39年(1906年)3月には東北地方選出の議員が執行部の公選制を要求し、裏面で大隈の引退ないし元老化を求める動きが活発となった[93]。この動きには大隈の側近であった大石正巳も加わっていた[94]。11月には大隈側近の犬養毅が院内総務に選出されず、大石のみが選ばれ、改革派の伸長が示された[95]。改革派は児玉源太郎清浦奎吾大浦兼武ら外部から党首を迎え、桂太郎首相に接近しようとする動きも見せていた[95]。このため大隈は明治40年(1907年)1月20日の党大会で、憲政本党の総理を辞任することを発表した[95]。ただし完全に憲政本党との関係を絶ったわけではなく、明治42年(1906年)には大石派と犬養派の仲裁を求められている[96]

在野活動

和服を着用した大隈

憲政本党総理を辞して後の大隈は、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

明治41年(1908年)米国バプテスト教会の宣教師であったH・B・ベニンホフ博士に依頼し、キリスト教主義の学生寮「友愛学舎」(現在の早稲田奉仕園)を開く。

明治41年(1908年)11月22日に戸塚球場で開催された米大リーグ選抜チーム:リーチ・オール・アメリカンチーム 対 早稲田大学野球部の国際親善試合[97]における大隈重信の始球式は日本野球史上、記録に残っている最古の始球式とされている。大隈重信の投球はストライクゾーンから大きく逸れてしまったが、早稲田大学の創設者にして総長であり、かつ内閣総理大臣を務めた大政治家である大隈の投球をボール球にしては失礼になってしまうと考え、早稲田大学の1番打者で当時の主将だった山脇正治がわざと空振りをしてストライクにした[98]。これ以降、1番打者は投手役に敬意を表すために、始球式の投球をボール球でも絶好球でも空振りをすることが慣例となった[99]

この頃大隈自身が製作に関わった、明治45年(1912年)6月公開の記録映画『日本南極探検』には、探検隊を自邸に招いた際に撮影されたと見られる、カメラに向かって帽子を取って挨拶する大隈の姿が映像として記録されている[100]

また新聞等で政治評論を行うことも継続した。明治43年(1910年)2月には憲政本党議員に招待され、事実上の党復帰を果たした[101]。この年以降、大隈は大規模な遊説旅行を行い、政治活動再開への動きを見せていた[101]。明治45年(1912年)、橋本徹馬加藤勘十の結成した立憲青年党の発会式に大隈は、松村介石山田三七郎と共に招かれる。

第二次大隈内閣

詳細は「第2次大隈内閣」を参照

大正3年(1914年)にはシーメンス事件山本権兵衛首相が辞職すると、大隈が首相候補として大きくクローズアップされることとなる。元老山縣有朋が最初に推した徳川家達が辞退すると、元老井上馨の秘書望月小太郎は大隈と接触し、立憲同志会の加藤高明を協力させたうえで、大隈に組閣する気がないかと打診した[102]。大隈は井上の意見と全く同意見であると答えている。山縣が次いで推薦した清浦奎吾が辞退に追い込まれた後(鰻香内閣)、元老会議は大隈しかいないという空気になった[103]。4月10日の元老会議で山縣は大隈を推薦し、井上、大山巌、松方正義も同意した[103]。この日、井上から組閣の打診を受けた大隈は、加藤高明を首相としてはどうかと返答したが断られ、結局自らが首相となることを承諾している[104]

4月16日、76歳で2度目の内閣を組織した。再び首相に就任するまでの16年というブランクは歴代最長記録である。大隈は首相と内務大臣を兼ねた[105]。与党は立憲同志会、中正会であった。同志会からは加藤高明が外務大臣、若槻礼次郎が大蔵大臣、大浦兼武が農商務大臣、武富時敏が逓信大臣として入閣し、中正会からはかつての側近尾崎行雄が法務大臣として入閣した[106]立憲国民党はかつての側近であった犬養毅が党首を務めていたが、党を分裂させた加藤を嫌っており、参加しなかった[107]。海軍大臣には非薩摩閥の八代六郎、陸軍大臣は山縣系の岡市之助が就任した[108]。大隈内閣は成立後まもなく、従来薩摩閥が握っていた警視総監に非薩摩閥の伊沢多喜男を就け、また19人の知事と29人の道府県部長を移動させるなど地方人事も大幅な変更を行った[109]。更に海軍でも薩摩閥の有力者を閑職においやり、山本権兵衛・斎藤実といった大物を予備役に編入するなどの粛軍を行った[110]。また文政一元化の名のもとに内務省の所管であった伝染病研究所の文部省移管を強行、北里柴三郎所長以下部長・研究員は抗議し、全員辞職した(伝染病研究所移管事件)。大正5年(1916年)には、伝染病研究所は東京帝国大学医学部附置研究所となり、野に下った北里の北里研究所としのぎを削ることになった[111]

7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保のためにも連合国側に立っての参戦を求める声が高まった[112]。加藤高明外務大臣は元老の介入を嫌い、元老との協議なしに閣議のみで参戦決定を行い、山縣を激怒させた[113]。ただし、参戦自体は元老も支持していたため決定は覆ることはなく8月23日に対宣戦布告を行った。大隈は加藤をイギリス流の政治を行う後継者として考えていたが、加藤は独善的であり、大隈も外交に関してはほとんど口出しができなかった[114]。しかし強硬一辺倒の外交方針は山縣など元老の不興も買い、大隈は辞任を求める声から加藤を守る役目を果たさなくてはならなくなる[115]。12月までに日本軍はドイツの拠点である青島要塞南洋諸島を攻略し、日本は戦勝ムードに湧いた[116]

12月には二個師団増設問題に反対する政友会と国民党が法案を否決し、大隈は12月25日に衆議院解散に踏み切った[117]。当時、日露戦争以来の不況に国民が苦しんでおり、政友会や藩閥、軍に対する不信も高まっていた[118]。大隈は組閣まもなくから選挙を意識して元老と協議し、また資金集めも重ねてきた[119]。更に大きな武器となったのが大隈個人の人気だった。大隈は全国を鉄道で大規模な遊説旅行を行い、駅ごとに演説を行った[120]。さらに大隈は同志会と中正会に続く第三の与党として、組閣以来全国に成立していた大隈伯後援会を利用した[121]。特に選挙直前に大浦兼武を内務大臣に転任させ、政権の力を利用した激しい選挙干渉は、大隈内閣を支持していた吉野作造をも失望させるほどのものであった[122]。こうして大正4年(1915年)3月25日に行われた第12回衆議院議員総選挙は大隈与党が65%を占める大勝利となった[123]

対華21カ条要求

詳細は「対華21カ条要求」を参照

1月18日には、中華民国政府に対し、権益の継続や譲渡などを求める対華21カ条要求を行った。大隈や井上馨は膠州湾租借地の返還の代償として満州に権益を得ることは考えていたものの、列強にも利権を提供して軋轢を防ぐ事を考えていた[124]。しかし加藤外相は陸軍などの強硬な意見をすべて要求に盛り込み、元老との最終的な協議もしないまま中華民国側に提示した[125]。しかし日本人を中華民国政府の官吏として登用させる第5号は、他の要求とは異なり希望条項とされたものの、中国の内政を支配しかねないものであり、加藤外相は同盟国イギリスにも秘匿していた上に、中華民国側にもこれを公表しないように求めていた[126]。しかし中華民国からのリークでイギリスとアメリカが知ることとなり、第5号は削除を行うこととなる[127][128]

5月9日、中華民国政府は主要な要求を受諾したものの、列強の不信を買い、中国の反植民地運動を高める結果となった[129]。大隈は加藤を後継者として考えており、また外交からも離れて久しかったため、加藤の行動を黙認することになった[130]。。大隈は後に雑誌で「要求は侵略的なものではなく当然の権利」「日本は永遠の平和を築こうと誠意を持って交渉したのに、中華民国は外国を介入させて有利に運ぼうとした」と説明している[131]。この後衆議院では加藤外相弾劾案が提出されるも、大隈与党が多数を占めていたため否決された[132]。また、交渉の詳しい状況や列強の介入については、国民に知られていなかったため、大きな政治問題とはならなかった[133]

改造内閣

大正天皇の即位大礼における大隈重信・綾子夫妻

7月下旬、大浦兼武内相が二個師団増設問題の決議の際、野党議員を買収したという疑惑が明らかになった(大浦事件[134]。大隈は、大浦による買収工作を知らなかったと平沼騏一郎検事総長に告げているが、その様子を平沼は「狡い」と表現している[135]。7月30日に大浦は辞任し、大隈も監督責任を取るとして辞表を提出したが、これは天皇から留任の沙汰が下ると計算してものであった[134]。大隈の想像通り、大隈に好意を持っていた大正天皇は元老に諮ることなく辞表を却下した[136][注釈 7]。内閣基盤が弱いと感じていた加藤外相を始めとするほとんどの閣僚が辞任するべきと訴えていた[134]。しかし元老らは大正天皇の即位大礼を目前として政変は望ましくないと強く慰留し、また大隈も政権継続の強い意志を持っていたため、8月10日には自身が外務大臣を兼任した改造内閣を発足させた[138]。11月10日には即位大礼が行われたが、義足の身でありながら猛練習を積んだ大隈は、階段上り下りを伴う儀式を遂行した[139]

後継首相をめぐる暗闘

大正5年(1916年)1月12日、大隈が乗車していた馬車に福田和五郎らの一味8人が爆弾を投げる事件が発生しているが、不発だったために事なきを得ている[140]。この頃井上馨が没し、山縣有朋は元老の強化を図るため、大隈を元老に加えることを考慮し始める[141]。大隈も高齢であり、いつまでも首相を続けるつもりはなかったが、後継に加藤高明を就けようとしたため、山縣との交渉が続くこととなる[142]。6月24日、大隈は大正天皇に辞意を示し、後継に加藤と寺内正毅大将を推薦し、隈板内閣のような両者共同の内閣を作ろうとした[143]。しかしこれは寺内に拒否され、山縣も西園寺公望や政友会とともに単独の寺内内閣を作るために運動を開始する[144]。7月14日に侯爵に陞爵し、貴族院侯爵議員となる[145]

9月26日、大隈は辞意を内奏し、後継者として加藤を指名した[146]。大隈は大山巌内大臣に、元老会議を開かずに加藤に組閣の大命が下るよう要請したが、大山はこれを拒否し、大山から話を聞いた山縣も激怒した[146]。山縣は「大隈には一年半も欺かれた」と吐き捨てている[147]。10月4日、大隈は辞表を提出したが、辞表の中でも加藤を後継者として指名する異様な形式であった[148]。しかし山縣の運動により、大正天皇は元老への諮問を行い、山縣・松方・大山の三元老と西園寺は寺内を一致して推薦し、寺内内閣が成立した[148]

退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。

「準元老」

首相を退任した大隈は、同志会・中正会・大隈伯後援会を合同させた政党の総裁就任を依頼されたが断っている[149]。以降は演説などは行わず、新聞上での評論活動を主な活動としている。大正7年(1918年)9月19日には、寺内首相の後継首相について天皇から下問があり、大隈は西園寺公望を推薦した。しかし西園寺が辞退したため、加藤高明を推薦した。しかし山縣有朋、松方正義、西園寺公望が原敬を奏薦したため、原が首相となった[150]。山縣はなおも大隈を元老に加えることを模索していたが、大隈自身が元老集団に入りたがらなかったことと、松方と西園寺が反対したため正式な元老とならなかった[151]。しかしこの頃の新聞報道では大隈を元老視したり、「準元老」として扱った報道も見られる[152]

