2023年2月1日水曜日

从翰林到博士:陈焕章和他的《孔门理财学》--文史--中国作家网

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ケインズ書評1912



後にウォレスやケインズ自身によって国際的論点となる常平倉 System of the Constantly Normal Granary (Ever-Normal Granary)#30,e:541,c:349 について1912年の時点ではケインズはまだ言及していない。
原書ではJGPにも似た価格調整機能が主であり、通貨切り上げ切り下げという面は信用貨幣に近い。




(三)常平仓制度

李克和孟子主张的均平谷价理论被采纳而形成了常平仓制度。汉宣

帝时期连年丰收,谷价贱到一石五钱,农民大大吃亏。孔子纪元 498 年

(54B. C. )耿寿昌建议在京师附近买谷代替从关东运谷。按照汉代的旧

制度,政府每年从关东向位于西北陕西省的京师运谷四百万斛。由于运

输靠水路,用漕卒六万人。耿寿昌的计划被皇帝批准并付诸实施,政府

节省了一半多运输费用,农民得到更多利益。耿寿昌于是建议边郡都设

置粮仓。谷价低时按高于市场价的平价收购,以利农民;当谷价高时,

按低于市场价的平价售出,以利消费者。这样的谷仓叫“常平仓”。由

于结果有利于民,皇帝授予耿寿昌关内侯侯爵位。这一制度从常平仓建

立的孔子纪元 498 年到今天,一直延续了下来。虽然随着不同时代政治

环境的变化,它有时施行,有时停摆,但在名义上几乎自始至终都存在

着。虽然这一制度后来有所更改,但耿寿昌的基本原则一直保持了下

来。因此,我们不再讨论各个朝代的不同规定了。

四)得失评判

A. 积极效果

均平粮价是一个十分有益而且可行的方案,它利民而不损害国家。

当价格过低时,尽管政府购买比市价高,这对政府来说不意味着浪费。

当价格过高,尽管政府卖出比市价低,也不意味着政府损失。即使是政

府亏本,社会收益也大大高于公共财政的损失。相反,事实上政府能从

这一制度中获利。在古代,管子用类似制度使齐国富裕。在唐朝,该制

度所获之利满足了公共财政的需要。宋代,它对边境常备军的粮食供应


 三 スタンディングウエアハウス方式 

李桂や孟子が唱えた穀物価格均等論が採用され、長平倉式となった。 玄帝の時代、穀物の価格は1石5銭にもなり、農民は大変な苦しみを味わった。 孔子の時代(紀元前54年)498年、庚申塚は東から穀物を運ぶ代わりに、都の近くで穀物を購入することを提案した。 漢の時代の旧制度では、東から陝西省西北部の都まで年間400万ドラクマの穀物を輸送していた。 水上輸送であるため、6万人の兵士が必要であった。 庚申塚の計画は皇帝の承認を得て実行に移され、政府の輸送費は半分以上節約され、農民の利益も増大した。 そして、耿書昌は、国境にあるすべての県に穀物倉庫を設置することを提案した。 穀物価格が低いときは、農家のために市場価格より高い適正価格で買い取り、穀物価格が高いときは、消費者のために市場価格より低い適正価格で販売するのである。 このような納屋を「ノーマルバーン」と呼んでいた。 その結果が民衆に有益であったため、皇帝は庚戌昌に関内侯爵の称号を与えた。 この制度は、西暦498年の孔子から確立された今日まで続いている。 時代ごとの政治的な状況の変化に応じて、適用されたり廃止されたりすることもあったが、ほぼ当初から名目上は存在していたのである。 その後、制度は変わったが、耿昭昌の基本理念は守られている。 したがって、各王朝のルールの違いについては、ここでは触れないことにする。

IV.メリット・デメリットの判定 

A. ポジティブな効果 

穀物価格の均一化は、国家に害を与えずに国民に利益をもたらす、非常に有用で実現可能な解決策であった。価格が安すぎるときは、政府が市場価格よりも多く買ってくれたが、これは政府にとって無駄にはならない。価格が高すぎる場合、市場価格より低い価格で販売しても、政府にとって損失とはならない。 たとえ政府が損をしたとしても、社会的な利益の方が財政的な損失よりはるかに大きいのです。 それどころか、政府はこのシステムから利益を得ることができるのです。 古代、関学は同様のシステムで気の状態を充実させた。 唐の時代には、その恩恵で国庫の必要性が満たされていた。 宋の時代には、国境の常備軍に食料を供給していた。


① 各个时代在常平仓制度下对谷物市场价的增减有所不同。在唐玄宗时(约 1293 ~

1305A. K. 或 742 ~754A. D. )每斗加价三钱。孔子纪元 1363 年(812A. D. )唐宪宗命令每斗

加价十钱。宋真宗时(1557A. K. 或 1006A. D. )这些价格就固定下来了,凡收籴比市价量增三

五文,出巢减价三五文,所减不得过本钱。约孔子纪元 1712 ~ 1740 年(1161 ~1189A. D. ),金

朝法律规定,收伞增市价十分之二,出果减市价十分之一。孔子纪元 1741 年,出巢价格减至

市价三分之一。孔子纪元 2308 年(1757A. D. )本朝高宗命令,出粜每石减市价钱三分。从上

述事实,我们能得到一些关于价格涨落范围的概念。


 ①昌平黌体制下での穀物相場の増減は、時代によって異なる。 唐の玄宗皇帝(1293-1305A.K.頃、742-754A.D.)の時代には、1バケットあたり3枚のコインに値上げされた。 1363年(西暦812年)、唐の玄宗皇帝はバケツ1杯あたりの価格を10銭引き上げるよう命じた。 宋の乾隆帝(1557A.K.または1006A.D.)の時代には、この価格は固定され、受け取る穀物の量が市場価格より3〜5文増えるたびに、巣の価格は3〜5文下げられるが、値下げは元値を超えてはいけないとされた。 孔子(西暦1161年〜1189年)の時代、1712〜1740年頃、晋の法律で傘の相場は10分の2に、果物の相場は10分の1にすることが定められ、その結果、傘の相場は10分の1に、果物の相場は10分の1になりました。 孔子の治世である1741年、巣の値段は市価の3分の1にまで下げられた。 西暦1757年、孔子の治世である2308年に、高宗は市場価格を1石3銭に下げることを命じた。 これらの事実から、価格の上昇と下降の幅をある程度把握することができます。


(二)常手を中l皮李克和孟子主張的均平谷介理稔被釆熱而形成了常平合制度。汲宣帝吋期連年キ1父,谷伶賎到一石五銭,衣民大大吃号。孔子妃元498年(54Bo C。)歌寿昌建洪在京りT附近要谷代替及美末返谷。按照浜代的旧制度,政府毎年炊美末向位千西北侠西省的京lln~送谷四百万斜.由干這輸集水路,用漕卒六万人.歌寿昌的汁支J被皇帝批准井付渚実施,政府市省了一半多逐輸費用,水民得到更多禾1益。歌寿昌千是建洪逸郡都没置糠合。谷恰低吋接高子市場伶的平伶収賄,以利衣民;当谷伶高吋,接低子市場伶的平伶告出,以利消費者。逮祥的谷全Ell“常平合"。由干第果有利千民,皇帝授予歌寿昌美内侯侯爵位。逮一制度炊常平合建立的孔子妃元498年到今天,一宣延箋了下来。員然随着不同吋代政治不境的変化,t有吋施行,有吋停撲,但在名叉上几乎自始至終都存在着。員然逮一制度后来有所更改,但歌寿昌的基本原只J一宣保持了下来。因此,我個不再村稔各今朝代的不同規定了。①
各仝時代在常平全キ1皮下対谷物市場合的増城有所不同。在唐玄宗吋(豹1293~1305A.K.或742~754A.D,)毎斗カロ介三伐c孔子妃元1363年(812A.D.)唐完宗命令毎斗カロ介十夕、末真宗叶(1557A.I.或1006A.D。)速些合格就固定下来了,凡1丈粂しヒ市介量増ニ五文,出果戒介二五文,所戒不得辻本伐。釣孔子妃元1712~1740年(H61~1189A.D.),金朝法律規定,1文粂増市介十分之二,出某戒市介十分え一し子して■≧馨機争林‡1象『殺二市含三分え一。孔子多こ元2308キ(1757A.D。)本朝高宗命今,一■■一孔一月一理一財一挙:第:,4ヽ||離摯裕轟嵌冊響構増憐348述事実,我佃能得Fl一些夫子合格漱落疱目的概念。

“生产要素”5 (17,18,19)、“分配”7(24,25)、“公共财政”9(32〜35) 上は編名。ケインズ書評で言及された章は、6,8,10,15,18,23,26
なかでも 18人口、23商業(貨幣)が重要。
(#19,c221,e358の礼記は重要。江戸期日本の建部も引用)

ちなみに陳煥章(CHEN, HUAN-CHANG,1881~1933)は康有為の弟子で大同思想を受け継いでいる。

ジョン・メイナード・ケインズ
陳煥章『孔門理財学』書評
エコノミックジャーナル1912年12月

J.M.KEYNES
From The Economic Journal, December 1912
CHEN, HUAN-CHANG. The Economic Principles of Confucius and his School. 2 vols.
 Columbia Uniersity Studies. (New York,
Longmans), 1911.https://doi.org/10.2307/2222270

 孔子はかつてこう言った。「[衛の人口は]多いね」。冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょう?」と聞くと、「富ませよう」と言った。「富ましたら、さらに何をしたものでしょう?」と聞くと、孔子は「教育しよう」と言った。 [論語13:9]

 彼の賃金の理論は次のように表現されている。
「日々その仕事ぶりを観察し月々に仕事の出来を試験して 、月給が仕事と釣り合うようにするのが 、技術者を励ます方法である 。」[中庸]
彼は、土地を私有化することを認めず、利子を取ることを悪いとは考えなかった。
資本は母であり、利子はその子であるからだ*。

 *中国語で「利子」は「子」を意味し、利子が正当なものであることは、中国では決して疑われていない。

 関税に関して彼は極端な自由貿易主義者だった。 これが孔子の経済原理の特徴だ。 それは陳煥章博士の最も興味深い本の本質というよりもテキスト内容を提供する。
その内容は、中国の経済史への貢献の一部と、最も広い経済的意味で考えられるすべてのトピックに関する多くの世代の詩と格言の一部で構成されている。
その章は「生産要素」、「分配」、「公共財」などと題されているが、著者はこの人為的な枠組みに、魅力的で有益な多くのものを組み込んでいる。

 男女の隔離が中国における当初の教義ではなかったことを証明するために、著者は『詩経』から次のような(孔子が淫らな習慣の悪い例として挙げた)詩を引用をしている。

《溱水と洧水は、春を迎えて水かさを増し盛んに流れています、
男と女が集まってきて、水草を取っています、
女がいいます「あのすばらしい景色を見ましたか」、
男が答えて言います、「ああ、行ってきたとも」
女は重ねていいます、「一緒に洧水のほとりに行ってみましょう、
そこは広々としてすばらしいですよ」、
男と女は、このように戯れあい、
互いに芍薬の花を贈りあうのです。》
[『詩経』鄭風篇から「溱洧」]

 「経済組織」の章では、結婚から3ヶ月に満たない妻に裁縫をさせる役人に向けられた、『詩経』からの別の詩を読むことができる......。

葛の履でも 
霜が履める
細い少女の手でも 
裳が縫える
腰をつくろい 
襟をつくろって働く
尊貴の人が 
それを着ている。
行儀のよい尊貴の人が
しとやかに左に身をさける
象牙の揥(かんざし)をして
りっぱだけれども
吝嗇で困る 
この詩を作って刺(そし)るわけ。
[『詩経』魏風より]

 孔子は老人の処遇について、50歳で子供がいない女性には、政府から衣食を与え、詩の収集のための委員に任命することを定めている。これは、孔子が女性を政府の役職につける資格があると考えていたことを示していると煥章博士は述べている。 「勅令によれば、五十歳の者は穀物を細かくして若い者のものとは異なるようにし、六十歳の者は肉を蓄えていつでも注文できるようにし、七十歳の者は香ばしい肉を二度食べさせ、八十歳の者は常に珍味を提供し、九十歳の者は飲食物を部屋から出すことはせず、別の場所に行くときは香ばしい肉と飲み物を一緒にすることが求められている」...。 
[「養老」『礼記王制』よりChenによる要約]

 紀元前2600年から紀元前350年まで、何らかの形で存在していたとされる土地所有制度「井田制」についての説明は非常に充実しており、興味深いもので、村落共同体の土地所有権を研究するすべての学生の注意を引く価値がある。中国では紀元前2900年から貨幣が使われていたと言われ、現在の三貨制度は最も遠い時代から続いている(金の使用は減少している)、以前も現在も銅貨が制度の基本である。 紙幣を使うことで、彼らは長い間、他の民族を先取りしていた。紀元83年に亡くなった鄭衆は、里布について《印章を押し、文字を書いた幅2インチ、長さ2フィートの布であり、物の交換のための貨幣として使用された》[『周礼注疏』]と述べている。西暦9世紀、紙幣と為替手形との間にあるその起源は、引用に値する。

《そのため、商人は都に来ると、都の各州を代表する事務所にお金を預けて、そこから債券を受け取った。こうして、どこに行っても、その債券で簡単にお金を引き出せるようになった。
これを「飛銭」と呼んだ。しかし、このようなやり方は、中央政府によって禁止された。官庁がお金を流通させないようにして、物価を下げると考えられたからである。しかし、その結果は前よりも不便になった。そこで、西暦812年、政府は都に事務所を設け、貨幣を飛ばす業務、つまり政府が預金者に債券を発行し、預金者がその債券を貨幣と交換する業務を行うようになった。つまり、政府が預金者に債券を発行し、預金者が各州の大都市で債券と貨幣を交換したのである。西暦970年、飛脚制度を運用するための真の政府銀行が設立され、「便銭務」と呼ばれた。》[#23,e:433,c:263]

 中国の「貨幣協会」「協同組合銀行」の制度は、紀元220年頃の仙人、龐公によって考案されたと伝えられている。
 グレシャムの法則と数量説は、中国の学者によって長い間理解されてきた。紀元前175年、賈誼(かぎ)はこう言っている。
《政府は貨幣の価値を制御するために銅を蓄積している。銅の価値が低ければ、何らかの政策で量を減らし、高ければ、何らかの政策で貨幣を分配する。従って、物価は平準化されなければならない。》[『漢書・食貨志下』所収]

 西暦1378年、葉子奇は次のように言っている。
《茶や塩の証明書のようなもので、証明書を出せばすぐに茶や塩を手に入れることができる......。証文が来れば、現金が出て行き、証文が出れば、現金が入る。現金を母とし、証書を子とする。母子は互いに補い合い、すべての商品の価格を支配する。価格が低いときには紙を発行し、価格が高いときにはそれを引き出すべきである。》
[『草木子』]


 西暦1223年、袁燮(えんしょう)は銅銭の不足は粗悪な鉄銭を発行しても解消されないと説明した[『歴代名臣奏議』巻273]。今、鉄の貨幣を加えれば、銅の貨幣はさらに少なくなるはずではないか。以前は紙幣が多すぎたため、物価が高かった。今、鉄の貨幣を市場に加えれば、物価はさらに安くなるのではないか?と言っている。
 例えば、孔子の優生学の原理、労働力の流動化の規定、著者の立派な中国租税史など、引用したいものがたくさんある。
 
 人口統計は古くから存在し、孔子は人口表を持つ者に馬車の横木を前にして頭を下げたという。[論語#10郷黨第十]

 しかし、このことを考慮し、土地保有制度から推定される条件を考慮すると、中国の現在の巨大な人口が極めて近代的な成長であり、人口密度の高さがイギリスと同様に中国でも最近のことであることはかなり明白であると思われる。キリスト教時代の最初の17世紀(あるいは儒教時代の5世紀から22世紀まで)の間、人口は5000万人近辺で変動していたようである。最近の比較的正確な統計によると、1749年の人口は1億7700万人、1783年は2億8400万人、1842年は4億1300万人であった。また、1850年から1856年にかけての太平の乱では、1000万から2000万人の人命が失われたと言われている(煥章博士は、この原因による損失を1500万としているが、これは誤植か修辞による誇張であろう)。1868年から1885年にかけて、公式の人口推定値は378,000,000から405,000,000まで変動している。1910年(『中国年鑑』によれば)には、2つの独立した推計がある(チベットと満州を除く)-税関の推計では4億2100万人、内務省の世帯数に基づく国勢調査の報告では3億1600万人である。しかし、1700年以前には、中国本土の人口が4,500万人を超えることはなかったということは、事実であろう。したがって、おそらく人が考えがちなように、中国の人口が生計手段を圧迫するのは何世紀も前のことだと考えるのは正しくない。
 その立場は比較的新しく、西欧諸国のように、この膨大な人口増加を正当化するような経済的、自然的条件の明らかな変化はないのである。中国の黄金時代、哲学者や詩人の時代、政治や生活の芸術における発見の時代は、人口があふれかえり、過密状態にあった時代ではない。道徳主義者は、人口の減少期を国家の衰退期と見なすのが好きであるが、中国でも他の国と同様、宗教の力が強力に子孫を多く残す側に働いてきたのである。しかし、黄金時代を享受する者がこれほどまでに多いとすると、黄金時代[#21,e:397,c:243]が回復するとは考えにくい。
 しかし、煥章は、中国の弱さの主因を他のところに求めている。それは、公務員試験(科挙)に「八股文」が課されたことにある[#36結語c:432]。八股文は実用的でなく、その習得には長い修練が必要だった。1370年に制定され、1902年に廃止された。

                      J.M.ケインズ

On the  Chinese  Translations of  The Economic Principles  of  Confucius  and  His  School  from the Perspective  of  Paratext Wenjing  Wang, Jinyu  Liu* 
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孔门理财学:孔子及其学派的经济思想

孔门理财学:孔子及其学派的经济思想

书名:孔门理财学:孔子及其学派的经济思想

作者:陈焕章

格式:EPUB/MOBI/AZW3/PDF

标签:理财 孔子

日期:2019-11-05

ISBN:9787511700063

内容简介

《孔门理财学》是中国学者在西方刊行的第一部中国经济思想名著,也是迄今为止影响最大的一部;这部著作出版的第二年(1912),梅纳德·凯恩斯就在《经济学杂志》上为之撰写书评;马克斯·韦伯在《儒教与道教》中已把《孔门理财学》列为重要参考文献;熊彼特在其名著《经济分析史》中特意指出了《孔门理财学》的重要性。

作者简介

陈焕章(1881~1933年),字重远,广东高要人,乃晚清进士出身的留美博士,一生阅历非凡,学贯东西。

他虽留学美国,但思想保守;虽崇儒复古,但反对帝制;虽身为西方经济学博士,但压根儿不相信"看不见的手"。鲁迅曾尖锐地挖苦过他,同样尊孔保守的辜鸿铭曾呼他为"陈混账"。不过,西方人颇买他的账,凯恩斯为其大作写过书评,熊彼特对其大作评价甚高,一段时间内,哥伦比亚大学对中国留学生的博士论文答辩还常以其大作中的观点进行提问。