死去と「国民葬」

大隈は大正10年(1921年)9月4日から風邪気味となって静養を始めたが、腎臓炎膀胱カタルを併発して衰弱していった[153]。この頃から早稲田大学や憲政会など関係の深い者らにより大隈の顕彰運動が盛んとなり、「国葬」実現や公爵への陞爵[154]、位階・勲等の陞叙を目指して、当時の高橋内閣や元老など政府関係者への工作や、大隈系新聞紙上での顕彰が展開されたが、すでに大勲位菊花章頸飾の授与が決定されていたため、元老である山縣、西園寺、松方、そして宮内大臣の一木喜徳郎も公爵陞爵は過分であると判断した[155]。また、公爵陞爵より重大事であると見られていた国葬については協議も行われなかった[156]。結果的に大隈への栄典は従一位への昇階と菊花章頸飾という形で決着し、大隈関係者が望んだ国葬の開催や陞爵は実現しなかった[157][158]。大正11年(1922年)1月10日4時38分、大隈は早稲田の私邸で死去した[159]。死因は腹部の萎縮腎と発表された[159]。享年85。

しかし死去当日、大隈の側近で前衆議院議員であった市島謙吉が、「世界的デモクラシーの政治家である大隈」は、「国民葬」の礼を持って送ることがふさわしいと発表した[156]。大隈家は同日、東京市に対して日比谷公園を告別式場として貸与することを申請し、認められている[156]。前宮内大臣の波多野敬直を委員長とした葬儀委員会が、一定の儀式が定められており、一般人の参列ができない国葬ではなく、面識のないものでも参加できる「国民葬」の演出とその成功をねらった準備活動を進めた[160]。1月17日に私邸で神式の告別祭が執り行われたのち[161]、日比谷公園で「国民葬」が挙行された[157]。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列し、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。大隈・憲政会系の新聞である『報知新聞』は100万人が沿道に並んだと報じている[160]。その後、6時50分より東京都文京区護国寺にある大隈家墓所で埋葬式が行われ、7時30分に墓標が建てられ、埋葬された[162]。また大阪市札幌市京城北京などの各都市でも告別式が行われている[162]。佐賀市の龍泰寺にも大隈の墓所はある。

  • 大隈の死を報じる『東京朝日新聞』

  • 大隈の出棺

  • 外濠通りを日比谷へ向かう葬列

  • 護国寺内、大隈重信の墓

人物

政策

大隈は民間投資を重視する、いわゆる「小さな政府」論の支持者であった[163]

人物像

  • 大隈は、庶民に近い明るいイメージで「大平民」などと形容された。実際には土地転売などで巨利を上げ、多くの使用人を雇うなどの生活をしていたが、早稲田出身のジャーナリストも多く、良好な関係を築いていたため、このイメージが崩れることはなかった[164]
  • 「あるんである」、もしくは「あるんであるんである」という言い回しを好んで用いた[注釈 8]
  • 現在残されている大隈の関連文書はすべて口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しない。これは弘道館在学中に字の上手な学友がいて、大隈は字の上手さでその学友に敵わなかったため、書かなければ負けることはないと負けず嫌いで字を書くことをやめ、以降は勉強はひたすら暗記で克服し、本を出版するときも口述筆記ですませ、死ぬときまで文字を書かなくなったためと言われている。しかし、大日本帝国憲法発布の際には内閣総理大臣以下国務大臣の副署は自署でなければならず、当時、外務大臣であった大隈の貴重な直筆が残っている。御署名原本の中の内閣総理大臣以下国務大臣の副署にある「大隈重信」の文字だけがあまり達筆ではないことがみられる[166]
  • 外交官として実績を持つ大隈は、英語文を読むことはできず、訳文を読んで判断を行った[167]。蘭学寮時代には「勘」でオランダ語解読を行っており、優秀な成績を上げていたという[168]。また700ページほどのオランダ語で書かれたナポレオン伝記を、1年半かけて読破したという[169]
  • 高田早苗も大隈との初対面時(1882年4月)の印象として「一大人物」に見えたが「親みがたい峻烈の感じ」もしたと述べており[170]、大隈の豪放磊落なイメージは時間をかけて徐々に形成されていったものとみられる。
  • 友人であった五代友厚は、明治11年(1878年)頃に大隈への忠告の手紙を書いている。そこには自信家で、他人の意見をあなどり、怒気を荒げることをやめるようにとある。明治14年(1881年)の政変以降はそのような言動を慎むようになった[171]
  • 尾崎行雄は「一度聞いたことは決して忘れなかった」「大蔵省時代は、予算書をすべて暗記していた」と記憶力が優れていたとしたほか[172]、理知・大度量においても伊藤や山縣を遥かに凌駕していたとしている[173]。しかし政治的にはほとんど失敗続きであったとしており[174]、その原因は大隈の性格にあったと見ている。尾崎は伊藤と大隈が碁を打った際のことを例に出し、こう例えている。伊藤は大隈より碁が下手であったが、「伊藤公は最初から余程慎重に考えて打つのに、大隈侯の方は、何も考えずに大まかにポンポン打つ。そうしている内に、だんだん局面が不利になってくると、侯はそこで初めて考える。もとより頭脳の良い人であるから、妙な窮手を考え出して、どうかこうか血路を拓くことはあるが、侯が考えるときには、既に局面が収拾すべからざる状態にまで立ち至っているのだから、結局負け碁になることが多かった。伊藤公は、初めから定石通りに、十分慎重に考えて打つから、破綻が少なく、大隈侯は難局に向わなければ、智慧を出さないのだから、天才的な閃きはあっても、結局は敗けることになる。これが両君の性格における著しい相違であった」[175]

人間関係

伊藤博文との関係

伊藤博文との関係は複雑であった。時には政敵となり、時には連携しているが基本的に大隈は伊藤を高く評価している[176]。明治30年(1897年)、大隈は大磯に別邸を構えたが、この別荘から西へわずか60メートルの地所には当時、伊藤が本邸を構えていた。さまざまな政治上の軋轢があった相手との近い距離のためか、大磯別邸はあまり使用されず明治40年(1907年)には別邸を新たに国府津に構え、わずか10年で引き払われた。大隈と同郷で、大隈に目をかけられた行政法学者の織田萬のエッセイ集[177]によると、早稲田大学開学式典で伊藤が「大隈は流石にえらかった、永世不朽の育英の大事業に眼を着けたことには、この伊藤はたゞ頭を下げる外はない」と述べたことに満悦したという。しかし伊藤がハルビン安重根から銃撃されて暗殺されると、「なんと華々しい死に方をしたものか」と羨みつつも悲しみ、大泣きに泣いたとのことである[178]

元勲との関係

  • 伊藤と同様、井上馨ともに複雑な関係を持った。もともと中央に大隈を推挙したのは井上であり、留守政府時代に井上は大隈にあなたの他に信じて従っていく人はいない、「真の友人と思う」と書簡を出すほど親しかった[179]。明治6年4月の政変では井上を見捨てる形となったが、以後も交流は続いている[180]。第二次大隈内閣では元老中で最も大隈を支持したが、任期途中に病没した。大隈は兎角憤りっぽく気難しいため首相に向かないとしながらも、なかなかの粋人であると評している[181]
  • 大久保利通とは、木戸派時代には対立し、それ以降もむしろ伊藤に近かかった大隈だが、後年の回想では「大苦労を重ね」「建略を用い」「偉人となった」政治家として絶賛している[182]
  • 西郷隆盛は大隈を「俗吏」とみなして嫌っていたとされ、特に明治4年(1871年)の西郷上京の際に書かれた『西郷吉之助意見書』では、名指しこそ避けたものの大隈の政策を「武士のやること」ではないと切り捨てた。さらに同年、西郷の推挙で大蔵省入りした安場保和が大隈への弾劾意見書を提出したこと(西郷も大久保もこれには反対したために却下された)によって、大隈の西郷への反感は抜きがたいものになったとされる。大隈は西郷について尊敬はしていたが、政治家的な能力に欠けるとし[183]、「人情には極めて篤かった」[184]が、政治に関しては任せきりであったと、人格面での評価はしても政治家としては評価していない[185]
  • 大隈は第一の政治家として木戸孝允の名を挙げている。最も感心したことを「長州出身なるに拘わらず、薩長の専横を憤ってこれを抑えられた一事」だといい、木戸はつねに「もし二藩の人をして跋扈せしめたならば、幕府の執政と異なったことは無い、既に三百藩を廃して四民平等となしたる以上は、教育を進めて人文を開き、以て立憲国になさなければならぬ」と口にしていたと『大隈伯百話』で述べている。
  • 大隈は、岩倉具視と伊藤博文とで朝の8時から夜の11時頃までそれぞれ4~5升ほど酒を呑んで語り明かしたという談話を残している。『明治の初年に、或る時、朝の八時から岩倉公と伊藤と我輩と三人が飲み始めた、山尾庸三は酒が飲めないから、燗番で酒の燗をして居る、三人で飲み且つ語って、夜の十一時頃迄に、各々四五升も平らげたが、我輩は未だ中々酔わなかった、然るに岩倉も伊藤も弱い者だから酔って喧嘩を始めた、岩倉が「貴様が足軽の癖に生意気なことを言う」と伊藤を叱咤すると、伊藤が「何だ、青公卿に天下の形勢が分かる者か」と罵り返した、双方共に酔っておるものだから、言葉が荒くなったのだ、スルと岩倉が大いに立腹して「参議の一人たる伊藤から、青公卿なるが故に天下の形勢は分からぬと言われては、上御一人に対し奉りて相済まぬから、止むを得ず右大臣を辞する」と言い出した。二人は酔っておるから、こんな事になったのだ、そこで我輩は岩倉に向かい「それは面白い、早速辞表をお書きなさい、不肖ながらこの大隈が、陛下へお取次ぎを致そうと切り出すと、燗番をしていた山尾が、驚いて飛んで来て、マアマアと双方をなだめたことが有る、其の頃から酒も気力も我輩が一番強かった』[186]

福沢諭吉との関係

大隈の回想によれば、当初福澤諭吉が大隈のことを「生意気な政治家」と嫌っており、大隈のもとに挨拶に行こうとしなかった。このため、大隈は諭吉を「傲慢な奴」と言って互いに会うことを避けていた[187]。ある日[注釈 9]、大隈はある会合に出向くと、そこに諭吉がおり、話してみると2人は意気投合したという[187]。諭吉は明治11年(1878年)、慶應義塾の経営打開のため政府から25万円の無利子融資を受ける交渉を行っているが、この仲介役となったのが大隈であった[187][188]。また諭吉は仲介を行っていた炭鉱売却事業に、大隈の介入を要請して成功させている[189]。大隈の側近となった矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅は慶應義塾出身であった[190]

明治十四年の政変では、大隈は諭吉と連携したと見られて失脚し矢野、尾崎、犬養らも下野することになった[191]。しかしこの事件によって、かえって福澤との絆は堅固なものとなり、政変後に設立された東京専門学校の開校式には福澤の姿があった。諭吉の葬儀では福澤家は献花を断っていたが、大隈からの献花に対しては黙って受け取った[178]