他18岁入"南海万木草堂"受业于康有为,23岁中举人,24岁中进士,朝考点内阁中书,入进士馆。同是此人,1907年考入美国哥伦比亚大学经济系,师从EdwinSeliqman等制度经济学大师,以及FriedrichHinh等著名社会学家。1910年,他用英文完成几十万言博士论文(《孔门理财学》),次年获得哥伦比亚大学经济学博士学位。回国后,他与沈曾植、朱祖谋、梁鼎芬等创办孔教害,并被聘为袁世凯总统府顾问。1923年,与张琴于北京创办孔教大学,自任校长。1930年,于香港创立孔教学院,自任院长,1933年去世。

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从翰林到博士:陈焕章和他的《孔门理财学》--文史--中国作家网

从翰林到博士:陈焕章和他的《孔门理财学》--文史--中国作家网

陈焕章

《孔门理财学》,陈焕章著,商务印书馆2015年7月出版,58.00元

作为中国古代的主流意识,儒家思想体系曾深刻地影响着世界。但19世纪末以来,以儒家文化为主的中国传统文化渐渐式微,就在中国知识人和整个精英群体表现出偏离儒家的倾向时,陈焕章作为一名中国留美学生,在大洋彼岸用英文撰写了60万字的著作《孔门理财学》(TheEconomicPrinci⁃plesofConfuciusandHisSchool,现收入商务印书馆"中华现代学术名著丛书"),向西方系统介绍了儒家经济思想及中国历史上的经济实践活动。在中国文化亟需走出国门、影响世界、树立文化自信的今天,陈焕章与他的《孔门理财学》有着历史与现实的借鉴意义。

从进士到博士:中西最高学位的获得者

陈焕章(1880-1933),字重远,广东省肇庆鼎湖区(原高要县)砚洲乡人。11岁参加高要县童生县试,稍后参加府试,相继考中。12岁,参加广东学政主持的院试,被录取,入高要县学,成为秀才。1903年,陈焕章中举人,1904年,陈焕章参加最后一次会试、殿试,中进士,朝考点内阁中书,入进士馆。

1905年,陈焕章奉派成为留美学员,在库克学院学习英语后,1907年考入哥伦比亚大学;1911年,获哥伦比亚大学博士学位,陈焕章先后获得中西双重"最高学位",从清代进士到美国博士,一人在中西两种教育体系中都取得了最高学位,历史上再无第二人。1912年陈焕章回国,同年,在其师康有为的授意下,在上海创办以"倡明孔教、救济社会"为宗旨的孔教会,陈焕章担任主任干事,总揽会务。1913年,陈焕章、夏曾佑、梁启超等代表孔教会上书参众两院,请于宪法中明文规定孔教为国教,发起国教运动。陈焕章曾先后办《孔教会杂志》《经世报》,宣扬孔教。1923年,与香港孔圣会人士联名发起建立孔教大学及孔教总会堂,1930年在香港设"孔教学院",任院长,1933年在香港病逝。

陈焕章生当中国社会新旧转型时代,其旧学与新学的造诣均极为深厚,他在中国传统科举制度下金榜题名考取进士,又接受了当时最好的西方教育获得博士学位,陈氏学贯中西的学养背景,是他完成《孔门理财学》的重要前提,也是这本鸿篇巨著能在西方产生影响、成为中国古代思想"走出去"的必备条件。

戊戌变法前,陈焕章拜师康有为,在万木草堂受业。作为康有为的学生,陈焕章深受其师孔教思想的影响,"倡明孔教"成为他一贯追求的理想;作为民初思想家,陈焕章推崇其师的孔教思想,在陈氏的著述中,如登载于《孔教会杂志》《经世报》上的论说、讲演、书信公函等大量文献,以及陈焕章主要的著作《孔门理财学》《孔教论》等,无不体现了其师的孔教思想。

康有为曾写道:"孔子为创教之圣,立人伦,创井田,发三统,明文质,道尧舜,演阴阳,精微深博,无所不包"。(《答朱蓉生书》)康有为不仅确定了孔子教主地位,还提出"开教会、定教律",以孔子所作六经为"圣经",以儒家的"忠爱仁恕"为信条,以尊孔之典为宗教仪式。陈焕章的博士论文《孔门理财学》开篇详述孔子为创教之教主,"孔子创建的新宗教——孔教,不仅属于野蛮未开化的原始初民,也属于文明教化的民众",(《孔门理财学》,韩华译,中华书局2010年版第4页,下同)最后陈氏得出结论,孔教是世界上最优秀的宗教,"基督教所有的优秀之处在孔教中都能找到",孔教还能提供比基督教更多的优点,"从哲学的观点出发,基督教不如孔教,也不如佛教与道教那么深邃与丰富,从实用的立场出发,基督教不如孔教那么具有人性或那么切合人类需要。"孔子的整个学派能够使中国现代化,孔子的"大同世"将来临。(《孔门理财学》第468-470页)

1911年,《孔门理财学》第一次出版时,哥伦比亚大学华文教授弗雷德里克·夏德(FriedrichHirth)作序,序中说:"陈焕章乃康有为的学生与私人朋友,康有为是现代中国改革运动的发动者之一,其本人也是渊博的中国文献专家。……康有为在中国民众中享有的精神声誉在很大程度上应归于这样的事实——在坚信社会政治迫切需要改革的同时,仍坚守孔子的原则。陈焕章博士当之无愧是这位大师的追随者,而陈焕章爱护大圣(孔子)及其教旨之热心,未有能过者。"陈焕章也在自序里说,"我深切地感谢我的老师康有为,从他那里,我获得了孔教的概观。"陈焕章建构起民初发起孔教会及组织国教运动的孔教思想体系,直接受益于康有为的教诲,而陈焕章不仅以造诣极深的中国传统学问与西方科学方法紧密结合,还将中国古代思想置于现代学术体系内,成功地得到激活,这与陈焕章受教于中国近代重要的政治家、思想家与教育家,学贯中西、放眼世界的康有为有着密切的联系。

1907年,陈焕章考入哥伦比亚大学,学习政治经济学。对陈焕章在哥大完成学业的具体情况,就笔者视野所及,目前没有更多更直接的文献记载。根据1911年版《孔门理财学》自序,陈焕章说:感谢哥伦比亚大学的教授,"他们是约翰·贝茨·克拉克教授(ProfessorsJohnBatesClark)、塞利格曼教授(Ed⁃winR.A.Seligman)、弗雷德里克·夏德教授(FriedrichHirth),以及凯特琳教授(WarrenB.Catlin)。从他们那里,我获得了若干思想与多方面切实的帮助。……感谢亨利·施格教授(HenryRogersSeager),他提出了大量的建议,并为本书纠正了错误。"作为哥伦比亚大学的学子,陈焕章系统学习西方经济学,并运用西方经济学框架阐释儒家经济思想,这样的西学功底无疑也得益于各位大师的引领与教导。

哥伦比亚大学是世界知名学府,陈焕章在序言中提到的这几位教授,他们都是杰出的经济学家、汉学家,在各自的学科领域有着卓越贡献。简单介绍如下:

约翰·贝茨·克拉克(1847-1938),美国新古典学派经济学家,美国经济学会创始人,边际革命倡导者,对后世的凡勃伦、哈耶克、费特、奈特、莫尔等经济学家有广泛的影响。为纪念他对经济学的贡献,美国经济学会设置了约翰·贝茨·克拉克奖,奖励青年经济学家。主要著作有《财富的哲学》《财富的分配》《经济学纲要》。

夏德,德裔汉学家,曾到中国考察多年。1902年,夏德被聘为哥伦比亚大学第一位"丁龙讲座教授",这是北美大陆第一个以特别基金设立的汉学讲座。夏德曾翻译宋代赵汝括的《诸蕃志》,成为美国汉学的发轫之作。夏德的代表作有《中国上古史》《中国与东罗马交通史》等。

塞利格曼(1861-1939),哥伦比亚大学财政学泰斗,美国经济学会的创建者和主席,也是《社会科学百科全书》的主编,曾指导过马寅初、赵乃抟多位研究经济学的中国留学生博士论文。

亨利·施格,美国经济学家,哥伦比亚大学政治经济学教授,主要著作有《经济学原理》等。

上述教授中,夏德与施格为《孔门理财学》初版作序,盛赞陈焕章独特的研究;塞利格曼在主持中国留学生博士论文答辩时常以《孔门理财学》书中的观点提问,可见陈焕章的博士论文赢得了各位教授的重视与称赞。

作为康有为、克拉克、夏德、塞利格曼、施格等中西大师的学生,陈焕章集中西学问于一身,不仅熟知英文经济学文献,精通中国经典文献,也掌握了西方经济学研究方法,以及分析、整合中国传统经典中的经济思想文献,还能以英文专业地进行论述,正因为如此,《孔门理财学》承载着深厚的东西文明学养,在中西大师思想的交汇点上,它不仅贯穿、发展了康有为的孔教思想,也采用西方经济学家克拉克论交易与生产的关系、塞利格曼的《租税各论》等经济学观点,诠释儒家经济学思想,对中国古代经济思想与实践进行具体的论证。

《孔门理财学》:中国经济学走向世界的始步

1911年,《孔门理财学》作为"哥伦比亚大学历史、经济和公共法律研究"丛书之一,以45卷、46卷112号、113号同时在纽约和伦敦初版,此后近100年时间里,又相继在1930年、1973年、1974年、2002年与2003年在Krishna Press GordonPress、ThoemmesPress、Lighten⁃ingSourceInc.、UniversityPressofthePacific等英美多家出版社重印,这是中国人"在西方刊行的各种经济学科论著中的最早的一部名著"(胡寄窗语),也可能是在近代以来中国经济学家的所有经济学学术著作中出英文版最多的,在中西交通中占据着独特的位置,不仅在英语世界获得诸多肯定,西方学者获得了以中国为基础的经济理论的强有力的陈述,看到了在中国古代经济思想中存在着现代经济分析的先行因素。(著名经济学家摩根·维尔兹语)而且,《孔门理财学》的作用还在于"不仅对其母国有所贡献,即对所在国亦会产生一定的影响。"(钱存训:《美国在亚洲研究的启蒙》)

陈焕章在自序中说:"本书讨论了孔子本人及历代孔门主要弟子的理财之道,出于比较之目的,也对管子、老子、墨子、商鞅及许行等其他诸子的理财论进行了介绍。"因此,陈焕章虽然尊孔,但《孔门理财学》的取材却并不狭隘,全书梳理了大量的古典文献,在其附录里,罗列了引用文献55种,首先是《诗经》《尚书》《礼记》《周易》《春秋》五经;其次是孔子、儒家及诸子,同时大量引述中国理财制度。此外,也有康有为的《新学伪经考》《孔子改制考》,还有理雅各等翻译的四书五经,以及德裔东方学家马克斯·缪勒主编的《东方圣书》等。

《孔门理财学》旨在倡明孔教,发挥中国文明,但在论文结构上,陈焕章采用了西方经济学写作框架,将儒家丰富、深刻的经济学思考,以及经世济民的经济思想进行系统梳理,并以专门的学科形态表现出来,通过陈焕章的努力,《孔门理财学》成为儒学与经济有机结合的典案,也成为"中国经济学走向世界的百年始步"。(叶坦:《〈孔门理财学〉——中国经济学走向世界的百年始步》,《中国社会科学院报》2010年8月26日)

陈焕章曾说:"在本质上,本书是关于中国古代思想与制度的研究,它是独立于西方而发展的中国思想与制度的全面考察,我虽然在材料安排上遵循西方著者的写作惯例,对古老经文的理解也极大地受益于西方思想家,但我一直非常仔细,避免从现代西方经济学家的视角去曲解中国古代思想。"显然,陈焕章已经意识到以西方著者的写作惯例,展开对中国古代思想与制度的研究,二者之间可能出现的冲突。

《孔门理财学》之所以在中西交通中占据独特且重要的位置,并影响西方学界,这与陈焕章以西方经济学的研究方法、叙述方法对儒家经济思想进行全面诠释分不开,陈焕章不仅使中西思想进行了高质量的思想碰撞、交流,也贯通了中西学术,创造性地使传统经济思想向现代学科体系转换。

《孔门理财学》对西方的影响

《孔门理财学》向世界全面展示了中国古代思想的巨大魅力;展示了作为世界文明古国的中国几千年来形成的儒家经济思想;还展示了中国历史上成功的经济实践活动。正因为如此,《孔门理财学》受到西人重视,哥伦比亚大学出资出版了这部60万字的博士论文,这在当时并不多见。《孔门理财学》面世以来,西方学者从中读到了有关中国古代经济思想的精彩内容,他们从不同角度对这本书进行了评价。

《孔门理财学》出版之初,即获得哥伦比亚大学教授夏德、施格的高度评价;1912年,经济学家凯恩斯(JohnMaynardKeynes)曾在《经济学杂志》上撰写评论,认为《孔门》"基本内容一部分属于中国经济史,一部分是世代相传的诗篇和格言,其所涉话题只与最广义理解的'经济'有关。其章节标题虽为'生产要素'、'分配'、'公共财政'等,但装入这一牵强框架的是大量讨人喜欢的教诲性内容。"

除上述中西结合外,陈焕章还努力在经济学概念、经济学学理等方面寻找贯通中西学术的交汇点,在此基础上,陈焕章又系统梳理中国历史上大量成功的经济实践活动、中国人的理财经验、圣人先贤的经济思想等,使得《孔门理财学》在浩如烟海的西方政治经济学文献中占据了一个独特的位置,威斯康星大学著名的社会学家、政治经济学博士罗斯(EdwardAlsworthRoss)在《美国经济评论》上发表书评,认为陈焕章打通了中西经济传统,为西方的政治经济学接上了孔子以来的中国伦理学和社会学资源,使中西经济学得以相互补充。

而最能说明陈焕章在《孔门理财学》书中总结的中国古代经济思想影响西方的例子,当属1933年担任美国农业部长的华莱士采用中国的常平仓制度。著名学者钱存训在《美国对亚洲研究的启蒙》一文中说:"我们这一代人所亲身经历,完全经由学术途径传播的最有利而重要的实例,就是美国采用了中国古代的所谓的'平粜'制度,那就是丰收的年头由政府向农民收购米谷储藏,到歉收时期便以平价抛售给平民。这项中国古代的经济理论,最早是由哥伦比亚大学的陈焕章在其1911年的博士论文中加以讨论。1918年,华莱士(HenryWallace)先生主编一份周报,这篇研究论文正巧落在他手里,自此他对这一项中国古代制度极为赞赏。当华莱士1933年出任农业部长时,这个中国的理想终于为美国所采纳。"

《孔门理财学》对华莱士制定农业政策的影响,说明《孔门理财学》成功地向西方传播了中国古代的常平仓制度,也是《孔门理财学》使古代经济思想"走出去"的一个成功范例,它留给我们深远的历史与现实借鉴意义:

第一,陈焕章在当时的历史背景下,坚信儒家经济思想对中国、对世界都是宝贵的财富,孔子等中国先贤都是人类文明的奠基者,中国悠久的传统与西方思想家一样具有世界性普遍意义,这种坚定的文化自信,蕴含在《孔门理财学》的精彩叙述中。

第二,陈焕章与他的《孔门理财学》证明了中国传统思想没有落后时代,不仅如此,我们祖先的思想是超前于时代的,著名经济学家摩根·维尔兹(MorgenWitzel)在关于《孔门理财学》的导读中指出,从此书"我们不仅能获得以中国为基础的经济理论的强有力的陈述,而且指出中国经济在未来可能如何进步的富有吸引力的暗示。"熊彼得(Joseph AloisSchumpeter)在《经济分析史》中强调《孔门理财学》重要性的同时,也指出在中国古代经济思想中存在着现代经济分析的先行因素。

第三,陈焕章与他的《孔门理财学》证明了中国古代经济思想在西方并不存在局限性。经济学思想是经济学的根本,不论经济学方法有什么变化,都没有在根本上改变经济学的思想。在这样的背景下,开展将古代经济思想的概念、论证、知识体系与现代学术相容的学术转译工作,这是思想"走出去"的又一重要方面。

最后,还有一点值得提出,《孔门理财学》书中对中西大师们的思想都有阐述,比如:孔子、孟子、荀子、墨子、亚当·斯密、孟德斯鸠、纳索·威廉·西尼尔、马尔萨斯等,陈焕章进行的是平等的中西思想交流,还有,评论《孔门理财学》的西方大师们:夏德、施格、塞利格曼、熊彼特、凯恩斯、摩根·维尔兹、马克斯·韦伯等,他们也是基于平等的比较与学习的态度,进行中西思想交流,这也是我们今天实现中国思想"走出去"应该学习的态度。


陈焕章

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清末民初思想家

陈焕章(1880年-1933年),字重远,广东高要人(今广东省肇庆市鼎湖区砚洲岛),清末民初思想家,社会活动家,孔教徒。
15岁入广州万木草堂,师从康有为。光绪二十九年(1903年)乡试中举。光绪三十年(1904年),联捷甲辰恩科进士。

1905年赴美留学。

1911年获哥伦比亚大学哲学博士学位。

1912年(民国元年)归国,模仿基督教建制在上海创“孔教会”,任总干事。康有为任会长。

1913年被聘为袁世凯总统府顾问,入京,与严复、梁启超等联名致书参众两院,请定孔教为国教。

1915年反对袁世凯称帝,离京返乡。

1930年在香港设“孔教学院”,自任院长。主要著作有:《孔门理财学》、《孔教论》等。

中文名
陈焕章
别    名
字重远
国    籍
中国
出生日期
1880年
逝世日期
1933年
毕业院校
万木草堂
职    业
孔教学院院长
主要成就
1930年在香港开办孔教学院,自任院长
信    仰
儒学孔教
代表作品
《孔门理财学》、《孔教论》
所处时代
清末民初
师    从
康有为
重远
人物身份
思想家,社会活动家,孔教徒

陈焕章(1888~1933年),字重远。今肇庆市鼎湖区广利街道砚洲人。光绪十八年(1892年)应试为邑庠生(秀才),在广州长兴里康有为的“万木草堂”读书时,与梁启超为同学,梁力主维新,推行君主立宪,陈主张尊孔,推行立会昌教。二人同为康有为得意门生。

光绪二十四年(1898年),任澳门《知新报》主笔,撰文提倡孔学,主张变法维新。光绪二十八年(1902年)在广州时敏学堂任教。翌年,任学堂监督。

同时在家乡砚洲创办颖川两等学堂,为肇庆有府属学堂之始。

光绪二十九年(1903年)中举人,翌年中进士,朝考点内阁中书,入进士馆。后申请出洋留学。光绪三十一年(1905年)奉派为留美学员,先入库克学院学习英语,1907年考入纽约哥伦比亚大学学习政治经济,1911年获哥伦比亚大学哲学博士学位,是肇庆府第一位博士。

1912年返上海,在沪海宁路创“孔教会”任总干事。1913年出版《孔教会杂志》,任总编辑。是年夏入京,与严复、梁启超等联名致书国会,请定孔教为国教,允许信教自由。是年,被聘为袁世凯总统府顾问,并创孔教会于山东曲阜。

1914年,袁世凯称帝之风甚盛,陈返砚洲避之。是年高要县大洪水,砚洲尽成泽国,焕章倡议筑砚洲基围,并亲赴香港筹款,基围终于筑成。1918年,被中央学术团体推举为参议员,提议孔子诞辰应张灯结彩,放假庆祝,获两院通过。是年为“迦匿奇世界和平基金会”撰写《孔教经世法》共24卷,主张裁军铒兵,组织世界大国政府,受世界舆论重视,此稿藏美国华盛顿国会图书馆。

1919年,在北京发起建“孔教总会”会堂。1923年在京创立“孔教大学”,任校长。

1926年,目睹国内难以弘扬孔学,乃赴东南亚各国传扬孔教,1927年应纽约世界和平联合会邀请,赴瑞士日内瓦参加世界宗教和平大会,被大会推举为副会长。

1929年,从欧非讲学返香港,设“孔教学堂”,自任院长,每周亲作专题讲学。1931年,应聘为宣统“高要县志”主编,不久因故而停顿编纂工作。

1933年10月,在香港病逝。

孔门财政学
原书用英文写成,名为《Economic Principles of Confucius and his schools》,Columbia Univ.Press.该书在西方社会引起强烈反响。《孔门理财学》是第一部总结我国古代经济思想的著作。《孔门理财学》系跨历史、法律、经济等多门学科的研究著作,分五个部分,按照西方经济学原理,分别讨论了孔子及其儒家学派的一般经济学说及其在消费、生产、公共财产方面的思想。1911年《孔门理财学》被作为“哥伦比亚大学历史、经济和公共法律研究”丛书之一出版,哥伦比亚大学教授夏德、施格为之作序,高度评价了《孔门理财学》采用西方经济学框架对孔子及其学派的经济思想所作的精湛研究。之后,凯恩斯在《经济学杂志》为《孔门理财学》撰写书评,熊彼特在《经济分析史》中强调《孔门理财学》的重要性,马克斯·韦伯在《儒教与道教》中将《孔门理财学》列为重要参考文献。《孔门理财学》1930年、1973年、1974年、2002年、2003年由多家英美出版社重印。

梅纳德·凯恩斯《孔门理财学》书评

有一次,孔子感叹道:“庶矣哉!”冉有曰:“既庶矣,又何加焉?”曰:“富之。”曰:“既富矣,又何加焉?”曰:“教之。”在另一场合,孔子说“日省月试,既廪称事,所以劝百工也”,这实际上阐明了他的工资理论。还有,孔子不允许土地成为私人所有的对象。孔子认为取息没有错;因为资本是母亲,息是她的孩子。[1]在关税事务方面,孔子是一位极端的贸易自由论者。

这就是《孔门理财学》这本书的特色。不过,上述这些并不是陈焕章这一非常有趣之作的基本内容,而更多地是作为一些由头。其基本内容一部分属于中国经济史;一部分是世代相传的诗篇和格言,其所涉话题只与最广义理解的“经济”有关。其章节标题虽为“生产要素”、“分配”、“公共财政”等等,但装入这一牵强框架的是大量讨人喜欢的教诲性内容。为了证明在中国男女之防不是一开始就有的,他竟引用了《诗经》中的这样一节(孔子是将之作为淫猥风俗的坏例子的):

溱与洧,

方涣涣兮。

士与女,

方秉蕑兮。

女曰“观乎?”

士曰“既且。”

“且往观乎!”

洧之外,

洵訏且乐。

维士与女,

伊其相谑,

赠之以勺药。

在“经济组织”一章中,我们读到《诗经》中的另一首诗,针对的是一名要他新婚不到三个月的妻子做女红的官员:

纠纠葛屦,

可以履霜。

掺掺女手,

可以缝裳。

要之襋之,

好人服之。

好人提提,

宛然左辟。

佩其象揥,

维是褊心。

是以为刺。

在对待老人方面,孔子规定:妇女五十岁无子,由政府供给衣食,并作为采诗的使者。按照陈焕章博士的说法,这说明孔子认为妇女可以胜任公职。“养老”是孔子的一条特别的原则。“按照《礼记·王制》,五旬老人食用的是细粮,不同于给年轻人的;六旬老人常备肉食,以便随时取用;七旬老人一天有两次可口的肉食;八旬老人美食佳肴不断;九旬老人饮食不离寝室,无论他们闲逛到哪里,都要有可口的肉食、汤水相随。”

当陈焕章博士叙述后来的哲学家和经济史时,我们发现他的方法更像现代经济学家的。他对井田制的记述十分详细而有趣,这种土地所有制被认为以某种形式存在于公元前约2600年至公元前350年间。这一记述值得所有研究村社土地所有制的学生关注。关于货币的那部分记录了中国确实先于其它国家早就采用的许多做法(在这方面,现在的中国是所有国家中最欠发达的)。据说中国从公元前2900年起就已经使用货币了,现在仍以铜钱为基础的三金属体制早自最遥远的古代起就一直延用至今(不过金币越来越少用了)。在应用纸币方面他们远远先于其他民族。卒于公元83年的郑众这样说到“里布”:“布,参(叁)印书,广二寸,长二尺,以为币贸易物。” 中国于九世纪时开创了一种介于纸币和汇票之间的票据,当时的情景值得引述:

“唐朝中期,钱很少,因此,有些地方钱不让带出当地。唐宪宗时(孔子纪元1357~1371年),商人到京城,他们将钱存在诸道驻京的机构(进奏院——译者注),换成证券放在身边。这样,无论到哪儿,他们都很容易凭证券提款。这被称为‘飞钱’。然而这一做法为中央政府所禁,因为政府认为这些机构将使钱币退出流通,令商品价格降低。但禁用飞钱的结果更糟。因此,在孔子纪元1363年(812 A.D.),中央政府自己开办了作飞钱生意的衙门,即由政府向存款人发放证券,存款人可以在不同省份的大城市将证券换成现金。。。真正的政府银行建立于宋初(1521 A.K.或970 A.D.),那是为了飞钱经营体系的运作,它被称为 ‘便钱务’。”相传“标会”制度,即中国的合作银行,是由生活于公元220年左右的一个名叫庞公的隐士发明的。

中国学者早就懂得格雷欣法则和数量理论。公元前175年,贾谊说:“上挟铜积以御轻重,钱轻则以术敛之,钱重则以术散之,货物必平。”公元1378年,叶子奇制订了如下规则:“必也欲立钞法。须使钱货为之本。如盐之有引。茶之有引。引至则茶盐立得……引至钱出。引出钱入。以钱为母。以引为子。子母相权。以制天下百货。出之于货轻之时。收之于货重之日。”公元1223年,袁燮认为,铜钱的不足不能用额外发行较次的铁币这一办法来补救,他这样解释说:“而又益之以铁钱,不愈少乎。往时楮币多,故物价贵,今又益以铁钱,不愈贵乎?”

在陈焕章博士这本博学而令人愉悦的书中,有大量的内容人们将会引述,比如孔子的优生原则,关于劳工流动的规定,或是写得极好的中国税制史。还值得一提的最后一点是中国的人口问题。人口统计在极早的年代就存在了,见之于“(孔子)式负版者”;不过是十分不准确的,主要是因为有些时候存在着“户税”和“口税”,使得人们为了利益而隐瞒他们的人数。不过,即使考虑到这一点误差,即使还考虑到从土地所有制度推定的情况,似乎很显然,目前中国庞大的人口是近代的增长造成的,人口的高稠密度是近期的事,与英国的情况一样。公元后的最初十七个世纪(或者从孔子纪元五世纪至二十二世纪)人口似乎在50,000,000上下波动,在十八世纪初以前从未有可能达到100,000,000。从那以后人口才开始跳跃式增长。按照最近相对比较准确的人口普查,1749年的人口是177,000,000;1783年284,000,000;1842年413,000,000。据说太平天国起义期间(1850~1856)人口减损在10,000,000至20,000,000之间(陈焕章博士将因此导致的人口减损确定为150,000,000,那一定是因为印刷错误或修辞式夸张)。较近期的洪灾和饥荒造成的人口减损也许比以前的更严重。据官方估计,在1868至1885年间人口在378,000,000和405,000,000之间。1910年(据《中国年鉴》)有过两次分开的估算(西藏和满洲除外):《海关估算》(Custom's Estimate)是421,000,000,民政部基于户数的人口普查(Minchengpu Census Return),结果是316,000,000。四川的人口数字让人们对上述数字起疑:民政部调查结果为23,000,000,海关的数字却为79,000,000,而A.Hoise爵士在1904年的估算是45,000,000。无论如何,实际的情况可能是这样:1700年以前中国本土人口不超过100,000,000,而只是从上个世纪到现在,大约在300,000,000到400,000,000之间。

因此,认为中国人口对生存手段造成压力已经有许多世纪之久这种看法是不正确的,虽然人们可能倾向于这样想。这种情况相对来说是新的。中国并没有发生过如西方世界那样性质的经济或自然条件的明显变化,足以解释中国人口的巨大增长。中国的黄金时代,即她的哲人和诗人的时代、政治艺术和生活艺术大发现的时代,并不是一个人丁兴旺、人口过剩的时代。道德家喜欢将人口减少的时期视为国家衰败的时期。在中国,如同其他地方一样,宗教势力总是强有力地赞同子孙无限多就是好;但难以相信,如果有幸享受者如此之多,黄金时代真能重新再来。

然而陈焕章博士从其他方面寻找中国衰弱的主要原因,他在科举考试对八股文的要求中找到了—— 八股文不实用,而精通掌握它却需要长时期的训练;八股文开创于1370年,于1902年废除。

注[1] 在中文中“息”代表利息,意为“子”。在中国,利息的正当性从没有受到过质疑。

另,本文原载于《经济学杂志》(Economics Journal),1912年月12月号。翻译来源于互联网。

参考资料
  • 1    陈焕章   .肇庆地情网.2009-11-11[引用日期2012-06-26]



メイナード・ケインズ著『孔子の金融学』書評

ある時、孔子が "コンコースは終わった!"と叫んでいた。ラン あなたは言いました、"もし、凹みがあるなら、それに何を加えることができるのか "と。彼は、"豊かになるため "と言ったのです。彼は、"もしあなたが豊かなら、それに何を足すことができるのか "と言ったのです。彼は、"教えるため "と言ったのです。また、ある時、孔子は「日用節約、月用試練、官顆の如きは、すべての労働者を説得して仕事をさせる方法なり」と言い、事実上、彼の賃金論を明らかにしたのである。


さらに孔子は、土地が私的所有の対象になることを許さなかった。孔子は利子を取ることを悪いとは思っていない。資本は母であり、利子はその子である。[1] 関税の問題では、孔子は貿易において極端な自由主義者であった。

これが『孔子の金融論』という本の特徴である。しかし、上記は陳煥章のこの非常に興味深い著作の基本的な内容ではなく、むしろいくつかの口実としてである。基本的な内容の一部は中国経済史に属し、一部は代々受け継がれてきた詩や格言集であり、広い意味での「経済」をテーマとして扱っている。その章は「生産要素」、「分配」、「財政」等と題されているが、この遠大な枠組みに、楽しい教訓的な内容が多く収まっている。中国における男女の擁護は、このことから始まったのではないことを証明するために、(孔子が卑猥な風習の悪い例として挙げている)『歌集』の一節を引用するまでに至っているのである。

川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川川

秦と魏。

学者であり、女性である。

学者と女。

女性は、"どう思う?"と言った。

学者は "両方 "と言っている。

"見に行ってみよう!"

川の向こう側

その人は嬉しくて嬉しくてたまらない。

学者と女

というような会話を交わした。

スプーン一杯の薬を渡される。

経済組織の章では、『詩的エッダ』から、結婚して3ヶ月足らずの新妻に主婦業を頼む役人に宛てた別の詩を読むことができる。

もつれたサンダル。

霜の上を歩くことができる。

女性の手が混じる

彼女は服を縫うことができる。

コートの襟は必須です。

いい男が身につけるもの。

いい男が持っている。

善人が運ぶのです。

象牙のヘアピンをつけて

は小さな心です。

とげとげしいと思われる。

老人の扱いについては、孔子は五十歳で子供のいない女性には、政府から衣食住を提供し、詩の収集のための使者を務めるよう定めている。陳煥章博士によると、これは孔子が女性を公職に就かせる能力があると考えたことを示している。老生」は孔子の特別な主義であった。"王の儀式 "によれば、50代の老人には若者に与えられるものとは違う立派な食事が与えられ、60代の老人にはいつでも取れるように肉が常備され、70代の老人には12回美味しい肉が与えられ、80代の老人には常に美味しい食事が与えられ、90代の老人にはベッドから離れず、どこへ行くにも美味しい肉やスープが伴わないといけないとされていたそうです。"

陳煥章先生が後世の哲学者や経済史を回顧しているうちに、その考え方が現代の経済学者に近いものであることがわかる。紀元前2600年頃から紀元前350年頃まで何らかの形で存在していたと思われる土地所有制度「井戸端会議」についての記述は非常に詳細で興味深い。この記述は、村落共同体の土地所有について研究するすべての人々の注意を喚起するものである。貨幣の項では、中国が他国に先駆けて採用した多くの慣行が記録されている(この点では、中国は現在、最も遅れている)。中国では紀元前2900年から貨幣が使われていたと言われており、現在でも銅銭を中心とした三貨制度が最も遠い古代から使われている(ただし、金貨はますます少なくなっている)。彼らは、紙幣を使うことでは他の民族よりずっと先を行っていた。西暦83年に没した鄭仲は、「りぶ」について、"布、銭(三)刷本、幅二寸、長さ二尺、銭と交易に用いた "と語っている。 9世紀、中国は紙幣と為替証書の中間に位置する道具を開発したが、これは引用に値する。

"唐の時代の中頃、お金が不足していたため、地域によっては持ち出しが禁止されていた。唐の乾宗(13571371年)の時代、商人が都に行くとき、都にある地方の機関(金蔵元-翻訳)にお金を預けて、証券に換えて手元に置いていました。こうして、どこに行っても、証券があれば簡単にお金を引き出すことができるようになった。これは「フライングマネー」と呼ばれた。しかし、このような制度があると、貨幣の流通がなくなり、物価が下がると考え、中央政府によって禁止されたのである。しかし、フライングマネー禁止はさらに悪い結果を招いた。そこで、西暦1363年(西暦812年)、中央政府は、貨幣を飛ばす業務、つまり、政府が証券を発行し、預金者が各地の主要都市で現金と交換できるようにするために、自ら役所を開設したのである。宋の時代(紀元1521年または紀元970年)の初めに、「本銭役」と呼ばれた飛脚営業制度の運用のために、本当の意味での政府銀行が設立された。"中国の協同組合金融制度は、西暦220年頃に生きた彭公という仙人が発明したと言われている。


中国の学者は古くからグレイジングの法則や数量論を理解していた。紀元前175年、嘉義は"上が銅積を握って軽重を治め、金が軽ければ術で集め、金が重ければ術で散らし、財は平らげる "と言った。西暦1378年、葉子斉は「銀行券の法則を確立することも望まなければならない」と、次のような規則を制定した。金品はその基本にしなければならない。塩に鉛があるように。お茶にはリードがある。もし、その後にリードが茶と塩をすぐに取得する......お金を出すにつながる。お金だけではありません。お金が母体です。そして、主役は息子です。息子と母親はお互いに力を持っている。世界のモノをコントロールするために。品物が軽くなったらアウト。商品が重い日に受け取ること"1223年、袁世凱は、銅銭の不足を補うには、劣悪な鉄銭を追加発行するわけにはいかないと主張し、「鉄銭を使えば使うほど足りなくなる」と説明した。昔は楮(こうぞ)硬貨がたくさんあったので、値段も高かったんです。

陳煥章博士の博識で楽しい本には、孔子の優生学原理、労働移動に関する規制、あるいは中国の税制の見事な歴史など、思わず引用してしまうものがたくさんある。最後に特筆すべきは、中国の人口の問題である。人口統計学は「陰陽師(孔子)」に見られるように、非常に早い段階から存在していたが、主に「戸税」「口減らし」などが存在し、それを利益のために利用させたため、非常に不正確なものとなってしまったのである。"儲けのために番号を隠させた "もの。しかし、この誤差を考慮しても、また土地所有制度からの推定を考慮しても、現在の中国の人口の多さは、イギリスの場合と同様に、最近の成長の結果であり、人口の高密度化は最近の出来事であることは明らかであると思われる。紀元後17世紀(儒教の時代では5世紀から22世紀まで)には5000万人前後で推移し、18世紀初頭まで1億人の大台に乗ることはなく、その後急増したようである。比較的正確な最新の国勢調査によると、1749年の人口は17700万人、1783年は28400万人、1842年は41300万人であった。陳煥章博士は、その結果生じた人口損失を150,000,000としているが、これは誤植か修辞的誇張によるものであろう)。最近の洪水や飢饉は、以前よりも深刻な過疎化を引き起こしているのかもしれない。1868年から1885年までの公式推計人口は37800万人から4500万人であり、1910年(『中国年鑑』による)には、税関の推計値42100万人と民政部の世帯別国勢調査(四川省の人口を見ると、民政部が2,300万人、税関が7,900万人、1904年のA・ホイス卿の推定が4,500万人と、これらの数字に疑問符がつく。実際の状況はこうだろう。中国の先住民の人口は1700年以前は1億人を超えておらず、前世紀から現在に至るまで約3億から4億人の間で推移しているにすぎない。

したがって、中国の人口が何世紀にもわたって自給自足の手段を圧迫してきたと考えるのは、そう思いたいかもしれないが、正しくないのである。この状況は比較的新しいものです。中国の人口の急増を説明するのに十分な、西欧諸国のような性質の経済的、自然的条件の大きな変化はない。中国の黄金時代、哲学者や詩人の時代、政治芸術や生活術の大発見の時代は、繁栄や人口過密の時代ではなかったのである。モラリストは、人口減少期を国家の衰退期と考えたがる。中国でも他の国と同様、宗教的な力によって「子孫は無限にいるのが良い」という考えが常に強く支持されてきた。しかし、幸運にもそれを享受できる人が多ければ、本当に黄金時代が再び訪れるとは考えにくいのである。

しかし、陳煥章博士は、中国衰退の主因を別のところに求めた。それは、1370年に始まり1902年に廃止された、非実用的で習得に長期間の訓練を要する八股の勅試の要件にあったのである。

注[1] 中国語で「利」は「利子」の略で、「息子」を意味する。中国では、利権の正当性が問われたことはない。

また、この記事は191212月の『経済学報』に掲載されたものである。インターネットからの翻訳です。


J.M.KEYNES

From The Economic Journal, December 1912

CHEN, HUAN-CHANG. The Economic Principles of Confucius and his School. 2 vols.

 Columbia Uniersity Studies. (New York,

Longmans), 1911.https://doi.org/10.2307/2222270


Confucius once observed: 'How numerous are the people!' Jan said, ‘Since they are thus numerous, what more shall be done for them?''Enrich them,' was the reply. 'And when they have been enriched,what more shall be done?'Confucius said, Instruct them.'


His theory of wages was expressed when he

said:By daily examinations and monthly trials,and by making their rations in accordance with their labours-this is the way to encourage all the classes of artisans.


He did not allow land to be subject to private ownership.He did not think it wrong to

take interest;for capital is the mother,and interest is her child.*


*The Chinese word(hsi) for interest means “child” That interest is justifiable has never been doubted in China.


In the matter of tarifts he was an extreme free-trader. This is the character of the economic principles of Confucius. They supply the pretext rather than the substance of Dr Chen

Huan-Chang's most interesting volumes.The substance is composed in part of contributons to the economic history of China,and in part of the poems and aphorisms of many generations on all topics that can be considered in the widest sense economic.His chapters are headed'Factors of Production', Distribution",'Public Finance,and so forth;but into this artificial scheme he has fitted a great deal that is charming and instructive.