その他の人物との関係

  • 明治39年(1906年)ごろ、当時園芸家を目指していたのちの衆議院議員である山本宣治を住み込みで雇っていた。さらに山本のカナダへの園芸留学を支援した。
  • 同志社大学の創立者である新島襄とは、東京専門学校の設立時から深い交流があった。襄も同志社の設立資金を集めるべく奔走していたが、大隈がこれに賛同したことで両者の親交は深まった。大隈は、襄亡きあとも同志社綱領改定に端を発した紛争の調停に尽力したほか、京都に行ったときは必ず同志社に立ち寄り、演説していたという。現在、早稲田大学と同志社大学との間には国内交換留学協定が締結されている[192]
  • 日本女子大学の創始者である成瀬仁蔵とも親交があった。1896年5月、大隈は女子大学設立に奔走する成瀬の訪問を受け、協力を要請される。その後、大隈は大学創立委員会委員長となった[193]。1901年に日本女子大学は設立され、大隈は終身評議員となり[194]、1919年の成瀬の告別式には弔辞を寄せている[195]。また大隈の寄付によって大学の校庭に花園が作られている[196]坪内逍遙ら早稲田大学の教員が日本女子大学での講義を担当したほか、1999年7月に早稲田大学と日本女子大学の間で学生交流協定が締結され、双方の大学の講義を履修することが可能となっている[194]
  • 早稲田の大隈邸には、早稲田大学総長任期中も含め、イェール大学教授のG・Tラッド(1899年、1906年)、ハーバード大学総長のC・W・エリオット(1912年、1921年)、オックスフォード大学教授(1912年)のA・H・セースのほか、スタンフォード大学総長やブラウン大学総長、シカゴ大学総長夫妻など世界各国から多数の著名人が来邸したため、「私設外務省」と呼ばれたりもした[197]
  • ヴィクトリア女王の女官を務め、のちオックスフォード大学に入学し、比較宗教学を学んだE・A・ゴルドンは、日頃から大隈候を敬慕し、名誉講師として講演を行うなど縁の深かったことから、帰国の際、早稲田大学に「石羊」と「ゴルドン文庫」を寄贈された。羊の石像は、早稲田大学の高田早苗記念研究図書館を見守っている。
  • が横綱に昇進した際に土俵入り太刀持ちが使う太刀を贈った。
  • 明治41年(1908年)、コロンビアから来日したアントニオ・イスキエルド(1866 ‐ 1922)に庭師の川口友広を紹介し、川口ら3名(2名は氏名不詳)の日本人が初めてコロンビアに渡った。イスキエルドは当時のコロンビア大統領ラファエル・レジェスから極東との交易の可能性について調査を命じられており、大隈は川口を推挙することでコロンビアとの外交関係を友好的に拡大したいと考えていた。川口は首都ボゴタにあるイスキエルド所有の森林を整備し、1910年に開催された独立100周年記念の博覧会場として利用された。川口らのその後の消息は不明だが、ボゴタに川口の墓碑があるとの未確認情報もある[198]

逸話

「五尺八寸余」[199]の大隈重信
  • 浦上四番崩れの際、イギリス公使ハリー・パークスは「日本の行っていることは野蛮国のすることであり、今すぐ信者を開放し、信教の自由を認めよ」と抗議してきた。交渉が始まるとパークスは「大隈ごとき身分の低い小役人とは話はできぬ」と激怒したという。しかし大隈はパークスのいつもの手段であろうと相手にしなかった。大隈の上官が、「大隈は日本政府の承認を経て交渉に臨んだのでその言葉は責任を有する」と述べたことで、パークスは交渉の席についた[200]。大隈は「ある歴史家は言う、欧州の歴史は戦乱の歴史なりと。またある宗教家は言う、欧州の歴史はすなわちキリスト教の歴史なりと。この二者の言うを要するに、キリスト教の歴史はすなわち戦乱の歴史なり。キリスト教は地に平和を送りし者あらずして剣を送りしものなり。キリスト教が生まれて以来、ローマ法王の時代となり、世に風波を惹起して、欧州の人民を絶えず塗炭の苦に陥らしめたのは是何者の所為なり」と続け、今の日本でいきなりキリスト教を開放すれば混乱が起きるとして、パークスに抗弁した[201]。大隈はパークスが感情を高ぶらせても、そのために外交関係を損なうことはしないと見ていたため、信徒の処分についてはそのままにしておいてよいと判断し、キリスト教禁令は当分そのまま存続することになる[202]
  • あちこちに講演に招かれて人気があったが、禁酒団体と酒造業組合を一日のうちにはしごしたことがあるという。これは大隈が政治家であるためさまざまな方面に応援を求めなければならなかったという事情も存在する。早稲田大学非常勤講師の佐藤能丸は、このことが今日にいたるまで大隈の全集が発行されていない遠因となっていると指摘している。
  • 大隈は自らに爆弾を投げつけた来島恒喜について「爆裂弾を放りつけた奴を、決して気違いの人間で、憎い奴とは寸毫も思わず。」「華厳の滝に飛び込む弱虫よりは、よっぽどエライ者と思うておる」「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する。」と語っている[203]小久保喜七は毎年来島のために年忌を行っていたが、大隈は毎年法要に代理人を送ってきたという。大隈の没後も、養嗣子の大隈信常によって代理人の派遣は続けられた[204]
  • 日本最初の鉄道が新橋横浜間に建設された際、そのゲージ(軌間)を1,067ミリメートル(狭軌。現在のJR在来線の軌間)に決めたのは大隈である。イギリス人技師の説明を聞いて大隈が決めたのだが、両者ともに「日本の鉄道なら狭軌で十分」という感覚だったといい、「我輩の一世一代の失策」と大隈は後日語っていたという(池田邦彦『鉄道史の分岐点』イカロス出版、2005年)。なお、「日本の改軌論争」も参照。
  • 日本初の地方遊説を行った首相でもある。
  • 日露戦争開戦の前年にあたる明治36年(1903年)、対印貿易の重要性を認識していた渋沢栄一長岡護美の後押しを得て、日印協会を設立している[205]
  • 大正8年(1919年)、病床にあった成瀬仁蔵を励ますために、トマトメロンをもって見舞った[206]
  • 大隈はメロンが大好物で、外国から持ち帰り日本で初めてメロンを栽培したと言われている。
  • 人間は25年を5回生きる能力を有している、いわゆる人生125歳説を唱えた。大隈自身は83歳で死去したが、創立した早稲田大学にとって125という数字は特別なものとなり、大隈講堂の時計台の高さは125尺(約37.9メートル)であるほか、創立125周年にあたる平成19年(2007年)には記念式典を行っている。
  • お金を表す指のサインを考えた人物である。彼は通貨を設定するときにお金(硬貨)は円だから、誰でもお金のことだと分かるようにこのサインを使って説明した。
  • 身長は「五余」だという[199]
  • 天気予報177番は、もともと大隈重信の自宅の電話番号であった。
  • 大隈は下野後、苦しい生活をしているとしばしば語っているが、明治25年ごろには、現職の大臣に匹敵する毎月1500円の生活費を使っていたという[207]。大隈は土地の投機などにより莫大な収益を得ていた[208]、。

後世

  • 明治35年(1902年)から大正8年(1919年)にかけて三省堂書店で大隈重信を総裁、斎藤清輔を編集長として、日本最初の本格的な百科事典である『日本百科大辞典』の編纂が行われた。この辞典の編纂により三省堂は一時破産したが、この事業の挫折は大日本帝国の文化的な威信にかかわるという声が上がり、再建が計画され、大正8年(1919年)に全10巻となって完成した。
  • 昭和44年(1969年)から同45年(1970年)にかけて、早稲田大学出版部で『大隈伯昔日譚』などが入った木村毅監修『大隈重信叢書』全5巻が出された。
  • 大正4年(1915年)に蝋管(蓄音機の初期型)に録音された総選挙応援演説の肉声が、平成19年(2007年)に東大先端科学技術センターにより公開された。
  • マスクメロン協会の設立や帝国愛会初代会長、日本園芸会会長、日本自動車協会の設立・名誉会長、帝国航空協会初代会長、帝国鉄道協会会長、経済調査会官制会長、大日本皇道立教会会頭、同仁会会長(現明和病院)、恩賜財団済生会顧問、東洋文化学会(大東文化学院の礎)初代会長、大日本教育会(帝国教育会)名誉会員など、政治や教育以外の多方面で活躍し要職に就いた[209]

評価

伊藤之雄は公式伝記である『大隈侯八十五年史』が大隈を「薩長などの藩閥と戦った」「民の政治家」として描き、馬場恒吾の『大隈重信伝』(1932年)などでも踏襲されたとしている[210]。この見方は戦後の中村尚美『大隈重信』(1961年)や木村時夫『知られざる大隈重信』(2001年)でも踏襲された。真辺将之『大隈重信』(2017年)はこれに対し、大隈は前半生において必ずしも「民衆政治家」ではなかったとし、その後半生における変化を描いている[211]

ジョイス・リブラ英語版は『大隈重信―その生涯と人間像』 (1980年) において「民主主義を推進した」「型破り」で「変幻自在な」行動をした「日本最初の民衆政治家」と評している[212]

評論

  • 東京日日新聞1922年1月21日記事「噫大隈侯」「(大隈の)政治家的生涯が果たして成功と目すべきものであったか否か、おそらく後世の歴史家も、是れ論定に苦しむであろう如く、吾輩も亦た同じく論定に苦しむものである」[213]

同時代人物の人物評

  • 尾崎咢堂 「予は四十有余年の久しき間、親しく教えを受けたが、大隈候の怒った顔を見たことがない」[214]
  • 渋沢栄一
    • 「逢って見ると案に相違の書生肌で、その間に少しの隔たりもない。君も僕も勉強中の書生なのだから、堅苦しい事は一切やめて、愉快な書生づき合いで仕事をやろうじゃないかという。私は驚きもしたし、また非常な愉快を感じたのでした」[215]
    • 「大隈重信候は他人の言葉を聞くよりも、他人に自分の説を聞かせるのを主とする御仁である。大隈候のところで出かけた人は、自分ではいかに申し上げてきたつもりになっていても、たいていは申し上げずに申し聞かされて帰るのが通例である。ややもすればこちらの話が終わるのを待っていられず、途中から横道に話を引き込んで、自分の話を聞かせようとするクセがある。ただ大隈候について感心するところは、あの通り他人に聞かせるばかりで、容易に他人の話を聞こうとしないわりに、他人からちょっと話したことを案外よく記憶されていることである」[216]
  • 関直彦
    • 「よく細事を記憶し、その人に会う時は、必ずその申越に対して返答を為し、その贈物に対して挨拶を為すを例とす。前年余が京都に行きし時、あたかも秋の頃にて、松茸が市に現われ始めたれば、五百目ばかり少量の松茸を伯邸に送りたるころあり。その後掛け違いて半年も面会せざりしが、たまたま伯は関西の遊説に赴かれし時、余も新橋駅に見送りしに、伯は周園に群がる人々を押し分け、不自由の足を引き摺りながら、余の立てる前に来られ、『関君、先達っては松茸の初物をわざわざ京都から贈られ、誠に結構であった、有難う』と挨拶をせられぬ。既にその事を忘れていたる余は却って面喰いしが、もし地方の淳朴なる有志なりせば、涙を溢して喜ぶなるべし。人心収攬の機微は成る程この所だなと感心せしことあり」[217]
    • 「伊藤公は官僚の巨頭 大隈伯は政党の首領」[218]
  • 伊藤痴遊 「一番の長所は弁舌であったが、実をいうと、冗舌の多い割に、聞く人をしてそういう風に感ぜしめなかった所がある。演説でも、講演でも、広げるだけ広げて、どういう風につぼめて行くかと思っているうちに、いつの間にかその締めくくりをつけてしまう、といった調子のあの呼吸は、学ばんと欲して及び得ざる所である。快活であり、かつ豪放であり、どうかすると何を言っているのか論点の判らぬ事はあるが、それでも聞いている者には少しも倦怠を与えず、まことによい感じを与えるのが、大隈の弁舌であった」[219]
  • 堀江秀雄 「豪宕の相貌ありて多言、とてもかくても他人に下らざる属気があった」[220]
  • 松井広吉 「何といっても気持ちの良い、しかして政界の人気役者の随一は大隈候だ」[221]
  • 池辺三山 「私が大隈さんに一番感心しているのは、弁舌の面白いことだ。頭の中で議論を組み立てることの敏捷く手早いこと、何でも取り込んできて堂々たる大議論を咄嗟に纏め上げる手際。そういう点で私はあの人を感心している。畢竟それは記憶がよいためであろうが、実際あの人の記憶の機関というものはよほどよろしい。弁舌の上からいったならば、あのくらいの年になった政治家の中でちょっと敵手はありますまい。死んだ伊藤公でも匹わない。もっとも伊藤公も座談はなかなかうまかった。けれども演説にかけてはとても大隈さんに匹わない。ともかくも大隈さんの演説には、何もかも言いまくってしまうという勢いがある。それがあの人の長所なんだが、つまるところそれがまたあの人の短所であるかもしれない」[222]
  • 憲政本党党員だが、反大隈の改革派に属していた木下謙次郎は、第二次大隈内閣成立の際に逓信次官となった。この際大隈は「をを、木下来たか、よう来た、大分肥って大きくなった」と言って48歳の木下の頭をなでたという。木下は大隈を「生活向きは派手で、非常に負けん気の強い野心家であり、かつ度量の大きい人」と評している[223]