To prove that the separation of the two sexes was not the original plan in China,he is able to quote this(which Confucius gave as a bad example of a lewd custom)from the Canon of Poetry:ー


The Tsin and the Wei

Now present their broad sheets of water.

Ladies and gentlemen

Are carrying flowers of valerian.

A lady says,'Shall we go to see?'

A gentleman replies,'I have already been.'

But let us go again to see,

Beyond the Wei

The ground is large and fit for pleasure.'

So the gentlemen and ladies

Make sport together,


Presenting one another with small peonies.


J.M.KEYNES

経済ジャーナル』1912年12月号より

陳 煥章孔子とその学派の経済原理。2 vols.

 2 vols. Columbia Uniersity Studies.(New York,

Longmans), 1911.https://doi.org/10.2307/2222270


孔子はかつてこう言った。民衆はなんと多いことだろう』。ヤンは言った、「彼らがこのように多いので、彼らのためにこれ以上何をしなければならないか」「彼らを豊かにしなさい」これが答えである。そして、彼らが豊かになったとき、さらに何をしなければならないか。孔子は言った、彼らを指導するのだ」。


彼の賃金論は、次のように表現されている。

毎日試験し、毎月試験し、労働に見合った報酬を与えること。


彼は、土地を私有化することを認めず、利子を取ることを悪いとは考えなかった。

資本は母であり、利子はその子であるからだ。


中国語で「利子」は「子」を意味し、利子が正当なものであることは、中国では決して疑われていない。


関税の問題では、彼は極端な自由貿易主義者であった。これは孔子の経済原理の特徴である。陳博士の経済原則は、その実質よりもむしろ口実を提供するものである。

その中身は、中国経済史への貢献と、広義の経済学とみなされるあらゆるテーマに関する何世代にもわたる詩や格言から構成されている。


しかし、この人工的な図式に、彼は魅力的で有益な多くのものをはめ込んでいる。男女の分離が中国における当初の計画ではなかったことを証明するために、彼は『詩経』から次のように(孔子が淫らな習慣の悪い例として挙げた)引用できる。


秦(しん)と魏(ぎ

秦と魏は今、広い水盤を差し出します。

紳士淑女は

淑女と紳士の皆さんはカノコソウの花を持っている。

淑女が「見に行こうか」と言うと

紳士は「もう行ったよ」と答える。

しかし、私たちはもう一度見に行きましょう。

魏の向こう側

地は広く、快楽に適している』。

そこで紳士と淑女は

一緒にスポーツをする。


小さな牡丹を贈り合う。


In the chapter on “Economic Organisation” we read another poem from the Canon,directed against an official who makes his wife sew within the period of three months from marriage:-



Shoos thinly woven of the dollohos fibre

May bo usod to walk on tho hoarfrost.

The delionto fiugora of a brido

May be usod in making olothos.

Putting the walstband to his lowor garmont and the collar to his uppor,

The beautiful woman fixes thom.

The beautiful woman movod gracofully,

And politoly stood nside to tho loft;

From her girdle hung her ivory comb-pin.

But it is the narrowmindodness of her husband,

Which makos the subjeot for satire.



In the matter of the treatment of the old,Confucius laid it down that if women have no children at the age of fifty,they are to be given clothing and food by the government,and are to be appointed commissioners for the collection of poetry.This shows, according to Dr.Huan-Chang,that Confucius thought women qualified to hold government office."Nourishing the old"was aspecial principle of Confucius."According to the Royal Regulations,for those of fifty the grain is fine and different from that used by the younger people.For those of sixty,flesh is kept in store waiting for their order at any time.For those of seventy there is a second service of savoury meat.For those of eighty there is a constant supply of delicacies.For those of ninety,food and drink are never out of their chamber;whenever they wander to another place,it is required that savoury meat and drink should accompany them.”


When Dr.Huan-Chang is dealing with later philosopbers and with economic history we find a method more like that of modern economists.His account of the tsing tien system of land tenure, which is supposed to have existed in some form or other from about 2600 B.O.to 350 B.c.,is very full and interesting,and is worth the attention of all students of land tenure in village communities.The section on money,a matter in which China is now the least developed of all nations,shows that there are many practices,in the use of which she certainly preceded them. It is said that money has been used in China since 2900 B.C., and the trimetallic system of the present day has persisted(with a diminishing use of gold)from the remotest times,the copper coin being formerly,as now,the basis of the system. In the use of paper money they long anticipated other peoples.

Cheng Chung,who died in 83 A.D.,says of the li pu that"it was a piece of cloth stamped with seals and written with words, two inches wide and two feet long.It was used as money for the exchange of things."The origin of something between notes and bills of exchange in the ninth century A.D.is worth quoting:


経済組織」の章では、結婚から3ヶ月以内に妻を縫わせる役人に向けられた、キヤノンの別の詩を読むことができる......。



ドロホの繊維で薄く織られた靴は

霜の上を歩くのに使えるかもしれない。

ブライドのデリオント・フィウゴラは

オロトス作りに使えるかもしれない。

襟巻を下半身に、襟を上半身につける。

美女は体を固定する。

美しい女性は優雅に動いた。

そして、ロフトの脇に礼儀正しく立つ。

彼女のガードルには象牙の櫛形ピンがぶら下がっていた。

しかし、それは彼女の夫の心の狭さである。

風刺の対象になっている。



老人の処遇について、孔子は「五十にして児を得ずんば、官を以て衣食を与え、詩を集むるに任ずる」と定めている。「勅令によれば、五十歳の者は穀物を細かくして若い者のものとは異なるようにし、六十歳の者は肉を蓄えていつでも注文できるようにし、七十歳の者は香ばしい肉を二度食べさせ、八十歳の者は絶えず珍味を食べさせ、九十歳の者は飲食物を部屋から出すことはせず、他の場所へ行くときは香ばしい肉と飲み物を一緒にするようにと定められています」(同前)。


紀元前2600年から紀元前350年まで何らかの形で存在したとされる土地所有制度「清遠制」についての記述は非常に充実しており、村落共同体の土地所有に関するすべての研究者の注意を引くに値するものだ。中国では紀元前2900年から貨幣が使われていたと言われ、現在の三貨制度は最も遠い時代から続いている(金の使用は減少している)。紙幣を使うことで、彼らは長い間、他の民族を先取りしていた。

紀元83年に亡くなった成忠は、立札について「印章を押し、文字を書いた、幅2インチ、長さ2フィートの布であり、物の交換のための貨幣として使用された」と述べている。


"During the middle part of the Tang dynasty there was a scarcity of money;hence,money was not allowed to be taken out of certain localities.Therefore,when merchants came to the capital they deposited their money in the offices which represented the different provinces at the capital,and received bonds from them.In this way,wherever they went they drew money with their bonds very easily.This was called'flying money.'Such a practice,however,was prohibited by the central government, because it was thought that the offices would keep the money out of circulation,and the prices of commodities would be lowered.

But the result was still worse than before.Therefore,in 812 A.D., the government opened its own offices at the capital for carrying on the business of flying money-that is,the government issued bonds to depositors,and they exchanged bonds for money at the great cities of different provinces.A true government bank was established in 970 A.D.for the operation of the flying-money system.It was called The Bank of Convenient Money." 


Tradition says that the system of"money associations,or co-operative banks of China,was invented by a hermit named Mang Kung,who lived about 220 A.D.


 Gresham's Law and the Quantity Theory have been long understood by Chinese scholars.In 175 B.C.Chia Yi said:"The government accumulates copper for the control of the value of money.When the value is low,it lessens the quantity by some policy;and when it is high,it distributes the money by some policy.Hence,the price of commodities must be equalised."


In 1378 A.D.Yeh Tzu-ch'i laid it down that"if we want to establish paper money,it is necessary to reserve cash as a fund.It should be like the certificate of tea or salt;when the certificate is presented the tea'or salt can be obtained immediately....

When the certificate comes,the cash goes out;and when the certificate goes out,the cash comes in.Take the cash as the mother,and take the certificate as the son.The mother and son supplement each other,and control the price of all commodities.When the price is low,paper should be issued;and when the price is high it should be withdrawn."


「そのため、商人は都に来ると、都にある各省を代表する役所にお金を預け、役所から債券を受け取っていた。しかし、中央政府は、このようなことをすると貨幣が流通しなくなり、物価が下がると考え、禁止した。

そこで、西暦812年、政府は都に事務所を設けて、飛脚制度、すなわち政府が預金者に債券を発行し、預金者が各地の大都市で債券と貨幣を交換する制度を実施することになった。


伝統によると、中国の「貨幣協会」または「協同組合銀行」のシステムは、紀元220年頃に生きたマン・クンという仙人が発明したものである。


グレシャムの法則と数量説は、中国の学者によって長い間理解されてきた。紀元前175年、嘉義は「政府は貨幣価値を制御するために銅を蓄積する。価値が低いときは、何らかの政策によって数量を減らし、高いときは、何らかの政策によって貨幣を分配する。したがって、商品の価格は均一化されなければならない」と述べている。


西暦1378年、葉寅は「紙幣を作るには、現金を資金として蓄えておく必要がある。それは茶や塩の証明書のようなもので、証明書があれば茶や塩をすぐに手に入れることができる......」と述べている。

このように、現金を母とし、証書を子とすることで、母子は互いに補い合い、あらゆる商品の価格をコントロールする。


In 1223 A.D. Yian Hsieh explained that an insufficiency of copper money could not be remedied by issuing inferior iron money in addition-

"if we now add the iron money to it,should not the copper money but become still less?Formerly,because the paper money was too much,the price of commodities was dear.If we now add the iron money to the market,would the price not become still

dearer?”


There is a great deal in Dr.Huan-Chang's learned and delightful book from which one would like to quote-Confucius's principles of Eugenics,for example,the provisions for the mobility of labour,or the author's admirable history of Chinese taxation.


We must be content with one more topic only-the question of population in China.Statistics of population exist from the very earliest times.To anyone bearing the tables of population Confucius bowed forward to the crossbar of his carriage."But they are very inaccurate,mainly because there have been at various times a'door-tax'and a'mouth-tax,'which have made it to the interest of the people to conceal their numbers.Allowance for this,however,being made and account being taken of the conditions presumied by the systems of land tenure,it seems fairly clear that the present huge population of China is of quite modern growth,and that great density of population is as recent a thing in China as it is in England. During the first seventeen centuries of the Christian era(or from the fifth to the twenty-second of the Confucian)the population appears to have fluctuated in the neighbourhood of 50,000,000;it is not likely that it ever reached 100,000,000 before the beginning of the eighteenth century A.D. It is since that time that the numbers have increased by leaps and bounds. According to the comparatively accurate consuses of recent times,the population was 177,000,000 in 1749, 284,000,000 in 1783,and 413,000,000 in 1842..


During the T'ai-p'ing rebellion(1850-1856)the loss of life is said to have been from 10,000,000 to 20,000,000(Dr.Huan-Chang places the loss from this cause at 150,000,000,but this must be due to a misprint or a rhetorical exaggeration);and there has been more lo8s,perhaps,in quite recent times than formerly from floods and

famine.Between 1868 and 1885 the official estimates of population varied from 378,000,000 to 405,000,000.For 1910(according

to The China Year Book)two independent estimates are available(Tibet and Manchuria being excluded)-the Custom's Estimate of 421,000,000 and the Minchengpu(Ministry of the Interior)Census Return,based on the number of households,of 316,000,000. The doubt attaching to these figures is shown by the fact that the population of Szechuan is put,on the basis of the Minchengpu Census,at 23,000,000,by the Customs at 79,000,000,and by Sir A.Hosie,who estimated it in 1904,at 45,000,000.It is probably true,however,that,whereas before the year 1700.the population of China proper did not exceed 100,000,000,it has been for the last century,and is now,somewhere between 300,000,000 and 400,000,000.It is not correct,therefore,to think,as perhaps one is apt to, that the pressure of population in China on the means of subsistence is many centuries old.


The position is comparatively new,and there has been no obvious change,as there has been in the Western World,in economic or natural conditions of such a kind as to justify this enormous increase of population. The Golden Age of China, the age of her philosophers and poets and of discoveries in the arts of government and of lifewas not an age of teeming and overcrowded population. Moralists are fond of regarding periods of declining population as periodof national decay.In China, as elsewhere,the forces of religion have been powerfully on the side of numerous offspring.  But it is difficult to believe that the Golden Age can be recovered while those to enjoy it are so many.


 Dr.Huan-Chang,however,seeks for the chief cause of the weakness of China elsewhere. He sees it in the requirement of the "modern essay" in civil-service examinations(Class I). The modern essay was of no practical use,and its mastery required long practice. Instituted in 1370, in 1902 it was abolished.



J.M.KEYNES


西暦1223年、延喜式は銅銭の不足は粗悪な鉄銭を発行しても解消されないと説明した。

もし、今、鉄の貨幣を追加すれば、銅の貨幣はさらに少なくなるはずではないか。以前は、紙幣が多すぎたので、商品の価格は高かった。

ということである。


孔子の優生学の原理、労働力の流動化に関する規定、著者の見事な中国租税史など、引用したいものがたくさんある。


人口統計は古くから存在し、孔子は人口表を持つ者に馬車の横木を前にして頭を下げたという。しかし、このことを考慮し、土地保有制度から推定される条件を考慮すると、中国の現在の巨大な人口が極めて近代的な成長であり、人口密度の高さがイギリスと同様に中国でも最近のことであることはかなり明白であると思われる。キリスト教時代の最初の17世紀(あるいは儒教時代の5世紀から22世紀まで)の間、人口は5000万人近辺で変動していたようである。最近の比較的正確な統計によると、1749年の人口は1億7700万人、1783年は2億8400万人、1842年は4億1300万人であった。


また、1850年から1856年にかけての太平の乱では、1000万から2000万人の人命が失われたと言われている(黄長博士は、この原因による損失を1500万としているが、これは誤植か修辞による誇張であろう)。

1868年から1885年にかけて、公式の人口推定値は378,000,000から405,000,000まで変動している。

1910年(『中国年鑑』によれば)には、2つの独立した推計がある(チベットと満州を除く)-税関の推計では4億2100万人、内務省の世帯数に基づく国勢調査の報告では3億1600万人である。しかし、1700年以前には、中国本土の人口が4,500万人を超えることはなかったということは、事実であろう。したがって、おそらく人が考えがちなように、中国の人口が生計手段を圧迫するのは何世紀も前のことだと考えるのは正しくない。


その立場は比較的新しく、西欧諸国のように、この膨大な人口増加を正当化するような経済的、自然的条件の明らかな変化はないのである。中国の黄金時代、哲学者や詩人の時代、政治や生活の芸術における発見の時代は、人口があふれかえり、過密状態にあった時代ではない。道徳主義者は、人口の減少期を国家の衰退期と見なすのが好きであるが、中国でも他の国と同様、宗教の力が強力に子孫を多く残す側に働いてきたのである。しかし、黄金時代を享受する者がこれほどまでに多いのに、黄金時代が回復するとは考えにくい。


しかし、煥章は、中国の弱さの主因を他のところに求めている。それは、公務員試験(一種)に「現代文」が課されたことにある。現代文は実用的でなく、その習得には長い修練が必要だった。1370年に制定され、1902年に廃止された。



J.M.KEYNES


https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/06/baguwen-eight-legged-essay-8-1902-282_60.html


< /tr>静为主。洪武八年(1375年),曾任巴陵縣(今湖南省岳陽縣)主簿,洪武十一年二月十五日春天,有群吏在城隍庙窃饮猪脑酒事,子奇恰好經過,被县学生员舉發,遭波及入獄,在獄中“遇有所得,即书之,日积月累,忽然满卷”,出獄后以著述自娛[1]。著有《草木子》、《静斋诗集》、《静斋文集》、《本草节要》、《地理节要》、《诗宗选玉》等。

叶子奇(约公元1327年—1390年前后在世),元末明初大学者。






J.M.KEYNES
From The Economic Journal, December 1912
CHEN, HUAN-CHANG. The Economic Principles of Confucius and his School. 2 vols.
 Columbia Uniersity Studies. (New York,
Longmans), 1911.
https://doi.org/10.2307/2222270

https://baike.baidu.com/item/%E9%99%88%E7%84%95%E7%AB%A0/9998390
梅纳德·凯恩斯《孔门理财学》[陈焕章]书评

另,本文原载于《经济学杂志》(Economics Journal),1912年12月号。翻译来源于互联网。

ジョン・メイナード・ケインズ
煥章『孔門理財学』書評
別、エコノミックジャーナル1912年12月日本語 脚注
Confucius once observed: 'How numerous are the people!' Jan said, ‘Since they are thus numerous, what more shall be done for them?''Enrich them,' was the reply. 'And when they have been enriched,what more shall be done?'Confucius said, Instruct them.'有一次,孔子感叹道:“庶矣哉!”冉有曰:“既庶矣,又何加焉?”曰:“富之。”曰:“既富矣,又何加焉?”曰:“教之。孔子はかつてこう言った。「[衛の人口は]多いね」。冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょ う?」と聞くと、「富ませよう」と言った。「富ましたら、さらに何をしたものでしょう?」と聞くと、孔子は「教育しよう」と言った。 [論語13:9]

~~

孔子#8,e:95,c:60 教育
http://nam21.sakura.ne.jp/koushi/#note1309

13-09 先生が衛の国へ行かれたとき、冉有が御者であった。先生が「[衛の人口は]多いね。」と言われたので、冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょ う。」と言うと、「富ませよう。」と言われた。「富ましたら、さらに何をしたものでしょう」と言うと、「教育しよう。」と言われた。 
His theory of wages was expressed when he
said:By daily examinations and monthly trials,and by making their rations in accordance with their labours-this is the way to encourage all the classes of artisans.


彼の賃金論は、次のように表現されている。

毎日試験し、毎月試験し、労働に見合った報酬を与えること。



”在另一场合,孔子说“日省月试,既廪称事,所以劝百工也”,这实际上阐明了他的工资理论。
彼の賃金の理論は次のように表現されている。
日々その仕事ぶりを観察し月々に仕事の出来を試験して 、月給が仕事と釣り合うようにするのが 、技術者を励ます方法である 。」[中庸,角川文庫]

~~
中庸#18,e:316,c:195 工

さらに中庸(9or20or21章訳不定)から

日ごと月ごとにその工作を点検し 、仕事ぶりに応じた扶持米を与えるようにすると 、それがもろもろの工人たちをはげますことになる 。(岩波文庫)

日々その仕事ぶりを観察し月々に仕事の出来を試験して 、月給が仕事と釣り合うようにするのが 、技術者を励ます方法である 。(角川文庫)

He did not allow land to be subject to private ownership.He did not think it wrong to
take interest;for capital is the mother,and interest is her child.*

*The Chinese word(hsi) for interest means “child” That interest is justifiable has never been doubted in China.