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

系譜

大隈家
「大隈家は、伝承によれば、菅原道真の血筋を受け継いでいるという。戦国時代末、その末裔である家泰(いえやす)が筑後国大隈村(現・福岡県久留米市梅満町)に土着して大隈に改姓。家泰の孫・大隈孝家(たかいえ)が肥前国中津江村に移住して、やがて鍋島氏に仕えたのだと伝えられる」という[243][244]
系図
※実線は実子。破線は養子。
大隈家泰
(略)
茂隆
義辰
孝辰
安兵衛
五大夫
彦兵衛
嘉一郎
政辰
満辰中川忠英
信保三枝七四郎(女)小栗忠高
南部利剛重信綾子三枝守富松浦詮小栗忠順
英麿熊子光子信常久原房之助ヨシ田尻稲次郎知恵真木平一郎
豊子信幸磐子
和子明子治子里砂
  • 最初の妻・美登との長女・熊子:幼名は犬千代[245]南部利剛の次男・英麿を婿養子に迎えるが、英麿の破産問題により、明治35年(1902年)9月15日に離婚し、熊子も相続人から外れている[246]
  • 2番目の妻・綾子は旗本・三枝七四郎の次女で、小栗忠順の親戚。
  • 綾子の兄の三枝守富小倉鉄道取締役)の三女・光子(1884年1月20日生)を1884年3月7日に養女としているが、実際には大隈が女中に産ませた子である[246]。この関係が明らかになったのは1989年、大隈の生誕150年を記念し、早稲田大学出版部から発刊された『エピソード大隈重信』の佐藤能丸の記述[247]によるものである[248]。これは真辺将之の『大隈重信―民意と統治の相克』(中央公論新社)[249]において、市川謙吉(大隈の腹心、早稲田大学図書館長の回想[250]を根拠に、生母の名が千代で、重信の三井子付きであったことを含め、再確認されている[248]
  • 養嗣子・信常は伯爵・松浦詮の五男で、英麿の離縁の1月後の1902年10月15日に光子の婿となった[246]。大隈の死後に侯爵。貴族院議員、衆議院議員を務めた。
子孫と誤解される人物
  • 衆議院議員で医師の大隈和英は、自身のフェイスブックにて【「大隈重信公の玄孫」ではありません。】(2014年12月20日付)と否定している[251](実際には重信以前に分家した大隈家の別の家系)。

大隈重信像

大隈重信は政治家と教育者という2つの顔を持っていたため、おもに大礼服姿のものとガウン姿のものに分けられる。

大隈講堂に向かって立つ
早稲田大学
早稲田大学早稲田キャンパスには2体の大隈像があり、有名なガウン姿の立像は昭和7年(1932年10月17日、早稲田大学創設50周年と大隈重信10回忌を兼ねて作られた。右足を失ったあとの姿のものであるため、杖をついているのが特徴である。製作者である彫刻家朝倉文夫は大隈像を3回制作しているが、この立像は2回目のもの。高さは298センチあり、大隈講堂の方向を向く形で設置されている。受験期には受験生により賽銭が供えられることも少なくない。
また、あまり知られていない大礼服姿の大隈像は大隈講堂内にあり、制作者は同じく朝倉文夫で1回目に制作した大隈像である。もともとは現在ガウン姿の大隈像がある位置にあったが、大隈講堂内に移設された。1907年に大学創立25周年と大隈の数え年70歳を記念して建てられた[252]。1916年に綾子夫人像の建設が計画されると、「恩賜館組」と呼ばれる少壮教授グループの反対運動が起こり[253]、夫人像の建設はいったん中止されたが、10年後に大隈会館に設置され、現在は大隈庭園にある[252]
これら以外にも、ほかのキャンパスに大隈の胸像が設置されている。
国会議事堂
国会議事堂にある大隈像は、中央広間1階に日本初の政党内閣を樹立した功績を称え、板垣退助、伊藤博文とともに飾られている。昭和13年(1938年2月明治憲法発布50周年を記念して作られた。朝倉文夫作。
大隈記念館
佐賀県佐賀市にある大隈記念館内にある大隈像は昭和63年(1988年4月に大隈重信の生家跡地に建てられた。この立像は大隈重信が右足を失う前の姿のものである。
大隈重信旧宅
佐賀県佐賀市にある大隈重信の旧宅は、武家屋敷の面影を残した貴重なもので、国の史跡に指定されている。庭園には、葬儀委員長を務めた波多野敬直の筆による「大隈重信公誕生地」の記念碑が建っている。

著作

単著

  • 『古銭及古金銀価格表』、1874年8月。
  • 『国議院設立意見』伊藤博文、1881年。NDLJP:1170238 - 伊藤博文写の複製。
  • 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆、立憲改進党々報局、1895年6月15日。NDLJP:781144
    • 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆、新潮社、1914年1月25日。NDLJP:930941
    • 『大隈侯昔日譚』円城寺清執筆、新潮社、1922年1月17日。NDLJP:1908934
    • 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆、京口元吉校訂、冨山房〈冨山房百科文庫 51〉、1938年11月10日。NDLJP:1222744
    • 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆、明治文献、1972年3月30日、復刻版。
    • 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆、東京大学出版会〈続日本史籍協会叢書 第4期第7〉、1980年9月、復刻版。
    • 『大隈伯昔日譚』円城寺清執筆、東京大学出版会〈続日本史籍協会叢書 第4期第8〉、1981年4月、復刻版。
  • 『菅公談』内貴甚三郎編、北野会、1900年10月5日。NDLJP:781575
    • 『菅公談』高田俊雄編、東京専門学校出版部〈早稲田小篇〉、1900年10月30日。NDLJP:781576
  • 『政務調査に関する大隈総理の演説』円谷胖治編、憲政本党本部、1901年4月18日。NDLJP:783389
  • 『東亜之平和』三光堂、1904年。
  • 『大隈伯時局談』武井宗十郎編、博文館、1905年2月9日。NDLJP:1881412
  • 『大隈伯演説集』早稲田大学編輯部編、早稲田大学出版部、1907年10月15日。NDLJP:782937 NDLJP:898212
  • 『大隈伯座談集』江森泰吉編、槐蔭書屋、1908年4月19日。NDLJP:781143
  • 『大隈伯百話』江森泰吉編、実業之日本社、1909年6月7日。NDLJP:781145
    • 『大隈伯百話』江森泰吉編、実業之日本社、1911年3月、改訂再版。
  • 『大隈伯演説座談』岩崎徂堂編、大学館、1909年8月8日。NDLJP:782936
  • 『日本産業論』工業之日本社、1909年11月12日。NDLJP:801572
  • 『国民読本』丁未出版社・宝文館、1910年3月1日。NDLJP:783078
    • 『国民読本参考』大隈家編輯局編、丁未出版社・宝文館、1910年10月1日。NDLJP:868143
    • 『国民読本』丁未出版社・宝文館、1913年5月20日、改訂。NDLJP:1183676
    • 『国民読本参考』大隈家編輯局編、丁未出版社・宝文館、1913年6月16日。NDLJP:912556
    • 『国民読本改訂の要領』、1913年5月。
  • 『大隈伯社会観』立石駒吉編、文成社、1910年10月20日。NDLJP:994558
    • 『吾輩の社会観』立石駒吉編、大鐙閣、1922年3月1日、改版。NDLJP:1880669
  • 『国民訓』加藤教栄編、文泉堂書房・服部書店、1911年3月。
  • 『青年訓話』菊池暁汀編、丸山舎書籍部、1911年4月12日。NDLJP:3456401
    • 『青年訓話』丸山舎書籍部、1914年5月31日、補再版。NDLJP:951391
  • 『公娼廃止論』益富政助編、廓清会本部〈廓清叢書 第1巻〉、1911年11月。
  • 『経世論』冨山房、1912年11月8日。NDLJP:1884915
    • 『経世論』正編、冨山房、1912年10月。
    • 『経世論』続編、冨山房、1913年10月23日。NDLJP:949416
  • 『憲法の話』国民教育講習会〈国民教育トラクト〉、1913年3月13日。
  • 『開国大勢史』早稲田大学出版部・実業之日本社、1913年4月28日。NDLJP:950601 NDLJP:3440192
  • 『明治大帝の御遺業』国民教育講習会〈国民教育トラクト〉、1913年7月11日。NDLJP:905851
  • 『立憲国民訓』峯間信吉編、中興館書店、1914年3月10日。NDLJP:950038
    • 『立憲国民訓』峯間信吉編、中興館書店、1915年2月、訂正版。
  • 『国民小読本』丁未出版社・宝文館、1914年3月15日。NDLJP:1185199
  • 『国民小読本字解』大隈家編輯局編、丁未出版社・宝文館、1914年3月。
  • 『国民と政治』国民教育講習会〈国民教育トラクト〉、1914年5月7日。
  • 『国民教育の大本』堀尾太郎編、明誠館、1914年6月22日。NDLJP:980197
  • 『大隈伯の政界革新談』宮崎八百吉編、宮崎八百吉、1914年6月30日。NDLJP:3454610
  • 『最近外交論』公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第1〉、1915年1月。
  • 『帝国々防論』公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第2〉、1915年1月25日。
  • 『帝国財政論』公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第3〉、1915年2月20日。
  • 『大隈伯演説集 高遠の理想』早稲田大学編輯部 編、早稲田大学出版部、1915年5月8日。
    • 『大隈伯演説集 高遠の理想』早稲田大学編輯部 編、早稲田大学出版部、1915年5月20日、再販。NDLJP:955066
  • 『国民二十訓』丁未出版社、1915年6月7日。NDLJP:1886570
  • 『抱負と経綸』樋口勘次郎編、二松堂書店、1915年6月。
  • 『日支民族性論』前編、堤康次郎編、公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第6〉、1915年7月15日。NDLJP:933424
  • 『日支民族性論』後編、堤康次郎編、公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第7〉、1915年7月15日。NDLJP:933425
  • 『国民教育論』通俗大学会〈通俗大学文庫 第2編〉、1915年11月10日。NDLJP:933451
  • 『人寿百歳以上』百歳会編、真人社、1915年12月9日。
  • 『国体の精髄』公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第10巻〉、1915年12月22日。NDLJP:925183
  • 『中心勢力移動論』公民同盟出版部〈公民同盟叢書 第15巻〉、1916年4月1日。NDLJP:933431
  • 『大隈侯爵講演集 帰郷記念』大隈侯爵講演集記念刊行会編、大隈侯爵講演集記念刊行会、1918年3月3日。NDLJP:957495
  • 『大隈侯爵 縦談横語』日本書院、1918年9月22日。NDLJP:1886637
  • 『現代青年に告ぐ』偉人言行研究会編、大盛堂書店・城北書房、1919年4月25日。NDLJP:961614
    • 『現代青年に告ぐ』偉人言行研究会編纂、内外出版協会、1919年3月25日、第3版。NDLJP:1886699
  • 『青年の為に』野中正編、東亜堂〈袖珍名家文庫 第4編〉、1919年6月21日。NDLJP:933317
  • 『大隈侯論文集 世界大戦以来』相馬由也編、大観社、1919年6月28日。NDLJP:955655
  • 『人種問題』早稲田大学出版部〈世界改造叢書 第5編〉、1919年11月18日。NDLJP:962255
  • 『侯爵大隈重信閣下の講演』三田土ゴム製造、1919年。
  • 『働け働け飽迄働け』日本書院、1920年7月5日。NDLJP:961796
  • 『大勢を達観せよ』帝国講学会、1922年3月11日。NDLJP:1880883
    • 『大勢を達観せよ』芳文堂、1922年3月11日。NDLJP:952560
  • 『隈侯閑話』池田林儀編、報知新聞社出版部、1922年3月13日。NDLJP:986584
  • 『大隈侯昔日譚』松枝保二編、報知新聞社出版部、1922年3月30日。NDLJP:964408
  • 『大隈侯論集』相馬由也編、実業之日本社、1922年4月20日。NDLJP:1880958
  • 『早稲田清話 ―大隈老侯座談集―』相馬由也筆録、冬夏社、1922年7月15日。NDLJP:964461
  • 『東西文明之調和』早稲田大学出版部・実業之日本社・大日本文明協会、1922年12月25日。NDLJP:962817
    • 『東西文明の調和』大日本文明協会、1923年1月15日。NDLJP:1088402
    • 『東西文明之調和』早稲田大学出版部、1936年12月25日。NDLJP:1914426
    • 『東西文明之調和』早稲田大学出版部、1990年10月21日、復刻版。ISBN 9784657900395
    • 東西方文明之調和. 卞立強訳 (中国国际广播出版社 ed.). (1992-07). ISBN 9787507805130
  • 『伸んとする若き国民へ』青年修養研究会編、太陽社、1929年2月。
  • 『第二の国民へ』藤谷崇文館、1930年2月。
  • 『大隈重信東京遷都談』東半球協会〈東半球資料 第21号〉、1941年12月25日。NDLJP:1274751
  • 『大隈重信のことば』高野善一編、稲言社〈稲言文庫〉、1964年3月3日。NDLJP:2976303 - 付:文献181-185頁。
  • 『大隈重信とその時代 議会・文明を中心として』早稲田大学大学史編集所編、早稲田大学出版部、1989年10月。ISBN 9784657890290
  • 大隈重信演説談話集』早稲田大学編、岩波書店岩波文庫 青N118-1〉、2016年3月16日。ISBN 9784003811818
  • 大隈重信自叙伝』早稲田大学編、岩波書店〈岩波文庫 青N118-2〉、2018年3月16日。ISBN 9784003811825