In the matter of tarifts he was an extreme free-trader. This is the character of the economic principles of Confucius. They supply the pretext rather than the substance of Dr Chen
Huan-Chang's most interesting volumes.The substance is composed in part of contributons to the economic history of China,and in part of the poems and aphorisms of many generations on all topics that can be considered in the widest sense economic.His chapters are headed'Factors of Production', Distribution",'Public Finance,and so forth;but into this artificial scheme he has fitted a great deal that is charming and instructive. 彼は、土地を私有化することを認めず、利子を取ることを悪いとは考えなかった。

資本は母であり、利子はその子であるからだ。


中国語で「利子」は「子」を意味し、利子が正当なものであることは、中国では決して疑われていない。


関税の問題では、彼は極端な自由貿易主義者であった。これは孔子の経済原理の特徴である。陳博士の経済原則は、その実質よりもむしろ口実を提供するものである。

その中身は、中国経済史への貢献と、広義の経済学とみなされるあらゆるテーマに関する何世代にもわたる詩や格言から構成されている。




还有,孔子不允许土地成为私人所有的对象。孔子认为取息没有错;因为资本是母亲,息是她的孩子。[1]


注[1] 在中文中“息”代表利息,意为“子”。在中国,利息的正当性从没有受到过质疑。

在关税事务方面,孔子是一位极端的贸易自由论者。
这就是《孔门理财学》这本书的特色。不过,上述这些并不是陈焕章这一非常有趣之作的基本内容,而更多地是作为一些由头。其基本内容一部分属于中国经济史;一部分是世代相传的诗篇和格言,其所涉话题只与最广义理解的“经济”有关。其章节标题虽为“生产要素”、“分配”、“公共财政”等等,


さらに孔子は、土地が私的所有の対象になることを許さなかった。孔子は利子を取ることを悪いとは思っていない。資本は母であり、利子はその子である。[1] 関税の問題では、孔子は貿易において極端な自由主義者であった。

これが『孔子の金融論』という本の特徴である。しかし、上記は陳煥章のこの非常に興味深い著作の基本的な内容ではなく、むしろいくつかの口実としてである。基本的な内容の一部は中国経済史に属し、一部は代々受け継がれてきた詩や格言集であり、広い意味での「経済」をテーマとして扱っている。その章は「生産要素」、「分配」、「財政」等と題されているが、この遠大な枠組みに、楽しい教訓的な内容が多く収まっている。


彼は、土地を私有化することを認めず、利子を取ることを悪いとは考えなかった。

資本は母であり、利子はその子であるからだ*。


*中国語で「利子」は「子」を意味し、利子が正当なものであることは、中国では決して疑われていない。


関税に関して彼は極端な自由貿易主義者だった。 これが孔子の経済原理の特徴だ。 それは陳煥章博士の最も興味深い本の本質というよりもテキスト内容を提供する。

その内容は、中国の経済史への貢献の一部と、最も広い経済的意味で考えられるすべてのトピックに関する多くの世代の詩と格言の一部で構成されている。

その章は「生産要素」、「分配」、「公共財」などと題されているが、著者はこの人為的な枠組みに、魅力的で有益な多くのものを組み込んでいる。


“生产要素”5 (17,18,19)、“分配”7(24,25)、“公共财政”9(32〜35) 上は編名。ケインズ書評で言及された章は、6,8,10,15,18,23,26

なかでも 18人口、23商業(貨幣)が重要。
後に国際的論点となる常平倉を扱った30からの引用はない。
(#19,c221,e358の礼記は重要。江戸期日本の建部も引用)

以下リスト
孔子#8,e:95,c:60 教育 中庸#18,e:316,c:195 工 詩経#6,e:66,c:42 愛 詩経#10,e:154,c:96 woven 養老#15,e:267,c:164 井田tsing tien#26,e:497,c:305 2700〜350,e:,529,c:323 tang唐#23,e:432,c:263 812年、飛銭#23,e:433,c:263 鋳貨#23,e:442?,c:267~270 グレシャムの法則 人口#18,e:332?,c:205 統計  
To prove that the separation of the two sexes was not the original plan in China,he is able to quote this(which Confucius gave as a bad example of a lewd custom)from the Canon of Poetry:ー

しかし、この人工的な図式に、彼は魅力的で有益な多くのものをはめ込んでいる。男女の分離が中国における当初の計画ではなかったことを証明するために、彼は『詩経』から次のように(孔子が淫らな習慣の悪い例として挙げた)引用できる。

The Tsin and the Wei
Now present their broad sheets of water.
Ladies and gentlemen
Are carrying flowers of valerian.
A lady says,'Shall we go to see?'
A gentleman replies,'I have already been.'
But let us go again to see,
Beyond the Wei
The ground is large and fit for pleasure.'
So the gentlemen and ladies
Make sport together,

Presenting one another with small peonies.


中国における男女の擁護は、このことから始まったのではないことを証明するために、(孔子が卑猥な風習の悪い例として挙げている)『歌集』の一節を引用するまでに至っているのである。

但装入这一牵强框架的是大量讨人喜欢的教诲性内容。为了证明在中国男女之防不是一开始就有的,他竟引用了《诗经》中的这样一节(孔子是将之作为淫猥风俗的坏例子的):

溱与洧,
方涣涣兮。
士与女,
方秉蕑兮。
女曰“观乎?”
士曰“既且。”
“且往观乎!”
洧之外,
洵訏且乐。
维士与女,
伊其相谑,
赠之以勺药。
男女の隔離が中国における当初の教義ではなかったことを証明するために、著者は『詩経』から次のような(孔子が淫らな習慣の悪い例として挙げた)詩を引用をしている。


《溱水と洧水は、春を迎えて水かさを増し盛んに流れています、
男と女が集まってきて、水草を取っています、
女がいいます「あのすばらしい景色を見ましたか」、
男が答えて言います、「ああ、行ってきたとも」
女は重ねていいます、「一緒に洧水のほとりに行ってみましょう、
そこは広々としてすばらしいですよ」、
男と女は、このように戯れあい、
互いに芍薬の花を贈りあうのです。》

[『詩経』鄭風篇から「溱洧」]


詩経#6,e:66,c:42 愛

http://blog.hix05.com/blog/2008/08/post-723.html
國風 周南
溱水と洧水は、春を迎えて水かさを増し盛んに流れています、
男と女が集まってきて、水草を取っています、
女がいいます「あのすばらしい景色を見ましたか」、
男が答えて言います、「ああ、行ってきたとも」
女は重ねていいます、「一緒に洧水のほとりに行ってみましょう、
そこは広々としてすばらしいですよ」、
男と女は、このように戯れあい、
互いに芍薬の花を贈りあうのです。

(上を孔子は悪い例に挙げている??) さらに詩経から 
http://xinxingren.gen.nz/classics/%E8%A9%A9%E7%B6%93.html#zhounan
Lessons from the States
The Odes of Zhou and the South





In the chapter on “Economic Organisation” we read another poem from the Canon,directed against an official who makes his wife sew within the period of three months from marriage:-


Shoos thinly woven of the dollohos fibre
May bo usod to walk on tho hoarfrost.
The delionto fiugora of a brido
May be usod in making olothos.
Putting the walstband to his lowor garmont and the collar to his uppor,
The beautiful woman fixes thom.
The beautiful woman movod gracofully,
And politoly stood nside to tho loft;
From her girdle hung her ivory comb-pin.
But it is the narrowmindodness of her husband,

Which makos the subjeot for satire.
「経済組織」の章では、結婚から3ヶ月以内に妻に裁縫をさせた役人に向けられた、『公文』からの別の詩を読むことができる......。

ドロホの繊維で薄く織られた靴は霜の上を歩くのに使えるかもしれない。ブライドのデリオント・フィウゴラはオロトスを作るのに使えるかもしれない。襟巻を下半身に、襟を上半身につける。美女は体を固定する。美しい女性は優雅に動いた。そして、ロフトの脇に礼儀正しく立つ。彼女のガードルには象牙の櫛形ピンがぶら下がっていた。しかし、それは彼女の夫の心の狭さである。風刺の対象になっている。

在“经济组织”一章中,我们读到《诗经》中的另一首诗,针对的是一名要他新婚不到三个月的妻子做女红的官员:

纠纠葛屦,
可以履霜。
掺掺女手,
可以缝裳。
要之襋之,
好人服之。
好人提提,
宛然左辟。
佩其象揥,
维是褊心。
是以为刺。

「経済組織」の章では、結婚から3ヶ月に満たない妻に裁縫をさせる役人に向けられた、『詩経』からの別の詩を読むことができる......。

葛の履でも 
霜が履める
細い少女の手でも 
裳が縫える
腰をつくろい 
襟をつくろって働く
尊貴の人が 
それを着ている。
行儀のよい尊貴の人が
しとやかに左に身をさける
象牙の揥(かんざし)をして
りっぱだけれども
吝嗇で困る 
この詩を作って刺(そし)るわけ。

[『詩経』魏風より]




~~
詩経#10,e:154,c:96 wovenhttps://mteisi.exblog.jp/29190387/
魏風
葛の履でも 
霜が履める
細い少女の手でも 
裳が縫える
腰をつくろい 
襟をつくろって働く
尊貴の人が 
それを着ている。
行儀のよい尊貴の人が
しとやかに左に身をさける
象牙の揥(かんざし)をして
りっぱだけれども
吝嗇で困る 
この詩を作って刺(そし)るわけ。

In the matter of the treatment of the old,Confucius laid it down that if women have no children at the age of fifty,they are to be given clothing and food by the government,and are to be appointed commissioners for the collection of poetry.This shows, according to Dr.Huan-Chang,that Confucius thought women qualified to hold government office."Nourishing the old"was aspecial principle of Confucius."According to the Royal Regulations,for those of fifty the grain is fine and different from that used by the younger people.For those of sixty,flesh is kept in store waiting for their order at any time.For those of seventy there is a second service of savoury meat.For those of eighty there is a constant supply of delicacies.For those of ninety,food and drink are never out of their chamber;whenever they wander to another place,it is required that savoury meat and drink should accompany 
them.”

孔子は老人の処遇について、50歳で子供がいない女性には、政府から衣食を与え、詩の収集のための委員に任命することを定めている。これは、孔子が女性を政府の役職につける資格があると考えていたことを示していると黄長博士は述べている。 「勅令によれば、五十歳の者は穀物を細かくして若い者のものとは異なるようにし、六十歳の者は肉を蓄えていつでも注文できるようにし、七十歳の者は香ばしい肉を二度食べさせ、八十歳の者は常に珍味を提供し、九十歳の者は飲食物を部屋から出すことはせず、別の場所に行くときは香ばしい肉と飲み物を一緒にすることが求められている」...。


在对待老人方面,孔子规定:妇女五十岁无子,由政府供给衣食,并作为采诗的使者。按照陈焕章博士的说法,这说明孔子认为妇女可以胜任公职。“养老”是孔子的一条特别的原则。“按照《礼记·王制》,五旬老人食用的是细粮,不同于给年轻人的;六旬老人常备肉食,以便随时取用;七旬老人一天有两次可口的肉食;八旬老人美食佳肴不断;九旬老人饮食不离寝室,无论他们闲逛到哪里,都要有可口的肉食、汤水相随。”
孔子は老人の処遇について、50歳で子供がいない女性には、政府から衣食を与え、詩の収集のための委員に任命することを定めている。これは、孔子が女性を政府の役職につける資格があると考えていたことを示していると煥章博士は述べている。 「勅令によれば、五十歳の者は穀物を細かくして若い者のものとは異なるようにし、六十歳の者は肉を蓄えていつでも注文できるようにし、七十歳の者は香ばしい肉を二度食べさせ、八十歳の者は常に珍味を提供し、九十歳の者は飲食物を部屋から出すことはせず、別の場所に行くときは香ばしい肉と飲み物を一緒にすることが求められている」...。

[「養老」『礼記王制』よりChenによる要約]

養老#15,e:267,c:164

礼記王制
Chenによる要約
 When Dr.Huan-Chang is dealing with later philosopbers and with economic history we find a method more like that of modern economists.His account of the tsing tien system of land tenure, which is supposed to have existed in some form or other from about 2600 B.O.to 350 B.c.,is very full and interesting,and is worth the attention of all students of land tenure in village communities.The section on money,a matter in which China is now the least developed of all nations,shows that there are many practices,in the use of which she certainly preceded them. It is said that money has been used in China since 2900 B.C., and the trimetallic system of the present day has persisted(with a diminishing use of gold)from the remotest times,the copper coin being formerly,as now,the basis of the system. In the use of paper money they long anticipated other peoples.
Cheng Chung,who died in 83 A.D.,says of the li pu that"it was a piece of cloth stamped with seals and written with words, two inches wide and two feet long.It was used as money for the exchange of things."


紀元前2600年から紀元前350年まで、何らかの形で存在していたとされる土地所有制度「井田制」についての説明は非常に充実しており、興味深いもので、村落共同体の土地所有権を研究するすべての学生の注意を引く価値がある。中国では紀元前2900年から貨幣が使われていたと言われ、現在の三貨制度は最も遠い時代から続いている(金の使用は減少している)、以前も現在も銅貨が制度の基本である。 紙幣を使うことで、彼らは長い間、他の民族を先取りしていた。紀元83年に亡くなった成忠は、立札について「印章を押し、文字を書いた幅2インチ、長さ2フィートの布であり、物の交換のための貨幣として使用された」と述べている。
当陈焕章博士叙述后来的哲学家和经济史时,我们发现他的方法更像现代经济学家的。他对井田制的记述十分详细而有趣,这种土地所有制被认为以某种形式存在于公元前约2600年至公元前350年间。这一记述值得所有研究村社土地所有制的学生关注。关于货币的那部分记录了中国确实先于其它国家早就采用的许多做法(在这方面,现在的中国是所有国家中最欠发达的)。据说中国从公元前2900年起就已经使用货币了,现在仍以铜钱为基础的三金属体制早自最遥远的古代起就一直延用至今(不过金币越来越少用了)。在应用纸币方面他们远远先于其他民族。卒于公元83年的郑众这样说到“里布”:“布,参(叁)印书,广二寸,长二尺,以为币贸易物。” 中国于九世纪时开创了一种介于纸币和汇票之间的票据,当时的情景值得引述:
紀元前2600年から紀元前350年まで、何らかの形で存在していたとされる土地所有制度「井田制」についての説明は非常に充実しており、興味深いもので、村落共同体の土地所有権を研究するすべての学生の注意を引く価値がある。中国では紀元前2900年から貨幣が使われていたと言われ、現在の三貨制度は最も遠い時代から続いている(金の使用は減少している)、以前も現在も銅貨が制度の基本である。 
紙幣を使うことで、彼らは長い間、他の民族を先取りしていた。紀元83年に亡くなった鄭衆は、里布について「印章を押し、文字を書いた幅2インチ、長さ2フィートの布であり、物の交換のための貨幣として使用された」と述べている。

#25,e489,c298にヘンリージョージ(孟子の理論と似ているらしい)の名もあるがケインズは言及していない#26,e533,c325ではヘンリージョージの土地改革案は過激だとされる。

井田法
http://sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius05-03b.html
孟子 勝文公章句上
井田tsing tien#26,e:497,c:305 
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-026_1.html
中国の周王朝での理想的土地均分制。 
周王朝において、1里平方の土地を井の字型に9等分し、廻りの8区画を1家族ずつに与え、中央を公田として9家族の労役による耕作し、国家の収入とするもの。『孟子』に周代の土地制度として述べられているが、実施されたものかどうかは不明。理想的な土地区分制度としてあげられているにすぎないと考えられている。  

2600~350年,e:,529,c:323

周礼、里布li pu#23,e:432,c:263 Cheng Chung郑众这样
周礼注疏/卷十三 - 维基文库,自由的图书馆 
https://zh.wikisource.org/zh-hans/周禮註疏/卷十三 
凡宅不毛者,有里布;凡田不耕者,出屋粟;凡民无职事者,出夫家之征。(郑司农云:“宅不毛者,谓不树桑麻也。里布者,布参印书,广二寸,长二尺。以为币,贸易物。  

鄭眾/衆這樣
鄭衆 (大司農) - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/鄭衆_(大司農)
鄭 衆(てい しゅう、? - 83年)は、後漢初期の政治家・学者。は仲師。古文の経典を学び、とくに『周礼』の注釈で知られる。
大司農の官にのぼったために鄭司農とも呼ばれる。また、鄭玄に対して鄭衆を先鄭、鄭玄を後鄭と呼ぶこともあるが、鄭衆と鄭玄が同族というわけではない。有名な宦官鄭衆とも関係はない。 

The origin of something between notes and bills of exchange in the ninth century A.D.is worth 
quoting:

"During the middle part of the Tang dynasty there was a scarcity of money;hence,money was not allowed to be taken out of certain localities.Therefore,when merchants came to the capital they deposited their money in the offices which represented the different provinces at the capital,and received bonds from them.
In this way,wherever they went they drew money with their bonds very easily.
This was called'flying money.'

Such a practice,however,was prohibited by the central government, because it was thought that the offices would keep the money out of circulation,and the prices of commodities would be lowered.
But the result was still worse than before.Therefore,in 812 A.D., the government opened its own offices at the capital for carrying on the business of flying money-that is,the government issued bonds to depositors,and they exchanged bonds for money at the great cities of different provinces.A true government bank was established in 970 A.D.for the operation of the flying-money system.It was called The Bank of Convenient Money." 

中国于九世纪时开创了一种介于纸币和汇票之间的票据,当时的情景值得引述:

“唐朝中期,钱很少,因此,有些地方钱不让带出当地。唐宪宗时(孔子纪元1357~1371年),商人到京城,他们将钱存在诸道驻京的机构(进奏院——译者注),换成证券放在身边。这样,无论到哪儿,他们都很容易凭证券提款。这被称为‘飞钱’。然而这一做法为中央政府所禁,因为政府认为这些机构将使钱币退出流通,令商品价格降低。但禁用飞钱的结果更糟。因此,在孔子纪元1363年(812 A.D.),中央政府自己开办了作飞钱生意的衙门,即由政府向存款人发放证券,存款人可以在不同省份的大城市将证券换成现金。。。真正的政府银行建立于宋初(1521 A.K.或970 A.D.),那是为了飞钱经营体系的运作,它被称为 ‘便钱务’。


中国が紙幣と為替証書の中間の道具を開発したのは、引用に値する9世紀のことである。
"唐の時代の中頃、お金が不足していたため、地域によっては持ち出しが禁止されていた。 唐の乾宗(1357〜1371年)の時代、商人が都に行くとき、都にある地方の機関(金蔵元-翻訳)にお金を預けて、証券に換えて手元に置いていました。 こうして、どこに行っても、証券があれば簡単にお金を引き出すことができるようになった。 これは「フライングマネー」と呼ばれた。 しかし、このような制度があると、貨幣の流通がなくなり、物価が下がると考え、中央政府によって禁止されたのである。 しかし、フライングマネー禁止はさらに悪い結果を招いた。 そこで、西暦1363年(西暦812年)、中央政府は、貨幣を飛ばす業務、つまり、政府が証券を発行し、預金者が各地の主要都市で現金と交換できるようにするために、自ら役所を開設したのである。 本格的な政府銀行は宋の初期(1521 A.K. or 970 A.D.)に設立されたが、それは「ペニーサービス」と呼ばれた飛脚営業システムの運用のためであった。


西暦9世紀、紙幣と為替手形との間にあるその起源は、引用に値する。

そのため、商人は都に来ると、都の各州を代表する事務所にお金を預けて、そこから債券を受け取った。
こうして、どこに行っても、その債券で簡単にお金を引き出せるようになった。
これを「飛銭」と呼んだ。しかし、このようなやり方は、中央政府によって禁止された。官庁がお金を流通させないようにして、物価を下げると考えられたからである。しかし、その結果は前よりも不便になった。
そこで、西暦812年、政府は都に事務所を設け、貨幣を飛ばす業務、つまり政府が預金者に債券を発行し、預金者がその債券を貨幣と交換する業務を行うようになった。つまり、政府が預金者に債券を発行し、預金者が各州の大都市で債券と貨幣を交換したのである。西暦970年、飛脚制度を運用するための真の政府銀行が設立され、「便銭務」と呼ばれた。》



飛銭(806~820頃から)


唐代

811年までは民間で自由経営がなされていたが、812 年5月以降は三司(唐代後期中央政府機関で、戸部、塩鉄、度支の3つの役所のこと)のみが発行する禁令が出された。これは銅銭が退蔵され、小額貨幣の流通 に不便を障したことが原因と考えられます。しかし、この禁令は効力が無かったそうです。もともと飛銭は民間から興ったものである上に、唐代後期の事実上の 地方支配者である藩鎮や禁軍が本制度を利用して銅銭の蓄蔵に勤めたことにあるとのことです。

北宋

唐代同様、飛銭、便換、便銭と呼ばれ、唐代は華北、大都市だけだった寄附鋪は、宋代になると地方にも普及し、専業化し、地方都市間でも流通したと思われ る。顧客の要望も保管から手形の発給の為の預け入れとなった。960-968年に三司直営となり、三司が964年に京師榷貨務を設置し、ここが交子の取引 を始めた。更に970年には京師榷貨務の管轄下に便銭務が開封に設置された。

tang唐#23,e:432,c:263

812年、飛銭#23,e:433,c:263

https://ja.wikipedia.org/wiki/宋_(王朝)

紙幣・為替・証券 
銅銭・鉄銭は重く嵩張り、金銀は高価なため、どちらも持ち運ぶには不便な点がある。それを補うために便銭(飛銭)という為替制度があった。唐代長安の便銭務という役所では、銭を預けて預り証を受け取り地方の役所で換金出来たが、この制度は宋にもあった。民間の堰坊では、銅銭・金銀・布帛などを預かって交子(会子・関子)と呼ばれる預り証を発行していた。 
Tradition says that the system of"money associations,or co-operative banks of China,was invented by a hermit named Mang Kung,who lived about 220 A.D.