共著

編著

  • 『開国五十年史』上巻、伯爵大隈重信撰、開国五十年史発行所、1907年12月25日。NDLJP:991350
  • 『開国五十年史』下巻、伯爵大隈重信撰、開国五十年史発行所、1908年2月29日。NDLJP:991351
  • 『開国五十年史』附録、伯爵大隈重信撰、開国五十年史発行所、1908年10月18日。NDLJP:991352

序文

  • 島田三郎鳥谷部銑太郎『東洋治安策』毎日新聞社、1895年1月28日。NDLJP:785611
  • 『澳国博覧会参同記要』田中芳男平山成信編、森山春雍、1897年8月7日。NDLJP:801730
  • 河原林檉一郎『コントラバンド論』田中唯一郎、1899年5月20日。NDLJP:798241
  • 村松忠雄『早稲田学風』東京専門学校出版部、1899年4月15日。NDLJP:813438
  • ア・ドビヅール『今世欧洲外交史』巻之上、酒井雄三郎訳、東京専門学校出版部〈早稲田叢書〉、1900年12月25日。NDLJP:785566
  • 丹羽雄九郎『帝国政策新論』丹羽雄九郎、1903年3月29日。NDLJP:783519
  • 桜井忠温『肉弾』英文新誌社、1906年4月25日。NDLJP:904708
    • Tadayoshi Sakurai (1907). edited by Alice Mabel Bacon introduction to the Bison books edition by Roger Spiller.. ed. Human Bullets A Soldier's Story of Port Arthur. with an introduction by Count Okuma ; translated by Masujiro Honda. University of Nebraska Press. ISBN 9780803292666
  • 『足利之機業』江森泰吉編、足利織物同業組合、1907年5月20日。NDLJP:802661
  • 図師庄一郎『家』経営社、1907年2月11日。NDLJP:798398
  • 三宅磐『都市の研究』実業之日本社、1908年10月7日。NDLJP:784722
  • 蘆川忠雄『交際術修養』実業之日本社、1909年2月8日。NDLJP:2385834 NDLJP:2387881
  • 国是発展会『国民宝訓』国是発展会、1910年3月18日。NDLJP:755482
  • アダム・スミス『富国論』三上正毅訳、日進堂、1910年7月15日。NDLJP:799534
  • 三上正毅『外遊十二年』至誠堂、1911年5月25日。NDLJP:761034
  • 森恒太郎『農業道徳』丁未出版社、1911年11月5日。NDLJP:758134
  • プリンス・マロー『健康と性欲』小松武治訳、日本基督教青年会同盟、1911年12月25日。NDLJP:836843 NDLJP:835788
    • プリンス・マロー『健康と性欲』小松武治訳、廓清会本部、1920年1月15日。NDLJP:935649
  • 橋本徹馬『青年政党論』世界之日本社、1912年7月23日。NDLJP:784209
  • 桜井忠温『銃後』丁未出版社、1913年3月5日。NDLJP:933910
  • 中島吉郎、水町義夫『鍋島閑叟公』久米邦武校閲、伊東祐穀、1913年6月18日。NDLJP:949370
  • 千葉長作『国民剣道教範』富田文陽堂、1916年11月15日。NDLJP:955262
  • 後藤喜間太『勃興雄飛 工業帝国』石英堂書房、1917年9月5日。NDLJP:955354
  • 石沢久五郎『本邦銀行発達史』同文館、1920年10月17日。NDLJP:960644

監修・校閲

作品集等

大隈文書

  • 『大隈文書』第1巻、早稲田大学社会科学研究所編、早稲田大学社会科学研究所、1958年2月。NDLJP:2987595
  • 『大隈文書』第2巻、早稲田大学社会科学研究所編、早稲田大学社会科学研究所、1959年3月。NDLJP:3025422
  • 『大隈文書』第3巻、早稲田大学社会科学研究所編、早稲田大学社会科学研究所、1960年3月。NDLJP:3025423
  • 『大隈文書』第4巻、早稲田大学社会科学研究所編、早稲田大学社会科学研究所、1961年3月。NDLJP:3025424
  • 『大隈文書』第5巻、早稲田大学社会科学研究所編、早稲田大学社会科学研究所、1962年3月。NDLJP:3025425
  • 『大隈文書』総目次、早稲田大学社会科学研究所編、早稲田大学社会科学研究所、1963年3月。NDLJP:2987627
  • 『大隈文書目録』早稲田大学大隈研究室編、早稲田大学社会科学研究所〈早稲田大学図書舘和漢図書分類目録 特刊之一〉、1952年10月。NDLJP:3002370
  • 『大隈文書目録補遺』早稲田大学大隈研究室編、早稲田大学社会科学研究所〈早稲田大学図書舘和漢図書分類目録 特刊之一追冊〉、1975年2月。NDLJP:3002433
  • 大隈文書補遺雄松堂書店、1970年。 - マイクロフィルム186リール

大隈重信叢書

  • 『大隈重信は語る ―古今東西人物評論―』早稲田大学史編集所編、木村毅監修、早稲田大学出版部〈大隈重信叢書第1巻〉、1969年4月1日。
  • 『大隈伯昔日譚』早稲田大学史編集所編、木村毅監修、早稲田大学出版部〈大隈重信叢書第2巻〉、1969年10月30日。
  • 『大隈侯昔日譚』早稲田大学史編集所編、木村毅監修、早稲田大学出版部〈大隈重信叢書第3巻〉、1969年8月15日。
  • 『薩長劇から国民劇へ ―明治政党興亡史談―』早稲田大学史編集所編、木村毅監修、早稲田大学出版部〈大隈重信叢書第4巻〉、1970年2月20日。
  • 『大隈侯座談日記』早稲田大学史編集所編、木村毅監修、早稲田大学出版部〈大隈重信叢書第5巻〉、1970年5月15日。

著作目録等

  • 早稲田大学図書館『大隈重信生誕百廿五年記念展観』早稲田大学、1963年11月10日。
  • 中村尚美・間宮国夫「大隈重信論文目録」『早稲田大学図書館紀要』第5号、早稲田大学図書館、1963年12月20日、 177-195頁。
  • 石山昭次郎「大隈重信著作目録」『早稲田大学史記要』第4巻、早稲田大学大学史編集所、1971年3月31日、 25-29頁。
  • 河野昭昌「大隈重信論著目録(一)」『早稲田大学史記要』第6巻、早稲田大学大学史編集所、1973年3月31日、 27-50頁。
  • 河野昭昌「大隈重信論著目録(二) ――明治四一年~大正二年――」『早稲田大学史記要』第7巻、早稲田大学大学史編集所、1974年3月31日、 37-89頁。
  • 河野昭昌「大隈重信論著目録(三) ――大正三年~大正一二年――」『早稲田大学史記要』第8巻、早稲田大学大学史編集所、1975年3月31日、 22-52頁。
  • 佐藤能丸「大隈重信研究参考文献」『早稲田大学史記要』第27巻、早稲田大学大学史編集所、1995年7月31日、 293-311頁。

脚注

注釈

  1. 父親は婿養子だが、母親は重信の娘
  2. 9月8日、明治元年へ1月1日にさかのぼって改元
  3. 意見書を書いたものは福沢諭吉であるという観測が行われており、伊藤も「福沢と同一なり」と見ていたが、実際には統計院大書記官を勤めていた矢野文雄であったとみられる(伊藤之雄 & 2019上, p. 278-281)
  4. 伊藤之雄は払下げのリークは大隈派官僚の矢野文雄、犬養毅尾崎行雄小野梓のいずれかではないかと推測している(伊藤之雄 & 2019上, p. 284)
  5. 「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」大日本帝国憲法第19条
  6. 事件直後、現場を通りかかった高木兼寛により最初の処置が行われ、その後に駆け付けたドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツ佐藤進伊東方成岩佐純池田謙斎らと高木による協議で右足の切断が決定された[59]。その右脚切断手術は佐藤やベルツにより行われ、その後の大隈は義足を着用した。この際に大隈が失った右脚は、アルコール漬けにされ大隈邸にて一時保管後、消費されるアルコール代が高額で手間がかかるため赤十字中央病院に寄付された。更にその後日本赤十字看護大学にて由来不明となったままでホルマリン漬けで保存(経年のため変色が認められるものの生きているかのようであったという)されていたが、1988年(昭和63年)由来判明後に早稲田大学で保管され、1999年(平成11年)に故郷である佐賀市の大隈家菩提寺の龍泰寺にて安置(保存のための樹脂加工済)されている。
  7. 大隈は「留任の大命を受けた以上は自分の意志で進退を決めるわけにいかない。とやかく言うのはほとんど君主権を犯すもの」と当時述べた[137]
  8. 「大隈が口舌の徒であるという評価は、明治・大正の人には常識だったようである。大隈は、しばしば、その演説を『我が輩は』で始めて、『あるんである』、時としては『あるんであるんである』で結んだ。ただの口癖と言えばそれまでであるが、少なくとも、言葉を節して、一言半句無駄なことを言うのを忌む人には、とうていできないことである」とある[165]
  9. 大隈自身の回想では明治7年(1874年)頃となっているが、大隈はこの際に伊藤と井上馨に福沢を紹介してふたりとも意気投合したと記述しており、伊藤之雄も内容から見て明治3年(1870年)頃ではないかとみている(伊藤之雄 & 2019上, p. 254)

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  253. 早稲田大学百年史』 第二巻、846-854頁。なお、銅像問題で学生たちはほとんど騒いでおらず、尾崎士郎の『人生劇場』には一部の誇張がある(服部嘉香 『随筆 早稲田の半世紀』 中和出版、1957年、25頁)。