 Gresham's Law and the Quantity Theory have been long understood by Chinese scholars.In 175 B.C.Chia Yi said:"The government accumulates copper for the control of the value of money.When the value is low,it lessens the quantity by some policy;and when it is high,it distributes the money by some policy.Hence,the price of commodities must be equalised."
”相传“标会”制度,即中国的合作银行,是由生活于公元220年左右的一个名叫庞公的隐士发明的。

中国学者早就懂得格雷欣法则和数量理论。公元前175年,贾谊说:“上挟铜积以御轻重,钱轻则以术敛之,钱重则以术散之,货物必平。” 
 中国の「貨幣協会」「協同組合銀行」の制度は、紀元220年頃の仙人、龐公によって考案されたと伝えられている。
 グレシャムの法則と数量説は、中国の学者によって長い間理解されてきた。紀元前175年、嘉義はこう言っている。紀元前175年、賈誼(かぎ)は言った。「政府は貨幣の価値を制御するために銅を蓄積している。銅の価値が低ければ、何らかの政策で量を減らし、高ければ、何らかの政策で貨幣を分配する。従って、物価は平準化されなければならない。」

Mang Kung#23,e:434,c:264
庞公、龐公
标会、標會

鋳貨#23,e:442?,c:267~270 グレシャムの法則

賈誼(か ぎ、紀元前200年 - 紀元前168年)は、前漢の政治思想家・文章家。洛陽の人。後漢賈逵はその後裔にあたる。 
In 1378 A.D.Yeh Tzu-ch'i laid it down that"if we want to establish paper money,it is necessary to reserve cash as a fund.It should be like the certificate of tea or salt;when the certificate is presented the tea'or salt can be obtained immediately....
When the certificate comes,the cash goes out;and when the certificate goes out,the cash comes in.Take the cash as the mother,and take the certificate as the son.The mother and son supplement each other,and control the price of all commodities.When the price is low,paper should be issued;and when the price is high it should be withdrawn." 
公元1378年,叶子奇制订了如下规则:“必也欲立钞法。须使钱货为之本。如盐之有引。茶之有引。引至则茶盐立得……引至钱出。引出钱入。以钱为母。以引为子。子母相权。以制天下百货。出之于货轻之时。收之于货重之日。” 

西暦1378年、葉子奇は次のように言っている。
《茶や塩の証明書のようなもので、証明書を出せばすぐに茶や塩を手に入れることができる......。証文が来れば、現金が出て行き、証文が出れば、現金が入る。現金を母とし、証書を子とする。母子は互いに補い合い、すべての商品の価格を支配する。価格が低いときには紙を発行し、価格が高いときにはそれを引き出すべきである。》『草木子』?

葉子奇,字世杰,一名琦,號靜齋。生活在初,蒼括龍泉(今浙江省龍泉縣)人。
生卒年不詳,約與刘基宋濂同時。自少聰穎,師從王毅,好理學,專明“理一分殊”,以
In 1223 A.D. Yian Hsieh explained that an insufficiency of copper money could not be remedied by issuing inferior iron money in addition-
"if we now add the iron money to it,should not the copper money but become still less?Formerly,because the paper money was too much,the price of commodities was dear.If we now add the iron money to the market,would the price not become still
dearer?”

There is a great deal in Dr.Huan-Chang's learned and delightful book from which one would like to quote-Confucius's principles of Eugenics,for example,the provisions for the mobility of labour,or the author's admirable history of Chinese taxation.

西暦1223年、延喜式は銅銭の不足は粗悪な鉄銭を発行しても解消されないと説明した。もし、今、鉄の貨幣を追加すれば、銅の貨幣はさらに少なくなるはずではないか。以前は、紙幣が多すぎたので、商品の価格は高かった。と言っている。
孔子の優生学の原理、労働力の流動化に関する規定、著者の見事な中国租税史など、引用したいものがたくさんある。

公元1223年,袁燮认为,铜钱的不足不能用额外发行较次的铁币这一办法来补救,他这样解释说:“而又益之以铁钱,不愈少乎。往时楮币多,故物价贵,今又益以铁钱,不愈贵乎?”

在陈焕章博士这本博学而令人愉悦的书中,有大量的内容人们将会引述,比如孔子的优生原则,关于劳工流动的规定,或是写得极好的中国税制史。
『歴代名臣奏議』巻273

 西暦1223年、袁燮(えんしょう)は銅銭の不足は粗悪な鉄銭を発行しても解消されないと説明した。今、鉄の貨幣を加えれば、銅の貨幣はさらに少なくなるはずではないか。以前は紙幣が多すぎたため、物価が高かった。今、鉄の貨幣を市場に加えれば、物価はさらに安くなるのではないか?
 例えば、孔子の優生学の原理、労働力の流動化の規定、著者の立派な中国租税史など、引用したいことがたくさんある。

袁燮(1144年-1224年),字和叔,庆元府鄞县(今浙江宁波)人。宋朝政治人物、教育家哲学家
We must be content with one more topic only-the question of population in China.Statistics of population exist from the very earliest times.To anyone bearing the tables of population Confucius bowed forward to the crossbar of his carriage."But they are very inaccurate,mainly because there have been at various times a'door-tax'and a'mouth-tax,'which have made it to the interest of the people to conceal their numbers.Allowance for this,however,being made and account being taken of the conditions presumied by the systems of land tenure,it seems fairly clear that the present huge population of China is of quite modern growth,and that great density of population is as recent a thing in China as it is in England. During the first seventeen centuries of the Christian era(or from the fifth to the twenty-second of the Confucian)the population appears to have fluctuated in the neighbourhood of 50,000,000;it is not likely that it ever reached 100,000,000 before the beginning of the eighteenth century A.D. It is since that time that the numbers have increased by leaps and bounds. According to the comparatively accurate consuses of recent times,the population was 177,000,000 in 1749, 284,000,000 in 1783,and 413,000,000 in 1842. 还值得一提的最后一点是中国的人口问题。人口统计在极早的年代就存在了,见之于“(孔子)式负版者”;不过是十分不准确的,主要是因为有些时候存在着“户税”和“口税”,使得人们为了利益而隐瞒他们的人数。不过,即使考虑到这一点误差,即使还考虑到从土地所有制度推定的情况,似乎很显然,目前中国庞大的人口是近代的增长造成的,人口的高稠密度是近期的事,与英国的情况一样。公元后的最初十七个世纪(或者从孔子纪元五世纪至二十二世纪)人口似乎在50,000,000上下波动,在十八世纪初以前从未有可能达到100,000,000。从那以后人口才开始跳跃式增长。按照最近相对比较准确的人口普查,1749年的人口是177,000,000;1783年284,000,000;1842年413,000,000。(孔子)式负版者#18,c:184
ULATION SINCE man is t he first factor of production, we should l ation. f irst discuss man in the collective sense—that is, the popu The Analects tells us, “ To anyone bearing the tables of population, Confucius bowed forward to the cross bar Of his carriage.” 1 This shows that Confucius attached much importance to the tables of population. Chu Hsi com ments…
論語#10郷黨第十
http://nam21.sakura.ne.jp/koushi/#note1021
喪服の人には[車の前の横木に手をあてる]式(しょく)の敬礼を行い、
http://blog.mage8.com/rongo-10-21
式負版者、
負版(ふはん)の者に式す。
死者の戸籍を持った役人に対しても敬礼をされた
(朱熹の註釈があるらしい。論語集注)
inaccurate#18,e:335or#34,e:655
人口#18,e:332?,c:205 統計
 
私たちは、もう一つだけのトピック、つまり、次の問題に満足しなければなりません。 中国の人口統計には、以下のようなものがあります。 ★  


During the T'ai-p'ing rebellion(1850-1856)the loss of life is said to have been from 10,000,000 to 20,000,000(Dr.Huan-Chang places the loss from this cause at 150,000,000,but this must be due to a misprint or a rhetorical exaggeration);and there has been more lo8s,perhaps,in quite recent times than formerly from floods and
famine.Between 1868 and 1885 the official estimates of population varied from 378,000,000 to 405,000,000.For 1910(according
to The China Year Book)two independent estimates are available(Tibet and Manchuria being excluded)-the Custom's Estimate of 421,000,000 and the Minchengpu(Ministry of the Interior)Census Return,based on the number of households,of 316,000,000. The doubt attaching to these figures is shown by the fact that the population of Szechuan is put,on the basis of the Minchengpu Census,at 23,000,000,by the Customs at 79,000,000,and by Sir A.Hosie,who estimated it in 1904,at 45,000,000.It is probably true,however,that,whereas before the year 1700.the population of China proper did not exceed 100,000,000,it has been for the last century,and is now,somewhere between 300,000,000 and 400,000,000.It is not correct,therefore,to think,as perhaps one is apt to, that the pressure of population in China on the means of subsistence is many centuries old. 
据说太平天国起义期间(1850~1856)人口减损在10,000,000至20,000,000之间(陈焕章博士将因此导致的人口减损确定为150,000,000,那一定是因为印刷错误或修辞式夸张)。较近期的洪灾和饥荒造成的人口减损也许比以前的更严重。据官方估计,在1868至1885年间人口在378,000,000和405,000,000之间。1910年(据《中国年鉴》)有过两次分开的估算(西藏和满洲除外):《海关估算》(Custom's Estimate)是421,000,000,民政部基于户数的人口普查(Minchengpu Census Return),结果是316,000,000。四川的人口数字让人们对上述数字起疑:民政部调查结果为23,000,000,海关的数字却为79,000,000,而A.Hoise爵士在1904年的估算是45,000,000。无论如何,实际的情况可能是这样:1700年以前中国本土人口不超过100,000,000,而只是从上个世纪到现在,大约在300,000,000到400,000,000之间。因此,认为中国人口对生存手段造成压力已经有许多世纪之久这种看法是不正确的,虽然人们可能倾向于这样想。 
ケインズが参照したのは以下、
Report of Consul-general Hosie on the Province of Ssc̆hʻuan: Presented to ... - Sir Alexander Hosie - 
1904
  The position is comparatively new,and there has been no obvious change,as there has been in the Western World,in economic or natural conditions of such a kind as to justify this enormous increase of population. The Golden Age of China, the age of her philosophers and poets and of discoveries in the arts of government and of lifewas not an age of teeming and overcrowded population. Moralists are fond of regarding periods of declining population as periodof national decay.In China, as elsewhere,the forces of religion have been powerfully on the side of numerous offspring.  But it is difficult to believe that the Golden Age can be recovered while those to enjoy it are so many. 这种情况相对来说是新的。中国并没有发生过如西方世界那样性质的经济或自然条件的明显变化,足以解释中国人口的巨大增长。中国的黄金时代,即她的哲人和诗人的时代、政治艺术和生活艺术大发现的时代,并不是一个人丁兴旺、人口过剩的时代。道德家喜欢将人口减少的时期视为国家衰败的时期。在中国,如同其他地方一样,宗教势力总是强有力地赞同子孙无限多就是好;但难以相信,如果有幸享受者如此之多,黄金时代真能重新再来。 黄金時代#21,e:397,c:243


 Dr.Huan-Chang,however,seeks for the chief cause of the weakness of China elsewhere. He sees it in the requirement of the "modern essay" in civil-service examinations(Class I). The modern essay was of no practical use,and its mastery required long practice. Instituted in 1370, in 1902 it was abolished.


J.M.KEYNES



然而陈焕章博士从其他方面寻找中国衰弱的主要原因,他在科举考试对八股文的要求中找到了—— 八股文不实用,而精通掌握它却需要长时期的训练;八股文开创于1370年,于1902年废除。

另,本文原载于《经济学杂志》(Economics Journal),1912年月12月号。翻译来源于互联网。
梅纳德·凯恩斯



#36結語
c:432

八股文(はっこぶん、拼音: bāgǔwén、英語: Eight-legged essay)とは、中国の明や清の時代に科挙の答案として用いられた、特殊な文体のことである。八股文は四書文、八比文、時文、時芸、制芸、制義とも呼ばれることがある。四書五経の中から出題された章句の意味について、対句法を用いて独特な8段構成で論説した。 清清朝期の八股文は、明の時代のものが踏襲された。中国に於ける八股文の使用は、1902年(光緒28年)に清朝政府が科挙の試験での八股文の使用を禁止するに至るまで継続された。尚、2年後の1904年(光緒30年)に最後の科挙試験が行われ、翌1905年(光緒31年)には科挙制度そのものが廃止されることとなった。… 
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%82%A1%E6%96%87
-- 
ジョン・メイナード・ケインズ 

清末に政治経済学を「軽重学」と呼んだ人がいた。
軽重の説を最初に提起したのは孫叔敖、単旗などである。
例えば、ある商品の軽重の法則や原則について、『国蓄』は「集まると重く、散ると軽い」、また「少ないか足りないかは重く、余っているか多いかは軽い」と言った。商品の流通と需要の状況が商品の価値を決定することを明らかにした。諸商品、貨幣と商品の間の軽重関係の法則や原則について、『乗馬数』は「谷は重くて万物は軽く、谷は軽くて万物は重い」と述べている。これは各種商品の比較関係を通じて確定した軽重原則です。『山至数』は「彼幣は重くて万物は軽く、幣は軽くて万物は重い」と言った。貨幣と万物の軽重関係を分析し,価格の貴賤に現れる。これは商品の価値を明らかにするのに普遍的で重要な意味を持っている。軽重論の内容は多様で、物資の把握、財政の充実、損益調整、物価の均衡、合併の阻止、物資の流出防止、他国の物資の吸収、国と国間の独占貿易の進行など、まとめると、封建国家が商品貨幣関係をコントロールするために様々な措置を講じなければなりません。貨幣発行数量の把握は貨幣の価値を左右し、貨幣の価値を左右し、穀物、百貨店との軽重関係を変える。その後、賈誼はこれについて「上挟銅積以御軽重、銭軽則以術敛之、銭重則以術散之、貨物必平」と簡略に説明した(『漢書・食貨志下』)。

轻重(经济学名词)_百度百科

https://baike.baidu.com/item/%E8%BD%BB%E9%87%8D/55733409

轻重

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经济学名词

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轻重,经济学名词,《管子》有《轻重篇》论述最详。
中文名
轻重
出    处
《管子》

清末曾有人将政治经济学称为"轻重学"。

提出轻重之说最早的有孙叔敖、单旗等。

例如,关于某一种商品的轻重规律或原则,《国蓄》说:“聚则重,散则轻”;又说:“少或不足则重,有余或多则轻。”阐明了商品流通和需求的情况决定了商品的价值。关于诸种商品、货币与商品之间的轻重关系的规律或原则,《乘马数》说:“谷重而万物轻,谷轻而万物重。”这是通过各种商品的对比关系而确定的轻重原则;《山至数》说:“彼币重而万物轻,币轻而万物重。”分析货币与万物的轻重关系,表现在价格的贵贱上。这在阐明商品价值上有着普遍的和重要的意义。轻重论的内容繁多,包括掌握物资、充实财政、调剂盈亏、平衡物价、阻止兼并、防止物资外流、吸取别国物资、进行国与国间垄断贸易等等,归结起来,就是要封建国家采取各种措施,以控制商品货币关系,其中包括通过对货币发行数量的掌握来左右货币的价值,由左右货币的价值,进而改变它与谷物、百货间的轻重关系。后来贾谊对此作了简要的说明:“上挟铜积以御轻重,钱轻则以术敛之,钱重则以术散之,货物必平”(《汉书·食货志下》)。


漢書食貨志下に「諸均輸帛五百萬匹、民不益賦、而天下用饒。」 ... 『漢書食貨志下賈誼(文帝に仕えた)の言として曰く、「又民の錢を.


古代ギリシャと古代中国の貨幣経済と経済思想

雨宮健

Discussion  Paper  No. 2012-J-1 

https://www.imes.boj.or.jp/research/papers/japanese/12-J-01.pdf


次に前漢帝国の銭貨が名目貨幣であったか実質貨幣(秤量貨幣ともいう)であったかという重要な問題を考察する。先に秦は布本位制を採用していたわけではなく、秦の金布律から政府が半両銭を名目貨幣としてみなしていたことがわかると述べた。漢政府もその銭貨を名目貨幣としてみなしていたと信ずべき理由がある。先ず明確にすべきことは、一時学者の間で漢に「黄金一斤  =  一万銭」という規定があると信じられていたが、これは柿沼[2006]において甚だ説得力のある議論によって否定されている。以下この柿沼論に基づいて議論を進める。もしも仮に「黄金一斤  =  一万銭」という規定があったとすれば、漢は金本位制を採用していたことになり、漢の銭貨は実質貨幣となる。『張家山二四七号漢墓竹簡』二年律令銭律に次の四つの基準を満たす銭を行銭(流通を公認された銭)と認めるという記述がある。(1)銭の直径が十分の八寸以上であること、(2)銭文を読み取ることができること(3)大きな損傷がないこと(4)鉛銭ではないこと(柿沼[2006]47頁)。これらは明らかに漢政府がその銭貨を名目貨幣としてみなしていたことの証拠になる。しかし一般人民がどうみなしていたかは別問題である。


『漢書』食貨志下の賈誼(文帝に仕えた)の言として曰く、「又民の錢を用ゆること、郡縣同じからず。或いは輕錢を用いて、百に若干を加え、或いは重錢を用いて、平稱して受けず。」(又、民間における銭の使用法が、郡県によって違っております。法銭の重さは四銖でございますから、軽銭(莢銭即ち三銖銭)百枚を使用する場合には、若干枚の不足分を足しますが、重銭(秦銭。重さ半両即ち十二銖)百枚で支払いましても、余分を計量してはくれません。)これは政府の思惑とは別に人民は銭貨を秤量貨幣とみなす傾向があったことを示している。もとより政府はこの事実を見逃すわけにはいかない。前漢帝国が銭を度々改鋳した理由は銭の実勢価値がその実質重量に絶えず左右される傾向があったからである。その結果、前漢帝国は銭文を銭の実質重量に近づけねばならなくなり、最後の五銖銭の重量を表記あるいはそれ以上にする努力を図ったのである(柿沼[2006]50 頁)。柿沼([2006]51 頁)は五銖銭は「官民間の相互関係の中で生み出された均衡点」であると言う。 


柿沼陽平、「秦漢時代における物価制度と貨幣経済の構造」、『史観』、第155 冊、2006年 

https://www.academia.edu/27784125/柿沼陽平_秦漢時代における物価制度と貨幣経済の構造_史観_第155冊_2006年_36_55頁_pdf





____、「戦国秦漢時代における布帛の流通と生産」、『日本秦漢史学会会 報』、第九号、2008年 


食貨志下電子全文,全文檢索、相關於食貨志下的討論及參考資料。有簡體字版、繁體字版、英文版本。

2019/9/28 -漢書食貨志」 「夫鹽食肴之將、酒百薬之長、嘉會之好」 ☆王莽(おうもう)が施行した法令の1つ「六管」<6品目の専売(専有)制度>の詔( ...

あらゆる薬の中で、最もよく効くすぐれた薬であると、酒を称賛した四字熟語です。 ... 『漢書食貨志下』に王莽が発した詔として次の文章が記載されています。

名古屋市の中心地にある大須観音は、正式には「北野山真福寺宝生院」という真言宗智山派の寺院で、日本三大観音の1つにあげられる。 寺の周辺は、門前町から発展した商店 ...

2018/3/26 -『舊唐書』巻四十九食貨志下漕運倉及び常平倉雜税(間架法・除陌法/茶税/榷酒法) ... 歴代正史の食貨志は、いずれも『漢書』食貨志を祖型とする。

2016/11/10 -日本・中国・インド・イスラム圏を含む広大な土地で生まれたアジアの古典を記録した750巻からなる『東洋文庫』を毎週1巻ずつご紹介。今週は『漢書食 ...

2021/12/20 -鉄は田農(でんのう)の本(もと)にして、名山(めいざん)大沢(だ ... の一節で、古代中国の正史『漢書(かんじょ)・食貨志(しょっかし)下』の ...


中國经济史硏究 - 第 1~4 号 - 129 ページ

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1988 · ‎スニペット表示
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明朝的大明宝钞始终是不兑现纸币。洪武时,叶子奇作《草木子》,其中的《杂制篇》讨论了纸币流通,对纸币兑现问题作了很好的论述。 ... 因此纸币应该兑现: “必也欲立钞法,须使钱货为之本,如盐之有引,茶之有引,引至则茶盐立得。使钞法如此,乌有不行之患哉?

西北大学学报: 社会科学版 - 15 ページ

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1990 · ‎スニペット表示
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明初思想家叶子奇,在其名作《草木子》一书中,生动地描述了兑现纸币流通和商品价格的关系。他首先指出: “必也欲立钞法,须使钱货为之本,如盐之有引,茶之有引,引至则茶盐立得。使钞法如此,鸟有不行之患哉。”这就是说,他认为应当如凭盐引取盐、茶引取茶一样, ...

深化对劳动和劳动价值论的研究和认识: 四十年来我的研究轨迹

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何炼成 · 2002 · ‎スニペット表示
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明初思想家叶子奇,在其名作《草木子》一书中,生动地描述了兑现纸币流通和商品价格的关系。他首先指出: “必也欲立钞法,须使钱货为之本,如盐之有引,茶之有引,引至则茶盐立得。使钞法如此,乌有不行之患哉。”这就是说,他认为应当如凭盐引取哉盐取盐、茶引取茶 ...

中国古代货币思想史 - 245 ページ

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萧清 · 1987 · ‎スニペット表示
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也” ;同时又强调“钞乃虚文,钱乃实器,钱钞兼行则民必舍虚而取实” ,对于铸造铜钱,则强调其足值性,而且注意到它的“工本之费”。刘基也是这样, ... 必也欲立钞法,须是钱货为之本,如盐之有引茶之有引,引至茶盐立得,使钞法如此,乌有不行之患哉!

中国经济管理思想史 - 366 ページ

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何炼成 · 1988 · ‎スニペット表示
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明初思想家叶子奇,在其名作《草木子》一书中,生动地描述了兑现纸币流通和商品价格的关系。他首先指出: “必也欲立钞法,须使钱货为之本,如盐之有引,茶之有引,引至则茶盐立得。使钞法如此,乌有不行之患哉”。这就是说,他认为应当如凭盐引取盐、茶引取茶一样, ...

中國錢币 - 第 1~11 号 - 93 ページ

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1983 · ‎スニペット表示
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其实明代提出纸币理论的还有叶子奇、刘定之、丘浚、陈子龙等,这几个人的理论要比乔文提及的三人更为丰富、重要。讨论明代的纸币理论而不提这些人的纸币 ... 必也欲立钞法,须使钱货为之本,如盐之有引,茶之有引,引至则茶盐立得。使钞法如此,乌有不行之患哉?

中国经济史学论集 - 276 ページ

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叶世昌 · 2008 · ‎スニペット表示
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这一历史经验后来凡是懂得点货币史的,统钞点的人都是知道的,魏源在撰写《元史新编》时,就将刘宣这段话的意思写进了《食货志》。明初的叶子奇也强调了纸币的兑现,他说: “必也欲立钞法,须使钱货为之本,如盐之有引,茶之有引,引至则茶盐立得。使钞法如此, ...

法币政策前后中国的货币理论 - 187 ページ

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钟祥财 · 1995 · ‎スニペット表示
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明代叶子奇的认识要深一些,他指出前代纸币的失败就在于不能兑现: “当其盛时,皆用钞以权钱。及当衰叔(末世) ,财货不足,止广造楮币以为费。楮币不足以权变,百货遂涩而不行,职此之由也。” 3 因此, “必也欲立钞法,须使钱货为之本,如盐之有引,茶之有引,引至则 ...

探微集 - 320 ページ

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郑天挺 · 1980 · ‎スニペット表示
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[ 25 ]《草木子》谓“行之四五十年,中统〔钞]以费工本多,寻不印行,独至元钞法通行” (卷三,三〇页) ;《元史·食货志》谓“中统至元二钞终元之世盖常行焉” ... 必也,欲立钞法,须使钱货为之本,如盐之有引,茶之有引,引至则茶盐立得,使钞法如此,乌有不行之患哉。

中国古代经济管理思想 - 182 ページ

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姚家华 · 1990 · ‎スニペット表示
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元世祖中统元年(公元 1260 年)发行的中统元宝交钞,以钱为单位,但以金银为准备。 ... 王恽记载元初中统钞的发行情况说: “时钞法初行,惟恐涩滞,公私不便。 ... 兑现: “必也欲立钞法,须使钱货为之本,如盐之有引,茶之有引,引至则茶盐立得。使钞法如此, ...

ジョン・メイナード・ケインズ
陳煥章『孔門理財学』書評
エコノミックジャーナル1912年12月

J.M.KEYNES
From The Economic Journal, December 1912
CHEN, HUAN-CHANG. The Economic Principles of Confucius and his School. 2 vols.
 Columbia Uniersity Studies. (New York,
Longmans), 1911.https://doi.org/10.2307/2222270

孔子はかつてこう言った。「[衛の人口は]多いね」。冉有は「多くなったら、さらに何をしたものでしょう?」と聞くと、「富ませよう」と言った。「富ましたら、さらに何をしたものでしょう?」と聞くと、孔子は「教育しよう」と言った。 [論語13:9]


彼の賃金の理論は次のように表現されている。
「日々その仕事ぶりを観察し月々に仕事の出来を試験して 、月給が仕事と釣り合うようにするのが 、技術者を励ます方法である 。」[中庸,角川文庫]
彼は、土地を私有化することを認めず、利子を取ることを悪いとは考えなかった。
資本は母であり、利子はその子であるからだ*。

*中国語で「利子」は「子」を意味し、利子が正当なものであることは、中国では決して疑われていない。

関税に関して彼は極端な自由貿易主義者だった。 これが孔子の経済原理の特徴だ。 それは陳煥章博士の最も興味深い本の本質というよりもテキスト内容を提供する。
その内容は、中国の経済史への貢献の一部と、最も広い経済的意味で考えられるすべてのトピックに関する多くの世代の詩と格言の一部で構成されている。
その章は「生産要素」、「分配」、「公共財」などと題されているが、著者はこの人為的な枠組みに、魅力的で有益な多くのものを組み込んでいる。


男女の隔離が中国における当初の教義ではなかったことを証明するために、著者は『詩経』から次のような(孔子が淫らな習慣の悪い例として挙げた)詩を引用をしている。


《溱水と洧水は、春を迎えて水かさを増し盛んに流れています、
男と女が集まってきて、水草を取っています、
女がいいます「あのすばらしい景色を見ましたか」、
男が答えて言います、「ああ、行ってきたとも」
女は重ねていいます、「一緒に洧水のほとりに行ってみましょう、
そこは広々としてすばらしいですよ」、
男と女は、このように戯れあい、
互いに芍薬の花を贈りあうのです。》

[『詩経』鄭風篇から「溱洧」]



「経済組織」の章では、結婚から3ヶ月に満たない妻に裁縫をさせる役人に向けられた、『詩経』からの別の詩を読むことができる......。

葛の履でも 
霜が履める
細い少女の手でも 
裳が縫える
腰をつくろい 
襟をつくろって働く
尊貴の人が 
それを着ている。
行儀のよい尊貴の人が
しとやかに左に身をさける
象牙の揥(かんざし)をして
りっぱだけれども
吝嗇で困る 
この詩を作って刺(そし)るわけ。

[『詩経』魏風より]


孔子は老人の処遇について、50歳で子供がいない女性には、政府から衣食を与え、詩の収集のための委員に任命することを定めている。これは、孔子が女性を政府の役職につける資格があると考えていたことを示していると煥章博士は述べている。 「勅令によれば、五十歳の者は穀物を細かくして若い者のものとは異なるようにし、六十歳の者は肉を蓄えていつでも注文できるようにし、七十歳の者は香ばしい肉を二度食べさせ、八十歳の者は常に珍味を提供し、九十歳の者は飲食物を部屋から出すことはせず、別の場所に行くときは香ばしい肉と飲み物を一緒にすることが求められている」...。 

[「養老」『礼記王制』よりChenによる要約]


紀元前2600年から紀元前350年まで、何らかの形で存在していたとされる土地所有制度「井田制」についての説明は非常に充実しており、興味深いもので、村落共同体の土地所有権を研究するすべての学生の注意を引く価値がある。中国では紀元前2900年から貨幣が使われていたと言われ、現在の三貨制度は最も遠い時代から続いている(金の使用は減少している)、以前も現在も銅貨が制度の基本である。 
紙幣を使うことで、彼らは長い間、他の民族を先取りしていた。紀元83年に亡くなった鄭衆は、里布について「印章を押し、文字を書いた幅2インチ、長さ2フィートの布であり、物の交換のための貨幣として使用された」と述べている。


西暦9世紀、紙幣と為替手形との間にあるその起源は、引用に値する。

《そのため、商人は都に来ると、都の各州を代表する事務所にお金を預けて、そこから債券を受け取った。
こうして、どこに行っても、その債券で簡単にお金を引き出せるようになった。
これを「飛銭」と呼んだ。しかし、このようなやり方は、中央政府によって禁止された。官庁がお金を流通させないようにして、物価を下げると考えられたからである。しかし、その結果は前よりも不便になった。
そこで、西暦812年、政府は都に事務所を設け、貨幣を飛ばす業務、つまり政府が預金者に債券を発行し、預金者がその債券を貨幣と交換する業務を行うようになった。つまり、政府が預金者に債券を発行し、預金者が各州の大都市で債券と貨幣を交換したのである。西暦970年、飛脚制度を運用するための真の政府銀行が設立され、「便銭務」と呼ばれた。》


中国の「貨幣協会」「協同組合銀行」の制度は、紀元220年頃の仙人、龐公によって考案されたと伝えられている。
 グレシャムの法則と数量説は、中国の学者によって長い間理解されてきた。紀元前175年、嘉義はこう言っている。紀元前175年、賈誼(かぎ)は言った。「政府は貨幣の価値を制御するために銅を蓄積している。銅の価値が低ければ、何らかの政策で量を減らし、高ければ、何らかの政策で貨幣を分配する。従って、物価は平準化されなければならない。」


西暦1378年、葉子奇は次のように言っている。
《茶や塩の証明書のようなもので、証明書を出せばすぐに茶や塩を手に入れることができる......。証文が来れば、現金が出て行き、証文が出れば、現金が入る。現金を母とし、証書を子とする。母子は互いに補い合い、すべての商品の価格を支配する。価格が低いときには紙を発行し、価格が高いときにはそれを引き出すべきである。》


西暦1223年、袁燮(えんしょう)は銅銭の不足は粗悪な鉄銭を発行しても解消されないと説明した。今、鉄の貨幣を加えれば、銅の貨幣はさらに少なくなるはずではないか。以前は紙幣が多すぎたため、物価が高かった。今、鉄の貨幣を市場に加えれば、物価はさらに安くなるのではないか?
 例えば、孔子の優生学の原理、労働力の流動化の規定、著者の立派な中国租税史など、引用したいことがたくさんある。

人口統計は古くから存在し、孔子は人口表を持つ者に馬車の横木を前にして頭を下げたという。


論語#10郷黨第十
喪服の人には[車の前の横木に手をあてる]式(しょく)の敬礼を行い、
式負版者、
負版(ふはん)の者に式す。
死者の戸籍を持った役人に対しても敬礼をされた
(朱熹の註釈があるらしい。論語集注)

しかし、このことを考慮し、土地保有制度から推定される条件を考慮すると、中国の現在の巨大な人口が極めて近代的な成長であり、人口密度の高さがイギリスと同様に中国でも最近のことであることはかなり明白であると思われる。キリスト教時代の最初の17世紀(あるいは儒教時代の5世紀から22世紀まで)の間、人口は5000万人近辺で変動していたようである。最近の比較的正確な統計によると、1749年の人口は1億7700万人、1783年は2億8400万人、1842年は4億1300万人であった。

また、1850年から1856年にかけての太平の乱では、1000万から2000万人の人命が失われたと言われている(煥章博士は、この原因による損失を1500万としているが、これは誤植か修辞による誇張であろう)。
1868年から1885年にかけて、公式の人口推定値は378,000,000から405,000,000まで変動している。
1910年(『中国年鑑』によれば)には、2つの独立した推計がある(チベットと満州を除く)-税関の推計では4億2100万人、内務省の世帯数に基づく国勢調査の報告では3億1600万人である。しかし、1700年以前には、中国本土の人口が4,500万人を超えることはなかったということは、事実であろう。したがって、おそらく人が考えがちなように、中国の人口が生計手段を圧迫するのは何世紀も前のことだと考えるのは正しくない。

その立場は比較的新しく、西欧諸国のように、この膨大な人口増加を正当化するような経済的、自然的条件の明らかな変化はないのである。中国の黄金時代、哲学者や詩人の時代、政治や生活の芸術における発見の時代は、人口があふれかえり、過密状態にあった時代ではない。道徳主義者は、人口の減少期を国家の衰退期と見なすのが好きであるが、中国でも他の国と同様、宗教の力が強力に子孫を多く残す側に働いてきたのである。しかし、黄金時代を享受する者がこれほどまでに多いのに、黄金時代が回復するとは考えにくい。

しかし、煥章は、中国の弱さの主因を他のところに求めている。それは、公務員試験(科挙)に「八股文」が課されたことにある。八股文は実用的でなく、その習得には長い修練が必要だった。1370年に制定され、1902年に廃止された。

J.M.ケインズ


APPENDIX II 付録二
List of Authorities in English and Chinese  引用書目略表

孔门理财学

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2005年岳麓书社出版的图书

《孔门理财学》是2005年5月1日由岳麓书社出版的图书,作者是陈焕章。本书按照西方经济学原理,分别讨论了孔子及其儒家学派的一般经济学说及其在消费、生产、公共财产方面的思想。
书    名
孔门理财学
作    者
陈焕章
出版社
岳麓书社 [1] 
出版时间
2005年5月1日
页    数
423 页
ISBN
7806655913
字    数
686000

陈焕章(1881-1933)年,广东高要人,字重远。早年曾入万木草堂受学于康有为。

简介

作者:陈焕章

出版社:岳麓书社

印次:1

纸张:胶版纸

版次:1

内容提要

1907年(光绪三十三年)赴美国哥伦比亚大学经济系留学,1911年毕业,获博士学位,其博士论文The Economic Principles of Confucius and His School(陈焕章译成中文题目为《孔门理财学》)当年即收入由哥伦比亚大学政治学教师编辑的“历史、经济和公共法律研究”丛书,由哥大分两册精装本出版。《孔门理财学》一书分五个部分。书前有当时著名的汉学教授施格所作的序言,除了对陈焕章本人是康有为的弟子这一背景进行简介外,还高度评价了陈采用西方经济学框架对孔子及其学派的经济思想所做的精湛研究。此书是20世纪早期“中国学者在西方刊行的第一部中国经济思想名著,也是国人在西方刊行的各种经济学科论著中的最早一部名著”(胡寄窗:《中国近代思想史大纲》第476页,北京:中国社会科学出版社,1984年12月版),也可能是在欧美留学的中国留学生第一部以中国题材为博士论文且在欧美国家出版的著作,故其有特殊的文献价值和学术价值。

目录

上册

华文教授夏德先生序

理财学教授施格先生序

作者自序

部甲通论

第一篇 孔子及孔门

第一卷 孔子历史

第二卷 孔子精意

第三卷 孔子及其徒之著作

第四卷 孔教源流

第二篇 理财学与各科学之关系

第五卷 理财学与各科学之关系

第六卷 理财学与社会学

第七卷 理财学与政治学

第八卷 理财学与伦理学

第三篇 理财通义

第九卷 理财为进化之母

第十卷 理财之机体

第十一卷 理财政策及理财学之分部

部乙 消费

第四篇 消费

第十二卷 消费通义

第十三卷 贫富皆有乐地

第十四卷 乐生之道

第十五卷 支出之普通标准

第十六卷 特别支出

部丙 生产

第五篇 生产要素

第十七卷 生产之三要素

第十八卷 人口

第十九卷 天然物及资本

下册

部丙 生产(续)

第六篇 生产事业

第二十卷 泛论生产事业

第二十一卷 论农

第二十二卷 论工

第二十三卷 论商

第七篇 分配

第二十四卷 分配通义并论租论息及利

第二十五卷 论庸

……

简介

作 者: 陈焕章 著,翟玉忠 译
出版时间: 2009-10-1

开 本: 16开

I S B N: 9787511700063

定价:¥68.00

内容简介

《孔门理财学》是中国学者在西方刊行的第一部中国经济思想名著,也是迄今为止影响最大的一部;本书出版的第二年(1912),梅纳德·凯恩斯就在《经济学杂志》上为本书撰写书评;马克斯·韦伯在《儒教与道教》中已把《孔门理财学》列为重要参考文献;熊彼特在其名著《经济分析史》中特意指出了《孔门理财学》的重要性。