参考文献

関連項目

関連作品

映画
テレビドラマ

外部リンク

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公職
先代:
(新設)
日本の旗 経済調査会会長
1916年
次代:
寺内正毅
先代:
加藤高明
西徳二郎
西園寺公望
伊藤博文
日本の旗 外務大臣
第29代:1915年8月10日 - 10月13日(兼任)
第14代:1898年6月30日 - 11月8日(兼任)
第11代:1896年9月22日 - 1897年11月6日
第3・4代:1888年2月1日 - 1889年12月24日
次代:
石井菊次郎
青木周蔵
西徳二郎
青木周蔵
先代:
大浦兼武
原敬
日本の旗 内務大臣
第32代:1915年7月30日 - 8月10日(兼任)
第30代:1914年4月16日 - 1915年1月17日(兼任)
次代:
一木喜徳郎
大浦兼武
先代:
伊藤博文
日本の旗 法典調査会総裁
1898年
次代:
山県有朋
先代:
榎本武揚
日本の旗 農商務大臣
第13代:1897年3月29日 - 11月6日
次代:
山田信道
先代:
大久保利通
日本の旗 地租改正事務局総裁
1878年 - 1881年
次代:
(廃止)
先代:
(新設)
日本の旗 大蔵大輔
1871年
1869年 - 1870年
1869年
次代:
井上馨
先代:
広沢真臣
日本の旗 民部大輔
1869年 - 1870年
次代:
大木喬任
その他の役職
先代:
花房義質
日本園芸会会長
1902年 - 1922年
次代:
鍋島直映
先代:
長岡護美
同仁会会長
1904年 - 1922年
次代:
丹波敬三
会長代行
先代:
(新設)
大日本文明協会会長
1908年 - 1922年
次代:
大隈信常
先代:
榎本武揚
帝国軍人後援会会長
1909年 - 1922年
次代:
目賀田種太郎
先代:
(新設)
帝国飛行協会会長
1914年 - 1922年
次代:
阪谷芳郎
先代:
寺内正毅
帝国鉄道協会会長
1919年 - 1922年
次代:
野村竜太郎
先代:
(新設)
東洋文化学会会長
1921年 - 1922年
次代:
平沼騏一郎
日本の爵位
先代:
陞爵
侯爵
大隈家初代
1916年 - 1922年
次代:
大隈信常
先代:
叙爵
伯爵
大隈家初代
1887年 - 1916年
次代:
陞爵
早稲田大学総長(初代:1907年 - 1922年)
東京専門学校
早稲田大学
(1902-1920旧制専門学校)
校長
学長
総長
歴代会長
理事長
評議員
理事・副会長
外国事務総裁
外国事務総督
外国事務局督
外国官知事
外務卿
外務大臣
内務卿
内務大臣
引継職
地方行財政部門

内事局長官・(内事局官房自治課長・官房職制課長) - 国務大臣地方財政委員会委員長・全国選挙管理委員会委員長・(総理庁官房自治課長) - 国務大臣地方自治庁長官 - 国務大臣自治庁長官 - 自治大臣 - 総務大臣

警察部門

内事局長官・(内事局第一局長) - 国家公安委員会委員長・(国家地方警察本部長官) - 国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官

土木部門
衛生・社会部門
調査部門

内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁特別審査局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府特別審査局長) - 法務大臣・(公安調査庁長官

出版・著作権部門

文部大臣・(文部省社会教育局文化課長) - 文部大臣・(文部省社会教育局著作権課長)- 文部大臣・(文部省文化局長) - 文部大臣・(文化庁長官)- 文部科学大臣・(文化庁長官)

神道部門
国籍に関する事務

内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁民事局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府民事局長) - 法務大臣・(法務省民事局長)

出入国管理に関する事務

外務大臣・(入国管理部長) - 外務大臣・(出入国管理庁長官) - 外務大臣・(入国管理庁長官) - 法務大臣・(法務省入国管理局長)- 法務大臣・(出入国在留管理庁長官

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早稲田大学
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初等教育
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歴史
関連項目
早稲田大学総長


日本経済学新論 ──渋沢栄一から下村治まで (ちくま新書) Kindle版 


岡田俊平 一九七五 『明治期通貨論争史研究』千倉書房
山本有造 一九九四 『両から円へ──幕末・明治前期貨幣問題研究』ミネルヴァ書房
#4
†国家政策  資本集約型産業が「規模の経済」を享受するには、大規模な市場が必要であり、また「範囲の経済」を享受するためには、原材料の調達、生産、流通そして消費までを結びつける輸送・通信インフラが必要である。この大規模な市場の創出、そして輸送・通信インフラの整備において大きな役割を果たすのが、国家である。それゆえ、第二次産業革命以降の経営者資本主義においては、国家政策が死活的に重要なものとなる。アメリカやドイツにおける産業発展が、まさにそうだった。  そもそも、アメリカという国は、その建国から第二次世界大戦終結前までは、世界で最も保護主義的な国家であった。  建国の父の一人であり、初代財務長官のアレクサンダー・ハミルトンは、一七九一年に『製造業に関する報告書』を書き、高関税と産業政策による製造業の育成を唱えた。ハミルトンが提唱した高関税によって産業を保護する経済体制は「アメリカン・システム」と呼ばれている。特に一八六一年、エイブラハム・リンカーンが大統領に就任し、南北戦争が北軍の勝利によって終わると、アメリカの保護主義は決定的となった。というのも、工業地帯の北部は、保護主義を志向していたからである。一八七五年におけるヨーロッパ大陸における工業製品の関税率は平均で九~一二%であったが、アメリカでは四〇~五〇%もあった[Bairoch 1993: 32-8]。  また、連邦政府と州政府は、鉄道の建設に対して積極的な支援を行ったが、鉄道網の整備が国民統合を促し、新市場を開拓し、「規模の経済」と「範囲の経済」の享受を可能にしたことは、すでに述べた通りである。そして、この鉄道建設には、軍事的な輸送手段という目的もあった[Magnusson 2009: 139]。  こうして、南北戦争の終結と鉄道網によって統合された巨大な国内市場が、高関税によって保護されたことで、アメリカの資本集約型産業は規模の経済を享受し、その競争力を飛躍
#6
† 明治期における近代財政・金融制度の成立史  明治期の財政・金融問題の淵源は、幕末期にさかのぼる。  従来、幕府財政の支出は将軍家の家産的性格が強いものだったが、一八五三年のペリー来航以降、対外関係費や国防費などの公共的支出が急激に膨張した。この巨額の支出を賄うためには、従来の年貢収入や上納金・御用金では足りず、幕府は貨幣を悪鋳し、その益金に依存せざるを得なくなったのである。そこで幕府は、本位金貨の「万延小判」に代えて、金属の価値にして本位小判の七〇%程度しかない劣位の「万延二分金」を定位貨幣として定め、しかも大量に発行した。しかし、この貨幣改鋳益金でも十分ではなく、幕府はついに「幕府金札」すなわち紙幣の発行に踏み切った。幕府同様、諸藩も財政に困窮し、藩札を大量に発行した。こうして、公共的支出の急増によって膨張した需要に応じて大量の通貨が供給された結果、激しいインフレが引き起こされることとなった。  一八六七年、王政復古の大号令によって徳川幕府が崩壊し、明治政府が成立した。しかし、発足当初の新政府は、幕府財政の脆弱な構造を引き継がざるを得なかった。新政府の徴士参与・会計事務掛の三岡八郎(由利公正)は、会計基立金三百両の募集と太政官札(明治金札)三千両の発行を計画した(「由利財政」)。会計基立金は、幕末の御用金と同じ性格をもつものであり、また太政官札も、幕府金札を継承するものとみなすことができる。ただし、幕府金札が御用金に対する幕府債券としての性格をもっていたのに対し、明治金札ははじめから不換紙幣と公示された。  しかし、明治新政府の政権基盤は未だ不安定で、不換紙幣を平価流通させるのには十分ではなかった。加えて、外国からは、金札と正貨(金や銀に裏付けされた貨幣)の交換を要求する強い外圧があった。その結果、由利は退場を余儀なくされ、明治二年より、大隈重信が財政を主導することとなった(「第一次大隈財政」)。  第一次大隈財政は、明治二年五月、金札を明治五年までの四か年間に新正貨と引き換えられるべきものとし、金札の発行上限を定めるなどの太政官布告を出して、金札の基盤の立て直しを図った。さらに政府は、版籍奉還に並行して、府藩県から正金を上納させて金札と交換する政策を強行した。その結果、太政官金札が流通するようになり、明治政府の財政基盤を支えた。また、太政官金札を準備金とした藩札発行が行われたため、藩金札と太政官金札が流通し、後の新紙幣「円」への移行を準備することとなった。  明治四年七月、明治政府は、廃藩置県により、全国の租税を一手に収める中央集権体制を成立させた。しかし、これによって、全国規模の財政金融制度の確立という新たな課題が生じた。この課題に取り組んだのが、岩倉使節団が出発した後に留守政府の財政を委ねられた大蔵大輔・井上馨である(「井上財政」)。  当時、最重要課題は、貨幣制度の確立であると考えられていた。新貨幣は、明治二年三月に大隈重信の建議により「円」とされていたが、その本位貨幣は未定であった。当時の国際金融体制は、先進欧米列強が金本位制を採用していたのに対し、後進アジア地域は銀本位制であった。そこで、当初は、銀本位制の採用が検討されていた。  ところが、明治四年五月十日に確定された「新貨条例」は、米ドル一ドルに相当する純金量を含有する「一円金貨」を本位原貨とする「金本位制」を採用したのである。この性急な決定が、後に、輸入超過による正貨の流出という問題を引き起こすこととなる。  また、明治二年五月の布告は、明治五年までに金札と正貨との兌換が完了することを約束していた。ところが、明治四年、新貨条例の公布後の十二月の布告によって、政府は金札との交換を「円」で表示される「新紙幣」をもってすることとし、しかも、新紙幣と新貨幣との交換を認めなかった。つまり、紙幣と正貨との交換という当初の約束を破り、紙幣と紙幣の交換にしてしまったのである。それにもかかわらず、金札から新紙幣への転換は順調に進み、紙幣統一は円滑に行われた。これについて、山本有造は、第一次大隈財政下の太政官札と藩札の流通によって、国民が紙幣に慣れていたからであろうと指摘している[山本一九九四─二二、二六]。  とは言え、諸外国からは、紙幣と正貨との交換を強く迫られていたこともあり、いずれ兌換紙幣制度を確立しなければならなかった。  明治五年十一月、「国立銀行条例」が公布され、アメリカのナショナル・バンクを模範にした分散設置型の発券銀行制度が発足した。その仕組みは、次のようなものであった。まず、国立銀行を設立しようとする者は、資本金の六〇%を金札で政府に上納し、同額の金札引換公債証書の交付を受ける。次に、銀行は同証書を政府に抵当として預託することで、同額の銀行券発行権を得る。ただし、資本金の四〇%は正貨とし、銀行券の兌換準備としなければならない。  この仕組みには、発効銀行券の運用による地方産業の資金融通の道を拓くとともに、各地に設立される銀行の金札(不換紙幣)を兌換銀行券に置き換えていくという狙いがあった。しかし、一八七五年(明治八年)までに設立された国立銀行はわずか四行であり、しかもその業績は著しく不調であった。発行された銀行券はすぐに正貨と交換されて銀行に還流し、市場にはほとんど流通しなかったのである。  さらに、世界市場において金高銀安が進み、また我が国の輸入超過ゆえに、正貨が流出するという事態となった。このため、一八七四年には「新貨条例」の金本位制は崩壊し、対外的には銀を基準とし、対内的には紙幣が流通するという管理通貨体制への移行を余儀なくされた。  それにもかかわらず、紙幣の正貨兌換を急いだ井上は、紙幣の新規発行には消極的である一方で、正貨準備の増加に努め、「量入為出(入るを量りて出るを為す)」を原則とした厳しい緊縮財政を断行していた。これは、開港以来のインフレを収束させるという意義をもったが、他方で、通貨収縮によるデフレを引き起こした。この井上財政によるデフレは、廃藩置県に伴う旧藩の債務の切り捨てが引き起こした信用収縮とあいまって激しいものとなり、一八六九年から一八七二年までの四年間で物価が四四%も下落した[中村一九八五─二四~五]。また、緊縮財政は政府内部の不満を爆発させ、孤立した井上は、一八七三年五月、渋沢と共に辞任した。  井上の後の大蔵省の実権は、再び大隈重信に委ねられた(「第二次大隈財政」)。大隈は、経済財政の根本問題は、国際収支の不均衡とそれによる正貨の流出にあると考えていた。大隈は、紙幣の正貨兌換を否定したわけではなかったが、それを短期間のうちに強行することの危険性を認識していた[岡田一九七五─五二]。そこで大隈は、国際収支の不均衡の是正を優先し、輸出産業の振興を軸とする「殖産興業」政策を推し進めた。そして、道路・橋梁・海港などの社会インフラの整備と産業資金の円滑な供給を実現するため、積極財政に転じ、政府紙幣を増発させたのである。  また、一八七六年には、国立銀行条例の改正を行った。改正国立銀行条例の下では、銀行設立者は資本金の八〇%を四分利付以上の公債証書をもって政府に預託することで、同額の銀行券の発行権を得ることができるものとされた。そして、資本金の二〇%は政府紙幣をもって準備金とすることとされた。つまり、銀行券は、正貨との兌換義務を免れた上、発行額も資本金の六〇%から八〇%へと増え、さらに預託公債の選択の幅も広がったのである。その結果、銀行設立がブームとなり、一八七九年までに百五十三行もの国立銀行が設立されるにいたった。  こうして、大隈財政は、通貨膨張をもたらしたが、それにもかかわらず、一八七四年から七七年の間の紙幣価値は安定的に推移した。なぜ、大量の紙幣発行にもかかわらず、通貨の価値は安定し得たのか。その理由の一つとして考えられるのは、大隈の目論見通り、「殖産興業」政策によって供給力が順調に増加したということである。需要が増大し、それに見合って通貨供給量が増加しても、大きくなった需要を満たすだけの供給の増加があれば、インフレは抑制されるからである。  そして、もう一つの理由として考えられるのは、地租改正である。明治政府は、一八七三年に地租改正条例を発布し、地租の全国的金納化を目ざして地租改正事業を推し進め、一八七九年には地租の定額金納化を達成した。現代貨幣理論が説くように、通貨は、租税の支払い手段として法定されることで、その価値を下支えする。大隈財政による紙幣の大量発行は、それと並行して進められた地租の金納化によって、納税という確実な需要を生み出し、紙幣の価値を安定させた。そのようにも考えられるのである。  しかし、一八七七年に西南戦争が勃発すると、その巨額の戦費支出がもたらした乗数効果が総需要を大幅に拡大させたため、一八七九年から一八八一年にかけて、激しいインフレが起きることとなった。大隈は、一八八〇年九月以降、増税と経費節減による緊縮財政路線へと転じざるを得なくなった。  さらに、一八八一年のいわゆる「明治十四年の政変」によって大隈が失脚し、松方正義が大蔵卿に就任すると、松方はいっそう厳格な緊縮財政路線を推進するとともに、紙幣(政府紙幣と国立銀行券)の消却と正貨蓄積による兌換制度の確立を目指した(「松方財政」)。  一八八二年には日本銀行が設立され、一八八三年、国立銀行は発券銀行から普通銀行へと改組された。そして、一八八四年に「兌換銀行券条例」が公布され、翌年五月から兌換日銀券の発行が開始された。こうして、我が国に、中央銀行制度と銀本位制から成る近代的な財政・金融制度が確立され、その後の日本経済の発展を支える基盤となった。この日本銀行を頂点とする近代的な銀行システムの成立は、金利の安定をもたらした。  ただし、松方財政は、「松方デフレ」と呼ばれる深刻なデフレ不況を引き起こし、特に地方の農民層に深刻な打撃を与えたことを看過してはならない。松方財政は、兌換紙幣制度の確立という目的のみを性急に追求したがために、恐慌を引き起こし、社会的混乱を招いたのである。  これに対して、松方財政に先立つ大隈財政は、短期的な通貨価値安定策の強行を避け、長期的な視点から、経済発展を促進するために必要な紙幣を供給し、国際収支を均衡せしめ、正貨の流出を防止することで、政府紙幣の価値を安定化させようというものだった。大隈財政は、西南戦争や「明治十四年の政変」という特殊な政治的事情によって頓挫していなければ、松方財政よりも優れた結果を残していたと思われる。  一八八〇年代前半の「松方デフレ」の後、一八八〇年代後半以降になると、紡績、鉄道、石炭、銅などの近代産業のみならず、製糸、織物、雑貨類などの在来産業も飛躍的に発展した。会社数は、一八八五年の一二七九社から一九〇〇年の四二九六社に増え、資本金も五千万円余から二億二千万円余に増加した。ただし、この「企業勃興期」をもたらした大きな要因は、銀本位制の下での銀価の下落(為替相場の下落)による輸出増であった。松方による幣制整理が「企業勃興期」をもたらしたとする説は、この銀価の下落という国際的要因を過小評価していると中村隆英は指摘している[中村一九八五─五三~四]。  一八九三年、銀価がさらに下落すると、松方正義の勧告により、渡辺国武蔵相の下、貨幣制度調査会が設けられた。同調査会の委員の大勢は、銀本位制の維持に傾いていたが、一八九五年、松方が蔵相に就任した頃から議事が紛糾し始め、最終的に、同委員会は金本位制への改正必要論で決した。この異様な審議過程と強引な結論の背景には、原理主義的な金本位制論者であった松方の強い意向の反映があった。ただし、松方が金本位制に固執した主な動機は、経済的なものというよりはむしろ、金本位制の導入によって欧米列強と肩を並べたいという政治的なものであった。こうして、一八九七年の貨幣法により、金本位制が採用されるに至った[中村一九八五─第三章]。  金本位制の導入には、本来、物価の安定をもたらす効果が期待されていた。ところが、金本位制下の一九〇〇年代、日本の物価は国際水準から乖離して、かえって上昇するという現象が起きた。その主な原因は、日清戦争から日露戦争そして第一次世界大戦に至るまでの間、軍事費が膨張し、続いて鉄道、土木事業、電話設備などのインフラの整備が進められるなど、財政規模が大幅に拡張して、経済成長がもたらされたことにあった。しかも、皮肉なことに、金本位制の導入によって外債を発行しやすくなり、財政赤字の補塡が容易になったことが、この財政拡張を助長したのである[中村一九八五─第四章]。  以上、幕末から明治期の財政・金融制度・政策の成立過程を概観してきたが、この歴史は、財政収支と国際収支の均衡を重視する「消極主義」と、国内の産業発展や社会インフラの整備を重視する「積極主義」の対立としても描くことができる。しかも、この積極主義と消極主義の対立は、由利公正対井上馨、大隈重信対松方正義にとどまらず、星亨・原敬の政友会対大蔵官僚、さらには政友会対憲政会・民政党の対立へと続き、まさに「あざなえる縄のように、明治から現代に至るまでの政策史を貫いている」[中村一九八五─六]のである。  そして、この財政を巡る積極主義と消極主義の間の対立は、通貨を巡る対立とほぼ重なり合っていた。次は、その通貨を巡る対立について、概観しよう。 †二つの学派  明治政府は、近代的な通貨制度を確立するにあたっても、西洋を範とした。しかし、その西洋においても、通貨とは何かについては、見解が割れていたのである。  通貨観を巡る対立で特に有名なのは、十九世紀のイギリスにおける二度にわたる論争である。  その一度目は、「地金論争」と呼ばれる。契機となったのは、イギリスが、フランスとの戦争を遂行するために、一七九七年から一八二一年にかけて、紙幣と金の兌換を停止し、イングランド銀行券を増発させたことだった。その頃、穀物価格や金価格が高騰するという現象が起きたため、このインフレの原因を巡って論争が巻き起こったのである。  いわゆる「地金主義者」は、金属主義の原則に忠実な立場から、金の裏付けのない不換紙幣の過剰発行がインフレの原因であるとして、金兌換の速やかな再開を求めた。