目录

译序

华文教授夏德先生序

政治经济学教授施格先生序

作者自序

甲部 通论

第一篇 孔子及其门派

第一章 孔子生平

第二章 孔子精义

第三章 孔子及其弟子之著作

第四章 孔教源流

第二篇 经济学与各科学之关系

第五章 经济学与各科学之关系

第六章 经济学与社会学

第七章 经济学与政治学

第八章 经济学与伦理学

第三篇 一般经济原理

第九章 经济发展为进步之主动力

第十章 经济组织

第十一章 经济政策及经济学之分部

乙部 消费

第四篇 消费

第十二章 消费的一般原则

第十三章 贫富皆乐

第十四章 乐生之道

第十五章 支出之一般标准

第十六章 特别支出

丙部 生产

第五篇 生产要素

第十七章 生产之三要素

第十八章 劳工-人口

第十九章 天然物和资本

第六篇 生产部门

第二十章 生产部门概述

第二十一章 农业

第三十二章 工业

第二十三章 商业

第七篇 分配

第二十四章 分配的一般原则:地租、利息、利润

第二十五章 工资

第八篇 社会主义性质的政策

第二十六章 井田制

第二十七章 垄断

第二十八章 食禄者不得争利

第二十九章 政府调控供求

第三十章 政府对粮食的调控

第三十一章 政府借贷及赈恤

丁部 公共财政

第九篇 公共财政

第三十二章 公共开支

第三十三章 赋税的一般原则

第三十四章 直接税

第三十五章 间接税

戊部 结论

第三十六 章结论

附录一 作者译出的目录

附录二 《孔门理财学》之旨趣

附录三 梅纳德凯恩斯关于《孔门理财学》的书评

《孔门理财学》第3版

简介

作 者: 陈焕章 著,宋明礼 译

ISBN: 9787802343559

定价:¥50.00

内容简介

本书共分五部分,按照西方经济学原理,分别讨论了孔子及其学派的一般经济学说及其在“消费”、“生产”、“公共财政”等方面的思想。

著名汉学家施格教授高度评价了本书采用西方经济学框架对孔子及其学派的经济思想所作的精湛研究。本书英文版当年即收入由哥伦比亚大学政治学教师编辑的“历史、经济和公共法律研究”丛书,由哥伦比亚大学分两册精装本出版。

目录

凯恩斯书评

前言

第一篇 孔子及孔门

第一章 孔子的生平

第二章 孔子的基本概念

第三章 孔子及其弟子的著作

第四章 孔教的源流

第二篇 经济学与各科学之关系

第五章 泛论经济学与其他科学

第六章 经济学与社会学

第七章 经济学与政治学

第八章 经济学与伦理学

第三篇 经济学的二般原则

第九章 经济发展是进化的首要原因

第十章 经济组织

第十一章 经济政策和经济学的划分

第四篇 消费

第十二章 消费的一般原则

第十三章 富人和穷人的快乐

第十四章 获得快乐的各种途径

第十五章 支出的普通标准

第十六章 特别支出

第五篇 生产要素

第十七章 生产三要素

第十八章 人口

第十九章 天然物及资本

第六篇 生产事业

第二十章 泛论生产事业

第二十一章 农业

第二十二章 工业

第二十三章 商业

第七篇 分配

第二十四章 分配的一般原则并论租论息及利

第二十五章 工资

第八篇 社会政策

第九篇 公共财政

附录一 《孔门理财学》之旨趣

附录二 《孔门理财学》序跋及报道

参考资料



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又《周礼》六篇,无云军旅之岁,一井九夫百亩之税,出禾刍秉釜米之事,何以得此言乎?”若然,《周礼》税法据王畿,《公羊》税法据诸侯邦国。诸侯邦国无远近之差者,以其国地狭少,役赋事暇,故无远近之差也。
凡宅不毛者,有里布;凡田不耕者,出屋粟;凡民无职事者,出夫家之征。(郑司农云:“宅不毛者,谓不树桑麻也。里布者,布参印书,广二寸,长二尺。以为币,贸易物。《诗》云‘抱布贸丝’,抱此布也。或曰:布,泉也。《春秋传》曰:‘买之百两一布。’又《廛人职》:‘掌敛市之次布、儳布、质布、罚布、廛布。’《孟子》曰:‘廛无夫里之布,则天下之民皆说而原为其民矣。’故曰宅不毛者有里布,民无职事出夫家之征。欲令宅树桑麻,民就四业,则无税赋以劝之也。故《孟子》曰:‘五亩之宅,树之以桑,则五十者可以衣帛。’不知言布参印书者何?见旧时说也。”玄谓宅不毛者,罚以一里二十五家之泉,空田者罚以三家之税粟,以共吉凶二服及丧器也。民虽有间无职事者,犹出夫税、家税也。夫税者,百亩之税。家税者,出士徒车辇,给繇役。○儳,刘音谗,徐才鉴反。皆说,音悦。令,力呈反。以衣,于既反,下同。间,音闲。)

周の六書には、軍年、井戸・九夫・百畝の税、釜の中の米・反芻動物の件などは書かれていないのに、どうしてこんなことが言えるのでしょうか。" そうであれば、周礼の税法は王の領土を基準とし、公義の税法は家臣の国を基準としていたことになる。 近国と遠国とに差がないのは、臣下の国土が狭く、サービスが行き届いていないためである。
毛の無い家の者には布を、耕作していない畑の者には黍を、義務の無い民の者には夫の家の賦役を与えた。 (鄭思永:「家に毛の生えていない者は、桑も燕も生えていない者である。 布は幅2インチ、長さ2フィートだった。 コインとして、貿易の対象として使われていたのです。 詩 "雲'ホールド布の貿易シルク'、この布も保持します。 あるいは、布、春も、と言った。 春秋戦国時代には、『百テールの布を買え』とあります。 春秋の書に、『百俵の布を一巾に買ふ。 孟子曰く、『もし市場の場に布がなければ、世の中の人はみな、自分たちが元祖だと言うだろう』。 従って、家に毛のない者は李の布を持ち、夫の家の賦課金のうち、民は何の義務もないという。 家も木も桑や麻にし、人も四つの商売をさせようと思えば、説得するための税もない。 そこで孟子は、『五エーカーの屋敷が桑でできていれば、五十の人間は絹を着ることができる』と言ったのです。 布と印刷の本について何を言われているのかわからない。 古い言い伝えも参照してください。" 宣長は、家屋に毛の生えていない者は一里二十五戸分の泉を、畑の空いている者は三戸分の租庸調の黍を罰し、幸不幸の二衣と喪の器を分担させると言いました。 間に仕事を持たない人もいたが、それでも夫税と家族税を納めていた。 夫の税金は、百坪の税金です。 家族税は100ムーにかかる税金だった。 メインテーマは、「家族にかかる税金」です。 その名も「家族税」。 租税の名称は、家族に対する課税を表すために使われた。 (以下同じ)。 (合間に、レジャーの音)

鄭衆 (大司農)

鄭 衆(てい しゅう、? - 83年)は、後漢初期の儒学者・政治家。は仲師。古文の経典を学び、とくに『周礼』の注釈で知られる。

大司農の官にのぼったために鄭司農とも呼ばれる。また、鄭玄に対して鄭衆を先鄭、鄭玄を後鄭と呼ぶこともあるが、鄭衆と鄭玄が同族というわけではない[1]。有名な宦官鄭衆とも関係はない。

略歴

後漢書』の鄭興・鄭衆の伝によると、鄭衆の父の鄭興は河南郡開封県の人で、古文経学の学者として知られ、王莽のときに劉歆に仕えてその才能を愛された。のちに更始帝隗囂光武帝に仕え、官は太中大夫であった。後漢の『春秋左氏伝』の学は主に鄭興と賈逵に発し、「鄭賈の学」と呼ばれた。

鄭衆は12歳で『春秋左氏伝』を父に学んだ。また、三統暦・『』・『』に通じていた。馬融によれば、鄭衆は杜子春に『周礼』を学び、その注を書いた[2]

北匈奴が後漢に和親を申し入れてきたので、明帝永平8年(65年)に当時越騎司馬であった鄭衆を匈奴に使者として派遣した。鄭衆は単于に対して拝礼を行わなかったため、単于は鄭衆を幽閉して自分に服するよう脅迫したが、鄭衆は刀を抜いて屈しないことを誓ったので、その勢いに押されて解放された。

このとき、鄭衆は南匈奴の須卜骨都侯が漢にかくれて北匈奴へ使者を出しているのを捕らえ、南匈奴と北匈奴が連絡を取りあうのを防ぐように上奏した。これが認められて度遼営が置かれた[3]

帰国後、鄭衆は「北匈奴が和親を申し入れたのは南匈奴を漢から離反させようという計略だから、和親すべきではない」と主張したが、明帝はこれをきかず、鄭衆をふたたび使者として派遣しようとした。鄭衆は「前回の派遣で単于の怨恨を買ったので、もう一度行けば自分は殺されるだろう」と言ったが、許されなかった。匈奴へ向かう途上でもたびたび上書して反対したので、鄭衆は牢獄に入れられた。のちに許され、官職を失って家に戻った(なお、『芸文類聚』巻68・儀飾部・節に引く『東観漢記』ではこのとき鄭衆が匈奴に殺されたと記しているが、この一文はおそらく『芸文類聚』が勝手に附加したものであろうという[4])。

その後、匈奴からの使者を明帝が謁見したが、鄭衆が単于に屈しなかった勇敢さがかつての蘇武にも劣らないとして匈奴で話題になっていると知り、再び鄭衆を用いて軍司馬に任命した。鄭衆は虎賁中郎将の馬廖とともに車師を攻撃し、敦煌中郎将となった。後に武威太守左馮翊に遷った。建初6年(81年)に大司農の官職についた。

著作には『費氏易』『毛詩』『周礼』『春秋左氏伝』の注釈があったというが[5]、いずれもはやく滅びた。しかし鄭玄の『周礼』注には大量に鄭衆を引用している。また、『国語』の注も書いており[6]韋昭が引用している。馬国翰『玉函山房輯佚書』には鄭衆による『周礼』『春秋左氏伝』『国語』の注の逸文、および『通典』『芸文類聚』に引く「婚礼」が集められている。

後漢末の鄭泰鄭渾は玄孫にあたる。

評価

鄭衆が匈奴に屈しなかった故事は有名であり、『蒙求』にも蘇武と並べて「蘇武持節、鄭衆不拝」として見える。日本の『十訓抄』にも忠臣の代表としている[7]

馬融は『春秋左氏伝』の注を作ろうとして、先行する鄭衆・賈逵の注を読んだが、「賈逵はくわしいが広くなく、鄭衆は広いがくわしくない。(両者を読めば)くわしくてかつ広いものがすでにあるのに、自分が何を加えることがあろう」と言って止め、『春秋』三伝の違いを記すのみにとどめた[8]

同じく馬融によれば、『周礼』の注は賈逵のものが有名で鄭衆のものは行われていないが、鄭衆のほうがより正確であるという[2]

脚注

  1.  ただし、『経典釈文』序録の『周礼』に引く鄭玄『三礼目録』には「二鄭(鄭興・鄭衆)信同宗之大儒、今賛而弁之。」とある
  2. a b 賈公彦『周礼注疏』伝周礼廃興「是以馬融伝云(中略)河南緱氏杜子春、尚在永平之初(中略)鄭衆・賈逵往受業焉。衆・逵洪雅博聞、又以経書記転(伝の誤)、相証明為解。逵解行於世、衆解不行。兼攬二家、為備多所遺闕。然衆時所解説、近得其実。」
  3.  『後漢書』南匈奴列伝
  4.  呉樹平『東観漢記校注』(1928)による
  5.  『後漢書』儒林列伝
  6.  韋昭『国語解』叙「至於章帝、鄭大司農為之訓注、解疑釈滞、昭晰可観。至於細砕、有所闕略。」
  7.  石橋尚宝 『十訓抄詳解』 中巻、明治書院、1923年、52-55頁。none
  8. ^ 『後漢書』馬融伝上「嘗欲訓『左氏春秋』、及見賈逵・鄭衆注。乃曰「賈君精而不博、鄭君博而不精。既精既博、吾何加焉?」但著三伝異同説。」

外部リンク[編集]

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2016/09/30ケルトン The Economy Is Like A Bathtub

2016/09/30ケルトン The Economy Is Like A Bathtub


if the goal is to grow the economy what do we mean students of the economy when we talk about the economy what's our measure its GDP you can't reach out and touch the economy you can't point to the economy but when we talk about growing the economy we're talking about growing our national output our economic pie our gross domestic product and what is our gross domestic product in words what is it it's why it's the sum total measured in US dollars of all the spending that we do buying newly produced goods and services in our economy so you can't say that we need to stop spending to grow the economy this is the oxymoron I refer to right the economy is the measure of how much money we spend buying the newly produced output in the economy the only way to grow the economy is to increase spending there's no other way to do it it's not a theory it's not my opinion it's how we measure GDP so if you want growing economy you have to have rising spending no two ways about it so when when you study economics and many of those of you in the audience here have done so often at the principles level you're faced with a picture this sort of bathtub image and it's not a bad analogy it's a little bit imperfect but I think it does a pretty good job of focusing attention so if you think of your economy like this bathtub you say somewhere in the tub is a is a line okay you can't see it here but there's a line inside the tub and its marked potential GDP or full employment somewhere in the tub is that line now if the goal is to run the most efficient economy you can to get the most out of your labor and your capital as possible to reach your full you want to get that water level right up to the full employment line anything below that is just an efficient and wasteful anything above that risks inflation risks trying to use too many resources more than you have capacity for so the trick to running a healthy economy is really not more complicated than recognizing that you've got a faucet and you've got a drain and that there are injections ways to put water in the bathtub and there are leakages things that take water out of the bathtub now bathtub is our GDP okay so what are these leakages that take water out of the tub and move us away from our goal one is saving every dollar that we save and don't spend is a dollar that can't be captured by some business trying to sell its output can't become part of its sales revenue and ultimately part of its profit saving is a leakage okay it goes out of the economy taxes are leakage every dollar that's taxed away from us by government is a dollar we don't have to spend into the economy it's a leakage it takes water out of the tub and imports em their every dollar we spend buying goods and services that are produced somewhere else in the world is a dollar that can't be captured by some domestic producer trying to sell their output and so it leaks out of the bathtub okay this would be a problem if all we had were leakages we'd have a huge problem on our hands but we don't we have ways to put water into the bathtub how do we do that one way is businesses invest in the economy when we say in businesses invest we don't mean share buybacks and that sort of stuff we mean plant and equipment software research and development businesses investing and adding to our GDP so that puts water in the tub government spends okay places orders with Lockheed Martin and Boeing and so on and so forth Social Security all of that government is spending into the akan me and as government buys newly produced goods and services so don't counselor security there it is putting water into the bathtub the rest of the world buys some stuff from us and we export that's X so every time someone in some other part of the world buys our stuff it puts water in our bathtub so what you have are these two flows right you know water coming in and you got water going out and the question is which is bigger are the leakages bigger than the injections because if they are the water level in the tub is going to go down think about it if you pull the pull the drain on your bathtub and you set the water to a trickle what's gonna happen go right down the drain okay if you put the water in faster than you're taking it out water levels going to go up so the question is how do we figure out a way to calibrate these flows so the water level hits the full-employment mark not below because we get unemployment and not above because we risk running inflation that's the trip


目標が経済を成長させることである場合、私たちはどういう意味ですか 経済について話すときの経済の学生 私たちの尺度は何ですか GDP 手を差し伸べて経済に触れることはできません 経済を指すことはできませんが、私たちが話すとき経済の成長 私たちが話しているのは 国の生産高の増加 私たちの経済パイ 私たちの国内総生産とは何ですか 言葉で言えば、私たちの国内総生産は何ですか それはなぜそれが私たちが新たに購入するすべての支出の米ドルで測定された合計であるか私たちの経済で生産された商品やサービスなので、経済を成長させるために支出を止める必要があるとは言えません.経済を成長させる唯一の方法は、そこでの支出を増やすことだ」それを行う他の方法はありません。それは理論ではありません。私の意見ではありません。GDP を測定する方法です。したがって、経済の成長を望むなら、支出を増やす必要があります。ここの聴衆は原則レベルで非常に頻繁にこの種の浴槽の画像に直面しています。これは悪いアナロジーではありません。少し不完全ですが、注意を集中させるのにかなり良い仕事をしていると思います。この浴槽のようなあなたの経済のどこかにあるとあなたは言います。タブの内側の sa ラインと、その顕著な潜在 GDP または完全雇用がタブのどこかにある場合、目標が最も効率的な経済を運営することである場合、労働と資本を最大限に活用して、完全に達成することができます。その水位を完全な雇用ラインまで上げたい それより下のものは単に効率的で無駄です それより上のものはインフレのリスクがあります 容量を超えて多くの資源を使おうとするリスクがあるので、健全な経済を運営する秘訣は蛇口があることを認識することほど複雑ではありません。排水管があり、浴槽に水を入れる注入方法があり、浴槽から水を取り出す漏れがあります。浴槽は私たちのGDPに問題がないので、浴槽から水を取り出して私たちを遠ざけるこれらの漏れは何ですか私たちの目標から、私たちが節約し、支出しないすべてのドルを節約することは、その生産物を販売しようとしているビジネスが獲得できないドルです.その売上高の一部になることはできません.最終的にその利益の節約の一部は.漏れは大丈夫 経済から出ていく 税金は漏れです 政府によって私たちから課税されたすべてのドルは、私たちが経済に費やす必要のないドルです 漏れです 浴槽から水を取り出し、すべてのドルを輸入します私たちは、世界のどこかで生産された商品やサービスを購入するのに費やすことができるドルです.生産物を販売しようとしている国内の生産者に捕らえられて、それが浴槽から漏れてしまった.もし私たちが持っていたのが漏れだけだったら、これは問題になるでしょう.私たちには大きな問題がありますが、私たちには方法がありません.浴槽に水を入れるにはどうすればいいですか?企業が経済に投資する方法の1つは、企業が投資するということですが、企業が投資するというのは、自社株の買い戻しを意味するのではなく、そのようなものを意味します。私たちのGDPに水を入れるように政府は支出します ロッキード・マーチンやボーイングなどに注文しますカウンセラーの警備員が浴槽に水を入れています。世界の他の国々は私たちからいくつかのものを購入しています。これは X です。世界の他の地域の誰かが私たちのものを購入するたびに、浴槽に水が入れられます。これら 2 つの流れは正しいですか。水が入ってくることと水が出ることを知っています。問題は、注入よりも漏れが大きいのはどちらかということです。なぜなら、それらが浴槽内の水位が下がる場合は、それについて考えてみてください。浴槽の排水口を引っ張って、水を細流に設定します。何が起こるかは、排水口をまっすぐ下ってください。あなたよりも速く水を入れても大丈夫です。」水位が上昇するので、問題は、これらの流れを調整する方法をどのように見つけて、水位が完全雇用の水準に達するかということです。旅

れいわ新選組☆チーム川口さんのツイート 山本太郎動画

立憲民主党 国会情報+災害対策さんのツイート