紙幣が金によって裏付けられれば、物価は安定するはずだというのである。これに対して、「反地金主義者」は、インフレの原因は戦争など、不換紙幣の過剰発行以外にあると主張した。  結局、地金主義者が優勢となり、一八二一年、金兌換は再開された。しかし、その後、約十年ごとに金融恐慌が発生することとなった。金兌換は、地金主義者の期待を裏切り、経済を安定させなかったのである。  二度目の大論争(「通貨論争」)は、一八四四年ピール銀行法成立の前に勃発した。「通貨学派」と呼ばれる論者たちは、かつての地金主義を引き継ぎ、インフレの原因を通貨の増発に求めた。これに対して「銀行学派」と呼ばれる論者たちは、通貨は需要に応じて発行されるのであって、通貨の過剰発行がインフレをもたらすことはないと主張した。この時、「銀行学派」を代表した論客は、実業家のトーマス・トゥックであった。トゥックは、銀行券は、金との兌換が保証されている限り、過剰に発行されることはないと論じた。なぜなら、過剰に発行された銀行券は、取引に必要ないので、銀行に還流されるからだというのである(3)。  しかしながら、この論争もまた、結局、金属主義に立つ「通貨学派」の勝利に終わり、一八四四年ピール銀行法が成立した。同法は、一定額を超える銀行券の発行については、すべて金の裏付けを必要とする厳格な兌換制度であった。ところが、その後も金融危機が繰り返し起こったため、イングランド銀行は、ピール銀行法成立以降の二十二年間で、三度も同法を停止せざるを得なくなったのである[平山二〇〇六]。  この「通貨論争」は、貨幣に対する本質的な理解への道を拓く、実に意義深い論争であった。  通貨の発行量が価格を決定すると考える「通貨学派」は、後の貨幣数量説(外生的貨幣供給理論)と同じ立場に立っている。他方、需要が価格を決定し、その価格に応じて通貨の発行量が決まるとする「銀行学派」は、後の内生的貨幣供給理論につながるものと言える。  もっとも、トゥックがそうであったように、「銀行学派」といえども、通貨の金兌換そのものを否定したわけではなかった。十九世紀のイギリスでは、金本位制はまるで宗教のような固い信念として存在しており、両学派ともにこれを共有していた。にもかかわらず、貨幣数量説に異議を唱えた「銀行学派」は、内生的貨幣供給理論の先駆として高く評価されてよい。  そして、まことに興味深いことに、この「通貨論争」とほぼ同じ論争が、明治期の日本における財政・金融制度を巡る紆余曲折においても再現されていたのである。  第一次大隈財政は、明治二年五月の布告によって、明治五年までに金札と正貨との兌換が完了することを約束していた。発足当初の明治政府は、「通貨学派」的な見解に立っていたのである。ところが、明治二年五月の布告は実行されず、むしろ明治四年十二月の布告によって、金札は不換紙幣化してしまった。それにもかかわらず、新紙幣による統一は円滑に進んだのである。  第一次大隈財政を継いだ井上財政は、紙幣と正貨の兌換を急ぎ、緊縮財政を断行した。井上は、「通貨学派」的な見解により忠実だったと言える。これに対して、第二次大隈財政は、「殖産興業」のための積極財政へと舵を切ったが、大隈の通貨論は、どのようなものであったのか。  大隈は、通貨の価値を安定させるためには、いずれ、紙幣の正貨兌換が必要になると考えてはいた。それにもかかわらず、大隈は、紙幣の発行高は正貨の保有量によって規制されるべきであるという「通貨学派」的な立場はとらなかった。むしろ、紙幣発行高は資金需要額に応じて決定されるという「銀行学派」に近い見解を抱いていた。また、その政策も、「殖産興業」により国内産業を振興し、政府紙幣による税収入を増やし、その政府紙幣を再び社会資本の形成や輸出産業振興のために投融資するというものだった。これをもって、国際収支を改善し、正貨の流出を防止しようというのである[岡田一九七五─五四~五、六二]。  要するに、大隈は、国内流通は管理された不換紙幣に委ね、貴重な正貨は外貨準備として用いるという、紙幣と正貨の分業体制を考えていたのである[山本一九九四─四二]。国内通貨(紙幣)と正貨とを切り離しておけば、仮に国際収支が悪化して正貨が減少しても、それが直ちに国内通貨の減少(すなわちデフレ)を引き起こすという事態は避けられる。国内通貨の順調な供給によって輸出産業を振興し、国際収支を改善すればよいのである。この大隈のアイディアは、当時、採りうる政策の中では、最も適切であったように思われる。  しかし、一八七八年以降、西南戦争の戦費支出がもたらした乗数効果によって需要過多となり、インフレが激しくなってくると、その原因を紙幣発行高の過剰に求める意見と、正貨の流出に求める意見との間で、論争が勃発することとなった。これは、対仏戦争に伴うインフレを契機に勃発したイギリスの地金論争と非常によく似た構図である。「銀行学派」的な大隈は、一八七九年の建議書の中で、インフレの原因は紙幣の増発ではなく、米作の不良と中国の凶作による対中米穀輸出による米価の高騰であると主張した。その際、大隈は、興味深いことに、銀行学派のトゥックの意見に言及して自説を補強したのである[岡田一九七五─一四三~四]。  しかしながら、結果は「通貨学派」的な見解が優勢を占め、大隈の後を継いだ松方正義は、通貨供給の収縮を優先させる典型的な「通貨学派」的デフレ政策を断行し、銀本位制の確立を優先させた。さらに松方は、一八九七年に悲願の金本位制への移行を実現したのである。  このように見てみると、消極主義の井上馨や松方正義は「通貨学派」的立場であり、積極主義の大隈重信は「銀行学派」的立場であったと言える。 †渋沢の財政・金融論  では、渋沢栄一はどうであったか。  まず、渋沢は、貨幣を論じて、「太古は物々交換であつたが、今は貨幣さへあればどんなものでも心に任せて購ふことが出来る。此の代表的価値のある所が貴いのである、だから貨幣の第一の要件として、貨幣その物の実価と物品の値とが等しくなければならない、若し称呼のみ同一にして其の貨幣の実価が減少すると、反対に物価は騰貴する」[論語と算盤─一七九~八〇]と、典型的な金属主義・商品貨幣論を表明している。  渋沢の金属主義的貨幣観の形成に影響を与えたのは、一つは、フランス留学である。当時のフランスの紙幣は、厳格な金兌換制度であり、渋沢はこれに感銘し、「かくの如くしたならば融通というものは良いだろうということは、仮令完全なる学理を修めぬでも事実において了解した」[雨夜譚─二一八]と述べている。  また、青年期の渋沢の師であった尾高惇忠(藍香)の影響もあった。幕末期、尾高は幕府による貨幣悪鋳がインフレの原因であると批判し、幕府の衰亡を予言していたという。渋沢は、その尾高を回想して、次のように述べている。  成る程先頃尾高兄が、この節のように貨幣を粗悪にすると物価は次第に騰貴して、終には一国が解体する基になるであろう。と云われたが、世間の情況はその通りになって来る。先見の明、恐れ入ったものである。と私はじめ、亡父なども非常に敬服して居た。その当時は、翁の貨幣論が果たして、西欧の学理に適しているものかどうかは、考えも及ばなかったが、明治二年になって、私は大蔵省に出仕して、上司の命により、維新後の貨幣を改良する役目になった。(中略)そこで前に申した、ケリー氏の貨幣原論に目を通した。すると驚いたことに、米国の大経済学者の論じている事と、経済学などと云う言葉もなかった武州榛沢郡下手計村の農家の青年が言っていた事と、精粗の差こそあれ、その根本論理は一致していることに気が付き、私はひどく敬服し、翁にそのことを話して、共に手を拍って喜んだものです。[塚原一九七九─一七七~八(4)]  このように、渋沢は、尾高の影響もあって金属主義・商品貨幣論という誤った貨幣観を抱いてはいた。  ただし、インフレの原因についてはともかく、幕末のインフレが幕藩体制を動揺させたという尾高の理解は正しい。山本七平は、この幕末のインフレが渋沢に与えた影響を重視している。インフレによって固定給のみの俸給生活者である武士階級が被害を受け、逆に町人階級はインフレ利得者となり、新しい購買者層として勃興した。この新しい購買者層の台頭によって、絹や藍等の需要が拡大したが、尾高家や渋沢家は、まさに養蚕と藍のビジネスによって富を蓄えた豪農であった[山本一九八七─第二章]。こうして台頭した豪農層から幕末の志士が生まれ、明治維新を準備していくこととなる。ほかならぬ渋沢がそうした志士のうちの一人である。インフレは、明治維新、近代化、そして資本主義を成立させる経済的な主要因であったのだ。  本論に戻ろう。商品貨幣論の立場に立つならば、財政赤字は、正貨の流出を招くものであり、貨幣の信認が失われる原因とみなされることとなる。実際、渋沢は、井上大蔵大輔の下で大蔵少輔事務取扱を務め、井上とともに「量入為出」を原則とする緊縮財政の断行に尽力した。また、財政を巡る政府内の対立の結果、井上が辞任した際には、井上と行動を共にしている。それどころか、渋沢は井上と共に、「財政改革ニ関スル奏議」を公表し、政府を批判して財政破綻の警鐘を鳴らすという挙にまで出たのである。  さらに、松方財政が深刻なデフレを伴いつつも、正貨(銀)兌換制度を完遂したことについて、渋沢は「国家に対する偉大の勲功」と高く評価している[論語講義─三五七]。また、一八九七年、松方正義の主導によって導入された金本位制について、渋沢は時期尚早として導入反対の論陣を張ったが、後に「これは松方侯の先見の明で私は恐縮せざるを得ぬのであります」[雨夜譚─二二九]と反省の弁を述べている。もっとも、松方が銀兌換制度を確立した後の経済発展は、銀価の下落によってもたらされたものであり、金本位制導入後の経済発展もまた、日清戦争以降の軍事費をはじめとする財政規模の拡大が原因なのであって、貨幣制度に関する松方の先見の明を証するものでは必ずしもないのだが。  以上から察するならば、渋沢は、典型的な「通貨学派」であったと言える。しかし、単純な二分法によって断言する前に、もう少し細かく精査してみる必要があるようにも思われる。  確かに渋沢は「財政改革ニ関スル奏議」において、「夫レ政治ノ要其端固ヨリ多シト雖ドモ渙号ノ今日ニ際セル須ラク理財ヲ以テ第一義トスベシ」[青淵百話─九四五]と宣言し、財政を最重要視する姿勢を表明してはいる。  しかし、その一方で、渋沢は、「政理民力相背カザルヲ以テ後来ノ標準トナスベキナリ」[青淵百話─九四八]、すなわち、税を負担し得る「民力」の有無を財政政策の基準にすべきだとも述べている。財政と国民経済とを切り離し、国民経済の状況を無視して財政のやりくりにのみ拘泥するような姿勢は、「今政府意ヲ民力上ニ注ガズシテ力ヲ政理上ニ専ラニシ百官又事ヲ作シ功ヲ為スニ急ナレバ勢ヒ実用ヲ捨テ空理ニ馳ルノ弊ナキ能ハズ」[青淵百話─九四四]として却下されるのである。  あるいは、渋沢は、次のようにも論じる。欧米諸国の財政運営は、「出ルヲ量リテ入ルヲ制ス」という発想に基づいている。必要な歳出を先に確定させた上で、それに見合うように歳入を決定するというのである。しかし、「蓋シ物各其量アリ国各其力アリテ政治ノ要ハ時勢ニ適スルヲ貴シトス」というプラグマティズムをモットーとする渋沢は、当時の我が国には、欧米とは異なり、巨額の出費を支えるのに十分な民力はないと判断した。そして、日本の場合は、欧米の財政運営に倣うのではなく、従来通り、「入ルヲ量リテ出ルヲ制スノ旧」、すなわち、現実的に可能な歳入を基礎として、それを超えないように経費を決定するべきだと論じている[青淵百話─九四七~八]。  もっとも、「出ルヲ量リテ入ルヲ制ス」であれ、「入ルヲ量リテ出ルヲ制ス」であれ、均衡財政を目指しているという点では同じである。政府の歳出(「出ル」)が国民所得を増加させるものである以上、それを抑制(「制ス」)するのは、税収(「入ル」)を増やすのと同様に、国民所得を減らすことになる。とは言え、渋沢が一貫して「民力」を基準として財政を考えていたということは、強調しておいてよい。民力を超えてでも軍拡を行うような軍事的積極主義はもちろん、財政健全化を優先して国民に増税を強いるような原理主義的な財政均衡論は、渋沢とは無縁である。  渋沢が「蓋シ物各其量アリ国各其力アリテ政治ノ要ハ時勢ニ適スルヲ貴シトス」と述べていることから察するに、彼の消極主義は、少なくとも一八七〇年代前半までの時点の日本の「民力」をプラグマティックに判断した上でのことだとも言える。ということは、時勢が変わり、民力が十分となったら、積極主義に転じ得る余地はある。  実際、渋沢は、日露戦後経営を論じた際には、「経済界の変調を避け其基礎を鞏固にし大に発展せしめんと欲せば、第一に財政問題に於て経済に助力を与ふる所なかるべからず」と論じたのは、第四章で指摘した通りである。また、晩年の渋沢は、「経費を節約することは勿論必要であるが、これと同時に国家として重要な意義を有する各種事業に対しては、大いに積極的でなければならぬと思ふ」と述べ、開墾や農業助成、工業振興、科学の発展のための積極主義を唱えている[論語講義─一八五]。この渋沢の財政論は、井上や松方の消極主義よりも、大隈や政友会の積極主義に近いようにすらみえる。  また、渋沢は、商品貨幣論を固く信じていたことから、正貨兌換制度に固執してはいたが、状況に応じて原則から逸脱する柔軟性も見せた。  例えば、明治五年の銀行条例に基づき、第一国立銀行など四銀行が設立され、兌換の銀行紙幣の発行が始まったが、すでに述べたように、銀行紙幣は次々と金貨と引き換えられてしまい、流通しなかった。そこで、渋沢は、銀行条例を改正して、兌換義務を停止し、銀行紙幣の引き換えは政府紙幣(不換紙幣)または銀貨でよいこととするよう、政府に働きかけている[論語講義─二六四~六]。  さらに、一八九三年、金本位制の導入の是非を審議する貨幣制度調査会が設置された際、渋沢は委員として参加し、金本位制の導入に反対する論陣を張った。渋沢は、金本位制そのものを否定したわけではなかったが、当時の情勢から判断して、金準備不足に陥ることを懸念し、これに反対したのである[渋沢栄一伝記資料第二三巻─六四九]。一八九七年には、渋沢は、金本位制導入の目的が外債募集の円滑化へとすり替わったことを指摘し、外債募集による放漫財政を懸念し、反対運動を展開した[島田二〇一一─一三三~四]。もっとも、すでに述べたように、後の渋沢は、金本位制を導入した松方正義の先見を称え、自らの不明を恥じたのだが。  以上の経緯から察するに、渋沢は、確かに、商品貨幣論の呪縛からは逃れられず、金本位制を理想あるいは最終目標と考えていた。特に、大蔵省時代はそうであった。  しかし、大蔵省を辞して実業家となった後の渋沢は、「国立銀行条例」の改正時や金本位制導入時に見せたように、産業経済の現実を優先するプラグマティックな姿勢をとり、「通貨学派」的な原則から逸脱することがあった。  財政についても、井上馨とともに均衡財政論に殉じて大蔵省を辞し、「財政改革ニ関スル奏議」を公表して政府批判まで展開した。しかし、その「奏議」の中ですら、民力を最も重視していたのであり、財政均衡を最優先とするような頑迷なドグマティズムにとらわれてはいなかった。また、後年、日露戦争後の戦後経営を論じた際には、積極財政によるインフラ整備を説き、農商工業の発展や科学の振興といった政策についても積極主義的な姿勢を見せた。  とはいうものの、後に、経済社会を犠牲にして近代通貨制度の確立を断行した松方正義を高く評価したことからも分かるように、渋沢は、商品貨幣論を疑うことはなかったのはもちろんのこと、大隈のような「銀行学派」的な立場にも至らなかった。  渋沢は、当時の「金の足枷」(金本位制という制度的あるいは観念的な呪縛)の限界の中にありながら、現実的・実用的な解を模索しようとプラグマティズムを発揮してはいた。しかし、そのプラグマティズムをもってしても「金の足枷」からは逃れられなかったのである。

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